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紀伊きい

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紀伊路の位置(日本内)
紀伊路
紀伊きい大塔おおとう山地さんち周辺しゅうへん

紀伊きい(きいじ、ふるくは〈きじ〉とも)は、熊野くまの三山さんざんへの参詣さんけいどう熊野くまの古道ふるみちのひとつ。

淀川よどがわ河口かこう渡辺わたなべ摂津せっつこく)から一路いちろ南下なんか和泉いずみこくて、雄ノ山峠おのやまとうげえて紀伊きいこくはいり、紀伊田辺きいたなべからは大塔おおとう山地さんち周縁しゅうえん東進とうしんして熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃいたり、熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ熊野くまの那智なち大社たいしゃむすぶ。

近世きんせいまでに紀伊田辺きいたなべ以東いとう部分ぶぶん中辺路なかへじ(なかへち)の区分くぶんされるようになったが(後述こうじゅつ)、ほん項目こうもくにてあつかう。

概要がいよう[編集へんしゅう]

熊野くまの古道ふるみち地図ちず水色みずいろせんせん紀伊きい

紀伊きい畿内きない熊野くまの三山さんざんむす参詣さんけいどうである。熊野くまの古道ふるみちなかでは、伊勢路いせじならんで梁塵りょうじんしょううたわれたようにもっとふるくからられたみちであるが、摂津せっつこく和泉いずみこくでは和泉山脈いずみさんみゃく葛城かつらぎ山脈さんみゃくに、紀伊きいこくでは紀伊きい山地さんち紀伊きい山地さんち源流げんりゅうをもつ河川かせん制約せいやくされ、けっして容易よういではない困難こんなんみちであった。

そのような困難こんなんみちであるにもかかわらず、紀伊きいは7世紀せいき以降いこう熊野くまの三山さんざんへの参詣さんけいどうとして正式せいしきなルートとして認識にんしきされ、きょういん貴族きぞくによる参詣さんけい隆盛りゅうせいた。のみならず、こうしたいん貴族きぞくによる参詣さんけい中心ちゅうしんとする平安へいあん末期まっきから鎌倉かまくら初期しょきにかけての中世ちゅうせい熊野くまのまい徒歩とほ原則げんそくとされ、きゅうじゅうきゅう王子おうじへの巡拝じゅんぱいおこなわれた。中世ちゅうせい熊野くまのまい先達せんだつをつとめ、参詣さんけいルートの整備せいび参詣さんけい儀礼ぎれい指導しどうにあたったのは修験しゅげんしゃであったため、困難こんなん修行しゅぎょうみちえてくことそれ自体じたい信仰しんこうじょう意義いぎ見出みいだされていたのである。

中世ちゅうせい熊野くまのまいは、承久じょうきゅうらんにおいてしゅたるになであったいん没落ぼつらくし、いんうしたてつつ熊野くまの三山さんざん統括とうかつしてきた熊野くまの別当べっとういえ勢力せいりょくおとろえさせたことで終焉しゅうえんむかえた。以降いこう熊野くまの参詣さんけいしゅたるにな東国とうごく武士ぶし有力ゆうりょく農民のうみんにシフトするにつれ、メインルートとしての地位ちいうしなった紀伊きい性格せいかく変容へんようし、西国さいこくさんじゅうさんしょ巡礼じゅんれいどうまれるにいたった。熊野くまの参詣さんけい依然いぜんとしてうしなわれたわけではないが、中世ちゅうせい熊野くまのまいのような参詣さんけい儀礼ぎれいうしなわれ、また困難こんなん箇所かしょ回避かいひするための派生はせいルートがもうけられた。摂津せっつ和泉いずみでは熊野くまの街道かいどうともばれたように、紀伊きい幹線かんせん道路どうろとして沿道えんどう住人じゅうにん生活せいかつ道路どうろであり、政治せいじ経済けいざいじょう役割やくわりをもになっており、近代きんだい以降いこう国道こくどう整備せいびにおいても、紀伊きいのルートがしばしば踏襲とうしゅうされた。

淀川よどがわ河口かこう渡辺わたなべ摂津せっつこく)をった紀伊きいは、和泉いずみ山脈さんみゃくから派生はせいした和泉いずみ丘陵きゅうりょう先端せんたん湧水わきみずたいせん沿いに紀州きしゅう街道かいどうとほぼ平行へいこうしてすすみ、今日きょう阪南はんなん付近ふきん丘陵きゅうりょうえに方向ほうこうてんじる。おなじく丘陵きゅうりょうえにてんじた紀州きしゅう街道かいどう合流ごうりゅうして雄ノ山峠おのやまとうげえて紀伊きいこくはいる。紀ノ川きのかわ中央ちゅうおう構造こうぞうせんみなみえると、そこからは紀伊きい山地さんちから派生はせいした地形ちけいつづき、紀伊きい山地さんち源流げんりゅう紀ノ川きのかわ有田ありたがわ日高川ひだかがわといった河川かせんわたりながら紀伊田辺きいたなべく。田辺たなべからは東進とうしんし、岩田川いわたがわ河谷こうだに滝尻たきじりからは大塔おおとう山系さんけいきたえん東進とうしんして熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃいたり、熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ熊野くまの那智なち大社たいしゃ巡拝じゅんぱいするみちすすむ。

