吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ

本殿ほんでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち吉野山よしのやま1612
位置いち 北緯ほくい3421ふん14.1びょう 東経とうけい13552ふん23.3びょう / 北緯ほくい34.353917 東経とうけい135.873139 / 34.353917; 135.873139 (吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ)座標ざひょう: 北緯ほくい3421ふん14.1びょう 東経とうけい13552ふん23.3びょう / 北緯ほくい34.353917 東経とうけい135.873139 / 34.353917; 135.873139 (吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ)
主祭しゅさいしん てん水分すいぶん大神だいじん
社格しゃかくひとし 式内しきないしゃだい
きゅう村社そんしゃ
本殿ほんでん様式ようしき 春日しゅんじつづくり流造ながれづくり
別名べつめい 子守こもりみや
例祭れいさい 10がつだい3土曜日どようび
おも神事しんじ 田植たうえ神事しんじ(4がつ3にち
地図ちず
吉野水分神社の位置(奈良県内)
吉野水分神社
吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ
テンプレートを表示ひょうじ

吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良ならけん吉野よしのぐん吉野よしのまち子守こもり地区ちく吉野山よしのやまうえせんほん)にある神社じんじゃ別名べつめい子守こもりみやしょう[1]2004ねん平成へいせい16ねん)7がつに、ユネスコ世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう』を構成こうせいする資産しさん一部いちぶとして登録とうろくされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

創建そうけん年代ねんだいについてはしょうである。当社とうしゃかんするもっとふる記録きろくは『ぞく日本にっぽん』の文武ぶんぶ天皇てんのう2ねん698ねん)4がつ29にちじょうで、「うま芳野よしの水分すいぶんほうしんたてまつる。あめいのればなり」とあり、芳野よしの水分すいぶんほうしんうままついのりしたとの記述きじゅつである[2]。また、万葉集まんようしゅうには「かみさぶる岩根いわねこごしきみ吉野よしの水分すいぶんさんればかなしも」とあり、からとおはなれた水分すいぶんさんうたまれていることから、吉野よしの水分すいぶん信仰しんこうされていたことがうかがえる[3]元来がんらい吉野山よしのやま最奥さいおう吉野よしのまち黒滝くろたきむら川上かわかみむらさかい位置いちする青根あおねほう山頂さんちょう位置いちしていたとされ、その山頂さんちょうから西北せいほくやく1kmきろめーとる山腹さんぷくにはもと水分すいぶん神社じんじゃあとつたわる場所ばしょのこっている[2][4]青根あおねほう吉野川よしのがわ支流しりゅうであり、ひがしながれる音無おとなしがわきたながれる喜佐谷きさだにがわ西にしながれる秋野あきのかわなどの源流げんりゅうとなるやまで「水分すいぶん = みずくばり」のかみ鎮座ちんざにふさわしい場所ばしょである。大同だいどう元年がんねん806ねんごろ現在地げんざいち遷座せんざした。延喜えんぎしきかみめいちょうでは「大和やまとこく吉野よしのぐん 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ」として記載きさいされ、大社たいしゃれっし、月次げつじしん嘗の幣帛へいはくあずかるとしるされている。社家しゃけぜんぼうである。

葛城かつらぎ水分すいぶん神社じんじゃ都祁つげ水分すいぶん神社じんじゃ宇太水分すいぶん神社じんじゃとも大和やまとこくよんしょ水分すいぶんしゃひとつとしてみずかみまつふるくから信仰しんこうされてきた[5]やく700ねんまえ室町むろまち時代ときよより当社とうしゃ境内けいだい田植たうえ神事しんじ後述こうじゅつ)がおこなわれているが、神社じんじゃがある吉野山よしのやまでは水田すいでんいにもかかわらず神事しんじおこなわれるのは、さとみずわたらせる「水分すいぶん」のかみまつられているからである[6]。さらに、「みくまり」が「みこもり」となまり、「子守こもり」として、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきごろから「子守こもり明神みょうじん」とばれるようになり、藤原ふじわら道長みちなが日記にっき御堂みどう関白かんぱく』や清少納言せいしょうなごんの『枕草子まくらのそうし』にも「子守こもり明神みょうじん」として登場とうじょうしている[7]。また、道長みちなが寛弘かんこう4ねん1007ねん)に、金峰山きんぷさん山上さんじょう子守こもり明神みょうじん金銀きんぎんしょくとうたてまつったと記録きろくのこ[2]当時とうじ権力けんりょくしゃからも崇敬すうけいさづけのかみ信仰しんこうあつめていたことがかる。

