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清閑寺せいかんじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
淸閑寺せいかんじ
清閑寺本堂(2019年11月撮影)
清閑寺せいかんじ本堂ほんどう(2019ねん11月撮影さつえい
清閑寺せいかんじ本堂ほんどう紅葉こうよう(2019ねん11月撮影さつえい地図
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま清閑寺せいかんじ中山ちゅうざんまち3
位置いち 北緯ほくい3459ふん23.2びょう 東経とうけい13547ふん18.4びょう / 北緯ほくい34.989778 東経とうけい135.788444 / 34.989778; 135.788444座標ざひょう: 北緯ほくい3459ふん23.2びょう 東経とうけい13547ふん18.4びょう / 北緯ほくい34.989778 東経とうけい135.788444 / 34.989778; 135.788444
山号さんごう うた中山ちゅうざん
宗旨しゅうし しん真言宗しんごんしゅう
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅうさとしやま
本尊ほんぞん じゅういちめん千手観音せんじゅかんのん
創建そうけんねん のべれき21ねん802ねん
開基かいき 紹継
中興ちゅうこうねん ちょういさお2ねん996ねん以前いぜん
中興ちゅうこう 佐伯さえきこうぎょう
正式せいしきめい うた中山ちゅうざん淸閑寺せいかんじ
別称べっしょう うた中山なかやま
法人ほうじん番号ばんごう 6130005002188 ウィキデータを編集
清閑寺の位置(京都市内)
清閑寺
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鐘楼しゅろうまえの「大西おおにしさとがつあきら王政おうせい復古ふっこ謀議ぼうぎきゅう趾」とられた石碑せきひ
高倉たかくら天皇陵てんのうりょう左側ひだりがわおよろくじょう天皇陵てんのうりょう右側みぎがわ後方こうほう

清閑寺せいかんじ(せいかんじ、きゅう字体じたい淸閑寺せいかんじ)は、京都きょうと東山ひがしやま清閑寺せいかんじ中山ちゅうざんまちにある真言宗しんごんしゅうさとしやま寺院じいん山号さんごううた中山ちゅうざん本尊ほんぞんじゅういちめん千手観音せんじゅかんのん。『平家ひらか物語ものがたり』の悲恋ひれんられる高倉天皇たかくらてんのうしょうとくきょくゆかりの寺院じいんである。

歴史れきし

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てらでんによるとのべれき21ねん802ねん)に天台宗てんだいしゅうてらとして比叡山ひえいざんの紹継法師ほうしによって創建そうけんされたがのち荒廃こうはいした[1]一條天皇いちじょうてんのう時代じだい986ねん - 1011ねん)に播磨はりままもる佐伯さえきこうぎょう[† 1]鎮護ちんご国家こっか道場どうじょうとして再興さいこうし、法華三昧ほっけざんまいどう宝塔ほうとう山神さんじんどうなどを建立こんりゅうし、菅原すがわら道真みちざねさくつたわるじゅういちめん千手観音せんじゅかんのん本尊ほんぞん安置あんちして「清閑寺せいかんじ」とごうした。

なお、『伊呂波いろはるいしょう』、『ひろえあくたしょう』、『雍州こころざし』では佐伯さえきこうぎょう創建そうけんしる[2][3][4]、『こうほうきょういん』では桓武かんむ天皇てんのう建立こんりゅうとする[5][6]

ちょういさお2ねん996ねん)に一條天皇いちじょうてんのうにより勅願ちょくがんてられっせられ[2]清閑寺せいかんじ法華ほっけどうした天台宗てんだいしゅう寺院じいんとして維持いじされていたが、大治おおはる4ねん1129ねん10月14にち火災かさい焼失しょうしつ[7]、その再建さいけんされる。

平安へいあん時代じだい末期まっきには、高倉天皇たかくらてんのう寵愛ちょうあいけたしょうとくきょく平清盛たいらのきよもりいかりにれてとうてら出家しゅっけさせられている。

安元やすもと2ねん1176ねん)にろくじょう上皇じょうこう崩御ほうぎょすると清閑寺せいかんじないほうむられ、つづいてうけたまわ5ねん1181ねん)に高倉たかくら上皇じょうこう崩御ほうぎょすると、おなじく清閑寺せいかんじないほうむられた。

