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東福寺とうふくじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
東福寺とうふくじ
本堂ほんどう仏殿ぶつでん
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま本町ほんまちじゅう丁目ちょうめ778
位置いち 北緯ほくい3458ふん37.38びょう 東経とうけい13546ふん26.74びょう / 北緯ほくい34.9770500 東経とうけい135.7740944 / 34.9770500; 135.7740944 (東福寺とうふくじ)座標ざひょう: 北緯ほくい3458ふん37.38びょう 東経とうけい13546ふん26.74びょう / 北緯ほくい34.9770500 東経とうけい135.7740944 / 34.9770500; 135.7740944 (東福寺とうふくじ)
山号さんごう とし日山ひやま
宗派しゅうは 臨済宗りんざいしゅう東福寺とうふくじ
寺格じかく 大本山だいほんざん
京都きょうと五山ごさんだいよん
本尊ほんぞん 釈迦如来しゃかにょらい
創建そうけんねん よしみただし2ねん1236ねん
開山かいさん 円爾えんに
開基かいき 九条くじょう道家どうか
正式せいしきめい とし日山ひやま 東福とうふくぜんてら
文化財ぶんかざい 三門さんもんそうばん太平たいへい御覧ごらん絹本けんぽんちょしょくじゅん師範しはんぞうほか(国宝こくほう
常楽じょうらくあん禅堂ぜんどう、偃月きょう絹本けんぽんちょしょく釈迦三尊しゃかさんぞんぞう木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ坐像ざぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
庭園ていえんくに名勝めいしょう
公式こうしきサイト 臨済宗りんざいしゅう大本山だいほんざん 東福寺とうふくじ
法人ほうじん番号ばんごう 8130005001320 ウィキデータを編集
東福寺の位置(京都市内)
東福寺
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京都きょうと名所めいしょうち どおりてんきょうべにかえで歌川うたがわ広重ひろしげ
つうてんきょう

東福寺とうふくじ(とうふくじ)は、京都きょうと東山ひがしやま本町ほんまちじゅう丁目ちょうめにある臨済宗りんざいしゅう東福寺とうふくじ大本山だいほんざん寺院じいん山号さんごうとし日山ひやま(えにちさん)。本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらい京都きょうと五山ごさんだいよんぜんてらとして中世ちゅうせい近世きんせいつうじてさかえた。近代きんだいはいって規模きぼ縮小しゅくしょうされたとはいえ、いまなお25かてら塔頭たっちゅう山内やまうち寺院じいん)をゆうするだい寺院じいんである。かつてはたけたけ釈迦如来しゃかにょらい座像ざぞうゆうし、山城やましろこく現在げんざい京都きょうと一部いちぶ)では雲居くもいてら大仏だいぶつ方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)にたかさをゆうする大仏だいぶつとして、威容いようほこっていた。中世ちゅうせいにおいては「南都なんと東大寺とうだいじ)のはんふつ雲居くもい雲居くもいてら)、雲居くもいはんふつ東福とうふく東福寺とうふくじ)」「南都なんと四半しはんほとけ[1]」とうたわれるなど、たけじゅうろくたけ東大寺とうだいじ大仏だいぶつたけ八丈はちじょう雲居くもいてら大仏だいぶつならしょうされていた(公称こうしょうだか寸法すんぽう実寸じっすんたかさでないことは後述こうじゅつ)。

東福寺とうふくじ宗派しゅうは雲水うんすいたちが修行しゅぎょうする専門せんもん道場どうじょうである一方いっぽうで、紅葉こうよう名所めいしょとして著名ちょめい観光かんこうスポットであり、あきにはすうじゅうまんもの観光かんこうきゃくおとずれる。域内いきないにはおおくの国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされためい建築けんちくゆうし「東福寺とうふくじ伽藍がらんめん(がらんづら)」ともばれる。

歴史れきし

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東福寺とうふくじ京都きょうと東山ひがしやま東南とうなんはし伏見ふしみさかいせっするあたりにあり、ひがしには泉涌寺せんにゅうじがある。このには延長えんちょう2ねん924ねん)に藤原ふじわら忠平ちゅうへいによっててられた藤原ふじわらてら法性寺ほっしょうじ巨大きょだい伽藍がらんがあった(法性寺ほっしょうじは、JR京阪けいはん東福寺とうふくじえきちかくにしょう寺院じいんとして存続そんぞくしている)。よしみただし2ねん1236ねん)、摂政せっしょう九条くじょう道家どうかは、九条くじょう菩提寺ぼだいじとして、このたけたけやく15メートル)の釈迦如来しゃかにょらいぞう安置あんちするだい寺院じいん建立こんりゅうすることを発願ほつがんし、てらめい奈良なら東大寺とうだいじ興福寺こうふくじ大寺おおてらから1ずつって「東福寺とうふくじ」とした。けんちょう元年がんねん1249ねん)に完成かんせいしたたけたけ釈迦如来しゃかにょらいぞう安置あんちする仏殿ぶつでん建設けんせつ工事こうじのべおう元年がんねん1239ねん)からはじめて、完成かんせいしたのはけんちょう7ねん1255ねん)であった。

九条くじょう道家どうか開山かいさん初代しょだい住職じゅうしょく)として、当時とうじそうでの修行しゅぎょうえて帰国きこくしていた禅僧ぜんそう円爾えんに諡号しごう:はせいいち国師こくし)をむかえた。円爾えんに駿河するがこく栃沢とちざわげん静岡しずおかあおい)のひとで、よしみただし元年がんねん1235ねん)、そうわたってみちさん(きんざん)きょうひじり万寿まんすぜんてら高僧こうそうじゅん師範しはん入門にゅうもん印可いんか師匠ししょうほういだというお墨付すみつき)をじん2ねん1241ねん)、日本にっぽん帰国きこくした。円爾えんにははじめ九州きゅうしゅう博多はかたうけたまわてんてらじゅうしたが、どうてら天台宗てんだいしゅう迫害はくがいけてちされたため、九条くじょう道家どうか援助えんじょ上洛じょうらくひろしもと元年がんねん1243ねん)に東福寺とうふくじ開山かいさんむかえられた。

こうしてとうてら天台てんだい真言しんごん禅宗ぜんしゅうさんむね兼学けんがく寺院じいんとして建設けんせつおこなわれたが、工事こうじは30ねん以上いじょうわたってつづき、ほうどう顕教けんぎょう寺院じいんの「講堂こうどう」にあたる)が完成かんせいしたのはぶんひさし10ねん1273ねん)であった。こうして五重塔ごじゅうのとうをもそなえただい伽藍がらん完成かんせいしたが、もとおう元年がんねん1319ねん)2がつだい火災かさい伽藍がらん全焼ぜんしょうし、たけたけ本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらいぞう焼失しょうしつした。

