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九条くじょうみゆき

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九条くじょう みゆき
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天正てんしょう14ねん2がつ19にち1586ねん4がつ7にち
死没しぼつ 寛文ひろふみ5ねん8がつ21にち1665ねん9月29にち
改名かいめい ちゅうさかえはつ)→こう
別名べつめい 、勻
官位かんい したがえいち関白かんぱく左大臣さだいじん
主君しゅくん こう陽成ようぜい天皇てんのう後水尾天皇ごみずのおてんのう明正めいせい天皇てんのう
こう光明こうみょう天皇てんのうこう西にし天皇てんのうれいもと天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきたきゅうじょうりゅうきゅうじょう
父母ちちはは ちち九条くじょうけんこうはは高倉たかくら熙子高倉たかくらひさしむすめ
兄弟きょうだい こうぞうこうはちじょうみや智仁ともひと親王しんのうしつ
つま 豊臣とよとみ秀勝ひでかつむすめかん
二条にじょうやすしどうみちぼうまつ殿どのどうもとさかえげん
なりとういんせんしつ)、さだはりいんりょうしつ
にち怡(みずえんいん瑞龍寺ずいりゅうじせい
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九条くじょう みゆき(くじょう ゆきいえ)は、江戸えど時代じだい初期しょき公家くげ公卿くぎょう)・ふじ長者ちょうじゃ藤原ふじわら摂関せっかんきゅうじょうりゅうきゅうじょう当主とうしゅ関白かんぱく左大臣さだいじんのぼった。はつちゅうさかえ(ただひで)。またいちめいとして「」「勻」とも。

つま豊臣とよとみかんつうじて徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ姻戚いんせき関係かんけいにあったことから江戸えど幕府ばくふから朝廷ちょうていへの交渉こうしょうやくえらばれ、朝廷ちょうてい幕府ばくふ仲介ちゅうかい尽力じんりょく関白かんぱくを2つと両者りょうしゃ衝突しょうとつするたび関係かんけい修復しゅうふく奔走ほんそうした。きょう狩野かの重要じゅうようなパトロンでもあり、3だい画家がかたち(狩野かのさんたのしやまゆきえいおさむ)を庇護ひご彼等かれら危機ききすくうなどきょう狩野かのかせない支援しえんしゃだった。

生涯しょうがい

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幼少ようしょうから結婚けっこんまで

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天正てんしょう14ねん(1586ねん)、九条くじょうけんこうとしてまれる。ははけん大納言だいなごん高倉たかくらひさしむすめ熙子

天正てんしょう18ねん1590ねん2がつ21にち、5さい元服げんぷくとともにせいひだり近衛このえ少将しょうしょう叙任じょにんされ、以後いご昇進しょうしんつづける。ちゅうさかえ利発りはつで、同年どうねん1がつゆきったさいゆきふればとりがすくみてえだにある」とんだ(『多聞たもんいん日記にっき』)。やしなえ祖父そふ九条くじょう稙通はこのやしなえまご期待きたいをしたらしく、源氏物語げんじものがたり伝授でんじゅ養子ようしけんこうではなくちゅうさかえ伝授でんじゅしようとした。しかし、稙通とただしさかえとしは79もはなれていたため、賀茂かもしゃ賀茂かも尚久なおひさに「かえ伝授でんじゅ」をたくした。尚久なおひさは稙通のねがいをかなえて元和がんわ5ねん1619ねん3がつ10日とおかちゅうさかえが34さいとき源氏げんじさんけつ伝授でんじゅしている。さらに、このけつ寛永かんえい12ねん1635ねん1がつ11にち次男じなん後継こうけいしゃ九条くじょうみちぼうがれた[1][2][3]

天正てんしょう19ねん1591ねん1がつ5にちしたがえよんひだり近衛このえ中将ちゅうじょうぶんろく2ねん1593ねん11月11にちしたがえよんじょう慶長けいちょう4ねん1599ねん12月25にちしたがえさんけん中納言ちゅうなごんにんじられ官位かんい順調じゅんちょうがった。しかし一方いっぽうで、したがえさんになるまえ慶長けいちょう3ねん1598ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよし薨去こうきょこう陽成ようぜい天皇てんのうおとうとはちじょうみや智仁ともひと親王しんのうただしさかえあねおっと)への譲位じょうい希望きぼうしてちち2人ふたり叔父おじ二条にじょうあきら鷹司たかつかさ信房のぶふさ一条いちじょうないもと摂家せっけ当主とうしゅたちに反対はんたいされ撤回てっかいするなど、世情せじょう不安定ふあんていになっていた。そうしたなかおとうとぞうこう叔父おじあきらおとうと信房のぶふさあに)の三宝さんぼういん門跡もんぜきえんじえらばれてずいしんいん入室にゅうしつ三宝さんぼういんには元和がんわ4ねん1618ねん)に信房のぶふさ従弟じゅうていさとしじょうはいったが、のちぞうこうさとしじょう対立たいりつすることになる[1][2][4]

