徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ御台みだいしょ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ御台みだいしょ(とくがわしょうぐんけみだいどころ)では、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ台所だいどころについてあつかう。

台所だいどころのおえの世話せわをする台所だいどころづけ中臈ちゅうろう 千代田ちよだ大奥おおおく 歌合うたあわせ 橋本はしもと(楊洲)周延しゅうえん

台所だいどころとは大臣だいじん将軍しょうぐんつまたいしてもちいられる敬称けいしょうで、江戸えど時代じだいにおいてはおも江戸えど幕府ばくふ将軍しょうぐん正室せいしつ呼称こしょうとしてもちいられていた。

台所だいどころ立場たちば[編集へんしゅう]

将軍しょうぐん正室せいしつとして大奥おおおくいち立場たちばにあった台所だいどころは、征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなった時点じてんすで正室せいしつがいなかった初代しょだい将軍しょうぐん家康いえやす幕府ばくふ成立せいりつ以前いぜん豊臣とよとみ秀吉ひでよし存命ぞんめいちゅう正室せいしつこうこうあずかむかえた2だい将軍しょうぐん秀忠ひでただべつとして、大奥おおおく制度せいど確立かくりつされて以降いこう、(1)摂家せっけひめ(2)世襲せしゅう親王しんのうひめ(3)皇女おうじょ からむかえる慣例かんれいとなっていた。11だい家斉いえなり台所だいどころまことと13だい家定いえさだ台所だいどころ敬子けいこは、武家ぶけである島津しまつ出身しゅっしんであるが、両人りょうにんとも摂家せっけである近衛このえ養女ようじょとなったうえで「摂家せっけひめ」として輿入こしいれしている。これは、台所だいどころ格式かくしきもとめられたためなされた処置しょちであるとかんがえられる[1]

また、正式せいしき側室そくしつたなかった2だい秀忠ひでただ台所だいどころのおあずかほうが3だい将軍しょうぐん家光いえみつ生母せいぼとなった以外いがい将軍しょうぐん生母せいぼとなった台所だいどころはいない。これは、皇室こうしつ公家くげ外戚がいせき将軍しょうぐんまれないよう、大奥おおおく管理かんりしていたからともされる。しかし、実際じっさいには台所だいどころんだ実例じつれいもあり、結果けっかろんてき側面そくめんもある。

台所だいどころ大奥おおおく主宰しゅさいしゃであるが、江戸えど時代じだい前期ぜんき大奥おおおくにおける実権じっけん年寄としより上臈じょうろう年寄としよりなどの老女ろうじょ世継よつぎをんだ側室そくしつ将軍しょうぐん生母せいぼ将軍しょうぐん乳母うばなどがにぎっていたため、御台みだいしょとしての本来ほんらい立場たちば維持いじしていたれいすくない。実際じっさい実権じっけんっていた年寄としより側室そくしつたちには、女中じょちゅうたちの居住きょじゅうちょうきょくむこう」とはべつ独立どくりつしたまいをあたえられていた。

しかし、6だい家宣いえのぶ時代じだい改革かいかくがなされて、年寄としより側室そくしつ住居じゅうきょは「ちょうきょくむこう」だけにめられた。さら側室そくしつ位置いちづけがあくまでも臣下しんかとされるようになり、台所だいどころ側室そくしつんだ嫡母ちゃくぼ待遇たいぐうけるようになるなど、台所だいどころあつかいはおおきく改善かいぜんされていった。生母せいぼたいしても、将軍家しょうぐんけないでの順位じゅんい生母せいぼもっとひくいため、台所だいどころ権威けんい生母せいぼるがすことはなかった[2]

おっとたる将軍しょうぐんくなった場合ばあい落飾らくしょくして西丸にしまるへとうつり、将軍しょうぐん菩提ぼだいとむら余生よせいごすこととなっていた。それでも時代じだいによっては多大ただい影響えいきょうりょく保持ほじつづけたれいもある[3]。ちなみに正室せいしつによっては、立場たちばじょう問題もんだい大奥おおおくりしなかったために台所だいどころ呼称こしょうされなかったものもいる[4]たとえば3だい将軍しょうぐん家光いえみつ正室せいしつである鷹司たかつかさ孝子たかこは、家光いえみつ不仲ふなかのため別居べっきょをして、大奥おおおくではなくなかまる御殿ごてん住居じゅうきょしたため、「御台みだいさま」ではなく「なかまる殿どの」とばれ、世子せいし家綱いえつな(4だい将軍しょうぐん)の嫡母ちゃくぼあつかいもなされなかった。