たてひさし元年がんねん1206ねん)に堂宇どうう修造しゅうぞう改築かいちくされている[8]

鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきには東寺とうじ長者ちょうじゃみちわが僧正そうじょう[† 2]南北なんぼくあさ時代じだいには東寺とうじ長者ちょうじゃ21せいけんしゅん僧正そうじょう住持じゅうじしており、このころまでに天台宗てんだいしゅうから真言宗しんごんしゅう宗旨しゅうしえをしたとされる[† 3]最盛さいせいてらいき東西とうざい5まち南北なんぼく6まちひろ[5][† 4]隣接りんせつしている清水寺きよみずでらならぶほどのだい寺院じいんだった。法相ほうしょうむね興福寺こうふくじ南都なんと)の清水寺きよみずでら天台宗てんだいしゅう北嶺ほくれい)の末寺まつじだった清閑寺せいかんじとは寺領じりょう境界きょうかいあらそい(さかいしょうろん)による衝突しょうとつしょうじており、『皇帝こうていしょうけんれき3ねん1213ねん8がつ3にちじょう、『吾妻あづまきょう同年どうねん8がつ14にちじょうには、清閑せいかん寺領じりょうない清水寺きよみずでら法師ほうしがが堂宇どうう建立こんりゅうしたため、延暦寺えんりゃくじ衆徒しゅとひゃく余人よにん清水寺きよみずでらはらうため長楽寺ちょうらくじ集会しゅうかいしたむね記述きじゅつがあり[9][10]よくたてたもつ2ねん1214ねん8がつ13にち裁定さいていにより、その清水寺きよみずでら所領しょりょうとするわりに同年どうねん12月20にち清水寺きよみずでらぜん執行しっこう法橋ほっきょうかいげん還俗げんぞくさせられて佐渡さどこく配流はいるされている[11]。なお東山ひがしやまには「清閑寺せいかんじ」をかんする町名ちょうめいきゅう愛宕あたごぐん清閑寺せいかんじむら)がいくつか存在そんざいするが、地名ちめい清閑寺せいかんじ由来ゆらいし、かつてはぜんむら清閑寺せいかんじ境内けいだいだったが、中世ちゅうせいてらうん衰退すいたいにより分轄ぶんかつされている[12]

南北なんぼくあさ時代じだいたてたけし3ねん1336ねん6月8にち足利尊氏あしかがたかうじ清閑寺せいかんじ執行しっこうおよ衆徒しゅとたいして新田にった義貞よしさだ軍勢ぐんぜい誅伐ちゅうばつするため、京都きょうとひがし入口いりくちである久々ひさびさ目路めじ渋谷しぶや街道かいどう)と阿弥陀あみだみね阿弥陀あみだほう)を警固けいごするようめいじるなど[13]、かなりの勢力せいりょくほこっていた。尊氏たかうじ自身じしんかんおう2ねん1351ねん1がつ16にちとうてら天下てんか泰平たいへい武運ぶうん長久ちょうきゅう祈願きがん[14]文和ふみかず4ねん1355ねん2がつ18にち4がつ26にち両日りょうじつあそびにおとずれている[15]室町むろまち時代ときよにはとうてら塔頭たっちゅうである法華ほっけどう大勝たいしょういんみなみいん醍醐寺だいごじぞくしたほか[16]三宝さんぼういん僧正そうじょう山荘さんそう寺領じりょうない存在そんざいした[17]

東山ひがしやま山中さんちゅう威容いようほこった清閑寺せいかんじも、応仁おうにん2ねん1468ねん8がつ7にち応仁おうにんらんまれ、清水しみずさん布陣ふじんする西にしぐんによって堂舎どうしゃやぶ却されて荒廃こうはいした[18]。その慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)に根来寺ねごろじせいもり法師ほうし長谷寺はせでら2せいぬし)により再興さいこうされて本堂ほんどう再建さいけんされ、とおる15ねん1730ねん)には鐘楼しゅろう再建さいけんされている。なお、江戸えど時代じだい因幡いなばどう平等寺びょうどうじ兼帯けんたいてらだった[19]

