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道成寺どうじょうじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
道成寺どうじょうじ
本堂ほんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 和歌山わかやまけん日高ひだかぐん日高ひだか川町かわまち鐘巻かねまき1738
位置いち 北緯ほくい3354ふん52.2びょう 東経とうけい13510ふん28.4びょう / 北緯ほくい33.914500 東経とうけい135.174556 / 33.914500; 135.174556座標ざひょう: 北緯ほくい3354ふん52.2びょう 東経とうけい13510ふん28.4びょう / 北緯ほくい33.914500 東経とうけい135.174556 / 33.914500; 135.174556
山号さんごう てん音山おとやま
宗派しゅうは 天台宗てんだいしゅう
本尊ほんぞん 千手観音せんじゅかんのん
創建そうけんねん 8世紀せいきてらでんでは大宝たいほう元年がんねん701ねん
開山かいさん つてふち
開基かいき 文武ぶんぶ天皇てんのう勅願ちょくがん
札所ふだしょとう しん西国さいこくさんじゅうさん箇所かしょだい5ばん
東海とうかい近畿きんき地蔵じぞう霊場れいじょう特別とくべつ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい6ばん和歌山わかやまだい6ばん
文化財ぶんかざい 千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうおよわきさむらい菩薩ぼさつ立像りつぞう国宝こくほう
本堂ほんどう仁王門におうもん千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうほか5けん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
境内けいだいくに史跡しせき
公式こうしきサイト 道成寺どうじょうじ
法人ほうじん番号ばんごう 5170005004479 ウィキデータを編集
道成寺の位置(和歌山県内)
道成寺
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道成寺どうじょうじ (どうじょうじ)は、和歌山わかやまけん日高ひだかぐん日高ひだか川町かわまち鐘巻かねまきにある天台宗てんだいしゅう寺院じいん山号さんごうてん音山おとやま本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのんしん西国さいこくさんじゅうさん箇所かしょだい5ばん札所ふだしょ道成寺どうじょうじ創建そうけんにまつわる「かみ長姫おさひめ伝説でんせつ」(「宮子みやこひめ伝記でんき」)や、のう歌舞伎かぶき浄瑠璃じょうるり演目えんもくとして名高なだかい「やすちん清姫きよひめ伝説でんせつ」でられる。この伝説でんせつは、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき編纂へんさんされた『だい日本国にっぽんこく法華ほっけけん』にすでにえるふるはなしである。

拝観はいかんさいには縁起えんぎどうで「やすめずらし清姫きよひめ」の絵巻物えまきものせながらの説法せっぽうおこなわれる。

歴史れきし

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大宝たいほう元年がんねん701ねん)、文武ぶんぶ天皇てんのう勅願ちょくがんにより、ふち僧正そうじょう開山かいさんとして、きの大臣だいじん道成みちなりなるもの建立こんりゅうしたという。べつ伝承でんしょうでは、文武ぶんぶ天皇てんのう夫人ふじん聖武天皇しょうむてんのうははにあたる藤原ふじわら宮子みやこねがいにより文武ぶんぶ天皇てんのう創建そうけんしたともいう(後述こうじゅつ。この伝承でんしょうでは宮子みやこ紀伊きいこく海女あまであったとする考証こうしょうもある)[1]。これらの伝承でんしょうをそのまましんじるわけにはいかないが、本寺ほんじ境内けいだい発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっか古代こだい伽藍がらんあと検出けんしゅつされており、出土しゅつどしたかわら年代ねんだいから8世紀せいき初頭しょとうには寺院じいん存在そんざいしたことは確実視かくじつしされている。1985ねん昭和しょうわ60ねん)に着手ちゃくしゅした、本堂ほんどう解体かいたい修理しゅうりさい発見はっけんされた千手観音せんじゅかんのんぞう奈良なら時代じだいにさかのぼる作品さくひんである。

