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みことりょう親王しんのう

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みことりょう親王しんのう
絵本えもと太平たへいけんまき明治めいじ16ねん1883ねん))よりみことりょう親王しんのう小林こばやし檉湖
続柄つづきがら 後醍醐天皇ごだいごてんのう一宮いちのみやだいいち皇子おうじ

ぜん みことりょう(たかよし[注釈ちゅうしゃく 1]
一品いっぴん親王しんのう
敬称けいしょう 殿下でんか
出生しゅっしょう 徳治とくじ年間ねんかん1306ねん - 1308ねん)?
死去しきょ のべもと2ねん/たてたけし4ねん3月6にち1337ねん4がつ7にち
日本の旗 日本にっぽん 越前えちぜんこく金ヶ崎かねがさきしろ
埋葬まいそう 治定じじょう京都きょうと左京さきょうみことりょう親王しんのう
つて福井ふくいけん敦賀つるが金ヶ崎かねがさきまちみことりょう親王しんのう陵墓りょうぼ見込みこみ
配偶はいぐうしゃ くしげ殿どの西園寺さいおんじこうあきらおんな
  大納言だいなごん典侍てんじじょうためおんな
子女しじょ 男子だんしまもりなが親王しんのう?)、女子じょし
父親ちちおや 後醍醐天皇ごだいごてんのう
母親ははおや じょうため
役職やくしょく 中務なかつかさきょう(1326–?)
うえ将軍しょうぐん(1335–1337)
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みことりょう親王しんのう(たかよししんのう[注釈ちゅうしゃく 1])は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての皇族こうぞく歌人かじんうえ将軍しょうぐん一品いっぴん中務なかつかさきょう親王しんのう(いっぽんなかつかさきょうしんのう)ともばれる[1]後醍醐天皇ごだいごてんのうだいいち皇子おうじははじょうためむすめじょう代表だいひょうする歌人かじんじょうため瓊子内親王ないしんのうおよび征夷大将軍せいいたいしょうぐん宗良親王むねながしんのう同母どうぼけい

よしみれき元年がんねん1326ねん)、従兄弟いとこたる皇太子こうたいしくにりょう親王しんのう急逝きゅうせいしたため、現任げんにん天皇てんのうだいいち皇子おうじとして、ちちみかど推薦すいせんによってつぎ皇太子こうたいし候補者こうほしゃえらばれる。しかし持明院じみょういんみつるとの政争せいそう敗北はいぼくし、つぎ皇太子こうたいしになったのはりょうじん親王しんのう(のちのひかりげん天皇てんのう)だった。その後醍醐ごだいご後継こうけいしゃ地位ちいこそ、高貴こうき生母せいぼちより政治せいじてき資質ししつのある異母弟いぼてい世良せら親王しんのううつるものの、後醍醐ごだいごちょう有力ゆうりょく政治せいじとして信任しんにんされ、もととく3ねん1331ねん)1がつには一品いっぴん親王しんのうじょされた。

元弘もとひろらん1331ねん - 1333ねん)では、いち鎌倉かまくら幕府ばくふ捕縛ほばくされ土佐とさこく高知こうちけん)に流罪るざいとなるも同地どうちから脱出だっしゅつし、九州きゅうしゅう旗頭はたがしらとなり鎮西ちんぜい探題たんだい撃滅げきめつして、ちち幕府ばくふ打倒だとう貢献こうけんした。さらに、足利尊氏あしかがたかうじとのたたかたてたけしらん1335ねん - 1337ねん)ではうえ将軍しょうぐん名義めいぎじょうそう大将たいしょう)に抜擢ばってきされた。ちち降伏ごうぶく越前えちぜんこく福井ふくいけん)でみこととのたたかいをつづけるが、金ヶ崎かねがさきたたか高師泰こうのもろやす足利あしかが高経たかつね斯波しば高経たかつね)に敗北はいぼくし、新田にったよしあきら義貞よしさだ)ととも落命らくめい