明治維新めいじいしん明治めいじ4ねん1871ねん)、社寺しゃじりょううえともれい明治めいじ4ねん1がつ5にち太政官だじょうかん布告ふこく)によって寺領じりょうだい部分ぶぶん上地じょうちとして官有かんゆう編入へんにゅうされてらうんいちじるしく衰退すいたいし、明治めいじ34ねん1901ねん)には鎮守ちんじゅしゃ山王さんのう神社じんじゃ清閑寺せいかんじから独立どくりつし、東山ひがしやま清閑寺池田せいかんじいけだまち移転いてんしている。

昭和しょうわ初期しょき境内けいだい整備せいびおこなわれて現在げんざいいたる。

境内けいだい

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高倉天皇たかくらてんのう寵愛ちょうあいけたしょうとくきょくは、平清盛たいらのきよもりいかりにれてとうてら出家しゅっけさせられた。境内けいだいにはしょうとくきょく供養くようするたから篋印とうがあるほか、高倉たかくら天皇陵てんのうりょうないにもしょうとくきょくはかつたえるたから篋印とう存在そんざいする。鐘楼しゅろう上方かみがたにあった茶室ちゃしつ郭公かっこうてい」は、幕末ばくまつ安政あんせい5ねん1858ねん)に西郷さいごう隆盛たかもり清水寺きよみずでら成就じょうじゅいん住職じゅうしょくつきあきら上人しょうにん密談みつだんした場所ばしょだった。昭和しょうわ初期しょきには改修かいしゅうおこなわれたが腐食ふしょくによる老朽ろうきゅうすすんだため、平成へいせい3ねん1991ねん)7がつ解体かいたいされた。鐘楼しゅろうまえには「大西おおにしさとがつあきら王政おうせい復古ふっこ謀議ぼうぎきゅう趾」とられた石碑せきひっている。

成田なりたさん不動尊ふどうそん主監しゅかん清閑寺せいかんじ住職じゅうしょくねており[20]本堂ほんどううら不動明王ふどうみょうおうぞう安置あんちされている。

このほか、清閑寺せいかんじ住僧じゅうそう宗伯そうはくひらけかました清閑寺せいかんじしょう清水しみず)にかんして[21]清閑寺せいかんじかま発祥はっしょう」のこまさつ境内けいだい南東なんとうっている。

  • 本堂ほんどう - 慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)に根来寺ねごろじせいもり法師ほうしにより再建さいけん本尊ほんぞん毎年まいとし8がつだい2日曜日にちようび特別とくべつ公開こうかいされる。
  • 庫裏くり
  • 鐘楼しゅろう - とおる15ねん1730ねん)に再建さいけん
  • 山門さんもん
  • よういし - 前庭ぜんていには巨石きょせき一部いちぶ露出ろしゅつしているが、ここからおうぎひらいたように京都きょうと市街しがい眺望ちょうぼうでき、おうぎよう位置いちたることから「よういし」とばれている。現在げんざい玉垣たまがきかこわれて四隅よすみ御幣ごへいてられており、「ちかいをてるとねがいがかなう」とされる信仰しんこう対象たいしょうになっている。

うた中山ちゅうざん

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清閑寺せいかんじ山号さんごうにも使つかわれている「うた中山なかやまうた中山ちゅうざん)」は、現在げんざい清水寺きよみずでら音羽おとわたきからみなみかい、清閑寺せいかんじいた山路やまじしている。地名ちめい清閑寺せいかんじつばめ僧都そうず門前もんぜん美女びじょかけ、俗念ぞくねんこして清水しみずまでの道程どうていたずねたところ、美女びじょが「るにだにまよふしんのはかなくてまことのみちをいかでしるべき」とうたかえして姿すがたし、まれた場所ばしょ当地とうちであったというてらでんによる[22]。なお、『源平げんぺい盛衰せいすいまきがくろん山僧さんそうしょう清水寺きよみずでらなみかい稽山ごと」に「清閑寺せいかんじうた中山ちゅうざんまでせめよせたり」とあり[23]ふるくから使つかわれている地名ちめいだが、『やましゅう名跡みょうせきこころざし』ではしょうしるし、清閑せいかん寺山てらやま清水しみず山南さんなんりょうあるいはその西側にしがわみょうりゅうてら法華寺ほっけじ)のとする[24]。また、平安へいあん時代じだいから応仁おうにんらんごろまでの京都きょうとえがいた『中古ちゅうこ京師けいし内外ないがい地圖ちず』(もり幸安ゆきやす作図さくず)では、清水しみずさん山路やまじはさんだ西側にしがわやまを「うた中山ちゅうざん」としるしている[17]

