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ふすま

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ふすま(ふすま)は、などでできた骨組ほねぐみの両面りょうめんかみぬのったものでそれにえん引手ひきてけたもの[1]和室わしつ仕切しきりに使つかうパネルじょう建具たてぐひとつであり、一般いっぱん構造こうぞうとなっている。「ふすま障子しょうじ」(ふすましょうじ)または「唐紙からかみ障子しょうじ」(からかみしょうじ)とばれることもある。たんに「唐紙からかみ」とばれることもある。

伝統でんとうてき日本にっぽん家屋かおくにみられるふすまおくあいだ
同上どうじょうなかふつあいだ

語源ごげん

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障子しょうじという言葉ことば中国ちゅうごく伝来でんらいであるが、「ふすま」はとうにもかんにもく、日本人にっぽんじん命名めいめいである(ちなみに「ふすま(ふすま)」は現代げんだい中国語ちゅうごくごでは、「にちしき袄门」(「袄」は「ふすま」の簡体字かんたいじ)、「福司ふくじ玛」・「ぶく斯玛」(音訳おんやく)、「纸拉门」(「ひしげ门」は)などとやくされる)。「ふすま障子しょうじ」が考案こうあんされたはじめは、御所ごしょ寝殿しんでんなか寝所ねどこあいだ仕切じきりとして使用しようされはじめた。寝所ねどこは「ふすましょ(ふすまどころ)」といわれた。「ふすま」は元来がんらい「ふとん」「寝具しんぐ」のである。このため、「ふすましょふすま障子しょうじ」とわれた。さらには、ふすま障子しょうじ周囲しゅういを軟錦(ぜんきん)としょうした幅広はばひろえんったかたちが、ふすまかたち相似そうじしていたところからふすま障子しょうじわれた、などのせつがある。

ふすま(きん)」をふすまとくんませるのは、「あいだ(ふすま)」からていると想像そうぞうされる。いずれにしても「ふすま」の語源ごげんは「ふすま」であるという学説がくせつただしいとされている。ついでながら、ふすま周囲しゅうい縁取へりとりとして使用しようした軟錦は、もとはすだれ几帳きちょうに、縁取へりとりや装飾そうしょくとして使用しようされた、帯状おびじょうきぬ裂地きれじのことである。寝殿造しんでんづくり多用たようされた簡易かんいあいだ仕切じきりの衝立ついたててにも縁取へりとりとして軟錦は使用しようされ、またたたみ繧繝うんげんえん(うげんべり)などの縁取へりとりにも使用しようされている。几帳きちょうは、だいほんはしらじょう横木よこぎわたして、きぬあやりのとばり(とばり)をけたもので、しゅとして女性じょせいする空間くうかんあいだ仕切じきりとして、使用しようされていた。とばり絹布けんぷを軟錦の縁取へりとりでつなぎわせて、軟錦のうえからさらに軟錦のおびかざりとしてかさねてらし、すそながながして十二単じゅうにひとえころもすそのような風情ふぜいつくっていた。

ふすま」は衣服いふくのあわせや綿めんいれので、両面りょうめんきぬ裂地きれじりであったことから「ふすま」の表記ひょうき使用しようされた。ふすま原初げんしょ形態けいたいは、いたじょう衝立ついたてての両面りょうめんきぬ裂地きれじりつけたものであったとかんがえられる。この衝立ついたててを改良かいりょうして、かまち(かまち)に縦桟たてざんよこ桟をみ、両面りょうめんから絹布けんぷなどをって軽量けいりょうはかった。この軽量けいりょうされた衝立ついたててを改良かいりょう発展はってんして、かべふく障子しょうじ)や屏風びょうぶにも応用おうようしていったとおもわれる。むろん、りつけかべ屏風びょうぶにも、はばこう軟錦がりつけられていた。「ふすま」が考案こうあんされた当初とうしょは、表面ひょうめんきぬ裂地きれじりであった。このため「ふすま障子しょうじ」としょうされた。のちに、隠蔽いんぺいせいたか厚手あつで唐紙からかみ伝来でんらいして障子しょうじもちいられて普及ふきゅうしていくが、ふすま障子しょうじ唐紙からかみ障子しょうじ混同こんどうされ併用へいようされて、絹張きぬばりでないかみ障子しょうじふすましょうされていく。

