高野山
「
2004
地理
[
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|
気候
[1 |
2 |
3 |
4 |
5月 | 6 |
7 |
8 |
9月 | 10月 | 11月 | 12月 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
15.1 (59.2) |
17.9 (64.2) |
20.2 (68.4) |
26.5 (79.7) |
29.6 (85.3) |
31.1 (88) |
33.7 (92.7) |
33.2 (91.8) |
31.1 (88) |
27.2 (81) |
22.3 (72.1) |
19.7 (67.5) |
33.7 (92.7) | |
3.4 (38.1) |
4.8 (40.6) |
9.2 (48.6) |
15.1 (59.2) |
20.1 (68.2) |
22.8 (73) |
26.6 (79.9) |
27.8 (82) |
23.7 (74.7) |
17.8 (64) |
12.2 (54) |
6.3 (43.3) |
15.8 (60.4) | |
−0.3 (31.5) |
0.4 (32.7) |
4.0 (39.2) |
9.4 (48.9) |
14.4 (57.9) |
18.1 (64.6) |
22.1 (71.8) |
22.8 (73) |
19.1 (66.4) |
13.2 (55.8) |
7.5 (45.5) |
2.2 (36) |
11.1 (52) | |
−4.0 (24.8) |
−3.8 (25.2) |
−1.0 (30.2) |
3.7 (38.7) |
8.9 (48) |
14.0 (57.2) |
18.4 (65.1) |
18.8 (65.8) |
15.3 (59.5) |
9.1 (48.4) |
3.0 (37.4) |
−1.6 (29.1) |
6.8 (44.2) | |
−12.8 (9) |
−13.4 (7.9) |
−9.4 (15.1) |
−5.1 (22.8) |
−1.4 (29.5) |
3.4 (38.1) |
9.9 (49.8) |
11.8 (53.2) |
5.0 (41) |
−1.5 (29.3) |
−5.0 (23) |
−10.0 (14) |
−13.4 (7.9) | |
87.6 (3.449) |
97.4 (3.835) |
141.7 (5.579) |
141.5 (5.571) |
166.6 (6.559) |
260.3 (10.248) |
256.4 (10.094) |
192.5 (7.579) |
247.5 (9.744) |
203.3 (8.004) |
108.4 (4.268) |
89.3 (3.516) |
2,003.1 (78.862) | |
11.7 | 11.1 | 12.6 | 11.2 | 10.7 | 13.7 | 12.7 | 10.9 | 11.7 | 11.2 | 8.7 | 11.4 | 137.6 | |
82.9 | 96.7 | 138.5 | 176.5 | 185.5 | 124.9 | 146.1 | 166.8 | 124.7 | 130.6 | 115.6 | 93.0 | 1,582.3 | |
主 な施設 ・寺院
[壇上 伽藍
一般 寺院 でいう本堂 がある伽藍 地区 である。国 の史跡 ・世界 遺産 。空海 (弘法大師 )が曼荼羅 の思想 に基 づいて創建 した密教 伽藍 の総称 であり、奥 の院 とともに高野 山 の二 大聖 地 である。金堂 は高野山 全体 の総 本堂 で高野山 での主 な宗教 行事 が執 り行 なわれる。ほかに大塔 、御影堂 、不動堂 などが立 ち並 び、不動堂 は国宝 に指定 されている。また、弘法大師 伝説 のひとつである飛行 三 鈷杵がかかっていたとされる「三 鈷の松 」や、高野 四郎 (俗称 )と呼 ばれる大 鐘楼 も伽藍 に存 する。金堂 と大塔 への入 堂 は有料 。境内 のみは無料 。
