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流罪るざい

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つて藤原ふじわら信実しんじつうけたまわ久本ひさもと北野きたの天神てんじん縁起えんぎ絵巻えまき』。太宰府だざいふ流罪るざいとなった菅原すがわら道真みちざね恩賜おんし御衣おんぞなみだながしている。

流刑りゅうけい(るけい、りゅうけい)とは、刑罰けいばつひとつで、罪人ざいにん辺境へんきょうしまおくり、そのへの居住きょじゅう強制きょうせいする追放ついほうけい一種いっしゅ[1]日本にっぽんにおいては律令制りつりょうせいけいひと流罪るざい(るざい)がられ、流刑りゅうけい同義語どうぎごもちいられることもある。流刑りゅうけいしょすることは配流はいる(はいる)という。

歴史れきしてきには、本土ほんどでの投獄とうごくより、とおいところにのこされたほう自分じぶんいちにんちからだけできていかなければならなくなり、苦痛くつうがよりおも刑罰けいばつとされていた[2]。ほか、文化ぶんかじん戦争せんそう政争せいそうやぶれた貴人きじんたいして、死刑しけいにすると反発はんぱつおおきいと予想よそうされたり、助命じょめい嘆願たんがんされたりした場合ばあいもちいられた。配流はいる途中とちゅう目的もくてきひと生涯しょうがいえた流刑りゅうけいしゃおおいが、子孫しそんのこしたり、赦免しゃめんされたりしたれいもある。脱走だっそうくわだてた流刑りゅうけいしゃや、みなもと頼朝よりとも後醍醐天皇ごだいごてんのうナポレオン・ボナパルトのように流刑りゅうけいから再起さいきげた(一時いちじてき成功せいこうふくめて)政治せいじ武人ぶじんもいた。

日本にっぽんでは離島りとう僻地へきちへの文化ぶんか伝播でんぱおおきな役割やくわりたしたほか、海外かいがいではシベリアオーストラリアといった植民しょくみん労働ろうどうりょくおく強制きょうせい移民いみんとしても機能きのうした。

一般いっぱんてき日本語にほんごとしてはたんに「島流しまながし」という場合ばあいもある。英語えいごにおいては、イギリスにおいて導入どうにゅうされた国外こくがい流刑りゅうけいおく措置そちは「Penal transportation」とばれる。「Banishment」は流刑りゅうけいふく追放ついほうけい言葉ことばであり、「Exile」は追放ついほうけい一般いっぱん亡命ぼうめいふくむ。

日本にっぽんにおける流罪るざい

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歴史れきし

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記録きろくのこ最初さいしょ流刑りゅうけい允恭天皇いんぎょうてんのう時代じだい兄妹きょうだいじょうつうじたとして軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみこ木梨軽皇子きなしのかるのみこ伊予いよこくながしたものがある。古代こだい流刑りゅうけい特権とっけん階級かいきゅうたいする刑罰けいばつであり、政治せいじてき意味合いみあいがつよかった[3]古代こだいにはかみいかりにれたものをしまごろしにすることがよくおこなわれており、これが流罪るざい萌芽ほうがともされる[4]

律令制りつりょうせい導入どうにゅうともにもちいられた「流罪るざい」はりつにおけるけいの1つであり、畿内きないからの距離きょりによって「近流きんる(こんる/ごんる)」、「中流ちゅうりゅう(ちゅうる)」、「遠流おんる(おんる)」の3等級とうきゅう存在そんざいした。配流はいるさき近流きんる越前えちぜん安芸あき中流ちゅうりゅう信濃しなの遠流おんる佐渡さわたり伊豆いず隠岐おき阿波あわ土佐とさ常陸ひたちの6かこくがそれぞれ該当がいとうした[5]。927ねん成立せいりつした延喜えんぎしきによれば、追放ついほうされる距離きょり近流きんる300中流ちゅうりゅう560遠流おんる1500さととされている。実際じっさいには、罪状ざいじょう身分みぶん流刑りゅうけい状況じょうきょうなどにより距離きょり配流はいるさき変更へんこうされた[6]配流はいるされた人物じんぶつけいへの居住きょじゅう強制きょうせいされ、一定いってい期間きかん徒刑とけいせられた[4]平安へいあん時代じだいには流刑りゅうけいしゃ護送ごそう検非違使けびいしによっておこなわれていたが、末期まっきには武士ぶしによっておこなわれるようになった[7]。また平家ひらか政権せいけんでは藤原ふじわらしげるおやなどの流刑りゅうけい朝廷ちょうてい刑罰けいばつではなく平家ひらかによる私刑しけいであったともられており、武士ぶしによる流刑りゅうけいはこの時期じきはじめられたとられる[8]

鎌倉かまくら時代ときよはいると、流刑りゅうけいしゃ護送ごそうふくしょ業務ぎょうむ関東かんとうしょ公事こうじとされ、守護しゅご地頭じとうによっておこなわれるようになった[9]。また朝廷ちょうてい刑罰けいばつだけではなく幕府ばくふ刑罰けいばつとしても流罪るざいおこなわれるようになり、凡下ぼんげ御家人ごけにん対象たいしょうとなり、犯罪はんざいにはぬすみや殺人さつじんふくまれるようになった[9]