1976ねん昭和しょうわ51ねん韓国かんこく全羅南道ぜんらなんどうしんやすぐんさとしとう邑道徳島とくしまおき海底かいていから、大量たいりょうんだジャンクせんしんやす沈船)が発見はっけんされてげられた。積荷つみに木簡もっかんなかには「東福寺とうふくじ」「じゅうかん公用こうよう」などのられることから、このふね焼失しょうしつした東福寺とうふくじ造営ぞうえいりょう名目めいもくとして、鎌倉かまくら幕府ばくふ公認こうにん派遣はけんされた唐船とうせん寺社じしゃ造営ぞうえいりょう唐船とうせん)であることが推測すいそくされている。

こうして再建さいけんおこなわれたが、たてたけし元年がんねん1334ねん)1がつ方丈ほうじょう焼失しょうしつした。しかし、このとしとうてら京都きょうと五山ごさんれっせられる。のべもと元年がんねん1336ねん)8がつには兵火へいかにあってかり仏殿ぶつでん焼失しょうしつするもこの8がつのうちに再建さいけん着手ちゃくしゅする。たけたけ本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらいぞうふたた造立ぞうりゅうし、室町むろまち幕府ばくふ支援しえんもあって貞和さだかず3ねん1346ねん)6がつにはまえ関白かんぱく一条いちじょうけいどうにより仏殿ぶつでん上棟じょうとうしきおこなわれている。このさい東福寺とうふくじ兼学けんがく寺院じいんではなくぜんてらとして復興ふっこうおこなわれた。

かんおう2ねん1351ねん)には南朝なんちょう後村上天皇ごむらかみてんのう祈願きがんしょとなっている。

とうてらは「新大しんおお仏寺ぶつじ」ともばれてえた。至徳しとく3ねん1386ねん)、ほうどう再建さいけんされる。とおるとく3ねん1454ねん)には三重みえとう建立こんりゅうされた。室町むろまち時代ときよには足利あしかが義持よしもちによって修理しゅうりおこなわれている。

文明ぶんめい2ねん1470ねん)、応仁おうにんらん戦火せんかにあっていくつかの塔頭たっちゅう焼失しょうしつする。だいひさし6ねん1526ねん)にも焼失しょうしつするが、天正てんしょう年間ねんかん1573ねん - 1593ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしによって寺領じりょう1854せき安堵あんどされて再興さいこうされる。

江戸えど時代じだいになると徳川とくがわ家康いえやす徳川とくがわ家光いえみつによって修理しゅうりがなされている。

明治めいじ時代じだいとなり神仏しんぶつ分離ぶんりれいされると、70かいんちかくあった塔頭たっちゅうが25かいんになった。1881ねん明治めいじ14ねん12月16にち午後ごご8失火しっかのため出火しゅっか[2]、それが大火たいかとなり仏殿ぶつでんたけたけ本尊ほんぞん釈迦如来しゃかにょらいぞうほうどう方丈ほうじょう庫裏くりなどの主要しゅよう建物たてもの焼失しょうしつしてしまった。なお、東福寺とうふくじには巨大きょだいな「ふつしゅ」(現存げんそん部分ぶぶんながさ2メートル)が保管ほかんされており、きゅう本尊ほんぞんぞう左手ひだりて部分ぶぶんのみが明治めいじ火災かさいさいすくされたものと推定すいていされている[3]

にち戦争せんそうさいにはてらいき接収せっしゅうされ、ロシアぐん捕虜ほりょれる捕虜ほりょ収容しゅうようしょとなった。

1917ねん大正たいしょう6ねん)より仏殿ぶつでんほうどうねた本堂ほんどうてられ、塔頭たっちゅう万寿寺まんじゅうじから釈迦如来しゃかにょらいぞううつして本尊ほんぞんとし、1934ねん昭和しょうわ9ねん)に完成かんせいしている。現在げんざい本堂ほんどう方丈ほうじょう庫裏くりなどは明治めいじ以降いこう再建さいけんだが、国宝こくほう三門さんもんをはじめ、ひがし便所べんじょ)、浴室よくしつ禅堂ぜんどうなどはのこり、中世ちゅうせい建物たてもの現存げんそんしている。

東福寺とうふくじからは歴代れきだいおおくの名僧めいそう輩出はいしゅつしており、『げんとおるしゃくしょ』の著者ちょしゃであるとらせき室町むろまち時代じだいそうとして活躍かつやくし、その仏画ぶつが水墨すいぼく多大ただい影響えいきょうおよぼした吉山よしやまあきらちょうなどが著名ちょめいである。

境内けいだいにはそうからつたわった「つうてんモミジ」とばれるさんようかえでさきが3つにかれている)などかえでおおい。もとはさくらえられていたが「後世こうせい遊興ゆうきょうになる」という理由りゆう伐採ばっさいされ、かえでえられたものである。周辺しゅうへん歴史れきしてき風土ふうど特別とくべつ保存ほぞん地区ちく指定していされている。

1881ねん明治めいじ14ねん)に焼失しょうしつした仏殿ぶつでんきゅう本尊ほんぞんぞうわきさむらいぞうについて

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1881ねん明治めいじ14ねん)に焼失しょうしつした仏殿ぶつでん京都きょうと府立ふりつ京都きょうとがくれきいろどりかん きょう記憶きおくアーカイブ)。現存げんそんする三門さんもんおなじく、屋根やねさきのたわみをふせぐいわゆる「太閤たいこうばしら」が仏殿ぶつでんにももうけられていたことがかる。
1881ねん明治めいじ14ねん)に焼失しょうしつしたほうどうおもわれる建造けんぞうぶつ京都きょうと府立ふりつ京都きょうとがくれきいろどりかん きょう記憶きおくアーカイブ)
[参考さんこう]せんふつ光背こうはいれい法隆寺ほうりゅうじ西にし円堂えんどう安置あんちされる乾漆かんしつ薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう)。仏像ぶつぞう自体じたい制作せいさく年代ねんだいは8世紀せいき後半こうはんごろと推定すいていされているが、光背こうはいこう弘安ひろやす6ねん(1283ねん)のさく

先述せんじゅつのように、東福寺とうふくじには巨大きょだいな「ふつしゅ」(現存げんそん部分ぶぶんながやく2m)が保管ほかんされており、きゅう本尊ほんぞんぞう左手ひだりて部分ぶぶんのみが1881ねん明治めいじ14ねん12月16にち[4]仏殿ぶつでん火災かさいさいすくされたものと推定すいていされている[3]。これは創建そうけん本尊ほんぞんではなく、14世紀せいき再興さいこうされた本尊ほんぞんぞう遺物いぶつである。このふつしゅからもかるように、焼失しょうしつしたきゅう本尊ほんぞん座像ざぞうきょぞうであったとされ、『東福寺とうふくじ縁起えんぎ』では、きゅう本尊ほんぞん座像ざぞうたけは5たけやく15m)され、わきさむらい菩薩ぼさつぞうは2たけ5しゃくやく7.5m)とされている。戦国せんごく時代じだい来日らいにちしたルイス・フロイス東福寺とうふくじ訪問ほうもんし、現存げんそんしない東福寺とうふくじ仏殿ぶつでんきゅう本尊ほんぞんぞうわきさむらいについてフロイス日本にっぽん以下いか記述きじゅつのこしている。