清閑せいかん寺山てらやまふく周囲しゅうい一帯いったいは「古都ことにおける歴史れきしてき風土ふうど保存ほぞんかんする特別とくべつ措置そちほう」(古都こと保存ほぞんほう昭和しょうわ41ねん法律ほうりつだい1ごう)による「東山ひがしやま歴史れきしてき風土ふうど保存ほぞん区域くいきおよび「清水しみず歴史れきしてき風土ふうど特別とくべつ保存ほぞん地区ちく」に指定していされ[25]山林さんりん高台寺こうたいじさん国有こくゆうりんとして林野庁りんやちょう近畿きんき中国ちゅうごく森林しんりん管理かんりきょく京都きょうと大阪おおさか森林しんりん管理かんり事務所じむしょ管理かんりしている[26]。なお、ろくじょう天皇てんのうりょう高倉たかくら天皇陵てんのうりょうちょういきは、国有こくゆう財産ざいさんたる皇室こうしつよう財産ざいさん陵墓りょうぼ)として宮内庁くないちょうしょりょう月輪げつりん陵墓りょうぼかん事務所じむしょ管理かんりしている[27][28]

天皇陵てんのうりょう

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ろくじょう天皇てんのう清閑寺せいかんじりょう(2016ねん4がつ
ろくじょう天皇てんのう清閑寺せいかんじりょう(1921ねん以前いぜん

清閑寺せいかんじきゅう境内けいだいである清水しみず山南さんなんりょう清閑せいかん寺山てらやま[† 5]中腹ちゅうふくろくじょう天皇てんのう清閑寺せいかんじりょう(せいかんじのみささぎ)、高倉天皇たかくらてんのう清閑寺せいかんじりょう(のちのせいかんじのみささぎ)がある。りょうりょうちょういき面積めんせきは9889.44[29]周囲しゅうい215あいだやく390.9m)、手前てまえ高倉天皇たかくらてんのう清閑寺せいかんじりょう後方こうほう上段じょうだんろくじょう天皇てんのう清閑寺せいかんじりょうりょうりょうども土塀どべいかこわれて正面しょうめんひのきがわひらとうもんゆうしており[30]りょうないのぞことはできない。ちょういき南南西なんなんせい方向ほうこうけた長方形ちょうほうけいじょう谷間たにま位置いちするので、はいしょふくめてりょうりょうとも南南西なんなんせい正面しょうめんとしている。また、ちょういき全体ぜんたい金網かなあみじょうフェンスかこわれている。

清閑寺せいかんじりょう

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山腹さんぷくに4箇所かしょ[† 6]ある平坦へいたんさい上段じょうだん標高ひょうこう160m付近ふきん)に位置いちしており、宮内庁くないちょうによる公式こうしき形式けいしきまどかたかし[27]。『ひじりひかりろく』には南面なんめんえんふんしる[30]はいしょ標高ひょうこう137m付近ふきん東側ひがしがわ石段いしだんのぼり、高倉たかくら天皇陵てんのうりょうわき参道さんどうとおり、さらに3つの石段いしだんのぼった部分ぶぶん平坦へいたん東西とうざい26m、南北なんぼく16m、左下ひだりしたいた長方形ちょうほうけいじょう)になっており[29]直径ちょっけい7mのえんおか中央ちゅうおうに、間口まぐち12m、奥行おくゆき10mあまり南南西なんなんせいめんする方形ほうけい土塀どべいめぐらし、石段いしだんたりに位置いちする南面なんめん中央ちゅうおうひらめからもんもうけられている[31]