奥 之 院 一般 寺院 でいう墓域 である。奥 の院 や奥 ノ院 と表記 される場合 もあるが、正確 な表記 は奥 之 院 である。国 の史跡 ・世界 遺産 。御廟 橋 の先 に灯籠 堂 、その裏 に空海 の御 廟 がある。参道 には、皇室 、公家 、大名 などの墓 が多数 並 び、その総数 は正確 には把握 できないものの、20万 基 以上 はあると言 われている。戦国 大名 の6割 以上 の墓所 がある。奥 之 院 の入 り口 は2箇所 ある。正式 な入 り口 は一 の橋 からであるが、中 の橋 の前 には無料 大 駐車 場 とバス停 があるので、参拝 者 のほとんどがこちらから入 る。一 の橋 から御廟 までは約 2km、中 の橋 からはその約 半分 の道 のりとなっている。その途上 には「弥勒 石 」などの七不思議 と呼 ばれる場所 がある。
総本山 金剛峯寺
一般 寺院 でいう本 坊 である。国 の史跡 ・世界 遺産 。主 殿 等 の建物 は和歌山 県 指定 有形 文化財 。高野山 真言宗 の総本山 で座主 の住 寺 。金剛峯寺 は元 は高野山 全体 の称 だが、現在 金剛峯寺 と呼 ばれるのは明治 2年 (1869年 )に青 巌 寺 と興 山寺 (廃寺 )の2つの寺院 が合併 したもの。旧 青 巖 寺 (剃髪 寺 )は文 禄 2年 (1593年 )、豊臣 秀吉 の建立 、文久 3年 (1863年 )、再建 。歴代 天皇 の位牌 や高野山 真言宗 管長 の位牌 をまつっている。大 主 殿 、別殿 、新 別殿 と分 かれており、別殿 では観光 客 に湯茶 の施 しがある。襖 に柳 鷺 図 のある柳 の間 は豊臣 秀次 の自刃 の間 。屋根 の上 に置 かれた防火 用 の水 桶 は、かつては高野山 全域 で見 られたが今 も置 かれているのはここのみ。また、金剛峯寺 境内 にある「蟠 龍 庭 」(2,340m2)は日本 最大 の石庭 。境内 の建物 外 及 び納 経 所 までは無料 。それより先 の建物 内 の拝観 は有料 。
()大師 教会
高野山 霊宝 館 高野 山上 にある国宝 、重要 文化財 等 の保存 ・展示 が行 われており、定期 的 にテーマを絞 った展示 会 が開催 される。なお、現在 の日本 の国宝 の2%は高野 山上 にある(1083件 中 、23件 )。大正 10年 (1921年 )、開設 。紫雲 殿 、玄関 ・北 廊 ・中 廊 、南 廊 及西廊 、放 光 閣 、宝蔵 が国 の登録 有形 文化財 [10][11][12][13][14]。
金輪 公園 一心 院 谷 にあり、今 は公園 になっていて、国宝 不動堂 が元 はここにあった。明 算 検校 が12世紀 に創建 し、1834年 に再建 された金輪 塔 がある。山側 の影向 明神 には、丹生 ・高野 明神 を祀 った二 つの社 が並 ぶ、また、鬼子母神 を祀 る祠 もある。
- お
助 け地蔵 尊 大門 前 の三 差 路 から100m南 、一 つだけ願 いを叶 えてくれる。
-
女人 堂 -
金輪 公園 金輪 塔 -
金輪 公園 影向 明神 -
お
助 け地蔵 尊 -
清 高 稲荷 社
子 院 群 金剛峯寺 の修行 僧 が居住 のために作 った草庵 を起 こりとする寺院 群 。近畿 三 十 六 不動尊 霊場 である明王 院 ・南 院 、新 西国 三 十 三 箇所 観音 霊場 である宝亀 院 、西国 愛染 十 七 霊場 である増 福 院 ・福智院 ・金 剛 三昧 院 など117か寺 を数 え(総本山 金剛峯寺 と大本山 宝 寿 院 はこれに含 まれない)、その約 半数 が宿坊 を兼 ねている[15]。以下 の子 院 は宿坊 を備 えていて、金 剛 三昧 院 は有料 だが境内 を散策 でき、他 の子 院 は誰 でも無料 で自由 に参拝 できる堂 がある。これ以外 の宿坊 のある子 院 にも、宿泊 することにより本堂 に入 堂 したり、庭園 を臨 んだり、護摩 祈祷 、阿字 観 や写経 体験 をできるところがある。以下 は無料 で自由 に参拝 できる子 院 の堂宇
