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里山さとやま

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里山さとやま風景ふうけい東京とうきょう稲城いなぎ坂浜さかはま
ヒノキ人工じんこうりんのある里山さとやま

里山さとやま(さとやま)とは、集落しゅうらく人里ひとざと隣接りんせつした結果けっか人間にんげん影響えいきょうけた生態せいたいけい存在そんざいするやまをいう。深山ふかやま(みやま)の対義語たいぎご

里山さとやま」というかたり

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はじめて文献ぶんけんに「里山さとやま」という単語たんごあらわれるのは、1759ねん6がつ尾張おわりはん作成さくせいした文書ぶんしょ木曽きそ材木ざいもくかた」である。「村里むらざと家居かきょちかやまをさしてさとさんさるこう」と記述きじゅつされている[1]。また、奈良ならけん吉野よしの山地さんちでは、やま村落そんらくからちか標高ひょうこうひくじゅんに「サトヤマ」「ウチヤマ」「オクヤマ」「ダケ」と区分くぶんしており、「サトヤマ」に該当がいとうするのは集落しゅうらく周囲しゅうい斜面しゃめんにあるはたけ雑木林ぞうきばやしである[2]

現代げんだいられる里山さとやまさい評価ひょうか直接ちょくせつつながる言論げんろん活動かつどう開始かいしした人物じんぶつとしては、京都大学きょうとだいがく農学部のうがくぶ京都府立大学きょうとふりつだいがくなどの教官きょうかんつとめた四手よつでつなえいがいる。四手よつで今日きょうてき意味いみでの「里山さとやま」という言葉ことば使つかかた考案こうあんしたとわれる[3]

また、里山さとやまというかたり普及ふきゅうおおきな影響えいきょうあたえた人物じんぶつとしては、四手よつでほか写真しゃしんこんもり光彦みつひこげる意見いけんもある[4]飯沢いいざわこう太郎たろうは、1995ねん今森いまもり発表はっぴょうした写真しゃしんしゅう里山さとやま物語ものがたり[ちゅう 1]によって、里山さとやまというかたり具体ぐたいてきなイメージがあたえられたとしている。

に、市民しみん立場たちばから1983ねんから「里山さとやま一斉いっせい動物どうぶつ調査ちょうさ」などの活動かつどうおこない、里山さとやまかたり普及ふきゅうするとともに実地じっち体感たいかん動物どうぶつのフィールドサイン観察かんさつなどをつたえた、大阪おおさか自然しぜん環境かんきょう保全ほぜん協会きょうかい指導しどうした木下きのした陸男むつおがいる。

歴史れきし

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日本にっぽん列島れっとうにおいて、継続けいぞくてき人間にんげんはい森林しんりん出現しゅつげんした時期じきは、すくなくとも縄文じょうもん時代じだいまでさかのぼることができる。さんない丸山まるやま遺跡いせき研究けんきゅうによって、この遺跡いせき起居ききょしていた縄文じょうもんじん集団しゅうだん近隣きんりんもり栽培さいばいしゅクリウルシえて利用りようしていたことがあきらかになっている[5]

歴史れきし時代じだいはいるとともに、日本にっぽん列島れっとう里山さとやま乱伐らんばつ保護ほごかえしていくこととなる。最初さいしょ里山さとやまのオーバーユースによる森林しんりん破壊はかい顕在けんざいしたのは畿内きないであり、日本書紀にほんしょきによると、天武天皇てんむてんのうの6ねん676ねん)にはみなみふちさん細川ほそかわやまなどで伐採ばっさいすることをきんじるみことのりれいされている。

都市とし近郊きんこうのこされた里山さとやま神戸こうべきた山田やまだまち帝釈山たいしゃくざんより俯瞰ふかん

さらに日本にっぽん列島れっとうにおける森林しんりん破壊はかい進行しんこうし、800年代ねんだいまでには畿内きない森林しんりん相当そうとう部分ぶぶんが、また1000ねんころまでには四国しこく森林しんりんうしなわれ、1550年代ねんだいまでにこのふたつの地域ちいき森林しんりん中心ちゅうしんにして日本にっぽん列島れっとう全体ぜんたいの25%の森林しんりんうしなわれたとかんがえられている[6]