東福寺とうふくじというはなはだ高貴こうきふる僧院そういんがある。(中略ちゅうりゃく)はなはだおおきくかつ華麗かれいな、すべ木造もくぞうみっつの寺院じいん建築けんちく三門さんもん仏殿ぶつでんほうどう)が相互そうごちか間隔かんかくっている。その壮大そうだいぜん建築けんちくは、非常ひじょうふとばしらうえてられ、地面じめんにはみがいた切石きりいしかれている。(みっつの建築けんちくの)うちのふたつはいちかいけんぎない。だいいちどう仏殿ぶつでん)には、すべぬりきんした異常いじょうおおきい釈迦しゃかぞうがある。釈迦しゃかはバラモンふう蓮華れんげましましているが、すべてその(釈迦しゃかぞうの)おおきさに相応そうおう調和ちょうわしている。そしてその背後はいごには、ふつよりもたか一種いっしゅ金属きんぞくせいいたがあり、それにはせんたい以上いじょうちいさい偶像ぐうぞういているが、いずれもやく1パルモのながさである。なかんずくよんじゅうたいすべぬりきんされ、さい幼児ようじよりややおおきいとおもわれる(おおきさである)。また釈迦しゃかぞう)よりややちいさいぞうたい、そのかたわらにある(わきさむらいの2たい菩薩ぼさつぞう)。同所どうしょにはよんてんおう)とばれるおそるべき風貌ふうぼうをしたおおいなるきょじんのようなよんたいべつぞうがある。日本人にっぽんじんによれば、それらは世界せかい四方しほう天国てんごくへの出入口でいりぐち武装ぶそうして警備けいびしているよんめい兵士へいし表現ひょうげんしているという。その一人ひとりけんち、(りょうあししたには非常ひじょうみにく悪魔あくまみつけ、(の一人ひとり)はくためのふでを、(さらに)(の一人ひとり)は、巻紙まきがみにしている。いずれもぬりきんされており、だいよん番目ばんめ(のもの)はほこ所持しょじしている。そしてばとがそのおおきい建物たてものはいらぬように、そとには屋根やねまでたっするあみられている。[5]

戦国せんごく時代じだい東福寺とうふくじにはフロイスのほかにも宣教師せんきょうし多々たたおとずれているが、ガスパル・ヴィレラは「寺院じいん中央ちゅうおうさんたい偶像ぐうぞうがあり、そのうちの一体いったい大男おおおとこ偶像ぐうぞうで、およそ15ブラサのたかさをゆうする」と記録きろくしている(ただし1ブラサがなんmかは諸説しょせつある)[6]

きゅう本尊ほんぞんぞうの5たけ真偽しんぎについて、永井ながい規男のりお引間ひきましゅんあきら論文ろんぶん東福寺とうふくじ室町むろまち再建さいけん仏殿ぶつでん復原ふくげん』では、実際じっさいは2たけ5しゃくやく7.5m)ではないかとしている[注釈ちゅうしゃく 1]両氏りょうし論文ろんぶんは、明治めいじ焼失しょうしつきゅう本尊ほんぞんぞう安置あんちしていた仏殿ぶつでんについての復原ふくげん検討けんとうであり、江戸えど時代じだいえがかれた絵図えずや、焼失しょうしつまえ撮影さつえいされた仏殿ぶつでん写真しゃしん発掘はっくつ調査ちょうさ成果せいかなどをもとに検討けんとうがなされているが、そのなか建物たてもの復元ふくげん必要ひつようなため(きゅう本尊ほんぞんぞう建物たてもの内部ないぶおさまらなければならないため)、きゅう本尊ほんぞんぞう意匠いしょうたか寸法すんぽうにも言及げんきゅうしている。まずきゅう本尊ほんぞんぞうたかさ5たけというのは、きゅう本尊ほんぞん座像ざぞうがったと仮定かていした場合ばあい寸法すんぽうであり、実際じっさいたかさ(座高ざこう)はその半分はんぶんの2たけ5しゃくやく7.5m)程度ていどであったとしている。そのようにかんがえると、現存げんそんするふつしゅ寸法すんぽうと、2たけ5しゃく座高ざこう想定そうていされるきゅう本尊ほんぞんぞうからだのサイズとのバランスの整合せいごうれるとする(座像ざぞうたかさを、がったさい想定そうてい寸法すんぽう表記ひょうきすることは、東大寺とうだいじ大仏だいぶつなどでもおこなわれていたことである)。つぎ光背こうはいたかさについては、想定そうていされる仏殿ぶつでん内部ないぶ空間くうかんたか関係かんけいはり干渉かんしょうしないたかさ)および、『』(工匠こうしょうたいら政隆まさたかあらわした建築けんちくしょ)にしるされる方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)の座高ざこう光背こうはいたか寸法すんぽうとの関係かんけいたか比率ひりつ)にかんする記述きじゅつ参考さんこうにし、東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞう光背こうはいたか寸法すんぽうは、ぞうだかとの比率ひりつからかんがえて44しゃくやく13m)程度ていどではないかとしている。またきゅう本尊ほんぞんぞう下廻したまわりについては江戸えど時代じだい作成さくせいされた図面ずめん文献ぶんけん記録きろくから、ゆかめんより「たかさ5しゃく長方形ちょうほうけい須弥壇しゅみだん」→「その中央ちゅうおうたかさ3しゃく八角はっかくがた須弥壇しゅみだん八角はっかくがた須弥壇しゅみだんについては論文ろんぶんちゅう根拠こんきょべられていないので、なんらかの史料しりょうもとづくものか、もしくは当時とうじ仏像ぶつぞう類例るいれいから想定そうていしたものかは不明ふめい)」→「きゅう本尊ほんぞんぞう」のじゅんになっていたのではないかとしている。上記じょうき寸法すんぽうきゅう本尊ほんぞんぞう想定そうていすると、しょ資料しりょうから復原ふくげんされる仏殿ぶつでん内部ないぶ上手うまおさまると両氏りょうし論説ろんせつしている(東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞう座高ざこう実際じっさいに5たけやく15m)あったと仮定かていすると、光背こうはいたかさはそれ以上いじょうとなるので、仏殿ぶつでん内部ないぶおさまらなくなるとしている)。