前述ぜんじゅつとおり、紀伊きい信仰しんこうみちであるだけでなく生活せいかつみちでもあり、近代きんだい以降いこうにおいても利用りようされつづけた。しかし、より容易たやすかつ自動車じどうしゃ通行つうこう可能かのうなルートが開削かいさくされるとともに幹線かんせんからはずれ、集落しゅうらくなかとおっていたみちきゅうじょううしなったり、みちではなくなった箇所かしょすくなくはない。しかし、1978ねん昭和しょうわ53ねん)に文化庁ぶんかちょうにより大阪おおさか和歌山わかやまけん熊野くまの参詣さんけいどう、すなわち紀伊きいが「歴史れきしみちひゃくせん」に選定せんていされたことをに、あらためて紀伊きいのルートと歴史れきしかんする調査ちょうさ結果けっか集成しゅうせいされた。またこの調査ちょうさから派生はせいして、きゅうじょうをまとまってよくとどめられている田辺たなべ中辺路なかへじまち以東いとう紀伊きいはルートの復元ふくげん整備せいびおこなわれたことにより、不完全ふかんぜんであるにせよかつての参詣さんけいどうをたどることが可能かのうになっている。

紀伊きいみち[編集へんしゅう]

紀伊きいのルートとその周囲しゅうい名所めいしょ旧蹟きゅうせき遺跡いせきとうについて記述きじゅつする。

窪津くぼつから雄ノ山峠おのやまとうげ[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい熊野くまのまいにおいてきょういん貴族きぞくたちがたどったルートにしたがうならば、京都きょうとからふねきゅう淀川よどがわ河口かこうまでくだって渡辺わたなべ付近ふきん上陸じょうりくするところから参詣さんけいどうがはじまる[1]摂津せっつから南下なんかして紀伊きい山口やまぐちいたみちは、平安へいあん時代じだい以降いこう南海なんかいどうであった。南海なんかいどう遷都せんとなどの事情じじょうによりすうにわたってルートが変更へんこうされており、奈良なら時代じだいまでは紀ノ川きのかわ河谷こうだに西進せいしんして紀伊きい国府こくふいたり、淡路あわじ阿波あわとすすむが、中世ちゅうせい熊野くまのまい時代じだいにはかんどうである南海なんかいどう利用りようしていた[2]

きゅう淀川よどがわ河口かこう付近ふきん上陸じょうりくから上町うえまち台地だいち南下なんかし、河内かわうち和泉いずみ国境こっきょう三国峠みくにとうげえ、和泉いずみこくはいる。和泉いずみこくにおいて紀伊きいのルートを制約せいやくするのは、かつての和泉いずみ紀伊きい国境こっきょう今日きょう大阪おおさか和歌山わかやま県境けんきょうをなす和泉山脈いずみさんみゃく和泉いずみ山脈さんみゃくから派生はせいした和泉いずみ丘陵きゅうりょうである。和泉山脈いずみさんみゃくからきたかってくしじょうびる丘陵きゅうりょう和泉いずみ平野へいやひろおおい、そのあいだひらけ析する河川かせんはいずれも流域りゅういき面積めんせきちいさな河川かせんばかりであるが、段丘だんきゅうふかVだに形成けいせいしている[3]丘陵きゅうりょうまつはし海岸かいがんせんとのあいだうみ退すさまたは隆起りゅうきにより海岸かいがん段丘だんきゅう形成けいせいし、この海岸かいがん段丘だんきゅう形成けいせい作用さようひがしから西にしへの地形ちけいあつりょくにより河川かせん屈折くっせつかえしつつ大阪おおさかわん流入りゅうにゅうするまでのあいだに、沖積ちゅうせき平野へいや扇状地せんじょうち形成けいせいする[4]。そうした丘陵きゅうりょう下部かぶ段丘だんきゅう末端まったんには湧水わきみずたいられ、この湧水わきみずたいをつなぐせん丘陵きゅうりょう湧水わきみずたいせんばれる[5]。このせん沿って原初げんしょてき交通こうつう成立せいりつし、のちに紀州きしゅう街道かいどう熊野くまの街道かいどうとなって、かく時代じだいつうじて文化ぶんかれる幹線かんせんとなった[6]。しかし、この交通こうつう南西なんせいすすむにつれて、和泉いずみ丘陵きゅうりょう海岸かいがんせまってるためにせばめられてゆき、阪南はんなん貝掛かいかけ付近ふきんではついに丘陵きゅうりょう先端せんたんうみむことになる[4]。それゆえ、交通こうつう海岸かいがんせんとおるか、丘陵きゅうりょうじょうがるかを選択せんたくせざるをなくなるが、古代こだい後期こうき以降いこう主要しゅよう交通こうつうとなるのは後者こうしゃであり、古代こだい以降いこう熊野くまの街道かいどう近世きんせい以降いこう紀州きしゅう街道かいどうとも丘陵きゅうりょうがり、現在げんざい泉佐野いずみさの下瓦屋しもかわらやまち付近ふきん合流ごうりゅう[3]雄ノ山峠おのやまとうげえてゆくことになる。

