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かかづく

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かかみやつこ構造こうぞう(だん山神さんじんしゃ拝殿はいでん)

かかづく(かけづくり)は、がけなどの高低こうていおおきい土地とちに、ながはしらぬき床下ゆかした固定こていしてそのうえ建物たてものてる建築けんちく様式ようしきおも寺社じしゃ建築けんちくもちいられる。がけづくり舞台ぶたいづくりなどともばれる。

呼称こしょうについて

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平安へいあん時代じだい文献ぶんけんに『かけつくる』という動詞どうしあらわれる。源氏物語げんじものがたりには『やまかたけたるいえなれば』とあるように山間さんかん建物たてものてるといったニュアンスで使つかわれている。そして鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきまでに『かけづくり』という名詞めいしまれたとされる。それらは山間さんかん寺社じしゃ僧房そうぼう隠遁いんとんのための建物たてものしていたが、室町むろまち時代ときよ末期まっきいたると河岸かわぎしてられたものを示唆しさするれいあらわれる。桃山ももやま時代じだいにち葡辞しょには、かけづくりについて『片方かたがたはしっかりしたところに、片方かたがたひくところとか険阻けんそところとかにかけてつくった建築けんちく。たとえば、うみとか絶壁ぜっぺきとかなどにのぞんでつくった建築けんちく』としるされており、床下ゆかしたながはしらささえた特異とくい意匠いしょうをもった建物たてもの全般ぜんぱんすようになっていたとかんがえられる[1]

『かけ』については『かか』が古体こたいかんがえられるが、近世きんせいになりかけがけしげるそうなどの文字もじてるれいあらわれる。これらはかたりおん類似るいじなどからべつてたものとかんがえられる。また、舞台ぶたいづくりについては清水寺きよみずでら本堂ほんどう長谷寺はせでら本堂ほんどうにおいて、本堂ほんどう前面ぜんめん突出とっしゅつした露天ろてん板敷いたじき部分ぶぶんもちいられた呼称こしょう江戸えど時代じだい末期まっきかかみやつこ相当そうとうする言葉ことばとしてもちいられる[1]

特徴とくちょう

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京都きょうと清水寺きよみずでらはじめ、全国ぜんこく各地かくちにこの工法こうほうもちいられおおくの寺社じしゃ建設けんせつされている。たばせきうえはしらて、たばばしら相互そうごぬき工法こうほうである。床下ゆかした弾力だんりょくせいのあるラーメンじょう構となり、きわめて強固きょうこである。清水寺きよみずでらは、1633ねん建造けんぞうで、たばばしら点検てんけん修理しゅうり年中ねんじゅうおこなわれ、舞台ぶたいゆか頻繁ひんぱんえられることでいまなお健在けんざいである。それはこの工法こうほう点検てんけん修理しゅうり容易よういおこなえ、部材ぶざい取替とりかえも可能かのうなことに理由りゆうがあり、かつての日本にっぽん木造もくぞう技術ぎじゅつ特筆とくひつすべき特徴とくちょうだったが、現在げんざい建築けんちく法令ほうれい規定きてい木造もくぞう建築けんちくは、点検てんけん修理しゅうり部材ぶざい取替とりかえをほとんど不可能ふかのうとしてしまっている[2]

歴史れきし

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かかみやつこなか記録きろくがもっともふるいのは平安へいあん中期ちゅうきには建立こんりゅうされていたとおもわれる、石山寺いしやまでら本堂ほんどう長谷寺はせでら本堂ほんどう清水寺きよみずでら本堂ほんどうなどである。(ただし現存げんそんするのは再建さいけんされたもの) いずれも岩上いわかみ本尊ほんぞんおおうようにてられていたとかんがえられ、本堂ほんどう前面ぜんめん増設ぞうせつされたれいどう舞台ぶたいかかみやつこ原型げんけいかんがえられる。これらはたん景観けいかんてき観点かんてんではなく信仰しんこう対象たいしょうとしてのいわまつるための施設しせつであったとかんがえられる。またこれらは観音かんのん霊場れいじょうとされており、いわ補陀落ふだらく見立みたてていたとおもわれる。

平安へいあん末期まっきごろから延暦寺えんりゃくじ横川よこかわ中堂なかどう醍醐寺だいごじ如意にょいどうなど天台てんだい真言しんごんけい寺院じいんにおいて修行しゅぎょうかかみやつこあらわれる。これらもいわとの密接みっせつ関係かんけいうかがえるが、内陣ないじんあるいは内陣ないじん床下ゆかした包摂ほうせつする形式けいしきられている。また、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい初期しょきまでには岩窟がんくつなか大岩おおいわくようにちいさなどうかかみやつこてられるようになる。現存げんそん最古さいことされるさん仏寺ぶつじ投入とうにゅうどうはこれにたる。鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきからはいわなどに屋根やねせっするようにてられる事例じれいあらわれる[3]

近世きんせいになると、かかみやつこ規模きぼちいさくなり整地せいちされた石垣いしがきうえてられるなどかかみやつこ形骸けいがいしていくれいあらわれる。また立地りっち山岳さんがくから市中しちゅう寺社じしゃ境内けいだい庭園ていえんなかにもてられるようになる。これらは観音かんのん霊場れいじょうとして名高なだか清水寺きよみずでら石山寺いしやまでらうつしとかんがえられ、修行しゅぎょうではなく鑑賞かんしょうてき態度たいどともなっていたとかんがえられる[4]

