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九条くじょう稙通

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九条くじょう稙通
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいただし4ねん1がつ11にち1507ねん2がつ22にち
死没しぼつ ぶんろく3ねん1がつ5にち1594ねん2がつ24にち
改名かいめい 稙通→あるきそら恵空けいくう
別名べつめい 九条くじょうぜんごう通称つうしょう)、玖山、きこりおう江南こうなんかんおう法号ほうごう東光とうこういんいちめい:玖、
墓所はかしょ 東福寺とうふくじだいいん
官位かんい したがえいち関白かんぱく内大臣ないだいじん
主君しゅくん こう柏原かしわばら天皇てんのうこう奈良なら天皇てんのう正親町おおぎまち天皇てんのうこう陽成ようぜい天皇てんのう
氏族しぞく きゅうじょう
父母ちちはは ちち九条くじょうしょうけいはは三条西さんじょうにし保子やすこ三条西さんじょうにし実隆さねたかむすめ
兄弟きょうだい 稙通花山院かさんのいんひろえん[1]経子けいこ[2]
むすめ十河そごう一存いちぞん正室せいしつ
養子ようしけんこうひろけん
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九条くじょう 稙通(くじょう たねみち) は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての公卿くぎょう古典こてん学者がくしゃ左大臣さだいじん九条くじょうしょうけい嫡男ちゃくなん官位かんいしたがえいち関白かんぱく内大臣ないだいじんきゅうじょう16だい当主とうしゅいちめい

生涯しょうがい

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えいただし4ねん1507ねん)1がつ11にち九条くじょうしょうけい嫡男ちゃくなんとして誕生たんじょう元服げんぷくし、九条くじょう満家みついえ以来いらいきゅうじょう慣例かんれいにより、室町むろまち幕府ばくふ10代将軍しょうぐん足利あしかが義稙よしたねよりへんいみなたま稙通名乗なのる。わかころ経済けいざいてき困窮こんきゅうし、さかい九州きゅうしゅうあたりにんだこともある、とつたわる[3]

えいただし11ねん1514ねん)、ちちなおけいしたがえいちじょせられたのと同時どうじに、稙通もしたがえさんじょせられる。その内大臣ないだいじんて、天文てんもん2ねん1533ねん)には関白かんぱくおよびふじ長者ちょうじゃとなったが、いちねんほどの在席ざいせきのち経済けいざいてき困窮こんきゅうのため拝賀はいがのままに翌年よくねん天文てんもん3ねん11がつまつ辞任じにん経済けいざいてき困窮こんきゅうから摂津せっつ播磨はりま方面ほうめん居住きょじゅうする。

天文てんもん15ねん1546ねん)、九条くじょう墓所はかしょである東福寺とうふくじ塔頭たっちゅうだいいんじゅうおさむ

弘治こうじ元年がんねん1555ねん)、したがえいちじょせられるが、まもなく出家しゅっけしてくだりむなし恵空けいくう名乗なのる。その粗末そまつあんみ、風雅ふうが修行しゅぎょう後述こうじゅつ)にいそしんだとつたわる。

天正てんしょう元年がんねん1573ねんふゆらく西にし嵯峨野さがの方面ほうめん探訪たんぼうした紀行きこうぶんである『嵯峨さが』をしるす。

天正てんしょう4ねん1576ねんごろ安芸あき下向げこうしており、現地げんち源氏物語げんじものがたり講義こうぎしたことをしめ史料しりょうがある。

実子じっしとして畿内きない戦国せんごく大名だいみょう三好みよし一族いちぞくである十河そごう一存いちぞん正室せいしつとなった一人娘ひとりむすめがいたが、男子だんしにはめぐまれず、じょういんぼうとついだ実姉じっし経子けいこ(つねこ)のまごだいおいたるけんこう養子ようしむかえ、天正てんしょう2ねん1574ねん)5がつには、いえりょう家伝かでん記録きろくるいけんこうゆずった。また、顕如けんにょ猶子ゆうしとしており、こののち天文てんもん18ねん1549ねん)にあかしから金銭きんせんてき援助えんじょけたり、やしなえまご九条くじょうみゆきだいいた東本願寺ひがしほんがんじ西本願寺にしほんがんじ両者りょうしゃむすくなどの本願寺ほんがんじきゅうじょうとのえんしょうじることとなる[4]