12世紀せいきごろには神仏しんぶつ習合しゅうごうにより、水分すいぶんしん地蔵じぞう菩薩ぼさつ垂迹すいじゃくとされ(子守こもり権現ごんげん)、金峰山きんぷさん蔵王ざおう権現ごんげん金峯山こんごうざんてら)にぞくする神社じんじゃとして修験しゅげんどう行場いきばひとつとなっていた。

豊臣とよとみ秀吉ひでよしぶんろく3ねん1594ねん)に吉野よしの花見はなみ吉水よしみずいんげん吉水よしみず神社じんじゃ)を本陣ほんじんとし5日間にちかん滞在たいざいしたが[8]、そのおりにとう神社じんじゃおとずさづけを祈願きがんし、秀頼ひでよりさずかったとつたわる。現在げんざい社殿しゃでん秀吉ひでよし意志いしいだ秀頼ひでよりによって慶長けいちょう10ねん1605ねん)に再建さいけんされ桃山ももやま建築けんちく華麗かれい様式ようしきつたえている[9][10]作事さくじ奉行ぶぎょうつとめたのは豊臣とよとみ家臣かしん尼崎あまがさき郡代ぐんだい建部たけべ光重みつしげである[1]

ほんきょ宣長のりながは、ちちてい子守こもり明神みょうじん祈誓きせいさずかったであると、子供こどもころははから度々たびたびかされたため[11]、のちに宣長のりながは『菅笠すげがさ日記にっき』で自身じしん水分すいぶん神社じんじゃもうしる[12]、また、ほかにも水分すいぶん神社じんじゃうたにもんでいる。

明和めいわ4ねん1767ねん)、かわ難所なんしょザタブチ(ザッタブチ、座頭ざがしらふち)において年々ねんねん死者ししゃたため、いかだいたる相談そうだんすえ水分すいぶん神社じんじゃたかさ61だん石段いしだん献納けんのうし、それから1人ひとり水難すいなんかったため、「いかだりの神様かみさま」とあがめられたという伝説でんせつがある[13]

明治めいじ神仏しんぶつ分離ぶんりによって金峯山こんごうざんてらより独立どくりつし、村社そんしゃれつかくした。

社殿しゃでん再建さいけんねん[編集へんしゅう]

文献ぶんけんによっては再建さいけんねんが「慶長けいちょう9ねん1604ねん)と慶長けいちょう10ねん(1605ねん)の2せつがある。そのいちれいげると信頼しんらいせいたかいとかんがえられる文化庁ぶんかちょう設置せっちの「くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース」があるが、そのなかの「紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう」の構成こうせい資産しさん吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ」の説明せつめいぶんで、「吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ社殿しゃでん本殿ほんでん拝殿はいでんへい殿どの楼門ろうもん回廊かいろうからなり、1604ねん再建さいけんされたもの[14]」とあるが、おなじデータベースない重要じゅうよう文化財ぶんかざい吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ」をると「1605ねん」となっている[15][16][17][18][19][20]おな文化庁ぶんかちょうのデーターベースでさえ2せつ混同こんどうされている。かんがえられる理由りゆうとして、豊臣とよとみ秀頼ひでより吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ奉納ほうのうした神輿しんよに「慶長けいちょうきゅうねんきゅうがつ」の墨書ぼくしょめいがあり[21]つり灯籠どうろう鰐口わにぐちしば灯籠どうろうなどの銘文めいぶん本殿ほんでん長押なげし墨書ぼくしょにも慶長けいちょう9ねん(1604ねん)とあるが、本殿ほんでんとうさつ慶長けいちょう10ねん(1605ねん)となっている[22]。そのためそれらが混同こんどうされ、文献ぶんけんによって再建さいけんねんちがいがているとかんがえられる。ここでは本殿ほんでんとうさつ慶長けいちょう10ねん(1605ねん)であることを根拠こんきょ社殿しゃでん再建さいけんねん慶長けいちょう10ねん(1605ねん)としてあつかう。

祭神さいじん[編集へんしゅう]

神社じんじゃ要録ようろく』では「天水てんすいぶんしんくに水分すいぶんしん」、『かみめいちょう考証こうしょう』『大和やまと国大こくだい小諸こもろ神社じんじゃかみめいなみ縁起えんぎ』ではたんに「水神すいじん」としるされている。