室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきから末期まっき戦国せんごく時代じだい)における流罪るざいは、幕府ばくふ秩序ちつじょ京都きょうと近辺きんぺんにしかおよんでいないことから、権力けんりょく闘争とうそうやぶれた公家くげ武者むしゃなどが流罪るざいけると、流刑りゅうけいにたどりくまでに武者むしゃ対象たいしょうとなっていのちとすことがおおく、流刑りゅうけいまで無事ぶじ辿たどくことも容易よういでないために、実質じっしつてきには死罪しざいとして機能きのうし、当時とうじもそのようにみなされていた(『日記にっきえいとおるろくねんがつじゅうろくにちじょう)。なかには、流罪るざいをいいわたした足利あしかが将軍しょうぐん手配てはいのもと、護送ごそうしている人物じんぶつによって殺害さつがいされたケースすらあった[10]。これらは、没落ぼつらくした人間にんげん庇護ひごする人物じんぶつがいなくなったと同時どうじ保護ほご対象たいしょうからはず略奪りゃくだつ対象たいしょうとなるのがたりまえ、という当時とうじ一般いっぱん常識じょうしきがその根柢こんていにあるとかんがえられている[11]。このため、後日ごじつ赦免しゃめんすることを前提ぜんてい流罪るざいをいいわた場合ばあいには、事前じぜん安全あんぜん確保かくほするための特別とくべつ政治せいじてき配慮はいりょ必要ひつようとしていた[12]

江戸えど時代じだいには流刑りゅうけい死刑しけいおも刑罰けいばつとされた[13]江戸えどまくりょうではじょうしょひゃくヶ条かじょうによって伊豆いずななとう島流しまながし(遠島えんとうけい)がさだめられていた[13]。また、天領てんりょう以外いがいはんでははんごとに状況じょうきょうことなるものの、おおむしまがあるはんでは島流しまながし、そうでないはんでは終身しゅうしんながろう一般いっぱんてきだった[13]流刑りゅうけいされた男性だんせいには妻帯さいたい禁止きんしされていたが、伊豆諸島いずしょとうにおいては水汲みずくまおんな機織はたおりおんなという事実じじつじょう現地げんちつま黙認もくにんされていた。現地げんちつまには犯罪はんざい防止ぼうし効果こうかがあるとかんがえられていた[14]

流刑りゅうけいとされた八丈島はちじょうじまでは「赦免しゃめんはな」という伝説でんせつまれた。赦免しゃめんはな無実むじつつみ抗議こうぎして餓死がししたとつたえられる僧侶そうりょ・慈運のはかにあった2ほんソテツはなであり、これをつけた流人るにんおおくに、不思議ふしぎ赦免しゃめんらせがとどいたとされる。また、おなじく流刑りゅうけいとされた三宅島みやけじまではリュウゼツランが「赦免しゃめんはな」とされる[15]

明治維新めいじいしん直後ちょくごには統一とういつされた全国ぜんこく刑法けいほうはなく、けんはんはそれぞれ別個べっこ刑罰けいばつおこなっていた[16]しん政府せいふ明治めいじ3ねん1870ねん)のしんりつ綱領こうりょうにてけいひとつとして流罪るざいさだめた。これに先立さきだつ11月にさだめられたじゅんりゅうほうにおいて流刑りゅうけい北海道ほっかいどう規定きていされ、刑期けいきは5ねん・10ねん・15ねんさん段階だんかいけられた[17]明治めいじ15ねん1882ねん)に施行しこうされた刑法けいほう規定きていされた流刑りゅうけい無期むき徒刑とけいぐもので無期むき有期ゆうきの2段階だんかいけられている。対象たいしょうは「内亂ないらんせきスルざい」の121じょう、「外患がいかんせきスルざい」の131~133じょうさだめられたものであり、「國事こくじせきスル重罪じゅうざい」にたいしてのみ適用てきようされた。最終さいしゅうてき流刑りゅうけい廃止はいしされるのは明治めいじ41ねん1908ねん)の刑法けいほう改正かいせいにより、本土ほんど刑務所けいむしょ整備せいびされてからである[15]

この時代じだい代表だいひょうてき流罪るざいとして、江戸えど末期まっきから明治めいじ初期しょきまでキリスト教徒きりすときょうとへの弾圧だんあつ一環いっかんで、政府せいふ村民そんみん流罪るざいにする浦上うらかみよんばんくずといった事件じけんこった。

中国ちゅうごくにおける流刑りゅうけい

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しゅんによる追放ついほう伝説でんせつ

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尚書しょうしょしゅんてんおよびそのあなでんあな安国やすくにのものとされる注釈ちゅうしゃく)にはしゅんきょうこう驩兜さんなえこん辺境へんきょう追放ついほうしたという伝説でんせつせられている。これを史実しじつとはみなせないものの、古代こだい中国ちゅうごく社会しゃかい共同きょうどうたいからの追放ついほうけいがあったことをしめすとともに、後世こうせいにおいてこのことが流刑りゅうけい日本にっぽんにおける流罪るざい)の根拠こんきょとなる先例せんれいとしてもちいられた事実じじつ(『しょみなもとつておよびからりつめいれいりつ4じょう疏)は注目ちゅうもくされる。とはいえ、古代こだい中国ちゅうごく社会しゃかいにあった追放ついほうけい小規模しょうきぼ国家こっかぐん分立ぶんりつして他国たこくへの逃亡とうぼうがしやすくなった春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだいにはほとんどおこなわれなくなったとみられ、後世こうせい流刑りゅうけいとの直接的ちょくせつてきなつながりは存在そんざいしないとされている。