ぶんろく3ねん1594ねん)1がつ5にち薨去こうきょ享年きょうねん88。

人物じんぶつ

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外祖父がいそふ母方ははかた祖父そふ)である三条西さんじょうにし実隆さねたか影響えいきょうつよけ、古典こてん研究けんきゅうしゃとしても名高なだかい。実隆さねたかは稙通にたいし『詠歌えいか大概たいがい』をこうじたうえ天正てんしょう2ねんに『源氏物語げんじものがたりさん大事だいじ相伝そうでん切紙きりかみ』、どう4ねんに稙通と中院なかのいん通勝みちかつたいし『百人一首ひゃくにんいっしゅ』を伝授でんじゅした。稙通自身じしんとおるろく2ねん(1529ねん)に一条いちじょう兼良かねらの『伊勢物語いせものがたり愚見ぐけんしょう』を書写しょしゃした『伊勢物語いせものがたりきゅうじょうぜんごうしょう』をはじめ、源氏物語げんじものがたり注釈ちゅうしゃくしょとして名高なだかい『はじめしょう』、天文てんもん24ねん書写しょしゃの『古今ここんしゅうびょう』など多数たすう書物しょもつあらわしている。『山路やまじ』『もり』などのいわゆる「源氏物語げんじものがたりるい」についても著作ちょさくがある。

逸話いつわ

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  • 飯綱いいづなほう」とわれる魔術まじゅつっており、飯綱いいづなほう成就じょうじゅしたと本人ほんにんさとった、と和歌わか連歌れんが弟子でし連歌れんが松永まつなが貞徳さだのりかたった、とつたわる。
  • むすめ婿むこである十河そごうたすけるために、みずからも出陣しゅつじんしたことがある。松永まつなが貞徳さだのりが稙通にいた言葉ことばとして、「婿むこ十川そがわ十河そごう)は武勇ぶゆうである」としてその武勇ぶゆうたかかったことをひょうしたとしるしている[5]
  • 畿内きない勢力せいりょくふるった戦国せんごく武将ぶしょう三好みよし当主とうしゅ一族いちぞく傍系ぼうけい十河そごうから三好みよし義継よしつぎむかえられていたのは、義継よしつぎ実家じっかである十河そごうしゅうとである稙通のはたらきがあったからだとするせつがある。三好みよしきゅうじょうには、12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる・13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる近衛このえしょうどおり猶子ゆうし)と三好みよし対立たいりつ、このりょう将軍しょうぐん正室せいしつした近衛このえきゅうじょう対立たいりつ、という図式ずしきから、「三好みよし九条くじょうたい将軍家しょうぐんけ近衛このえ」という勢力せいりょく関係かんけいがあった。さら義晴よしはる義輝よしてる将軍しょうぐんしょくあらそったさかい公方くぼう足利あしかがよし・14だい将軍しょうぐん足利あしかが義栄よしひでも「三好みよし九条くじょう陣営じんえいにあったとされている。当時とうじさんこう家中かちゅう実力じつりょくしゃであった松永まつなが久秀ひさひでまごが、稙通の門下もんかでもある松永まつなが貞徳さだのりである。貞徳さだのりは11さいごろから稙通門下もんかとなっている。
  • 尾張おわり実力じつりょくある戦国せんごく武将ぶしょう織田おだ信長のぶなが上洛じょうらくしたさい、あくまで官位かんいのっとり、高位こういしゃ低位ていいしゃせっするに相応ふさわしい態度たいど謁見えっけんし、ったまま「上総かずさ殿どの入洛にゅうらく大儀たいぎ」とだけこえをかけてり、これにより信長のぶながおこらせた、というはなしつたわる。当時とうじ信長のぶなが実力じつりょくはともかく、朝廷ちょうてい尺度しゃくど官位かんいでは「上総かずさかい」でしかない。稙通は「たとえころされることになっても、いえはじ後世こうせいのこしたくない」ためにこのような態度たいどったのだ、とつたわる[6][5]
  • 豊臣とよとみ秀吉ひでよし天正てんしょう13ねん(1585ねん)に関白かんぱくふじ長者ちょうじゃとなったさい関白かんぱくしょうろん)、摂関せっかんふじ嫡流ちゃくりゅう近衛このえ近衛このえりゅう)ときゅうじょうきゅうじょうりゅう)のどちらであるかのそうろんこったが、『稙通おおやけ別記べっき』にればきゅうじょう藤原ふじわら伝来でんらい宝物ほうもつさんてんふじ三宝さんぼう)がきゅうじょう相伝そうでんしているとして、ふじ嫡流ちゃくりゅう主張しゅちょうした。この三宝さんぼうとは「だいかんむり御影みかげ藤原ふじわら始祖しそ藤原鎌足ふじわらのかまたり肖像しょうぞう)」、めぐみあきら和尚おしょうひつによる「紺紙金泥こんしこんでい法華経ほけきょう」、「しょうきつね太刀たちしょうきつねまる)」であるとされている。しょうきつね太刀たちは、往時おうじ菅原すがわら道真みちざねたたりしんとなって内裏だいり落雷らくらいをもたらしたさい清涼せいりょう殿どの落雷らくらい事件じけん)、宮中きゅうちゅう突然とつぜんあらわれた白狐びゃっこによりもたらされた、という伝承でんしょうがあり、元永もとなが元年がんねん1118ねん)10がつ26にちに「けん九条くじょう殿どの世人せじんうんしょうきつね無文むもんたいしゃくとうよう」と記録きろくされているのが初出しょしゅつである[7]。のちおうやす3ねん1370ねん)8がつ15にちの『こう愚昧ぐまい』の記述きじゅつでは九条くじょうけいきょう屋外おくがい落雷らくらい遭遇そうぐうしたさいびていたしょうきつねまるはなったところ落雷らくらい軌跡きせきはぐれて、けいきょうなんのがれた、とかれるなどのきゅうじょうかんする伝承でんしょうっている[8]。ともあれ、このきゅうじょう稙通の主張しゅちょう関白かんぱくしょうろん混乱こんらんたりにし、近衛このえふじ長者ちょうじゃであるとしたうえでその猶子ゆうし(ないしは養子ようし)になることで関白かんぱくになり、藤原ふじわらをも支配しはいくことで武家ぶけ社会しゃかいだけでなく公家くげ社会しゃかい朝廷ちょうていをも支配しはいこうとしていた秀吉ひでよし方針ほうしんあらため、「豊臣とよとみ」というしんせいはじめすることとし、それらのいわばひとじょう存在そんざいとなろうとした、とつたわる[9]
  • 文化ぶんか人的じんてきなつながりから、貴族きぞく社会しゃかいだけではなく、細川ほそかわ幽斎ゆうさい前田まえだ利益りえきなどの武家ぶけ社会しゃかい連歌れんが里村さとむら紹巴じょうは松永まつなが貞徳さだのりらとも交流こうりゅうがあった。
  • 里村さとむら紹巴じょうは古今ここん良書りょうしょわれたときうたほん最近さいきんのおすすめなど、どのような質問しつもんたいしても「源氏物語げんじものがたり」とこたえ、「60ねんほどんでいるが、まったきることはない」とこたえている。
  • 和歌わか門人もんじんに、小野おのつうがいる、とするせつがある。
  • 養子ようしけんこうである九条くじょうみゆきおさなころから利発りはつうたみちすぐれていた[10]。稙通はこのやしなえまご期待きたいをしたらしく、源氏げんじ伝授でんじゅけんこうではなくこう伝授でんじゅしようとした。しかし、稙通とこうとしは79もはなれていたため、賀茂かもしゃ賀茂かも尚久なおひさに「かえ伝授でんじゅ」をたくした。尚久なおひさは稙通のねがいをかなえ、元和がんわ5ねん1619ねん)、こう34さいとき源氏げんじさんけつ伝授でんじゅしている[11]

