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北陸ほくりく朝廷ちょうてい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

北陸ほくりく朝廷ちょうてい(ほくりくちょうてい)は、南北なんぼくあさ時代じだい南朝なんちょうほう武将ぶしょう擁立ようりつ僭称せんしょうにより北陸ほくりく存在そんざいしたとかんがえられる朝廷ちょうていのことである。「北陸ほくりく王朝おうちょう」ともばれる。

概略がいりゃく[編集へんしゅう]

たてたけし新政しんせい後醍醐天皇ごだいごてんのう情熱じょうねつにもかかわらず、わずか3ねん破綻はたんついには光明こうみょう天皇てんのうほうずる足利尊氏あしかがたかうじと、新田にった義貞よしさだらにほうじられて比叡山ひえいざんもる後醍醐天皇ごだいごてんのうにら一触即発いっしょくそくはつ状況じょうきょうとなった。この事態じたい足利尊氏あしかがたかうじ後醍醐天皇ごだいごてんのうがわ和議わぎもうれ、後醍醐天皇ごだいごてんのうもこれにおうじて比叡山ひえいざんくだ京都きょうともどった。ときのべもと元年がんねん/たてたけし3ねん10がつ10日とおかユリウスれき1336ねん11月13にち)のことだった。

しかし、これにもう反発はんぱつしたのが、それまで後醍醐天皇ごだいごてんのう忠誠ちゅうせいくしてきた新田にった義貞よしさだである。講和こうわとなればたたか目的もくてきうしなうばかりか、たたかいをつづければ逆賊ぎゃくぞく汚名おめいせられることになるからである。義貞よしさだ配下はいか武将ぶしょう堀口ほりぐちさだみつる後醍醐天皇ごだいごてんのう直接ちょくせつもう抗議こうぎして義貞よしさだおもいを代弁だいべんしたため、後醍醐天皇ごだいごてんのう義貞よしさだみことのりして皇子おうじつねりょう親王しんのうほうじて北国きたぐにくだるようめいじた。その理由りゆうはこうである――「ちん京都きょうとなば、義貞よしさだ却て朝敵ちょうてきつとさとあいだ春宮とうぐう天子てんしゆずて、どう北国きたぐにくだたてまつべし。天下てんかことしょうだいとなく、義貞よしさだ成敗せいばいとして、ちんがえ此君を取立とりたてしんすべし」。そして三種さんしゅ神器じんぎつねりょうあたえ、あわただしく受禅じゅぜん皇位こうい継承けいしょう儀式ぎしき)をおこなったのち義貞よしさだつねりょうほうじて越前えちぜんこく敦賀つるがびていった。以上いじょう経緯けいいは『太平たいへいまき17「だてもうかきみちょ于義さだことづけおにせつなすすむにち吉事きちじ」にしるされている。これについて瀧川たきがわ政次郎まさじろうは『日本にっぽん歴史れきし解禁かいきん』で「「金甌無缺きんおうむけつ国体こくたい」を護持ごじせんとした明治めいじ歴史れきしたちは、この事実じじつ否定ひていせんとして太平たいへいの措信すべからざるをことを強調きょうちょうしたが(りゃく叡山えいざん受禅じゅぜんがあつたといふ太平たいへい記事きじ事実じじつで、つねりょう親王しんのう天皇てんのうとして北陸ほくりく君臨くんりんせられたことは、ついにこれを否認ひにんすることができない」としている[1]。また、これをまえ「一時いちじ南朝なんちょう北朝ほくちょう北陸ほくりくあささんあさ国内こくない鼎立ていりつしてゐたのである」ともしている[注釈ちゅうしゃく 1]

瀧川たきがわが『太平たいへい』の記事きじ事実じじつであるとする根拠こんきょげているのは白河しらかわ結城ゆうきつたわる「白河しらかわ文書ぶんしょ」と加賀かが前田まえだつたわる「とくこう文書ぶんしょ」である。「白河しらかわ文書ぶんしょ」にえる白河しらかわ結城ゆうき2だい当主とうしゅ結城ゆうき宗広むねひろくだされたしょ(「北陸ほくりく朝廷ちょうてい歴史れきし資料しりょう白河しらかわ文書ぶんしょ参照さんしょう)には「越前えちぜんこく鶴賀つるが行幸ぎょうこうあるところ也」(はら漢文かんぶん)とあり、その打止うちどめには「天気てんき如此悉之以状」とあって、これが「まった綸旨りんじからだ」をなしていること。また「とくこう文書ぶんしょ」には「しろ鹿しかねん」というわたしねんごうもちいた文書ぶんしょ[注釈ちゅうしゃく 2]があることをげ、これらを根拠こんきょに「つねりょう親王しんのう天皇てんのうとして北陸ほくりく君臨くんりんせられたことは、ついにこれを否認ひにんすることができない」と結論けつろんけている。

