伝 つて 藤原 ふじわら 信実 しんじつ 『承 うけたまわ 久本 ひさもと 北野 きたの 天神 てんじん 縁起 えんぎ 絵巻 えまき 』。太宰府 だざいふ へ流罪 るざい となった菅原 すがわら 道真 みちざね が恩賜 おんし の御衣 おんぞ を見 み て涙 なみだ を流 なが している。
流刑 りゅうけい (るけい、りゅうけい)とは、刑罰 けいばつ の一 ひと つで、罪人 ざいにん を辺境 へんきょう や島 しま に送 おく り、その地 ち への居住 きょじゅう を強制 きょうせい する追放 ついほう 刑 けい の一種 いっしゅ [ 1] 。日本 にっぽん においては律令制 りつりょうせい の五 ご 刑 けい の一 ひと つ流罪 るざい (るざい)が知 し られ、流刑 りゅうけい と同義語 どうぎご で用 もち いられることもある。流刑 りゅうけい 地 ち に処 しょ することは配流 はいる (はいる)という。
歴史 れきし 的 てき には、本土 ほんど での投獄 とうごく より、遠 とお いところに取 と り残 のこ された方 ほう が自分 じぶん 一 いち 人 にん の力 ちから だけで生 い きていかなければならなくなり、苦痛 くつう がより重 おも い刑罰 けいばつ とされていた[ 2] 。ほか、文化 ぶんか 人 じん や戦争 せんそう ・政争 せいそう に敗 やぶ れた貴人 きじん に対 たい して、死刑 しけい にすると反発 はんぱつ が大 おお きいと予想 よそう されたり、助命 じょめい を嘆願 たんがん されたりした場合 ばあい に用 もち いられた。配流 はいる の途中 とちゅう や目的 もくてき 地 ち で独 ひと り生涯 しょうがい を終 お えた流刑 りゅうけい 者 しゃ は多 おお いが、子孫 しそん を残 のこ したり、赦免 しゃめん されたりした例 れい もある。脱走 だっそう を企 くわだ てた流刑 りゅうけい 者 しゃ や、源 みなもと 頼朝 よりとも 、後醍醐天皇 ごだいごてんのう 、ナポレオン・ボナパルト のように流刑 りゅうけい 地 ち から再起 さいき を遂 と げた(一時 いちじ 的 てき な成功 せいこう も含 ふく めて)政治 せいじ 家 か ・武人 ぶじん もいた。
日本 にっぽん では離島 りとう ・僻地 へきち への文化 ぶんか 伝播 でんぱ に大 おお きな役割 やくわり を果 は たしたほか、海外 かいがい ではシベリア やオーストラリア といった植民 しょくみん 地 ち に労働 ろうどう 力 りょく を送 おく り込 こ む強制 きょうせい 移民 いみん としても機能 きのう した。
一般 いっぱん 的 てき な日本語 にほんご としては単 たん に「島流 しまなが し」という場合 ばあい もある。英語 えいご においては、イギリス において導入 どうにゅう された国外 こくがい の流刑 りゅうけい 地 ち に送 おく る措置 そち は「Penal transportation」と呼 よ ばれる。「Banishment」は流刑 りゅうけい を含 ふく む追放 ついほう 刑 けい を指 さ す言葉 ことば であり、「Exile」は追放 ついほう 刑 けい 一般 いっぱん や亡命 ぼうめい を含 ふく む。
記録 きろく に残 のこ る最初 さいしょ の流刑 りゅうけい は允恭天皇 いんぎょうてんのう 時代 じだい に兄妹 きょうだい で情 じょう を通 つう じた として軽大娘皇女 かるのおおいらつめのひめみこ と木梨軽皇子 きなしのかるのみこ を伊予 いよ 国 こく に流 なが したものがある。古代 こだい の流刑 りゅうけい は特権 とっけん 階級 かいきゅう に対 たい する刑罰 けいばつ であり、政治 せいじ 的 てき な意味合 いみあ いが強 つよ かった。古代 こだい には神 かみ の怒 いか りに触 ふ れたものを島 しま に捨 す て殺 ごろ しにすることがよく行 おこな われており、これが流罪 るざい の萌芽 ほうが ともされる[ 4] 。
律令制 りつりょうせい の導入 どうにゅう ともに用 もち いられた「流罪 るざい 」は律 りつ における五 ご 刑 けい の1つであり、畿内 きない からの距離 きょり によって「近流 きんる (こんる/ごんる)」、「中流 ちゅうりゅう (ちゅうる)」、「遠流 おんる (おんる)」の3等級 とうきゅう が存在 そんざい した。配流 はいる 先 さき は近流 きんる が越前 えちぜん と安芸 あき 、中流 ちゅうりゅう は信濃 しなの と伊 い 予 よ 、遠流 おんる は佐渡 さわたり ・伊豆 いず ・隠岐 おき ・阿波 あわ ・土佐 とさ ・常陸 ひたち の6か国 こく がそれぞれ該当 がいとう した[ 5] 。927年 ねん に成立 せいりつ した延喜 えんぎ 式 しき によれば、追放 ついほう される距離 きょり は近流 きんる 300里 り 、中流 ちゅうりゅう 560里 り 、遠流 おんる 1500里 さと とされている。実際 じっさい には、罪状 ざいじょう や身分 みぶん 、流刑 りゅうけい 地 ち の状況 じょうきょう などにより距離 きょり と配流 はいる 先 さき は変更 へんこう された。配流 はいる された人物 じんぶつ は刑 けい 地 ち への居住 きょじゅう を強制 きょうせい され、一定 いってい 期間 きかん の徒刑 とけい を科 か せられた[ 4] 。平安 へいあん 時代 じだい には流刑 りゅうけい 者 しゃ の護送 ごそう は検非違使 けびいし によって行 おこな われていたが、末期 まっき には武士 ぶし によって行 おこな われるようになった。また平家 ひらか 政権 せいけん 期 き では藤原 ふじわら 成 しげる 親 おや などの流刑 りゅうけい は朝廷 ちょうてい の刑罰 けいばつ ではなく平家 ひらか による私刑 しけい であったとも見 み られており、武士 ぶし による流刑 りゅうけい はこの時期 じき に始 はじ められたと見 み られる
鎌倉 かまくら 時代 ときよ に入 はい ると、流刑 りゅうけい 者 しゃ の護送 ごそう を含 ふく む諸 しょ 業務 ぎょうむ は関東 かんとう 諸 しょ 公事 こうじ とされ、守護 しゅご や地頭 じとう によって行 おこな われるようになった。また朝廷 ちょうてい の刑罰 けいばつ だけではなく幕府 ばくふ の刑罰 けいばつ としても流罪 るざい は行 おこな われるようになり、凡下 ぼんげ や非 ひ 御家人 ごけにん も対象 たいしょう となり、犯罪 はんざい には盗 ぬす みや殺人 さつじん も含 ふく まれるようになった。