和歌わか正統せいとう御子みこひだりじょう母方ははかたくだけあってうたすぐれ、勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうつづけ拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』に1しゅじゅん勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうしん和歌集わかしゅう』に44しゅいれしゅう家集かしゅうは『一宮いちのみやひゃくしゅ』(もととく3ねん1331ねん))。明治めいじ時代じだいつねりょう親王しんのうとも金崎かねさきみや福井ふくいけん敦賀つるが)の主祭しゅさいしんとなった。

軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』では、つまくしげ殿どのとの恋愛れんあいたんえがかれ、さいわいわかまい新曲しんきょく』などの派生はせい作品さくひんつくられた。

生涯しょうがい

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誕生たんじょう

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後醍醐天皇ごだいごてんのうじょうためむすめじょうためあいだまれる[2]日本にっぽん研究けんきゅうしゃもりしげるあかつきによれば、「みこと」は父親ちちおやいみなであるみことからのへんいみなであろうという[3]

確実かくじつ生年せいねん不明ふめい[1][2]皇子おうじとの長幼ちょうようについては、『太平たいへい』『ぞうきょう』ではみことりょう親王しんのう一宮いちのみやだいいち皇子おうじ)とされ[1]、さらに『梅松うめまつろん』も同様どうようである[4]もりは、みことりょう一宮いちのみやであることはまず間違まちがいないのではないか、と主張しゅちょうしている[3]

自害じがいかぞえ27さいとするせつがあり、そこから逆算ぎゃくさんするとおうちょう元年がんねん1311ねんまれとなるが、このせつるとのべけい元年がんねん(1308ねんまれの異母いぼ兄弟きょうだい護良親王もりよししんのうほうあにとなる[1]。しかし、もりによれば、かぞえ27さいせつは『系図けいず纂要』および「南朝なんちょう紹運ろく」など近世きんせい史料しりょうにしかられず、信用しんようけないという[5]

結局けっきょくみことりょう生年せいねんしめ確実かくじつ史料しりょうはないものの、日本にっぽん研究けんきゅうしゃ平田ひらた俊春としはる徳治とくじ年間ねんかん1306ねん - 1308ねん)ごろではないか、と大雑把おおざっぱ推測すいそくしており、もり平田ひらたせつ同意どういする[6]

皇太子こうたいしせん

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みことりょう親王しんのう自刃じじんしたとされる金ヶ崎かねがさき城跡じょうせきみことりょう親王しんのう陵墓りょうぼ見込みこみ

幼少ようしょうは、後醍醐天皇ごだいごてんのう側近そっきんさんぼう」の一人ひとり学識がくしきふか吉田よしだ定房さだふさ養育よういくされた[7]よしみれき元年がんねん1326ねん)に元服げんぷくし、中務なかつかさきょうにんじられ、ひんじょされた[2]

同年どうねん大覚寺だいかくじみつる正嫡せいちゃく従兄弟いとこたる皇太子こうたいしくにりょう親王しんのう急逝きゅうせい[8]現任げんにん天皇てんのうだいいち皇子おうじとして、つぎ皇太子こうたいし有力ゆうりょく候補こうほされ、おな大覚寺だいかくじみつるくにしょう親王しんのうくにりょう同母どうぼおとうと)・恒明つねあき親王しんのう後醍醐ごだいご祖父そふである亀山天皇かめやまてんのう愛息あいそく)、および持明院じみょういんみつるりょうじん親王しんのう(のちのひかりげん天皇てんのう)ととも選挙せんきょせん出馬しゅつばした[8]。しかしこの政争せいそう敗北はいぼくし、最終さいしゅうてきえらばれたのはりょうじんだった[8]

そのは、より高貴こうき生母せいぼち、聡明そうめいさにおいてもまさり、さらに恒明つねあきからの支援しえん異母弟いぼてい世良せら親王しんのうほう後醍醐ごだいご後継こうけいしゃされるようになった[9]

とはいえ、これで父子ふしなかとくわるくなったわけではなく、つづ朝廷ちょうてい有力ゆうりょく政治せいじとして活躍かつやくした。もととく3ねん1331ねん)1がつには一品いっぴん叙任じょにんされた。そのため、一品いっぴん中務なかつかさきょう親王しんのうしょうされた[1]