慶長けいちょう6ねん1601ねん1がつ6にちせいさんよく慶長けいちょう7ねん1602ねん)1がつ6にちしたがえ慶長けいちょう9ねん1604ねん8がつ1にちにはせいけん大納言だいなごんになった。同年どうねん6月3にち秀吉ひでよしだいめい秀吉ひでよしおい豊臣とよとみ秀勝ひでかつこうむすめ)・かん結婚けっこん。この高度こうど政治せいじてき婚姻こんいん仕立したてたのはかん伯母おば秀吉ひでよし未亡人みぼうじん淀殿よどどのであり、息子むすこ豊臣とよとみ秀頼ひでより関白かんぱく就任しゅうにん布石ふせきねらいがあった。かたやきゅうじょう豊臣とよとみ徳川とくがわ徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ)とつながるかんとのえんでおいえ安泰あんたいはかれるという利点りてんがあり(かんははちちあと徳川とくがわ家康いえやす息子むすこ徳川とくがわ秀忠ひでただ再々さいさいこん)、徳川とくがわ豊臣とよとみとの融和ゆうわ関係かんけい摂家せっけふく朝廷ちょうていとの関係かんけい強化きょうかすることが期待きたい出来できた。ちゅうさかえかん結婚けっこん豪華ごうかさが注目ちゅうもくされ、淀殿よどどのめい嫁入よめい支度じたくかねしまず、九条くじょう屋敷やしき新築しんちくきゅうじょうしん御殿ごてん)したことが公家くげたちの話題わだいのぼ複数ふくすう日記にっき舟橋ふなばししげるけんの『慶長けいちょうけんろく』・西洞院にしのとういんけいの『ときけいきょう』・山科やましなげんけいの『げんけいきょう』)に記録きろくされている。結婚けっこん注目ちゅうもくされた一方いっぽう不幸ふこう出来事できごとこり、かん乳母うば祝言しゅうげんよる自殺じさつ、5ヶ月かげつ11月8にちにはちゅうさかえあね智仁ともひと親王しんのう死去しきょちちかなしみのあまり関白かんぱく辞任じにんして出家しゅっけ隠居いんきょする事態じたいにまでなった。これによりちゅうさかえきゅうじょう背負せおうことになった[1][2][5][6]

最初さいしょ関白かんぱく就任しゅうにん

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慶長けいちょう11ねん1606ねん9月22にちひだり近衛このえ大将たいしょうよく慶長けいちょう12ねん1607ねん1がつ11にち右大臣うだいじん官位かんいすすめ、慶長けいちょう13ねん1608ねん1がつ7にちひだり近衛このえ大将たいしょう辞任じにんするも同年どうねん12月26にち関白かんぱくふじ長者ちょうじゃになった。またこの時期じき息子むすこ2人ふたり誕生たんじょう右大臣うだいじん就任しゅうにんから13にち慶長けいちょう12ねん1がつ24にち長男ちょうなんまつづる慶長けいちょう14ねん1609ねん8がつ13にち次男じなん誕生たんじょうまつづる叔父おじ二条にじょうあきらじつがいないため慶長けいちょう16ねん1611ねん12月26にちあきら養子ようしとしてじょう相続そうぞく二条にじょうやすしどう)、2週間しゅうかん21にち元服げんぷくした次男じなんちゅうぞう名乗なのり(寛永かんえい8ねん1631ねん11月2にちきゅうじょうどうぼう改名かいめい)、九条くじょう相続そうぞくすることがめられた。以後いご息子むすこ2人ふたり誕生たんじょう慶長けいちょう20ねん1615ねん2がつ17にちまれた三男さんなんせんせいづる寛永かんえい11ねん1634ねん7がつ8にち元服げんぷくしてみちもと改名かいめい寛永かんえい20ねん1643ねん)に道昭みちあき改名かいめい)、29にち再興さいこうされたまつ殿どのいだ(まつ殿どのどうもと)。元和がんわ8ねん1622ねん2がつ22にちまれた四男よつおさかえげん叔父おじたるぞうこうのちいでずいしんいん門跡もんぜきとなった[注釈ちゅうしゃく 1][1][2][8]

また、東西とうざいりょう本願寺ほんがんじむすめとつがせており、両統りょうとう並立へいりつうしたてとした。長女ちょうじょなりとういんついでくん)は東本願寺ひがしほんがんじせんに、次女じじょさだはりいんとおるくん)は西本願寺にしほんがんじりょうとついだ。三女さんじょ怡はかん祖母そぼ日秀ひびりあまてた瑞龍寺ずいりゅうじ2せいになっている[9]

関白かんぱく慶長けいちょう13ねんから慶長けいちょう17ねん1612ねん)までつとめたが、就任しゅうにんから翌年よくねん慶長けいちょう14ねん猪熊いのくま事件じけんこり、事件じけんたいする幕府ばくふ処分しょぶん不満ふまんつのらせたのち陽成ようぜい天皇てんのう再度さいど譲位じょうい意向いこうしめした。よく慶長けいちょう15ねん1610ねん)に江戸えど幕府ばくふ承諾しょうだくうえ政仁まさひと親王しんのう後水尾天皇ごみずのおてんのう)の元服げんぷく譲位じょうい準備じゅんびすすんだが、幕府ばくふ譲位じょうい延期えんきもうたため激怒げきどした天皇てんのう幕府ばくふとの関係かんけいがこじれ、10月23にち大御所おおごしょ徳川とくがわ家康いえやすから摂家せっけ協議きょうぎうえ事態じたい収拾しゅうしゅうつたえられた手紙てがみったただしさかえは、摂家せっけしゅ京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら勝重かつしげ天皇てんのうはは女院にょいんしん上東門院じょうとうもんいんらと協議きょうぎして天皇てんのう説得せっとくした[10][11]

