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上町うえまち台地だいち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標ざひょう: 北緯ほくい3439ふん00.0びょう 東経とうけい13531ふん00.0びょう / 北緯ほくい34.650000 東経とうけい135.516667 / 34.650000; 135.516667

上町台地の位置(大阪府内)
上町台地
上町うえまち台地だいち
範囲はんい略図りゃくず座標ざひょう大阪おおさか天王寺てんのうじ北河堀きたかわほりまち付近ふきん

上町うえまち台地だいち(うえまちだいち)は、大阪平野おおさかへいや南北なんぼくびる台地だいち[1]

南北なんぼくやく11km東西とうざいやく2 - 3km[1]南北なんぼく細長ほそながく、大阪おおさか中央ちゅうおう天王寺てんのうじ阿倍野あべの住吉すみよしにまたがり、大川おおかわかる天満橋てんまばしから大和やまとがわかる遠里小野おりおのはしまで大阪おおさかどう30ごう大阪おおさか和泉いずみ泉南せんなんせん谷町たにまちすじあべのすじ)が台地だいちじょう南北なんぼくつらぬく。標高ひょうこう北端ほくたん付近ふきんだい坂城さかき本丸ほんまる)でやく32m中間なかま付近ふきん生國しょうごくたましい神社じんじゃやく22m、おなじく四天王寺してんのうじやく19m、南端なんたん付近ふきん住吉すみよし大社たいしゃやく7mと、きたからみなみひくくなる。

上町うえまち台地だいち南東なんとう勝山かちやま古墳こふん大阪おおさか生野いくの)から三国ヶ丘みくにがおかさかいさかい)へつづ台地だいちは、広義こうぎでは上町うえまち台地だいち東側ひがしがわ部分ぶぶんとしてあつかわれるが、狭義きょうぎでは「我孫子あびこ台地だいち」として区別くべつされる[1]

上町うえまち台地だいち西側にしがわ難波なんばすなうずたか北側きたがわ天満てんますなうずたかばれる砂州さすほろ高地こうち)が形成けいせいされている。難波なんばみや時代じだいから豊臣とよとみ政権せいけん前期ぜんきまでの市街地しがいち台地だいちじょう展開てんかいしていたが、豊臣とよとみ後期こうき以降いこう難波なんばすなうずたかじょう船場ふなば島之内しまのうち天満てんますなうずたかじょう天満てんまといった市街地しがいち展開てんかいするようになり、台地だいちじょう市街地しがいち上町うえまち総称そうしょうするようになった。上町うえまち台地だいち呼称こしょうもこれによる。

上町うえまち台地だいち範囲はんい

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上町うえまち台地だいち範囲はんい

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台地だいち北部ほくぶ大阪城おおさかじょう
台地だいち西端せいたんがけせんにあるさかひとつ、みなもときよし寺坂てらさか

大阪おおさか市域しいき本格ほんかくてき地質ちしつ調査ちょうさだい大阪おおさか時代じだい末期まっき1930年代ねんだいさかのぼるが、資料しりょう大半たいはん戦災せんさいうしなわれ、信頼しんらいできる大阪平野おおさかへいや全域ぜんいきおき積層せきそう基底きてい等深線とうしんせん日本にっぽん建築けんちく学会がっかいにより作成さくせいされたのは1966ねん昭和しょうわ41ねん)になってからである。

上町うえまち台地だいちひろしせき台地だいちであり、大阪おおさかそうぐんうえ成立せいりつする中位ちゅうい段丘だんきゅうそうである上町うえまちるいそう基礎きそとしている。北部ほくぶ天満てんまそうとは地質ちしつがくてき整合せいごうであり、上町うえまち台地だいち北端ほくたん大阪城おおさかじょうかんがえられる。また、台地だいち全容ぜんようは、古地こち戦後せんご実施じっしされた大学だいがく行政ぎょうせい、また、高層こうそう建築けんちくぶつ建設けんせつぎわ地盤じばん調査ちょうささいおこなわれるボーリング調査ちょうさとう地層ちそう断層だんそう検査けんさなどの結果けっかから5世紀せいきころにおいてすで砂嘴さしとして形成けいせいされていたと予想よそうされる高地こうち部分ぶぶん上町うえまち台地だいち推定すいていしている。

