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足利あしかが将軍家しょうぐんけ

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丸の内に二つ引(まるのうちにふたつびき)は、日本の家紋「引両紋」の一種である。「丸に二つ引」とも混同されるが、二つ引を用いる足利氏によってその一族や家臣に与えられ、畠山氏、今川氏、細川氏などが用いている。 足利二つ引 丸に二つ引
足利あしかが家紋かもん Wikipedia足利あしかがより引用いんよう

足利あしかが将軍家しょうぐんけ(あしかがしょうぐんけ)は、足利あしかが惣領そうりょういえ宗家そうけ)のうち、とくに足利尊氏あしかがたかうじ以来いらいの、代々だいだい室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐんしょく世襲せしゅうした一家いっか軍事ぐんじ貴族きぞく)。初代しょだいたかしのちは2だいとして嫡男ちゃくなん義詮よしあきらぎ、3だい足利あしかが義満よしみつて、15だい義昭よしあきまでつづく。2だい義詮よしあきら以降いこう歴代れきだい将軍しょうぐんいみなにおいてよしつうとした。

足利あしかが将軍家しょうぐんけ成立せいりつ過程かてい

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足利あしかが本姓ほんせいみなもとで、清和せいわはじめ一家いっかけい河内かわうちはじめ嫡流ちゃくりゅうたる武家ぶけ名門めいもんである。その系譜けいふをたどれば源氏げんじけいもと以来いらいまんなか頼信よりのぶ頼義よりちか、そして名高なだか八幡はちまん太郎たろう源義家みなもとのよしいえいたるまで5だいにわたり、武家ぶけ栄誉えいよである鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんにんぜられ、国内こくない兵乱へいらん平定へいてい朝廷ちょうてい信望しんぼうるとともに東国とうごく拠点きょてんとして武家ぶけ棟梁とうりょうとしての名声めいせいげた。義国よしくに次男じなんであるみなもと義康よしやす下野げやこく足利あしかがそうじゅうし、足利あしかがおこった。

鎌倉かまくら時代ときよ足利あしかが義兼よしかねみなもと頼朝よりとも遠縁とおえん同族どうぞくであり、またちち頼朝よりともちち源義朝みなもとのよしともあさからぬえんがあったこと、頼朝よりとも台所だいどころ北条ほうじょう政子まさこいもうと北条ほうじょう時子ときこ)を正室せいしつとしたこともあり、幕府ばくふ信望しんぼう門葉もんようとしてぐうされた。源氏げんじ将軍しょうぐんが3だい源実朝みなもとのさねともだいほろぶと、みなもと嫡流ちゃくりゅうとして武家ぶけ尊敬そんけいあつめたが、幕政ばくせい牛耳ぎゅうじった執権しっけん北条ほうじょうから警戒けいかいねんいだかれたとみられ、ときには一門いちもんから処罰しょばつされるものしながらも、代々だいだい当主とうしゅ北条ほうじょうとの縁戚えんせき関係かんけいむすんでいたこともあり、門葉もんようぞく粛清しゅくせいされていくなか名跡みょうせきたもつづけた。

所領しょりょう下野げや陸奥みちのく三河みかわ丹波たんばなど西国さいこくにもおよび、支族しぞくすうじゅうにもおよ有力ゆうりょく御家人ごけにんであった。後醍醐天皇ごだいごてんのう討幕とうばく挙兵きょへいあきらかになったのち当初とうしょ幕府ばくふぐんとして京都きょうと進撃しんげきしたが、丹波たんば鎌倉かまくら幕府ばくふ追討ついとう宣旨せんじほうじて足利尊氏あしかがたかうじ朝廷ちょうていかたてんじ、後醍醐天皇ごだいごてんのうたてたけし新政しんせい貢献こうけんした。

しかし、公家くげ一統いっとう支配しはい確立かくりつ目指めざ後醍醐天皇ごだいごてんのう政治せいじ様々さまざま混乱こんらんぶとともに、武家ぶけ不満ふまん集積しゅうせきし、たかし後醍醐天皇ごだいごてんのう皇統こうとうとは宿敵しゅくてきにあたる持明院じみょういんみつるひかりげん上皇じょうこう院宣いんぜんけて、北朝ほくちょう樹立じゅりつ自身じしん征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられた。こうして、足利あしかが宗家そうけ将軍家しょうぐんけとしてあらたな武家ぶけ政権せいけん成立せいりつすることになった。

室町むろまち殿どの

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足利あしかが将軍しょうぐん当初とうしょ鎌倉かまくら幕府ばくふ継承けいしょうしゃとして「鎌倉かまくら殿どの」とばれていた時期じきもあったが、足利あしかが義満よしみつ京都きょうと室町むろまちとおる現存げんそんする)沿いに将軍しょうぐん邸宅ていたくかまえると、将軍しょうぐん邸宅ていたくおよ将軍しょうぐんそのものを「室町むろまち殿どの」とぶようになり、室町むろまち幕府ばくふというかたり由来ゆらいとなった(はな御所ごしょ)。