慶応けいおう3ねん1867ねん)12月、王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいにより慶喜よしのぶ将軍しょうぐん辞職じしょくみとめられ、それにともな正室せいしつ省子しょうこへの尊称そんしょうも「簾中れんちゅう」へあらためられたことで、「御台みだいしょ」は終焉しゅうえんした[5]

大奥おおおくでの生活せいかつ[編集へんしゅう]

台所だいどころまう場所ばしょは、大奥おおおく御殿ごてんむこう」の北西ほくせいにある「まつ御殿ごてん」ないし「しん御殿ごてん」とばれる場所ばしょだった[6]居間いまたるのは「上段じょうだん」・「下段げだん」・「休息きゅうそく」で、「きりがたあいだ」が寝所ねどこたる。日常にちじょう生活せいかつにおいて、台所だいどころうごかすこととえば食事しょくじときくらいで、そのかわやつめり、おめしえなどではすべ女中じょちゅうたちがわりにうごかしてくれた。1かい食事しょくじのためにいつも10人前にんまえ用意よういされ、そのうち2人前にんまえはお毒見どくみやくのための毒見どくみようである。毒見どくみ通過つうかした御膳ごぜんのうち、台所だいどころ実際じっさいべるのはわずかに2人前にんまえ(どの料理りょうりにも2はししかをつけず、もう1人前にんまえがおかわりのぶんだった)であり、のこりの6人前にんまえ食事しょくじ当番とうばん女中じょちゅうべた。おめしえは1にちに5かい入浴にゅうよく朝食ちょうしょくまえの「おあさし」、そうれ(毎朝まいあさおこなわれる将軍しょうぐんへの謁見えっけんまえの「そうし」、「おひるし」、「お夕方ゆうがたし」、「おし」とがあった。

徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ正室せいしつ一覧いちらん[編集へんしゅう]

名前なまえ別名べつめい法号ほうごうとう おっとたる将軍しょうぐん 続柄つづきがら
築山殿ちくやまどの* 初代しょだい家康いえやす 関口せきぐちちかしひさしおんな
朝日あさひひめ南明なんめいいん)* 初代しょだい家康いえやす継室けいしつ 豊臣とよとみ秀吉ひでよしいもうとたけ阿弥あみおんな
しょうひめ* だい秀忠ひでただ 豊臣とよとみ秀吉ひでよし養女ようじょ織田おだ信雄のぶおおんな
こうしょうとくこうあずか崇源院すうげんいん だい秀忠ひでただ継室けいしつ 豊臣とよとみ秀吉ひでよし養女ようじょ浅井あさい長政ながまさおんな
鷹司たかつかさ孝子たかこほんいん さんだい家光いえみつ 鷹司たかつかさ信房のぶふさおんな
あさみやこういわおいん よんだい家綱いえつな 貞清さだきよ親王しんのう王女おうじょ
鷹司たかつかさ信子のぶこきよしひかりいん だい綱吉つなよし 鷹司たかつかさきょうひらたおんな
近衛このえ熙子たかしえいいん ろくだい家宣いえのぶ 近衛このえはじめおんな
はちじゅうみやきよし琳院みや ななだい家継いえつぐ家継いえつぐ夭折ようせつのため婚約こんやくまる) れいもと天皇てんのう皇女おうじょ
真宮しんぐうひろしとくいん)* はちだいよしはじめ さだ致親おう王女おうじょ
みや証明しょうめいいん)* きゅうだい家重いえしげ くになが親王しんのう王女おうじょ
じゅうみやしんかんいん じゅうだい家治いえはる ちょくじん親王しんのう王女おうじょ
近衛このえまこと広大こうだいいん じゅういちだい家斉いえなり 近衛このえけい養女ようじょ島津しまつ重豪しげひでおんな
たのしみやきよしかんいん じゅうだい家慶いえよし じん親王しんのう王女おうじょ
鷹司たかつかさつとむてんおやいん)* じゅうさんだい家定いえさだ 鷹司たかつかさまさしどおり養女ようじょ鷹司たかつかさまさしおんな
一条いちじょう秀子ひでこきよししんいん)* じゅうさんだい家定いえさだ継室けいしつ 一条いちじょう忠良ただよしおんな
近衛このえ敬子けいこあつしひめ天璋院てんしょういん じゅうさんだい家定いえさだつぎしつ 近衛このえただし養女ようじょ島津しまつ斉彬なりあきら養女ようじょ島津しまつただしつよしおんな
和宮かずのみや静寛院宮せいかんいんのみや じゅうよんだい家茂いえもち 孝明天皇こうめいてんのういもうと仁孝天皇にんこうてんのう皇女おうじょ
一条いちじょう美賀子みかこさだ粛院) じゅうだい慶喜よしのぶ 一条いちじょうただし養女ようじょ今出川いまでがわこうひさおんな