上町うえまち台地だいち縄文じょうもん時代じだいには東西とうざい河内かわうちわん瀬戸内海せとないかいはさまれていた半島はんとうじょう砂嘴さしだったとかんがえられており、弥生やよい時代じだいから現在げんざいいた期間きかん台地だいち東部とうぶ東成ひがしなり地区ちく語源ごげんわれる)は淀川よどがわ大和やまとがわ水系すいけいからはこばれる大量たいりょう土砂どしゃ堆積たいせきし、河内かわちわん河内かわち湿地しっちたい沖積ちゅうせき平野へいやとなり、台地だいち西部せいぶ西成にしなり地区ちく語源ごげんわれる)もおなじく河川かせんはたらきにより大阪おおさか中枢ちゅうすうふく平野へいや形成けいせいするにいたった。台地だいち東部とうぶへのくだりが比較的ひかくてきなだらかなのにたいし、台地だいち西部せいぶへのくだりが急峻きゅうしゅんであるのは台地だいち東部とうぶ淀川よどがわ大和川やまとがわ水系すいけい上流じょうりゅう位置いちし、土砂どしゃ堆積たいせきりょう豊富ほうふなためで、台地だいち西部せいぶ標高ひょうこうひく大阪おおさかわん平均へいきん水面すいめんよりひくゼロメートル地帯ちたいひろ分布ぶんぷしている。なお、台地だいち標高ひょうこうもっとたか大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかくあとで38メートルであり、北部ほくぶはストンと淀川よどがわ水系すいけい大川おおかわみ、南部なんぶへはなだらかにくだきた大阪城おおさかじょう大手町おおてまち付近ふきんで24メートル、中央ちゅうおう天王寺てんのうじ交差点こうさてん付近ふきんで16メートル、帝塚山てづかやま付近ふきんで14メートルの標高ひょうこうたもつが、南部なんぶ万代よろずよ南方なんぽうから急速きゅうそく標高ひょうこううしな住吉すみよし大社たいしゃ付近ふきんで6メートルとなりぼそ井川いかわえた台地だいち南端なんたん住吉すみよし清水しみずたかしでは標高ひょうこうは2メートル-3メートルとなっている。

なお、台地だいち範囲はんい四天王寺してんのうじ付近ふきんまでとする見解けんかいもあるが、台地だいち表層ひょうそう開発かいはつ利用りようじょうきょうからての明治めいじ以前いぜんひらけていたかかを分岐ぶんきとするかんがかたからているものとかんがえられている。そもそも、江戸えど時代じだいまでは河内かわうち(かわち=大阪おおさか東部とうぶきゅう国名こくめい)を形成けいせいしていた大和やまとがわ柏原かしわばらからきた蛇行だこう現在げんざい東大阪ひがしおおさかから大東だいとうあたりにおおきないけつくり、現在げんざい天満橋てんまばしあたりで淀川よどがわ大川おおかわ)と接合はぎあわしてうみながれていたことから、上町うえまち台地だいちきたはし大阪おおさか中央ちゅうおう天満橋てんまばしあたりであり、みなみはし住吉すみよし苅田かりた付近ふきんまでにわたる。行政ぎょうせいとしては、中央ちゅうおうひがし部分ぶぶん天王寺てんのうじ阿倍野あべの住吉すみよし北端ほくたん南部なんぶ一部いちぶにわたっている。

上町うえまち台地だいちじょうには「○○やま」や「○○おか」という地名ちめいおおく、きたから天王寺てんのうじの「真田山さなだやま」「北山きたやま」「桃山ももやま」「夕陽丘ゆうひがおか」「茶臼山ちゃうすざん」、阿倍野あべのの「はれあきらおか」「丸山まるやま住吉すみよしの「帝塚山てづかやま」「清水しみずたかし」とつづく。