てらのこ仏像ぶつぞうぐんは、大半たいはん平安へいあん時代じだい初期しょきから中期ちゅうきのもので、このころてらぜいさかんであったと推定すいていされる。現存げんそんする本堂ほんどう正平しょうへい12ねん1357ねんごろ竣工しゅんこうであるが、てらはその衰微すいびし、天正てんしょう13ねん1585ねん)には羽柴はしば秀吉ひでよしによる紀州きしゅう征伐せいばつにあってしょどう焼失しょうしつし、代目だいめ梵鐘ぼんしょううばわれている。

天正てんしょう16ねん1588ねん)の文書ぶんしょによれば、当時とうじ本堂ほんどう鎮守ちんじゅしゃのこるのみであった。あかりれき元年がんねん1655ねん)、紀州きしゅうはんあるじ徳川とくがわ頼宣よりのぶ援助えんじょ本堂ほんどう屋根やねとう修理しゅうりおこなわれ、仁王門におうもん三重みえとうなどのしょ堂塔どうとう近世きんせいつうじて徐々じょじょ整備せいびされていったものである。[2]

創建そうけん法相ほうしょうむねだったがのち真言宗しんごんしゅうとなり、うけたまわおう年間ねんかん1652ねん - 1655ねん)に天台宗てんだいしゅう改宗かいしゅうしている。

創建そうけん伽藍がらん

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道成寺どうじょうじ境内けいだいでは、1978ねん昭和しょうわ53ねん以降いこう数次すうじにわたって発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれ、奈良なら時代じだい金堂こんどうとう中門ちゅうもん講堂こうどう回廊かいろうあと検出けんしゅつされた。中門ちゅうもん左右さゆうからびる回廊かいろう敷地しきち長方形ちょうほうけいかこみ、講堂こうどう左右さゆうたっしていた。回廊かいろうかこまれた伽藍がらん中心ちゅうしんには、ひがしとう西にし金堂こんどう位置いちしていた。現存げんそんする仁王門におうもん三重みえとう本堂ほんどうはそれぞれ、奈良なら時代じだい中門ちゅうもんとう講堂こうどうあとてられている。なお、このような伽藍がらん配置はいちととのったのは8世紀せいきなかごろのことで、創建そうけん当初とうしょ(8世紀せいき初頭しょとう)は、講堂こうどう位置いちてら中心ちゅうしんとなる仏堂ぶつどうがあり、とう金堂こんどうとうから整備せいびされたものと推定すいていされている[3][4]

伝承でんしょう宮子みやこひめ髪長かみながたん

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道成寺どうじょうじつたわる伝承でんしょうによれば藤原ふじわら宮子みやこきゅう海士あまさと現在げんざい和歌山わかやまけん御坊ごぼう湯川ゆかわまち下富しもとみやす)でまれたとされており、道成寺どうじょうじおよび周辺しゅうへん地域ちいきには道成寺どうじょうじひらきそう縁起えんぎとして『宮子みやこひめ髪長かみながたん』(宮子みやこひめ物語ものがたりかみ長姫おさひめ伝説でんせつ)がつたえられまちおこしにも利用りようされている。和歌山わかやまけん御坊ごぼう[5]道成寺どうじょうじ[6]および『道成寺どうじょうじときほん[7]にて現在げんざい紹介しょうかいされている伝承でんしょう大筋おおすじ下記かきのとおりである。

応神天皇おうじんてんのう時代じだい、9にん兵士へいしにちだかうら下賜かしされた。9にんりょう生業せいぎょうとしたため、周辺しゅうへん地域ちいきは「きゅう海士あま(くあま)のさと」とよばれるようになった。

きゅう海士あまさと夫婦ふうふであるたか海女あまなぎさは、子宝こだからめぐまれないことから氏神うじがみ八幡宮はちまんぐうにおいのりしたところ、おんなさずかった。そこで名前なまえ八幡宮はちまんぐうにちなんで「みや」とづけた。ところが、成長せいちょうしてもみやにはかみえてこなかったため両親りょうしん悲嘆ひたんにくれていた。