しかし、この時点じてんみこととの講和こうわおうじた後醍醐ごだいご義貞よしさだたい徹底てってい抗戦こうせんめいじたとは理解りかいしにくいため、前述ぜんじゅつの『太平たいへい』のエピソードは事実じじつとはなしがたい。後醍醐ごだいごにしてみれば、つねりょうへの譲位じょういたかしとの和睦わぼく憤慨ふんがいする義貞よしさだをなだめるためにった一時いちじしのぎにぎなかった。同年どうねん12がつ後醍醐ごだいごきょう脱出だっしゅつして吉野よしのはいり、つねりょうわたした神器じんぎ偽物にせものであり自身じしん本物ほんもの所持しょじしており、自身じしん正統せいとう天皇てんのうであると主張しゅちょうはじめる。これを契機けいきつねりょう発給はっきゅう綸旨りんじ消滅しょうめつするため、つねりょういちおう後醍醐ごだいご天皇てんのう在位ざいいみとめ、みずからの皇位こうい継承けいしょうげた模様もようである。結局けっきょくつねりょう在位ざいいはわずか2ヶ月かげつほどしかつづかず、北陸ほくりく朝廷ちょうていまぼろしわってしまった[4]

自称じしょう天皇てんのう一人ひとり三浦みうらかおるきよしは、みことりょう親王しんのうと、その継承けいしょうしゃまもりなが親王しんのう北陸ほくりく朝廷ちょうてい天皇てんのうであり、みずからがその子孫しそんである[5]べている。

新田にった義貞よしさだ北陸ほくりく朝廷ちょうてい構想こうそう[編集へんしゅう]

新田にった義貞よしさだ後醍醐天皇ごだいごてんのう帰京ききょうみとめる交換こうかん条件じょうけんとして、しん天皇てんのうつねりょう親王しんのうのもと越前えちぜんこく抗戦こうせんつづける意思いししめし、これをみとめさせた[6]越前えちぜんこくは、たてたけし政権せいけんにおいておとうと脇屋わきや義助よしすけ国司こくしを、一族いちぞく堀口ほりぐち貞義さだよし守護しゅごつとめたため、義貞よしさだ足利あしかがかた対峙たいじする拠点きょてん構築こうちくするのにてきしたくにだった。当初とうしょ義貞よしさだ国府こくふにゅうろうとしたが、足利あしかがかたおさえていたため断念だんねんし、気比けひしゃだい宮司ぐうじむかえられて敦賀つるがはいった。

気比けひしゃ裏手うらて山上さんじょうきずかれた金ヶ崎かねがさきしろ拠点きょてんとした義貞よしさだは、嫡子ちゃくしあらわ越後えちごこくくだし、おとうと義助よしすけ足利あしかがかたおさえる越前えちぜん国府こくふ手前てまえ位置いちする杣山そまやまじょうつかわすよう指示しじした。義貞よしさだ当面とうめん目的もくてきは、越前えちぜん国府こくふ攻略こうりゃくし、国内こくない足利あしかがかた武士ぶし寺社じしゃ追討ついとうすることで越前えちぜんこく支配しはいくことであったはずであり、義助よしすけ杣山そまやまじょう派遣はけんはその布石ふせきとみられる。一方いっぽう越後えちごこくは、たてたけし政権せいけん義貞よしさだ上野うえのこくとも国司こくしとして国務こくむをとったくにであり、新田にった影響えいきょうりょくつよおよんでいたことから、あらわ派遣はけんすることで同国どうこく武士ぶし寺社じしゃ動員どういんしようとしたのである。義貞よしさだはまた、陸奥みちのくこく武士ぶしたいして軍勢ぐんぜい催促さいそくおこなうほか、陸奥むつ将軍しょうぐんひきいる北畠きたばたけ顕家あきいえたいしても共同きょうどう侵攻しんこう提案ていあんしており、陸奥みちのくこくしょ勢力せいりょくとも連携れんけいしようとしていたことがられる。これらのことから義貞よしさだは、越後えちご上野うえの陸奥みちのくこくしょ勢力せいりょく連携れんけいしつつ越前えちぜんこく制圧せいあつし、ここにつねりょう頂点ちょうてんとした自立じりつてき政治せいじ権力けんりょく樹立じゅりつすることを目指めざしたとかんがえられる[7]

