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三浦芳聖 - Wikipedia コンテンツにスキップ

三浦みうらかおるきよし

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三浦みうら かおるきよし(みうら よしまさ、1904ねん明治めいじ37ねん9月17にち - 1971ねん昭和しょうわ46ねん3月30にち)は、だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん降伏ごうぶくしたのちに、南朝なんちょう正統せいとうすめらぎたねであることを主張しゅちょうした「自称じしょう天皇てんのう」の一人ひとり三浦みうら天皇てんのう、またはかおるせい天皇てんのうごうかみりゅう

概説がいせつ

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南朝なんちょうには、1336ねんのべもと元年がんねん)10がつ後醍醐天皇ごだいごてんのうから皇位こうい継承けいしょうして北陸ほくりくちたうちでん皇統こうとう北陸ほくりく朝廷ちょうてい)と、後醍醐天皇ごだいごてんのう陽動ようどう作戦さくせんのために吉野よしのもうけた偽装ぎそう朝廷ちょうていであるふくみつるの「正副せいふくみつる」が存在そんざいした。[1]なずらえ天皇てんのうであるこう亀山天皇かめやまてんのう(熙成おう)が、足利あしかが義満よしみつ謀略ぼうりゃくによる南北なんぼく一統いっとう上洛じょうらく最後さいごうちでん天皇てんのう美良みよし親王しんのう)は愛知あいちけん岡崎おかざき牧平まきひらまち大門おおもんおい三種さんしゅ神器じんぎ封印ふういんして地下ちかふか埋蔵まいぞうし、てん岩戸いわとこもりとし、皇后こうごう三浦みうら佐久さくひめせい三浦みうら」を名乗なのって三浦みうら藤太とうたおっとしょうし、純然じゅんぜんたる農民のうみんとなって今日きょういたった。三浦みうらは、そのうちでん天皇てんのう嫡孫ちゃくそんである。[2]

生涯しょうがいあゆ

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1904ねん明治めいじ37ねん)9がつ17にち愛知あいちけん額田ぬかたぐん豊富とよとみむら大字だいじ牧平まきひら大門おおもんげん岡崎おかざき牧平まきひらまち大門おおもん)に、ちち三浦みうら市次郎いちじろうはは・もと(元子もとこ)の三男さんなんとしてまれる[3]幼名ようみょう幸喜こうき」(こうきち)、せきめいけいじょう」(けいじょう)。[4]

1910ねん明治めいじ43ねん)9がつ30にち牧平まきひらの「豊富ほうふ神社じんじゃ」の祭礼さいれいに、外祖父がいそふ河合かわい和助わすけより「聖人せいじんやすんず、賢人けんじんわかとす、常人じょうじんかしこる」のみことりょう精神せいしん訓戒くんかいを受く[5]1911ねん明治めいじ44ねん)4がつ豊富ほうふ小学校しょうがっこう入学にゅうがく[6][4]

ちち三浦みうら市次郎いちじろうは、実業じつぎょうで、名古屋なごや岡崎おかざきとう投資とうしした事業じぎょう失敗しっぱいし、1913ねん大正たいしょう2ねん)6がつ30にち病気びょうき急死きゅうししたので、三浦みうら破産はさんし、三浦みうらかぞどし10さい蒲郡がまごおり清田きよたまち浄土宗じょうどしゅう西山にしやま深草ふかくさくすのき林山はやしやま安楽寺あんらくじ小僧こぞうとなった。それまでなにひとつ不自由ふじゆうのないめぐまれた生活せいかつから急転直下きゅうてんちょっかきびしい道場どうじょう生活せいかつへの変転へんてんに、この諸行無常しょぎょうむじょう痛感つうかんした。[7][4]

安楽寺あんらくじでの生活せいかつは、富永とみながけいほう老子ろうしのちだい88せい浄土宗じょうどしゅう西山にしやま深草ふかくさ総本山そうほんざん誓願寺せいがんじ管長かんちょう)の指導しどうした毎日まいにち午前ごぜん3起床きしょう午前ごぜん7朝食ちょうしょくまでに、清掃せいそう洗面せんめん読経どきょう講義こうぎと、にもまれ峻烈しゅんれつなる修行しゅぎょう毎日まいにちで、やく5年間ねんかん修行しゅぎょうちゅうに、むねじょうじょう論語ろんご孟子もうし大学だいがく中庸ちゅうよう文章ぶんしょう規範きはん唐詩とうしせんひとし学問がくもんおさめた。1917ねん大正たいしょう6ねん)3がつ22にち蒲郡がまごおり北部ほくぶ尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう宝飯ほいぐんちょうより「品行ひんこう方正ほうせい学術がくじゅつ優等ゆうとうしょう」を授与じゅよされた。[4]