大阪おおさか府内ふない紀伊きい大阪おおさかうちさかいうちでは比定ひてい困難こんなんであり、とくさかいでは中世ちゅうせいかんほり都市とし開発かいはつ影響えいきょうられる[7]きゅうじょうのこ箇所かしょうしなった部分ぶぶんられるだけでなく、みちでなくなった部分ぶぶんもある[8]のこされた道筋みちすじもすべて車道しゃどう(主要しゅよう地方ちほうどう生活せいかつ道路どうろ)となっており、かつて難所なんしょとしてられた雄ノ山峠おのやまとうげも、きゅう勾配こうばい区間くかんはルートをすこえつつ特徴とくちょうてき勾配こうばいのこっているが、とうげ付近ふきん阪和はんわ自動車じどうしゃどうとうげえつえとなみそうして高度こうど成長せいちょう以降いこう交通こうつう状況じょうきょう反映はんえいしたはばひろどおしを形成けいせいしているなど、当時とうじ面影おもかげのない舗装ほそう道路どうろであり[9]、「歴史れきしみち」にも選定せんていされず史跡しせき指定していけていない。

雄ノ山峠おのやまとうげから紀伊田辺きいたなべ[編集へんしゅう]

雄ノ山峠おのやまとうげよりさきも、海南かいなんインターチェンジ付近ふきん藤白ふじしろ神社じんじゃいたるまでは、県道けんどう主要しゅよう地方ちほうどう指定していされた自動車じどうしゃ比較的ひかくてきおお区間くかんおおく、県道けんどう重複じゅうふくしない区間くかん軽自動車けいじどうしゃとおれる状態じょうたいみち大半たいはんめる。

JR阪和線はんわせん山中渓やまなかだにえき付近ふきん道程どうてい石畳いしだたみふう整備せいびされているが、これは江戸えど時代じだい紀州きしゅう街道かいどうをイメージしたもの。とうげまでの途中とちゅうにあるさかいきょう和泉いずみこく大阪おおさか)と紀州きしゅう和歌山わかやまけん)の境界きょうかいで、滝畑たきはた集落しゅうらくけてとうげえる。とうげくだるとかんどう時代じだい紀伊きいせき白鳥はくちょうせき)がかれた湯屋谷ゆやだに集落しゅうらくとなる。紀ノ川きのかわいたあいだには、山口やまぐち川辺かわべ中村なかむらかく王子おうじのほか、熊野くまの古道ふるみちとの関係かんけいふかやく小角おがくまつほこらもある。紀ノ川きのかわ聖地せいち最初さいしょ結界けっかいとらえられていたことから、川辺かわべわたではけがれをはら水垢離みずごりおこなわれていた。

紀ノ川きのかわわたるとJR和歌山線わかやません布施屋ほしやえきで、川端かわばた王子おうじ合祀ごうししたこうつもる神社じんじゃがあり、結界けっかいえたことから熊野くまの遥拝ようはいしょばれる。井ノ口いのぐち集落しゅうらくけると和佐わさ王子おうじあとがあり、ここには江戸えど時代じだい紀州きしゅうはん王子おうじあと顕彰けんしょうしたいしぶみのこる。矢田やたとうげえ、南海電鉄なんかいでんてつ貴志川線きしがわせんまたぐと阪和はんわ自動車じどうしゃどうなみはしする。小瀬田こせだ多田おおた集落しゅうらくあいだ和歌山わかやま海南かいなん境界きょうかいになっている。神武じんむ天皇てんのう東征とうせい熊野くまのりするさい土蜘蛛つちぐも退治たいじしたとされる蜘蛛くもわきから汐見しおみとうげえると、海南かいなん市街地しがいちとなる。