さらに義貞よしさだ後述こうじゅつの「白河しらかわ結城ゆうき文書ぶんしょ」において、つねりょう発給はっきゅうした命令めいれいしょを「綸旨りんじ」、つねりょう越前えちぜん下向げこうのことを、天皇てんのう移動いどうあらわす「臨幸りんこう」としょうしている。これらのことから、すくなくともつねりょう自身じしんとそれをささえる義貞よしさだは、つねりょう即位そくいみとめていたのは確実かくじつといえる。義貞よしさだは、自身じしん認識にんしきとしてはたしかに「天皇てんのう」を擁立ようりつしていたのであり、義貞よしさだ越前えちぜんこく構想こうそうした地域ちいき政治せいじ権力けんりょくは「北陸ほくりく朝廷ちょうてい」とぶべきものだったといえる[8]

こうした義貞よしさだ政治せいじ構想こうそうは、たてたけし政権せいけん国務こくむ経験けいけんみ、その実務じつむにな人材じんざいをリクルートして家政かせい機関きかん整備せいびしたことを背景はいけいに、実現じつげん可能かのう具体ぐたいさくとして発想はっそうされたものであり、けっして机上きじょう空論くうろんではなかった。独自どくじ天皇てんのうようして行動こうどうこしたというてんは、持明院じみょういんみつる天皇てんのう擁立ようりつした足利尊氏あしかがたかうじなんわることはない。だが、義貞よしさだ政治せいじ権力けんりょくは、たかしのそれに匹敵ひってきするような幕府ばくふ権力けんりょく展開てんかいすることはむずかしかった。なぜならば、かつて鎌倉かまくら幕府ばくふ中枢ちゅうすうから排除はいじょされていた新田にったは、足利あしかがのように政権せいけん運営うんえいおよび幕府ばくふ制度せいどのノウハウを蓄積ちくせきすることが出来できなかったうえに、北陸ほくりく朝廷ちょうていには政権せいけん運営うんえい実務じつむ幕府ばくふ制度せいど運用うんようになった幕府ばくふ奉行ぶぎょうじん姿すがたがみえないからである[9]。さらに義貞よしさだ越前えちぜん下向げこうとほぼどう時期じきに、足利あしかが越後えちご国内こくないにいる義貞よしさだ配下はいか守護しゅご目代もくだいとう攻撃こうげきめいじており、越後えちごこくとの連携れんけい未然みぜんられてしまった。

これらの事実じじつから、足利尊氏あしかがたかうじ当初とうしょ北陸ほくりく朝廷ちょうてい存在そんざいをさほど脅威きょういにはかんじていなかった。しかし、後醍醐ごだいごきょうから吉野よしののがれ、講和こうわ交渉こうしょう頓挫とんざしたことで、たかし認識にんしき一変いっぺんする。たかし大覚寺だいかくじみつる正統せいとう天皇てんのうみとめ、講和こうわ交渉こうしょう相手あいてとしたのは後醍醐ごだいごだった。ところが金ヶ崎かねがさきじょうる「天皇てんのうつねりょうはその醍醐だいご相対そうたいする存在そんざいだったため、後醍醐ごだいごとの講和こうわ実現じつげんできていない現状げんじょうにおいて、たかしはこれをおおきな障害しょうがい認識にんしきしたのである。また、古代こだい以来いらい北陸ほくりくどう方面ほうめん租税そぜいは、越前えちぜんこく敦賀港つるがみなと陸揚りくあげされ、琵琶湖びわこ経由けいゆしてきょうはこばれた。北陸ほくりく朝廷ちょうてい敦賀港つるがみなとさえたため、今後こんご北陸ほくりく方面ほうめんからの年貢ねんぐきょうはいってこなくなるという事態じたい憂慮ゆうりょされた。よって、北陸ほくりく王朝おうちょうすみやかな打倒だとうが、たかし喫緊きっきん課題かだいとなったのである[10]