-
密厳院 刈萱 堂 -
成 福 院 摩 尼 宝塔 -
恵 光 院 毘沙門堂 -
常喜 院 赤 地蔵
登録 有形 文化財
[橋本 警察 署 高野 幹部 交番 - 1921
年 (大正 10年 )建築 で国 の登録 有形 文化財 。木造 2階 建 、屋根 は切妻 造 、銅 板葺 で正面 に千鳥 破風 があり、また舟 肘木 ・間 斗 束 ・蟇股 や妻 の豕 扠首などの社寺 院 風 建築 技法 を取 り入 れ、高野 山 の歴史 的 景観 に配慮 した外観 である[16]。
- 1921
南海電気鉄道 鋼索 線 高野山 駅 駅舎 - 1928
年 (昭和 3年 )建築 で国 の登録 有形 文化財 。木造 2階 建 、鋼 板葺 のモルタル塗 の駅舎 。丸 窓 や2階 外壁 に廻 した水平 帯 などがある昭和 初期 の洋風 建築 だが、宝 形 屋根 の頂 部 に宝珠 を載 せ高 野山 の地 を意識 した建築 物 である[17]。
- 1928
歴史
[- 816
年 弘 仁 7年 7月 8日 空海 、高野山 下賜 を上奏 し、この年 勅許 が下 る。 - 892
年 寛平 4年 5月 19日 九度山 の慈尊院 「弥勒 仏 坐像 」(国宝 )が造立 される。後 補 裳 先 墨書 銘 :「寛平 四年歳次壬子五月十九日造仏事己了」。 - 994
年 正 暦 5年 7月 6日 高野山大 火 。大塔 に落雷 、伽藍 御影堂 を残 して全焼 し、寺院 にも類焼 。 - 1086
年 応 徳 3年 4月 7日 金剛峯寺 「仏 涅槃 図 」(国宝 )が描 かれる。墨書 銘 :「応 徳 三年丙寅四月七日甲午奉写畢」。 - 1117
年 永久 5年 ~天 治 3年 4月 15日 金剛峯寺 「金銀 字 一切経 」(国宝 )が奥州 藤原清衡 の発願 により書写 される。 - 1145
年 久安 1年 10月 23日 金剛峯寺 「善女 龍王 像 」(国宝 )が定 智 によって描 かれ、開眼 供養 される。 - 1149
年 久安 5年 5月 12日 高野山大 火 。大塔 に落雷 、伽藍 全焼 。多 くの仏像 、仏画 類 が焼失 。 - 1156
年 保 元 1年 4月 29日 金剛峯寺 「両 界 曼荼羅 図 (血 曼荼羅 )」(重文 )が絵師 常明 法印 によって描 かれる。平清盛 の頭 血 を採 り絵 の具 に和 して描 かせた。 - 1223
年 貞 応 2年 金剛 三昧 院 「多宝塔 」(国宝 )を建立 。北条 政子 が源 頼朝 、源実朝 の菩提 のために、安達 景盛 に命 じて建立 。 - 1401
年 応 永 8年 正月 19日 伽藍 西 塔 炎上 、新 御 塔 、文殊 楼 、本 経蔵 、正智院 一切 経蔵 に類焼 。多 くの聖教 類 が悉 く焼失 。 - 1464
年 寛 正 5年 7月 3日 高野山大 火 。高野山 衆徒 、堂 衆 と西院 、谷上 、南谷 で合戦 し、谷中 で11か寺 を残 して悉 く焼失 。 - 1486
年 文明 18年 4月 8日 金剛峯寺 「諸 尊 仏 龕 」(国宝 )付属 「銅 製 厨子 」が製作 される。 - 1521
年 永 正 18年 (大 永 1年 ) 2月 12日 高野山大 火 。寺院 より出火 、大塔 、金堂 以下 伽藍 300余 宇・塔婆 19基 、僧坊 など3900余 宇を焼失 し、全 山 壊滅 状態 となる。 - 1594