元弘もとひろらん

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元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)に発生はっせいした元弘もとひろらんではちちとも笠置山かさぎやまおもむいたが、どうしろちるまえ楠木くすのき正成まさしげてこもる下赤坂しもあかさかじょううつった[2]。しかし、10月3にち幕府ばくふぐんらえられ、佐々木ささき大夫たいふ判官ほうがんあずかりのとなった[2]同月どうげつ10にち検知けんちけ、12月27にち土佐とさこくへの流罪るざい判決はんけつくだり、翌年よくねん3がつ8がつ京都きょうと出立しゅったつして土佐とさながされた[2]

しかし、みことりょう親王しんのう土佐とさ脱出だっしゅつして九州きゅうしゅうわたり、元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん1333ねん)、こうくし味方みかたにつけて九州きゅうしゅう挙兵きょへいした(『博多はかた日記にっき』)[10][11]鎌倉かまくら幕府ばくふ九州きゅうしゅう統治とうち機関きかんである鎮西ちんぜい探題たんだい滅亡めつぼうしそのちょう赤橋あかばし英時ひでときはいすると、5月26にち大宰府だざいふはいった(『上妻あがつま文書ぶんしょ宮野みやのきょうこころさるじょう元弘もとひろさんねんろくがつとう[12][11]。そのちちたてたけし新政しんせいはじまると、京都きょうと帰還きかんした[2][11]

たてたけしらん 

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たてたけし2ねん1335ねん)、後醍醐天皇ごだいごてんのう足利尊氏あしかがたかうじ行動こうどう疑問ぎもんしてへいし、たてたけしらん発生はっせいすると、うえ将軍しょうぐんとして新田にった義貞よしさだとも討伐とうばつぐんひきいたが、敗退はいたいした[2]よくのべもと元年がんねん/たてたけし3ねん1336ねん)、いち九州きゅうしゅうちたたかしちからかえして上洛じょうらくすると、後醍醐天皇ごだいごてんのうたかしへの降伏ごうぶく決定けっていする[2]。しかし、10月9にち義貞よしさだ別働隊べつどうたい編成へんせいされると、異母弟いぼていである皇太子こうたいしつねりょう親王しんのうとも義貞よしさだ奉戴ほうたいされて北陸ほくりくのがれ、翌日よくじつ越前えちぜんこく金ヶ崎かねがさきしろはいった[2]

のべもと2ねん/たてたけし5ねん1337ねん)1がつみことりょう親王しんのうった金ヶ崎かねがさきじょうに、高師泰こうのもろやす足利あしかが高経たかつね斯波しば高経たかつね)を主将しゅしょうとする足利あしかがぐんめてる(金ヶ崎かねがさきたたか[2]みことりょう親王しんのう義貞よしさだ新田にったよしあきらとも懸命けんめい防戦ぼうせんしたが、てきぐん兵糧ひょうろうめにあってつい力尽ちからつき、3月6にち自害じがいあらわ将兵しょうへい100余人よにんもまた戦死せんしした[2]つねりょう親王しんのうらえられて足利あしかがかた拘禁こうきんされたが、翌年よくねん急死きゅうしした[13][注釈ちゅうしゃく 2]

死後しご

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みことりょう親王しんのうつねりょう親王しんのう主祭しゅさいしんとする金崎かねさきみや福井ふくいけん敦賀つるが

明治めいじ時代じだいには、金崎かねさきみや創建そうけんされ、どう時期じき死亡しぼうした異母弟いぼていである皇太子こうたいしつねりょう親王しんのうともにその主祭しゅさいしんとなった[2]