あるとしきゅう海士あまさと不漁ふりょう見舞みまわれる。その原因げんいん海底かいていから不思議ふしぎひかりであった。みやははであるなぎさは、「むすめかみえないのは前世ぜんせいむくい」とかんがえ、さと人々ひとびとすくおうと罪滅つみほろぼしのためにみずかうみんだ。

海中かいちゅうふかもぐっていると、光輝ひかりかがやくものがあった。それは黄金おうごんしょくちいさな観音かんのんぞうであった。なぎさかえった観音かんのんぞう大切たいせつまつった。ひかりえたうみ大漁たいりょうつづきとなったため里人さとびとたちはなぎさのことを尊敬そんけいしたが、彼女かのじょ謙虚けんきょいのりをつづけた。

あるよるなぎさゆめ観音かんのんあらわれる。ゆめなかかみえないむすめのことをうったえると、にわかにみやかみえはじめた。年頃としごろになるとかみび、みやは「髪長かみながひめ」とばれるようになった。

あるみやくろくてつやのあるかみをすいていると、すずめんできてそのかみ一本いっぽんくわえ、った。そのすずめは、奈良なら勢力せいりょくほこっていた藤原不比等ふじわらのふひと屋敷やしきのきをつくった。からがるながうつくしい黒髪くろかみつけたとうかみおもであるみやさがしだし、養女ようじょむかれた。

とう養女ようじょとなったみやは「宮子みやこ」というさづけられ、やがて文武ぶんぶ天皇てんのう見初みそめられきさきとなり、奈良なら東大寺とうだいじ建立こんりゅうした聖武天皇しょうむてんのうははとなった。

宮子みやこ奈良ならっても故郷こきょうきゅう海士あまさとわすれられず、とくのこしてきた観音かんのんのことがになっていた。そのなやみは文武ぶんぶ天皇てんのうとどき、「宮子みやこくろながかみさづけてくれた観音かんのんさまをおまつりするてら造立ぞうりゅうせよ」ときの道成みちなり勅命ちょくめいした。そのてらがあの道成寺どうじょうじだという。

上記じょうき伝承でんしょう出典しゅってんによりこまかい部分ぶぶんことなる。たとえば御坊ごぼうによればみやかみ奈良ならとどけたとりはツバメであり、道成寺どうじょうじによればはやたかなぎさ村長そんちょう夫婦ふうふである。

この『宮子みやこひめ髪長かみながたん』は、ベースとなったとされる絵巻えまき道成寺どうじょうじ宮子みやこひめ傳記でんき上巻じょうかんとも複数ふくすう差異さいがある。たとえば『道成寺どうじょうじ宮子みやこひめ傳記でんき』では、はじめににちだかんでいた9にん兄弟きょうだいであり、みやはそのうちの一人ひとりである(にんなや夫婦ふうふ登場とうじょうしない)。みやにはもとからかみえており、みずか海中かいちゅう発見はっけんした黄金おうごん千手観音せんじゅかんのんぞうたぶさつつんでかえっている。また藤原不比等ふじわらのふひとのもとにつくられたすずめには、いちたけほどのかみられたとの記述きじゅつがある。