年 文 禄 3年 豊臣 秀吉 が高 野山 を参詣 し、生母 大政所 の三 回忌 追善 法要 を行 う。そのおり、連歌 や能 の会 を催 す。 - 1599
年 慶長 4年 3月 21日 奥 の院 「経蔵 」(重文 )を石田 三成 が母 の菩提 の為 に建立 し、金剛峯寺 「高麗 版 一切経 」(重文 )を同 経蔵 に奉納 。 - 1599
年 慶長 4年 6月 正智院 「高麗 陣 敵 味方 戦死 者 供養 碑 」(県 指定 )が薩摩 藩 主 島津 義弘 、島津 忠 恒 親子 に依 って建立 される。朝鮮 役 における敵 味方 の戦死 者 を供養 。 - 1599
年 慶長 4年 10月 15日 清浄 心 院 「佐竹 義重 霊屋 」(重文 )が佐竹 為 義重 逆修 の霊屋 として造立 される。 - 1604
年 慶長 9年 ・12年 蓮花 院 松平 秀康 及 び同母 霊屋 (付属 宝 篋印塔 7基 )」(重文 )が造立 される。秀康 の亡 母 (家康 の側室 )を祀 るため、慶長 九 年 に造立 。また、慶長 十 二 年 四 月 八 日 には松平 忠直 によって、松平 秀康 (家康 の子 )の霊屋 として、その隣 に造立 される。 - 1622
年 元和 8年 天徳 院 「天徳 院 庭園 」(国 の名勝 )が小堀 遠 州 によって造園 される。 - 1630
年 寛永 7年 10月 7日 高野山大 火 。大塔 に落雷 。暫 くして塔 腰部 より猛火 が起 こり炎上 焼失 。伽藍 諸 堂 をはじめ多 くの寺院 が類焼 。 - 1690
年 元禄 3年 落雷 により大門 炎上 。 - 1691
年 元禄 4年 千 手 院 萬 精 院 より出火 、安 養 院 まで延焼 し89か寺 が全焼 。 - 1792
年 寛政 4年 2月 16日 夜 八 ツ時 、奥 之 院 護摩堂 より出火 、焼失 する。 - 1809
年 文化 6年 南谷 から出火 し、中門 、勧学 院 一帯 が類焼 す。 - 1843
年 天保 14年 9月 1日 高野山大 火 。壇上 宝蔵 の軒先 から出火 し、大塔 をはじめ諸 堂 14棟 が悉 く焼失 。 - 1863
年 文久 3年 現在 の金剛峯寺 「青 厳 寺本 殿 」(県 指定 )が再建 される。万延 元年 (1860年 )に焼失 したことによる再建 。 - 1869
年 明治 2年 3月 29日 青 厳 寺 ・興 山寺 を合併 して金剛峯寺 と号 する。 11月3日 高 野山 に神仏 分離 の通達 が下 る。 - 1870
年 明治 3年 西院 如意輪寺 をはじめ、南谷 南 院 が焼失 。 - 1872
年 明治 5年 興 山寺 全焼 。 - 1879
年 明治 12年 千 手 院 寂静 院 、普賢院 、金 剛 頂 院 などが焼失 。 - 1882
年 明治 15年 自性 院 他 2か寺 、谷上 蓮 金 院 等 が全焼 。 - 1884
年 明治 17年 高 野山 とその周辺 の13か字 が合併 して高野 村 となる。この年 、谷上 の蓮 金 院 焼失 。2月西院 と恵 光 院 から出火 。50か寺 、130戸 に類焼 する大火 になった。 - 1888
年 明治 21年 3月 23日 午前 12時 30分 頃 、一心 院 谷 の南 院 裏山 より出火 、同院 へ火移 り、直 ちに高祖 院 、東室 院 へと移 り、続 いて正 塔 院 、六 町 院 、幸福 院 、康徳 院 、福智院 、蓮花 院 、宝積 院 、正覚 院 、金剛 院 、興 山寺 、◆覚 院 、定光 院 、西 生 院 、無量 光 院 、本 王 院 、普 門 院 、一乗院 、光輪 院 、如意輪寺 、金蔵 院 、愛染 院 、安楽 院 、安 養 院 、巴 陵 院 、三 室 院 、普賢院 、報恩 院 、明 泉 院 、乗 蔵 院 、圓満 院 、弥勒 院 、常住 院 、医 王 院 、覚 證 院 へと類焼 。さらに五 ノ室 、千手 院 、小田原 地区 の上之段 (現 、高野山大学 )の町家 へも類焼 し、午後 5時 頃 鎮火 。