江戸えど時代じだいはいっても日本にっぽん列島れっとう森林しんりん破壊はかいまるところらず、18世紀せいきまでには本州ほんしゅう四国しこく九州きゅうしゅう北海道ほっかいどう南部なんぶ森林しんりんのうち当時とうじ技術ぎじゅつ伐採ばっさいできるものの大半たいはんうしなわれた。こうした激烈げきれつ森林しんりん破壊はかい背景はいけいには日本にっぽん列島れっとう人口じんこう急激きゅうげき膨張ぼうちょうによる建材けんざい需要じゅようや、だい規模きぼ寺社じしゃ城郭じょうかく造営ぞうえい相次あいついだことがあったとかんがえられている[7]

すなわち、18世紀せいきまでの日本にっぽん列島れっとう里山さとやま継続けいぞくてき過剰かじょう利用りよう状態じょうたいにあり(「はげやま参照さんしょう)、「持続じぞく可能かのうな」利用りようされていたわけではない。こうした広範こうはん森林しんりん破壊はかい木材もくざい供給きょうきゅう逼迫ひっぱくをもたらしただけでなく、山林さんりん火災かさい増加ぞうか台風たいふう被害ひがい激甚げきじん河川かせん氾濫はんらん増加ぞうかなど様々さまざま災厄さいやく日本にっぽん列島れっとうにもたらすことになった。

このような状況じょうきょう憂慮ゆうりょした徳川とくがわ幕府ばくふ1666ねん寛文ひろふみ6ねん以降いこう森林しんりん保護ほご政策せいさくし、伐採ばっさい流通りゅうつうきびしく規制きせいした。その結果けっか日本にっぽん列島れっとう森林しんりん資源しげん回復かいふくてんじ、里山さとやま持続じぞく可能かのう利用りよう実現じつげんした。

放置ほうちされアズマネザサにおおわれた里山さとやま

しかし、近世きんせい持続じぞく可能かのう里山さとやま利用りよう近代きんだいはいると3危機ききひんした。最初さいしょ危機きき明治維新めいじいしん前後ぜんごで、きゅう体制たいせい瓦解がかいとともに木材もくざい盗伐とうばつ乱伐らんばつ横行おうこうし、里山さとやま森林しんりん急激きゅうげきうしなわれた。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくのう大学だいがく教授きょうじゅ志賀しが泰山たいざん(1894ねん[8]によれば、森林しんりん面積めんせきのうちおおわれている面積めんせきは30%で、のこり70%は赭山禿かぶろほう(しゃざんとくほう)であった[9]。その社会しゃかい安定あんていとともに里山さとやま植生しょくせい一定いってい回復かいふくたものの、太平洋戦争たいへいようせんそうはじまり物資ぶっし欠乏けつぼうするとふたた過度かど伐採ばっさいおこなわれ、各地かくち禿やま出現しゅつげんした。この原因げんいん軍需ぐんじゅ物質ぶっしつとして大木たいぼく次々つぎつぎ供出きょうしゅつさせられたとされる。戦中せんちゅう戦後せんご乱伐らんばつからの回復かいふくは、1950ねん昭和しょうわ25ねん)にはじまる国土こくど緑化りょくか運動うんどう成果せいかたなければならなかった[10]