安元やすもと2ねん1176ねん7がつ17にち六條院ろくじょういんろくじょう上皇じょうこう)が清閑寺せいかんじ境内けいだいにあったくにつなきょう東山ひがしやまてい中納言ちゅうなごん藤原ふじわらくにつな邸宅ていたく[† 7])で崩御ほうぎょすると、どう22にち清閑寺せいかんじしょうどうほうむられた[32]のちしょうどううしなわれて所在しょざい不明ふめいとなり、江戸えど幕府ばくふ元禄げんろくとおるしょりょう調書ちょうしょでも、清閑寺せいかんじ境内けいだい高倉たかくら天皇陵てんのうりょうしょはあるが、六條ろくじょう天皇陵てんのうりょうしょ不明ふめいとした[31]

谷森たにもりよししんあらわした『山陵さんりょうこう』には「清閑寺せいかんじやま高倉たかくらいん御陵ごりょうきたさんだんもとじょうのかた竹林ちくりんのうちに、きたみなみろく十丈許西東百八十丈許のあいだ平坦へいたんなるあり」「土人どじん法華ほっけどうとよふ」としるされ[33]高倉たかくら天皇陵てんのうりょう北側きたがわ後方こうほうさんだんじょう竹林ちくりんない地元民じもとみんが「法華ほっけどう」と通称つうしょうする平坦へいたんがあり、この山麓さんろく代々だいだい猟師りょうしから、その竹薮たけやぶながさ5・6すん腐食ふしょくしたてつくぎ屋根やねかわら破片はへんろうかたまりしたといた谷森たにもりは、この場所ばしょが「法華ほっけどうきゅう趾で六條院ろくじょういん土葬どそうした御堂みどうあと推定すいていした。文久ぶんきゅうおさむりょうでは当所とうしょかんがえじょうして修補しゅうほおこない、竹薮たけやぶおおわれた平坦へいたん[34]ひらき、中央ちゅうおうちいさく方形ほうけい区画くかくつくられて山陵さんりょう本体ほんたいされ、冂のじょう土塀どべいもうけて南側みなみがわ鳥居とりいきずいた。また、竹薮たけやぶおおわれたみなみ斜面しゃめん階段かいだんじょう整地せいちされて参道さんどうつくられ、一段いちだん平坦へいたんひらかれてはいしょもうけられた[35]おさむりょう期間きかん文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)9がつから12月の4ヶ月かげつあいだ費用ひようは878りょうとされる[36]

明治めいじ28ねん1895ねん)10がつ清閑寺せいかんじりょう修理しゅうり起工きこうのため、奉告ほうこく勅使ちょくしとしててのひらてん岩倉いわくらつな参向さんこうさせて起工きこう奉告ほうこくさいおこなわれた[37]りょうないさい修理しゅうりではえんおか陵墓りょうぼ修造しゅうぞう鳥居とりい木製もくせいから石造せきぞう変更へんこうし、土塀どべい方形ほうけい改修かいしゅうして南面なんめんひらめからもんもうけ、明治めいじ29ねん1896ねん)12月に竣工しゅんこう修理しゅうり竣工しゅんこう奉告ほうこく勅使ちょくしとしててのひらてん粟津あわづしょくつな参向さんこうさせて竣工しゅんこう奉告ほうこくさいおこなわれた[38]

なお、津久井つくいきよしかげ平塚ひらつか瓢斎ひょうさい)があらわした『くび註陵一隅いちぐうしょう』では「あるうんこんしょう高倉たかくらみかどりょういちところそくしょうどうあとニメ而此みかどりょう也」と現在げんざい高倉たかくら天皇陵てんのうりょうしょうどうあとろくじょう天皇陵てんのうりょうであるとしるしている[39]

こう清閑寺せいかんじりょう

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高倉天皇たかくらてんのう清閑寺せいかんじりょう(2016ねん4がつ
高倉天皇たかくらてんのう清閑寺せいかんじりょう(1921ねん以前いぜん