一応いちおう正式せいしき客間きゃくまには、白地しろじまたはふすまえがかれたものをもちいてふすま障子しょうじしょうし、略式りゃくしき居間いま数寄屋すきやふう建物たてものには、いろ無地むじしょう紋柄もんがら木版もくはんった唐紙からかみ使用しようし、唐紙からかみ障子しょうじしょうしたようである。唐紙からかみ障子しょうじ考案こうあんからややおくれて、「明障子あかりしょうじ(あかりしょうじ)」が考案こうあんされた。今日きょう障子しょうじである。

時代じだいるにしたが言葉ことばちぢまり、「ふすま障子しょうじ」「唐紙からかみ障子しょうじ」のうち、「障子しょうじ」が脱落だつらくして「ふすま」「唐紙からかみ」となり、「明障子あかりしょうじ」はぎゃくに「あきら」が脱落だつらくし、障子しょうじ固有名詞こゆうめいしとなり、あいだ仕切じきりの総称そうしょうから地位ちいゆずった。

構成こうせい

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下地したじとなる組子くみこいた上貼うわばりのかみしゅえんなどからる。

しゅ

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ふすま開閉かいへいをかける部分ぶぶんしゅ引手ひきて)といい、機能きのうめんだけでなく、美的びてきなアクセントにもなっている[2]ふる時代じだいしゅはほとんどがかわひも、あるいは金物かなものいととおしたものだったが、大名だいみょうたちがさかんにしろづくりや寺院じいん建立こんりゅうをした安土あづち桃山ももやま時代じだいになると、ふすまうえみぞってくぼみをつくり、金属きんぞくちく磁器じきなどでつくったさまざまな意匠いしょうしゅりつけるようになった[2]

源氏物語げんじものがたり』とふすま

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源氏物語げんじものがたり』のなかに「ひらきたる障子しょうじをいますこしおしけて、こなたの障子しょうじきたてたまいて」とあり、また障子しょうじうたけるはなしなんてくる。

源氏物語げんじものがたり』は、ちがいのふすま障子しょうじをありふれた情景じょうけいとしてえがいている。このころになると貴族きぞく上流じょうりゅう階級かいきゅう邸宅ていたくにはふすまがかなり普及ふきゅうしていたと判断はんだんできる。

源氏物語げんじものがたり』がかれてからおよそ100ねんのちの藤原ふじわらたかしのうえがいた『源氏物語げんじものがたり絵巻えまき』は、色彩しきさいかさねていく、つくり独特どくとく優美ゆうび日本にっぽん最古さいこ絵巻物えまきものである。人物じんぶつしもぶくれのかおほそ横線おうせんいてとし、はなかぎかぎじょうえがく「引目鉤鼻ひきめかぎはな」の手法しゅほうえがかれ、家屋かおく屋根やね天井てんじょう省略しょうりゃくした吹抜ふきぬ屋台やたいとなっている。この絵巻物えまきものによってで室内しつない様子ようすがよくわかり、衝立ついたて几帳きちょうすだれしとみ屏風びょうぶなど建具たてぐ使用しようじょうや、ふすま障子しょうじ大和絵やまとええがかれているのがかる。

宿木やどりぎ」のまきでは、清涼せいりょう殿どの朝餉あさげあいだには大和絵やまとえふすま障子しょうじと、銀地ぎんじ流水りゅうすい飛鳥ひちょうえがいたふく障子しょうじ可動かどうしきかべとして使用しようした、しきふすま障子しょうじ一種いっしゅ)がえがかれている。「東屋あずまや」のまきでは、浮舟うきふねまう三条さんじょう小家おいえ縁側えんがわには、遣戸やりどえる。

室内しつないあいだ仕切じきりにふすま障子しょうじ使用しようされているが、ひめくんしているがわにはかならず几帳きちょうかれ、個性こせい演出えんしゅつする織物おりもの使用しようされていて、部屋へやをさらに細分さいぶんして使用しようするための重要じゅうようへだての役割やくわり演出えんしゅつしている。華麗かれい室内しつない意匠いしょうじつ王朝おうちょう絵巻えまきにふさわしい。外回そとまわりのへだてには、かりりにすだれ格子こうしおお見受みうけられるが、要所ようしょにはまいりょう使用しようされている。