そして、3度目どめ危機きき現在げんざいまでつづ里山さとやま宅地たくち里山さとやま放置ほうちである。昭和しょうわ30年代ねんだいからはじまった家庭かていよう燃料ねんりょう化石かせき燃料ねんりょうが、昭和しょうわ50年代ねんだいには普及ふきゅうくし、家庭かていよう燃料ねんりょうとしてのたきぎ木炭もくたんは、娯楽ごらく用途ようとのぞいてほぼ姿すがたした。山間さんかん木質もくしつエネルギー生産せいさん現場げんばからは、おおくの収入しゅうにゅう雇用こようしつなわれ、離農りのう過疎かそ急速きゅうそく進行しんこう[11]した。エネルギー生産せいさん役割やくわりうしなった薪炭しんたんりんは、拡大かくだい造林ぞうりんにより製材せいざいよう人工じんこうりんへと姿すがたえたり、不在ふざいむら地主じぬしした所有しょゆうしゃにより放置ほうちされた。また、化学かがく肥料ひりょう普及ふきゅう使役しえきよう家畜かちく消滅しょうめつ里山さとやま経済けいざい価値かちうしなわせた。一方いっぽう農業のうぎょう密接みっせつかかわりをっているにもかかわらず、里山さとやま農地のうちみとめられなかったためぜい負担ふたんかるくなかった。こうして経済けいざい価値かちうしなった里山さとやまは、高度こうど成長せいちょうはいると次々つぎつぎ宅地たくちされて消滅しょうめつした。ニュータウンをはじめとする郊外こうがい宅地たくちが、高度こうど経済けいざい成長せいちょう時代じだい都市とし流入りゅうにゅうした労働ろうどうりょく住居じゅうきょ供給きょうきゅうするためくにげて推進すいしんされたからである[12]宅地たくちまぬかれた里山さとやまも、利用りよう価値かちほとんどがうしなわれたために放置ほうちされ、人間にんげん関与かんようしなわれたことによる植生しょくせい変化へんかきょくしょうりん孟宗竹もうそうちく侵入しんにゅうによる竹林ちくりんたけがい)、不法ふほう投棄とうきされる粗大そだいゴミ産業さんぎょう廃棄はいきぶつによる汚染おせんにさらされている。

利用りよう

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薪炭しんたんりん

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広葉樹こうようじゅりん場合ばあい:10ねんから20ねんごとにのこして伐採ばっさいされ、たきぎ木炭もくたん利用りようされた。のこされたからはふたた萌芽ほうが)がるので、ふたたび10ねんから20ねん経過けいかするとおなじようにして利用りようされた。このんでえられたのは木炭もくたんなどに転用てんようしやすいクヌギナラなどの落葉樹らくようじゅであった。

アカマツりん

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アカマツ建材けんざい利用りようするため、長期ちょうきてき育成いくせいされた。アカマツのえだやアカマツのしたえる低木ていぼく燃料ねんりょうとなった。はいカリウム肥料ひりょうとして田畑たはたれられた。アカマツりんれる松茸まつたけおおくは売却ばいきゃくされ、現金げんきん収入しゅうにゅうをもたらした。換金かんきんせいひくいキノコるい山野やまのくさ自家じか消費しょうひ食料しょくりょうとなった。その大木たいぼく貴重きちょう木材もくざいとしてえている状態じょうたいから1ほん単位たんいはん代官だいかん登録とうろくされ、管理かんりされた。