流刑りゅうけい成立せいりつ以前いぜん

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はたかん以後いごに「遷刑」とばれるけい登場とうじょうする。このけいはしばしば流刑りゅうけい混同こんどうされることがおおいが、実際じっさいのこのけい社会しゃかいからの隔離かくり意図いとしたものであって、かならずしも遠方えんぽう辺境へんきょうへの移動いどう意味いみするものではなく、癩病らいびょうのような伝染でんせんびょう感染かんせん親不孝おやふこうなどを理由りゆうとしておこなわれる場合ばあいもあった(ねむとらしん法律ほうりつこたえとい」「ふうしき」)。また、当時とうじにくけいしろだんけいなどが死刑しけいつぎおもけいとされ、遷刑はそれよりもかるけいかんがえられていた。はたかんでは政治せいじはんはいされた諸王しょおうしょくうつされる事例じれいがみられるが、これもしょく辺境へんきょうだからではなく、周囲しゅういやまかこまれた隔離かくりされた土地とちであったからとみられている。前漢ぜんかんはいるとにくけい廃止はいしされたことにより、死刑しけい労役ろうえきけい中間ちゅうかんにあたるけい存在そんざいしないことになった。そこで一等いっとうげんずるけいとして登場とうじょうしたのが辺境へんきょう罪人ざいにんうつす「遷刑」とばれるけいである。ただし、これも辺境へんきょう隔離かくりして労役ろうえきけいふくさせることを目的もくてきとしており、後世こうせい流刑りゅうけいとはことなるニュアンスをふくんでいた。また、遷刑は(死刑しけいの)代替だいたいけいとしての立場たちばくずすことなく、後世こうせい流罪るざいのようにしゅけいなかった。

きたたかしによる「流刑りゅうけい」の導入どうにゅう

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きたたかしふとやわ16ねん(492ねん)、孝文たかふみみかどしたあらたなりつさだめられ、ここではじめて後世こうせいられるようなしゅけいとしての「流刑りゅうけい」が登場とうじょうする。あたらしいりつはこのとしの4がつ制定せいていされたが、翌月よくげつになって孝文たかふみみかどみことのりによってみずか追加ついかしたのが流罪るざい規定きていであったという(『しょまき7高祖こうそおさむ)。きたでは前代ぜんだい以来いらい遷刑が文成ふみなりみかど時代じだい終身しゅうしんけい要素ようそくわえた代替だいたいけい」として実施じっしされていた[注釈ちゅうしゃく 1]。が、ここにおいておもけいとしての流刑りゅうけい登場とうじょうして死刑しけいつぎおもけいとして位置いちづけられたのである。

そのきたたかし分裂ぶんれつしてきたひとしきたあまねとなるが、きたひとしでは労役ろうえきとして配流はいるさきでのいぬあたり兵役へいえき)とわされ、きたしゅうではつみおもさによってながされる距離きょり差異さい規定きていきたしゅうでは5段階だんかい)がくわえられた。両国りょうこくわって北朝ほくちょうさい統一とういつしたずい流罪るざいを1つの体系たいけいもと整理せいりし、さら南朝なんちょう征服せいふくしてその支配しはい地域ちいきにも流罪るざい適用てきようしていくことになる。ずい制度せいどではきたひとしきたあまね制度せいどぎつつも、いくつかの手直てなおしもはかられた。まず、つみによって配流はいるする距離きょりを3段階だんかい千里せんりせんひゃく千里せんり)に整理せいりして、また配流はいるさきでのきょさく兵役へいえきふくめた労役ろうえき)も最高さいこう3ねん徒刑とけいにおける最高さいこうけいひとしい)をあわせてした。そのうえいち配所はいしょ到着とうちゃくした流人るにん恩赦おんしゃがあっても特別とくべつなこと(流人るにん帰還きかん明記めいきされているなど)がないかぎりは郷里きょうりへの帰還きかんゆるされなかった。また、事情じじょうによってはきょさくすものの、配流はいるおこなわずにつみおうじたつえけいによって代替だいたいされるケースもあった(ずい独自どくじ規定きていである。以上いじょう、『ずいしょ刑法けいほうこころざし)。きたからずいにかけて、戸籍こせきなどが整備せいびされてみん特定とくてい居住きょじゅう拘束こうそくして地域ちいきへの自由じゆう移動いどう禁止きんしされる(役人やくにん商人しょうにんなどにならないかぎりは一生いっしょう故郷こきょうごす)ようになった状況じょうきょうで、たこともほか土地とち強制きょうせいてきうつされることは威嚇いかく効果こうかとしては相当そうとうのものがあった。また、本来ほんらい死刑しけい徒刑とけいなどの労役ろうえきけいとの中間ちゅうかん刑罰けいばつにあたるにくけい復活ふっかつ困難こんなん状況じょうきょうにおいて、儒教じゅきょう経典きょうてんである『尚書しょうしょ』の故事こじ根拠こんきょとしてもちいることが可能かのうな(儒教じゅきょう道徳どうとくてき見地けんちから批判ひはんされる可能かのうせいひくい)流刑りゅうけいあらたに導入どうにゅうすることで死刑しけい労役ろうえきけいあいだおおきすぎる格差かくさ解消かいしょうをもたらす意味いみもあった。