その時 、金剛峯寺 の屋根 へも飛火 して、一時 は類焼 するかと思 われたが、かろうじて消 し止 めることができた。この火災 によって、大寺 21か寺 、中小 寺院 30か寺 、民家 70余 戸 が焼失 した。3月24日 午前 12時 30分 頃 、蓮花 谷 の恵 光 院 前 、増 福 院 より出火 。直 ちに大 明王 院 、光明院 、尭 住 院 、常 慶 院 、千蔵 院 、五大 院 、誠 願 院 、持 宝 院 、丹生 院 、岩本 院 、東根 院 、萬福 院 、蓮花 三昧 院 へと類焼 し悉 く焼失 。この時 、蓮 花谷 民家 も残 らず焼失 。東谷 の奥 之 坊 を除 いて悉 く皆 焼亡 し、午後 5時 頃 漸 く鎮火 。両日 の火災 で、堂宇 、仏像 画像 書跡 什宝 悉 く焼失 。この火災 によって五 大力 菩薩 像 5幅 のうち2幅 を焼失 (焼失 をまぬがれた3幅 は国宝 )。什宝 物 焼失 御 届 (有志 八幡 講 )によると、勅額 (後 陽成 帝 宸筆 「八幡 大 菩薩 」、熊手 八幡宮 縁起 、三 社 神 号 などが大 明王 院 に預 けられていたところ同 寺 類焼 した際 に焼失 。両日 の火災 等 にて明治 初期 に680余 か寺 あった寺院 は明治 28年 になると130か寺 まで減少 し、廃絶 した堂 社 は40軒 を数 え、現存 するのは30軒 に満 たないほどとなった。 - 1906
年 明治 39年 高野 山 開 創 1100年 記念 大法 会 にむけて、実質 的 に公式 に女人 禁制 が解除 された。 - 1910
年 明治 43年 持明院 全焼 。 - 1911
年 明治 44年 龍泉院 、泰 雲 院 、徳善 院 全焼 。 - 1915
年 大正 4年 3月 1日 高野 登山 鉄道 が大阪 の汐見橋 から橋本 まで開通 する。 - 1919
年 大正 8年 4月 15日 高野 登山 自動車 株式会社 により、高野口 駅 より椎出 までの間 を乗合 自動車 の運行 が始 まる - 1923
年 大正 12年 3月 26日 夜 八 時 頃 、金剛峯寺 木屋 炎上 す。 4月2日 正智院 全焼 。多 くの宝物 が焼失 した。脇士 文殊 普 賢 木像 二 躯 、舎利 弗 阿 難 木像 二 躯 、四 社 明神木 像 一 躯 、不動明王 木像 一 躯 、阿弥陀如来 木像 一 躯 、脇 侍 観音 勢至 木像 二 躯 、弁財天 木像 一 躯 、大黒天 木像 一 躯 、三宝荒神 木像 一 躯 、達磨 図 一 幅 、釈迦 十 六 羅漢 像 (牧 渓 筆 )三 幅 、八 祖 大師 像 一 幅 、両 界 曼荼羅 図 二 幅 、五 字 文殊 像 一 幅 、唐金 四 面 器 、八面 器 、仏具 、真鍮 仏具 、護摩 器 、灯籠 等 仏具 類 多数 、大 般若 経 六 百 巻 、弘法大師 弟子 譜 、紀伊 名所 図絵 七 巻 の39点 焼失 4月 16日 午前 10時 頃 、宝 善 院 焼失 。放火 事件 によるものと記録 されている。檜 皮 がトタン葺 きに改 められるのをねらった、ブリキ職 の犯行 という。 - 1925
年 大正 14年 7月 30日 大阪 高野 鉄道 が橋本 から椎出 まで延長 。九度山 から紀伊神谷 にかけて、高野 登山 自動車 会社 が登山 バスの運行 を開始 。 - 1926
年 昭和 元年 12月 26日 午前 6時 30分 、伽藍 金堂 が炎上 。堂 内 本尊 秘仏 をはじめ旧 国宝 (重要 文化財 )の金剛 薩た坐像 、不動明王 坐像 、普 賢 延命 菩薩 坐像 、虚空蔵菩薩 坐像 、降 三 世 明王 立像 、金剛 王 菩薩 坐像 の諸 尊 が焼失 。六角 経蔵 、孔雀 堂 、納 経 所 類焼 し午後 二 時 鎮火 。両 明神 御 神体 、快慶 作 孔雀 明王 像 、金字 一切経 (荒川 経 )24箱 は難 を逃 れ、霊宝 館 に移 安 。 - 1928