上町うえまち台地だいち

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縄文じょうもんうみすすむ上町うえまち台地だいち河内かわうちわんした半島はんとうじょう台地だいちであったと想定そうていされている。その東側ひがしがわかわ内湾ないわんとされ、河内かわちわん淡水たんすいされていく河内かわち形成けいせい過程かていでは天満橋てんまばし台地だいち北端ほくたんからさらにきた砂州さすがつながり、半島はんとうじょう上町うえまち台地だいち完全かんぜんりょうはしりくいきされた。大阪おおさかわん北岸ほくがん千里せんり丘陵きゅうりょうのすぐ吹田すいた豊津とよつ高浜たかはまといった地名ちめいがあるあたりにあり、そこへ上町うえまち台地だいちからの砂州さす大阪おおさかひがしさんこっ吹田すいた江坂えさかあたりまでび、淀川よどがわ大和やまとがわながかわ内湾ないわん大阪おおさかわん垂水たるみ現在げんざい吹田すいた垂水たるみ付近ふきん)というわずかなはば水路すいろでつながっていた。そのため、時代じだいがるにつれて河内かわうちわん河川かせんすいによる淡水たんすいすす河内かわちとなる。仁徳天皇にんとくてんのう河内かわち大阪おおさかわんをつなぎ、かわからうみへの水運すいうんや、河内かわち排水はいすいをスムーズにするため、現在げんざい天満橋てんまばしあたりで砂州さすって河内かわち大阪おおさかわん直結ちょっけつする難波なんば堀江ほりえという運河うんがつくったといわれている。

大和やまとがわ開削かいさく名残なごり 河底かわぞこ茶臼山ちゃうすやま

途中とちゅう台地だいち途切とぎれているのは、掘割ほりわり工事こうじ河川かせん付替つけかえがおこなわれたためとされている。江戸えど時代じだい大和やまとがわ典型てんけいてきれいであるが、それ以前いぜんにも上町うえまち台地だいち開削かいさくして河内かわうちみず大阪おおさかわんながそうというこころみはあった。難波なんば堀江ほりえのほかにも、のべれき7ねん788ねん)に和気清麻呂わけのきよまろ大和やまとがわみず大阪おおさかわんながすため四天王寺してんのうじみなみ開削かいさくしようとしたが失敗しっぱいしたとされている。天王寺てんのうじ公園こうえん北側きたがわ茶臼山ちゃうすやまにある「河底かわぞこ」や、付近ふきん谷町たにまちすじ起伏きふく堀越ほりこしまちという町名ちょうめいなどはこの跡地あとちおもわれる。

上町うえまち台地だいち開発かいはつ大阪おおさか歴史れきし

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四天王寺してんのうじ伽藍がらん

ふるくから大阪おおさかわんした高台たかだいであったこの土地とち先端せんたん古代こだいから生國しょうごくたましい神社じんじゃ鎮座ちんざしていた。西日本にしにほん各地かくち中国ちゅうごく大陸たいりく朝鮮半島ちょうせんはんとうとの交易こうえきさかんになるとともに次第しだい重要じゅうようとなる。1987ねん昭和しょうわ62ねんなつ上町うえまち台地だいち北端ほくたん付近ふきん古墳こふん時代じだい5世紀せいき後半こうはん推定すいていされる高床たかゆか倉庫そうこぐん検出けんしゅつされた。検出けんしゅつされた倉庫そうこぐんは16むねで、東西とうざい方向ほうこうに2れつならんでいる。倉庫そうこのどれもおな構造こうぞうで、平面へいめん規模きぼいちへん10メートル×9メートル前後ぜんこうおなじで、きたきに配置はいちされており、建物たてもの間隔かんかくおなじである。16むね合計ごうけいゆか面積めんせきやく1470平方へいほうメートルもあり、租税そぜいとしてのこめもみれるのかいねたばれるのかのちがいがあるが相当そうとうおおきな収容しゅうようりょうであったと推測すいそくされる。5世紀せいき突然とつぜん上町うえまち台地だいち北端ほくたんだい規模きぼ倉庫そうこぐんてられたのか疑問ぎもんのこ[2]。この遺跡いせきは「法円坂ほうえんざか遺跡いせき」としてくに史跡しせき指定していされている(史跡しせき難波なんばみやあと」の「」(つけたり)としての指定してい[3]

