つきあきら

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つきあきら
文化ぶんか10ねん - 安政あんせい5ねん11月16にち
つきあきら 肖像しょうぞう
宗久むねひさしのぶかいしのぶよろいひさまる
生地きじ 讃岐さぬきこく多度たどぐん吉原よしわらむら現在げんざい善通寺ぜんつうじ
ぼつ 薩摩さつまこく鹿児島かごしま近在きんざい吉野よしのむら
宗派しゅうは 法相ほうしょうむね
寺院じいん 清水寺きよみずでら成就じょうじゅいん
びょう 清水寺きよみずでら京都きょうと東山ひがしやま
みなみしゅうてら鹿児島かごしま
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つきあきら(げっしょう、文化ぶんか10ねん1813ねん)- 安政あんせい5ねん11月16にち1858ねん12月20にち))は、幕末ばくまつ尊皇そんのう攘夷じょうい僧侶そうりょ宗久むねひさしのぶかいしのぶよろいひさまる

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

文化ぶんか10ねん(1813ねん)、大坂おおさかまち医者いしゃ長男ちょうなんとして、讃岐さぬき吉原よしはら現在げんざい善通寺ぜんつうじ)にまれた。

文政ぶんせい10ねん1827ねん)、叔父おじくらかい伝手つてたよって京都きょうと清水寺きよみずでら成就じょうじゅいんはいり、天保てんぽう6ねん1835ねん住職じゅうしょくとなった。しかし尊王そんのう攘夷じょうい主義しゅぎ傾倒けいとうして公家くげたちや活動かつどうたちと関係かんけいち、徳川とくがわ家定いえさだ将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいではいちきょうくみしたため、幕府ばくふから危険きけん人物じんぶつとみなされた。西郷さいごう隆盛たかもり親交しんこうがあり、西郷さいごう尊敬そんけいする島津しまつ斉彬なりあきら急死きゅうししたとき、殉死じゅんししようとする西郷さいごうたいめるようにさとしている。

安政あんせい5ねん(1858ねん)8がつからはじまった安政あんせい大獄たいごくわれるとなり、西郷さいごうとともに京都きょうと脱出だっしゅつして土浦つちうらはん大久保おおくぼかなめ水戸みとはん京都きょうと留守居るすいやく鵜飼うかいよし左衛門さえもんらの支援しえんもと、しばらくだいさかとどまっていた。さらに老中ろうじゅう間部まべ詮勝あきかつ入京にゅうきょう先立さきだち、西郷さいごうつよ希望きぼうにより、有村ありむら俊斎しゅんさいらの助力じょりょくけて西郷さいごう故郷こきょうである薩摩さつまはん海路かいろのがれたが、はんでは厄介やっかいしゃであるつきあきら保護ほご拒否きょひし「日向ひなたこくおくり」をめいじる。これは、たん身柄みがら移送いそうするのではなく、薩摩さつまこく日向ひなたこく国境こっきょう殺害さつがいすることを意味いみしていた。これをったつきあきら覚悟かくごし、西郷さいごうとともに錦江湾きんこうわん入水じゅすいした。西郷さいごう奇跡きせきてき一命いちめいめたが、つきあきら死亡しぼうした。享年きょうねん46であった。「眉目びもく清秀きよひで威容いよう端厳たんげんにして、風采ふうさいおのずからひとけいしんく」とつたえられている。

はかは、つきあきらゆかりの清水寺きよみずでら京都きょうと東山ひがしやま)と西郷さいごう菩提寺ぼだいじであるみなみしゅうてら鹿児島かごしま)にあり、清水寺きよみずでらではつきあきら命日めいにちである11月16にちに「落葉らくよう」として法要ほうようおこなっている(新暦しんれき毎年まいとし同月どうげつ同日どうじつ実施じっし)。

なお、つきあきらおとうとしんうみ1821ねん - 1859ねん)は、あに死後しご成就じょうじゅいん住職じゅうしょくいだが、あになどとともに活躍かつやくしたことから捕縛ほばくされ、江戸えど獄死ごくしした(享年きょうねん39)。

辞世じせいうた[編集へんしゅう]

  • 大君おおきみの ためにはなにか しからむ 薩摩さつま瀬戸せとしずむとも
- 昭和しょうわ17ねん1942ねん発表はっぴょうの「愛国あいこくひゃくにんいちしゅ」に選定せんていされた。
直筆じきひつ香川かがわけん海岸かいがんてら宝物ほうもつかん保管ほかんされている。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]