みかどやそのたか男性だんせいがわには、屏風びょうぶえがかれている。それぞれの建具たてぐにそれぞれの役割やくわりとインテリアとしての意匠いしょう象徴しょうちょうてき意味いみめられているようだ。この時代じだいふすま障子しょうじは、板戸いたどようほねふと組子くみこ桟に、きぬ裂地きれじ(きれじ)りであった。開閉かいへいためしゅとしてふとそう(ふさ)や、戸締とじまりようかかきむ(かけがね)がけられていた。そしておおくは絵師えしによる絵付えつけがほどこされていた。当時とうじいちあいだは3mであり、2まいちがいにすると現在げんざい建具たてぐばいちかはばがあった。しかも大工だいく道具どうぐ発達はったつたいかんなもない時代じだいで、ほねふと組子くみこしかつくれなかったため今日きょうからかんがえるとじつたけほね大変たいへんおも建具たてぐであったとおもわれる。

現存げんそん最古さいこふすまは、たてひさ8ねん1197ねん)に建立こんりゅうされたとつたえられる、高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじ不動堂ふどうどう内陣ないじん外陣がいじんさかいにたてられているふすまである。ただ上張うわばりも下張したばりもえられており、当時とうじのものはふすま骨組ほねぐみだけである。ヤリかんな仕上しあげられた組子くみここつふとく、見付みつけ3cm見込みこみ2cmのひのきづくりで、たてこつが4ほんよここつが7ほんまれている。しかも現在げんざい組子くみこおな縦横じゅうおうほね交互こうご組付くみつける地獄じごくぐみで、大変たいへんしゅのこんだつくかたであるという。

ふすまとしつらい

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平安へいあん時代じだい寝殿造しんでんづくり内部ないぶは、丸柱まるばしらならぶだけの、構造こうぞうてきあいだ仕切じきりがい、板敷いたじきのゆか大広間おおひろま形式けいしきであった。開放かいほうてき空間くうかんを、ひと日常にちじょう生活せいかつ都合つごうや、ぶし変化へんか年中ねんじゅう行事ぎょうじ儀礼ぎれい接客せっきゃく饗宴きょうえんなどにおうじて、几帳きちょう屏風びょうぶ障子しょうじなどによって内部ないぶ仕切しきり、とばりだいたたみその調度ちょうどいて、その都度つど適切てきせつ空間くうかん演出えんしゅつおこなった。このような室内しつない設営せつえいを「しつらい」とんだ。

「しつらい」には「むろあや」とか「舗設」などの漢字かんじてている。やまと言葉ことばとしての「しつらい」の「し」は「ため(し)」で「する」というであり、「つらい」は「つれあう」や「つりあう」ので、その時々ときどき情況じょうきょうおうじて「う」あるいは「う」ように「する」ことだという。その時々ときどきぶしひと格式かくしき生活せいかつ様式ようしき行事ぎょうじとしての儀式ぎしき状況じょうきょうなどに調和ちょうわ融和ゆうわするように、さまざまなさわへいで「しつらえ」た。「しつらえ」のための主要しゅようあいだ仕切じきりであった障子しょうじが、今日きょうの「ふすま」の原型げんけいをなしている。平安へいあん時代じだい寝殿造しんでんづくりの「しつらい」のあいだ仕切じきりとしては、まず建物たてもの外部がいぶ内部ないぶとのへだてるしとみしとみ沿ってかける御簾みすがある。御簾みすには外側そとがわにかけるおお御簾みす内側うちがわにかけるうちすだれがある。

ふゆには御簾みす内側うちがわかさねて壁代かべしろというとばりをかける。室内しつないには、いわばとばりつくった衝立ついたてともいえる几帳きちょういたり、きぬ布地ぬのじまくちかあいだ仕切じきりの引帷や軟障でしょう空間くうかんあいだ仕切しきった。さらには屏風びょうぶ衝立ついたて障子しょうじ衝立ついたて障子しょうじ発展はってんてき形態けいたいとして、格子こうし表裏ひょうりきぬ布地ぬのじのち和紙わしくろりのえんをつけたふすま障子しょうじなどをもちいた。なかでも、「しつらい」の間仕切まじきとしてもっと重要じゅうような「障子しょうじ」は、平安へいあん時代じだいにさまざまな形式けいしき障子しょうじ考案こうあんされている。仕上しあ材料ざいりょうによってきぬ障子しょうじぬの障子しょうじかみ障子しょうじいた障子しょうじすぎ障子しょうじ、そしてふく障子しょうじ(押障子しょうじともいいかべとしてもちいた)や平安へいあん末期まっきにはかり障子しょうじなどが工夫くふうされている。組子くみこ格子こうし表裏ひょうりきぬ和紙わしかさねた障子しょうじふすま障子しょうじあるいはふすま障子しょうじばれた。いた障子しょうじいた下地したじとしてかみぬのったもので、はしらあいだにはめんでかべとしてもちいたふく障子しょうじである。