境内けいだい

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境内けいだい
入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき。桁行けたゆき間口まぐち)7あいだ梁間はりま奥行おくゆき)5あいだ(「あいだ」はながさの単位たんいではなく、はしらあいだかず意味いみする)。かべばん南北なんぼくあさ時代じだい 正平しょうへい12ねん1357ねん)の墨書ぼくしょがあり、同年どうねんごろ竣工しゅんこう推定すいていされる。ただし、天授てんじゅ4ねん1378ねんめい鬼瓦おにがわらのこることから、細部さいぶ造作ぞうさく完了かんりょうはそのころまでかかったものとみられる。あかりれき元年がんねん1655ねん)、徳川とくがわ頼宣よりのぶ援助えんじょにより、屋根やねえを中心ちゅうしんとする修理しゅうりおこなわれた。その文化ぶんか9ねん1812ねん)からどう12ねん1815ねん)にかけて3ねんがかりでおこなわれた修理しゅうり改築かいちくちかだい規模きぼなもので、梁間はりまやく1.9メートルひろげ、かべばん床板とこいた取替とりかえ、あいだ仕切じきりも変更へんこうされた。1985ねん昭和しょうわ60ねん)から1991ねん平成へいせい3ねん)にかけて解体かいたい修理しゅうり実施じっしされたが、このさいあいだ仕切じきりや屋根やね内部ないぶ小屋こやぐみなどの改変かいへん中世ちゅうせい姿すがた復旧ふっきゅうした。小屋こやぐみ近世きんせい修理しゅうり大幅おおはば改変かいへんされていたが、ざい屋根裏やねうら格納かくのうされていたり、場所ばしょ転用てんようされていたものもおおく、ほぞあななどの痕跡こんせきから、当初とうしょ屋根やね構造こうぞう復元ふくげんすることができた。はしらぜん46ほんのうち、中世ちゅうせい近世きんせい修理しゅうりえられたものが4ほん、うち2ほん屋根裏やねうらからもとはしら発見はっけんされたため、これをさい利用りようし、46ほんちゅう44ほん当初とうしょはしらである[8]
  • 三重みえとう和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - たかられき14ねん1764ねん再建さいけん
  • やすちんづか
  • 鐘楼しゅろうあと - 基壇きだん礎石そせきのこる。やすちん清姫きよひめ事件じけん消失しょうしつした鐘楼しゅろう再建さいけんした代目だいめ鐘楼しゅろうあと代目だいめ鐘楼しゅろう梵鐘ぼんしょうはいわゆる「道成寺どうじょうじもの」の題材だいざいとなった由緒ゆいしょある建物たてものであったが、羽柴はしば秀吉ひでよしぐんぜんやまちにあいほか堂宇どううとともに焼失しょうしつ梵鐘ぼんしょう仙石せんごく秀久ひでひさうばられて京都きょうと妙満寺みょうまんじ安置あんちされている。また、正平しょうへい14ねん1359ねん)3がつ31にち梵鐘ぼんしょうさいかね供養くようおこなったところ、災厄さいやくつづいたために梵鐘ぼんしょう山林さんりんてられてしまった。そのはなしいた仙石せんごく秀久ひでひさがそれをひろってってったのだともいう。
  • 十王じゅうおうどう - 宝永ほうえい4ねん1707ねん建立こんりゅう
  • 庫裏くり
  • 書院しょいん和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 元禄げんろく15ねん1702ねん建立こんりゅう
  • 念仏ねんぶつどう - 2005ねん平成へいせい17ねん再建さいけん
  • 護摩堂ごまどう - ひろし4ねん1847ねん建立こんりゅう
  • 鎮守ちんじゅさんしゃ
  • 稲荷いなり神社じんじゃ
  • 縁起えんぎどう - 1982ねん昭和しょうわ57ねん建立こんりゅう
  • たから佛殿ぶつでん - 1982ねん昭和しょうわ57ねん建立こんりゅう
  • 仁王門におうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 元禄げんろく13ねん1700ねん再建さいけん
  • おくいん

本尊ほんぞん

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道成寺どうじょうじ本堂ほんどうにはみなみ本尊ほんぞんきた本尊ほんぞんの2たい千手観音せんじゅかんのんぞう安置あんちしていた。