境内けいだい[編集へんしゅう]

境内けいだいは、きた東向こちむき急斜面きゅうしゃめん掘削くっさくたいらに造成ぞうせいした場所ばしょにあり、参道さんどう入口いりくちは、西方せいほうにある大峰山おおみねさんつづ大峯おおみねおくみちめんしている。参道さんどう入口いりくちから石段いしだんつづき、石段いしだん上部じょうぶ楼門ろうもんち、楼門ろうもんには南北なんぼくりょう回廊かいろう接続せつぞくする。社殿しゃでんは「コ」のがた配置はいちされ、境内けいだいはいって一番いちばんおくがわ正面しょうめんぬさ殿どのち、左側ひだりがわ拝殿はいでん、そして右側みぎがわには、祭場さいじょうである中庭なかにわはさんでかいうように本殿ほんでんつ。現在げんざい社殿しゃでんは、豊臣とよとみ秀頼ひでより秀吉ひでよし遺志いしいで再建さいけんしたもので、むねさつから慶長けいちょう10ねん(1605ねん)に建立こんりゅうされたと推測すいそくされ、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。また秀頼ひでより奉納ほうのうした重要じゅうよう文化財ぶんかざい御輿みこししばとう(さいとう[注釈ちゅうしゃく 1])、いも灯籠どうろうがある。境内けいだいには人工じんこうてき造成ぞうせいされた地形ちけい地割じわり確認かくにんされており、境内けいだい地下ちか一部いちぶにはとう神社じんじゃ歴史れきしてき宗教しゅうきょうてき変遷へんせんしめ遺跡いせき遺構いこう遺物いぶつ)が良好りょうこう埋蔵まいぞうされている[5]。また吉野山よしのやまくに史跡しせきおよ名勝めいしょう指定していされているが、境内けいだいはその指定してい範囲はんいないにある。

冬季とうき凍結とうけつすることがある。
長大ちょうだい拝殿はいでん
ぬさ殿内とのうちりょうはしはち角形かくがた古典こてんてき神輿しんよかれ、正面しょうめん神棚かみだながある。
  • 社殿しゃでん
慶長けいちょう10ねん1605ねん)に建部たけべ光重みつしげ奉行ぶぎょうとして豊臣とよとみ秀頼ひでより再建さいけん[23]重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。
  • 本殿ほんでん
前面ぜんめん石垣いしがきまれた基壇きだんうえち、3殿どのを1むねつづきにした特異とくい形状けいじょうである。正面しょうめんの3箇所かしょ千鳥ちどり破風はふがあり、中央ちゅうおう春日しゅんじつづくり左右さゆう流造ながれづくりの3殿どのそうあいだよこつなげ1むねとしている[5]桁行けたゆき9あいだ梁間はりま2あいだひのきがわ[20]。3殿どのともに前面ぜんめん格子戸こうしどがあり、正面しょうめん独立どくりつしてえんかい[注釈ちゅうしゃく 2]もうけられている。花鳥かちょう禽獣きんじゅうなどをれた蟇股かえるまた極彩色ごくさいしょくかざり金具かなぐなど桃山ももやま時代じだい特色とくしょくをよくしめしている[5]
  • とおるへい
基壇きだんじょう本殿ほんでんかこうようにある。
  • ぬさ殿どの
切妻きりづまづくりこけら葺桁行けたゆきろくあいだ梁間はりまよんあいだ背面はいめん板葺いたぶき下屋げや附属ふぞくする[19]けんうと垂木たるき素木しらき(しらき[注釈ちゅうしゃく 3])の簡素かんそつくり、西北せいほくがわかってひだり)で拝殿はいでん屋根やね接続せつぞくしている。内部ないぶむねどおりで前後ぜんごかれ、前面ぜんめんみぎはししょう部屋へやがあるひろいたで、奥行おくゆきのあさ神棚かみだなよこいちれつに3ヶ所かしょおけ設置せっちされている。背面はいめんは3しつ仕切しきられている[5]
  • 拝殿はいでん
入母屋いりもやづくり、こけら葺、桁行けたゆきじゅうあいだ梁間はりま東面とうめんよんあいだ西にしめんさんあいだ[18]本殿ほんでんかいうようにち、後方こうほう傾斜地けいしゃちのため後部こうぶかかづくとなっている。正面しょうめん西端せいたんあいだのぞき、しとみ(しとみど)かまえで、化粧けしょう屋根裏やねうら[注釈ちゅうしゃく 4]広縁ひろえんがひろがり、そのしょう部屋へやとなっている。内陣ないじんにはざおえん(さおぶち)天井てんじょう[注釈ちゅうしゃく 5][5]社務しゃむしょねている。
  • 回廊かいろう南北なんぼく 2むね
2むねとも、一端いったん切妻きりづまづくり楼門ろうもん接続せつぞくする。とち葺、桁行けたゆきさんあいだ梁間はりまあいだ[16][17]きた回廊かいろう外側そとがわ傾斜地けいしゃちのためかかみやつことなっている。じく角柱かくちゅうて、組物くみものだい肘木ひじき(だいとひじき[注釈ちゅうしゃく 6])、のきけん(ふたのき[注釈ちゅうしゃく 7]うと垂木たるき(まばらだるき[注釈ちゅうしゃく 8])、つまかざりは扠首(さす[注釈ちゅうしゃく 9]ぐみとなっている[5]
  • 楼門ろうもん
入母屋いりもやづくり、とち葺[注釈ちゅうしゃく 10]さんあいだいち[15]下層かそうばしらじょうさん手先てさきこしぐみまれ、ちゅうは、正面しょうめん蟇股かえるまた、そのあいだたば(けんとづか)となっている。上層じょうそうさん手先てさき組物くみものあいだたばで、つまにはそう(そうと[注釈ちゅうしゃく 11]はな肘木ひじき[注釈ちゅうしゃく 12]きゅうがた(おいがた[注釈ちゅうしゃく 13]づけふとしびんたば(たいへいづか[注釈ちゅうしゃく 14])をんで装飾そうしょくしている[5]
  • 鳥居とりい
大峯おおみねおくみちめんつ。