元服げんぷく譲位じょうい同日どうじつおこないたい天皇てんのう摂家せっけしゅ説得せっとくなか々ききいれなかったが、摂家せっけ当主とうしゅ1人ひとり近衛このえしんいん勝重かつしげ智仁ともひと親王しんのうらが天皇てんのう説得せっとくしたため天皇てんのうれ、12月23にち政仁まさひと親王しんのう元服げんぷくよく慶長けいちょう16ねん3月27にち譲位じょうい4がつ12にち即位そくいしきめられた。ちゅうさかえ元服げんぷく親王しんのう加冠かかんやくつとめ、慶長けいちょう17ねん3月25にち左大臣さだいじんのぼり、7がつ25にち関白かんぱく辞任じにんした。つぎ関白かんぱく従弟じゅうてい鷹司たかつかさしんなおいだ[注釈ちゅうしゃく 2][1][2][13][14]

関白かんぱく再任さいにんあさまく関係かんけい仲介ちゅうかい奔走ほんそう

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慶長けいちょう19ねん1614ねん)1がつ5にちしたがえいち叙位じょい13にちたちばな実質じっしつてき長者ちょうじゃであるたちばなじょう任命にんめいされた。翌日よくじつ14にち左大臣さだいじん辞任じにんしたが、なおあさまく関係かんけい交渉こうしょうをすることになった。家康いえやす禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと公布こうふするまえ慶長けいちょう20ねん5月17にちあきらみのる信房のぶふさとも草稿そうこう吟味ぎんみたり(2ヶ月かげつ元和がんわ元年がんねん7がつ17にち公布こうふ)、同年どうねん7がつ28にちあきら関白かんぱく再任さいにんされたが、4ねんもと5ねん1619ねん7がつ14にち薨去こうきょすると9月14にちちゅうさかえ後任こうにん関白かんぱくえらばれた。ちゅうさかえにとってもこれは再任さいにんだった。また、あきらからじょう将来しょうらいたくされ、かんみち実父じっぷとしてほか親族しんぞくたちととも後見人こうけんにんとなり、あきらからじょう相伝そうでんである即位そくい灌頂天皇てんのう即位そくいしきなかおこなわれた密教みっきょう儀式ぎしき)の資料しりょう即位そくい勧請かんじょう并叙除目じもく相伝そうでん』をあずかり、かんみちが21さいになった寛永かんえい4ねん1627ねん)に資料しりょうかえした。以後いごかんみちはこの資料しりょうもちいて即位そくい灌頂をおこない、明正めいせい天皇てんのうこう光明こうみょう天皇てんのうそれぞれの即位そくい灌頂(寛永かんえい7ねん1630ねん9月12にち寛永かんえい20ねん10月21にち)で伝授でんじゅやくつとめている[1][2][15]

2度目どめ関白かんぱく在任ざいにんちゅうあさまく関係かんけい対処たいしょわれ、幕府ばくふが2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただむすめちゅうさかえ義妹ぎまいたる和子かずこ東福門院とうふくもんいん)を入内じゅだいさせる案件あんけんすすめた矢先やさき典侍てんじ四辻よつつじあずか後水尾天皇ごみずのおてんのうとのあいだ賀茂かもみやぶんさとし女王じょおう出産しゅっさんしていたことが発覚はっかく秀忠ひでただあずかちか公家くげたちを処罰しょばつおよつ御寮人ごりょうにん事件じけん)、天皇てんのういか譲位じょうい可能かのうせいがった。元和がんわ6ねん1620ねん2がつ26にちちゅうさかえ天皇てんのうおとうと近衛このえしんひろとも幕府ばくふがわ勝重かつしげ藤堂とうどう高虎たかとらとの談判だんぱんのぞみ、よく27にち天皇てんのう妥協だきょう和子わこ入内じゅだい実現じつげんさせ、幕府ばくふ処罰しょばつされた公家くげたちも赦免しゃめんさせた(そのなかには母方ははかた従兄じゅうけい堀河ほりかわやすしたねふくまれていた)[16]

事件じけん終息しゅうそくから4ヶ月かげつ6月18にち和子わこ入内じゅだいしたが、それまでのあいだ関白かんぱくとして幕府ばくふ関係かんけいしゃ談合だんごうして入内じゅだい尽力じんりょくした。4がつ22にち京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら重宗しげむね勝重かつしげ長男ちょうなん)と、6月12にち老中ろうじゅう酒井さかい忠世ただよ土井どい利勝としかつらと談合だんごうしていた。入内じゅだい幕府ばくふとの交際こうさいつづき、元和がんわ8ねん11月9にちから年末ねんまつまで江戸えど下向げこうよく元和がんわ9ねん1623ねん)6がつ秀忠ひでただ息子むすこ徳川とくがわ家光いえみつ将軍しょうぐん宣下せんげのため上洛じょうらくすると、7がつ将軍しょうぐん宣下せんげ御礼おれいのため8がつ内裏だいり参内さんだいした家光いえみつ対面たいめん和子わこ懐妊かいにんさいよしえんじ出産しゅっさん祈祷きとう依頼いらいしている。うるう8がつ16にち関白かんぱく辞任じにんつぎ関白かんぱくしんじひろいだ[1][2][17][18]