塩木しおぎさん

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めずらしい里山さとやま利用りようほうとしては、製塩せいえんのための燃料ねんりょう供給きょうきゅうげんげられる。こうした里山さとやま塩木しおぎさんばれた。製塩せいえん大量たいりょう燃料ねんりょう必要ひつようとする(年間ねんかんとおして生産せいさんする場合ばあい塩田しおだ面積めんせきの75ばいひろさの森林しんりんすべ燃料ねんりょうとして1ねん消費しょうひしなければならない)ため、製塩せいえんぎょうにとって塩木しおぎさん確保かくほ死活しかつ問題もんだいであった。記録きろくでは8世紀せいき後半こうはんから東大寺とうだいじ西大寺さいだいじなどのだい寺院じいん荘園しょうえんとして塩木しおぎさん存在そんざいしていることがられている。近世きんせいになると製塩せいえんぎょうけの燃料ねんりょうとしてのたきぎ販売はんばいは、とく山陽さんよう地方ちほうにおいてさかんとなった。このようなケースでは、たきぎ生産せいさんするのは河川かせんによって塩田えんでんむすばれた山間さんかんむらであった。山間さんかんむら住人じゅうにん里山さとやまたきぎ加工かこうし、ぎんなどと交換こうかんしており、里山さとやまかならずしもむらない自給自足じきゅうじそく経済けいざいたすためだけに利用りようされていたわけではない。こうした製塩せいえんぎょうけの燃料ねんりょう供給きょうきゅう石炭せきたん一般いっぱんする19世紀せいき初頭しょとうまでつづいたが、森林しんりん再生さいせい速度そくどえた伐採ばっさいにより森林しんりん資源しげん逼迫ひっぱくし、あらそいになることもあった[13]製塩せいえんぎょうほかにもたたら製鉄せいてつよう燃料ねんりょう陶磁器とうじき焼成しょうせいため燃料ねんりょうとして、里山さとやま大量たいりょう消費しょうひされた。

草山くさやま

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あるやま樹木じゅもく意図いとてきみなし、やま全体ぜんたいくさのみでおおったものを草山くさやまぶ。近世きんせい水田すいでん耕作こうさくではくさ重要じゅうよう肥料ひりょうであった。むら必要ひつようくさまかなうために草山くさやま設定せっていされ、樹木じゅもくやさないように管理かんりされていた。特定とくてい水田すいでん専用せんよう小規模しょうきぼ草山くさやま設定せっていすることもあり「田付たつき草山くさやま」とばれた[14]

多様たよう利用りようほう

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木材もくざい供給きょうきゅうげんとしてだけでなく、下生したばえは田畑たはた肥料ひりょう緑肥りょくひ)、うしぶたなどの家畜かちくあたえる飼葉かいば利用りようされていた。また農作業のうさぎょう合間あいま里山さとやまはいってたきぎやキノコをることは、近世きんせい農民のうみんにとって現金げんきん収入しゅうにゅうもっと簡便かんべん方法ほうほうであった。緊急きんきゅう木材もくざい現金げんきん供給きょうきゅうげんねた水源すいげん涵養かんようりんとして意図いとてき森林しんりん伐採ばっさいおこなわない里山さとやまもあった。以上いじょうのような里山さとやま利用りようほうほか内山うちやまたかしによると、困窮こんきゅうしたいえすう年間ねんかん里山さとやまもって自給自足じきゅうじそく生活せいかつおこない、現金げんきん支出ししゅつ徹底的てっていてきおさえて家計かけいなおすという行動こうどう昭和しょうわ以前いぜんられたという(群馬ぐんまけん上野うえのむら事例じれいとされる)[15]

やまくち

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資源しげん継続けいぞくてき利用りようのため、里山さとやま資源しげんには利用りよう開始かいし期日きじつ設定せっていされることもおおかった。資源しげん利用りよう解禁かいきんされることを「やまくちひらく」「口開くちあけ」とんだ。福島ふくしまけん南会津みなみあいづぐん只見ただみまち倉谷くらたに事例じれいでは、肥料ひりょうようくさぼんぎ、クルミのじつは9がつ15にち以降いこう、ヨシは10がつ上旬じょうじゅんしもりるまえ、マタタビのづる稲刈いねか、カヤはかやはなちてから、むらめたに「口開くちあけ」をしていた[16]

管理かんり所有しょゆう

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江戸えど里山さとやま国家こっか将軍家しょうぐんけはん)が所有しょゆうし、民間みんかん利用りようみとめないもの(けんさんなどとばれる)、土地とち民間みんかん所有しょゆう入会地いりあいち形態けいたい)であっても木材もくざい国家こっか所有しょゆうで、伐採ばっさいには国家こっか許可きょか必要ひつようなもの(留山とめやま用木ようぼくばれる)、土地とち木材もくざい民間みんかん所有しょゆう入会地いりあいち形態けいたい)で木材もくざい伐採ばっさいにも官許かんきょ不要ふようなもの、個人こじん所有しょゆうのもの、寺社じしゃもちいられるものなど多様たようであった。このうち留山とめやま民間みんかん材木ざいもくしょうむら伐採ばっさいする場合ばあいには、はんげんぎんによる対価たいか支払しはらわねばならなかった。また、民間みんかん所有しょゆう里山さとやまであっても国家こっか税金ぜいきんやま年貢ねんぐなどとばれる)を支払しはらうことがおおかった[17]