代表だいひょうてき建造けんぞうぶつ

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名称めいしょう 年代ねんだい 文化財ぶんかざい指定してい 所在地しょざいち 画像がぞう
長谷寺はせでら本堂ほんどう 江戸えど時代じだい・1650ねん 国宝こくほう 奈良ならけん桜井さくらい
清水寺きよみずでら本堂ほんどう 江戸えど時代じだい・1633ねん 国宝こくほう 京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま
石山寺いしやまでら本堂ほんどう 平安へいあん時代じだい・1096ねん 国宝こくほう 滋賀しがけん大津おおつ
笠森かさもりてら観音堂かんのんどう 桃山ももやま時代じだいぶんろく年間ねんかん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 千葉ちばけん長生ちょうせいぐん長南ちょうなんまち
さん仏寺ぶつじ投入とうにゅうどう 平安へいあん時代じだい 国宝こくほう 鳥取とっとりけん東伯とうはくぐん三朝みささまち
醍醐寺だいごじ清瀧きよたきみや拝殿はいでん 室町むろまち時代ときよ・1434ねん 国宝こくほう 京都きょうと京都きょうと伏見ふしみ
醍醐寺だいごじ如意にょいはなわどう 桃山ももやま時代じだい・1606ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 京都きょうと京都きょうと伏見ふしみ
東大寺とうだいじがつどう 江戸えど時代じだい・1669ねん 国宝こくほう 奈良ならけん奈良なら
不動院ふどういん岩屋堂いわやどう 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 鳥取とっとりけん八頭やつがしらぐん若桜わかさまち
日吉ひよし大社たいしゃ摂社せっしゃ牛尾うしのお神社じんじゃ拝殿はいでん 桃山ももやま時代じだい・1595ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 滋賀しがけん大津おおつ
日吉ひよし大社たいしゃ摂社せっしゃ三宮さんぐう神社じんじゃ拝殿はいでん 桃山ももやま時代じだい・1599ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 滋賀しがけん大津おおつ
だん山神さんじんしゃ拝殿はいでん 江戸えど時代じだい中期ちゅうき・1668ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 奈良ならけん桜井さくらい
釈尊寺しゃくそんじ観音堂かんのんどう 鎌倉かまくら時代ときよ・1258ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 長野ながのけん小諸こもろ
りゅういわてらおくいんれいどう 鎌倉かまくら後期こうき・1286ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 大分おおいたけん宇佐うさ
みやこ久夫ひさお須麻神社じんじゃふね廊下ろうか 江戸えど時代じだい・1603ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 滋賀しがけん長浜ながはま
由岐ゆき神社じんじゃ拝殿はいでん 江戸えど時代じだい・1607ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 京都きょうと京都きょうと
圓教寺えんきょうじ殿どの 昭和しょうわ時代じだい・1933ねん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい[5] 兵庫ひょうごけん姫路ひめじ
たぬき谷山たにやま不動院ふどういん本堂ほんどう 昭和しょうわ時代じだい・1986ねん[6] 京都きょうと京都きょうと

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b まつ照明しょうめい 1989, p. 141-151.
  2. ^ 建築けんちくをめぐるはなし・・・つくることの原点げんてんかんがえる 下山しもやま眞司しんじ筑波大学つくばだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)”. 2021ねん2がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ まつ照明しょうめい 1991, p. 89-98.
  4. ^ まつ照明しょうめい 1996, p. 194-199.
  5. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “姫路ひめじ 書写山円教寺しょしゃざんえんきょうじの「殿どの」がくに重要じゅうよう文化財ぶんかざいに|NHK 兵庫ひょうごけんのニュース”. NHK NEWS WEB. 2023ねん11月24にち閲覧えつらん
  6. ^ 境内けいだい散策さんさく | たぬき谷山たにやま不動院ふどういん”. たぬき谷山たにやま不動院ふどういん. 2024ねん7がつ15にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • まつ﨑照あきら ちょ「「かかみやつこ」という名称めいしょうについて-かかみやつこ建築けんちく研究けんきゅうその1-」、日本にっぽん建築けんちく学会がっかい へん日本にっぽん建築けんちく学会がっかい計画けいかくけい論文ろんぶん報告ほうこくしゅう』 406かん日本にっぽん建築けんちく学会がっかい、1989ねん 
  • まつ﨑照あきら ちょ古代こだい中世ちゅうせいかかみやつこについて-かかみやつこ建築けんちく研究けんきゅうその2-」、日本にっぽん建築けんちく学会がっかい へん日本にっぽん建築けんちく学会がっかい計画けいかくけい論文ろんぶん報告ほうこくしゅう』 419かん日本にっぽん建築けんちく学会がっかい、1991ねん 
  • まつ﨑照あきら ちょかかみやつこ近世きんせいてき変容へんよう-かかみやつこ建築けんちく研究けんきゅうその3-」、日本にっぽん建築けんちく学会がっかい へん日本にっぽん建築けんちく学会がっかい計画けいかくけい論文ろんぶん報告ほうこくしゅう』 485かん日本にっぽん建築けんちく学会がっかい、1996ねん