とうだい流刑りゅうけい

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つづとうだい流刑りゅうけい日本にっぽん流罪るざいにもおおきな影響えいきょうあたえたが、その特徴とくちょうとして以下いか原則げんそくがあったことがられている。

  • つみおもさによって千里せんりせんひゃくさん千里せんり距離きょりけられる(当時とうじとうの1やく560m)。その基準きじゅんかんしては、もと居住きょじゅうとするせつ長安ながやす)であるとするせつがある[注釈ちゅうしゃく 2]
  • 配所はいしょにて、首枷くびかせけられたうえで「きょさく」とばれる強制きょうせいてき労役ろうえきを1年間ねんかんされた。なお、さん千里せんり配流はいるしょせられたもののうち、とくつみおもものは「きょさく」は3年間ねんかんとされた。これを流刑りゅうけいしょうする。
  • 流人るにん妻妾さいしょうかなら配所はいしょ同行どうこうしなければならない。ただし、父祖ふそ子孫しそん希望きぼうによった。
  • きょさく終了しゅうりょうによって流刑りゅうけい終了しゅうりょうするが、そのまま現地げんち戸籍こせきされてそこのみんとしてのこ人生じんせいおくることになり、二度にどもと居住きょじゅう大抵たいてい故郷こきょうにあたる)にもどることはゆるされなかった。
  • 反逆はんぎゃくざいやそれに連座れんざしたもの死刑しけいから一等いっとうげんぜられて流刑りゅうけいになったものふくむ)をのぞいては、配所はいしょ到着とうちゃくから6(6かい新年しんねんむかえたのち、6ねんではないことに注意ちゅうい)をもの仕官しかんゆるされる(ただし、ほうによらず皇帝こうてい意向いこう流刑りゅうけいにされた場合ばあいは3のち短縮たんしゅくされる)。
  • ながれないかんひんかんじんは「りゅう」としょうされる5つのつみ流刑りゅうけい相当そうとうするつみ反逆はんぎゃくへの連座れんざ過失かしつによって父祖ふそ死傷ししょうさせるつみ十悪じゅうあくの1つである不孝ふこうつみ恩赦おんしゃにあってもなお流刑りゅうけい相当そうとうするつみ)に該当がいとうしないかぎりは実際じっさい流罪るざいにはならない。流罪るざい場合ばあい除名じょめいとなり、官爵かんしゃく剥奪はくだつされるが、きょさく免除めんじょされる。
  • 以上いじょう規定きていにもかかわらず、皇帝こうてい判断はんだんによって流罪るざい相当そうとうしないものけいおもくなって流刑りゅうけいにされたり、あらたに法令ほうれいとしてかく追加ついかされたりした。その場合ばあいりゅう相当そうとうしないかんじんでも除名じょめい官爵かんしゃく剥奪はくだつうえ配流はいるされることがある。また、刺史ししうえたすくべつちょうふみ司馬しばなどの地方ちほうにおける上級じょうきゅう補佐ほさかん)に貶官(左遷させん)させる処分しょぶん流刑りゅうけい代替だいたいとしておこなわれることもあった。

とはいえ、流刑りゅうけい自体じたい儒教じゅきょう経典きょうてん根拠こんきょとする刑罰けいばつであり、その規定きてい社会しゃかい実情じつじょうどころか、律令りつりょうほか規定きていとも整合せいごうせいける場合ばあいがあったために、とうにおける流刑りゅうけいしょ原則げんそく確定かくていしたさだかん11ねん(637ねん制定せいていさだかんりつ制定せいていからわずか3ねんには実際じっさい配所はいしょ特定とくてい辺境へんきょうしゅう限定げんていされることになり、距離きょりべつ規定きてい空文くうぶんした(つみおもければ、より辺境へんきょうながされることにはなっていたが)。また、流刑りゅうけいたいする恩赦おんしゃ配所はいしょ到着とうちゃくまえでなければ有効ゆうこうとされていなかったが、皇帝こうてい恩赦おんしゃさい流人るにんたいする恩赦おんしゃ文言もんごんくわえることで有効ゆうこうとされ、実際じっさい皇帝こうてい恩恵おんけいしめすために流人るにんかえもと居住きょじゅうへの帰還きかん)やりょううつりちか場所ばしょへの変更へんこう)がおこなわれていた。さら配流はいるされたかんじんが6のち再度さいど仕官しかんゆるされると原則げんそくじつ流刑りゅうけい本質ほんしつ矛盾むじゅんするものであった。すなわち、役人やくにん自由じゆう移動いどうきんじた律令りつりょう規定きてい対象たいしょうがいであり、再度さいど仕官しかんとなれば配所はいしょからはなれることが可能かのうであったからである。さら理論りろんじょうでは庶民しょみん商人しょうにんなどのようにかん特別とくべつ許可きょかがあれば移動いどう可能かのうであったから、配所はいしょにおけるきょさくえて現地げんち戸籍こせき登録とうろくされたもと流人るにんがその規定きてい利用りようして配所はいしょ可能かのうせいもあった。こうした矛盾むじゅん解消かいしょうするためにもと8ねん(813ねん)に6ねんぎた流人るにんかえみとめられ、開成かいせい4ねん(839ねん)に制定せいていされた開成かいせいしょうじょうかくによって法令ほうれいとして正式せいしき規定きていされた。もっとも、この時期じきになると地方ちほう政治せいじ混乱こんらんによって配所はいしょ地方ちほうかん流人るにん管理かんりおこなわずに、勝手かって配所はいしょして故郷こきょうもどったり他所よそ放浪ほうろうしたりすることがおこなわれ、終身しゅうしんにわたって配所はいしょいておくこと自体じたい困難こんなんになってきたことが背景はいけいとしてあった。そして、らん以後いご一層いっそう社会しゃかいてき混乱こんらんによって罪人ざいにん管理かんり困難こんなんになると、徒刑とけい流刑りゅうけいのような執行しっこう完了かんりょうまでに時間じかんがかかる刑罰けいばつ敬遠けいえんされ、つえけい死刑しけいによる対応たいおうへとうつることになった。