前述ぜんじゅつのように、近世きんせいとく石炭せきたん燃料ねんりょうとして普及ふきゅうする以前いぜん日本にっぽん列島れっとうにおける里山さとやま負荷ふか一貫いっかんしてたかく、村落そんらく共同きょうどうたい里山さとやま植生しょくせい崩壊ほうかい防止ぼうしするために様々さまざま規則きそくさだめて対応たいおうした。これらの規則きそくは「むらおきて」「むらじょう」「むら規則きそく」などとばれ、里山さとやま入会にゅうかいとしてむらのほとんどが、このたね規則きそく文書ぶんしょとしてそなえていた。むらおきてによってさだめられる里山さとやま利用りよう規則きそくきわめて詳細しょうさいかつ厳密げんみつであった。たとえば、肥料ひりょうようくさってもよいりょういえごとにめられていることもめずらしくなかったし、ってもよい時期じき厳密げんみつ設定せっていされている(「口開くちあけ」とばれる)ことがおおかった。むらおきてやぶったものへの制裁せいさいあらかじめられており、おおくはべいぎんによる科料かりょう支払しはらいと盗伐とうばつぶん返還へんかんされていた。また、これらのほか労働ろうどう奉仕ほうしされるれいや、盗伐とうばつしゃ科料かりょうはらえない場合ばあい人組にんぐみによる連帯れんたい責任せきにんによる科料かりょう支払しはらいがめられているれいもある。

里山さとやまひらいて建設けんせつされたゴルフじょう

とく住民じゅうみんかずたいして利用りよう可能かのう里山さとやますくない地域ちいきでは、里山さとやま管理かんり厳重げんじゅうなものであり、許可きょかされていない場合ばあいくさいちつかったり、えだ一本いっぽんるだけでもばっせられる場合ばあいすらあった。夜間やかん盗伐とうばつふせぐためにまわりで里山さとやま夜番よばんをしていたむらもあったほどである。これほど厳重げんじゅう管理かんりをしても里山さとやま盗伐とうばつ頻発ひんぱつし、また、むら入会にゅうかい里山さとやまでは、里山さとやまめぐってのむらむらあいだでの対立たいりつ続出ぞくしゅつした(やまろんばれる)[18]

明治めいじ以降いこう里山さとやま国有こくゆうりんとなるか、あるいは細切こまぎれに分割ぶんかつされて個人こじん所有しょゆうとなる、自治体じちたい所有しょゆうされるといった所有しょゆう形態けいたい移行いこうした。このうち都市とし隣接りんせつする地域ちいき里山さとやまおおくはデベロッパーに転売てんばいされて、宅地たくちやゴルフじょうなどのレクリエーション施設しせつへと変貌へんぼうしていった。

現在げんざい里山さとやまかかえている問題もんだいひとつに、ぜい負担ふたん問題もんだいがある。山林さんりん固定こてい資産しさんぜいそのものは宅地たくち農地のうちくらべて安価あんか設定せっていされているが、代替だいがわりのさい発生はっせいする相続そうぞくぜいでは、山林さんりん評価ひょうかがく近隣きんりん宅地たくち評価ひょうかがくから造成ぞうせいいたものになる。しかし、実際じっさい所有しょゆうしゃがその価格かかく売却ばいきゃくしようとしても、デベロッパーには足元あしもとられてたたかれるか、場合ばあいによってはかないため、所有しょゆうしゃ平地ひらちっている農地のうちなどをりして資産しさん価値かちのない山林さんりんつづける(その余力よりょくもない場合ばあい相続そうぞくぜい支払しはらえず破産はさんする羽目はめおちいる)しかないのである[19]