1918ねん大正たいしょう7ねん)3がつ、15さいのとき上洛じょうらく中根なかね正親まさちか経営けいえいするりょう洋学ようがくいんの4ねん編入へんにゅう通学つうがくかたわ石黒いしぐろ観堂かんどうむねじょうがくを、井口いぐちやすしゆたかじょうがくを、山本やまもと窺園漢学かんがくを、小田おだかきどう国学こくがくを、ミスサウター英語えいごを、毎週まいしゅういちかいあてかくやしき参上さんじょうしておしえをい、1920ねん大正たいしょう9ねん中学ちゅうがく卒業そつぎょう当時とうじ京都きょうと左京さきょう鹿しかだににあった仏教ぶっきょう専門せんもん学校がっこう進学しんがく学業がくぎょうかたわさらすすんでかみ儒仏じゅぶつ耶のしょ宗教しゅうきょう研鑽けんさんした。専門せんもん学校がっこう時代じだいに、神風かみかぜくしりょ解明かいめいのヒントをる。1921ねん((大正たいしょう10ねん)、神戸こうべワシントン条約じょうやく締結ていけつ反対はんたい街頭がいとう演説えんぜつ英語えいごおこなう(学生がくせいによる政治せいじ運動うんどうはしりか)。[8]

1923ねん大正たいしょう12ねん)3がつ仏教ぶっきょう専門せんもん学校がっこう卒業そつぎょう。4月、明治大学めいじだいがく法科ほうか入学にゅうがく。9月、関東大震災かんとうだいしんさい遭遇そうぐう本所ほんじょ陸軍りくぐんしょう被服ひふくしょうあとにて仮死かしせるも5にち奇跡きせきてき蘇生そせい。その渥美あつみまさる邂逅かいこう師事しじ日本にっぽんてき生命せいめいかん開眼かいがん[8]

1924ねん大正たいしょう13ねん)6がつ壮丁そうてい検査けんさ甲種こうしゅ合格ごうかく。6月30にち父親ちちおやだい11かい命日めいにち三浦みうら系図けいず掘出ほりだす。系図けいず神風かみかぜくしりょ解明かいめいはじまる。1925ねん大正たいしょう14ねん)1がつ徴兵ちょうへいされ、陸軍りくぐん豊橋とよはし歩兵ほへいだい18連隊れんたいだいいち中隊ちゅうたい入隊にゅうたい入営にゅうえいちゅう1926ねん大正たいしょう15ねん)10がつ21にち遠祖えんそ長慶天皇ちょうけいてんのう皇統こうとうとうれつ衝撃しょうげきける。11月30にち連隊れんたいだいいちごう下士官かしかん適任てきにん証書しょうしょおよ善行ぜんこう証書しょうしょ除隊じょたい。12月1にち愛知あいちけん蒲郡がまごおり清田きよたまち浄土宗じょうどしゅう西山にしやま深草ふかくさめぐみ照山てるやま日曜にちよういん住職じゅうしょく就任しゅうにん