海南かいなんはかつて熊野くまの神域しんいきくちとされ、熊野くまの一之かずゆき鳥居とりいがあった。往時おうじはこの鳥居とりいもぐり、はらい王子おうじ藤白ふじしろ神社じんじゃかった。藤白ふじしろ神社じんじゃ藤代ふじしろ王子おうじしゃから勧進かんじんされたもので、神社じんじゃさきからはじまる藤白ふじしろざか古道ふるみちおもむきをのこしており、1ちょう間隔かんかく道標どうひょうとなる地蔵じぞうをかたどったひのとせきえられている。さか頂上ちょうじょうとなる藤白ふじしろとうげ御所ごしょしばばれ『紀伊きい国名こくめいしょ図絵ずえ』で「紀州きしゅう随一ずいいち美景びけいなり」と絶賛ぜっさんされ、とお四国しこくまで眺望ちょうぼうできる。とうげにはくに重要じゅうよう文化財ぶんかざいいし地蔵じぞうまつ地蔵峰寺じぞうほうじがあり、この境内けいだいもともとは藤白ふじしろ塔下とうのした王子おうじ跡地あとちであった。とうげえると海南かいなん下津しもつまちとなり、菓子かしかみとしてられる田道たみちあいだもりまつ橘本きつもと神社じんじゃところざか王子おうじ)などがあり、はいとうげのぼざかとなる。白倉山しらくらやまわきけると有田ありたはいり、紀勢本線きせいほんせん踏切ふみきりいで有田ありたがわわたる。現在げんざいでは架橋かきょうされているが、往時おうじ宮原みやはらわたがあった。ふたたのぼざかとなり、糸我いとがとうげえると湯浅ゆあさまちになる。

湯浅ゆあさ市街地しがいちからはすぐ広川ひろかわまちとなり、かつての宿場しゅくばであった井関いせき集落しゅうらくとおって鹿しかとうげへとかう。紀伊きいなかでももっと険路けんろとされるこのとうげのぼこうには、ひがしうまとめ王子おうじあとがある。うまとめとはうまえるにはけわしいとうげのため、きょう方面ほうめんから貴人きじんでもここにうまいて徒歩とほとうげえなければならなかったことに由来ゆらいする。とうげ前後ぜんごにはむかし茶屋ちゃやならんでいた痕跡こんせきのこされている。尾根おねつづきのしょうとうげさかい日高ひだかまちとなり、くだどうとではやく500メートルにわたる石畳いしだたみつづく。そのさき原谷はらや集落しゅうらくには西にしうまとめ王子おうじあとがあり、この界隈かいわい古来こらいから黒竹くろちく自生じせいし、その光景こうけいおおくの和歌わかなどにもまれてきた。原谷はらや集落しゅうらく界隈かいわい山道さんどうではなく、里山さとやま田園でんえん地帯ちたいとなる。ほどなく紀伊きい御坊ごぼうはいる。

御坊ごぼうでは道成寺どうじょうじ本尊ほんぞんである千手観音せんじゅかんのんうみからひろげた海士あままつったきゅう海士あもう王子おうじあとてらちかくにある。市内しないながれる日高川ひだかがわ沿いに下流かりゅうかってすすみ、紀伊きい水道すいどうから太平洋たいへいようになる海岸かいがんせんて、しばらく海辺うみべあるくことになる。そのまま印南いなみまちうつり、切目きりめ王子おうじなどを榎木えのきとうげえ、みなべまちはいる。『枕草子まくらのそうし』や『伊勢物語いせものがたり』にしるされた千里せんりはまあるき、小栗おぐり判官ほうがんゆかりのさんなべ王子おうじ、そのさんなべ王子おうじ一時いちじ合祀ごうししていたことからきゅう王子おうじしゃをそのまま社殿しゃでんとした鹿島かしま神社じんじゃて、田辺たなべく。芳養はやえきからさきは、景観けいかん再生さいせいされた松並まつなみつづき(下記かき景観けいかん環境かんきょう復元ふくげん”のふし参照さんしょう)、中辺路なかへじすす参拝さんぱいしゃ海水かいすいみそぎをしたしお垢離こりはまあと石碑せきひ出立しゅったつ王子おうじあとぎ、ぐに龍泉寺りゅうせんじきよしおんてら西方寺さいほうじつらなるかくがり、きゅう会津あいづきょうわたればぐに道標どうひょうく。そのまま直進ちょくしん本町ほんちょうはいる。たりをみぎへ、陶器とうきてんまえ道標どうひょうみちせき)があり右折うせつ直進ちょくしんさかえまちぎ、北新ほくしんまち路傍ろぼう道標どうひょうみちせき)で紀伊きいわり、ここから中辺路なかへじだいあたりかれる。