室町 むろまち 時代 ときよ 中期 ちゅうき から末期 まっき (戦国 せんごく 時代 じだい )における流罪 るざい は、幕府 ばくふ の秩序 ちつじょ が京都 きょうと 近辺 きんぺん にしか及 およ んでいないことから、権力 けんりょく 闘争 とうそう に敗 やぶ れた公家 くげ や武者 むしゃ などが流罪 るざい を受 う けると、流刑 りゅうけい 地 ち にたどり着 つ くまでに落 お ち武者 むしゃ 狩 か り の対象 たいしょう となって命 いのち を落 お とすことが多 おお く、流刑 りゅうけい 地 ち まで無事 ぶじ に辿 たど り着 つ くことも容易 ようい でないために、実質 じっしつ 的 てき には死罪 しざい として機能 きのう し、当時 とうじ もそのようにみなされていた(『看 み 聞日記 にっき 』永 えい 享 とおる 六 ろく 年 ねん 五 ご 月 がつ 十 じゅう 六 ろく 日 にち 条 じょう )。中 なか には、流罪 るざい をい渡 いわた した足利 あしかが 将軍 しょうぐん の手配 てはい のもと、護送 ごそう している人物 じんぶつ によって殺害 さつがい されたケースすらあった[ 10] 。これらは、没落 ぼつらく した人間 にんげん は庇護 ひご する人物 じんぶつ がいなくなったと同時 どうじ に保護 ほご の対象 たいしょう から外 はず れ 、略奪 りゃくだつ の対象 たいしょう となるのが当 あ たり前 まえ 、という当時 とうじ の一般 いっぱん 常識 じょうしき がその根柢 こんてい にあると考 かんが えられている[ 11] 。このため、後日 ごじつ 赦免 しゃめん することを前提 ぜんてい に流罪 るざい をい渡 いわた す場合 ばあい には、事前 じぜん に身 み の安全 あんぜん を確保 かくほ するための特別 とくべつ な政治 せいじ 的 てき 配慮 はいりょ を必要 ひつよう としていた[ 12] 。
江戸 えど 時代 じだい には流刑 りゅうけい は死刑 しけい に次 つ ぐ重 おも い刑罰 けいばつ とされた[ 13] 。江戸 えど 幕 まく 領 りょう では御 ご 定 じょう 書 しょ 百 ひゃく ヶ条 かじょう によって伊豆 いず 七 なな 島 とう の島流 しまなが し(遠島 えんとう 刑 けい )が定 さだ められていた[ 13] 。また、天領 てんりょう 以外 いがい の藩 はん では藩 はん ごとに状況 じょうきょう が異 こと なるものの、概 おおむ ね島 しま がある藩 はん では島流 しまなが し、そうでない藩 はん では終身 しゅうしん 永 なが 牢 ろう が一般 いっぱん 的 てき だった[ 13] 。流刑 りゅうけい された男性 だんせい には妻帯 さいたい が禁止 きんし されていたが、伊豆諸島 いずしょとう においては水汲 みずくま 女 おんな ・機織 はたおり 女 おんな という事実 じじつ 上 じょう の現地 げんち 妻 つま が黙認 もくにん されていた。現地 げんち 妻 つま には犯罪 はんざい 防止 ぼうし の効果 こうか があると考 かんが えられていた。
流刑 りゅうけい 地 ち とされた八丈島 はちじょうじま では「赦免 しゃめん 花 はな 」という伝説 でんせつ が生 う まれた。赦免 しゃめん 花 はな は無実 むじつ の罪 つみ に抗議 こうぎ して餓死 がし したと伝 つた えられる僧侶 そうりょ ・慈運の墓 はか にあった2本 ほん のソテツ の花 はな であり、これを見 み つけた流人 るにん の多 おお くに、不思議 ふしぎ と赦免 しゃめん の知 し らせが届 とど いたとされる。また、同 おな じく流刑 りゅうけい 地 ち とされた三宅島 みやけじま ではリュウゼツラン が「赦免 しゃめん 花 はな 」とされる。
明治維新 めいじいしん の直後 ちょくご には統一 とういつ された全国 ぜんこく の刑法 けいほう はなく、府 ふ ・県 けん ・藩 はん はそれぞれ別個 べっこ の刑罰 けいばつ を行 おこな っていた。新 しん 政府 せいふ は明治 めいじ 3年 ねん (1870年 ねん )の新 しん 律 りつ 綱領 こうりょう にて五 ご 刑 けい の一 ひと つとして流罪 るざい を定 さだ めた。これに先立 さきだ つ11月に定 さだ められた準 じゅん 流 りゅう 法 ほう において流刑 りゅうけい 地 ち は北海道 ほっかいどう と規定 きてい され、刑期 けいき は5年 ねん ・10年 ねん ・15年 ねん の三 さん 段階 だんかい に分 わ けられた。明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )に施行 しこう された刑法 けいほう で規定 きてい された流刑 りゅうけい は無期 むき 徒刑 とけい に次 つ ぐもので無期 むき ・有期 ゆうき の2段階 だんかい に分 わ けられている。対象 たいしょう は「内亂 ないらん ニ關 せき スル罪 ざい 」の121条 じょう 、「外患 がいかん ニ關 せき スル罪 ざい 」の131~133条 じょう で定 さだ められたものであり、「國事 こくじ ニ關 せき スル重罪 じゅうざい 」に対 たい してのみ適用 てきよう された。最終 さいしゅう 的 てき に流刑 りゅうけい が廃止 はいし されるのは明治 めいじ 41年 ねん (1908年 ねん )の刑法 けいほう 改正 かいせい により、本土 ほんど の刑務所 けいむしょ が整備 せいび されてからである。
この時代 じだい の代表 だいひょう 的 てき な流罪 るざい として、江戸 えど 末期 まっき から明治 めいじ 初期 しょき までキリスト教徒 きりすときょうと への弾圧 だんあつ の一環 いっかん で、政府 せいふ が村民 そんみん を流罪 るざい にする浦上 うらかみ 四 よん 番 ばん 崩 くず れ といった事件 じけん が起 お こった。
『尚書 しょうしょ 』舜 しゅん 典 てん およびその孔 あな 伝 でん (孔 あな 安国 やすくに のものとされる注釈 ちゅうしゃく )には舜 しゅん が共 きょう 工 こう ・驩兜 ・三 さん 苗 なえ ・鯀 こん を辺境 へんきょう に追放 ついほう したという伝説 でんせつ が載 の せられている。これを史実 しじつ とはみなせないものの、古代 こだい 中国 ちゅうごく 社会 しゃかい に共同 きょうどう 体 たい からの追放 ついほう 刑 けい があったことを示 しめ すとともに、後世 こうせい においてこのことが流刑 りゅうけい (日本 にっぽん における流罪 るざい )の根拠 こんきょ となる先例 せんれい として用 もち いられた事実 じじつ (『魏 ぎ 書 しょ 』源 みなもと 賀 が 伝 つて および唐 から 律 りつ 名 めい 例 れい 律 りつ 4条 じょう 疏)は注目 ちゅうもく される。とはいえ、古代 こだい 中国 ちゅうごく 社会 しゃかい にあった追放 ついほう 刑 けい は小規模 しょうきぼ な国家 こっか 群 ぐん に分立 ぶんりつ して他国 たこく への逃亡 とうぼう がしやすくなった春秋 しゅんじゅう 戦国 せんごく 時代 じだい にはほとんど行 おこな われなくなったとみられ、後世 こうせい の流刑 りゅうけい との直接的 ちょくせつてき なつながりは存在 そんざい しないとされている。