神武じんむ天皇てんのう即位そくいまえ天皇てんのう上町うえまち台地だいち先端せんたん付近ふきん難波なんば埼(なにわさき)に生国しょうごくたましい神社じんじゃ創建そうけん弥生やよい時代じだい後期こうき古墳こふん時代じだい応神天皇おうじんてんのう行宮あんぐう難波なんば大隈おおくまみや(なにわのおおすみのみや)、大王だいおう(おおきみ)と呼称こしょうされた倭国わのくに首長しゅちょう河内かわうち王朝おうちょう始祖しそである仁徳天皇にんとくてんのう上町うえまち台地だいち先端せんたん付近ふきん難波なんば高津たかつみや(なにわのたかつのみや)を皇居こうきょとした。国内こくない流通りゅうつう中心ちゅうしんである難波なんば住吉すみよし開港かいこうされ倭国わのくに統一とういつしていった時代じだいとされる。飛鳥あすか時代じだいはいり、『日本書紀にほんしょき』では推古天皇すいこてんのう元年がんねん593ねん)に日本にっぽん仏教ぶっきょうである聖徳太子しょうとくたいし四天王寺してんのうじ難波なんばあらりく建立こんりゅうするとある。以後いご四天王寺してんのうじ西にし大門おおもんから難波なんばしず夕日ゆうひのぞ西方せいほう浄土じょうど信仰しんこうかさなり、仏教ぶっきょう信仰しんこう、とりわけ浄土じょうど信仰しんこう隆盛りゅうせいとともにその中心ちゅうしんひとつとしてさかえていくこととなった。四天王寺してんのうじ住吉すみよし大社たいしゃ熊野くまのもうでるひとたちは上町うえまち台地だいち西にしにあった渡辺わたなべいま天満橋てんまばし周辺しゅうへん)でふねくだり、そこが熊野くまの街道かいどう基点きてんであった。四天王寺してんのうじから熊野くまの街道かいどう庚申こうしん街道かいどうなどがはしおおくのひとたちがすくいをもとめてこの往来おうらいした。平安へいあんから鎌倉かまくら室町むろまちにかけてはこの渡辺わたなべ四天王寺してんのうじ周辺しゅうへんおおきな商業しょうぎょう都市としとしてさかえている。渡辺わたなべは、嵯峨さがはじめみなもとつな渡辺わたなべつな)をとする渡辺わたなべをはじめとする武士ぶしだんまれた場所ばしょでもあり、かれらの水軍すいぐん拠点きょてんとして瀬戸内せとうちたばねる場所ばしょでもあった。

大坂おおさかとは、四天王寺してんのうじ西にし大門おおもんから難波なんばくださか名称めいしょうで、のちまち全体ぜんたいすようになったもの。

大化たいか元年がんねん645ねん)の大化たいか改新かいしんとき上町うえまち台地だいち北端ほくたん付近ふきん大王だいおう呼称こしょうされた倭国わのくに首長しゅちょうである仁徳天皇にんとくてんのう難波なんばだか津宮つのみや跡地あとち周辺しゅうへん日本にっぽん最初さいしょ首都しゅとである難波なんばみや(なにわのみや)がつくられた。その首都しゅとふくとしての難波なんばきょうかれた。後年こうねん、ほぼおな場所ばしょである上町うえまち台地だいち北端ほくたん付近ふきんに、蓮如れんにょにより石山いしやま本願寺ほんがんじひらかれしょう工業こうぎょう発展はってんし、全国ぜんこく浄土真宗じょうどしんしゅう総本山そうほんざんとなる。その石山いしやま本願寺ほんがんじ織田おだ信長のぶながによる10ねんにもわたるはげしい攻撃こうげきすえ、ついに陥落かんらくした。信長のぶながはこの壮大そうだいしろきずき、天下てんか統一とういつ拠点きょてんにしようと計画けいかくしていたが、本能寺ほんのうじへんにより信長のぶなが死去しきょした。そして豊臣とよとみ秀吉ひでよし石山いしやま本願寺ほんがんじ跡地あとち付近ふきんだい坂城さかききずいたが、三方さんぽう河川かせん湿地しっちかこまれた大坂おおさかじょうにあって、みなみはなだらかな上町うえまち台地だいちひらかれており多数たすう軍勢ぐんぜい圧迫あっぱくされる可能かのうせいのある城郭じょうかく防衛ぼうえいじょう弱点じゃくてんとなっており、秀吉ひでよし後年こうねんそうかまとしてこの上町うえまち台地だいちほり掘削くっさくする工事こうじおこなっている。また、徳川とくがわ家康いえやすによるだい坂城さかきめ(大坂おおさかふゆじん)のさい豊臣とよとみかた武将ぶしょう真田さなだ信繁のぶしげそうかまえからおおきく突出とっしゅつしたまる馬出まいだし田丸たまる」を築城ちくじょうして弱点じゃくてんおぎない、める徳川とくがわぜい多大ただい損害そんがいあたえた。