紀伊きいある
雄ノ山峠おのやまとうげ紀伊田辺きいたなべ
和泉・紀伊国境の山中関所跡から始まる
和泉いずみ紀伊きい国境こっきょう山中さんちゅう関所せきしょあとからはじまる
和泉・紀伊国境の境橋
和泉いずみ紀伊きい国境こっきょう境橋さかいばし
雄ノ山峠
雄ノ山峠おのやまとうげ
山口王子跡
山口やまぐち王子おうじあと
湯屋谷集落
湯屋谷ゆやだに集落しゅうらく
川辺王子跡(力侍神社)
川辺かわべ王子おうじあとちからさむらい神社じんじゃ
川辺の渡し場跡付近
川辺かわべわたあと付近ふきん
紀の川を渡る
かわわた
川端王子
川端かわばた王子おうじ
井ノ口集落
井ノ口いのぐち集落しゅうらく
紀州藩の顕彰碑が建つ和佐王子跡
紀州きしゅうはん顕彰けんしょう和佐わさ王子おうじあと
矢田峠
矢田やたとうげ
塩ノ谷集落
塩ノ谷しおのたに集落しゅうらく
平緒王子跡
ひらいとぐち王子おうじあと
平尾集落
平尾ひらお集落しゅうらく
貴志川線踏切越しの口須佐集落
貴志川線きしがわせん踏切ふみきりしの口須佐くちずさ集落しゅうらく
奈久智王子
奈久さとし王子おうじ
吉里集落
吉里よしさと集落しゅうらく
松坂王子
松坂まつさか王子おうじ
石畳の坂道(海南市)
石畳いしだたみ坂道さかみち海南かいなん
蜘蛛池
蜘蛛くも
汐見峠
汐見しおみとうげ
松代王子跡(春日神社)
松代まつだい王子おうじあと春日かすが神社じんじゃ
祓戸王子跡
はらい王子おうじあと
藤白神社
藤白ふじしろ神社じんじゃ
藤白坂
藤白ふじしろざか
藤白坂の丁石地蔵
藤白ふじしろざかひのとせき地蔵じぞう
藤白峠の宝塔
藤白ふじしろとうげ宝塔ほうとう
藤白塔下王子
藤白ふじしろ塔下とうのした王子おうじ
御所の芝
御所ごしょしば
蜜柑畑の脇を下る
蜜柑みかんはたけわきくだ
橘本王子跡(阿弥陀寺)
橘本きつもと王子おうじあと阿弥陀寺あみだじ
木橋を渡る
きょうわた
橘本神社
橘本きつもと神社じんじゃ
所坂王子跡(橘本神社境内)
ところざか王子おうじあと橘本きつもと神社じんじゃ境内けいだい
一壷王子跡(山路王子神社)
いちつぼ王子おうじあと山路やまじ王子おうじ神社じんじゃ
拝ノ峠からの眺望
はいとうげからの眺望ちょうぼう
蕪坂塔下王子
かぶらざか塔下とうのした王子おうじ
山口王子
山口やまぐち王子おうじ
宮原の渡し場跡
宮原みやはらわたあと
糸我王子
糸我いとが王子おうじ
糸我峠への道
糸我いとがとうげへのみち
糸我峠
糸我いとがとうげ
逆川王子跡(逆川神社)
逆川さかかわ王子おうじあと逆川さかかわ神社じんじゃ
河瀬王子
河瀬かわせ王子おうじ
鹿ヶ瀬峠(大峠)の頂上
鹿しかとうげ大峠おおとうげ)の頂上ちょうじょう
小峠
小峠ことうげ
鹿ヶ瀬峠へ続く石畳
鹿しかとうげつづ石畳いしだたみ
路傍の板碑
路傍ろぼう板碑いたび
奥原谷の旧集落跡を抜ける
奥原おくはらたにきゅう集落しゅうらくあとける
原谷集落の古民家
原谷はらや集落しゅうらく民家みんか
原谷集落
原谷はらや集落しゅうらく
沓掛王子跡
沓掛くつかけ王子おうじあと
西の馬留王子跡
西にしうまとめ王子おうじあと
原谷集落の田園風景
原谷はらや集落しゅうらく田園でんえん風景ふうけい
内ノ畑王子跡
うちはたけ王子おうじあと
高家王子(内原王子神社)
高家こうか王子おうじ内原うちはら王子おうじ神社じんじゃ
善童子王子(田藤次王子)
ぜん童子どうじ王子おうじ田藤たふじ王子おうじ
愛徳山王子跡北東参詣道
あい徳山とくやま王子おうじあと北東ほくとう参詣さんけいどう
愛徳山王子跡
あい徳山とくやま王子おうじあと
愛徳山王子跡竹林道
あい徳山とくやま王子おうじあとちく林道りんどう
九海士王子
きゅう海士あま王子おうじ
道成寺
道成寺どうじょうじ
光川海岸(印南町)
ひかりがわ海岸かいがん印南いなみまち
斑鳩王子
斑鳩いかる王子おうじ
切目王子
切目きりめ王子おうじ
切目海岸
切目きりめ海岸かいがん
切目中山王子(中山王子神社)
切目きりめ中山なかやま王子おうじ中山なかやま王子おうじ神社じんじゃ
土盤切り出しの古道(印南町)
ばんしの古道ふるみち印南いなみまち
榎木峠
榎木えのきとうげ
里山風情の古道(印南町)
里山さとやま風情ふぜい古道ふるみち印南いなみまち
すれ違い困難な隘路(みなべ町)
すれちが困難こんなん隘路あいろ(みなべまち
岩代王子
岩代いわしろ王子おうじ
千里王子跡北東参詣道
千里王子跡北東参詣道
千里王子
千里せんり王子おうじ
千里の浜
千里せんりはま
三鍋王子
三鍋みなべ王子おうじ
芳養王子
芳養はや王子おうじ
芳養の松原
芳養はや松原まつばら
潮垢離浜跡碑
しお垢離こりはまあと
出立王子
出立しゅったつ王子おうじ
紀伊路の終着点・道分け石
紀伊きい終着しゅうちゃくてんみちせき