田植たうえ神事しんじ[編集へんしゅう]

田植たうえさい」は、毎年まいとし4がつ3にち五穀豊穣ごこくほうじょうねが吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃないおこなわれる神事しんじである。吉野よしのまち指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされている。この神事しんじは、やく700ねんまえ室町むろまち時代ときよよりつづまつりで、1ねん豊作ほうさくあらかじめ(あらかじめ)いわう「しゅく神事しんじであり、のない吉野山よしのやま田植たうえ神事しんじがなわれるのは、さとみずわたらせる「水分すいぶん」のかみまつられているからである[6]白衣はくいおうめんをつけたおとこと、うしめんをつけたうしふんするおとこ拝殿はいでんあらわれ、すきくわ馬鍬まんが(えぶり)、 かごなどの仕事しごと農具のうぐち、たがやすところからいねまでの農作業のうさぎょう手順てじゅんを、いわ問答もんどうかえしながら厳粛げんしゅくひろげたあと、おとこ拝殿はいでんから御供ごくうきをおこな[24]おきなめんをつけておこなわれるおうまいは、おうまい演者えんじゃかみの「がわ」とかんがえられ、神事しんじにおけるかみ出現しゅつげん演出えんしゅつしているとされ、おうまいおこなもの一座いちざさい長老ちょうろうしかつとめることができない特別とくべつ芸能げいのうである。そのため室町むろまち時代じだいには、吉野よしの猿楽さるがく桧垣本ひがいもとざる楽座らくざ栃原とちはらさる楽座らくざ延命えんめい大夫たいふ宇治うじざる楽座らくざ)の桧垣本ひがいもとざる楽座らくざが300年間ねんかんつとめていたが、江戸えど幕府ばくふによる大和やまとよん中心ちゅうしんとする統制とうせい政策せいさくにより、桧垣本ひがいもとざる楽座らくざ一族いちぞく江戸えどおもむ縁戚えんせき関係かんけいにあった観世かんぜ一員いちいんとなった。そのため神社じんじゃ禰宜ねぎつが、それも禁止きんしされたため、「のう」と素人しろうとえんじることとなり、地元じもと子守こもり集落しゅうらく人々ひとびとによってえんつづけられてきたが、当時とうじおきなえんじていたもの高齢こうれい理由りゆう継続けいぞくできなくなり、1995ねんごろに当時とうじ吉野山よしのやま青年せいねんだんたくされ、現在げんざい吉野山よしのやま住民じゅうみん組織そしきされる田植たうえ神事しんじ保存ほぞんかい御田みたこう」が継承けいしょうしている[6]田植たうえ神事しんじ本来ほんらいとしはじめのせい月行事つきぎょうじとして、もしくは2がつおこなわれるのが慣例かんれいだった。また大正たいしょう時代じだいには、奈良なら春日大社かすがたいしゃ田植たうえ神事しんじ巫女ふじょ神楽かぐら伝習でんしゅうして成立せいりつした八乙女やおとめまい存在そんざいしていたが[25]様々さまざま変遷へんせん現在げんざいの4がつおこなわれる「田植たうえさい」として継承けいしょうされるようになった。1ねん仕事しごとをユーモラスにえんじることから、会場かいじょうからわらいをさそい、吉野山よしのやまではしたしみをめ「オンダ(御田みた)」とよび、吉野山よしのやまさくらすこまえおこなわれることから、吉野山よしのやまはるげる祭事さいじとなっている[6]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