隠居いんきょ晩年ばんねん

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関白かんぱく辞任じにん慶事けいじ身内みうち不幸ふこうせっし、元和がんわ9ねん11月24にち鷹司たかつかさ信房のぶふさ夫妻ふさい媒酌ばいしゃくで、かんみちこう陽成ようぜい天皇てんのう皇女おうじょ後水尾天皇ごみずのおてんのう同母どうぼいもうと貞子さだこ内親王ないしんのう祝言しゅうげんげ、寛永かんえい元年がんねん1624ねん12月13にち2人ふたりあいだまご二条にじょうひかりたいら誕生たんじょうした一方いっぽう前日ぜんじつはは他界たかいする不幸ふこうっている。寛永かんえい3ねん1626ねんうるう4がつ21にちにはえんじくなり、9月15にち秀忠ひでただ家光いえみつ父子ふしさい上洛じょうらくしていた最中さいちゅうしゅうとこう江戸城えどじょう死去しきょよく寛永かんえい4ねん8がつ29にちから10月28にちまで江戸えどさい下向げこうした(増上寺ぞうじょうじこういち周忌しゅうきおこなわれたためと推測すいそくされる)。寛永かんえい5ねん1628ねん)には和子わこんだこうひとし親王しんのう夭折ようせつ信房のぶふさしんひろ協議きょうぎうえ内々うちうち葬送そうそうした[19]

こうひとし親王しんのう夭折ようせつ紫衣しえ事件じけんあきらかになった幕府ばくふ朝廷ちょうてい統制とうせいなどあせりと不満ふまんたかまった天皇てんのうから、寛永かんえい6ねん1629ねん5月7にち病気びょうき療養りょうよう理由りゆうにした譲位じょうい公家くげ9にん共々ともども諮問しもんされ、消極しょうきょくてきながら賛成さんせい返答へんとうしょ天皇てんのうおくった。11月8にち天皇てんのう幕府ばくふ相談そうだんせずきょう内親王ないしんのう譲位じょうい明正めいせい天皇てんのう)、あさまく関係かんけいがまたもや不穏ふおんになるなか譲位じょうい諮問しもんまえうるう2がつ17にち家督かとくちゅうぞうゆず隠居いんきょした。2ねん寛永かんえい8ねんうるう10月21にち、46さいときこうあらため(11月2にちちゅうぞうみちぼう改名かいめい)、よく寛永かんえい9ねん1632ねん11月5にちみちぼう越前えちぜんきたそうはんあるじ松平まつだいら忠直ただなおむすめ和子わこ東福門院とうふくもんいん)のめいたるつるひめ結婚けっこんする慶事けいじがあったが、12月23にち次女じじょさだはりいん先立さきだたれる不幸ふこう遭遇そうぐうしている[注釈ちゅうしゃく 3][1][2][21][22]

隠居いんきょ政治せいじ関与かんよすくなくなったが、幕府ばくふとのつながりはたもたれ、寛永かんえい11ねん6がつに3度目どめ上洛じょうらくたした家光いえみつが7がつ上旬じょうじゅんから8がつ上旬じょうじゅんまで京都きょうと滞在たいざいちゅううるう7がつ13にちいえこう謝意しゃいべるためみちもととも二条城にじょうじょう家光いえみつ面会めんかいよく寛永かんえい12ねん1635ねん2がつ8にちにもみちもととも江戸城えどじょうかいこう謝意しゃいしめしている。これはまつ殿どの再興さいこう家光いえみつ助力じょりょくがあったからとされる。一方いっぽうでこの時期じき慶事けいじ身内みうち不幸ふこう相次あいつぎ、寛永かんえい13ねん1636ねん1がつ17にちちち薨去こうきょ寛永かんえい21ねん1644ねん7がつ21にちふえこう死去しきょよく正保まさやす2ねん1645ねん1がつ28にちひかりへい水尾みずお上皇じょうこう皇女おうじょ明正めいせい上皇じょうこう同母どうぼいもうとかつこう光明こうみょう天皇てんのう異母いぼあねたる賀子かこ内親王ないしんのう縁組えんぐみ慶安けいあん元年がんねん1648ねん)に2人ふたりあいだ曾孫そうそんりゅうたかしいん徳川とくがわ綱重つなしげしつ)が誕生たんじょうした[注釈ちゅうしゃく 4][24]

だが正保しょうほう3ねん1646ねん6月12にち道昭みちあきみちもとから改名かいめい)が薨去こうきょみちぼう重病じゅうびょう生死せいし彷徨ほうこうなかかんみちとものち水尾みずお上皇じょうこうかいして幕府ばくふみちぼう摂政せっしょう就任しゅうにんのぞみ、としけた正保しょうほう4ねん1647ねん1がつ5にちみちぼう摂政せっしょうふじ長者ちょうじゃとしたが、5にち10日とおかみちぼう薨去こうきょ半年はんとし息子むすこ2にん先立さきだたれたこうきゅうじょう存続そんぞく尽力じんりょく従弟じゅうてい鷹司たかつかさしんなおまご鷹司たかつかさきょうひらた)をみずからのまごみちぼうむすめまちひめ婿養子むこようしむかえたが(九条くじょうけんはれ)、7さい幼少ようしょうのため後見人こうけんにんとしてきゅうじょうささえることになった[25]