1925ねん大正たいしょう14ねん長岡京ながおかきょう粟生あおう光明寺こうみょうじにて西山にしやま国師こくし秘訣ひけつしゅう読破どくは。その経文きょうもんに、「十方じっぽう衆生しゅじょうのために正覚しょうがくなりずるしゃあさきわまる。ちょう大願たいがんへんだい日本にっぽんおこる。ゆえに此のくにもっわたる陀本こくとなす」とあるをくるわねんとして大悟たいごした。[4]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ西山にしやま専門せんもん学校がっこう助教授じょきょうじゅ就任しゅうにん錦旗きんきかい入会にゅうかい。6月、教職きょうしょく専念せんねんする名目めいもくで、めぐみ照山てるやま日曜にちよういんいんだいき、遠祖えんそ御陵ごりょうさがしと東京とうきょうでの研鑽けんさん専念せんねんする。このとし宮中きゅうちゅう顧問こもんかん山口やまぐちするどこれすけ師事しじ大国おおくに隆正たかまさ本学ほんがく(もとつがく)をまなぶ。陸軍りくぐん大将たいしょう荒木あらき貞夫さだお真崎まさき三郎さぶろう主宰しゅさいする「皇国こうこく維新いしん運動うんどう」にはいる。9月、青木あおき文献ぶんけんくしりょによりまつりょう天皇てんのう皇后こうごう綾子あやこひめ御陵ごりょう静岡しずおかけん浜松はままつ天竜てんりゅう船明ふなぎらの「上臈じょうろうづか」)を発見はっけん[2]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)4がつすみみなみ事変じへん応召おうしょう。11月4にち渥美あつみまさる昇天しょうてん。11月、内地ないち帰還きかん召集しょうしゅう解除かいじょ。12月9にち渥美あつみまさる葬儀そうぎ於東おひがしきょう青年せいねん会館かいかん葬儀そうぎ委員いいんちょう頭山とうやまみつる)にて弔辞ちょうじみ、「陋巷の布衣ふい聖者せいじゃはいるるべくあまにごれるこのなるかも」といううたささげる。[8]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)2がつ宮中きゅうちゅう顧問こもんかん山口やまぐちするどこれすけ三浦みうら系図けいず鑑定かんていあおぐ。山口やまぐちするどこれすけは、このけんただちにもと宮内みやうち大臣だいじん田中たなかひかりあきら相談そうだん。このとき田中たなかひかりあきらから、明治維新めいじいしん後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじまんりょう親王しんのうおうまご擁立ようりつしての南朝なんちょう革命かくめいであったという真相しんそう打明うちあけられた。同日どうじつ田中たなかひかりあきらより頭山とうやまみつる紹介しょうかいされる。三浦みうら系図けいず発奮はっぷんし、すめらぎせい復古ふっこだい維新いしん運動うんどうこしたため、当局とうきょくより特別とくべつよう視察しさつじんとして5・6がつごろから尾行びこうされる。6月、錦旗きんきかい三河そうご支部しぶ結成けっせい。8月、出山でやま還俗げんぞく[4]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、錦旗きんきかい愛知あいちけん支部しぶちょう就任しゅうにん皇国こうこく維新いしん運動うんどう三河みかわ各地かくちじゅんこうロンドン軍縮ぐんしゅく会議かいぎ不平等ふびょうどう条約じょうやく反対はんたい運動うんどうむ。3月、錦旗きんきかい幹部かんぶ遠藤えんどうとも四郎しろうごう無水むすい)と衝突しょうとつ錦旗きんきかい追放ついほうされる。4月~10がつ土佐とさふつ岳山たけやまにてだいげんほらむらさきよう道人どうじんについて7ヶ月かげつあいだ草根木皮そうこんもくひしょくして神仙しんせんどう修行しゅぎょう敢行かんこうひゃくたば検定けんてい合格ごうかく允可いんか初歩しょほ霊感れいかんる。帰途きと阿波あわ鳴門海峡なるとかいきょうにて「はやひらき咩」を霊感れいかんす。名古屋なごやなか御器所ごきしょまちに「だい日本にっぽんかい本部ほんぶ設立せつりつ。「神道しんとうてんきょう教主きょうしゅ高木たかぎちゅうきたりて「神道しんとう復古ふっこ連盟れんめい」の顧問こもん招聘しょうへいさる。[8]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)2がつ霊感れいかんにて加古川かこがわ上流じょうりゅう千ヶ峰せんがみね中腹ちゅうふくに「日月じつげつたき」を発見はっけん昭和しょうわ24ねんまでにけい68かい参篭さんろう禊祓みそぎはらいみずぎょう敢行かんこう)。このとし田中たなかひかりあきらたのんで、文部省もんぶしょう発行はっこうの『歴代れきだい天皇てんのう御製ぎょせいしゅう』(335ぺーじ)に大宝たいほう天皇てんのう御製ぎょせい九重ここのえのみぎりをめぐるみかはみずすみこしまつはたえじとぞおもふ」を長慶天皇ちょうけいてんのう御製ぎょせいとしてせてもらう。昭和しょうわ維新いしん断行だんこうのため、1932ねん昭和しょうわ7ねん)、東海とうかいきょうぐん同志どうしかい結成けっせいせんと愛知あいちけん岐阜ぎふけん静岡しずおかけんした活動かつどうする。[8]