入会地いりあいち

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近世きんせいでは「村中むらなか入会にゅうかい」「むら入会にゅうかい」「むら持地もちじ入会にゅうかい」など、様々さまざま形態けいたい入会にゅうかい存在そんざいした。「村中むらなか入会にゅうかい」は、特定とくていむらなか入会地いりあいちがあり、そのむら住人じゅうにんのみが入会にゅうかい利用りようできるという形態けいたいである。「むら入会にゅうかい」は、複数ふくすうむら入会にゅうかいせっしており、入会にゅうかいせっするむら住人じゅうにんのみが入会にゅうかい利用りようできる形態けいたいである。また、「むら持地もちじ入会にゅうかい」は、あるむら住人じゅうにんむらせっしていない入会にゅうかい利用りようできる形態けいたいである。この場合ばあい入会にゅうかいむら入会にゅうかいりょうとしてげんぎんはらわれることになる。入会にゅうかいけんもの入会にゅうかいじょう(けじょう)を利用りようできる。なお、じょうとは動植物どうしょくぶつのことである。

こうした入会にゅうかいとしての里山さとやまは、明治維新めいじいしんとともにおおきく変化へんかすることになる。明治めいじ政府せいふ地租ちそ改正かいせい作業さぎょうなかで、入会にゅうかい入会にゅうかいけんしょ個人こじん私有地しゆうち分割ぶんかつされ、入会にゅうかいとしての機能きのううしなうこともあった。また、入会にゅうかいであることの証明しょうめいがなければ官有かんゆうとするという明治めいじ政府せいふ政策せいさくにより、おおくの入会にゅうかいとしての里山さとやま官有かんゆうとして収用しゅうようされたとかんがえられている。このとき明治めいじ政府せいふ明確めいかく書証しょしょうあるいは口碑こうひがある場合ばあいにのみ、入会にゅうかい官有かんゆうにしないという方針ほうしんったが、書証しょしょうがない入会にゅうかいについては、入会にゅうかい隣接りんせつするむらから公式こうしき証言しょうげんられた場合ばあい入会にゅうかいとしてみとめるという方法ほうほう採用さいようした。ところが、こうしたむらなかには、かつてやまろんやぶれて入会にゅうかいから排除はいじょされたむらもあり、かつての遺恨いこんから執拗しつよう入会にゅうかいとしての証明しょうめいこばんだり妨害ぼうがいする事例じれいられた[20]

また、民俗みんぞく学者がくしゃ宮本みやもと常一つねいちは、明治めいじ官有かんゆうとして没収ぼっしゅうされた入会にゅうかいもど訴訟そしょうおこなうため、成人せいじんきをまなんだ大阪おおさか河内長野かわちながの滝畑たきはた人物じんぶつ事例じれい報告ほうこくしている[21]

植生しょくせい

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竹林ちくりん
植生しょくせいそうによって活用かつようされる里山さとやま下層かそうからはたけうめ竹林ちくりん雑木林ぞうきばやし (千葉ちばけん市川いちかわ)

歴史れきしさかのぼると、近世きんせいまでに日本にっぽん里山さとやま大半たいはんアカマツはやし、あるいは草山くさやま禿やまとなっていた。本来ほんらい植生しょくせい木材もくざいたきぎしによってうしなわれ、くさるい田畑たはた肥料ひりょうとして搬出はんしゅつされてしまったために土壌どじょう栄養分えいようぶんとぼしくなり、せた土地とちでも生息せいそくできるアカマツが優勢ゆうせいとなっていった。また、アカマツざい樹脂じゅしおおく、水中すいちゅうでの耐久たいきゅうせいすぐれる。そのためたきぎざい建材けんざいとして優良ゆうりょうしゅでもあり、選好せんこうしてえられたということもあった。有岡ありおか利幸としゆきは、江戸えどえがかれた各地かくち名所めいしょ図会ずえ登場とうじょうするやま大半たいはんが、局所きょくしょてきまつしげ禿かぶろやまとして描写びょうしゃされていることを、この傍証ぼうしょうとしてげている[22]