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 興福寺こうふくじ別当べっとう
  2. ^ じょういんぼうしつ
  3. ^ 日本にっぽん史伝しでん文選ぶんせん(戴恩)』
  4. ^ 五十嵐いがらし、P11 - P14、P36 - P38。
  5. ^ a b 日本にっぽん史伝しでん文選ぶんせん戴恩 松永まつなが貞徳さだのりちょ)』
  6. ^ 明良あきよしひろしはん
  7. ^ 殿しんがりれき
  8. ^ ただし、信西しんぜいも「しょうきつね」としたかたな所持しょじしており、ほかにも大阪おおさか東大阪ひがしおおさか石切いしきりけん神社じんじゃにも小刀こがたなしょうきつねまる」とごうする小刀こがたな所蔵しょぞうされているなど、「しょうきつねまるめいかたな混乱こんらんられる。鎌倉かまくら時代ときよにはすでに、べつかたなにすりわっていたとするせつもあり、江戸えど時代じだい(8だい将軍しょうぐんよしはじめころ)にはきゅうじょうにはく、越前えちぜんのとある神社じんじゃ所蔵しょぞうされていた、などともつたわる。この神社じんじゃ所蔵しょぞうしなもいわゆる「うつし」であるとのはなしもあるが、明治めいじ時代じだいはいってもと越前えちぜん福井ふくいはんおも松平まつだいらはるだけ斡旋あっせんにより、この神社じんじゃからきゅうじょうさい入手にゅうしゅしたとされるが、現在げんざい所在しょざい不明ふめい
  9. ^ 明良あきよしひろしはん
  10. ^ 多聞たもんいん日記にっき
  11. ^ 五十嵐いがらし、P17 - P18。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 平野ひらの邦雄くにお瀬野せの精一郎せいいちろうへん日本にっぽん古代こだい中世ちゅうせい人名じんめい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねん
  • 野島のじま寿三郎じゅさぶろうへん公卿くぎょう人名じんめいだい事典じてん日外にちがいアソシエーツ、1994ねん
  • 近藤こんどうさとしたかしへん宮廷きゅうてい公家くげ系図けいずしゅうらん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1994ねん
  • 五十嵐いがらし公一こういちきょう狩野かのさんだい のこりの物語ものがたり やまらくやまゆきえいおさむ九条くじょうみゆき吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2012ねん

関連かんれん項目こうもく

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