国宝こくほう[編集へんしゅう]

たまひめぞう 部分ぶぶん
(1901ねん明治めいじ34)8がつ2にち旧法きゅうほうにより指定していされ重要じゅうよう文化財ぶんかざいであった。)。けんちょう3ねん1251ねん鎌倉かまくら時代ときよさくぞうだか82.4cm[27]ひのきよせ木造もくぞうたま女房にょうぼう装束しょうぞくをまとい、ほおにはえくぼあらわし、くちわずかにひらうえには歯黒はぐろる。その高貴こうき女官にょかん姿すがたは、神像しんぞうというより絵巻物えまきもの女性じょせいか、実在じつざい人物じんぶつ彫刻ちょうこく再現さいげんしたかとおもわせる。日本にっぽん神像しんぞう彫刻ちょうこくには素朴そぼく作風さくふうのものがおおなかで、ほん作品さくひんたま部分ぶぶん水晶すいしょう技法ぎほう)を採用さいようした本格ほんかくてき彫刻ちょうこくである。ぞうない銘文めいぶんけんちょうさんねんじゅうがつじゅうろくにちめいがある[26]。)により、けんちょう3ねん(1251ねん)にせんもんいんだい旦那だんなとなってみやつこぞうされたことがかる。なが秘蔵ひぞうされたため保存ほぞん状態じょうたい非常ひじょうい。本殿ほんでんみぎ殿どのかってひだり)に安置あんちされる。神社じんじゃ神体しんたいであるため一般いっぱんには公開こうかいされず、展覧てんらんかいとう出品しゅっぴんされた記録きろくもない。

重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ本殿ほんでん拝殿はいでんぬさ殿どの楼門ろうもん回廊かいろう) - 指定してい年月日ねんがっぴ:1901ねん明治めいじ34ねん)3がつ27にち[15][16][17][18][19][20]
豊臣とよとみ秀頼ひでよりにより慶長けいちょう10ねん(1605ねん)に再建さいけんされた以下いか社殿しゃでん6むね登録とうろくされている。
  • 本殿ほんでん - とおるへい 1むねむねさつ 4まい[20]
  • ぬさ殿どの
  • 拝殿はいでん - つり燈籠どうろう 4[18]
  • 回廊かいろうきた
  • 回廊かいろうみなみ
  • 楼門ろうもん
  • 木造もくぞうてんまんたえはた千々ちじひめいのち坐像ざぞう(あめのよろずたくはたちちひめのみこと) - 指定してい年月日ねんがっぴ:1901ねん明治めいじ34ねん)8がつ2にち[28]
ぞうだか90.0cm。ひのきいち木造もくぞう平安へいあん時代じだい末期まっきさく二重瞼ふたえまぶた眉根まゆねをよせて目尻めじりげた、女神めがみぞうでありながらきびしい表情ひょうじょうせる[27]。(たえはた千々ちじひめいのちには別名べつめいもある。)

くに史跡しせきおよ名勝めいしょう[編集へんしゅう]

  • 吉野山よしのやま - 指定してい年月日ねんがっぴ:1924ねん大正たいしょう13ねん)12月9にち[29]吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ境内けいだいふく吉野山よしのやまが、史跡しせきおよ名勝めいしょうとして指定していされている[5]

奈良ならけん指定してい[編集へんしゅう]