しかし、化石かせき燃料ねんりょう化学かがく肥料ひりょう普及ふきゅうによって里山さとやま経済けいざい価値かちうしなわれると、里山さとやま植生しょくせいはアカマツりんから徐々じょじょ変化へんかしていった(アカマツはじゅであるため、しゅ侵入しんにゅうしてくるとつぎ世代せだい繁殖はんしょくできなくなる)。たとえば、20世紀せいき後半こうはんから21世紀せいきにかけての関東かんとう近辺きんぺんでは、クヌギやコナラなど、落葉らくようせいブナ植物しょくぶつ中心ちゅうしんとする森林しんりん出現しゅつげんしている。ちなみにこの地域ちいき本来ほんらいきょくしょう常緑じょうりょく広葉樹こうようじゅりんであるが、近世きんせいほどではなくともある程度ていどひと影響えいきょうがあると、このようにきょくしょうではなく落葉樹らくようじゅりん状態じょうたい安定あんていする場合ばあいもある。おなじような条件じょうけんでも、よりみなみ地域ちいきでは、これらのほかに常緑じょうりょくのシイがよく出現しゅつげんする。このような人為じんいてき攪乱かくらんなどにより、きょくしょうこわれて成立せいりつした植生しょくせい代償だいしょう植生しょくせいという。

また、近年きんねんでは放置ほうちされた孟宗竹もうそうちく竹林ちくりん無秩序むちつじょ拡大かくだいして落葉樹らくようじゅりん広葉樹こうようじゅりん竹林ちくりんえてしまうたけがいも、里山さとやま植生しょくせいとして無視むしできないものとなっている。

歴史れきしてき日本にっぽん列島れっとう里山さとやまは、植生しょくせい極度きょくど破壊はかいされた禿かぶろやま草山くさやま、アカマツりんから、本来ほんらいきょくしょうとはちがかたち安定あんていしたりん、あるいはたけがいてき竹林ちくりんくわえてその土地とち本来ほんらいきょくしょうりんなど、多様たよう植生しょくせい存在そんざいする場所ばしょであるとえる。

自然しぜん保護ほご立場たちばから、人為じんいてき撹乱かくらんがある里山さとやまを「ニセモノのもり」ときがある。これは、潜在せんざい自然しぜん植生しょくせい重視じゅうしするかんがかたである。それにたいして、主体しゅたい人間にんげん持続じぞく可能かのう開発かいはつのモデルとして里山さとやま復権ふっけん主張しゅちょうするかんがかたもある。このなかには「れた雑木林ぞうきばやし」というあたらしい概念がいねん導入どうにゅうされている。20世紀せいき後半こうはん以降いこう薪炭しんたん採取さいしゅ中心ちゅうしんとする入会にゅうかい利用りようすたれ、里山さとやま完全かんぜん放置ほうちされる場合ばあいおおく、本来ほんらいきょくしょうもどりつつある地域ちいきおおい。有岡ありおかはこのような状況じょうきょうひょうして、弥生やよいしき農耕のうこう開始かいし以降いこう平成へいせいほど里山さとやま樹木じゅもくおおくされている時代じだいはなかったと指摘してきしている[23]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ のち木村きむら伊兵衛いへえしょう受賞じゅしょう