慶安けいあん2ねん1649ねん8がつ14にちたちばなじょう再任さいにんうけたまわおう2ねん1653ねん7がつ20日はつかけんはれともはなまち宮良みやらじん親王しんのうこう西にし天皇てんのう)の江戸えど下向げこう同行どうこうあかりれき元年がんねん1655ねん5月14にち良仁よしひと親王しんのう若宮わかみやはちじょう宮長みやながじん親王しんのう)が誕生たんじょうすると邸宅ていたく提供ていきょうしたが、前述ぜんじゅつとおこう政治せいじ関与かんよすくなくなる一方いっぽうで、家族かぞく結婚けっこん死去しきょ相次あいつ万治まんじ元年がんねん1658ねん6月4にちまごまちひめ姉妹しまいあいひめ安芸あき広島ひろしまはんあるじ浅野あさのつなあきら結婚けっこんするも(のちあいひめ死後しごいもうとはちだいひめつなあきら再婚さいこん)、8がつ18にちつまかん他界たかいまん4ねん1661ねん)にひかりたいらていから出火しゅっかした火事かじ内裏だいり御所ごしょおおくの公家くげ屋敷やしき町家まちや武家ぶけ長屋ながやはらだい火災かさいになる災難さいなんい、寛文ひろふみ4ねん1664ねん2がつ3にちうるう5がつ10日とおかにはさんじょ怡と四男よつおさかえげん死去しきょ存命ぞんめい息子むすこかんみちしかのこらなかった[2][26][27]

寛文ひろふみ5ねん(1665ねん7がつ21にち高齢こうれい体調たいちょうくずし、8がつ21にち薨去こうきょ享年きょうねん80。法名ほうみょうおもんみ忖院。よく寛文ひろふみ6ねん1666ねん7がつ28にちかんみちうように薨去こうきょ[28]

人物じんぶつ

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家族かぞく学問がくもん信仰しんこう

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かんとの結婚けっこん生活せいかつは54ねんたっし、夫婦ふうふなかかった。このため徳川とくがわ将軍家しょうぐんけからの助力じょりょくられ、まつ殿どの再興さいこうなどきゅうじょう繁栄はんえいをもたらした[29]

学問がくもんやしなえ祖父そふから賀茂かも尚久なおひさつうじて伝授でんじゅされた源氏げんじさんひめぎま以外いがいにも興味きょうみしめし、慶長けいちょう7ねんから慶長けいちょう12ねんまで『大学だいがく』『こうむもとむ』『しょくげんしょう』『古文こぶんたから』『さんりゃく』『孟子もうし』など日本にっぽん中国ちゅうごくからつたわるすうおおくの学問がくもん舟橋ふなばししげるけんからおそわったことがかれ日記にっき慶長けいちょうけんろく』にしるされている。しゅうけん死後しごも『ひろえあくたしょう』『ぞく詞花しか和歌集わかしゅう』『日本書紀にほんしょき』をんだりまなんだりして、ひろ学問がくもんけていたことがうかがえる。日記にっきこうおおやけ』を元和がんわ6ねん11月10にちからはじめたが、同年どうねん元和げんな9ねん元和げんな10ねん(1624ねん寛永かんえい改元かいげん)・寛永かんえい元年がんねん一部いちぶ合計ごうけい5さつ断続だんぞくてきにしかのこっていない[30]

信仰しんこう吉田よしだ神道しんとうとのかかわりがつよく、吉田よしだ一族いちぞくかみりゅういん梵舜したしかった。元和がんわ6ねんから交流こうりゅうはじめたことがきっかけで、しばしば梵舜に祈祷きとう依頼いらいしたり、梵舜から屋敷やしき鳥居とりい神社じんじゃなどの建造けんぞう神社じんじゃより祭神さいじん勧請かんじょうすすめられ承諾しょうだくしたことがこうおおやけと梵舜の日記にっき『梵舜日記にっき』にしるされている。梵舜は寛永かんえい9ねん11月18にちぼっするが、くなるまえ同年どうねん1がつ26にちこうからみちぼう屋敷やしきない鎮守ちんじゅしゃ春日かすが大明神だいみょうじん勧請かんじょうめいじられたこと、5月23にちこう伺候しこうしていたことから、両者りょうしゃ交流こうりゅうは梵舜がくなるとしまでつづいていたことが確認かくにんされている[31]

きょう狩野かのとの関係かんけい

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こうきょう狩野かの3だい画家がか狩野かのさんたのし狩野かのさんゆき狩野かのひさしおさめながむすびつき、彼等かれらとの関係かんけいは61ねんたっした。こう家臣かしん信濃しなの小路こうじおものこしたきゅうじょう当主とうしゅ日記にっき抄録しょうろく現存げんそんしないが、美術びじゅつ研究けんきゅう国華こっか』から引用いんようしたあきられき元年がんねん6月3にちじょう記録きろくきょう狩野かのきゅうじょう関係かんけいかれていたという[32]

狩野かのさんらく狩野かのさんゆき狩野かのひさしおさめ、このさんだいきゅうじょう出入でいりのものである。そのため、九条くじょう寝殿しんでんつね御殿ごてんみなもとあいだひゃくうまをことごとくやまらくやまゆきえがかせた。