山腹さんぷくに4箇所かしょ[† 6]ある平坦へいたんさい下段げだん標高ひょうこう145m付近ふきん)に位置いちしており、宮内庁くないちょうじょう形式けいしきほうたかし[28]はいしょ標高ひょうこう137m付近ふきん)から47だんある石段いしだんのぼった部分ぶぶん平坦へいたん東西とうざい24m、南北なんぼく21m)になっており[29]間口まぐち20m、奥行おくゆき15mの南南西なんなんせいめんする方形ほうけい土塀どべいめぐらし、石段いしだんたりに位置いちする南側みなみがわひらめからもんもうけられている[40]げんりょうりょういき中央西ちゅうおうにしりにあり、一辺いっぺん4.5m、たかさ0.5mの方形ほうけいだんで、法華ほっけどう基壇きだん一部いちぶ遺構いこうである可能かのうせいたかいとされる[41]。『ひじりひかりろく』には、高倉たかくらいんりょうたかさ2しゃくやく60cm)、2あいだはんやく4.5m)四方しほう上方かみがたかし大樹たいじゅがあり、りょうがわたから篋印とうしょうとくはかうとしるしている[30]

うけたまわ5ねん1181ねん1がつ14にち高倉たかくらいん高倉たかくら上皇じょうこう)がろくいけ殿どの崩御ほうぎょしたさいのこみことのりにより[42]同日どうじつよる清閑寺せいかんじしょうどううつされておこなわれ[43][44]東山ひがしやま山麓さんろく火葬かそうしょ火葬かそうされたのち法華ほっけどうほうむられた。文献ぶんけんには高倉たかくらいん法華ほっけどう清閑寺せいかんじ法華ほっけどうとうともしるされ[33]高倉たかくらいん法華ほっけどうには所領しょりょうあたえられ、きょうそう任命にんめいしてもりりょう祭祀さいしおこなわせていた。のち法華ほっけどううしなわれたが、寺僧じそうによる祭祀さいし継続けいぞくされており、元禄げんろくしょりょう探索たんさくでも所在しょざい明白めいはくで、幕末ばくまつ聖護院しょうごいんみや管理かんりにあった。

かつては木柵もくさくかこわれて東側ひがしがわ土塀どべいむねもんもうけられ、参道さんどう清閑寺せいかんじりに山道さんどうもうけられていた[45][† 8]文久ぶんきゅうおさむりょうで、基壇きだん周囲しゅういいししがらみもうけてみなみ石門せきもんはいし、もとしがらみ撤去てっきょして土塀どべいかこわれた。また、竹林ちくりんだったみなみ斜面しゃめんひらかれ、あらたに石段いしだん参道さんどうもうけられている[46]おさむりょう期間きかん文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)9がつから12月の4ヶ月かげつあいだ費用ひようは772りょうとされる[36]明治めいじ29ねん(1896ねん)12月、六條ろくじょう天皇てんのう清閑寺せいかんじりょう区別くべつしてげんりょうごう設定せっていされた。

鎮守ちんじゅしゃ

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やましゅう名跡みょうせきこころざし』では、清閑寺せいかんじ当初とうしょ天台宗てんだいしゅうぞくしていたので鎮守ちんじゅしゃとして山王さんのう神社じんじゃ山門さんもんない勧請かんじょうされていたとしるす。『京都きょうと役所やくしょこう大概たいがい覚書おぼえがき』の「氏子うじこさかい」には「みなみ妙法みょうほういん門跡もんぜきりょうやまげんきた清閑せいかん寺領じりょうげんひがし山科やましな花山はなやまむらかぎり西にし大仏だいぶつ境内けいだい渋谷しぶやまちげん」とあり、清閑寺せいかんじむら全域ぜんいき産土神うぶすながみだったとする[47]明治めいじ34ねん1901ねん)に清閑寺せいかんじから独立どくりつし、渋谷しぶや街道かいどう沿いの現在地げんざいち京都きょうと東山ひがしやま清閑寺池田せいかんじいけだまち)へ遷座せんざしている。きゅう社格しゃかく近代きんだい社格しゃかく制度せいど)は村社そんしゃ。  

