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大中おおなかしんよりゆきもと

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大中おおなかしん よりゆきもと
大中おおなかしんよりゆきもと狩野かの安信やすのぶさんじゅう六歌仙ろっかせんがく』)
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 仁和にわ2ねん886ねんごろ?[1]
死没しぼつ てんれき10ねん956ねん)?、天徳てんとく2ねん958ねん)?
官位かんい したがえよん神祇じんぎ大副おおそい
主君しゅくん 醍醐天皇だいごてんのう朱雀すざく天皇てんのう村上むらかみ天皇てんのう
氏族しぞく 大中おおなかしん
父母ちちはは ちち大中おおなかしん輔道
のうせん
テンプレートを表示ひょうじ

大中おおなかしん よりゆきもと(おおなかとみ の よりもと)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき貴族きぞく歌人かじん備後びんごじょう[2]大中おおなかしん輔道官位かんいしたがえよん神祇じんぎ大副おおそいさんじゅう六歌仙ろっかせん一人ひとり

経歴けいれき[編集へんしゅう]

醍醐だいごあさ後期こうき延長えんちょう元年がんねん923ねん神祇じんぎしょうゆうにんぜられると、延長えんちょう5ねん927ねん神祇じんぎけんだいゆう朱雀すざくあさうけたまわひらた3ねん933ねん神祇じんぎけんしょうふく神祇官じんぎかんかんじん歴任れきにんする一方いっぽうてんけい2ねん939ねん)には伊勢神宮いせじんぐう祭主さいしゅね、てんけい4ねん941ねんしたがえ叙爵じょしゃくした。

そのてんけい8ねん945ねんしたがえじょう神祇じんぎ大副おおそいてんけい9ねん946ねん村上むらかみ天皇てんのう大嘗祭だいじょうさいでの祭主さいしゅろうにより せい昇進しょうしんし、てんれき5ねん951ねんしたがえよんいたる。

天徳てんとく2ねん958ねん卒去そっきょ[3]一説いっせつでは、てんれき10ねん956ねん卒去そっきょ享年きょうねん73とする[4]最終さいしゅう官位かんいまつり主従しゅうじゅうよんぎょう神祇じんぎ大副おおそい

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

大中おおなかしん代々だいだい祭祀さいしてのひら家系かけいであるが、おなじくさんじゅう六歌仙ろっかせん一人ひとりなしつぼにんにもかぞえられる子息しそくのうせんはじめとして、輔親伊勢大輔いせのたいふへとつらなる大中だいなかしんにおける歌人かじんとなる。宇多うた上皇じょうこう信任しんにんあつく、『大井川おおいがわ行幸ぎょうこう和歌わか』や『ちんいん歌合うたあわせ』への参加さんかのほか、屏風びょうぶなどへすすむえいしたうたおおのこされている。『拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』(2しゅ以下いか勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうに10しゅいれしゅう[5]家集かしゅうに『よりゆきもとしゅう』がある。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

よりゆきもとのうせんがまだわかかったころ、あつしじつ親王しんのういえ参上さんじょうして「ちとせまでかぎれるまつ今日きょうよりはきみにひかれてよろづだいけいむ(=せんねんかぎりのいのちまつも、今日きょうからはきみみちびかれて永久えいきゅうきるだろう)」というめでたいうたんだ。人々ひとびとはこのうた称賛しょうさんしたけれども、それをいたちちよりゆきもとは、そばにあったまくらのうせんつよった。そして「もし天皇てんのうされたら、いったいこれ以上いじょうのどんないわむつもりなんだ。このおろものめ」とっていましめ、宮廷きゅうてい歌人かじんとしての心得こころえしめしたという。(『ふくろ草紙ぞうし』)

かんれき[編集へんしゅう]

注記ちゅうきのないものは『さんじゅうろくにん歌仙かせんでん』による。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 和歌わか文学ぶんがく辞典じてん
  2. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい』では肥後守ひごのかみとする。
  3. ^ a b さんじゅうろくにん歌仙かせんでん』『ひろえあくたしょう
  4. ^ a b ちゅうしん系図けいず
  5. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい
  6. ^ a b c d ちゅうしん系図けいず」(『ぐんしょ類従るいじゅうまきだい62所収しょしゅう
  7. ^ 本朝ほんちょう世紀せいき』による。『類聚るいじゅうだい補任ほにん』は9月3にちとする。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]