先述せんじゅつのように座像ざぞう大仏だいぶつたかさを実寸じっすん座高ざこう)ではなく、がったと仮定かていした場合ばあい寸法すんぽうたけ)で表記ひょうきすることは、大仏だいぶつでもおこなわれており、東大寺とうだいじ大仏だいぶつじゅうろくたけ実寸じっすんは14.7mなのでかなり誇張こちょうされている)、方広寺ほうこうじ大仏だいぶつじゅうろくたけ実寸じっすんは6たけ3しゃく)、雲居くもいてら大仏だいぶつ八丈はちじょう実寸じっすんは4たけとされる[8])と公称こうしょうしていた。万里ばんりしゅうきゅう詩集ししゅう梅花ばいか無尽蔵むじんぞうえいただし3ねん(1506ねんさく)」には「南都なんとはんふつ雲居くもい雲居くもいはんふつ東福とうふく[8]雲居くもいてら大仏だいぶつたけ東大寺とうだいじ大仏だいぶつ半分はんぶんで、東福寺とうふくじ大仏だいぶつたけ雲居くもいてら大仏だいぶつ半分はんぶん)」という記述きじゅつがあり、東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞうたけは、東大寺とうだいじ大仏だいぶつたけの4ぶんの1ということになる(東大寺とうだいじ大仏だいぶつたけ公称こうしょうだかは16たけで、東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞうたけ公称こうしょうだかは5たけなので、やく4ぶんの1である)。東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞうたけたけ実寸じっすんではなく、がったとした場合ばあい仮定かてい寸法すんぽうであることは、歴史れきし学者がくしゃもり克己かつみ指摘してきしているほか[9]日本にっぽん歴代れきだい仏師ぶっし業績ぎょうせきしるした「本朝ほんちょう大仏だいぶつせいりゅう系図けいず」の仏師ぶっしいんしん業績ぎょうせきには、「たてたけしさんねん東福寺とうふくじ仏殿ぶつでん釈迦しゃかこうたけしゃくどう脇士わきじ西にし弥勒みろくひがし聖観音しょうかんのんかくいちたけしゃくすんよんてんいちたけしゃくすん」とする記述きじゅつがある[10]

美術びじゅつ学者がくしゃ根立ねだち研介けんすけきゅう本尊ほんぞんぞう光背こうはいゆうしていたことは確実かくじつであるとしている。根立ねだちきゅう本尊ほんぞんぞう造立ぞうりゅうされた時代じだい仏像ぶつぞう作風さくふう正徳しょうとく元年がんねん(1711ねん)に出版しゅっぱんされた『山城やましろ名勝めいしょうこころざし』に「ひかりなかほとけひゃく」という記述きじゅつがあることからかんがえて、光背こうはい無数むすうかずほとけ装飾そうしょくされていたのではないかとしている(いわゆるせんふつ光背こうはい[3]。そしてその光背こうはい意匠いしょうは、かつての東大寺とうだいじ大仏だいぶつ光背こうはい意匠いしょうならったものではないかとしている(東大寺とうだいじ大仏だいぶつ光背こうはいは、創建そうけんほとけ500あまりみこと装飾そうしょくされていたとされるが[11]、2かいわた大仏だいぶつ再建さいけんで、ほとけかず削減さくげんされていき、現存げんそんのものは16たいである)。東福寺とうふくじにはぞうだか85cmほどの座像ざぞう仏像ぶつぞうで、背面はいめん平坦へいたんでその左右さゆうはしてつたまきたれているぞうが3保管ほかんされているが、これはかつてのきゅう本尊ほんぞんぞう光背こうはいほとけではないかとしている[3]先述せんじゅつのフロイスの記述きじゅつでは、光背こうはいほとけ小型こがたのものがやく1,000たい中型ちゅうがたのものが40たいいていたとされるが、ここでべているのは中型ちゅうがたほうほとけである)。また東福寺とうふくじ塔頭たっちゅう南明なんめいいん本尊ほんぞんは、東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞう光背こうはいほとけであるとする伝承でんしょうがある。上記じょうきについて根立ねだちは、南明なんめいいん本尊ほんぞん修繕しゅうぜんがなされてぞうふうわってしまっている部分ぶぶんもあるが、先述せんじゅつの3類似るいじした仕様しよう多々たたられるので、南明なんめいいん本尊ほんぞん東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞう光背こうはいほとけであろうとしている[3]。なおそくむねいんれいげんいんなど、東福寺とうふくじ塔頭たっちゅうきゅう本尊ほんぞんぞうしていた蓮台れんだい遺物いぶつとされるはちすべん所蔵しょぞうしているところおおい。これは明治めいじ焼失しょうしつさいきゅう本尊ほんぞんぞう遺品いひんであるのこったはちすべん形見分かたみわけとして東福寺とうふくじ塔頭たっちゅうに1まいずつ配布はいふしたためとされている。

きゅう本尊ほんぞんぞうしるししょうしるし)については、現存げんそんする左手ひだりては「あずかねがいいん(よがんいん)」であるので、右手みぎて通例つうれいどおり「ほどこせかしこしるし(せむいいん)」であろうとされる[3]

山城やましろ名勝めいしょうこころざし』の東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞう紹介しょうかいこうには、「釈迦しゃか眉間みけんぞうさえぎぞう其長すん」とする記述きじゅつがあり、きゅう本尊ほんぞんぞう眉間みけん小型こがた眉間みけんこもふつおさめられていたことがかる(現存げんそんせず)[3]大仏だいぶつ眉間みけん仏像ぶつぞうおさめることは大仏だいぶつでもおこなわれており、方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)は落雷らくらい焼失しょうしつしてしまったが、眉間みけんこもふつ現存げんそんしている。また『山城やましろ名勝めいしょうこころざし』にはきゅう本尊ほんぞんぞうわきさむらいとして、観音かんのん弥勒みろくのニ菩薩ぼさつぞう四天王してんのうぞう仏殿ぶつでん安置あんちされていたとする記述きじゅつがある。きゅう本尊ほんぞんぞうふつしゅおなじく、わきさむらいぞう焼失しょうしつまぬかれた遺物いぶつなんてん東福寺とうふくじ保管ほかんされており、「いずれかのぞうたぶさ全長ぜんちょう110cm)(おそらく菩薩ぼさつぞう一部いちぶであろうとされる。きゅう本尊ほんぞんぞうぞうよう不明ふめいだが、きゅう本尊ほんぞんぞう宝冠ほうかん釈迦如来しゃかにょらいたぶさい、宝冠ほうかんいただ釈迦如来しゃかにょらい)であればきゅう本尊ほんぞんぞう一部いちぶ可能かのうせいもある。)」「四天王してんのうぞう足下あしもとよこしまおに一部いちぶ」「文政ぶんせい12ねん(1829ねん)の補修ほしゅうめいのある多聞天たもんてんぞう手先てさき一部いちぶ」「菩薩ぼさつぞう持物もちものおもわれるはちすくき水瓶みずがめ」「四天王してんのうぞうのいずれかの持物もちものおもわれる戟の先端せんたん」などがある[3]