1933ねん昭和しょうわ8ねんはる朝拝ちょうはい天照大御神あまてらすおおみかみさけもちいない」のれいしめせ以後いご恩賜おんしさけまない禁酒きんしゅ生活せいかつ貫徹かんてつ日月じつげつたきみそぎちゅう神霊しんれいみちびきにより8がつ16にち長慶ちょうけいいん法皇ほうおう崩御ほうぎょ埋蔵まいぞう西山にしやま」(兵庫ひょうごけん加西かさい青野あおのまち)を発見はっけん長慶ちょうけいいん法皇ほうおう最期さいご様子ようす天然てんねんしょく映像えいぞうにてれいする。[9]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)1がつ15にち名古屋なごや公会堂こうかいどうでのだいさんかん在郷ざいきょう軍人ぐんじん大会たいかい緊急きんきゅう動議どうぎ提出ていしゅつして昭和しょうわ維新いしん断行だんこうせんと、たい中華民国ちゅうかみんこく親善しんぜん外交がいこう提唱ていしょうしたところ、憲兵けんぺいたい拘引こういんされ失敗しっぱいする。軍服ぐんぷくちゃくして政治せいじくちしたとの理由りゆうであった。[4]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつ名古屋なごや昭和しょうわ御所ごしょまち中部ちゅうぶ国民こくみん道場どうじょう創立そうりつ道場どうじょうちょう就任しゅうにん国体こくたい明徴めいちょう運動うんどう推進すいしん1936ねん昭和しょうわ11ねん)、相沢あいざわ中佐ちゅうさ事件じけん公判こうはん闘争とうそうのため奔走ほんそう海軍かいぐん大将たいしょう山本やまもと英輔えいすけ知遇ちぐうる。2月26にち二・二六事件ににろくじけん決起けっき部隊ぶたい支援しえんするため、東海とうかいきょうぐん同志どうしかい会員かいいん指令しれいはっし、上京じょうきょうするため名古屋なごやえき集合しゅうごう(56めい)するも、名古屋なごや憲兵けんぺいたい騎馬きばたい阻止そしされる。[10]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)7がつ、「東洋とうよう平和へいわだい方策ほうさく」(ささえ事変じへん処理しょりかんする意見いけんしょ)を近衛このえ文麿ふみまろ送付そうふ。10月、ささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)に応召おうしょう、12月1にちづけにて陸軍りくぐん歩兵ほへい軍曹ぐんそう昇進しょうしん中国ちゅうごく各地かくち転戦てんせん1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ黄河こうが渡河とかせんにて死線しせんえて奮戦ふんせん。5月、腹部ふくぶ盲管銃創もうかんじゅうそう内地ないち送還そうかんされる。1939ねん昭和しょうわ14ねん年初ねんしょ名古屋なごや陸軍りくぐん病院びょういん文部もんぶ大臣だいじん荒木あらき貞夫さだお大将たいしょう見舞みまいに参上さんじょう。8月傷痍軍人しょういぐんじんとなり召集しょうしゅう解除かいじょ名古屋なごや中部ちゅうぶ国民こくみん道場どうじょうけん自宅じたく帰宅きたく。その名古屋なごや日本にっぽん碍子がいし株式会社かぶしきがいしゃおよ日本特殊陶業にっぽんとくしゅとうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ青年せいねん学校がっこう名誉めいよ校長こうちょう就任しゅうにん[2]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつもと企画きかくいん総裁そうさいたき正雄まさおされ軽井沢かるいざわにて近衛このえ文麿ふみまろ面会めんかいし、神風かみかぜくしりょ実演じつえんおこなったのは「大戦たいせんぼうぎゃくめんくしりょ」の解明かいめい)。1941ねん昭和しょうわ16ねん)、大政たいせい翼賛よくさんかい愛知あいちけん支部しぶねりなり部長ぶちょう[11]名古屋なごや翼賛よくさん壮年そうねんだん本部ほんぶ総務そうむ就任しゅうにん[8]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ3にち名古屋なごや空襲くうしゅうにより中部ちゅうぶ国民こくみん道場どうじょうけん自宅じたく焼失しょうしつまつりょう天皇てんのう正良まさよし)の先蹤せんしょうならい、愛知あいちけん宝飯ほいぐん音羽おとわまちはぎむらげん豊川とよかわはぎまち)に疎開そかい。8月15にち敗戦はいせんさい宣戦せんせん布告ふこく上奏じょうそうせんとして名古屋なごや出張しゅっちょう小畑おばた忠良ただよし東海とうかい北陸ほくりく地方ちほう総監そうかん)にさい宣戦せんせん布告ふこく上奏じょうそう要請ようせいするも敗戦はいせん必至ひっしとなり、22にちかえりはぎひそかに自決じけつ決意けつい。23にち妻子さいし名古屋なごや在住ざいじゅう親戚しんせき義弟ぎてい)にたくし、24にちはぎむらにて切腹せっぷく自刃じじんせんとしたとき天照大御神あまてらすおおみかみより「なんじかみすめらぎ正統せいとう嫡皇まご天津てんしん日嗣ひつぎ天皇てんのうである、勝手かってぬことをゆるしません…」という主旨しゅしれいしめせ自決じけつにかえて50日間にちかんだんいん断食だんじき実行じっこう結果けっか瀕死ひんし状態じょうたいになるも霊界れいかいより有形ゆうけい無形むけい飲食いんしょくあたえられ蘇生そせいした。10月中旬ちゅうじゅん石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう参篭さんろうし「天照大御神あまてらすおおみかみかみさとし相違そういなければ世界せかいにん実証じっしょうしめたまえ!幻覚げんかくならばいのち召上めしあげ、血統けっとうやしていただきたい」と誓約せいやくおこなう。翌朝よくあさそと太陽たいようよ!とのれいしめせたまわり、太陽たいよう凝視ぎょうししたところまったまぶしくなく、以後いご真夏まなつ烈日れつじつ終日しゅうじつ凝視ぎょうしできるようになった。かえりはぎむら毎日まいにち大祓おおはらしんみことのり祭祀さいしみそぎぎょうおよ太陽たいよう凝視ぎょうしちょくはいいむおさむ三浦みうらかおる遷を名乗なのる。[4]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)、翼賛よくさんかい人脈じんみゃくかし徳山とくやまかい結成けっせい神国しんこく再建さいけん運動うんどう開始かいしするもGHQ妨害ぼうがい頓挫とんざ公職こうしょく追放ついほう厳重げんじゅう監視かんし処分しょぶんう。6月、かみいのちによりあらためさい復古ふっこ維新いしん祭祀さいし神道しんとうあらためさい復古ふっこ運動うんどう)を開始かいし[8]