文化財ぶんかざい保護ほご[編集へんしゅう]

史跡指定の鹿ヶ瀬峠
史跡しせき指定してい鹿しかとうげ
日本遺産の藤白坂
日本にっぽん遺産いさん藤白ふじしろざか

紀伊きいなかでも田辺たなべ以東いとう中辺路なかへじ文化財ぶんかざい保護ほごほうにもとづく史跡しせき熊野くまの参詣さんけいどう」(2000ねん平成へいせい12ねん〉11月2にち指定してい[10] として指定していされており、その2002ねん平成へいせい14ねん)12月19にち熊野川くまのがわおよびみね温泉おんせんのつぼ追加ついか指定していけた[10][11]中辺路なかへじ文化庁ぶんかちょうによる「歴史れきしみち」の指定してい対象たいしょうであり、1996ねん平成へいせい8ねん)には歴史れきしみちひゃくせんにも選定せんていされている[12] が、これは文化財ぶんかざい保護ほごとく目的もくてきとしたものではなく、公的こうてき文化財ぶんかざい保護ほご枠組わくぐみのしたにおかれていなかった。中辺路なかへじふく熊野くまの参詣さんけいどう世界せかい遺産いさんへの推薦すいせん先行せんこうして日本にっぽん国内こくないほう準拠じゅんきょする保護ほごおよび保存ほぞん管理かんり計画けいかくしめ必要ひつようから登録とうろくされたものである[13]史跡しせき指定していにより、中辺路なかへじ現状げんじょう変更へんこうする、または保存ほぞん影響えいきょうおよぼす行為こういには文化庁ぶんかちょう長官ちょうかん許可きょか必要ひつようとなった。世界せかい遺産いさんへの推薦すいせん登録とうろくさいしてもうけられた緩衝かんしょう地帯ちたい文化財ぶんかざい保護ほごほう対象たいしょうではないが、その法令ほうれいけんおよび市町村しちょうそん条例じょうれいによる保護ほごしたかれている[14][15]

また和歌山わかやま奈良なら三重みえの3けん教育きょういく委員いいんかい市町村しちょうそん教育きょういく委員いいんかいおよび文化庁ぶんかちょう調整ちょうせいのうえでさだめた包括ほうかつてき保存ほぞん管理かんり計画けいかくにもとづき、個別こべつ遺産いさん管理かんりにあたるけんないし市町村しちょうそん教育きょういく委員いいんかい個別こべつ保存ほぞん管理かんり策定さくてい実施じっしにあたる体制たいせいがとられており[16]保存ほぞん管理かんりにあたって必要ひつよう資金しきん技術ぎじゅつについても政府せいふけんによる支援しえんおこなわれている[17]

2015ねん平成へいせい27ねん)に熊野くまの古道ふるみち史跡しせき指定してい追加ついかおこなわれ、紀伊きいからは藤白ふじしろ王子おうじあと藤白ふじしろざか藤代ふじしろ塔下とうのした王子おうじあといちつぼ王子おうじあと以上いじょう海南かいなん)、糸我いとがとうげ有田ありた)、河瀬かわせ王子おうじあと鹿ケ瀬ししがせとうげ広川ひろかわまち)が選定せんてい[18]2017ねん平成へいせい29ねん)には御坊ごぼう塩屋しおや王子おうじあとあい徳山とくやま王子おうじあと北東ほくとう参詣さんけいどう田辺たなべ芳養はや王子おうじあと追加ついか指定していされた。和歌山わかやまけん教育きょういく委員いいんかいは2016ねん熊野くまの古道ふるみち世界せかい遺産いさん追加ついか登録とうろくさい紀伊きいふくめる準備じゅんびすすめたが、保全ほぜんじょうきょう不十分ふじゅうぶんとして見送みおくられた経緯けいいがある[19]

さらに2022ねんれい4ねん)に逆川さかかわ王子おうじあと湯浅ゆあさまち)、鹿ケ瀬ししがせとうげ日高ひだかまちがわ)、切目きりめ王子おうじあと印南いなみまち)、千里せんり王子おうじあと千里せんり王子おうじあと北東ほくとう参詣さんけいどう(みなべまち)を追加ついか指定していする答申とうしんがあった[20]