人物じんぶつ

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歌聖かせい藤原ふじわら定家さだいえ子孫しそん御子みこひだりじょう母方ははかたみことりょう親王しんのうは、和歌わか愛好あいこうし、『つづけ拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』に1しゅ、『しん和歌集わかしゅう』に44しゅ入選にゅうせんしている[2]。また、みことけいかく文庫ぶんこに『一宮いちのみやひゃくしゅ』(もととく3ねん(1331ねん))という歌集かしゅうがあり、どういち詠歌えいかが『しん和歌集わかしゅう』にあることから、この歌集かしゅうみことりょう親王しんのうのものであることが確認かくにんできる[2]。『一宮いちのみやひゃくしゅ』はだいにもかかわらず96しゅしか現存げんそんしないが、これは「はる」から1しゅ・「ふゆ」から3しゅ散逸さんいつしたものとかんがえられる[2]。また、同母どうぼおとうと宗良親王むねながしんのうのち南朝なんちょう最大さいだい歌人かじんとなり、『しん和歌集わかしゅう』の撰者せんじゃとなっている。

ぞうきょう作者さくしゃ貴族きぞく二条にじょう良基よしもと[注釈ちゅうしゃく 3]など諸説しょせつあり)の証言しょうげんによれば、みことりょう親王しんのう美男びなんであったという[14]みことりょうちち後醍醐ごだいご異母弟いぼてい世良せら親王しんのう親族しんぞく恒明つねあき親王しんのうともある姿すがたに、宮中きゅうちゅうわか女官にょかんたちはいろめきだったであろう、としている(『ぞうきょう』「はるわかれ」)[14]。また、土佐とさこく高知こうちけん配流はいるちゅうみことりょうについても、「ふりがたくなまめかし」(以前いぜんのまま優美ゆうびである)と、流浪るろうにあっても容姿ようしおとろえのないほどのうつくしさとしてえがいている(『ぞうきょう』「久米くめのさらさん」)[15]

異母弟いぼてい世良せらおよび親族しんぞく恒明つねあきとはなかがよく、一緒いっしょにいることがおおかった(『ぞうきょう』「はるわかれ」)[14]。また、同母どうぼいもうと瓊子内親王ないしんのうからも「きみ」(あにくん)としたわれており、『しん和歌集わかしゅうざつ1267および1268に贈答ぞうとうのこ[16]

伝説でんせつ創作そうさく

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くしげ殿どのとの恋愛れんあいたん

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源氏物語げんじものがたり』の美女びじょふりふたつのくしげ殿どの見惚みほれるみことりょう親王しんのう絵本えほん新曲しんきょく』(江戸えど時代じだい前期ぜんき)より。明星大学めいせいだいがく所蔵しょぞう

軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』では、つまくしげ殿どのとの恋愛れんあいたんえがかれる。この物語ものがたりによれば、皇太子こうたいしめぐあらそいにやぶれたみことりょうは、気落きおちして、一種いっしゅ次元じげんコンプレックスにかかり[注釈ちゅうしゃく 4]、『源氏物語げんじものがたり』のいち場面ばめんえがいたなか美女びじょ執心しゅうしんするようになった。しかし、美女びじょふりふたつのくしげ殿どの偶然ぐうぜんくわし、努力どりょく甲斐かいあってむすばれたという。後世こうせいさいわいわかまい新曲しんきょく』などの派生はせい作品さくひんつくられた。

自害じがい

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軍記ぐんきぶつ太平たいへいまき18の物語ものがたりによれば、金ヶ崎かねがさきたたかで、新田にったよしあきら自害じがい覚悟かくごするが、主君しゅくんみことりょう親王しんのうにはきてびることをすすめた[4]。しかし、みことりょう親王しんのうさわやかにこえててわらうと、「主上しゅじょう後醍醐天皇ごだいごてんのう)は帝都ていと還幸かんこうなさったときわたし元首げんしゅしょうと、そなたを股肱ここうしんとさせたのだ。いったい、股肱ここうなくして元首げんしゅがあろうか。こうなっては黄泉よみからかたきむくいようとおもう。ところで、(わたし宮廷きゅうていひとであるから武家ぶけ作法さほううといが、戦場せんじょうにおける)自害じがいとはどのようにするものだったかな」とたずねた[4]あらわあふれるなみだおさえて「このようにするものでございます」とうと、正式せいしき作法さほうにより堂々どうどう自害じがいした[4]みことりょう親王しんのうころもいてゆきのような白肌しらはだあらわにすると、あらわ作法さほうならって自害じがいし、さきに斃れたあらわむくろあたまうえかさねていのちともにしたとえがかれる[4]