たてたけし4ねん/のべもと2ねん1337ねん)3がつ6にち足利あしかがかた攻撃こうげきまえ金ヶ崎かねがさきじょう落城らくじょうした。このとき義貞よしさだ脱出だっしゅつできたが、つねりょうとらえられてきょう護送ごそうされ、のち毒殺どくさつされたという。つねりょううしなったことで、北陸ほくりく朝廷ちょうていという義貞よしさだ政治せいじ構想こうそう瓦解がかいしたが、義貞よしさだはすぐに再起さいきけてうごす。すなわち、金ヶ崎かねがさきしろ落城らくじょう直後ちょくごの3がつ14にち義貞よしさだ越後えちごこく南保なんぼ重貞しげさだたいし、守護しゅごだいにんじた佐々木ささきただしえだ合力ごうりょくするようにめいじており、越後えちごこく軍事ぐんじ活動かつどう再開さいかいしたのである。このころ越後えちごこくでは、宗良親王むねながしんのう子息しそく明光めいこうみやなる人物じんぶつ足利あしかがかた追討ついとう活動かつどうしていた。田中たなか大喜だいぎは、義貞よしさだ越後えちごこく再起さいき第一歩だいいっぽしるしたのは、明光めいこうみや合流ごうりゅうしてかれつねりょうわる権威けんいとして擁立ようりつし、地域ちいきてき政治せいじ権力けんりょく再建さいけんはかろうとしていたのかもしれない[11]推察すいさつしている。しかし、実際じっさい義貞よしさだ明光めいこうみや擁立ようりつした形跡けいせき確認かくにんできない。

結局けっきょく義貞よしさだあらたな権威けんい擁立ようりつすることなく、越前えちぜんこく軍事ぐんじ活動かつどう再開さいかいした。このあいだ北畠きたばたけ顕家あきいえ義良親王のりながしんのうほうじて陸奥みちのくこくから上洛じょうらくせん敢行かんこうしており、顕家あきいえぐんには義貞よしさだ次子じし義興よしおきくわわっていた。義貞よしさだあらわとの合流ごうりゅうかんがえていたとみられるが、その目的もくてきあらわとも義良親王のりながしんのう擁立ようりつして越前えちぜんこく地域ちいきてき政治せいじ権力けんりょく再建さいけんすることにあったというせつがある[12]。しかし、顕家あきいえとの合流ごうりゅう失敗しっぱいわり、義貞よしさだうるう7がつ2にち藤島ふじしまたたか不慮ふりょ戦死せんしげてしまった。義貞よしさだ北陸ほくりく朝廷ちょうていゆめは、ここに名実めいじつどもくずったのである。

北陸ほくりく朝廷ちょうてい歴史れきし資料しりょう白河しらかわ文書ぶんしょ[編集へんしゅう]

北陸ほくりく朝廷ちょうてい裏付うらづ史料しりょうとされる「白河しらかわ文書ぶんしょ」は白河しらかわ結城ゆうき家伝かでん文書ぶんしょで「白河しらかわ結城ゆうき文書ぶんしょ」ともいう[13][14]のべもと元年がんねん(1336ねん)11月12にちけの「尊氏たかうじ直義ただよし以下いか逆徒ぎゃくと追討ついとうこと」という表題ひょうだいで、奥州おうしゅうにいた南朝なんちょう忠臣ちゅうしんの「結城ゆうき上野うえの入道にゅうどうかん」(結城ゆうき宗弘むねひろ)あてに味方みかたさんずるように督促とくそくした綸旨りんじで「ひだり中将ちゅうじょう」(新田にった義貞よしさだ)の名前なまえ通達つうたつされている。

尊氏たかうじ直義ただよし以下いか逆徒ぎゃくと追討ついとうこと

先度せんどした綸旨りんじりょう去月きょげつ十日所有臨幸越前国鶴賀津也相
催一族不廻時刻馳参可令誅伐彼輩於恩賞者可依請
しゃ天気てんき如此悉之以状
のべ元々もともとねんじゅういちがつじゅうにち
               ひだり中将ちゅうじょうざいばん
  結城ゆうき上野うえの入道にゅうどうかん 

くだぶん

先度せんど綸旨りんじくだされおわんぬ。去月きょげつじゅうにち越前えちぜんこく鶴賀つるが臨幸りんこうあるところなり。一族いちぞくあいもよおし、時刻じこくめぐらさずさんじ、かのやから誅伐ちゅうばつせしむべし。恩賞おんしょうにおいてはいによるべし。天気てんきかくのごとし。これを悉せ、もっじょうす。