秦 はた 漢 かん 以後 いご に「遷刑」と呼 よ ばれる刑 けい が登場 とうじょう する。この刑 けい はしばしば流刑 りゅうけい と混同 こんどう されることが多 おお いが、実際 じっさい のこの刑 けい は社会 しゃかい からの隔離 かくり を意図 いと したものであって、必 かなら ずしも遠方 えんぽう ・辺境 へんきょう への移動 いどう を意味 いみ するものではなく、癩病 らいびょう のような伝染 でんせん 病 びょう の感染 かんせん や親不孝 おやふこう などを理由 りゆう として行 おこな われる場合 ばあい もあった(睡 ねむ 虎 とら 地 ち 秦 しん 簡 「法律 ほうりつ 答 こたえ 問 とい 」「封 ふう 診 み 式 しき 」)。また、当時 とうじ は肉 にく 刑 けい ・城 しろ 旦 だん 刑 けい などが死刑 しけい の次 つぎ に重 おも い刑 けい とされ、遷刑はそれよりも軽 かる い刑 けい と考 かんが えられていた。秦 はた や漢 かん では政治 せいじ 犯 はん や廃 はい された諸王 しょおう が蜀 しょく の地 ち に移 うつ される事例 じれい がみられるが、これも蜀 しょく が辺境 へんきょう だからではなく、周囲 しゅうい を山 やま で囲 かこ まれた隔離 かくり された土地 とち であったからとみられている。前漢 ぜんかん に入 はい ると肉 にく 刑 けい が廃止 はいし されたことにより、死刑 しけい と労役 ろうえき 刑 けい の中間 ちゅうかん にあたる刑 けい が存在 そんざい しないことになった。そこで死 し 一等 いっとう を減 げん ずる刑 けい として登場 とうじょう したのが辺境 へんきょう に罪人 ざいにん を移 うつ す「徒 と 遷刑」と呼 よ ばれる刑 けい である。ただし、これも辺境 へんきょう に隔離 かくり して労役 ろうえき 刑 けい に服 ふく させることを目的 もくてき としており、後世 こうせい の流刑 りゅうけい とは異 こと なるニュアンスを含 ふく んでいた。また、徒 と 遷刑は(死刑 しけい の)代替 だいたい 刑 けい としての立場 たちば を崩 くず すことなく、後世 こうせい の流罪 るざい のように主 しゅ 刑 けい と成 な り得 え なかった。
北 きた 魏 たかし による「流刑 りゅうけい 」の導入 どうにゅう [ 編集 へんしゅう ]
北 きた 魏 たかし の太 ふと 和 やわ 16年 ねん (492年 ねん )、孝文 たかふみ 帝 みかど の下 した で新 あら たな律 りつ が定 さだ められ、ここで初 はじ めて後世 こうせい 知 し られるような主 しゅ 刑 けい としての「流刑 りゅうけい 」が登場 とうじょう する。新 あたら しい律 りつ はこの年 とし の4月 がつ に制定 せいてい されたが、翌月 よくげつ になって孝文 たかふみ 帝 みかど が詔 みことのり によって自 みずか ら追加 ついか したのが流罪 るざい の規定 きてい であったという(『魏 ぎ 書 しょ 』巻 まき 7下 か 、高祖 こうそ 紀 おさむ )。北 きた 魏 ぎ では前代 ぜんだい 以来 いらい の徒 と 遷刑が文成 ふみなり 帝 みかど の時代 じだい に終身 しゅうしん 刑 けい の要素 ようそ を加 くわ えた代替 だいたい 刑 けい 「徒 と 辺 べ 」として実施 じっし されていた[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。が、ここにおいて主 おも 刑 けい としての流刑 りゅうけい が登場 とうじょう して死刑 しけい の次 つぎ に重 おも い刑 けい として位置 いち づけられたのである。
その後 ご 、北 きた 魏 たかし は分裂 ぶんれつ して北 きた 斉 ひとし と北 きた 周 あまね となるが、北 きた 斉 ひとし では労役 ろうえき として配流 はいる 先 さき での戌 いぬ 辺 あたり (兵役 へいえき )と組 く み合 あ わされ、北 きた 周 しゅう では罪 つみ の重 おも さによって流 なが される距離 きょり に差異 さい を置 お く規定 きてい (北 きた 周 しゅう では5段階 だんかい )が加 くわ えられた。両国 りょうこく に代 か わって北朝 ほくちょう を再 さい 統一 とういつ した隋 ずい が流罪 るざい を1つの体系 たいけい の元 もと に整理 せいり し、更 さら に南朝 なんちょう を征服 せいふく してその支配 しはい 地域 ちいき にも流罪 るざい を適用 てきよう していくことになる。隋 ずい の制度 せいど では北 きた 斉 ひとし ・北 きた 周 あまね の制度 せいど を受 う け継 つ ぎつつも、いくつかの手直 てなお しも図 はか られた。まず、罪 つみ によって配流 はいる する距離 きょり を3段階 だんかい (千里 せんり ・千 せん 五 ご 百 ひゃく 里 り ・二 に 千里 せんり )に整理 せいり して、また配流 はいる 先 さき での居 きょ 作 さく (兵役 へいえき を含 ふく めた労役 ろうえき )も最高 さいこう 3年 ねん (徒刑 とけい における最高 さいこう 刑 けい と等 ひと しい)を併 あわ せて課 か した。その上 うえ で一 いち 度 ど 配所 はいしょ に到着 とうちゃく した流人 るにん は恩赦 おんしゃ があっても特別 とくべつ なこと(流人 るにん の帰還 きかん が明記 めいき されているなど)がない限 かぎ りは郷里 きょうり への帰還 きかん が許 ゆる されなかった。また、事情 じじょう によっては居 きょ 作 さく は課 か すものの、配流 はいる を行 おこな わずに罪 つみ に応 おう じた杖 つえ 刑 けい によって代替 だいたい されるケースもあった(隋 ずい 独自 どくじ の規定 きてい である。以上 いじょう 、『隋 ずい 書 しょ 』刑法 けいほう 志 こころざし )。北 きた 魏 ぎ から隋 ずい にかけて、戸籍 こせき などが整備 せいび されて民 みん を特定 とくてい の居住 きょじゅう 地 ち に拘束 こうそく して他 た の地域 ちいき への自由 じゆう な移動 いどう が禁止 きんし される(役人 やくにん や商人 しょうにん などにならない限 かぎ りは一生 いっしょう 故郷 こきょう で過 す ごす)ようになった状況 じょうきょう 下 か で、見 み たことも無 な い他 ほか の土地 とち へ強制 きょうせい 的 てき に移 うつ されることは威嚇 いかく 効果 こうか としては相当 そうとう のものがあった。また、本来 ほんらい 死刑 しけい と徒刑 とけい などの労役 ろうえき 刑 けい との中間 ちゅうかん の刑罰 けいばつ にあたる肉 にく 刑 けい の復活 ふっかつ が困難 こんなん な状況 じょうきょう において、儒教 じゅきょう の経典 きょうてん である『尚書 しょうしょ 』の故事 こじ を根拠 こんきょ として用 もち いることが可能 かのう な(儒教 じゅきょう 道徳 どうとく 的 てき 見地 けんち から批判 ひはん される可能 かのう 性 せい が低 ひく い)流刑 りゅうけい を新 あら たに導入 どうにゅう することで死刑 しけい と労役 ろうえき 刑 けい の間 あいだ の大 おお きすぎる格差 かくさ の解消 かいしょう をもたらす意味 いみ もあった。