きょう狩野かのこうかかわりは慶長けいちょう9ねんこうかん結婚けっこんからはじまり、淀殿よどどの提供ていきょうした新築しんちくきゅうじょうしん御殿ごてん)の障壁しょうへき制作せいさくやまらく抜擢ばってきしたことがきっかけになった。前述ぜんじゅつ信濃しなの小路こうじじゅうしょうろくからやまらくは10あまりの建物たてものからなる御殿ごてんのいくつかの部屋へや源氏物語げんじものがたりひゃくなどをえがいたことがしるされ、御殿ごてん詳細しょうさいからないが、東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん保管ほかんされている『くるまそう屏風びょうぶ』はふすまを4きょく1せき屏風びょうぶにした作品さくひんで、御殿ごてん部屋へやの1つみなもとあいだにあったふすま一部いちぶかんがえられている。ただし、やまらく一緒いっしょえがいたとされるやませつについては、やまらく弟子でしになったのが御殿ごてん新築しんちくから翌年よくねん慶長けいちょう10ねん1605ねん)となっているため疑問ぎもんされている[注釈ちゅうしゃく 5][34]

こうやまらく関係かんけい慶長けいちょう20ねんになると親密しんみつになる。このとし大坂おおさかじん終結しゅうけつ豊臣とよとみ滅亡めつぼう徳川とくがわぐん残党ざんとうりからかくしたやまらく助命じょめい嘆願たんがんこう一役ひとやくったからである。やまらくまごえいおさむいた『本朝ほんちょう』によると、豊臣とよとみ恩顧おんこられ徳川とくがわぐんからねらわれたやまらく松花堂しょうかどうあきらじょう石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうのある男山おとこやま滝本たきもとぼうかくまい、残党ざんとうりからまもったという。しかしきょう狩野かのだい11だい当主とうしゅ狩野かのえいさち明治めいじ2ねん1869ねん)から明治めいじ4ねん1871ねん)にしるした『きょう狩野かの資料しりょう』のなか史料しりょう御用ごようとめよん)』では、こう秀忠ひでただやまらく助命じょめい嘆願たんがんはたらきかけたとかれている。前述ぜんじゅつとおしゅうとこう秀忠ひでただ正室せいしつとして再嫁さいかしたことから、こう台所だいどころ婿むこという姻戚いんせき関係かんけいとなり、朝廷ちょうてい幕府ばくふ仲介ちゅうかいやくとしても貴重きちょう存在そんざいとなる。この関係かんけいかしかんともこうやまらく助命じょめい嘆願たんがん依頼いらいこうからつたえられた秀忠ひでただねがいをかなえたことでやまらくすくわれた[注釈ちゅうしゃく 6][37][38]

以後いごやまらくこうはじきゅうじょうむすびつきがつよくなり、元和がんわ6ねんこうから屏風びょうぶ制作せいさくい(屏風びょうぶ現存げんそんせず)、こう2人ふたりむすめとつさきである東西とうざいりょう本願寺ほんがんじやまらくつたわり、西本願寺にしほんがんじの『鷙鳥屏風びょうぶ』、東本願寺ひがしほんがんじ広間ひろまの『松竹しょうちくづる』『なつふゆ四季しき花鳥かちょう』・づるあいだの『花鳥かちょう』・くろ書院しょいんの『源氏げんじ60じょう』、東本願寺ひがしほんがんじ別院べついん大通だいつうてら含山のきにある『山水さんすいふすま』が作品さくひんつたえられている。秀忠ひでただやその有力ゆうりょくしゃからも注文ちゅうもんうようになったやまらくにとって、こういのち恩人おんじんであるとともに、かれ姻戚いんせき関係かんけいにある人々ひとびとつうじて仕事しごとひろげてくれた支援しえんしゃでもあった[39][40]

やまらく婿養子むこようし寛永かんえい12ねんかれいだやまゆきこうとの関係かんけいぎ、正保しょうほう4ねんこうから東福寺とうふくじ所蔵しょぞうあかりちょうふでさんじゅう三身みつみ観音かんのんぞううちけていた2ぶく補作ほさくめいじられ、見返みかえりにこうしで法橋ほっきょうじょせられた。この仕事しごとみちぼう道昭みちあき兄弟きょうだい冥福めいふくいのるためだったとされ、4ねん慶安けいあん4ねん1651ねん)6がつおこなわれた東福寺とうふくじ塔頭たっちゅう常楽じょうらくあんひろしかね改鋳かいちゅうおな意味いみめて正保しょうほう4ねんから計画けいかくされたと推測すいそくされている。またこうの3にん息子むすこかんみちみちぼう道昭みちあき)にやまゆきがたびたび挨拶あいさつ面会めんかいおとずれ、仕事しごと注文ちゅうもん作品さくひん献上けんじょうをしていたことがそれぞれの日記にっき(『かんみちおおやけ』・『みちぼうおおやけ』・『まつ殿どのきょう』)に確認かくにんされ、九条くじょうゆかりのずいしんいんこうおとうとぞうこう末子まっしさかえげん入室にゅうしつ)に『らんていきょくみず屏風びょうぶ』、大通だいつうてらに『達磨だるまりゅうとら』『四季しき耕作こうさくふすま』など多数たすう作品さくひんのこされている[41][42][43]