有形ゆうけい文化財ぶんかざい
  • くろうるし金銅かなどうそう神輿しんよくろうるし金銅かなどうそう神輿しんよ1再興さいこう銘板めいばん1めん)(工芸こうげいひん) - 指定してい年月日ねんがっぴ2017ねん平成へいせい29ねん)2がつ14にち指定してい
慶長けいちょうきゅうねんきゅうがつ墨書ぼくしょめいがある。桃山ももやま時代じだい慶長けいちょう9ねん(1604ねん)のさく豊臣とよとみ秀頼ひでより奉納ほうのうしたもの[30][21]

吉野よしのまち指定してい[編集へんしゅう]

無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい
  • 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ田植たうえ 神事しんじ - 指定していねん1978ねん昭和しょうわ53ねん[31]
「お田植たうえさい」は、やく700ねんまえ室町むろまち時代ときよよりつづき、毎年まいとし4がつ3にち五穀豊穣ごこくほうじょうねが境内けいだいおこなわれる「しゅく神事しんじである(すんでじゅつ)。

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

ユネスコ世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう』を構成こうせいする霊場れいじょう吉野よしの大峯おおみね」の構成こうせい資産しさんひとつとして2004ねん登録とうろくされている。

吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ境内けいだいふく吉野山よしのやまが、構成こうせい資産しさんとして世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。
  • 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ - 登録とうろく種別しゅべつ:「遺跡いせき」。登録とうろく概要がいよう吉野山よしのやま地主じぬししんまつ神社じんじゃ遺跡いせき[32]
  • 吉野山よしのやま - 登録とうろく種別しゅべつ:「遺跡いせき景観けいかん」。登録とうろく概要がいよう山岳さんがく信仰しんこう修験しゅげんどう聖地せいち[32]

アクセス[編集へんしゅう]

  • 近鉄きんてつ吉野線よしのせん吉野よしのえきより吉野よしのロープウェイえ「吉野山よしのやま下車げしゃ徒歩とほやく1あいだ30ふん。または吉野山よしのやまえきからバスで23ぶんの「高城山たかぎやま展望てんぼうだい下車げしゃ徒歩とほ15ふん
  • 自動車じどうしゃ場合ばあい門前もんぜんよこに2だいほどの無料むりょう駐車ちゅうしゃスペースがあるが、道幅みちはばさいしゃ対向たいこうきびしい部分ぶぶんおおい。4月(さくらシーズン)は時間じかんたいにより自家用車じかようしゃ吉野山よしのやまへの入山にゅうざん規制きせいがある。

拝観はいかん[編集へんしゅう]