続 つづ く唐 とう 代 だい の流刑 りゅうけい は日本 にっぽん の流罪 るざい にも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたが、その特徴 とくちょう として以下 いか の原則 げんそく があったことが知 し られている。
罪 つみ の重 おも さによって二 に 千里 せんり ・二 に 千 せん 五 ご 百 ひゃく 里 り ・三 さん 千里 せんり の距離 きょり に分 わ けられる(当時 とうじ の唐 とう の1里 り は約 やく 560m)。その基準 きじゅん に関 かん しては、元 もと の居住 きょじゅう 地 ち とする説 せつ と都 と (長安 ながやす )であるとする説 せつ がある[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。
配所 はいしょ にて、首枷 くびかせ を付 つ けられた上 うえ で「居 きょ 作 さく 」と呼 よ ばれる強制 きょうせい 的 てき な労役 ろうえき を1年間 ねんかん 科 か された。なお、三 さん 千里 せんり の配流 はいる に処 しょ せられた者 もの のうち、特 とく に罪 つみ が重 おも い者 もの は「居 きょ 作 さく 」は3年間 ねんかん とされた。これを加 か 流刑 りゅうけい と称 しょう する。
流人 るにん の妻妾 さいしょう は必 かなら ず配所 はいしょ に同行 どうこう しなければならない。ただし、父祖 ふそ ・子孫 しそん は希望 きぼう によった。
居 きょ 作 さく の終了 しゅうりょう によって流刑 りゅうけい は終了 しゅうりょう するが、そのまま現地 げんち の戸籍 こせき に附 ふ されてそこの民 みん として残 のこ る人生 じんせい を送 おく ることになり、二度 にど と元 もと の居住 きょじゅう 地 ち (大抵 たいてい は故郷 こきょう にあたる)に戻 もど ることは許 ゆる されなかった。
反逆 はんぎゃく 罪 ざい やそれに連座 れんざ した者 もの (死刑 しけい から死 し 一等 いっとう を減 げん ぜられて流刑 りゅうけい になった者 もの を含 ふく む)を除 のぞ いては、配所 はいしょ 到着 とうちゃく から6載 の 後 ご (6回 かい 目 め の新年 しんねん を迎 むか えた後 のち 、6年 ねん 後 ご ではないことに注意 ちゅうい )を経 へ た者 もの は仕官 しかん を許 ゆる される(ただし、法 ほう によらず皇帝 こうてい の意向 いこう で流刑 りゅうけい にされた場合 ばあい は3載 の 後 のち に短縮 たんしゅく される)。
流 ながれ 内 ない 官 かん 品 ひん を持 も つ官 かん 人 じん は「五 ご 流 りゅう 」と称 しょう される5つの罪 つみ (加 か 流刑 りゅうけい に相当 そうとう する罪 つみ 、反逆 はんぎゃく への連座 れんざ 、過失 かしつ によって父祖 ふそ を死傷 ししょう させる罪 つみ 、十悪 じゅうあく の1つである不孝 ふこう の罪 つみ 、恩赦 おんしゃ にあっても猶 なお 流刑 りゅうけい に相当 そうとう する罪 つみ )に該当 がいとう しない限 かぎ りは実際 じっさい に流罪 るざい にはならない。流罪 るざい の場合 ばあい は除名 じょめい となり、官爵 かんしゃく は剥奪 はくだつ されるが、居 きょ 作 さく は免除 めんじょ される。
以上 いじょう の規定 きてい にもかかわらず、皇帝 こうてい の判断 はんだん によって流罪 るざい に相当 そうとう しない者 もの の刑 けい が重 おも くなって流刑 りゅうけい にされたり、新 あら たに法令 ほうれい として格 かく に追加 ついか されたりした。その場合 ばあい 、五 ご 流 りゅう に相当 そうとう しない官 かん 人 じん でも除名 じょめい ・官爵 かんしゃく 剥奪 はくだつ の上 うえ で配流 はいる されることがある。また、刺史 しし や上 うえ 佐 たすく (別 べつ 駕 が ・長 ちょう 史 ふみ ・司馬 しば などの地方 ちほう における上級 じょうきゅう の補佐 ほさ 官 かん )に貶官(左遷 させん )させる処分 しょぶん が流刑 りゅうけい の代替 だいたい として行 おこな われることもあった。
とはいえ、流刑 りゅうけい 自体 じたい が儒教 じゅきょう 経典 きょうてん を根拠 こんきょ とする刑罰 けいばつ であり、その規定 きてい は社会 しゃかい の実情 じつじょう どころか、律令 りつりょう の他 ほか の規定 きてい とも整合 せいごう 性 せい に欠 か ける場合 ばあい があったために、唐 とう における流刑 りゅうけい の諸 しょ 原則 げんそく が確定 かくてい した貞 さだ 観 かん 11年 ねん (637年 ねん )制定 せいてい の貞 さだ 観 かん 律 りつ の制定 せいてい からわずか3年 ねん 後 ご には実際 じっさい の配所 はいしょ は特定 とくてい の辺境 へんきょう の州 しゅう に限定 げんてい されることになり、距離 きょり 別 べつ の規定 きてい が空文 くうぶん 化 か した(罪 つみ が重 おも ければ、より辺境 へんきょう に流 なが されることにはなっていたが)。また、流刑 りゅうけい に対 たい する恩赦 おんしゃ は配所 はいしょ 到着 とうちゃく 前 まえ でなければ有効 ゆうこう とされていなかったが、皇帝 こうてい が恩赦 おんしゃ の際 さい に流人 るにん に対 たい する恩赦 おんしゃ の文言 もんごん を加 くわ えることで有効 ゆうこう とされ、実際 じっさい に皇帝 こうてい の恩恵 おんけい を示 しめ すために流人 るにん の放 ひ 還 かえ (元 もと の居住 きょじゅう 地 ち への帰還 きかん )や量 りょう 移 うつり (都 と に近 ちか い場所 ばしょ への変更 へんこう )が行 おこな われていた。更 さら に配流 はいる された官 かん 人 じん が6載 の 後 のち に再度 さいど 仕官 しかん が許 ゆる されると言 い う原則 げんそく は実 じつ は流刑 りゅうけい の本質 ほんしつ と矛盾 むじゅん するものであった。