そうだい配流はいるはいぐん

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そうだいになると律令りつりょうふたた整備せいびされたものの、とうまつ以来いらい過酷かこく規定きていのこされたままであり、おおくの死刑しけいしゅうしていた。それを緩和かんわするためにされたのが、おりつえほうである。おりつえほうによって本来ほんらい流刑りゅうけいにされるものは脊杖(背中せなかちのけい)+在所ざいしょでの配役はいやく強制きょうせい労働ろうどう)1ねん流刑りゅうけい場合ばあいは3ねん女性じょせい場合ばあいじゅん4ねん(993ねん以降いこう免除めんじょ)によって代替だいたいされることになり、実際じっさい配流はいるされることはなくなった。わって、従来じゅうらい死刑しけいしょせられることになっていたもの通常つうじょうりつ本来ほんらい規定きていにはなく、特別とくべつほうであるかくみことのりによる規定きてい死刑しけいにあたるもの)が皇帝こうていとくおんによって、反対はんたい皇帝こうていによって配流はいる相当そうとうとされた政治せいじはんなどがその特旨とくしによって配流はいるされるようになった。

そうだいにおける配流はいるおよびその関連かんれん用語ようご一括いっかつする言葉ことばとして、へんはいはい隷というかたりがある(どちらも単独たんどく刑罰けいばつ言葉ことばではないことに注意ちゅうい)。へんはいは「配流はいるはいぐんへんかん」、はい隷は「配流はいるはいぐん配役はいやく」をまとめた総称そうしょうにあたる。

このうち、配流はいる本来ほんらいそうだいにおける流刑りゅうけい相当そうとうするものである。配流はいる先立さきだってまず死刑しけい判決はんけつされ、脊杖20かいとげめんかおずみほどこす)をおこなったのち皇帝こうてい死刑しけい判決はんけつ確認かくにんもとめるそうさいおこなうために、開封かいふうのち臨安)に赴闕(への護送ごそう)がおこなわれる。そこで罪人ざいにん皇帝こうてい謁見えっけんして皇帝こうていより「つみいちとうげんじる」とのみことのりさづけられ、枢密院すうみついんによって具体ぐたいてき配流はいるさきめられ(ただし、ここまでの手続てつづき形式けいしきとしてととのったものであり、けいとく3ねん(1006ねん以後いご冤罪えんざいうったえるものなど実際じっさいさい審理しんり必要ひつようせいがあるものをのぞいて皇帝こうていへの謁見えっけんはぶかれた)、とうだい同様どうようかん監視かんしした首枷くびかせをはめられて労役ろうえき従事じゅうじした。配流はいるさきとしてもっとも代表だいひょうてきであったのは、沙門しゃもんとうである。このしま現在げんざい山東さんとうしょう長島ながしまけんにある長山ながやま列島れっとうの1つびょうとうのこととされている。そう建国けんこく当初とうしょ北方ほっぽうにはちぎり勢力せいりょくがあり、南方なんぽうにはみなみとうえつなどが依然いぜんとして存在そんざいしていたためにそうした国境こっきょうちかくの辺境へんきょうへの配流はいるこのまれず、一部いちぶ西北せいほく辺境へんきょうなどへの配流はいるおこなわれていたものの、しゅとしてこのしまへの配流はいる中心ちゅうしんとなった。そう天下てんか平定へいてい南方なんぽうなどの辺境へんきょうへの配流はいるおこなわれることとなるが、依然いぜんとして沙門しゃもんとうへの配流はいるがもっともおもいものとしてあつかわれており、実際じっさいにその過酷かこく環境かんきょう自然しぜん環境かんきょう食糧しょくりょう不足ふそく守衛しゅえい官吏かんり兵士へいしからの虐待ぎゃくたいなど)からいのちとすものはめずらしくなく(『ぞくどおりかん長編ちょうへんまき119・けいゆう3ねん7がつからしじょう)、恩赦おんしゃたとしてもりょううつり対象たいしょうにしかなりなかった。なお、かんじん政治せいじてき理由りゆう配流はいるとされた場合ばあいには脊杖・とげめんおこなわれず、沙門しゃもんとうおくられた場合ばあいでもかんによる一定いってい保護ほご存在そんざいしていた(かずすくないものの、はいぐんにされたかんじんたいしても脊杖・とげめん免除めんじょされた)。その配流はいるとされたものでも咸平元年がんねん(998ねん沙門しゃもんとうながほどでもないとされたざつはんしゃ各地かくち軍隊ぐんたいしたおくられて労役ろうえき従事じゅうじし、けいゆう3ねん(1036ねん)には沙門しゃもんとうへの配流はいるしゃこうみなみとおあくしゅうぐん辺境へんきょう環境かんきょうわる地域ちいきぐん)にえて沙門しゃもんとうなが人数にんずうらした。