周辺しゅうへん

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交通こうつう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 伊呂波いろはるいしょう』では「伊豫いよもりせいよんした佐伯さえき朝臣あそんおおやけぎょう」としるされている。
  2. ^ 徒然草つれづれぐさ』の作者さくしゃ兼好けんこう法師ほうしうたともで『徒然草つれづれぐさだい160だんに「清閑寺せいかんじ僧正そうじょう」として登場とうじょうする。
  3. ^ 京都きょうと山城やましろ寺院じいん神社じんじゃだい事典じてん』によると、せいもりによる復興ふっこう同時どうじ真言宗しんごんしゅう改宗かいしゅうしたとされる。
  4. ^ トル法とるほう表記ひょうき換算かんさんすると東西とうざいやく545m、南北なんぼくやく654mに相当そうとう
  5. ^ 清水しみずさん清閑せいかん寺山てらやまともに東山ひがしやまさんじゅうろくみねひとつにかぞえられる。
  6. ^ a b はいしょおよ清閑寺せいかんじ管理かんりする駐車ちゅうしゃじょうふくめると6箇所かしょ
  7. ^ 小松こまつたにせい林寺はやしじひがし現在げんざい東山ひがしやま清閑寺池田せいかんじいけだまち付近ふきんったとされる。
  8. ^ 参道さんどう清閑寺せいかんじ山門さんもんわき現存げんそんするが、一般いっぱんりは不可ふか

出典しゅってん

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  1. ^ やましゅう名跡みょうせきこころざしまきさん清閑寺せいかんじ
  2. ^ a b 伊呂波いろはるいしょうちょうとく2ねんとし だい日本にっぽん史料しりょうだいへん、875ぺーじ
  3. ^ じつあくたしょうした だいきゅうしょ寺部てらべほらいんおおやけけんへん
  4. ^ 『雍州こころざしまきだいよん 寺院じいんもんじょう 立命館大学りつめいかんだいがく図書館としょかん典籍てんせき閲覧えつらんデータベース
  5. ^ a b 京都きょうと山城やましろ寺院じいん神社じんじゃだい事典じてん』、405ぺーじ
  6. ^ こうほうきょういんだい廿にじゅうまき あかりおう4ねん3がつ13にちじょうこうほうきょういん 下卷げかん至文しぶんどう、1036ぺーじ
  7. ^ 百錬ひゃくれんしょうまきだいろく(『国史こくし大系たいけいだいひろえよんかん)、経済けいざい雑誌ざっししゃ、76ぺーじ
  8. ^ 全国ぜんこく寺院じいん名鑑めいかん 近畿きんきへん』、全日本ぜんにほん仏教ぶっきょうかい寺院じいん名鑑めいかん刊行かんこうかい、114-115ぺーじ
  9. ^ 皇帝こうていしょう」『ぐんしょ類従るいじゅうだい輯、経済けいざい雑誌ざっししゃ、381ぺーじ
  10. ^ 吾妻あづまきょうまきじゅう吾妻あづまきょう 吉川よしかわほんちゅうまき国書刊行会こくしょかんこうかい、90ぺーじ
  11. ^ 仁和寺にわじ日次にちじ」『ぞくぐんしょ類従るいじゅうだい29輯下 ざつぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、333ぺーじ
  12. ^ 角川かどかわ地名ちめいだい辞典じてん 26京都きょうと上巻じょうかん、828ぺーじ
  13. ^ 室町むろまち御内おんうちしょあんたてたけし3ねん6がつ8にちじょう だい日本にっぽん史料しりょうだいろくへんさん、513ぺーじ
  14. ^ 伊勢いせしょかんおう2ねん1がつ16にちじょう
  15. ^ けんしゅん僧正そうじょう日記にっき文和ふみかず4ねん2がつ18にちじょうどう4がつ26にちじょう
  16. ^ 醍醐寺だいごじ文書ぶんしょ』「醍醐だいご寺方てらかた管領かんりょうしょ門跡もんぜきとう目録もくろくおうなが6ねん3がつ22にちじょう
  17. ^ a b 中古ちゅうこ京師けいし内外ないがい地圖ちず : すめらぎれついとぐちあまりせん』(国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター所蔵しょぞう地図ちずデータベース)
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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