1948ねん昭和しょうわ23ねん)4がつ長慶ちょうけいいん法皇ほうおう崩御ほうぎょ埋葬まいそう西山にしやま」の管理かんり所有しょゆうしゃ近松ちかまつ敬次郎けいじろうからまかされる。9月、神霊しんれいみちびきと霊感れいかんによって元子もとこ内親王ないしんのう小松こまつ天皇てんのう皇后こうごう小室こもろもんいん)の御陵ごりょう静岡しずおかけん牧之原まきのはら大寄おおよりまち谷台やつだいじょうみょうさとしづか)を発見はっけん。11月16にち西山にしやまにて長慶ちょうけいいん法皇ほうおう540ねんさいおこなう。[8]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)8がつ豊川とよかわ市田いちだまち転居てんきょ同月どうげつ15にち後醍醐天皇ごだいごてんのう神霊しんれいよりかみしめせあり、1336ねんのべもと元年がんねん)10がつ9にち比叡山ひえいざんおいみことりょう親王しんのう譲位じょういせしことげらる。10月、(いたり翌年よくねん4がつ三河みかわ八幡宮はちまんぐうにてかみかい伝法でんぼう秘法ひほう修得しゅうとく1951ねん昭和しょうわ26ねんなつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう停戦ていせん祈念きねん伊勢神宮いせじんぐうをはじめ神武じんむ天皇てんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう応神天皇おうじんてんのう長慶ちょうけいいん法皇ほうおう崩御ほうぎょ埋蔵まいぞう西山にしやま、その歴代れきだい天皇てんのう御陵ごりょう巡回じゅんかいまん50日間にちかん断食だんじき行脚あんぎゃ決行けっこうあきより三河みかわ各地かくち巡回じゅんかい秘法ひほう祭祀さいしいむおさむけい729日間にちかん)。9月、公職こうしょく追放ついほう解除かいじょ1952ねん昭和しょうわ27ねん)4がつ厳重げんじゅう監視かんし処分しょぶん解除かいじょ[8]

1953ねん昭和しょうわ28ねん)2がつくしりょだい台風たいふうだか津波つなみ予知よち陰暦いんれき8がつ16にち以降いこうの5日間にちかん警戒けいかいするよう吉田よしだしげる首相しゅしょう緒方おがた竹虎たけとら進言しんげんした。3月28にち土居どいやすしから「大本おおもときょうのお筆先ふでさき」をせらる。6月、中部ちゅうぶ社会しゃかい事業じぎょう短期大学たんきだいがく名誉めいよ講師こうし就任しゅうにん[8]

1955ねん昭和しょうわ30ねん)1がつ皇居こうきょ遷都せんと提唱ていしょう運動うんどう開始かいし。2月、『神風かみかぜくしりょだいいちへん』の発行はっこう皮切かわきりに神風かみかぜくしりょ公表こうひょう開始かいし1956ねん昭和しょうわ31ねん)12月、中部ちゅうぶ社会しゃかい事業じぎょう短期大学たんきだいがく講師こうし辞職じしょく1957ねん昭和しょうわ32ねん)1がつ21にち応神天皇おうじんてんのう御陵ごりょう参拝さんぱい天照大御神あまてらすおおみかみかみいのちしがらみえてなかはい写真しゃしん撮影さつえいし、かみすめらぎ正統せいとう嫡皇まごであることを実証じっしょうせよ」にしたがい、応神天皇おうじんてんのう御陵ごりょうにした三浦みうらかおるきよし衣冠いかん束帯そくたい姿すがた応神天皇おうじんてんのう神霊しんれい写真しゃしん撮影さつえいした。[8]