一方いっぽうはいぐんは赴闕ののち各地かくち軍隊ぐんたい配属はいぞくされ生涯しょうがいにわたって兵役へいえき刑罰けいばつである。かならずしも辺境へんきょうおくられるものではなく、初期しょきころ居住きょじゅうするしゅうにあるひさしぐんなどの雑用ざつようおこな部隊ぶたい配置はいちされることがおおかった。(なお、当時とうじ一般いっぱん兵士へいしでもとげめんして一般人いっぱんじんとの区別くべつおこなう習慣しゅうかんがあり、そうした意味いみでも軍隊ぐんたい労役ろうえきおこなわせる場所ばしょ相応ふさわしかった)。はいぐん原型げんけい配流はいるしゃ増加ぞうか対策たいさく一環いっかんとして太平たいへい興国こうこく9ねん(雍熙元年がんねん:984ねん)に窃盗せっとう死刑しけい相当そうとうするもの期限きげん労役ろうえきとしたのが起源きげんである。それが雍熙2ねん(985ねん)になって本城ほんじょうぐん居住きょじゅうしゅう軍隊ぐんたい)での労役ろうえき、すなわちはいぐん変更へんこうされたのである。その、咸平4ねん(1001ねん)になって福建ふっけんこうみなみこう浙・荊湖の強盗ごうとうもち仗(こうとう)はから遠隔えんかくであることを理由りゆうに赴闕をおこなわずにひゃく以上いじょうはなれたぐんへのはいぐんおこなわれるようになった。さらてんひじり8ねん(1030ねん)には千里せんり以上いじょうはなれたぐんへのはいぐん実施じっしされるれいあらわれる。こうした措置そち背景はいけいには凶悪きょうあくはんなかには居住きょじゅう軍隊ぐんたいはいぐんした場合ばあい現地げんち被害ひがいしゃ告発こくはつしゃおよびその関係かんけいしゃ被害ひがいくわえられる可能かのうせいがあることを危惧きぐしたとされている。このように、11世紀せいき前半ぜんはんになると配流はいる対象たいしょうとして軍隊ぐんたいくわえられ、はいぐん対象たいしょう遠隔えんかく移動いどうくわえられたことで、本来ほんらいべつ内容ないようであった配流はいるはいぐん区別くべつがほとんどうしなわれ、となわせであった沙門しゃもんとうへの配流はいる頂点ちょうてんとする序列じょれつ形成けいせいされることになった(ただし、沙門しゃもんとう自体じたいのちきむうばわれており、配流はいるさきからはえることになる)。

流刑りゅうけいとはことなるものの、共通きょうつうする部分ぶぶんゆうするけいとして配流はいるはいぐん一括いっかつにされたものとしてへんかん配役はいやくがある。へんかんつみおかしたものが、居住きょじゅうしゅうから隣接りんせつするしゅう、またはひゃく千里せんりなどの距離きょりはなれたしゅううつされて簿せきけて官吏かんり監視かんしかれる措置そちである。から以前いぜん流刑りゅうけいたような側面そくめんゆうしているものの、そう配流はいるはいぐんのような終身しゅうしん労役ろうえきされず、免除めんじょされるか有期ゆうき配役はいやくであり、当初とうしょ無期むきへんかん期間きかん終了しゅうりょう現地げんち戸籍こせきへの強制きょうせいてき編入へんにゅうもあったものの、きたそう末期まっきには恩赦おんしゃがなくても6ねんにはかえされる(事実じじつじょう刑期けいきを6ねんとする)ことが制度せいどされていた。これは、へんかんしゅたる目的もくてき罪人ざいにん居住きょじゅうからはなして監視かんしにおくことであり、遠隔えんかくへの追放ついほう労役ろうえき目的もくてきとした流刑りゅうけいとはことなる要素ようそったけいであったことによる。配役はいやく前述ぜんじゅつのように軍隊ぐんたいふくめた役所やくしょでの有期ゆうき強制きょうせい労働ろうどうであり、本来ほんらい流刑りゅうけいたいするおりつえほうもとづいた代替だいたいけいの1つとしてもおこなわれていた。

ヨーロッパ

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古代こだいギリシア

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とうかた追放ついほうにて、追放ついほうおこなっていた。

イギリス

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囚人しゅうじんせん英語えいごばんNeptune

18世紀せいき以前いぜんは、後代こうだい法典ほうてんばれる死刑しけいだらけの法律ほうりつ施行しこうされていた。17世紀せいきごろから法律ほうりつ見直みなおしがおこなわれ、1610ねんからアメリカが独立どくりつする1776ねんまで、えいりょうアメリカ流刑りゅうけいおこなわれていた[20]。アメリカが独立どくりつすると移送いそうさきがオーストラリアやタスマニアにわった[20]