また2017ねん4がつ文化庁ぶんかちょうはじめた日本にっぽん遺産いさんに、「絶景ぜっけい宝庫ほうこ 和歌わかうら」の構成こうせい資産しさんとして海南かいなん藤白ふじしろざか藤代ふじしろ塔下とうのした王子おうじあと御所ごしょしば)・藤白ふじしろ神社じんじゃ藤代ふじしろ王子おうじ)が認定にんていされた[21]

景観けいかん環境かんきょう復元ふくげん[編集へんしゅう]

熊野くまの古道ふるみち植生しょくせい再現さいげんした田辺たなべりょう公園こうえん「くまぐすのもり
2007ねん       →
椰子やし根元ねもと植樹しょくじゅ
2018ねん
植樹しょくじゅから10ねんしげった状況じょうきょう潮風しおかぜつよたねえらび、自己じこ追肥ついひする落葉樹らくようじゅなか放置ほうちしても育成いくせいされ、山間さんかん紀伊きい植生しょくせい景観けいかんとなった。

紀伊きいから中辺路なかへじだいあたり分岐ぶんきてんとなり「くち熊野くまの」とばれた紀伊田辺きいたなべは、総合そうごう保養ほよう地域ちいき整備せいびほう(リゾートほう)によってヤシのえるなど南国なんごくリゾートふうまちづくり展開てんかいしてきたが、一方いっぽうで1974ねん景勝けいしょうられたてん神崎かんざき別荘べっそう造成ぞうせい計画けいかくされたさいに「天神てんじんさき自然しぜん大切たいせつにするかい」が市民しみん有志ゆうしによって結成けっせいされ、日本にっぽんにおけるナショナルトラスト運動うんどう嚆矢こうしとなった。

この活動かつどう契機けいきとなり、宮脇みやわきあきら提唱ていしょうした潜在せんざい自然しぜん植生しょくせいかんがえにもとづいて2007ねんりょう公園こうえんにおいて在来ざいらいしゅへのえがおこなわれたのを皮切かわきりに[22]、「熊野くまのもりをつくるかい」や「熊野くまのもりネットワーク・いちいがしのかい」などの市民しみん団体だんたい熊野くまの古道ふるみちもっと往時おうじ景観けいかんうしなわれた紀伊きい環境かんきょう英語えいごばん復元ふくげん目指めざしている。

一方いっぽうりょう公園こうえん近接きんせつする芳養はや松原まつばら中世ちゅうせいからられた名勝めいしょう当時とうじはおそらく自然しぜん自生じせい)であったが、江戸えど時代じだい防風ぼうふうりんとして増加ぞうかされ、近代きんだいになり大半たいはんれたものを再生さいせいした。

ちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 小山こやま[2000:27、43]
  2. ^ 小山こやま[2000: 132-133]
  3. ^ a b 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい[2005: 148]
  4. ^ a b 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい[2005: 17]
  5. ^ 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい[2005: 18]
  6. ^ 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい[2005: 17-18]
  7. ^ 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい[2005: 42]
  8. ^ 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい[2005: 159]
  9. ^ 小山こやま[2000:133]
  10. ^ a b 熊野くまの参詣さんけいどう”. くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース. 文化庁ぶんかちょう. 2011ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  11. ^ 田辺たなべ指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらんひょう”. 田辺たなべ教育きょういく委員いいんかい. 2008ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん
  12. ^ 文化庁ぶんかちょう選定せんてい歴史れきしみちひゃくせん”. 文化庁ぶんかちょう. 2008ねん3がつ13にち閲覧えつらん
  13. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい[2005]
  14. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい[2005: 76-78]
  15. ^ 文化庁ぶんかちょう (2006ねん9がつ26にち). “条約じょうやくじょう資産しさん種別しゅべつ登録とうろく資産しさん国内こくないほうじょう指定していじょうきょう” (PDF). 文化ぶんか審議しんぎかい文化財ぶんかざい分科ぶんかかい世界せかい文化ぶんか遺産いさん特別とくべつ委員いいんかいだいかい議事ぎじ次第しだい. 文化庁ぶんかちょう. 2011ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  16. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい[2005: 76、79]
  17. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい[2005: 79]
  18. ^ このさい同時どうじ追加ついか指定していされた中辺路なかへじ北郡ほくそぎえつ長尾ちょうびざか潮見しおみとうげこし赤木あかぎえつはち上王子かみおうじあと稲葉いなば王子おうじあとしょういぬとうげ・かけぬけどう阿須賀あすか王子おうじあとだいあたり闘鶏とうけい神社じんじゃ・タオのとうげ清水しみずとうげ飛渡とんど谷道たにみち富山とやまたいらどう新田平にっただいらみるどう駿しゅんとうげ二河にこうとうげは、2016ねん平成へいせい28ねん)に世界せかい遺産いさんにも追加ついか登録とうろくされた
  19. ^ くに史跡しせき指定してい目指めざす 紀伊きい王子おうじあと古道ふるみち 紀伊きいみんほう 2021ねん5がつ25にち
  20. ^ 世界せかい遺産いさん追加ついか登録とうろく期待きたい 紀伊きい千里せんり切目きりめ国史こくしあと 紀伊きいみんほう 2022ねん6がつ21にち
  21. ^ 絶景ぜっけい宝庫ほうこ 和歌わかうら 和歌わかうら日本にっぽん遺産いさん活用かつよう推進すいしん協議きょうぎかい
  22. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん 2006ねん12月7にち(「あお地球ちきゅうまもる」広報こうほう