すなわち、役人 やくにん は自由 じゆう な移動 いどう を禁 きん じた律令 りつりょう の規定 きてい の対象 たいしょう 外 がい であり、再度 さいど 仕官 しかん となれば配所 はいしょ から離 はな れることが可能 かのう であったからである。更 さら に理論 りろん 上 じょう では庶民 しょみん も商人 しょうにん などのように官 かん の特別 とくべつ な許可 きょか があれば移動 いどう が可能 かのう であったから、配所 はいしょ における居 きょ 作 さく を終 お えて現地 げんち の戸籍 こせき に登録 とうろく された元 もと 流人 るにん がその規定 きてい を利用 りよう して配所 はいしょ を出 で る可能 かのう 性 せい もあった。こうした矛盾 むじゅん を解消 かいしょう するために元 もと 和 わ 8年 ねん (813年 ねん )に6年 ねん 過 す ぎた流人 るにん の放 ひ 還 かえ が認 みと められ、開成 かいせい 4年 ねん (839年 ねん )に制定 せいてい された開成 かいせい 詳 しょう 定 じょう 格 かく によって法令 ほうれい として正式 せいしき に規定 きてい された。もっとも、この時期 じき になると地方 ちほう 政治 せいじ の混乱 こんらん によって配所 はいしょ の地方 ちほう 官 かん が流人 るにん の管理 かんり を行 おこな わずに、勝手 かって に配所 はいしょ を抜 ぬ け出 だ して故郷 こきょう に舞 ま い戻 もど ったり他所 よそ に放浪 ほうろう したりすることが行 おこな われ、終身 しゅうしん にわたって配所 はいしょ に置 お いておくこと自体 じたい が困難 こんなん になってきたことが背景 はいけい としてあった。そして、黄 き 巣 す の乱 らん 以後 いご の一層 いっそう の社会 しゃかい 的 てき 混乱 こんらん によって罪人 ざいにん の管理 かんり が困難 こんなん になると、徒刑 とけい や流刑 りゅうけい のような執行 しっこう 完了 かんりょう までに時間 じかん がかかる刑罰 けいばつ が敬遠 けいえん され、杖 つえ 刑 けい や死刑 しけい による対応 たいおう へと移 うつ ることになった。
宋 そう 代 だい になると律令 りつりょう が再 ふたた び整備 せいび されたものの、唐 とう 末 まつ 以来 いらい の過酷 かこく な規定 きてい が残 のこ されたままであり、多 おお くの死刑 しけい 囚 しゅう を生 う み出 だ していた。それを緩和 かんわ するために出 だ されたのが、折 おり 杖 つえ 法 ほう である。折 おり 杖 つえ 法 ほう によって本来 ほんらい 流刑 りゅうけい にされる者 もの は脊杖(背中 せなか 打 う ちの刑 けい )+在所 ざいしょ での配役 はいやく (強制 きょうせい 労働 ろうどう )1年 ねん (加 か 流刑 りゅうけい の場合 ばあい は3年 ねん 、女性 じょせい の場合 ばあい は淳 じゅん 化 か 4年 ねん (993年 ねん )以降 いこう は免除 めんじょ )によって代替 だいたい されることになり、実際 じっさい に配流 はいる されることはなくなった。代 か わって、従来 じゅうらい 死刑 しけい に処 しょ せられることになっていた者 もの (通常 つうじょう は律 りつ 本来 ほんらい の規定 きてい にはなく、特別 とくべつ 法 ほう である格 かく や勅 みことのり による規定 きてい で死刑 しけい にあたる者 もの )が皇帝 こうてい の特 とく 恩 おん によって、反対 はんたい に皇帝 こうてい によって配流 はいる 相当 そうとう とされた政治 せいじ 犯 はん などがその特旨 とくし によって配流 はいる されるようになった。
宋 そう 代 だい における配流 はいる およびその関連 かんれん 用語 ようご を一括 いっかつ する言葉 ことば として、編 へん 配 はい と配 はい 隷という語 かたり がある(どちらも単独 たんどく の刑罰 けいばつ を指 さ す言葉 ことば ではないことに注意 ちゅうい )。編 へん 配 はい は「配流 はいる ・配 はい 軍 ぐん ・編 へん 管 かん 」、配 はい 隷は「配流 はいる ・配 はい 軍 ぐん ・配役 はいやく 」をまとめた総称 そうしょう にあたる。
このうち、配流 はいる が本来 ほんらい 宋 そう 代 だい における流刑 りゅうけい に相当 そうとう するものである。配流 はいる に先立 さきだ ってまず死刑 しけい 判決 はんけつ が出 だ され、脊杖20回 かい と刺 とげ 面 めん (顔 かお に入 い れ墨 ずみ を施 ほどこ す)を行 おこ なった後 のち に皇帝 こうてい に死刑 しけい 判決 はんけつ の確認 かくにん を求 もと める奏 そう 裁 さい を行 おこな うために、都 と (開封 かいふう 、後 のち に臨安 )に赴闕(都 と への護送 ごそう )が行 おこ なわれる。そこで罪人 ざいにん は皇帝 こうてい に謁見 えっけん して皇帝 こうてい より「罪 つみ 一 いち 等 とう 減 げん じる」との勅 みことのり が授 さづ けられ、枢密院 すうみついん によって具体 ぐたい 的 てき な配流 はいる 先 さき が決 き められ(ただし、ここまでの手続 てつづき は形式 けいしき として整 ととの ったものであり、景 けい 徳 とく 3年 ねん (1006年 ねん )以後 いご は冤罪 えんざい を訴 うった える者 もの など実際 じっさい に再 さい 審理 しんり の必要 ひつよう 性 せい があるものを除 のぞ いて皇帝 こうてい への謁見 えっけん は省 はぶ かれた)、唐 とう 代 だい と同様 どうよう に官 かん の監視 かんし の下 した に首枷 くびかせ をはめられて労役 ろうえき に従事 じゅうじ した。配流 はいる 先 さき としてもっとも代表 だいひょう 的 てき であったのは、沙門 しゃもん 島 とう である。この島 しま は現在 げんざい の山東 さんとう 省 しょう 長島 ながしま 県 けん にある長山 ながやま 列島 れっとう の1つ廟 びょう 島 とう のこととされている。宋 そう の建国 けんこく 当初 とうしょ は北方 ほっぽう には契 ちぎり 丹 に の勢力 せいりょく があり、南方 なんぽう には南 みなみ 唐 とう ・呉 ご 越 えつ などが依然 いぜん として存在 そんざい していたためにそうした国境 こっきょう 近 ちか くの辺境 へんきょう への配流 はいる は好 この まれず、一部 いちぶ で西北 せいほく 辺境 へんきょう などへの配流 はいる も行 おこ なわれていたものの、主 しゅ としてこの島 しま への配流 はいる が中心 ちゅうしん となった。