1786ねんにイギリス政府せいふオーストラリアボタニーわん流刑りゅうけい植民しょくみん建設けんせつすることを決定けってい[21]以後いごファースト・フリート(最初さいしょ植民しょくみん船団せんだん)を皮切かわきりに流刑りゅうけいとなった。

1788ねんにはシドニー最初さいしょ入植にゅうしょくとしてロックスが兵士へいし囚人しゅうじんたちによって開拓かいたくされ、アーガイル・カット切通きりどおなどが囚人しゅうじんによってつくられた[22]

1829ねんには、タスマニアしゅうおくまれた流刑りゅうけいしゅうがイギリスせん奪取だっしゅし、日本にっぽん沿岸えんがん来航らいこうした牟岐浦むぎうら異国いこくせん漂着ひょうちゃく事件じけんきた[23]

ブリスベン元々もともと国内こくない流刑りゅうけいとして開拓かいたくされたまちで、1839ねん流刑りゅうけい制度せいど廃止はいしまで流刑りゅうけいとして利用りようされ、以後いご一般いっぱん移住いじゅうしゃ増加ぞうかしてオーストラリアだい3の都市としとなった[24]

1788ねんから1868ねんあいだに、イギリスとアイルランドからやく16まんにん囚人しゅうじんおくられた[25][26]

イギリスりょうインド帝国ていこく
インド独立どくりつ運動うんどうなどの政治せいじはんアンダマン諸島しょとうおくられた。

フランス

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18世紀せいき以前いぜんまで、déportation, transportation, relégation など用語ようごかたまっていなかった[27]

1670ねん犯罪はんざいおうれい13じょうでは、死刑しけい刑罰けいばつとして、終身しゅうしんガレーせんこげやくけい終身しゅうしん追放ついほうけい有期ゆうきガレーせんこげやくけい有期ゆうき追放ついほうけいさだめた[28]

18世紀せいき以降いこう流刑りゅうけい死刑しけいわりとして処刑しょけい方法ほうほうくわわった。その対象たいしょうおも政治せいじはんであった[27]

1791ねんけい法典ほうてんは、あらたな刑罰けいばつとして足枷あしかせけい(peine de fars)、独房どくぼうけい(peine de la gêne)、勾留こうりゅうけい(peine de la détention)、植民しょくみん流刑りゅうけい(peine de la déportation)、公民こうみんけん剥奪はくだつ(peine de la dégradation civique)とうさだめた[28]

1810ねんけい法典ほうてんは、名誉めいよけいとして8じょう首輪くびわけい(peine de carcan)、追放ついほうけい(peine de bannissement)、公民こうみんけん剥奪はくだつ(peine de la dégradation civique)とうのこした[28]。また、7じょう3こう追放ついほうけい(peine de déportation)をさだめ、そのけい方法ほうほうは17じょう帝国ていこく本土ほんどがい政府せいふさだめる場所ばしょうつして終身しゅうしんとどまるものとされた[28]。17じょうでは追放ついほうけい(peine de déportation)について、追放ついほうしゃ帝国ていこく本土ほんどもどった場合ばあいには身元みもと確認かくにんおこなったうえ終身しゅうしん強制きょうせい労働ろうどうしょするとされ、追放ついほうしゃ帝国ていこくぐん占領せんりょう拘束こうそくされたときは追放ついほうもどすと規定きていした[28]

1960ねん6がつ4にちフランスほうから流刑りゅうけいすべ除去じょきょされた[27]

追放ついほうけいきんじているくに

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おも流刑りゅうけい

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日本にっぽん

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律令りつりょう体制たいせいでは、りゅうには畿内きないからの距離きょりにより3つの分類ぶんるいがあった。近流きんる越前えちぜん安芸あきの2かこく中流ちゅうりゅう信濃しなのの2かこく遠流おんる佐渡さわたり伊豆いず隠岐おき安房あわ土佐とさ常陸ひたちの6かこく[30]のち上総かずさ下総しもうさ陸奥みちのく越後えちご出雲いずも周防すおう阿波あわ追加ついかされた[31]。また夷島えぞしまなど朝廷ちょうてい幕府ばくふ支配しはいおよばない「国外こくがい」とされる地域ちいきもあった。江戸えど時代じだいにかけて、八丈島はちじょうじまなどおおくのしま遠国おんごく中央ちゅうおう地方ちほうかく政権せいけんによって流刑りゅうけいとされた。

加賀かがはん流刑りゅうけいのひとつ、五箇山ごかさんきゅうたいらむらげん富山とやまけんみなみ砺市田向たむかい集落しゅうらくには、江戸えど時代じだい流刑りゅうけい小屋こや日本にっぽん唯一ゆいいつめずらしい民俗みんぞく文化財ぶんかざいとして復元ふくげんされているほか[32]きゅう上平かみたいらむら (富山とやまけん)には、流刑りゅうけいじん脱走だっそうふせぐために架橋かきょうわりに使つかわれたかごわた再現さいげんされている[33]

ヨーロッパ

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アメリカ

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おも流人るにん

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日本にっぽん

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以下いか時代じだいかかわらず流罪るざいになった著名ちょめいじん列挙れっきょする。