平戸ひらどはん藩主はんしゅ松浦まつうらきよしあらわした『甲子きのえね夜話やわ』には、東福寺とうふくじそうしるしむね目撃もくげきだんとして、1798ねん寛政かんせい10ねん)に発生はっせいした、方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)の落雷らくらいによる焼失しょうしつ過程かてい記述きじゅつされているが、そのなか方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ焼失しょうしつしたことで、はからずも東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞう京都きょうといちたかさのぞうになったことがべられている[12]。(しるしむね目撃もくげきだんについては、東福寺とうふくじから方広寺ほうこうじまでやく2kmで、東福寺とうふくじ境内けいだいから方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん落雷らくらい炎上えんじょう焼失しょうしつするさまが目視もくしできたことによる。しるしむね数日すうじつ大仏殿だいぶつでん火災かさい現場げんば訪問ほうもんしている。)また『甲子きのえね夜話やわ』には東福寺とうふくじ仏殿ぶつでんについて以下いか記述きじゅつがある。「東福寺とうふくじ仏殿ぶつでんひゃくねんまえきゅうじょう建立こんりゅうにてそのままなおり。殿しんがりじゅうななあいだあまりもあり。いん本尊ほんぞんぞうも、(方広寺ほうこうじ大仏だいぶつそとはこの本尊ほんぞんよりだいひなるはきょうちゅうにはうんでんふ。また此仏殿どのきょなれば、いえうらまでのぼ段梯子だんばしごありて、常々つねづねのぼるに、破風はふこうまでさんよんまわりおりまがりてこれをしつらえく。破風はふこう唐戸からとを構へ、ひとここより脊等にづべし。またこの唐戸からとのあたりのはしらざいひと姓名せいめいを鐫(ほ)りつけたる、所々ところどころゆ。また利刃りじんなどをもって斫(き)りつけたるとさましきあと往々おうおうあり。また山門さんもん材木ざいもくにも所々ところどころり。いんてらとえたれば、げんふ。大坂おおさかじんのとき、このてら関東かんとう陣所じんしょとなり、しょぐんそつここにたむろしゐたるなか、その佩刀はかせもって鐫創せしものとぞ。」

明治めいじ焼失しょうしつ仏殿ぶつでん写真しゃしんは、1881ねんつくられた京都きょうと名所めいしょ写真しゃしんじょうである『撮影さつえいかん 2』に掲載けいさいがある。それは京都きょうと府立ふりつ京都きょうとがくれきいろどりかん所蔵しょぞうしており、デジタルアーカイブで公開こうかいされている(ぶんさつ番号ばんごう1のコマ番号ばんごう18)。ただし樹木じゅもく仏殿ぶつでん正面しょうめんわっている関係かんけいで、仏殿ぶつでんだい部分ぶぶん樹木じゅもくかくれてうつっておらず、仏殿ぶつでん西端せいたん部分ぶぶんしかうつっていないという欠点けってんがある。東福寺とうふくじきゅう本尊ほんぞんぞう東大寺とうだいじ大仏だいぶつ匹敵ひってきするきょぞうで、それを安置あんちする仏殿ぶつでん東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんのようなきょだい建造けんぞうぶつであったと紹介しょうかいされることもあるが、上記じょうき写真しゃしんからかんがえて、すくなくとも仏殿ぶつでんについては、ちまたわれるほど巨大きょだい建造けんぞうぶつではなかったとされる。なおきゅう本尊ほんぞんぞう写真しゃしんについては、これまでのところ確認かくにんされていない(アーネスト・サトウアーネスト・フェノロサなど日本にっぽん文化ぶんか造詣ぞうけいふか外国がいこくじん焼失しょうしつ以前いぜん東福寺とうふくじ多々たたおとずれており、なんらかの資料しりょう残存ざんそんしている可能かのうせいはある)。

明治めいじ焼失しょうしつした仏殿ぶつでんいしずえ磐石ばんじゃくは、仏殿ぶつでんはしらみちをうかがいれる貴重きちょう資料しりょうだが、再建さいけんされた本堂ほんどう仏殿ぶつでんけんほうどう正面しょうめんわるイブキ根元ねもと周囲しゅういに、花壇かだんのように円形えんけいならべて無造作むぞうさかれている[注釈ちゅうしゃく 1]

境内けいだい

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三門みかど国宝こくほう
方丈ほうじょう
常楽じょうらくあん開山かいさんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
禅堂ぜんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
ひがし重要じゅうよう文化財ぶんかざい
偃月きょう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
浴室よくしつ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
月下げっかもんつきはなもん)(重要じゅうよう文化財ぶんかざい

三門さんもん本堂ほんどう方丈ほうじょう庫裏くりなどからなる主要しゅよう伽藍がらん中心ちゅうしんに25の塔頭たっちゅう寺院じいんがある。主要しゅよう伽藍がらんきたにはあらいだま澗(せんぎょくかん)という渓谷けいこくがあり、西にしからひがしくもきょうつうてんきょう、偃月きょうという3ほんはし東福寺とうふくじさんめいきょう)がかる。つうてんきょうは、本堂ほんどうからつうじる廊下ろうかがそのまま屋根やねきのはしとなったもので、この付近ふきんとく紅葉こうよう名所めいしょとしてられる。はしわたると、開山かいさん円爾えんにまつ常楽じょうらくあんがある。応仁おうにんらん戦火せんかまぬかれた貴重きちょう文化財ぶんかざい数多かずおお存在そんざいする。