上町うえまち台地だいち経済けいざいじょう交易こうえきじょう宗教しゅうきょうじょう軍事ぐんじじょう重要じゅうよう場所ばしょで、大阪おおさか基礎きそとなる場所ばしょであったといえる。

都心としんのオアシス

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都会とかいのオアシス 天王寺てんのうじ公園こうえん

天正てんしょう11ねん1583ねん)にはじまった秀吉ひでよしによる大坂おおさか城下じょうか整備せいび当初とうしょ上町うえまち台地だいちじょう展開てんかいされたが、慶長けいちょう3ねん1598ねん)におこなわれただい坂城さかきさんまる造営ぞうえいによってそう構堀ないとなった東横ひがしよこ堀川ほりかわ以東いとう空堀からぼり以北いほく町人ちょうにんたちはそう構堀がいうつされ、船場ふなばなどの下町したまち町人ちょうにん中心ちゅうしんうつった。上町うえまちという呼称こしょうもこれ以降いこうこったものである。

上町うえまち東横ひがしよこ堀川ほりかわ以東いとう市街地しがいち地域ちいき名称めいしょうで、西にしから松屋まつや町筋まちすじ骨屋ほねや町筋まちすじ御祓おはらいすじ熊野くまの街道かいどう)、ぜんやすすじ谷町たにまちすじ上町うえまちすじなどの道路どうろ南北なんぼくつうじている。船場ふなばとな地域ちいきうちまち東船場ひがしせんばともばれ、船場ふなば対応たいおうするかたちで「うち○○まち」という町名ちょうめいがいくつかある。なお、現行げんこう住居じゅうきょ表示ひょうじ上町うえまち昭和しょうわ19ねん1944ねん)に上本うえほんまち1丁目ちょうめきゅう)が改称かいしょうしたもので、昭和しょうわ54ねん1979ねん)に広小路ひろこうじまち寺山てらやままちなどをさらに編入へんにゅうしたものである。

大坂おおさかなつじんのち大坂おおさか城下じょうか復興ふっこうにあたった松平まつだいら忠明ただあきは、豊臣とよとみそう構堀ないとなっていた渡辺わたなべ玉造たまつくりふたた町人ちょうにんくこととし、伏見ふしみからの移住いじゅうしゃ中心ちゅうしん再興さいこうはかった。ただし、町人ちょうにんにならなかった箇所かしょ点在てんざいしており、それらは玉造たまつくりたいら野口のぐちまちこう津屋つや吉右衛門きちえもん肝煎きもいりさせて西成にしなりぐん吉右衛門きちえもん肝煎きもいりとなった。一方いっぽうそう構堀がいとなる空堀からぼりあと以南いなんひろがっていた屋敷やしき町人ちょうにんやぶ却されて年貢ねんぐ畑地はたち)となり、空堀からぼりあと吉右衛門きちえもん肝煎きもいり五條ごじょうみやいた屋敷やしき町人ちょうにん東成ひがしなりぐん北平野きたひらの町村ちょうそん南平野みなみひらの町村ちょうそん現在げんざい東平とうへい上汐うえしお)といった年貢ねんぐとなった。船場ふなばみなみ島之内しまのうちとな地域ちいき御用ごよう瓦師かわらしはらげられてかわら土取場つちとりばとなったが、このあたりは古来こらい高津たかつかわら高原こうげんしょう産地さんちでもあった。また、大阪大おおさかだい空襲くうしゅうによる被害ひがいすくなかったため、戦前せんぜん木造もくぞう建築けんちくなどものこっている。