木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう 1木造もくぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう 2つて日光にっこう月光げっこう菩薩ぼさつ) - 国宝こくほう
本堂ほんどう内陣ないじん厨子ずしないみなみ正面しょうめんきに安置あんちされていた千手観音せんじゅかんのんぞうとそのりょうわきさむらいぞうで、1994ねん国宝こくほう指定していされた。1982ねん収蔵しゅうぞうたから仏殿ぶつでん)が完成かんせいしてからはそちらにうつされている。ぞうだか千手観音せんじゅかんのんが291.0センチ、つたえ日光にっこう菩薩ぼさつが242.1センチ、つて月光げっこう(がっこう)菩薩ぼさつが241.7センチ。3たいともあたまからだ根幹こんかんからはちすにく蓮華れんげ中央ちゅうおう部分ぶぶん)までの主要しゅよう部分ぶぶんいちざいからつくいち木造もくぞうで、作風さくふうから平安へいあん時代じだい初期しょき・9世紀せいきさく推定すいていされる。彫像ちょうぞう千手観音せんじゅかんのんぞうは、42ほんせん代表だいひょうさせるのが一般いっぱんてきだが、道成寺どうじょうじぞうは2ほんおおい44ゆうするのが特色とくしょくである。[9]
木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうおよこころ乾漆かんしつ千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう - 重要じゅうよう文化財ぶんかざい
前記ぜんき国宝こくほう千手観音せんじゅかんのんぞう背後はいごきたきに安置あんちされていた、秘仏ひぶつ千手観音せんじゅかんのんぞうとその胎内たいないほとけである。木造もくぞう千手観音せんじゅかんのんぞう長年ながねん秘仏ひぶつとされていたが、前述ぜんじゅつ本堂ほんどう解体かいたい修理しゅうりさいしてぞう移動いどうしたさいぞうない破損はそんはげしいこころ乾漆かんしつ千手観音せんじゅかんのんぞうおさめられているのが発見はっけんされた。木造もくぞう千手観音せんじゅかんのんぞうぞうだか299.8センチ。みなみ本尊ほんぞん同様どうよう、44ゆうする。げん本堂ほんどう建立こんりゅうどう時期じき南北なんぼくあさ時代じだい作品さくひん推定すいていされる。抑揚よくようのない円筒えんとうじょうのプロポーションにつくられ、ぞうない胎内たいないほとけおさめることを想定そうていしてつくられたさやぼとけ(さやぼとけ)である。胎内たいないぼとけこころ乾漆かんしつ千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう発見はっけん破損はそん甚大じんだいで、面部めんぶふくめ、ぞう前半ぜんはんはほとんどくちそんしていたが、背面はいめん頭部とうぶからそむけこしにかけては比較的ひかくてき当初とうしょ造形ぞうけいのこっており、作風さくふうから奈良なら時代じだいさく推定すいていされる。このぞうぞくしていたわきしゅ残片ざんぺん多数たすうぞうとともに発見はっけんされた。また、寺内てらうちぞう別途べっと保管ほかんされていた手首てくびうでとうほんぞうぞくするものと確認かくにんされた。このこころ乾漆かんしつぞうはそのかおなどのかけしつ部分ぶぶんおぎなって復元ふくげんされ、本堂ほんどう安置あんちされている。復元ふくげんぞうだかは236.0センチ。さやふつ胎内たいないふつともに1989ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。[10][11]

文化財ぶんかざい

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木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう

国宝こくほう

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  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう 1木造もくぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう 2 - 解説かいせつ前出ぜんしゅつ

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんにて展示てんじ重要じゅうよう文化財ぶんかざい)。
  • 本堂ほんどう
  • 仁王門におうもん
  • かみほんちょしょく道成寺どうじょうじ縁起えんぎ 2かん[12] 
  • こころ乾漆かんしつ千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞうさやふつ)- 解説かいせつ前出ぜんしゅつ
  • 木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう 2 - うち1東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞう 4
  • 色紙いろがみ墨書ぼくしょせんせん陀羅尼だらにけい 1かん

和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 三重みえとう - たかさ 21.82m、1971ねん3がつ22にち指定してい
  • 書院しょいん - 1971ねん3がつ22にち指定してい
  • 木造もくぞう釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞうおよりょうわき侍立じりつぞう 3 木造もくぞうふつしゅ 1たい
  • 木造もくぞうこう思惟しい阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう
  • 銅鐸どうたく 1くち