ただし、室町むろまち殿どの将軍しょうぐんである場合ばあいおおいが、そうでない場合ばあいもある。足利あしかが義満よしみつは、1394ねんおうなが元年がんねん)に将軍しょうぐんしょく当時とうじ9さい嫡男ちゃくなん足利あしかが義持よしもちゆずったが、室町むろまち殿どのとして保持ほじしている守護しゅご任命にんめいけん1408ねんおうなが15ねん)にぬまで手放てばなさなかった。義持よしもち同様どうように、1425ねんおうなが32ねん)に将軍しょうぐんしょく嫡男ちゃくなん足利あしかが義量よしかずゆずったが、室町むろまち殿どのとして政務せいむにぎつづけた[1]

公家くげとしての足利あしかが将軍家しょうぐんけ

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足利あしかが義満よしみつ時代じだいになると、足利あしかが将軍家しょうぐんけ室町むろまち殿どの)は朝廷ちょうていないにおいてもその地位ちいたかめ、最終さいしゅうてきには太政大臣だじょうだいじんにまでのぼって公家くげ社会しゃかい頂点ちょうてんった。次代じだい義持よしもち以降いこう一部いちぶ修正しゅうせいはあるものの、足利あしかが将軍家しょうぐんけ公卿くぎょう昇進しょうしんして応仁おうにんらんまでは大臣だいじんにまで昇進しょうしん可能かのうである摂家せっけ清華せいかきゅう家格かかくとなった。このため、足利あしかが将軍家しょうぐんけ摂関せっかん清華せいかおなじようにちゅう下級かきゅう公家くげとく将軍家しょうぐんけ婚姻こんいん関係かんけいむすんだ日野ひのりゅう実務じつむけた勧修寺かんしゅうじりゅう公家くげなどを自己じこいえとして家政かせい補佐ほささせるなど、公家くげ社会しゃかい有力ゆうりょく一員いちいんとなった[2]

応仁おうにんらん幕府ばくふ衰退すいたいあきらかになると、朝廷ちょうていとの関係かんけい変化へんかしょうじた。あかりおう政変せいへん以降いこう将軍家しょうぐんけ事実じじつじょう分裂ぶんれつし、幕府ばくふから朝廷ちょうていへの財政ざいせい援助えんじょのぞめなくなると、朝廷ちょうていはどちらの陣営じんえいからでも正式せいしき申請しんせいおとずれ必要ひつよう経費けいひ献上けんじょう)があれば任官にんかん申請しんせいみとめるという一種いっしゅ機械きかいてき処理しょりおこなうことで、将軍家しょうぐんけ内紛ないふん朝廷ちょうてい影響えいきょうするのを回避かいひしようとした[3]

ところが、足利あしかが将軍家しょうぐんけ義稙よしたねけい足利あしかが義稙よしたね足利あしかがよし足利あしかが義栄よしひで)と義澄よしずみけい足利あしかが義澄よしずみ足利あしかが義晴よしはる足利あしかが義輝よしてる義昭よしあき兄弟きょうだい)への分裂ぶんれつ摂関せっかんにも影響えいきょうおよぼした。近衛このえむすめ義晴よしはる義輝よしてる正室せいしつとして連携れんけいふかめ、これに対抗たいこうしてきゅうじょう義稙よしたねけいむすんだからである。その結果けっか、「義稙よしたねけい将軍家しょうぐんけ九条くじょうりゅう摂関せっかんきゅうじょうじょう一条いちじょう)」たい義澄よしずみけい将軍家しょうぐんけ近衛このえりゅう摂関せっかん近衛このえ鷹司たかつかさ)」という政治せいじ対立たいりつ構図こうず成立せいりつした。このため、義澄よしずみけい将軍家しょうぐんけちからっているときは、九条くじょうりゅう摂関せっかん解任かいにん地方ちほうへの下向げこう余儀よぎなくされ、反対はんたい義澄よしずみけい将軍家しょうぐんけ京都きょうとわれたときには、近衛このえりゅうちからうしな近衛このえ義澄よしずみけい随行ずいこうして地方ちほう下向げこうする状況じょうきょうになった(鷹司たかつかさ戦国せんごく時代じだい中期ちゅうき一時いちじ断絶だんぜつ)。