宋 そう の天下 てんか 平定 へいてい 後 ご は南方 なんぽう などの辺境 へんきょう への配流 はいる も行 おこ なわれることとなるが、依然 いぜん として沙門 しゃもん 島 とう への配流 はいる がもっとも重 おも いものとして扱 あつか われており、実際 じっさい にその過酷 かこく な環境 かんきょう (自然 しぜん 環境 かんきょう ・食糧 しょくりょう 不足 ふそく ・守衛 しゅえい の官吏 かんり や兵士 へいし からの虐待 ぎゃくたい など)から命 いのち を落 お とすものは珍 めずら しくなく(『続 ぞく 資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 長編 ちょうへん 』巻 まき 119・景 けい 祐 ゆう 3年 ねん 7月 がつ 辛 からし 巳 み 条 じょう )、恩赦 おんしゃ が出 で たとしても量 りょう 移 うつり の対象 たいしょう にしかなり得 え なかった。なお、官 かん 人 じん が政治 せいじ 的 てき な理由 りゆう で配流 はいる とされた場合 ばあい には脊杖・刺 とげ 面 めん は行 おこな われず、沙門 しゃもん 島 とう へ送 おく られた場合 ばあい でも官 かん による一定 いってい の保護 ほご が存在 そんざい していた(数 かず が少 すく ないものの、配 はい 軍 ぐん にされた官 かん 人 じん に対 たい しても脊杖・刺 とげ 面 めん は免除 めんじょ された)。その後 ご 、配流 はいる とされた者 もの でも咸平元年 がんねん (998年 ねん )沙門 しゃもん 島 とう に流 なが す程 ほど でもないとされた雑 ざつ 犯 はん 者 しゃ は各地 かくち の軍隊 ぐんたい の下 した に送 おく られて労役 ろうえき に従事 じゅうじ し、景 けい 祐 ゆう 3年 ねん (1036年 ねん )には沙門 しゃもん 島 とう への配流 はいる 者 しゃ を広 こう 南 みなみ 路 ろ の遠 とお 悪 あく 州 しゅう 軍 ぐん (辺境 へんきょう の環境 かんきょう の悪 わる い地域 ちいき の軍 ぐん )に振 ふ り替 か えて沙門 しゃもん 島 とう へ流 なが す人数 にんずう を減 へ らした。
一方 いっぽう 、配 はい 軍 ぐん は赴闕の後 のち に各地 かくち の軍隊 ぐんたい に配属 はいぞく され生涯 しょうがい にわたって兵役 へいえき に就 つ く刑罰 けいばつ である。必 かなら ずしも辺境 へんきょう に送 おく られるものではなく、初期 しょき の頃 ころ は居住 きょじゅう する州 しゅう にある廂 ひさし 軍 ぐん などの雑用 ざつよう を行 おこな う部隊 ぶたい に配置 はいち されることが多 おお かった。(なお、当時 とうじ は一般 いっぱん の兵士 へいし でも刺 とげ 面 めん して一般人 いっぱんじん との区別 くべつ を行 おこ なう習慣 しゅうかん があり、そうした意味 いみ でも軍隊 ぐんたい は労役 ろうえき を行 おこ なわせる場所 ばしょ に相応 ふさわ しかった)。配 はい 軍 ぐん の原型 げんけい は配流 はいる 者 しゃ の増加 ぞうか の対策 たいさく の一環 いっかん として太平 たいへい 興国 こうこく 9年 ねん (雍熙元年 がんねん :984年 ねん )に窃盗 せっとう で死刑 しけい に相当 そうとう する者 もの に無 む 期限 きげん の労役 ろうえき としたのが起源 きげん である。それが雍熙2年 ねん (985年 ねん )になって本城 ほんじょう 軍 ぐん (居住 きょじゅう 州 しゅう の軍隊 ぐんたい )での労役 ろうえき 、すなわち配 はい 軍 ぐん に変更 へんこう されたのである。その後 ご 、咸平4年 ねん (1001年 ねん )になって福建 ふっけん ・広 こう 南 みなみ ・江 こう 浙・荊湖の強盗 ごうとう ・持 もち 仗(劫 こう 盗 とう )は都 と から遠隔 えんかく であることを理由 りゆう に赴闕を行 おこ なわずに五 ご 百 ひゃく 里 り 以上 いじょう 離 はな れた軍 ぐん への配 はい 軍 ぐん が行 おこ なわれるようになった。更 さら に天 てん 聖 ひじり 8年 ねん (1030年 ねん )には二 に 千里 せんり 以上 いじょう 離 はな れた軍 ぐん への配 はい 軍 ぐん が実施 じっし される例 れい も現 あらわ れる。こうした措置 そち の背景 はいけい には凶悪 きょうあく 犯 はん の中 なか には居住 きょじゅう 地 ち の軍隊 ぐんたい に配 はい 軍 ぐん した場合 ばあい 、現地 げんち に住 す む被害 ひがい 者 しゃ や告発 こくはつ 者 しゃ およびその関係 かんけい 者 しゃ に被害 ひがい が加 くわ えられる可能 かのう 性 せい があることを危惧 きぐ したとされている。このように、11世紀 せいき 前半 ぜんはん になると配流 はいる の対象 たいしょう として軍隊 ぐんたい が加 くわ えられ、配 はい 軍 ぐん の対象 たいしょう が遠隔 えんかく 地 ち に移動 いどう が加 くわ えられたことで、本来 ほんらい 別 べつ の内容 ないよう であった配流 はいる と配 はい 軍 ぐん の区別 くべつ がほとんど失 うしな われ、死 し と隣 とな り合 あ わせであった沙門 しゃもん 島 とう への配流 はいる を頂点 ちょうてん とする序列 じょれつ が形成 けいせい されることになった(ただし、沙門 しゃもん 島 とう 自体 じたい が後 のち に金 きむ に奪 うば われており、配流 はいる 先 さき からは消 き えることになる)。
流刑 りゅうけい とは異 こと なるものの、共通 きょうつう する部分 ぶぶん を有 ゆう する刑 けい として配流 はいる ・配 はい 軍 ぐん と一括 いっかつ にされたものとして編 へん 管 かん と配役 はいやく がある。編 へん 管 かん は罪 つみ を犯 おか した者 もの が、居住 きょじゅう 州 しゅう から隣接 りんせつ する州 しゅう 、または五 ご 百 ひゃく 里 り ・千里 せんり などの距離 きょり が離 はな れた州 しゅう に移 うつ されて簿 ぼ 籍 せき に附 つ けて官吏 かんり の監視 かんし 下 か に置 お かれる措置 そち である。唐 から 以前 いぜん の流刑 りゅうけい と似 に たような側面 そくめん を有 ゆう しているものの、宋 そう の配流 はいる ・配 はい 軍 ぐん のような終身 しゅうしん の労役 ろうえき は課 か されず、免除 めんじょ されるか有期 ゆうき の配役 はいやく であり、当初 とうしょ は無期 むき の編 へん 管 かん や期間 きかん 終了 しゅうりょう 後 ご の現地 げんち の戸籍 こせき への強制 きょうせい 的 てき な編入 へんにゅう もあったものの、北 きた 宋 そう 末期 まっき には恩赦 おんしゃ がなくても6年 ねん 後 ご には放 ひ 還 かえ される(事実 じじつ 上 じょう 刑期 けいき を6年 ねん とする)ことが制度 せいど 化 か されていた。これは、編 へん 管 かん の主 しゅ たる目的 もくてき な罪人 ざいにん を居住 きょじゅう 地 ち から切 き り離 はな して監視 かんし 下 か におくことであり、遠隔 えんかく 地 ち への追放 ついほう や労役 ろうえき を目的 もくてき とした流刑 りゅうけい とは異 こと なる要素 ようそ を持 も った刑 けい であったことによる。配役 はいやく は前述 ぜんじゅつ のように軍隊 ぐんたい を含 ふく めた役所 やくしょ での有期 ゆうき の強制 きょうせい 労働 ろうどう であり、本来 ほんらい の流刑 りゅうけい に対 たい する折 おり 杖 つえ 法 ほう に基 もと づいた代替 だいたい 刑 けい の1つとしても行 おこな われていた。