出典しゅってん

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  1. ^ 有岡ありおか利幸としゆき里山さとやま』 1かん法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく〈ものと人間にんげん文化ぶんか〉、2004ねん3がつ、1-2ぺーじISBN 4588211811 
  2. ^ 佐々木ささき高明こうめい日本にっぽん文化ぶんか多様たようせい小学館しょうがくかん、2009ねん、126-127ぺーじ。なお、「ウチヤマ」は焼畑やきばたおこな土地とち薪炭しんたんりんくわはたけなど。「オクヤマ」は材木ざいもく調達ちょうたつしたり狩猟しゅりょうをしたりする山林さんりんで、「ダケ」はもっと標高ひょうこうたか部分ぶぶん原生げんせいりんとなっている。
  3. ^ 四手よつでつなえい森林しんりんはモリやハヤシではない―わたし森林しんりんろん』 ナカニシヤ出版しゅっぱん、2006ねん、3しょう。ここでよん上述じょうじゅつ近世きんせいの「里山さとやま」の用例ようれい言及げんきゅうしつつ、日本にっぽん列島れっとうのうようりんを「里山さとやま」と名付なづけた経緯けいいについてかたっている。
  4. ^ Photologue - 飯沢いいざわこう太郎たろう写真しゃしん談話だんわ(26) 知的ちてき好奇心こうきしんをくすぐる自然しぜん写真しゃしん(4)”. マイナビニュース. 2019ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  5. ^ 佐藤さとう洋一郎よういちろう石川いしかわ隆二りゅうじ『〈さんない丸山まるやま遺跡いせき植物しょくぶつ世界せかい-DNA考古学こうこがく視点してんから-』はなぼう〈ポピュラー・サイエンス〉、2004ねんISBN 4785387653 [ようページ番号ばんごう]
  6. ^ Jared Diamond, "Collapse: How Societies choose to fail or succeed", Penguin Books, 2005, pp297-298.
  7. ^ Ibid, p298.[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  8. ^ 別項べっこうはげやま」に「1894ねん」という記述きじゅつがある。
  9. ^ 太田おおた猛彦たけひこ森林しんりん飽和ほうわ』NHK出版しゅっぱん〈NHKブックス〉、2012ねん、161-163ぺーじ 
  10. ^ 有岡ありおか 2004b, pp. 67–98.
  11. ^ 穂別ほべつ高齢こうれいしゃかたりをかい穂別ほべつ高齢こうれいしゃかた昭和しょうわへん大地だいちみしめて しも とみないえき物流ぶつりゅう拠点きょてんとしての役割やくわり穂別ほべつ高齢こうれいしゃかたりをかい、2014ねん、213ぺーじ 
  12. ^ 若林わかばやし幹夫みきお郊外こうがい社会しゃかいがく筑摩書房ちくましょぼう、2007ねんISBN 9784480063502 [ようページ番号ばんごう]
  13. ^ 有岡ありおか前掲ぜんけいしょ、113-166ページ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  14. ^ 有岡ありおか前掲ぜんけいしょ、180-184ページ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  15. ^ 内山うちやまたかし『「さと」という思想しそう新潮社しんちょうしゃ、2005ねんISBN 4106035545 [ようページ番号ばんごう]
  16. ^ 野本のもと寛一かんいち生態せいたい民俗みんぞく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2008ねん5がつ、299-301ぺーじISBN 9784061598737 
  17. ^ 有岡ありおか前掲ぜんけいしょ、170-173ページ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  18. ^ 有岡ありおか前掲ぜんけいしょ、192-230ページ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  19. ^ 市街地しがいち山林さんりんへの相続そうぞくぜい---たかぎる評価ひょうかがく物納ぶつのう可能かのうせい”. バードレポート. 2019ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  20. ^ 有岡ありおか前掲ぜんけいしょ、35-58ページ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  21. ^ 宮本みやもと常一つねいち世間師せけんし)」『わすれられた日本人にっぽんじん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1984ねん 
  22. ^ 有岡ありおか 2004b, pp. 1–5.
  23. ^ 有岡ありおか前掲ぜんけいしょ、1ページ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 有岡ありおか利幸としゆき里山さとやま』 2かん法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく〈ものと人間にんげん文化ぶんか〉、2004ねん3がつISBN 458821182X 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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