  • 本堂ほんどう仏殿ぶつでんけんほうどう) - 1881ねん明治めいじ14ねん)に仏殿ぶつでんほうどうけたのち1917ねん大正たいしょう6ねん)から再建さいけん工事こうじにかかり、1934ねん昭和しょうわ9ねん)に完成かんせいした。入母屋いりもやづくりかいき。たかさ25.5メートル、間口まぐち41.4メートルのだい規模きぼどうで、昭和しょうわ木造もくぞう建築けんちくとしては最大さいだいきゅうのもの。天井てんじょうの「あおいりゅう」は堂本どうもと印象いんしょうふでである。本尊ほんぞん釈迦三尊しゃかさんぞんぞうちゅうみこと立像りつぞうわきさむらいおもねがた迦葉)は、明治めいじ14ねん火災かさい塔頭たっちゅう万寿寺まんじゅうじからうつされたもので、鎌倉かまくら時代じだいさくである[13]
  • 方丈ほうじょう - 1890ねん明治めいじ23ねん再建さいけん
  • ほんぼう庭園ていえん八相はっそうにわ」(くに名勝めいしょう) - 庭園ていえん近代きんだい造園ぞうえんじゅうもりさんれいによって1939ねん昭和しょうわ14ねん)にさくにわされ、方丈ほうじょうかこんで四方しほうはいされる。釈迦しゃか成道じょうどう表現ひょうげんし、八相はっそうにわ命名めいめいされている。鎌倉かまくら庭園ていえん質実しつじつ剛健ごうけん風格ふうかく基本きほんとし、これに近代きんだい芸術げいじゅつ抽象ちゅうしょうてき構成こうせいをとりれた枯山水かれさんすい庭園ていえんである[14]方丈ほうじょうよんしゅう庭園ていえんめぐらせたものはこの庭園ていえんのみである。庭園ていえん2014ねん平成へいせい26ねん)10がつくに名勝めいしょう指定していされた[15]造園ぞうえん当時とうじすなもん復元ふくげんされた[16]
    • 南庭なんてい - 荒海あらうみすなもんなか蓬莱ほうらい方丈ほうじょう、瀛洲(えいじゅう)、つぼはりよん仙島せんじま表現ひょうげんしたはいせきで、みぎかたには五山ごさん築山つきやまとして表現ひょうげんされている。
    • きたにわ - みなみ恩賜おんしもんないにあった敷石しきいし利用りようし、いしこけ幾何きかがくてき市松いちまつ模様もようはいしている。
    • 西にしにわ - サツキ刈込かりこみと砂地すなじおおきく市松いちまつ模様もようはいり、くずせき方形ほうけいんで井田いだ意図いとしている。
    • ひがしにわ - ひがし柱石ちゅうせきざい利用りようして北斗七星ほくとしちせい構成こうせいし、くも文様もんよう地割じわりはいしている。
  • 方丈ほうじょうとうもん - 正面しょうめん前庭ぜんていにある。1909ねん明治めいじ42ねん)に造営ぞうえいされ、昭憲皇太后しょうけんこうたいごうより下賜かしされたもの。
  • 書院しょいん
  • 庫裏くり - 1910ねん明治めいじ43ねん再建さいけん方丈ほうじょうとうもんとともに昭憲皇太后しょうけんこうたいごう恩賜おんし建築けんちくである。切妻きりづま正面しょうめんとする禅宗ぜんしゅうしき寺院じいん典型てんけい
  • つうてんきょう - 仏殿ぶつでんから常楽じょうらくあんいた渓谷けいこくあらいだま澗にけられたはしろうで、天授てんじゅ6ねん1380ねん)にはるみょうたにわた労苦ろうくからそうすくうためけたとつたえられる。1959ねん昭和しょうわ34ねん台風たいふう崩壊ほうかいしたが2ねん再建さいけん、そのさい橋脚きょうきゃく部分ぶぶん鉄筋てっきんコンクリートづくりとなった。
  • 常楽じょうらくあん - 主要しゅよう伽藍がらん北側きたがわ位置いちする。開山かいさんどうあきらどう中心ちゅうしんとしたいちかく文政ぶんせい2ねん1819ねん焼失しょうしつ文政ぶんせい9ねん1826ねん)までに再建さいけんされた。
    • 開山かいさんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 開山かいさん円爾えんにぞう安置あんちする。
    • あきらどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 中央ちゅうおう部分ぶぶんは2かいけん楼閣ろうかくとなっており、つてころもかく(でんねかく)としょうする。金閣きんかく鹿苑寺ろくおんじ)、銀閣ぎんかく慈照寺じしょうじ)、くもかく西本願寺にしほんがんじ)、呑湖かく大徳寺だいとくじ塔頭たっちゅう芳春よしはるいん)とならび「きょうかく」といわれている。
    • ひろしもんいん - 文政ぶんせい9ねん(1826ねん再建さいけん客殿きゃくでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)と庫裏くり重要じゅうよう文化財ぶんかざい)からなる。かつて京都きょうとじゅうひとつにかぞえられていた名刹めいさつもんてら名残なごりのこしている。
    • 枯山水かれさんすい庭園ていえん
    • 庭園ていえん
    • とうりょう書院しょいん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
    • 鐘楼しゅろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
    • 裏門うらもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
    • 楼門ろうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 愛染あいぞめどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - もとは東福寺とうふくじ塔頭たっちゅうさんせいてら愛染あいぞめどうであったが、1873ねん明治めいじ6ねん)に万寿寺まんじゅうじさんせいてら併合へいごうし、万寿寺まんじゅうじどうとなった。その万寿寺まんじゅうじ1886ねん明治めいじ19ねん)に東福寺とうふくじ塔頭たっちゅうとなったのち1937ねん昭和しょうわ12ねん)、愛染あいぞめどう万寿寺まんじゅうじよりうつされた。
  • 光明こうみょう宝殿ほうでん - 本堂ほんどう東側ひがしがわにある文化財ぶんかざい収蔵しゅうぞう施設しせつで、1981ねん昭和しょうわ56ねん)に完成かんせい東福寺とうふくじおよび塔頭たっちゅう寺院じいん文化財ぶんかざい収蔵しゅうぞうするが非公開ひこうかいである。
  • だいとし殿どの宗務しゅうむほんいん
  • 偃月きょう(えんげつきょう、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 庫裏くりより塔頭たっちゅうりゅうぎんあんそくむねいんいたさんはし渓谷けいこくかるたんそう切妻きりづまづくり・桟瓦葺かわらぶきの木造もくぞうきょうろうである。慶長けいちょう8ねん1603ねん)に再建さいけん1967ねん昭和しょうわ42ねん)に重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、日本にっぽんひゃくめいきょうにもえらばれている。
  • 三門みかど国宝こくほう[17]) - 現存げんそんするぜんてら三門さんもんとしては日本にっぽん最古さいこのもの[17]三門さんもん至徳しとく元年がんねん1384ねん)から再建さいけんはじまったが、完成かんせいしたのはおうひさし32ねん1425ねん)のことである[17]あいださんかいじゅうもん入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき南面なんめん[17]。「あいださん」とは正面しょうめんはしらあいだが5つ、うち中央ちゅうおう3あいだ通路つうろになっているという意味いみ、「じゅうもん」は2かいてのもんだが、「楼門ろうもん」とちがい、1かいと2かい境目さかいめにものきだしつくるものをいう。上層じょうそう釈迦如来しゃかにょらいじゅうろく羅漢らかん安置あんちする。
  • さいかち金剛こんごういん - 特別とくべつ由緒ゆいしょ寺院じいん
  • じゅうさんじゅう石塔せきとう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - かんひさし2ねん1343ねん)に九条くじょう道家どうか造立ぞうりゅう
  • 魔王まおう石堂いしどう - 鞍馬あんばてらまつられている魔王まおう石像せきぞうまつる。べつせつでは比良びらさん魔王まおうであるという。
  • 鐘楼しゅろう
  • しゃ成就じょうじゅみや - 祭神さいじん八幡やはたしん賀茂かもかみ稲荷いなりしん春日しゅんじつしん日吉ひよししんひろしもと元年がんねん1243ねん)に法性寺ほっしょうじ成就じょうじゅみや東福寺とうふくじ鎮守ちんじゅとした。
  • 浴室よくしつ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 前面ぜんめん入母屋いりもやづくり後方こうほう切妻きりづまづくりにしたたんそうほん瓦葺かわらぶき建物たてもので、国内こくないでは最大さいだい東大寺とうだいじ湯屋ゆやいでふるく、長禄ちょうろく3ねん1459ねん)にてられた京都きょうと最古さいこ浴室よくしつ建築けんちく遺構いこうとしてられる。内部ないぶ正面しょうめん板敷いたじきのうえに2つの風呂ぶろならび、後方こうほうがまぐちがある。
  • 禅堂ぜんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 貞和さだかず3ねん1347ねん再建さいけん豪壮ごうそう姿すがた往時おうじ隆盛りゅうせいがしのばれるたんそうかい(もこし)づけ切妻きりづまづくり建物たてもので、中世ちゅうせいより現存げんそんする最大さいだい最古さいこ禅堂ぜんどうである。
  • ひがし(とうす、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 室町むろまち時代じだい唯一ゆいいつ日本にっぽん最大さいだい最古さいこ禅宗ぜんしゅうしきひがし便所べんじょ)の遺構いこうで、おおくの修行しゅぎょうそう一斉いっせいようすことからひゃく雪隠せっちん(ひゃくせっちん)ともばれる。内部ないぶ中央ちゅうおう通路つうろをはさんで左右さゆう両側りょうがわ円筒えんとうつぼめる。2022ねん10がつ17にち午前ごぜん9時半じはんごろ運転うんてん操作そうさあやまった乗用車じょうようしゃひがし木製もくせいとびら大破たいはし、建物たてもの内部ないぶにまではいったところでまる事故じこ発生はっせいした[18]
  • おもえどおいけ
  • 勅使ちょくしもん京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • ろくもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - みなみ正面しょうめん伽藍がらん最南端さいなんたんにある鎌倉かまくら時代じだい前期ぜんきもんで、鎌倉かまくら幕府ばくふろく探題たんだいにあったものをうつしたことから、このばれている。
  • 日下くさかもん京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • 殿しんがり鐘楼しゅろう - るされていた梵鐘ぼんしょう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は西寺にしてら遺物いぶつだとされる。
  • 経蔵きょうぞう - 寛政かんせい6ねん1794ねん再建さいけん
  • くもきょう
  • 月下げっかもんつきはなもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - いた蟇股かえるまた(かえるまた)など細部さいぶにわたり鎌倉かまくら時代じだい特色とくしょくをよくのこ切妻きりづまづくりひのきがわ葺のよんきゃくもんで、ぶんひさし5ねん1268ねん)に一条いちじょうみのるけい常楽じょうらくあん建立こんりゅうしたさい亀山天皇かめやまてんのうから京都きょうと御所ごしょつきはなもん下賜かしされたとつたえられる。
  • 南大門なんだいもん京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • ちゅう大門おおもん京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • 北大門きただいもん京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • 仁王門におうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - もとは塔頭たっちゅうさんせいてら建物たてもの慶長けいちょう2ねん(1597ねん)の建立こんりゅう