間仕切まじき建具たてぐとしての発展はってんてき形態けいたいからると、「障子しょうじ」は、衝立ついたて原型げんけいといえるだいあしうえてる衝立ついたて障子しょうじ原型げんけいである。きぬ障子しょうじかみ障子しょうじいた障子しょうじなどもたいあしうえせる衝立ついたて障子しょうじであった。衝立ついたて障子しょうじなかに、四角しかくまどりさらに御簾みすをかけて、内側うちがわからこうがわえるようにしたつう障子しょうじとおる障子しょうじ)なども工夫くふうされている。「しつらい」として時々ときどき情況じょうきょう調和ちょうわさせるように「しつらえる」ためには可動かどう形態けいたい便利べんりである。マルチパーパス空間くうかんとしての寝殿造しんでんづくりは、便所べんじょ湯殿ゆどのさえ固定こていされていなかった。衝立ついたて障子しょうじから、はしらあいだ一本いっぽんみぞもうけてはめふく障子しょうじ考案こうあんされた。ふく障子しょうじしき障子しょうじで、「しつらえ」におうじてんだり、はずしたりできる可動かどうしきかべであった。

このふく障子しょうじを、鴨居かもい敷居しきいというほんみぞもうけて、ちがいにうごくように工夫くふうしたのが鳥居とりい障子しょうじ鴨居かもい障子しょうじ)で、今日きょうの「ふすま」の原型げんけいとなったもので、ふすま障子しょうじふすま障子しょうじばれた。このような内部ないぶ空間くうかんあいだ仕切しき多様たよう障子しょうじ発明はつめいは、寝殿造しんでんづくりの住宅じゅうたくおおやけわたし明確めいかく分離ぶんりもとづく、まいかた変化へんかをもたらした重大じゅうだい転機てんきとなった。特定とくてい機能きのう目的もくてきそなえたしょう空間くうかんへの分離ぶんり独立どくりつへの展開てんかいは、「しつ」という概念がいねんをもたらした。平安へいあん末期まっきかり障子しょうじ誕生たんじょうしているが、その原型げんけいとばりだいばれる寝所ねどこかりりの天井てんじょう由来ゆらいしているとおもわれる。とばりだいは、寝殿しんでんのほぼ中央ちゅうおうもうけられた寝所ねどこで、たたみいて一段いちだんたかくして、よんほんはしらて、とばり御簾みすまわした。のちふすま障子しょうじかこわれるようになった。とばりだいはしらには天井てんじょうもうけられている。寝所ねどことはっても、昼間ひるま居間いまとして使用しようするため、組子くみこ格子こうし片面かためんひかりかす「すずし」(生絹きぎぬ)をった天井てんじょうもうけて、天井てんじょうかりりとした。そして、このとばりだい格子こうし天井てんじょうの「かりり」がこうかり障子しょうじ原型げんけいであり、「天井てんじょう」そのものが、書院造しょいんづくりで目的もくてき機能きのうべつしょう空間くうかん間仕切まじきりされた「しつ」に、すぎいた天井てんじょうもうけられる原型げんけいともなっている。

きむあおい牆壁しょうへき

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きむあおい牆壁しょうへきふすま円徳院えんとくいん方丈ほうじょう

書院造しょいんづくりのひとつの特色とくしょくに、華麗かれいきむあおい牆壁しょうへきがある。きむあおい牆壁しょうへきは、金箔きんぱく群青ぐんじょう緑青ろくしょうはくみどりそしてしゅぼくなどをもちいた、彩色さいしき牆壁しょうへきふすまかべ屏風びょうぶなどにえがかれた)で、狩野かのひさしとくによってあたらしいほう創造そうぞうされた。書院造しょいんづくり牆壁しょうへきとして、有名ゆうめい二条城にじょうじょうまる殿舍でんしゃ西本願寺にしほんがんじ対面たいめんしょがある。正面しょうめんゆかあいだの、づけかべ書院しょいん違棚ちがいだなしょうふすまあいだ仕切じきりとしてのふすま長押なげしうえ壁面へきめんなどをすべて構成こうせい要素ようそとして利用りようした、雄大ゆうだい華麗かれいなパノラマきむあおい牆壁しょうへきえがかれている。