きゅうじょう絵師えしとして順調じゅんちょうだったやまゆきだが、義弟ぎてい狩野かの伊織いおりやまらく実子じっしやまゆきつまちくおとうと)が借金しゃっきん問題もんだいうったえられたことで暗転あんてんやまゆき縁座えんざ親族しんぞく連座れんざ)で投獄とうごくされた。慶安けいあん元年がんねん5月7にち裁判さいばんはじ伊織いおり揚屋あげや留置りゅうちされたが、よく慶安けいあん2ねん9月25にち再度さいどおこなわれた裁判さいばんで、縁座えんざ適用てきようすべきとかんがえた京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら重宗しげむね判断はんだんで、やまゆき伊織いおりわりで揚屋あげや留置りゅうちされたのである。こうしたやまゆき苦難くなんこうすくいのべ、くわしい時期じき不明ふめいだが慶安けいあん年間ねんかんやまゆき釈放しゃくほうされたという。きょう狩野かの資料しりょうかれたきゅうじょうによるやまゆき助命じょめいはこの出来事できごとしているとおもわれる[注釈ちゅうしゃく 7][45][46]

慶安けいあん4ねん死去しきょしたやまゆきのちいだ息子むすこえいおさむは21さいわかかったが、こうからきゅうじょう出入でいりをゆるされ、祖父そふちちおなじくこう家族かぞくたちのために作品さくひん提供ていきょうしていった。こうしたきゅうじょうとのかかわりでえいおさむ次々つぎつぎえがげ、肖像しょうぞうえいおさむ詞書ことばがきこう執筆しっぴつした合作がっさくしんさんじゅう六歌仙ろっかせんじょう』を制作せいさくこう孫娘まごむすめおっと浅野あさのつなあきらはやし鵞峰きゅうじょう家宝かほうちゅう殿御とのごかい』を模写もしゃしておくったことや、まん2ねん1659ねん)にひかりたいらしょくわえた『舞楽ぶがくまき』をえがいたことがつたえられる。こうかいして仕事しごとひろがったえいおさむは、こうあときゅうじょうじょうとのつながりをたもち、彼等かれら注文ちゅうもん様々さまざまえがつづけた[47][48]

以上いじょうのように、こうきょう狩野かの3だい画家がかたちをたんかかえただけでなく、彼等かれら苦難くなんすくった恩人おんじんだった。やまらくやまゆきおよびこうたがいの関係かんけいについてどうかんがえていたか、資料しりょうすくないため不明ふめいだが、えいおさむ本朝ほんちょうで「自分じぶんさいわいにも太平たいへいおくり、翰墨かんぼく仕事しごととしてきた。この聖恩せいおん感謝かんしゃする」とのこした。この文章ぶんしょう祖父そふちち経験けいけんした苦難くなんまえて、名前なまえしるさなかったがきょう狩野かの存続そんぞく出来できたのはこうのおかげだと感謝かんしゃ言葉ことばめたもの推定すいていされている[49]