陶 とう 片 かた 追放 ついほう にて、追放 ついほう を行 おこな っていた。
囚人 しゅうじん 船 せん (英語 えいご 版 ばん ) Neptune
18世紀 せいき 以前 いぜん は、後代 こうだい に血 ち の法典 ほうてん と呼 よ ばれる死刑 しけい だらけの法律 ほうりつ が施行 しこう されていた。17世紀 せいき ごろから法律 ほうりつ の見直 みなお しが行 おこな われ、1610年 ねん からアメリカが独立 どくりつ する1776年 ねん まで、英 えい 領 りょう アメリカ へ流刑 りゅうけい が行 おこな われていた[ 20] 。アメリカが独立 どくりつ すると移送 いそう 先 さき がオーストラリアやタスマニアに変 か わった[ 20] 。
1786年 ねん にイギリス政府 せいふ はオーストラリア のボタニー湾 わん に流刑 りゅうけい 植民 しょくみん 地 ち を建設 けんせつ することを決定 けってい [ 21] 。以後 いご 、ファースト・フリート (最初 さいしょ の植民 しょくみん 船団 せんだん )を皮切 かわき りに流刑 りゅうけい 地 ち となった。
1788年 ねん にはシドニー 最初 さいしょ の入植 にゅうしょく 地 ち としてロックスが兵士 へいし や囚人 しゅうじん たちによって開拓 かいたく され、アーガイル・カット の切通 きりどお し などが囚人 しゅうじん の手 て によって造 つく られた[ 22] 。
1829年 ねん には、タスマニア州 しゅう に送 おく り込 こ まれた流刑 りゅうけい 囚 しゅう がイギリス船 せん を奪取 だっしゅ し、日本 にっぽん 沿岸 えんがん に来航 らいこう した牟岐浦 むぎうら 異国 いこく 船 せん 漂着 ひょうちゃく 事件 じけん が起 お きた[ 23] 。
ブリスベン も元々 もともと は国内 こくない 流刑 りゅうけい 地 ち として開拓 かいたく された街 まち で、1839年 ねん の流刑 りゅうけい 制度 せいど 廃止 はいし まで流刑 りゅうけい 地 ち として利用 りよう され、以後 いご は一般 いっぱん の移住 いじゅう 者 しゃ が増加 ぞうか してオーストラリア第 だい 3の都市 とし となった[ 24] 。
1788年 ねん から1868年 ねん の間 あいだ に、イギリスとアイルランドから約 やく 16万 まん 人 にん の囚人 しゅうじん が送 おく られた[ 25] [ 26] 。
イギリス領 りょう インド帝国 ていこく
インド独立 どくりつ 運動 うんどう などの政治 せいじ 犯 はん がアンダマン諸島 しょとう へ送 おく られた。
18世紀 せいき 以前 いぜん まで、déportation, transportation, relégation など用語 ようご が固 かた まっていなかった[ 27] 。
1670年 ねん 犯罪 はんざい 王 おう 令 れい 13条 じょう では、死刑 しけい に次 つ ぐ刑罰 けいばつ として、終身 しゅうしん ガレー船 せん 漕 こげ 役 やく 刑 けい 、終身 しゅうしん 追放 ついほう 刑 けい 、有期 ゆうき ガレー船 せん 漕 こげ 役 やく 刑 けい 、有期 ゆうき 追放 ついほう 刑 けい を定 さだ めた[ 28] 。
18世紀 せいき 以降 いこう 、流刑 りゅうけい が死刑 しけい の代 か わりとして処刑 しょけい 方法 ほうほう に加 くわ わった。その対象 たいしょう は主 おも に政治 せいじ 犯 はん であった[ 27] 。
1791年 ねん 刑 けい 法典 ほうてん は、新 あら たな刑罰 けいばつ として足枷 あしかせ 刑 けい (peine de fars)、独房 どくぼう 刑 けい (peine de la gêne)、勾留 こうりゅう 刑 けい (peine de la détention)、植民 しょくみん 地 ち 流刑 りゅうけい (peine de la déportation)、公民 こうみん 権 けん 剥奪 はくだつ (peine de la dégradation civique)等 とう を定 さだ めた[ 28] 。
1810年 ねん 刑 けい 法典 ほうてん は、名誉 めいよ 刑 けい として8条 じょう で首輪 くびわ 刑 けい (peine de carcan)、追放 ついほう 刑 けい (peine de bannissement)、公民 こうみん 権 けん 剥奪 はくだつ (peine de la dégradation civique)等 とう を残 のこ した[ 28] 。また、7条 じょう 3項 こう に追放 ついほう 刑 けい (peine de déportation)を定 さだ め、その科 か 刑 けい の方法 ほうほう は17条 じょう で帝国 ていこく 本土 ほんど 外 がい の政府 せいふ の定 さだ める場所 ばしょ に移 うつ して終身 しゅうしん とどまるものとされた[ 28] 。17条 じょう では追放 ついほう 刑 けい (peine de déportation)について、追放 ついほう 者 しゃ が帝国 ていこく 本土 ほんど に戻 もど った場合 ばあい には身元 みもと 確認 かくにん を行 おこな った上 うえ で終身 しゅうしん 強制 きょうせい 労働 ろうどう に処 しょ するとされ、追放 ついほう 者 しゃ が帝国 ていこく 軍 ぐん の占領 せんりょう 地 ち で拘束 こうそく されたときは追放 ついほう 地 ち に戻 もど すと規定 きてい した[ 28] 。
1960年 ねん 6月 がつ 4日 にち 、フランス法 ほう から流刑 りゅうけい は全 すべ て除去 じょきょ された[ 27] 。