くに指定してい史跡しせき

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  • 道成寺どうじょうじ境内けいだい

前後ぜんご札所ふだしょ

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しん西国さいこくさんじゅうさん箇所かしょ
4 水間みずまてら - 5 道成寺どうじょうじ - 6 宝亀ほうきいん
東海とうかい近畿きんき地蔵じぞう霊場れいじょう
特別とくべつ あおきしわたるてら - 特別とくべつ 道成寺どうじょうじ - 1 観音寺かんのんじ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
5 闘鶏とうけい神社じんじゃ - 6 道成寺どうじょうじ - 7 藤白ふじしろ神社じんじゃ

拝観はいかん

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  • 拝観はいかん時間じかん:9:00 - 17:00(境内けいだいのみの見学けんがく時刻じこく制限せいげんし)
  • 拝観はいかん所要しょよう時間じかんたから仏殿ぶつでん縁起えんぎどうやく20ふん説法せっぽうやく40ふん標準ひょうじゅんである。

交通こうつうアクセス

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芸能げいのうへの影響えいきょう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 梅原うめはらたけし(2011)
  2. ^ 鳴海なるみ(1991)pp.96 - 98
  3. ^ 菅原すがわら(1991)pp.110 - 117
  4. ^ 和歌山わかやまけん(2012)
  5. ^ 宮子みやこひめ物語ものがたり御坊ごぼうホームページ”. www.city.gobo.wakayama.jp. 2021ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  6. ^ 道成寺どうじょうじ - 平城京へいじょうきょうはは 宮子みやこひめ”. dojoji.com. 2021ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  7. ^ 小野おの宏海ひろみ じゅつ藤原ふじわらしげるけん 道成寺どうじょうじときほん道成寺どうじょうじ護持ごじかい、1970ねん 
  8. ^ 鳴海なるみ(1991)pp.99 - 110
  9. ^ 月刊げっかん文化財ぶんかざい』370ごう解説かいせつ
  10. ^ 田村たむら(1991)pp.117 - 121、および『月刊げっかん文化財ぶんかざい』310ごう解説かいせつ
  11. ^ ほんぞう復元ふくげんまえ写真しゃしんは『月刊げっかん文化財ぶんかざい』310ごうに、復元ふくげん写真しゃしん特別とくべつてんいのりのみち 吉野よしの熊野くまの高野たかの名宝めいほう図録ずろく大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかんほか、2004)にそれぞれ収録しゅうろくされている。
  12. ^ ぞく日本にっぽん絵巻えまき24.桑実寺そうじつでら縁起えんぎ 道成寺どうじょうじ縁起えんぎ』(小松こまつ茂美しげみへん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1992ねん)にくわしい。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 鳴海なるみさちひろし菅原すがわら正明まさあき田村たむらひろしかん道成寺どうじょうじ本堂ほんどう」『仏教ぶっきょう芸術げいじゅつ』195ごう、1991
  • しん指定してい文化財ぶんかざい」『月刊げっかん文化財ぶんかざい』310ごうだいいち法規ほうき、1989
  • しん指定してい文化財ぶんかざい」『月刊げっかん文化財ぶんかざい』370ごうだいいち法規ほうき、1994
  • 梅原うめはらたけし海人あま天皇てんのうちゅうまき, 2011, 朝日あさひ文庫ぶんこ, ISBN 978-4-02-264621-7
  • 和歌山わかやまけん教育きょういく委員いいんかい道成寺どうじょうじ調査ちょうさ報告ほうこくしょ』2012, url=https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/bunkazaihoukokusho_d/fil/doujyoujihoukokusho.pdf
  • 伊東いとう史朗しろう編集へんしゅう古寺ふるでら巡礼じゅんれい 道成寺どうじょうじふつたちと「縁起えんぎ絵巻えまき」』 東京とうきょう美術びじゅつ、2014ねん9がつISBN 978-4-8087-1010-1

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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