塔頭たっちゅう

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りゅうぎんあん ひがしにわ
めずらしいあかすな枯山水かれさんすい じゅうもりさんれいさく
れいくもいん遺愛いあいせき書院しょいんより)
ぜんとしいん

文化財ぶんかざい

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ぜんいんがく国宝こくほう)のうち「方丈ほうじょう
かみほん淡彩たんさい東福寺とうふくじ伽藍がらん でん雪舟せっしゅうひつ重要じゅうよう文化財ぶんかざい
じゅん師範しはんぞう国宝こくほう

国宝こくほう

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  • 三門さんもん
  • 絹本けんぽんちょしょくじゅん師範しはんぞう - じゅん師範しはん(ぶしゅんしばん)は開山かいさん円爾えんににあたるそう高僧こうそう禅宗ぜんしゅうでは、弟子でし師匠ししょう肖像しょうぞうあたえることは、修行しゅぎょう完了かんりょうしたことのしるしであり、この肖像しょうぞう円爾えんにからあたえられたものである。よしみねん自賛じさんがあり、みなみそう時代じだい1238ねんさく
  • じゅん師範しはん墨蹟ぼくせき絹本けんぽん円爾えんに印可いんかじょう - 「墨蹟ぼくせき」は禅宗ぜんしゅう高僧こうそう筆跡ひっせき用語ようご。これも円爾えんに修行しゅぎょうあかしとしてからあたえられたものである。みなみそう時代じだい1237ねんふで
  • ぜんいんがくならびにぱい(はいじ)19ぶく
    • がく 2ぶく勅旨ちょくしうけたまわてんぜんてら大円だいえんさとし
    • がく 12ぶくひろしもんいん方丈ほうじょう、旃檀りんかい空室くうしつあずま西蔵とりぞう首座しゅざ書記しょき、維那、前後ぜんごきゃくよくさんおう
    • ぱい 5ぶく上堂かみどうしょうさん、秉払、ひろしせつせつ戒)
    • じゅん師範しはん染筆せんぴつがく目録もくろく 正和しょうわねん正月しょうがつじゅうはちにち1ぶく
    • 西堂せいどうとうしゅ連署れんしょ注文ちゅうもんあん じゅうがつがく目録もくろく)1かん
    • 大円だいえんさとしがく伝来でんらい証文しょうもんるい(8つう)1かん
  • そうばん太平たいへい御覧ごらん 103さつ
  • そうかん本義ほんぎすわえろくじょう 12さつ

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい絵画かいが彫刻ちょうこく工芸こうげいひん文書ぶんしょとうおおくは光明こうみょう宝殿ほうでん保管ほかんされているが一般いっぱん公開こうかいはされていない。また、絵画かいがとう一部いちぶ京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたくされている。

建造けんぞうぶつ

  • ろくもん
  • 浴室よくしつ
  • あずまつかさ
  • 禅堂ぜんどう
  • 偃月きょう
  • さんせいてら愛染あいぞめどう
  • 月下げっかもん
  • 二王門におうもん
  • じゅうさんじゅうとう石造せきぞう
  • 鐘楼しゅろう万寿寺まんじゅうじ所在しょざい
  • 東福寺とうふくじ常楽じょうらくあん 7むね
    • 開山かいさんどうあきらどう
    • 客殿きゃくでんひろしもんいん
    • とうりょう書院しょいん
    • 庫裏くり
    • 楼門ろうもん
    • 鐘楼しゅろう
    • 裏門うらもん