律令 りつりょう 体制 たいせい 下 か では、流 りゅう には畿内 きない からの距離 きょり により3つの分類 ぶんるい があった。近流 きんる は越前 えちぜん ・安芸 あき の2か国 こく 。中流 ちゅうりゅう も信濃 しなの ・伊 い 予 よ の2か国 こく 。遠流 おんる は佐渡 さわたり ・伊豆 いず ・隠岐 おき ・安房 あわ ・土佐 とさ ・常陸 ひたち の6か国 こく で[ 30] 、後 のち に上総 かずさ ・下総 しもうさ ・陸奥 みちのく ・越後 えちご ・出雲 いずも ・周防 すおう ・阿波 あわ が追加 ついか された[ 31] 。また夷島 えぞしま など朝廷 ちょうてい や幕府 ばくふ の支配 しはい が及 およ ばない「国外 こくがい 」とされる地域 ちいき もあった。江戸 えど 時代 じだい にかけて、八丈島 はちじょうじま など多 おお くの島 しま や遠国 おんごく が中央 ちゅうおう ・地方 ちほう の各 かく 政権 せいけん によって流刑 りゅうけい 地 ち とされた。
加賀 かが 藩 はん の流刑 りゅうけい 地 ち のひとつ、五箇山 ごかさん の旧 きゅう ・平 たいら 村 むら (現 げん ・富山 とやま 県 けん 南 みなみ 砺市 )田向 たむかい 集落 しゅうらく には、江戸 えど 時代 じだい の流刑 りゅうけい 小屋 こや が日本 にっぽん 唯一 ゆいいつ の珍 めずら しい民俗 みんぞく 文化財 ぶんかざい として復元 ふくげん されているほか[ 32] 、旧 きゅう ・上平 かみたいら 村 むら (富山 とやま 県 けん ) には、流刑 りゅうけい 人 じん の脱走 だっそう を防 ふせ ぐために架橋 かきょう の代 か わりに使 つか われた籠 かご 渡 わた し が再現 さいげん されている[ 33] 。
以下 いか 、時代 じだい に関 かか わらず流罪 るざい になった著名 ちょめい 人 じん を列挙 れっきょ する。
以下 いか は琉球 りゅうきゅう
フランス
アメリカ
アル・カポネ
会社 かいしゃ 組織 そしき において地方 ちほう 、特 とく に重要 じゅうよう ではない部署 ぶしょ に異動 いどう させられることを左遷 させん というが、その中 なか で特 とく に重要 じゅうよう 性 せい の低 ひく い部署 ぶしょ や遠方 えんぽう (地方 ちほう 都市 とし ・郡部 ぐんぶ や沖縄 おきなわ 本島 ほんとう を含 ふく めた離島 りとう など)の支店 してん 等 とう へ異動 いどう あるいは子会社 こがいしゃ や下請 したう け会社 かいしゃ に出向 しゅっこう させられた場合 ばあい を「島流 しまなが し」と喩 たと えることがある。
離島 りとう での里親 さとおや 留学 りゅうがく 制度 せいど を利用 りよう し、家庭 かてい 内 ない で教員 きょういん 困難 こんなん な児童 じどう を留学 りゅうがく させることを現代 げんだい の「島流 しまなが し」に喩 たと えることがある。
インターネットの世界 せかい において、モバゲー ではアカウントの一時 いちじ 停止 ていし 処分 しょぶん を受 う けた人 ひと のことを「島流 しまなが し」と呼 よ ぶことがある。
日本 にっぽん において、飛行機 ひこうき 旅行 りょこう の愛好 あいこう 家 か の間 あいだ では、離島 りとう から帰着 きちゃく する際 さい に搭乗 とうじょう 予定 よてい の航空機 こうくうき が天候 てんこう 等 とう の理由 りゆう で到着 とうちゃく せず欠航 けっこう となり、引 ひ き続 つづ きの滞在 たいざい を余儀 よぎ なくされることを「島流 しまなが し」と呼 よ ぶことがある。 また、航空機 こうくうき が遅延 ちえん により大阪国際空港 おおさかこくさいくうこう (通称 つうしょう ・伊丹空港 いたみくうこう ) の運用 うんよう 時間 じかん を過 す ぎた際 さい に、着陸 ちゃくりく 機 き が近隣 きんりん の関西国際空港 かんさいこくさいくうこう へとダイバート する事 こと も「島流 しまなが し」と呼 よ ぶことがある。
山形 やまがた 県 けん の飛島 とびしま では、かつて「地方 ちほう 流 なが し」(じかたながし)と呼 よ ばれる島流 しまなが しとは逆 ぎゃく に、本州 ほんしゅう に流 なが す風習 ふうしゅう があった[ 39] 。
^ この刑 けい を導入 どうにゅう することを主張 しゅちょう した源 みなもと 賀 が がその根拠 こんきょ として用 もち いたのが『尚書 しょうしょ 』舜 しゅん 典 てん であり、儒教 じゅきょう 思想 しそう 的 てき な要素 ようそ が加 くわ えられることで徒 と 遷刑の性格 せいかく を大 おお きく変 か えるとともに引 ひ き続 つづ き正 せい 刑 けい である流刑 りゅうけい の根拠 こんきょ としても用 もち いられ、更 さら に「流刑 りゅうけい (流罪 るざい )」の名称 めいしょう の由来 ゆらい になったとも考 かんが えられている。
^ 類似 るいじ の措置 そち として加害 かがい 者 しゃ を強制 きょうせい 的 てき に移住 いじゅう させて被害 ひがい 者 しゃ や告発 こくはつ 者 しゃ およびその家族 かぞく と接触 せっしょく させない「移 うつり 郷 きょう 」と呼 よ ばれる措置 そち があることから流刑 りゅうけい の距離 きょり も居住 きょじゅう 地 ち からの距離 きょり とする説 せつ が通説 つうせつ とされている。一方 いっぽう で、恩赦 おんしゃ として都 と に近 ちか い場所 ばしょ に移 うつ す措置 そち が行 おこな われる場合 ばあい があり、(居住 きょじゅう 地 ち と都 と が三 さん 千里 せんり 以上 いじょう 離 はな れているケースなど)居住 きょじゅう 地 ち によってはさらに遠方 えんぽう に送 おく られる可能 かのう 性 せい を指摘 してき してあくまでも皇帝 こうてい のいる都 と から遠隔 えんかく 地 ち への放逐 ほうちく が流刑 りゅうけい の目的 もくてき であり、距離 きょり の基準 きじゅん は都 と であるとする異説 いせつ もある。なお、この議論 ぎろん は畿内 きない を基準 きじゅん とした日本 にっぽん の流罪 るざい の距離 きょり が中国 ちゅうごく と異 こと なる仕組 しくみ を導入 どうにゅう したのか、中国 ちゅうごく の仕組 しくみ を日本 にっぽん に当 あ てはめたものかという問題 もんだい にもつながることになる。
^ 始 はじ め保 ほ 元 もと の乱 らん に連座 れんざ して土佐 とさ へ流 なが され、帰京 ききょう 後 ご 太政大臣 だじょうだいじん に登 のぼ ったが、治 ち 承 うけたまわ 三 さん 年 ねん の政変 せいへん によって再度 さいど 尾張 おわり へ流 なが された。
^ 始 はじ め長 ちょう 徳 いさお の変 へん で出雲 いずも へ流 なが されたが、のち優 ゆう 詔 みことのり によって但馬 たじま に留 と め置 お かれた。
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