そのえいろくへん発生はっせいすると、近衛このえぜんひさ近衛このえ義輝よしてる殺害さつがいされたにもかかわらず、対立たいりつしてきた足利あしかが義栄よしひでへの支持しじかたむき、じょうはれりょうがそれに対抗たいこうするため義輝よしてるおとうとである義昭よしあき支持しじえた。その結果けっか義昭よしあき織田おだ信長のぶながうしたてけて上洛じょうらくすると、近衛このえぜんひさ関白かんぱく地位ちいうしなって亡命ぼうめい余儀よぎなくされ、わりにじょうはれりょう関白かんぱくにんぜられ、亡命ぼうめいしていた九条くじょう稙通京都きょうと帰還きかんした。

その義昭よしあき信長のぶなが追放ついほうされて室町むろまち幕府ばくふ事実じじつじょう滅亡めつぼうし、足利あしかが将軍家しょうぐんけ実体じったい喪失そうしつするが、摂関せっかんあらそいはその関白かんぱくしょうろんにつながることになる[4]

足利あしかが将軍家しょうぐんけ連枝れんし

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足利あしかが将軍家しょうぐんけ連枝れんしとして代表だいひょうてき存在そんざいとして鎌倉かまくら公方くぼうげられるが、室町むろまち時代じだい前期ぜんき段階だんかいにおいて室町むろまち幕府ばくふ公式こうしきみとめていた「連枝れんし」は足利あしかが義満よしみつおとうとであるまんかい系統けいとう息子むすこ義嗣よしつぐ系統けいとうだけであった。そのうち、まんかいすべ出家しゅっけしてしまい、義嗣よしつぐあに義持よしもちほろぼされてしまったためにはや時期じき連枝れんし断絶だんぜつしてしまった[5]くらたに公方くぼう義嗣よしつぐ子孫しそんわれているが、実際じっさいには斯波しば一族いちぞくであった[6])。足利あしかが義量よしかず没後ぼつごそうになっていた義持よしもちおとうと義円ぎえん義教よしのり)を還俗げんぞくさせて連枝れんしとして継承けいしょうさせることで足利あしかが将軍家しょうぐんけ断絶だんぜつ回避かいひされた[7]一家いっか創設そうせつ背景はいけいの1つとして、こうした連枝れんし断絶だんぜつがあったとされている[5]

鎌倉かまくら公方くぼう

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たかしよんなん基氏もとうじ鎌倉かまくら公方くぼうとなって関東かんとう地方ちほう下向げこうし、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかがこす。同家どうけのち古河ふるかわ公方くぼう名乗なのる。歴代れきだい公方くぼういみなにおいてつうとして、とき将軍しょうぐんへんいみなかさねた。ただし、以下いか例外れいがいもある。

また、6だい将軍しょうぐん義教よしのり政知まさとも新任しんにん鎌倉かまくら公方くぼうとして関東かんとう下向げこうしたが、混乱こんらん最中さいちゅうにあった鎌倉かまくらはいることがかなわず、伊豆いずきょかまえて堀越ほりこし公方くぼうしょうした。のち堀越ほりこし公方くぼう茶々ちゃちゃまる北条早雲ほうじょうそううんほろぼされて2だいえたが、茶々ちゃちゃまる異母弟いぼてい義澄よしずみ将軍家しょうぐんけいだため、11だい義澄よしずみから15だい義昭よしあきまでの室町むろまち将軍しょうぐんすべ堀越ほりこし公方くぼう血統けっとうとなった。

だい2だい古河ふるかわ公方くぼう足利あしかがまさし義明よしあきは、あに高基たかもととの対立たいりつから下総しもうさこくしょうゆみ公方くぼうしょうして自立じりつするが、北条ほうじょう氏綱うじつなたれて滅亡めつぼうする。しかし、里見さとみ保護ほごされていた義明よしあき子孫しそんである足利あしかがこくあさ足利あしかがよりゆき豊臣とよとみ政権せいけんによっててられて喜連川きつれがわしょうした。

義昭よしあき死後しご足利あしかが将軍家しょうぐんけえたかにえるが、阿波あわこくでは足利あしかがよし維の子孫しそん江戸えど時代じだいすえまで平島ひらしませいえてつづいた(平島ひらしま公方くぼう)ほか、義輝よしてる遺児いじといわれるいけよしたつである西山にしやまいたるこれ子孫しそん熊本くまもとはんとして、義昭よしあきとされる一色いっしきよしたかしまごである坂本さかもとよし子孫しそん会津あいづはんとして、おなじく義昭よしあきといわれる永山ながやまよしざい子孫しそん薩摩さつまはんとしてつづいた。

一家いっか

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足利あしかが将軍家しょうぐんけ足利あしかが一門いちもん・庶家を一家いっかしゅとして室町むろまち幕府ばくふ守護しゅご側近そっきんあるいは遠国おんごく知行ちぎょうするもの京都きょうと扶持ふちしゅとしてぐうした。