絵画かいが

  • 絹本けんぽんちょしょく五百羅漢ごひゃくらかん 45ぶく でんあきらちょうぴつ絹本けんぽんちょしょく五百羅漢ごひゃくらかん 2ぶく 狩野かの孝信たかのぶひつ[20][注釈ちゅうしゃく 2]
  • 絹本けんぽんちょしょく釈迦三尊しゃかさんぞんぞう
  • 絹本けんぽんちょしょくじゅん師範しはんぞう国宝こくほうじゅん師範しはんぞうとはべつほん[21]
  • 絹本けんぽんちょしょくおう和尚おしょうぞう
  • かみほんちょしょく白衣はくい観音かんのん[22]
  • 絹本けんぽんちょしょくひじりいち国師こくしぞう いぬいみねくもりさんがある
  • 絹本けんぽんちょしょくひじりいち国師こくしぞう 弘安ひろやすさんねんがつ自賛じさんがある
  • かみほんちょしょくひじりいち国師こくしぞう あかりちょうぴつ
  • かみほんすみ画聖がせいいち国師こくしぞう岩上いわかみぞうでんあきらちょうぴつ
  • 絹本けんぽんちょしょく藤原ふじわら道家どうかぞう かんひさし二年乾峯士曇賛( 絹本けんぽんちょしょく藤原ふじわら道家どうかぞう おうながさん十年業仲明紹賛)[23]
  • 絹本けんぽん墨画ぼくが維摩居士こじぞう
  • かみほん淡彩たんさい達磨だるま蝦蟇がまてつ拐像 3ぶく あかりちょうぴつ
  • かみほんちょしょくよんじゅうぞう 40ぶく あかりちょうぴつ
  • 絹本けんぽんちょしょくさんじゅうさん観音かんのん あかりちょうぴつ 31ぶく 絹本けんぽんちょしょくさんじゅうさん観音かんのん 狩野かのさんゆきふで 2ぶく[24][25]
  • かみほん淡彩たんさい東福寺とうふくじ伽藍がらん でん雪舟せっしゅうひつ
  • ひろしもんいん方丈ほうじょう障壁しょうへき 74めん
    • かみ本金ほんきんちょしょくやなぎまつゆう禽図 20めんふすま貼付ちょうふ16、ふすま貼付ちょうふ4)(しつちゅう
    • かみ本金ほんきんちょしょくさくらうめゆう禽図 14めんふすま貼付ちょうふ10、ふすま貼付ちょうふ4)(上間うえま
    • かみ本金ほんきんちょしょくませ秋草あきくさ 22めんふすま貼付ちょうふ18、ふすま貼付ちょうふ4)(上間うえましもあいだ
    • かみほん墨画ぼくがあしかり 2めんかべ貼付ちょうふ1、ふすま貼付ちょうふ1)(書院しょいん
    • かみほん墨画ぼくが淡彩たんさいから人物じんぶつ 8めんかべ貼付ちょうふ3、ふすま貼付ちょうふ4、ふすま貼付ちょうふ1)(書院しょいん
    • かみほん墨画ぼくが淡彩たんさい帰去来ききょらい 8めんふすま貼付ちょうふ)(書院しょいん
    • ほん墨画ぼくが淡彩たんさい楼閣ろうかく 4めんふすま貼付ちょうふ1、ふすま貼付ちょうふ3)(書院しょいん
    • ほん墨画ぼくがたき 1めんふすま貼付ちょうふ)(書院しょいん
    • ほん墨画ぼくがあしおぎ 3めんふすま貼付ちょうふ)(書院しょいん
    • ほん墨画ぼくがちく 2めんふすま貼付ちょうふ)(書院しょいん

彫刻ちょうこく

工芸こうげいひん

  • しゅうるし牡丹ぼたん唐草からくさぶんとおたく
  • 梵鐘ぼんしょう - 奈良なら時代じだい作品さくひん
  • 伝法でんぼうころも 5りょう明細めいさいこう)(かけからま帽子ぼうし袈裟けさつつめつてころもばこ[27]

書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ

出典しゅってん:2000ねんまでの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。

くに名勝めいしょう

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  • ほんぼう庭園ていえん

京都きょうと指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 勅使ちょくしもん
  • 日下くさかもん
  • 北大門きただいもん
  • ちゅう大門おおもん
  • 南大門なんだいもん

その文化財ぶんかざい

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  • 絹本けんぽんちょしょくだい涅槃ねはん たて15m よこ8m 日本にっぽん最大さいだい涅槃ねはんといわれる

拝観はいかん

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  • 料金りょうきん境内けいだい無料むりょう
    • つうてんきょう開山かいさんどう 大人おとな:400えん 小人こども:300えん
    • 方丈ほうじょう八相はっそう庭園ていえん 大人おとな:400えん 小人こども:300えん
  • 時間じかん 9 - 16 (11月のみ830ふん - 1630ふん
  • 休館きゅうかん 12がつ29にち - 1がつ3にち
  • 車椅子くるまいすでの見学けんがく
  • 駐車ちゅうしゃじょう バス6だい自家用車じかようしゃ30だい

アクセス

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周辺しゅうへん

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東福寺とうふくじ舞台ぶたいにした映画えいが

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b たけ真偽しんぎについて、それは釈迦如来しゃかにょらい座像ざぞうがったと仮定かていした場合ばあい寸法すんぽうで、実際じっさいは2たけ5しゃくやく7.5m)ではないかとするせつもある[7]
  2. ^ この五百羅漢ごひゃくらかんには、あかりちょう鎌倉かまくらまでおもむいてみなみそうから請来しょうらいされた『五百羅漢ごひゃくらかん』100ぶく模写もしゃしそれを50ぶくにアレンジしたという伝承でんしょうがある。のち豊臣とよとみ秀吉ひでよしにより鎌倉かまくらから京都きょうと大徳寺だいとくじうつされた原本げんぽん五百羅漢ごひゃくらかん重文じゅうぶん)はいまどうてらのこっており、そこには伝承でんしょう裏付うらづけるように東福寺とうふくじぞうおな構図こうずられる。

出典しゅってん

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  1. ^ 総合そうごう佛教ぶっきょうだい辞典じてん だい1かん』1987ねん p.96
  2. ^ 横山よこやま秀哉ひでや東福寺とうふくじ僧堂そうどう遺構いこうから禅宗ぜんしゅう伽藍がらん」(『ぜん文化ぶんか(42)』1966ねん 収録しゅうろく
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 京都きょうと地名ちめい平凡社へいぼんしゃ
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 京都きょうと角川書店かどかわしょてん
  • 国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  • 特集とくしゅう:東福寺とうふくじ中世ちゅうせい彫刻ちょうこく」(『MUSEUM』591ごう、2004ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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