1958ねん昭和しょうわ33ねん)11月、豊川とよかわ市田いちだまち諏訪すわりん神風かみかぜくしりょ講究こうきゅうしょけん自宅じたく建築けんちくされ道場どうじょう開場かいじょうしき挙行きょこう1959ねん昭和しょうわ34ねん)1がつ長慶ちょうけいいん法皇ほうおう550ねん記念きねん事業じぎょう学会がっかい発表はっぴょう長慶天皇ちょうけいてんのう研究けんきゅう』を発行はっこう。4月24にち青森あおもりけん秋田あきたけん調査ちょうさ旅行りょこう実施じっし、25にちかねりのにて興国こうこく天皇てんのう神霊しんれい写真しゃしん撮影さつえい1960ねん昭和しょうわ35ねん)4がつ大宝たいほう天皇てんのう480ねんさいいむおさむ以後いご神風かみかぜくしりょ解明かいめい神宮じんぐう御陵ごりょう参拝さんぱい世界せかい平和へいわ祈念きねん祭祀さいし)に専念せんねん[8]

1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ7にち旧暦きゅうれき3がつ6にち)、みことりょう親王しんのうだいじゅうせい天皇てんのうであること発表はっぴょう1967ねん昭和しょうわ42ねん)7がつまつりょう天皇てんのう550ねんさい挙行きょこう1970ねん昭和しょうわ45ねん)10がつ、『徹底的てっていてき日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす』発行はっこう[8]1971ねん昭和しょうわ46ねん)3がつ30にち自宅じたくにて死去しきょ、68さい

三浦みうら皇統こうとう

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以下いか三浦みうら系図けいず三浦みうらかおるひじり研究けんきゅうもとづく皇統こうとう列記れっきする。年月日ねんがっぴ表記ひょうきはいずれも旧暦きゅうれきである。

  • 東山ひがしやま天皇てんのうみことりょう親王しんのう):在位ざいい・1336ねんのべもと元年がんねん)10がつ9にち - 1337ねんのべもと2ねん)2がつ5にち
    • 1304ねんよしみもと2ねん)8がつ8にちせい - 1337ねんのべもと2ねん)3がつ6にちくずれ(34さい
    • ちち後醍醐天皇ごだいごてんのうははじょうためおんなため、「皇后こうごう」・西園寺さいおんじこうあきらおんな藤原ふじわら清子きよここう京極きょうごくいんくしげ殿どの
    • 三浦みうらかみかいからのれいしめせけ、神風かみかぜくしりょによる調査ちょうさ研究けんきゅうおこなった結果けっか、1336ねんのべもと元年がんねん)10がつ9にち比叡山ひえいざんおい後醍醐天皇ごだいごてんのうから譲位じょういされた。三浦みうらは『太平たいへい』に越前えちぜんくに金ヶ崎かねがさきしろ落城らくじょうおおくの将兵しょうへいが「殉死じゅんしした」とかれていると主張しゅちょうし、天皇てんのうであったことは間違まちがいないとしている。[12]
  • 興国こうこく天皇てんのうまもりなが親王しんのう):在位ざいい・1337ねんのべもと2ねん)2がつ5にち - 1368ねん正平しょうへい23ねん)3がつ23にち
    • 1328ねんよしみれき3ねん)9がつせい - 1397ねんおうなが4ねん)3がつくずれ(70さい
    • ちち東山ひがしやま天皇てんのうはは藤原ふじわら清子きよここう京極きょうごくいんくしげ殿どの
    • 三浦みうら伝承でんしょうする系図けいずには、後醍醐天皇ごだいごてんのうから皇位こうい継承けいしょうされたと記録きろくされていた。[12]三浦みうらまもりなが親王しんのう後醍醐天皇ごだいごてんのう猶子ゆうしとなり[13]越前えちぜんくに金ヶ崎かねがさきじょうおい東山ひがしやま天皇てんのうから譲位じょういされた。[12]
  • 小松こまつ天皇てんのうきょうりょう親王しんのう):在位ざいい・1368ねん正平しょうへい23ねん)3がつ23にち - 1373ねん文中ぶんちゅう2ねん)5がつ26にち
    • 1334ねん(たてたけし元年がんねん)3がつ14にちせい - 1375ねん天授てんじゅ元年がんねんくずし(42さい
    • ちち宗良親王むねながしんのうはは狩野かのかいさだちょうおんな駿河するがひめ)、「皇后こうごう」・元子もとこ内親王ないしんのう興国こうこく天皇てんのうだい皇女おうじょ小室こむろもんいん
    • 三浦みうら興国こうこく天皇てんのうより譲位じょういされたと主張しゅちょうしている。
  • まつりょう天皇てんのう正良まさよし親王しんのう):在位ざいい・1373ねん文中ぶんちゅう2ねん)5がつ26にち - 1410ねんおうなが17ねん
  • 大宝たいほう天皇てんのう美良みよし親王しんのう):在位ざいい・1410ねんおうなが17ねん) - 1454ねんとおるとく3ねん
    • 1394ねんおうなが元年がんねんせい - 1481ねん文明ぶんめい13ねん)3がつ15にちくずれ(88さい
    • ちちまつりょう天皇てんのうはは綾子あやこひめ(「長慶ちょうけいいん法皇ほうおう皇女おうじょ)、「皇后こうごう」・三浦みうら佐久さくひめたてたけし新政しんせい活躍かつやくしたという富士大ふじだい宮司ぐうじ三浦みうら義勝よしかつの5だいまご木花きばな佐久さく耶姫の再現さいげんという)
    • 懸賞けんしょうつきで探索たんさくする幕府ばくふ追跡ついせきをかわしつつ、各地かくち潜行せんこうしたといい、1438ねんえいとおる10ねん)、岡崎おかざき切越きりこし隠棲いんせいしたという。最後さいごまでしたがった数少かずすくない臣下しんからにささえられながら、すめらぎ回復かいふく祈願きがんしてだい般若はんにゃけいろくひゃくかん念書ねんしょするなど修行しゅぎょう専念せんねんする日々ひびごしたという。[12]
    • 1454ねんとおるとく3ねん)に天照大御神あまてらすおおみかみかみみことのりしたがい、三種さんしゅ神器じんぎ地下ちかふか埋蔵まいぞうして現在げんざい岡崎おかざき牧平まきひらまち大門おおもん移住いじゅう。「皇后こうごう」のせい名乗なのって三浦みうら藤太とうたおっとしょう百姓ひゃくしょうとなった。[12]