出生しゅっしょう将軍しょうぐんになった人物じんぶつ名前なまえ太字ふとじで、おっと将軍しょうぐん就任しゅうにんまえ死去しきょした(正式せいしき台所だいどころになっていない)場合ばあいには*で表示ひょうじ

台所だいどころまち[編集へんしゅう]

1657ねんあかりれき3ねん)1がつ発生はっせいしたあかりれき大火たいかののち、江戸えど幕府ばくふ都市とし整備せいびともな神田かんだ明神みょうじんちかくに台所だいどころまかないかた役人やくにん屋敷やしきあつめられた。その1869ねん明治めいじ2ねん)には神田かんだ明神下みょうじんした台所だいどころまちばれるようになった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 秀忠ひでただ台所だいどころこう太閤たいこうぜん関白かんぱく豊臣とよとみ秀吉ひでよし養女ようじょだったので、格式かくしきてんでは以後いご摂家せっけ出身しゅっしん養女ようじょふくむ)の台所だいどころ同等どうとうであったといえる。
  2. ^ とはいえ、江戸えど時代じだい全体ぜんたいとおして、台所だいどころ不在ふざい期間きかんが100ねんちかくあった。そのあいだ実権じっけん老女ろうじょ側室そくしつにぎっていた。
  3. ^ 顕著けんちょれいは6だい将軍しょうぐん正室せいしつてんえいいんと、13だい将軍しょうぐん正室せいしつ天璋院てんしょういんである。てんえいいんは、6だい将軍家しょうぐんけせん遺言ゆいごんとして8だい将軍しょうぐん紀州きしゅう吉宗よしむね指名しめいした。天璋院てんしょういんは、将軍しょうぐん不在ふざい老中ろうじゅうたちに登城とじょうめいじたり、無血むけつ開城かいじょう直前ちょくぜんには和宮かずのみやとも大奥おおおくはつ最初さいしょ最後さいごの「御触おふれ」をした。
  4. ^ 14だい将軍しょうぐん家茂いえもち正室せいしつである和宮かずのみや内親王ないしんのうであるため「御台みだいさま」の呼称こしょうが「和宮かずのみやさま」にあらためられた。また、15だい将軍しょうぐん慶喜よしのぶ正室せいしつである一条いちじょう省子しょうこは、慶喜よしのぶだいさか将軍しょうぐん宣下せんげけていたことや当時とうじ状況じょうきょうおもんばかって江戸城えどじょううつらなかった。
  5. ^ 徳川とくがわ慶喜よしのぶ大将軍だいしょうぐんやめムルヲ以テれいシテ其称呼しょうこあらため」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A15071464700 
  6. ^ あるいは「御守おまもり殿どの」と表記ひょうきされている場合ばあいもある。参照さんしょう:「ひろし以降いこう記述きじゅつ史料しりょうからみた江戸城えどじょう本丸ほんまる御殿ごてん大奥おおおく御殿ごてんむこうにおける女中じょちゅう役務えきむ空間くうかん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]