年 昭和 3年 6月 18日 高野 鉄道 、高野 下 ~神谷 (紀伊神谷 )間 を70ヶ所 以上 の急 カーブと23ヶ所 のトンネルを掘 って開通 。 - 1929
年 昭和 4年 高野 鉄道 、神谷 (紀伊神谷 )~極楽橋 間 開通 - 1930
年 昭和 5年 6月 29日 高野 鉄道 、極楽橋 より山上 までケーブルカーが開通 する。 - 1932
年 昭和 7年 4月 28日 電車 が大阪 より高野山 まで直通 となる。 5月23日 一乗院 全焼 。四 時半 火災 。一乗院 全焼 漸 く門 を残 すのみとなる。 - 1938
年 昭和 13年 6月 23日 午後 11時 30分 、正智院 より出火 。庫裡 全焼 。本堂 及 び会下 半焼 して零 時 30分 鎮火 。7月4日 降雨 のため、明王 院 裏山 崩壊 、本堂 及 び位牌 堂 大破 。 - 1940
年 昭和 15年 5月 23日 午後 3時 、五 坊 寂静 院 出火 。全焼 。 - 1977
年 昭和 52年 4月 18日 第 28回 全国 植樹 祭 のために来 県 した天皇 、皇后 が行幸 [18]。
女人 高野
[女人 高野
「女人 禁制 」文化 のロマン化
[2020
主 な名物 、みやげ
[- こうやくんのキャラクターグッズ
- 「
高野 山 開 創 1200年 記念 大 法会 イメージキャラクター こうやくん」は、ストラップやバッジなどいろいろなグッズが売 られている。
- 「
各種 仏具 高野槇 高野 豆腐 胡麻 豆腐 大師 陀羅尼 錠 般若湯 - やきもち
苅萱 餅 笹 巻 きあんぷ(こしあんを生麩 で包 んだ饅頭 )- みろく
石 饅頭
自然
[- これらは
高野 山 で利用 されることに基 づく。
- これらはこの
地域 に特産 であることから。あるいはここで発見 されたことから。
高野 六木
[高野 七 口
[☆は
周辺 の関連 寺社
[交通 アクセス
[鉄道 ・バス
[大阪 方面 より和歌山 ・徳島 方面 より関西 空港 より関西 空港 交通 リムジンバス
自家用車
[和歌山 市 方面 からは、阪和 自動車 道 を北 へ向 かい紀ノ川 サービスエリアの手前 の分岐 から京 奈和自動車 道 に移 り東 へ、かつらぎ西 インターチェンジで降 りて県道 125号 で南下 し、そして国道 480号 (西高野 街道 )で山 を上 がって行 き高野 山 の大門 へ。紀 の川 沿 いの国道 24号 方面 からは、かつらぎ町 から国道 480号 経由 。他 に九度山 町 から国道 370号 で花坂 経由 国道 480号 にて山内 へ行 く方法 もあるが、後者 は道幅 が狭 く道路 状況 も悪 い。大阪 府 方面 からは、岸 和田 和泉 インターチェンジから鍋谷 峠 道路 を通 り、国道 480号 に沿 って行 く方法 のほうが速 く到達 できるようになり、道幅 も広 い。龍神 温泉 方面 からは、高野 龍神 スカイライン(国道 371号 )経由 となる。大乗 伽藍 前 、霊宝 館 、金剛峯寺 前 、和歌山 県 道 53号 高野 天川 線 の玉川 旅館 から法 徳 堂 までの区間 の北側 路肩 、中 の橋 奥 の院 参道 前 の大 まかな4ヶ所 に高野山 合同 の無料 駐車 場 が存在 し、高野 山内 各 施設 (旅館 ・商店 など)にも利用 者 専用 駐車 場 および地元 土産物 店 が運営 する有料 駐車 場 がある。
高野 参詣 道 への最寄駅
町 石道 は南海 高野 線 九度山 駅 または西日本旅客鉄道 和歌山線 高野口 駅 。京大 坂道 は南海 高野 線 学文路 駅 。高 野下 駅 からも経路 上 の河根 宿 に近 い。黒河 道 は西日本旅客鉄道 和歌山 線 ・南海 高野 線 橋本 駅 または紀伊 清水 駅 。
唱歌 における高野山
[43.