官位かんい官職かんしょく経歴けいれき

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系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 過去かこきゅうじょう稙通に男子だんしかったとき姻戚いんせき関係かんけいにあったじょうから養子ようしはいったれいがある。この人物じんぶつこうちちけんこう二条にじょうあきらあにたり、かんみちじょう養子ようしりしたけんはかつてのぎゃくおこなわれたかたちになった[7]
  2. ^ この時期じきさん大臣だいじん人事じんじ空席くうせき目立めだち、慶長けいちょう16ねん1がつ時点じてんでは右大臣うだいじんちゅうさかえしかおらず、3月にしんじひさし内大臣ないだいじんになったが、左大臣さだいじん空席くうせきのままだった。慶長けいちょう17ねん3がつちゅうさかえしんなおがそれぞれ左大臣さだいじん右大臣うだいじん昇任しょうにん、4がつしんじいん大納言だいなごんから内大臣ないだいじん昇任しょうにんしたことでさん大臣だいじんそろった。そのちゅうさかえは7がつ関白かんぱく辞任じにんしたが左大臣さだいじん辞任じにんせずさん大臣だいじんまったままになった[12]
  3. ^ つるひめちち忠直ただなおははかちひめ従兄じゅうけいいもうとという関係かんけいで、父方ちちかた祖父そふ結城ゆうき秀康ひでやす母方ははかた祖父そふ徳川とくがわ秀忠ひでただ兄弟きょうだいだった。くわえて、つるひめははしょうひめみちぼうははかん異父いふいもうとという関係かんけいから、つるひめみちぼう従兄じゅうけいいもうとということになる。ただし忠直ただなお元和がんわ9ねん乱行らんぎょう理由りゆう秀忠ひでただ隠居いんきょさせられていたため、つるひめ叔父おじこう養女ようじょとしてみちぼうとついだ[20]
  4. ^ ぞうこうさとしじょう前述ぜんじゅつとおえんじからそれぞれずいしんいん三宝さんぼういんいだが、寛永かんえい3ねんえんじ死後しご両者りょうしゃ対立たいりつ寛永かんえい21ねん4がつ26にちさとしじょうちち信房のぶふさ調停ちょうていした。結末けつまつについては不明ふめいだが、それからあいだもなくぞうこう死去しきょしたことにより対立たいりつ解消かいしょうかっていったとされる[23]
  5. ^ くるまそう屏風びょうぶ内容ないよう源氏物語げんじものがたりだい9じょうあおい」にかれた光源氏ひかるげんじ正妻せいさいあおいじょういちぎょうろくじょう御息所みやすんどころいちぎょう牛車うしぐるま場所ばしょめぐあらそいをこす、六条ろくじょう御息所みやすんどころ生霊いきりょうくるしんだあおいうえぬという、一見いっけん新婚しんこん夫婦ふうふ相応ふさわしくない屏風びょうぶえる。しかし源氏物語げんじものがたりだい9じょう全体ぜんたいかんがえると、前半ぜんはん不幸ふこうはなしでも後半こうはんあおいうえくした光源氏ひかるげんじむらさきじょうしん手枕たまくらわす場面ばめんを、両者りょうしゃ年齢ねんれいちかこうかん見立みたてたのではないかとされている。なお、御殿ごてん内裏だいり拡張かくちょうのため慶長けいちょう10ねん移転いてんめいじられた[33]
  6. ^ 御用ごようとめよん)』はきゅうじょうきょう狩野かのあたえたおん子孫しそんつたえる内容ないようで、1つきゅうじょうよりきょう狩野かの士族しぞく身分みぶんゆるされたこと、2つやまらく助命じょめい、3つやまゆき助命じょめいいてある。こう幕府ばくふはたらきかけた時期じき禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと吟味ぎんみしていた慶長けいちょう20ねん5がつから7がつとされるが、本朝ほんちょうこう助命じょめい嘆願たんがんについていていないてんは、大坂おおさかじん残党ざんとうりの記憶きおくのこ時期じき刊行かんこうすれば、九条くじょう迷惑めいわくをかけると判断はんだんしたえいおさむ隠蔽いんぺいうたがわれている[35][36]
  7. ^ 美術びじゅつ史家しか五十嵐いがらし公一こういちやまゆき伊織いおり裁判さいばん調しらべ、当時とうじかんがえや推測すいそくなどもまじえたうえで、重宗しげむね借金しゃっきん返済へんさい出来できない伊織いおりわりやまゆき返済へんさいうながすため伊織いおり留置りゅうち当事とうじしゃあいだはないによって解決かいけつさせる内済ないさいのぞんでいたと推測すいそくしている。しかしやまゆき返済へんさいこば伊織いおり自身じしん返済へんさいすることをかんがえていたため、再度さいど裁判さいばんやまゆき留置りゅうちすることになった。また五十嵐いがらし揚屋あげやからやまゆきえいおさむした年代ねんだい不明ふめい5がつ10日とおかづけ手紙てがみにも注目ちゅうもく文章ぶんしょうにある「ゆめいた託宣たくせん行方ゆくえ調しらべるようにげ、春日かすが大明神だいみょうじんならきゅうじょう大御所おおごしょさま御社おんしゃまいってしい」というえいおさむへの伝言でんごんは、寛永かんえい9ねん春日かすが大明神だいみょうじん勧請かんじょうしたきゅうじょう屋敷やしき鎮守ちんじゅしゃし、こうたすけをもとめる暗号あんごうおくったのではないかとしている[44]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h 野島のじま寿三郎じゅさぶろう 1994, p. 267.
  2. ^ a b c d e f g h i 橋本はしもとまさしせん 2010, p. 51.
  3. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 17-19,71.
  4. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 20-26,57.
  5. ^ 宮本みやもと義己よしみ 2010, p. 171-173.
  6. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 28-32.
  7. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 11,33.
  8. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 32-34,38.
  9. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 34-38.
  10. ^ 久保くぼ貴子たかこ 2008, p. 22-23.
  11. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 38-40.
  12. ^ 久保くぼ貴子たかこ 2008, p. 38.
  13. ^ 久保くぼ貴子たかこ 2008, p. 23-25.
  14. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 40-41.
  15. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 42-45.
  16. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 45-47.
  17. ^ 久保くぼ貴子たかこ 2008, p. 73.
  18. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 47-49.
  19. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 49-51,71.
  20. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 54-55.
  21. ^ 久保くぼ貴子たかこ 2008, p. 73-75.
  22. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 5,51-55.
  23. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 55-56.
  24. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 55-59.
  25. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 59-61,70.
  26. ^ 久保くぼ貴子たかこ 2008, p. 143.
  27. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 61-68.
  28. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 68-69.
  29. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 70-71.
  30. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 48,71-72.
  31. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 72-73.
  32. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 1-4,210-211.
  33. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 98-104.
  34. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 93-98,123-127.
  35. ^ 脇坂わきさかあつし 2010, p. 4-5.
  36. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 106-111.
  37. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 69,104-111.
  38. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2021, p. 123.
  39. ^ 脇坂わきさかあつし 2010, p. 11.
  40. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 111-114,121-122.
  41. ^ 脇坂わきさかあつし 2010, p. 32-34.
  42. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 145-158.
  43. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2021, p. 129-133.
  44. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2021, p. 144-152,157-161.
  45. ^ 脇坂わきさかあつし 2010, p. 35.
  46. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2021, p. 117-120,157-164.
  47. ^ 脇坂わきさかあつし 2010, p. 56-57.
  48. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 185-193.
  49. ^ 五十嵐いがらし公一こういち 2012, p. 212-214.

参考さんこう文献ぶんけん

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登場とうじょう作品さくひん

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関連かんれん項目こうもく

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