なお、三浦みうら南朝なんちょう天皇てんのうである長慶天皇ちょうけいてんのう寛成かんせい親王しんのう)についても以下いかのように主張しゅちょうしている。

  • 寛成かんせい親王しんのう南朝なんちょう抗戦こうせんとして、1373ねん文中ぶんちゅう2ねん)の小松こまつ上皇じょうこう崩御ほうぎょともない、摂政せっしょう就任しゅうにんした。
  • まつりょう天皇てんのうから太上天皇だじょうてんのうごう落飾らくしょくして「長慶ちょうけいいん法皇ほうおう」)をけた。[12]
  • ひそかに富士ふじ皇居こうきょうつ[14]、ここから東国とうごく武士ぶし北朝ほくちょう打倒だとうだい号令ごうれいはっし、1385ねんもとなか2ねん)からは側近そっきん公卿くぎょうらをしたが高野山こうのやまにのぼり戦勝せんしょう祈願きがんめたのち高野たかのきよし僧上そうじょうじんふんして全国ぜんこく行脚あんぎゃした。[15]
  • 南北なんぼくあさ合一ごういつのち、1409ねんおうなが16ねんあき播磨はりまこく城山しろやま地元じもと武士ぶしらに急襲きゅうしゅうされ、兵庫ひょうごけん加西かさい青野あおのまち西山にしやまぼっした。[12]

