ちゅうしん麻呂まろ

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ちゅうしん 麻呂まろ
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ - 奈良なら時代じだい
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 和銅わどう4ねんうるう6がつ22にち711ねん8がつ10日とおか
別名べつめい しんまんりょしん麻呂まろ
官位かんい せいよんじょう中納言ちゅうなごん
主君しゅくん もちすべ天皇てんのう文武ぶんぶ天皇てんのう元明もとあき天皇てんのう
氏族しぞく ちゅうしん朝臣あそん藤原ふじわら朝臣あそんちゅうしん朝臣あそん
父母ちちはは ちちちゅうしんこくあし養父ようふ藤原鎌足ふじわらのかまたり
つま 藤原鎌足ふじわらのかまたりむすめうりむすめ
きの大人おとなむすめ・奈賀岐娘、いもうと東子とうこ
多治比たじひしまむすめおもね岐良
ひがしじん安比あっぴとう広見ひろみ長人ながとゆたかじん
ゆたかあし大中おおなかしんきよし麻呂まろたい麻呂まろ
テンプレートを表示ひょうじ

ちゅうしん 麻呂まろ(なかとみ の おみまろ)は、飛鳥あすか時代ときよから奈良なら時代じだいにかけての公卿くぎょうちゅうしん国子くにこまごにあたる。しんまんりょしん麻呂まろともく。だい錦上きんじょうちゅうしんこくあし氏姓しせいちゅうしん朝臣あそんのち藤原ふじわら朝臣あそん、そのちゅうしん朝臣あそん復姓ふくせい官位かんいせいよんじょう中納言ちゅうなごん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

叔父おじ藤原鎌足ふじわらのかまたりむすめめとって婿養子むこようしとなり、かまあし実子じっしである藤原不比等ふじわらのふひと成人せいじんするまで藤原ふじわらじょうであったといわれている。

朱鳥あすか元年がんねん686ねんだい舎人とねり官職かんしょくにあったさい大津皇子おおつのおうじあざむかれて謀反むほん加担かたんしたとしてらえられるが[1]ばっされることなくゆるされる[2]もちすべ天皇てんのう3ねん689ねん藤原不比等ふじわらのふひとらととも判事はんじにんぜられており(このときかんむりつとむだい)、律令りつりょう整備せいび従事じゅうじしたか[3]もちすべ天皇てんのう7ねん693ねんちょくこう肆にじょせられる。

文武ぶんぶ天皇てんのう2ねん698ねん)かつて藤原鎌足ふじわらのかまたりあたえた藤原ふじわら朝臣あそんせいかまあしであるとうのみに継承けいしょうさせるむね詔勅しょうちょくはっせられる。これにより麻呂まろちゅうしんぎょうである祭祀さいしてのひらっているとして、藤原ふじわら朝臣あそんからちゅうしん朝臣あそんせいもどされる。文武ぶんぶ天皇てんのう3ねん699ねん鋳銭司すぜんじはじめて設置せっちされるとその長官ちょうかんとなる。大宝たいほう元年がんねん701ねん)の大宝たいほうれい施行しこうつうじてせいじょせられると、文武ぶんぶあさ後半こうはんにおいて急速きゅうそく昇進しょうしんし、けいくも2ねん705ねん)にはしたがえよんじょうひだりだいべんいたる。

元明もとあきあさ和銅わどう元年がんねん708ねん)には参議さんぎずに、せいよん中納言ちゅうなごんけん神祇じんぎはく叙任じょにんされ公卿くぎょうれつした。和銅わどう4ねん711ねん)4がつせいよんじょうじょせられるが、同年どうねんうるう6がつ22にち卒去そっきょ最終さいしゅう官位かんい中納言ちゅうなごんせいよんじょうけん神祇じんぎはく

出雲いずもこく風土記ふどき』にいのしし麻呂まろ(いのまろ)という神官しんかんはなしてくるが、これと麻呂まろ(いみまろ)とどう一人物いちじんぶつというせつがある。

かんれき[編集へんしゅう]

ろく国史こくし』による。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

ちゅうしん系図けいず」(『ぐんしょ類従るいじゅうまきだい62所収しょしゅう)による。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本書紀にほんしょき朱鳥あすか元年がんねん10がつ2にちじょう
  2. ^ 日本書紀にほんしょき朱鳥あすか元年がんねん10がつ29にちじょう
  3. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]