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木賃宿きちんやど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
いま地方ちほうのこ木賃宿きちんやど丹波たんば篠山しのやま現在げんざい廃業はいぎょう

木賃宿きちんやど(きちんやど)は、日本にっぽん宿泊しゅくはく施設しせつ種類しゅるいひとつ。

概要がいよう

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本来ほんらい意味いみは、江戸えど時代じだい以前いぜん街道かいどうすじで、ぼうはなばれた宿場しゅくばまちはずれに位置いちし、燃料ねんりょうだい程度ていどもしくは相応そうおう宿賃やどちん旅人たびびと宿泊しゅくはくさせた最下さいかそう旅籠はたご意味いみである。宿泊しゅくはくしゃ大部屋おおべやで、寝具しんぐ自己じこ負担ふたんめずらしくなく、食事しょくじ宿泊しゅくはくきゃくべいなど食材しょくざいしあい、たきぎだい相当そうとうぶんはらって料理りょうりしてもらうのが原則げんそくであった。木賃きちんの「」とはこの「たきぎ」すなわち代金だいきん宿やどうことから木賃宿きちんやどばれた。ぜに宿やど(きせんやど)ともいう。また、商人しょうにん宿やど職人しょくにん宿やどなどをふく場合ばあいもある。江戸えどにおける木賃きちんは、くさあいだはちじゅうゆうによれば明和めいわ年間ねんかん1764ねん - 1772ねん)、下谷しもたに山崎やまざきまち(のちの万年まんねんまち)に仁木にきぼうはじめて開業かいぎょうした。宿泊しゅくはくしゃはみずからめしき、たきぎだいすなわち木賃きちんとして鐚3ぶん支払しはらった。

木曽きそ海道かいどうろくじゅうきゅうえがかれた木賃宿きちんやど
東海道とうかいどうじゅうさんえがかれた木賃宿きちんやど

宿場しゅくば制度せいどくなった明治めいじ以後いごは、たん安価あんか粗末そまつ宿泊しゅくはく施設しせつ安宿やすやど意味いみする言葉ことばとなった。1887ねん10月13にちの「宿屋やどや営業えいぎょう取締とりしまり規則きそく」においては、木賃宿きちんやど宿泊しゅくはく施設しせついち形態けいたいとして、「まかない(まかない)ヲためサス木賃きちんソノ諸費しょひヲ受ケテじん宿泊しゅくはくセシムルモノ」と定義ていぎしている。場所ばしょ街道かいどうから都市としのいわゆる貧民ひんみんがい増加ぞうかし、労働ろうどうしゃ無宿むしゅくじん大部屋おおべや一人ひとりたたみいちまい程度ていど雑魚寝ざこねさせる貧民ひんみん巣窟そうくつとなった。明治めいじ末期まっき横山よこやま源之助げんのすけ幸徳こうとく秋水しゅうすいなどが体験たいけん調査ちょうさおこな記録きろくのこしているが、室内しつない寝具しんぐ(まくらは丸太まるた)は悪臭あくしゅうはなって不潔ふけつきわまりなく、ノミトコジラミなど寄生虫きせいちゅう跳梁ちょうりょうする「るにもくにもただただおどろこわるるのほかなき別世界べっせかい黄泉よみにもかかる地獄じごくのあるべきや」と表現ひょうげんされる劣悪れつあく施設しせつであった。「やど」をぎゃくにした「ドヤ」という言葉ことば出来できたのも、このころである。

木賃宿きちんやどなかには、家族かぞくれで継続けいぞくてき宿泊しゅくはくするものには、1しつり、家族かぞくであれば何人なんにん宿泊しゅくはくしてもよいというものもあった。1931ねん6月23にち警視庁けいしちょうは、木賃宿きちんやど組合くみあい連合れんごうかい希望きぼう木賃宿きちんやど名称めいしょう簡易かんい旅館りょかん改正かいせい決定けっていした[1]1932ねん12月まつ時点じてんで、ぜん府県ふけん営業えいぎょうする木賃宿きちんやどは14451けんであった。東京とうきょう地方ちほうでは警視庁けいしちょうれい木賃宿きちんやど営業えいぎょう限定げんていされ、1932ねんちゅう東京とうきょう木賃宿きちんやど478けん宿泊しゅくはくしたものは、33まん4138にんおとこ30まん1360にんおんな3まん2778にん)である。この形態けいたい木賃宿きちんやど現代げんだいまで存続そんぞくし、簡易かんい宿所しゅくしょとなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 報知ほうち新聞しんぶん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • 木賃宿きちんやど魔窟まくつ叢書そうしょだい1へん) / 原田はらだ道寛みちひろ東風こちちょ大学だいがくかん、1902)