空堀からぼりあと以南いなん変化へんかにおいて屋敷やしき町人ちょうにんやぶ却にしておおきかったものは、四天王寺してんのうじにかけて寺町てらまちぐん形成けいせいされたことである。大阪おおさかちゅう点在てんざいしていた寺院じいんのうち浄土真宗じょうどしんしゅう以外いがい寺院じいん上町うえまち台地だいちじょう移転いてんされ、東成ひがしなりぐん小橋おばせむら東高津ひがしこうづむら天王寺てんのうじむら西成にしなりぐん西高にしこうむら領内りょうないに、小橋こはし寺町てらまち(12ヶてら)・はち丁目ちょうめ東寺とうじまち(11ヶてら)・はち丁目ちょうめ中寺なかてらまち(15ヶてら)・はち丁目ちょうめ寺町てらまち(13ヶてら)・谷町たにまちすじはち丁目ちょうめ寺町てらまち(16ヶてら)・生玉いくたますじ中寺なかてらまち(24ヶてら)・生玉いくたま中寺なかてらまち(12ヶてら)・生玉寺いくたまてらまち(14ヶてら)・天王寺てんのうじ寺町てらまち(14ヶてら)・下寺したでらまち(25ヶてら)が形成けいせいされた。

以後いご今日きょういたるまで寺院じいん木々きぎみどり上町うえまち台地だいちいろどっている。歴史れきしのあるてら神社じんじゃ四天王寺してんのうじ七宮しちのみや天王寺てんのうじななざかばれる台地だいち西端せいたんがけりる坂道さかみち空襲くうしゅうからのこった空堀からぼり谷町たにまちろく丁目ちょうめ付近ふきん長屋ながや家並いえなみや商店しょうてんがいうえろく繁華はんかがい昭和しょうわまち田辺たなべ帝塚山てづかやまなどの戦前せんぜん郊外こうがいたる屋敷やしきまち天王寺てんのうじ公園こうえんなど、上町うえまち台地だいちにはみどりすくないとわれている大阪おおさか[4]都心としんでありながら、風情ふぜいみどりのあるところ数多かずおおのこされている。

上町うえまち断層だんそう

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なお、上町うえまち台地だいち大阪平野おおさかへいやなか南北なんぼく直線ちょくせんじょうしているのは、豊中とよなかから上町うえまち台地だいち西端せいたん岸和田きしわだにまでいた上町うえまち断層だんそうちからによるものである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 上町うえまち台地だいちとその周辺しゅうへん低地ていちにおける地形ちけい地理ちり変遷へんせん概要がいよう” (PDF). 大阪おおさか文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ. 2015ねん12月11にち閲覧えつらん
  2. ^ みなみ英夫ひでお世紀せいきだい倉庫そうこぐん」(財団ざいだん法人ほうじん大阪おおさか文化財ぶんかざい協会きょうかいへん大阪おおさか遺跡いせき--出土しゅつどひん遺構いこうかたるなにわ発掘はっくつ物語ものがたりそうもとしゃ、2008ねん)155ぺーじ
  3. ^ 史跡しせき難波なんばみやあと整備せいび基本きほん構想こうそうあん、p.18(大阪おおさかサイト)
  4. ^ 大都市だいとし比較ひかく統計とうけい年表ねんぴょう平成へいせい17 ねん)より、政令せいれい指定していもっとせま1人ひとりあた公園こうえん面積めんせき3.52平米へいべいである。なお、東京とうきょう都区とくは2.90平米へいべい/ひと

外部がいぶリンク

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