拝観はいかん無料むりょう拝観はいかん時間じかん8から16。4がつのみ8から17

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 神仏しんぶつ灯明とうみょうとしてく、山野さんやえるちいさい雑木ざつぼくのかがり
  2. ^ 木製もくせい階段かいだん
  3. ^ いろなどをらない
  4. ^ 天井てんじょうらないで、棰(たるき)をせた屋根裏やねうら
  5. ^ ざおえんというほそ横木よこぎを30〜60cm感覚かんかくもうけ、そのうえ天井板てんじょういたざおえん直角ちょっかく方向ほうこうった天井てんじょう
  6. ^ 社寺しゃじ建築けんちくの、枡組ますぐみいち形式けいしき
  7. ^ 社寺しゃじ建築けんちくもちいられ、のきかたちづくる垂木たるき垂木たるき(じだるき)と檐(ひえん)垂木たるきじゅうになっているもの。
  8. ^ 間隔かんかくをまばらにならべた垂木たるき
  9. ^ 切妻きりづま屋根やねりょうはしに、それぞれ棟木むなぎ(むなぎ)をけるために合掌がっしょうがたざいふるくは上部じょうぶ交差こうささせてんだ丸太まるた
  10. ^ 栩板(とちいた)とよばれるあつばん屋根やねくこと
  11. ^ 肘木ひじきうえに、(ます)がみっならばず、ふたつだけのもの。
  12. ^ 肘木ひじき周囲しゅうい上下じょうげおよび先端せんたん)のせん複雑ふくざつかたちになっているもの。
  13. ^ 禅宗ぜんしゅうさま」を象徴しょうちょうする要素ようそいちである「大瓶おおびんたば(たいへいづか)」の左右さゆうけられた、「蟇股かえるまた」をふたつにけたような装飾そうしょく彫刻ちょうこくのこと。
  14. ^ 禅宗ぜんしゅうさま」を象徴しょうちょうする装飾そうしょく部材ぶざいひとつ。
出典しゅってん
  1. ^ a b c d e 現地げんち境内けいだいくち鳥居とりいわき設置せっち由緒ゆいしょ沿革えんかく案内あんないばんによる。
  2. ^ a b c 大石おおいし 2009, p. 43.
  3. ^ 大石おおいし 2009, p. 11.
  4. ^ 奈良ならけん 2005, p. 16.
  5. ^ a b c d e f g h i j k 世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう奈良ならけん保存ほぞん管理かんり計画けいかくぶん さつ 2)” (PDF). 奈良なら県庁けんちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  6. ^ a b c d 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ 田植たうえ神事しんじ”. 奈良ならけん 吉野山よしのやま観光かんこう協会きょうかい公式こうしき Facebook. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん
  7. ^ 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ/「トンボのうた由来ゆらいする蜻蛉とんぼたきから、吉野よしの宮滝みやたきへ」ルート詳細しょうさい奈良ならけん公式こうしき ウォーキングポータルサイト あるく・なら”. 奈良ならけん 観光かんこうきょく. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  8. ^ さくら名勝めいしょう一目いちもくせんほん”. 吉水よしみず神社じんじゃ. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん
  9. ^ 奈良ならけん 2005, p. 17.
  10. ^ 吉野よしの大峰おおみね世界せかい遺産いさん”. 和歌山わかやまけん世界せかい遺産いさんセンター. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  11. ^ 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ(ヨシノミクマリジンジャ)”. ほんきょ宣長のりなが記念きねんかん公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん鈴屋すずや遺蹟いせき保存ほぞんかい. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん
  12. ^ 構成こうせい資産しさん紹介しょうかい吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ(よしのみくまりじんじゃ)/世界せかい遺産いさん”. 吉野よしのまち役場やくば 産業さんぎょう観光かんこう. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん
  13. ^ 仲川なかがわあきら子供こどものための大和やまと伝説でんせつ奈良新聞社ならしんぶんしゃ、12さつ 1978ねん(初版しょはん65ねん) pp.198 - 199.
  14. ^ 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ構成こうせい資産しさんくに指定してい文化財ぶんかざいとうデーターベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん
  15. ^ a b c 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ楼門ろうもんくに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  16. ^ a b c 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ回廊かいろうみなみ)/くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  17. ^ a b c 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ回廊かいろうきた)/くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  18. ^ a b c d 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ拝殿はいでんくに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  19. ^ a b c 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃぬさ殿どのくに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  20. ^ a b c d 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ本殿ほんでんくに指定してい文化財ぶんかざいとうデーターベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  21. ^ a b 平成へいせい29ねん2がつ14にち奈良ならけん公報こうほうより奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい告示こくじだい19ごう (PDF) (リンクは奈良ならけんホームページ)。
  22. ^ 首藤しゅどう 2004.
  23. ^ 吉野よしの大峰おおみね世界せかい遺産いさん”. 和歌山わかやまけん世界せかい遺産いさんセンター. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  24. ^ 吉野よしの水分すいぶん神社じんじゃ田植たうえさい”. 吉野よしのまち役場やくば 産業さんぎょう観光かんこう. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん
  25. ^ 武藤むとう 2006.
  26. ^ a b 木造もくぞうだまひめいのち坐像ざぞうくに指定してい文化財ぶんかざいとうデーターベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  27. ^ a b 伊東いとう史朗しろうそう監修かんしゅうほんまき監修かんしゅう 赤川あかがわ一博かずひろほか責任せきにん編集へんしゅう神像しんぞう彫刻ちょうこく重要じゅうよう資料しりょう集成しゅうせい だい3かん 関西かんさいへん国書刊行会こくしょかんこうかい、2016ねん12月5にち、pp.438-441、ISBN 978-4-336-06083-9
  28. ^ 木造もくぞうてんまんたえはた千々ちじひめいのち坐像ざぞうくに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  29. ^ 吉野山よしのやまくに指定してい文化財ぶんかざいとうデーターベース”. 文化庁ぶんかちょう. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  30. ^ くろうるし金銅かなどうそう神輿しんよ (PDF) [リンク]奈良ならけんホームページ)。
  31. ^ 吉野よしのまち所在しょざい指定してい文化財ぶんかざいとう一覧いちらん”. 吉野よしのまち. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん
  32. ^ a b 登録とうろく資産しさん目録もくろく世界せかい遺産いさん”. 和歌山わかやまけん世界せかい遺産いさんセンター. 2021ねん9がつ21にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]