以下いか琉球りゅうきゅう

フランス
アメリカ
アル・カポネ

ひと以外いがい流罪るざい

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その

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  • 会社かいしゃ組織そしきにおいて地方ちほうとく重要じゅうようではない部署ぶしょ異動いどうさせられることを左遷させんというが、そのなかとく重要じゅうようせいひく部署ぶしょ遠方えんぽう地方ちほう都市とし郡部ぐんぶ沖縄おきなわ本島ほんとうふくめた離島りとうなど)の支店してんとう異動いどうあるいは子会社こがいしゃ下請したう会社かいしゃ出向しゅっこうさせられた場合ばあいを「島流しまながし」とたとえることがある。
  • 離島りとうでの里親さとおや留学りゅうがく制度せいど利用りようし、家庭かていない教員きょういん困難こんなん児童じどう留学りゅうがくさせることを現代げんだいの「島流しまながし」にたとえることがある。
  • インターネットの世界せかいにおいて、モバゲーではアカウントの一時いちじ停止ていし処分しょぶんけたひとのことを「島流しまながし」とぶことがある。
  • 日本にっぽんにおいて、飛行機ひこうき旅行りょこう愛好あいこうあいだでは、離島りとうから帰着きちゃくするさい搭乗とうじょう予定よてい航空機こうくうき天候てんこうとう理由りゆう到着とうちゃくせず欠航けっこうとなり、つづきの滞在たいざい余儀よぎなくされることを「島流しまながし」とぶことがある。 また、航空機こうくうき遅延ちえんにより大阪国際空港おおさかこくさいくうこう通称つうしょう伊丹空港いたみくうこう運用うんよう時間じかんぎたさいに、着陸ちゃくりく近隣きんりん関西国際空港かんさいこくさいくうこうへとダイバートすることも「島流しまながし」とぶことがある。
  • 山形やまがたけん飛島とびしまでは、かつて「地方ちほうながし」(じかたながし)とばれる島流しまながしとはぎゃくに、本州ほんしゅうなが風習ふうしゅうがあった[39]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このけい導入どうにゅうすることを主張しゅちょうしたみなもとがその根拠こんきょとしてもちいたのが『尚書しょうしょしゅんてんであり、儒教じゅきょう思想しそうてき要素ようそくわえられることで遷刑の性格せいかくおおきくえるとともにつづせいけいである流刑りゅうけい根拠こんきょとしてももちいられ、さらに「流刑りゅうけい流罪るざい)」の名称めいしょう由来ゆらいになったともかんがえられている[18]
  2. ^ 類似るいじ措置そちとして加害かがいしゃ強制きょうせいてき移住いじゅうさせて被害ひがいしゃ告発こくはつしゃおよびその家族かぞく接触せっしょくさせない「うつりきょう」とばれる措置そちがあることから流刑りゅうけい距離きょり居住きょじゅうからの距離きょりとするせつ通説つうせつとされている。一方いっぽうで、恩赦おんしゃとしてちか場所ばしょうつ措置そちおこなわれる場合ばあいがあり、(居住きょじゅうさん千里せんり以上いじょうはなれているケースなど)居住きょじゅうによってはさらに遠方えんぽうおくられる可能かのうせい指摘してきしてあくまでも皇帝こうていのいるから遠隔えんかくへの放逐ほうちく流刑りゅうけい目的もくてきであり、距離きょり基準きじゅんであるとする異説いせつもある。なお、この議論ぎろん畿内きない基準きじゅんとした日本にっぽん流罪るざい距離きょり中国ちゅうごくことなる仕組しくみ導入どうにゅうしたのか、中国ちゅうごく仕組しくみ日本にっぽんてはめたものかという問題もんだいにもつながることになる[19]
  3. ^ はじもとらん連座れんざして土佐とさながされ、帰京ききょう太政大臣だじょうだいじんのぼったが、うけたまわさんねん政変せいへんによって再度さいど尾張おわりながされた。
  4. ^ はじちょういさおへん出雲いずもながされたが、のちゆうみことのりによって但馬たじまかれた。

出典しゅってん

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  2. ^ 人物じんぶつ日本にっぽん歴史れきし5』105ぺーじ
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  4. ^ a b 流罪るざい」『百科ひゃっか事典じてんマイペディア』https://kotobank.jp/word/%E6%B5%81%E7%BD%AAコトバンクより2023ねん8がつ19にち閲覧えつらん 
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  6. ^ 小石こいし 2005, pp. 14–15.
  7. ^ 渡邉わたなべしゅん 2016, p. 40-41.
  8. ^ 渡邉わたなべしゅん 2016, p. 45-48.
  9. ^ a b 渡邉わたなべしゅん 2016, p. 38.
  10. ^ 清水しみず克行かつゆき喧嘩けんか両成敗りょうせいばい誕生たんじょう』P.94
  11. ^ 清水しみず克行かつゆき喧嘩けんか両成敗りょうせいばい誕生たんじょう』P.97-98
  12. ^ 清水しみず克行かつゆき室町むろまち幕府ばくふ流罪るざいこう」『室町むろまち社会しゃかい騒擾そうじょう秩序ちつじょ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2004ねんISBN 978-4-64202-834-9
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  14. ^ 小石こいし 2005, p. 105.
  15. ^ a b 小石こいし 2005, p. 39.
  16. ^ 手塚てづかゆたか 1954, p. 1-2.
  17. ^ 手塚てづかゆたか 1954, p. 19、21.
  18. ^ つじ 2010, pp. 26–31.
  19. ^ つじ 2010, pp. 78–88, 97.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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