吉良きら今川いまがわ足利あしかが宗家そうけものがいなかったときの継承けいしょうしゃ格式かくしきであったとの伝承でんしょうがあるが、実際じっさい宗家そうけ継承けいしょうしたれいはない。 また、一家いっかのうちでも渋川しぶかわ石橋いしばしなどは将軍家しょうぐんけ連枝れんしとしてたか家格かかくゆうした。

一方いっぽう足利あしかが一門いちもんのうち斯波しば格式かくしき別格べっかくであった。ところが、斯波しば一家いっかしゅとしての待遇たいぐうあずかることは出来できなかった。これは一家いっかしゅ組織そしき鎌倉かまくら公方くぼうのみならず、管領かんりょう守護しゅご大名だいみょうとして幕府ばくふなかでも屈指くっし立場たちば確立かくりつした斯波しばへの牽制けんせい目的もくてきにしていたからともわれている[7]

足利あしかが将軍家しょうぐんけおよ鎌倉かまくら公方くぼう古河ふるかわ公方くぼう足利あしかがりゃく系図けいず年表ねんぴょう

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足利将軍家及び鎌倉公方・古河公方足利家略系図年表

改名かいめいおもなものだけを図示ずしし、網羅もうらしてはいない)

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 北条ほうじょう氏康うじやす軍事ぐんじりょくによって擁立ようりつされたよしは、すで将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるはつであるよしふじへんいみなけていたふじ正統せいとうせい否定ひていする必要ひつようがあり、義輝よしてるの「てる」ではなく、それよりも格式かくしきたかいとされた将軍家しょうぐんけつうよし」ともとめたとみられている[8]

出典しゅってん

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  1. ^ 今谷いまたにあきら戦国せんごく大名だいみょう天皇てんのう 室町むろまち幕府ばくふ解体かいたい王権おうけん逆襲ぎゃくしゅう』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2001ねんISBN 4-06-159471-0 P51-52
  2. ^ 井原いはら今朝男けさお天皇てんのう官僚かんりょうせい室町むろまち殿どの摂家せっけいえ兼任けんにん体制たいせい」(『室町むろまち廷臣ていしん社会しゃかいろん』(はなわ書房しょぼう、2014ねんISBN 978-4-8273-1266-9
  3. ^ 井原いはら今朝男けさお室町むろまち廷臣ていしん近習きんじゅ近臣きんしん本所ほんじょ権力けんりょくめんせい」(『室町むろまち廷臣ていしん社会しゃかいろん』(はなわ書房しょぼう、2014ねんISBN 978-4-8273-1266-9
  4. ^ 水野みずの智之としゆき足利あしかが義晴よしはる義昭よしあきにおける摂関せっかん本願寺ほんがんじ将軍しょうぐん大名だいみょう」(初出しょしゅつ:『ゆたか研究けんきゅう』12ごう(2010ねん)/所収しょしゅう:久野くの雅司まさし 編著へんちょ『シリーズ・室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だいかん 足利あしかが義昭よしあき』(戒光さち出版しゅっぱん、2015ねんISBN 978-4-86403-162-2
  5. ^ a b 木下きのしたさとし室町むろまち幕府ばくふ秩序ちつじょ編成へんせい武家ぶけ社会しゃかい」(初出しょしゅつ:『歴史れきしがく研究けんきゅう』924ごう(2014ねん)/所収しょしゅう:木下きのした室町むろまち幕府ばくふ外様とざましゅ奉公ほうこうしゅ』(どうなりしゃ、2018ねんISBN 978-4-88621-790-5
  6. ^ 佐藤さとうけい戦国せんごく越前えちぜん斯波しばについて」、木下きのしたさとしへん えびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう 1〉、2015ねん2がつISBN 978-4-86403-146-2。(初出しょしゅつ:『わかえつ郷土きょうど研究けんきゅうだい45かん4・5ごう(2000ねん
  7. ^ a b 谷口たにぐち雄太ゆうた足利あしかが一家いっかこう」(佐藤さとう博信ひろのぶ へん関東かんとう足利あしかが東国とうごく社会しゃかい 中世ちゅうせい東国とうごくろん:5』(岩田いわた書院しょいん、2012ねんISBN 978-4-87294-740-3)/所収しょしゅう:谷口たにぐち中世ちゅうせい足利あしかが血統けっとう権威けんい』(吉川よしかわ弘文社こうぶんしゃ、2019ねん) ISBN 978-4-642-02958-2 2019ねん、P130-131.
  8. ^ 長塚ながつかたかし氏康うじやす古河ふるかわ公方くぼう政治せいじ関係かんけい黒田くろだ基樹もときへん北条ほうじょう氏康うじやすとその時代じだい』 戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・戦国せんごく大名だいみょうしん研究けんきゅう 2〉、2021ねん7がつISBN 978-4-86403-391-6 P248-252.

関連かんれん項目こうもく

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