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

史料しりょう[編集へんしゅう]

  • 安楽庵策伝あんらくあんさくでん鈴木すずきさんこうちゅう、1964、『醒睡わらい』(上下じょうげまき)、角川書店かどかわしょてん角川かどかわ文庫ぶんこ
  • 神道しんとう大系たいけい編纂へんさんかい、1984、『参詣さんけい』、神道しんとう大系たいけい編纂へんさんかい神道しんとう大系たいけい文学ぶんがくへん5)
  • 正宗まさむね 敦夫あつお編纂へんさん校訂こうてい、1978、『畿内きないこころざし じょう』、現代げんだい思潮しちょうしゃ日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅうISBN 9784329005786
  • 山口やまぐち おっと出水いずみ むつみほか、1996、『熊野くまの案内あんない寺内てらうちやすしりん』、松原まつばら市役所しやくしょ松原まつばら研究けんきゅう紀要きようだい6ごう
  • 和歌山わかやまけん神職しんしょく取締とりしまりしょへん、1909、『ぞく紀伊きい風土記ふどきだいさん輯、地方ちほう帝国ていこく行政ぎょうせい学会がっかい出版しゅっぱん

踏査とうさ[編集へんしゅう]

  • 宇江 敏勝としかつ、2004a、『熊野くまの古道ふるみちあるく』、やま渓谷けいこく ISBN 4635600335
  • — 、2004b、『世界せかい遺産いさん熊野くまの古道ふるみち』、新宿しんじゅく書房しょぼう ISBN 4880083216 - 宇江らによる2002ねん踏査とうさふくむ。

調査ちょうさ報告ほうこく研究けんきゅう[編集へんしゅう]

  • 大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい、2002a、「熊野くまの紀州きしゅう街道かいどう - 調査ちょうさへん」、服部はっとり磯村いそむら[2005a: 5-140]
  • — 2002b、「熊野くまの紀州きしゅう街道かいどう - 論考ろんこうへん」、服部はっとり磯村いそむら[2005a: 141-345]
  • 紀南きなん文化財ぶんかざい研究けんきゅうかい熊野くまの歴史れきし研究けんきゅうかいへん、2008、『熊野くまの古道ふるみちだいあたり調査ちょうさ報告ほうこくしょ - 田辺たなべから新宮しんぐうまで』、だいあたり再生さいせい実行じっこう委員いいんかい
  • 小山こやま やすしけん、2000、『熊野くまの古道ふるみち』、岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょISBN 4004306655
  • — 、2004、『吉野よしの高野たかの熊野くまのをゆく - 霊場れいじょう参詣さんけいみち』、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ選書せんしょISBN 4022598581
  • 世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい三重みえけん奈良ならけん和歌山わかやまけん)、2005、『世界せかい遺産いさん 紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう』、世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんさんけん協議きょうぎかい
  • 服部はっとり 英雄ひでお磯村いそむら 幸男ゆきおへん、2005a、『近畿きんき地方ちほう歴史れきしみち1 - 大阪おおさか1』、海路かいろ書院しょいん歴史れきしみち 調査ちょうさ報告ほうこくしょ集成しゅうせいISBN 4902796333
  • 服部はっとり 英雄ひでお磯村いそむら 幸男ゆきおへん、2005b、『近畿きんき地方ちほう歴史れきしみち3 - 和歌山わかやま』、海路かいろ書院しょいん歴史れきしみち 調査ちょうさ報告ほうこくしょ集成しゅうせいISBN 490279635X

自然しぜん[編集へんしゅう]

  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかいへん、1985、『和歌山わかやまけん』、角川書店かどかわしょてん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん30) ISBN 404001300X
  • 金田かねだ 幸裕ゆきひろ石川いしかわ 義孝よしたか、2006、『近畿きんきけん』、朝倉書店あさくらしょてん日本にっぽん地誌ちし8) ISBN 9784254167689
  • 平凡社へいぼんしゃへん、1983、『和歌山わかやまけん地名ちめい』、平凡社へいぼんしゃ日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい31)

地方ちほう[編集へんしゅう]

  • 杉中すぎなかひろし一郎いちろう、1981、『紀南きなん雑考ざっこう』、中央公論ちゅうおうこうろん事業じぎょう出版しゅっぱん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]