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 鎌倉かまくら時代ときよ南北なんぼくあさ時代じだい研究けんきゅうすす以前いぜんは「たかながしんのう」とばれることもおおかった。くわしくは、後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじ参照さんしょう
  2. ^ 太平たいへいによる。ただし異説いせつもある。
  3. ^ なお、二条にじょう良基よしもとはは西園寺さいおんじ婉子は、みことりょう親王しんのうしつくしげ殿どのあねであるため、良基よしもとみことりょう義理ぎりおいたる。
  4. ^ 中世ちゅうせい日本にっぽんにおいては、宮廷きゅうていじんにとっての一般いっぱん知識ちしき古典こてんてき教養きょうようである『源氏物語げんじものがたり』のはなしは、宮廷きゅうていにおける恋愛れんあいかんにも影響えいきょうりょくがあった[17]。たとえば、後深草院二条ごふかくさいんのにじょういたとされる日記にっき文学ぶんがくとはずがたり』(14世紀せいき初頭しょとう)のうちつやうらら宮廷きゅうてい恋愛れんあい模様もようえがいた前半ぜんはん部分ぶぶんには、展開てんかい和歌わか双方そうほうで『源氏物語げんじものがたり』からのつよ影響えいきょうられる[17]。また、日本にっぽん研究けんきゅうしゃ中井なかい裕子ゆうこは、論文ろんぶんではなく個人こじんのウェブサイトじょうのくだけた文脈ぶんみゃくではあるが、みことりょう親王しんのうちちであるみこと親王しんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう)が有力ゆうりょく公家くげむすめである西園寺さいおんじ禧子よしこ西園寺さいおんじ邸宅ていたくからぬすした事件じけんについて、政治せいじてき動機どうきによる婚姻こんいんではなく、たんに『源氏物語げんじものがたり』の熱狂ねっきょうてき愛好あいこうだったみこと光源氏ひかるげんじむらさきじょう物語ものがたりえんじたかったのではないか、という個人こじんてき動機どうきもとめるせつ提起ていきしている[18]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e 相馬そうま 1994.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 村田むらた 1997.
  3. ^ a b もり 2007, p. 226.
  4. ^ a b c d e だい日本にっぽん史料しりょう』6へん4さつ114–143ぺーじ.
  5. ^ もり 2007, pp. 226–227.
  6. ^ もり 2007, p. 227.
  7. ^ 飯田いいだ久雄ひさお吉田よしだ定房さだふさ」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1997ねん 
  8. ^ a b c 亀田かめだ 2017, pp. 19–20.
  9. ^ 亀田かめだ 2017, pp. 21–23.
  10. ^ だい日本にっぽん史料しりょう稿本こうほん5へん905さつ783ぺーじ.
  11. ^ a b c もり 2008.
  12. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん1さつ33–40ぺーじ.
  13. ^ 村田むらたただしこころざしつねりょう親王しんのう」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1997b。 
  14. ^ a b c 井上いのうえ 1983, p. 163.
  15. ^ 井上いのうえ 1983, p. 262.
  16. ^ 深津ふかづ & 君嶋きみしま 2014, pp. 241–242.
  17. ^ a b * 鈴木すずき, 儀一ぎいち「とはずがたり」じょう教養きょうよう : 引歌ひきうたをめぐって」『駒沢こまざわ国文こくぶんだい6かん駒沢大学こまざわだいがく国文こくぶん学会がっかい、1968ねん、10–25ぺーじ  閲覧は自由
  18. ^ 中井なかい裕子ゆうこ (2003ねん5がつ3にち). “A LIFE OF 後醍醐天皇ごだいごてんのう: 3. 皇太子こうたいし時代じだい”. きゅーchanのほーむぺーじ. 2020ねん8がつ13にち閲覧えつらん
  19. ^ a b c d 井上いのうえ 1983, pp. 231–234.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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