瞬 くひまに橋本 と叫 ぶ駅 夫 に道 とへば紀 の川 わたり九度山 を すぎて三 里 ぞ高野 まで
44.弘法大師 この山 を ひらきしよりは千 余 年 蜩 (ひぐらし)ひびく骨堂 の あたりは夏 も風 さむし
45.木陰 をぐらき不動 坂 夕 露 しげき女人 堂 みれば心 もおのづから塵 の浮世 を離 れけり
高野 にちなむ名称
[- 〇〇
高野
備考
[第 二 次 世界 大戦 当時 、高野山 海軍 航空 隊 が存在 した。- かつては
大阪 市 ・堺 市 などの多 くの小学校 の林間 学校 (移動 教室 )の行先 となっていた。1990年代 以降 は林間 学校 の目的 地 の多様 化 などもあり、減少 傾向 にある。 - 2013
年 (平成 25年 )7月 、初 めて24時 間 営業 のコンビニ(ファミリーマート)が開店 した。酒類 やたばこも取 り扱 うが[21]、生肉 や刺 し身 は販売 しない[22]
脚注
[- ^ “
真言宗 の聖地 ・高野 山 のおすすめ観光 スポット10選 !世界 遺産 にも選 ばれている宗教 都市 の魅力 を紹介 ”. 2020年 11月9日 閲覧 。 - ^ “
一山 境内 地 とは”.高野山 真言宗 総本山金剛峯寺 . 2021年 3月 4日 閲覧 。 - ^
松長 、20頁 。 - ^ a b
和歌山 県 、3頁 ・口絵 ii。 - ^
松長 、5頁 。 - ^
日本国 気象庁 -高野山 観測 所 (北緯 34度 13.3分 、東経 135度 35.4分 、標高 801m)1991年 -2020年 平年 値 。極 値 は1979年 1月 -2024年 3月 。 - ^ “
高野山 過去 の気象 データ検索 ”.気象庁 . 2024年 3月 18日 閲覧 。 - ^ “「
一山 (いっさん)境内 地 ということ」”.金剛峯寺 . 2020年 6月 4日 閲覧 。 - ^
主要 施設 の選定 は淡 交社編集 局 編 『愛蔵 版 御朱印 巡礼 』淡 交社、2012の高野 山 の項 に拠 る。 - ^ “
高野山 霊宝 館 紫雲 殿 ”.文化 遺産 オンライン/文化庁 . 2021年 3月 4日 閲覧 。 - ^ “
高野山 霊宝 館 玄関 ・北 廊 ・中 廊 ”.文化 遺産 オンライン/文化庁 . 2021年 3月 4日 閲覧 。 - ^ “
高野山 霊宝 館南 廊 及西廊 ”.文化 遺産 オンライン/文化庁 . 2021年 3月 4日 閲覧 。 - ^ “
高野山 霊宝 館 放 光 閣 ”.文化 遺産 オンライン/文化庁 . 2021年 3月 4日 閲覧 。 - ^ “
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参考 文献
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関連 項目
[外部 リンク
[高野山 真言宗 総本山金剛峯寺 高野 山 ・高野 山麓 - otent高野山 宿坊 協会 高野山 霊宝 館 高野 町 観光 協会 高野 山 ・楊柳山 ・雨引山 - YAMAP- 『
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