(Translated by https://www.hiragana.jp/)
鷹司孝子 - Wikipedia コンテンツにスキップ

鷹司たかつかさ孝子たかこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

鷹司たかつかさ 孝子たかこ(たかつかさ たかこ、慶長けいちょう7ねん1602ねん)5がつ - のべたから2ねん6月8にち1674ねん7がつ11にち))は、江戸えど幕府ばくふだい3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ正室せいしつ台所だいどころ)。通称つうしょうなかまるさま」。院号いんごうほんいん(ほんりいん)。墓所はかしょ無量むりょうやま傳通院でんづういん

ちち関白かんぱく鷹司たかつかさ信房のぶふさはは佐々ささしげるせいむすめ輝子てるこたけほしいん)。あに関白かんぱく鷹司たかつかさしんなおおとうと松平まつだいら信平しんぺい鷹司たかつかさ松平まつへい)。いもうと浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじだい14だい宗主そうしゅ大谷おおやさびつま貞淑ていしゅくいん如瑞がいる。家光いえみつ息子むすこである5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし正室せいしつ鷹司たかつかさ信子のぶこしんじひさしまごであり、孝子こうしめいまごにあたる。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

元和がんわ9ねん1623ねん)8がつ家光いえみつ征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげけるための上洛じょうらくちゅう江戸えどくだり、徳川とくがわ秀忠ひでただ継室けいしつこう崇源院すうげんいん)の猶子ゆうしとなる。12月に輿入こしいれ、よく寛永かんえい元年がんねん1624ねん)には祝言しゅうげんおこなわれ本丸ほんまるりする。翌年よくねん正式せいしき婚礼こんれいし、台所だいどころとなる(当初とうしょわか御台みだい」とばれた)。

慶安けいあん4ねん1651ねん)の家光いえみつ没後ぼつご落飾らくしょくしてほんいんごうする。寛文ひろふみ4ねん1664ねん)に上洛じょうらくこう水尾みずお上皇じょうこう拝謁はいえつする。のべたから2ねん1674ねん)に死去しきょ享年きょうねん73。戒名かいみょうほんいん殿どのあきらほまれ円光えんこうてっこころ大姉だいし[1]

墓所はかしょ歴代れきだい将軍しょうぐん台所だいどころねむしば増上寺ぞうじょうじでも上野うえの寛永寺かんえいじでもなく、将軍家しょうぐんけ一族いちぞくおおくがねむ東京とうきょう文京ぶんきょう小石川こいしかわ傳通院でんづういんにある。

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

通説つうせつにより、家光いえみつとのなか結婚けっこん当初とうしょから非常ひじょう険悪けんあくで、実質じっしつてき夫婦ふうふ生活せいかつ皆無かいむであり、結婚けっこんほどなくして事実じじつ上家うわやこうから離縁りえんされた。大奥おおおくから追放ついほうされて「御台みだいしょ」の称号しょうごう剥奪はくだつされ、江戸城えどじょうないなかまるあらたに御殿ごてんあたえられたのち、「なかまるさまなかまる殿どの)」とえられ、長期ちょうきにわたる軟禁なんきん生活せいかつおくらされるなど、家光いえみつ在世ざいせいちゅう終始しゅうしきらわれ、冷遇れいぐうされつづけ、家光いえみつとのあいだ子供こどももうけなかったという。

これにたいして、九州大学きゅうしゅうだいがく近世きんせい教授きょうじゅ·福田ふくだ千鶴ちづる著作ちょさく大奥おおおくつくったおんなたち』のなかで、孝子こうし結婚けっこんされてもなく精神せいしんてき疾病しっぺいわずらい、義父ぎふ秀忠ひでただによりいったんきょう予定よていであったが、結局けっきょく中丸なかまるにてごさせることになったことをあきらかにした。

現存げんそん良質りょうしつ史料しりょう資料しりょうから、実際じっさい孝子こうし家光いえみつわるなかることができない。しかも、おとうと鷹司たかつかさ信平しんぺい松平まつだいら信平しんぺい)が孝子こうしたよって江戸えどときには、家光いえみつ信平しんぺい歓迎かんげいし俸禄をあたえてかかえた。

さらに、家光いえみつ死去しきょするさい形見分かたみわけとして孝子こうしあたえられたのは、かね5000りょうであった(「江戸えど幕府ばくふ日記にっき」)。将軍しょうぐん正妻せいさい役割やくわりたさなかったものの、家光いえみつのその生活せいかつはこれによって確保かくほできたとえる。

家光いえみつ家綱いえつな綱吉つなよしみずからの息子むすこ孝子こうしとの養子ようし縁組えんぐみむすばなかったため、孝子こうし死去しきょしたさいはそのふくすることができなかったが、将軍家しょうぐんけつな家光いえみつより、母親ははおやじゅんじる手厚てあつ庇護ひご敬意けいい孝子こうしおくつづけていたとかる。

中年ちゅうねん孝子こうし実家じっか京都きょうといちもどってきたうえに、家光いえみつ三男さんなん綱重つなしげ婚礼こんれい積極せっきょくてき手配てはいしていたと福田ふくだ指摘してきしたように、おっと冷遇れいぐうされ、さびしい人生じんせいをやむをずにおくっていたといった印象いんしょうは、現在げんざいおおくの史料しりょうにより刷新さっしんされつつある。

歴代れきだい台所だいどころ位階いかいしたがえ、もしくはしたがえいちであるのにたいし、孝子こうし生涯しょうがいにわたり無位むい無官むかんであった。没後ぼつご89ねんて、徳川とくがわだい10代将軍しょうぐん家治いえはる時代じだいとなった明和めいわ2ねん1763とし)にしたがえいちおくられた[2]

関連かんれん作品さくひん

[編集へんしゅう]
げきちゅうでの孝子こうしは、紀州きしゅうはん藩主はんしゅ徳川とくがわ光貞みつさだえんじ小沢おざわ栄太郎えいたろう)の陰謀いんぼうからのがれるため、あえて偽装ぎそうし、せん愁尼として多羅尾たらお半蔵はんぞうえんじ千葉ちば真一しんいち)とともにたたかう、と設定せっていになっている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 『ビジュアル日本にっぽんヒロイン1000にん』175ぺーじ
  2. ^ Iemitsu ōoku nakanomaru no shōgai : kanō tan'yū to tsukushita tokugawa taihei no yo.. Kazuko Endō, 遠藤えんどう和子かずこ. Tōkyō: Koishikawayunitto. (2013). ISBN 4-88546-249-5. OCLC 840432087. https://www.worldcat.org/oclc/840432087