著書ちょしょ

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  • くしりょ哲学てつがくだいいち輯-絶対ぜったい真理しんり解明かいめい』(大竹おおたけ書店しょてん、1956ねん
  • 日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす : かみすめらぎ正統せいとうごく秘伝ひでん神風かみかぜくしりょる』(神風かみかぜくしりょ講究こうきゅうしょ1968ねん昭和しょうわ43ねん))
  • 徹底的てっていてき日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす-しんすめらぎ正統せいとう極秘ごくひでん神風かみかぜくしりょ(くしりょ哲学てつがく地文学ちもんがく)及皇統こうとう系譜けいふ其他文献ぶんけんもって』(神風かみかぜくしりょ講究こうきゅうしょ1970ねん昭和しょうわ45ねん))
  • 神風かみかぜくしりょ』『くしりょ哲学てつがく』『くしりょ哲学てつがく地文学ちもんがく』『神風かみかぜくしりょ解明かいめいとう通算つうさん181ごう神風かみかぜくしりょ講究こうきゅうしょ、1955ねん~1971ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 熊田くまだあしじょう日本にっぽん史蹟しせき』(昭文社しょうぶんしゃ、1916)
  • 山口やまぐち保吉やすきち三河みかわ吉野よしのちょう研究けんきゅう』(山口やまぐちきわむ宗堂そうどう、1940ねん
  • 中西なかにし久次郎きゅうじろう家田いえだ富貴ふきおとこ長慶天皇ちょうけいてんのう聖蹟せいせきひがしさんかわ吉野よしの朝臣あそん』(三河みかわ吉野よしのちょう聖蹟せいせき研究所けんきゅうじょ、1940ねん
  • 八板やいた千尋ちひろ大楠公だいなんこう秘史ひし』(東京とうきょうかく、1942ねん
  • 豊川とよかわ市勢しせい要覧ようらん 昭和しょうわ28年版ねんばん」(P152から153より)
  • 山口やまぐち保吉やすきちよしはな鶴水つるみずえん聖地せいち』(山口やまぐちきわむ宗堂そうどう、1943ねん
  • 藤原ふじわら丸山まるやま長慶天皇ちょうけいてんのう傳説でんせつ木地屋きじやみん : さんとお南朝なんちょう史論しろん』(南朝なんちょう学会がっかい、1961ねん
  • 藤原ふじわら丸山まるやま『三河吉野朝玉川宮御遺蹟の研究けんきゅう』(南朝なんちょう学会がっかい、1964ねん
  • 藤原ふじわら丸山まるやま南朝なんちょう正統せいとう皇位こうい継承けいしょうろん』(南朝なんちょう学会がっかい、1966ねん
  • 藤原ふじわら丸山まるやまいんりょう親王しんのう伝説でんせつ』(南朝なんちょう学会がっかい、1971ねん
  • 藤原ふじわら石山いしやま三河みかわける長慶天皇ちょうけいてんのう伝説でんせつこう』(南朝なんちょう学会がっかい、1979ねん
  • 加茂かも喜三きぞうかく南朝なんちょう』(富士ふじ地方ちほう史料しりょう調査ちょうさかい、1979ねん
  • 玉川たまがわ信明のぶあき へん『エロスをかいしてながめた天皇てんのうゆめまぼろしのはなである 落胤らくいんにせ天皇てんのう社会しゃかい評論ひょうろんしゃ1990ねん平成へいせい2ねん)。
  • 保阪ほさかただしかん天皇てんのうじゅうきゅうにんいた」『さまざまなる戦後せんご文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう1995ねん平成へいせい7ねん)。
  • 原田はらだみのる南朝なんちょうではなく、南朝なんちょう正系せいけい末裔まつえい主張しゅちょうした三浦みうら天皇てんのう」『トンデモニセ天皇てんのう世界せかい文芸ぶんげいしゃ2013ねん平成へいせい25ねん)。
  • ちゅう利男としおにせ天皇てんのう事件じけんめられた日本にっぽんなぞ (別冊べっさつ宝島たからじま 2192)』宝島社たからじましゃ2014ねん平成へいせい26ねん)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 藤原ふじわら丸山まるやま南朝なんちょう正統せいとう皇位こうい継承けいしょうろん
  2. ^ a b c 三浦みうらかおるきよしちょ徹底的てっていてき日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす』
  3. ^ 三浦みうらかおるせいつて 1、だい台風たいふうなかでの降誕こうたんくしりょ哲学てつがく研究けんきゅうノート№113)|鈴木すずき|note”. note(ノート). 2022ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h 三浦みうらかおるきよしちょ姓名せいめい鑑定かんてい秘法ひほうしんかい伝法でんぼう
  5. ^ 三浦みうらかおるせいつて 2、みことりょう親王しんのう再現さいげんくしりょ哲学てつがく研究けんきゅうノート№114)|鈴木すずき|note”. note(ノート). 2022ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  6. ^ 三浦みうらかおるせいつて 3、めぐまれた幼年ようねん時代じだいくしりょ哲学てつがく研究けんきゅうノート№115)|鈴木すずき|note”. note(ノート). 2022ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  7. ^ 三浦みうらかおるせいつて 4、諸行無常しょぎょうむじょうあらしくしりょ哲学てつがく研究けんきゅうノート№116)|鈴木すずき|note”. note(ノート). 2022ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 三浦みうらかおるきよしちょ神風かみかぜくしりょ』『くしりょ哲学てつがく
  9. ^ 三浦みうらかおるきよしちょ日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす』
  10. ^ 三浦みうらかおるきよしちょ姓名せいめい鑑定かんてい秘法ひほう
  11. ^ みんとう : だいいちかい中央ちゅうおう錬成れんせい感想かんそう文集ぶんしゅう - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  12. ^ a b c d e f g h 徹底的てっていてき日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす』
  13. ^ 纂輯系図けいず
  14. ^ 三輪みわよし熈著『長慶天皇ちょうけいてんのうりゃく
  15. ^ 熊田くまだあしじょう日本にっぽん史蹟しせき

外部がいぶリンク

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