口語こうごやく

尊氏たかうじ直義ただよし以下いか逆賊ぎゃくぞく討伐とうばつすることについて。せんだって天皇てんのうがおめいじになられたとおりですが、かさねて綸旨りんじおくります。先月せんげつじゅうにち天皇陛下てんのうへいか越前えちぜんこく敦賀港つるがみなと金ヶ崎かねがさきしろ)へ臨幸りんこうされました。つきましてはあなたの一族いちぞく召集しょうしゅうし、ただちに陛下へいかもとさんじ、逆賊ぎゃくぞくどもを誅伐ちゅうばつしなさい。恩賞おんしょうについてはあなたのご希望きぼうとおはからいましょう。
天皇陛下てんのうへいかのご意志いし以上いじょうとおりであります。これをくしなさい。よっておつたえいたします。 

のべもと2ねん(1337ねん)2がつ9にちには、おなじく「結城ゆうき上野うえの入道にゅうどうかん」あてに味方みかたさんずるように督促とくそくした綸旨りんじが、「みぎ衛門えもんとく」(脇屋わきや義助よしすけ)の名前なまえ通達つうたつされている。

度々たびたびした綸旨りんじりょうきゅうあい催一族可馳参者天気如此悉之
のべもとねんがつきゅうにち
              みぎ衛門えもんとくざいはん
  結城ゆうき上野うえの入道にゅうどうかん 

くだぶん

度々たびたび綸旨りんじくだされおわんぬ。いそ一族いちぞくあいもよおさんずべし。天気てんきかくのごとし。これを悉せ。

口語こうごやく

かさねて綸旨りんじくだされた。いそいで一族いちぞく召集しょうしゅうさんずるべきである。天皇陛下てんのうへいかのご意志いし以上いじょうとおり。これをくしなさい。

いずれも「天気てんき此くのごとし」という天皇てんのう意思いし明記めいきする文言もんごんがあるので、つねりょう親王しんのう天皇てんのうとして発給はっきゅうした綸旨りんじであることがわかる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ これにかんし、南朝なんちょう正副せいふくみつる皇統こうとう存在そんざいし、吉野よしのあさ武家ぶけかたあざむくための南朝なんちょうふくすべなずらえあさ)であったとするせつがある[2]
  2. ^ 越前えちぜん国司こくし中院なかのいん定平さだへいから能登のと国人くにびととくこう九郎くろうよりゆきいんてられたぐんちゅうじょうくだりさだたてまつ執達しったつじょう)。内容ないようこう九郎くろうよりゆきいんぐんちゅうしょうし、一統いっとうのあかつきにはさき恩賞おんしょうあたえようという、中院なかのいんみぎ中将ちゅうじょうおおせを伝達でんたつするものである[3]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 瀧川たきかわ 1950, p. 130.
  2. ^ 藤原ふじわら 1966, p. 105.
  3. ^ 日置ひおきけん へんえつ能古のこ文書ぶんしょ金沢かなざわ文化ぶんか協会きょうかい、1944ねん10がつ、171ぺーじ 
  4. ^ 亀田かめだ 2014, p. 85.
  5. ^ 三浦みうらかおるきよしちょ徹底的てっていてき日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす』1970/神風かみかぜくしりょ講究こうきゅうしょ
  6. ^ 田中たなか 2021, p. 150.
  7. ^ 山本やまもと 2005.
  8. ^ 田中たなか 2021, p. 157.
  9. ^ 田中たなか 2021, p. 156.
  10. ^ 田中たなか 2021, p. 159.
  11. ^ 田中たなか 2021, p. 164.
  12. ^ 田中たなか 2021, p. 165.
  13. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース - 白河しらかわ結城ゆうき文書ぶんしょ”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん
  14. ^ 白河しらかわ結城ゆうき文書ぶんしょ”. 白河しらかわ. 2021ねん10がつ10日とおか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 瀧川たきがわ政次郎まさじろう日本にっぽん歴史れきし解禁かいきんそうもとしゃ、1950ねん12月。 
  • 藤原ふじわら石山いしやま南朝なんちょう正統せいとう皇位こうい継承けいしょうろん日本にっぽん盲点もうてん南北なんぼくあさ時代じだいなぞく』南朝なんちょう学会がっかい、1966ねん4がつ 
  • 三浦みうらかおるきよし徹底的てっていてき日本にっぽん歴史れきし誤謬ごびゅうただす』(神風かみかぜくしりょ講究こうきゅうしょ、1970ねん
  • 亀田かめだ俊和としかず南朝なんちょう真実しんじつ忠臣ちゅうしんという幻想げんそう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2014ねん5がつ 
  • 山本やまもと隆志たかし新田にった義貞よしさだミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2005ねん 
  • 田中たなか大喜だいぎ新田にった足利あしかが吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2021ねん12月。 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]