狩野かのひさしとくは、足利あしかが将軍家しょうぐんけ御用ごよう絵師えしとして、かん技法ぎほう伝統でんとうてき大和絵やまとえ技法ぎほう折衷せっちゅうしたあたらしいほう創造そうぞうした。平安へいあん時代じだい貴族きぞく邸宅ていたく寺院じいんえがかれた牆壁しょうへきは、中国ちゅうごく故事こじ風物ふうぶつえがいたからであったが、日本にっぽん四季しき花鳥風月かちょうふうげつ風景ふうけい主題しゅだいえらび、独特どくとくほう確立かくりつした。また、連続れんぞくしたパノラマ画面がめん構成こうせいするために、ふすまから軟錦というはばひろ装飾そうしょく縁取へりとりの裂地きれじすだれみすやたたみにも装飾そうしょく縁取へりとりがけられた)をのぞき、さらに長押なげしうえしょうかべ連続れんぞくした画面がめんとして利用りようするなどの工夫くふうがなされた。きむあおい牆壁しょうへきは、書院しょいんたんなる装飾そうしょくてき価値かちだけでなく、当然とうぜんながら地位ちい権力けんりょく象徴しょうちょうする演出えんしゅつとして利用りようされた。のちの安土あづち桃山ももやま時代じだいには、織田おだ信長のぶなが安土あづちじょう豊臣とよとみ秀吉ひでよし聚楽第じゅらくだいだい坂城さかきなどに壮麗そうれいきむあおい牆壁しょうへきえがかれ、権力けんりょく誇示こじ利用りようされていく。

えいいさお時代じだい変革へんかく柔軟じゅうなん対応たいおうして、とき権力けんりょくしゃだくみにり、これらの牆壁しょうへきのほとんどを狩野かのひさしとくとその一門いちもんえがいている。狩野かの一門いちもん江戸えど時代じだい徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ画工がこうちょうとして、勢力せいりょく維持いじつづけ、画才がさいほかするど政治せいじ感覚かんかくわせてわせていた。俵屋たわらや宗達そうたつ尾形おがた光琳こうりんなどが狩野かの絵画かいが技法ぎほう継承けいしょう発展はってんさせて、きむあおい牆壁しょうへき日本にっぽん美術びじゅつじつおおきな影響えいきょうあたえた。

ふすま文化ぶんか

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礼法れいほうのっとったふすまかた

ふすま下張したば

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からかみは、紋様もんようんだふすま障子しょうじ上張うわばり(おもてり)のことで、ふすま障子しょうじにはおおくの下張したばりがおこなわれる。下張したばりの工程こうていは、ほねしばり、みのり、べたり、ふくろり(浮り)、きよしりなどの工程こうていがあり、種々しゅじゅ和紙わし幾重いくえにも丁寧ていねいかさねてできあがる。

ほねしばり」は、組子くみこ最初さいしょけるもので、組子くみここつのりけて、手漉てす和紙わしちゃチリ・くわチリなどの繊維せんいつよ和紙わしを、障子しょうじのようにる。霧吹きりふきをすると和紙わしつよ繊維せんい収縮しゅうしゅくして、組子くみここつけてガタがこないようにする重要じゅうよう役目やくめになっている。

り」は、ほねしばりともいわれ、ほねしばりをより強固きょうこにするためのかさりとともに、ほねけないようにするめの効果こうかもある。

みのり」は、かまち糊付のりづけしずらしながらみののようにかさねてる。これをかいよんかいかえす。これは重要じゅうよう工程こうていで、組子くみここつすじ防止ぼうしふすま建具たてぐゆき をだす。さらに、みのりがつく空気くうきそうは、断熱だんねつ保温ほおん効果こうかと吸音防音ぼうおん効果こうかたしている。

「べたり」は、かみ全面ぜんめんのりをつけてり、みのりのさえの役割やくわりつ。

ふくろり」は、半紙はんしまたは薄手うすで手漉てす和紙わしちゃチリなどのかみ周囲しゅういだけに、ほそのりけてふくろじょうる。ふくろじょうかしてるので「り」ともいい、奥行おくゆきのある風合ふうあいを完成かんせいさせる。

きよしり」は、かみ全面ぜんめんうすのりけてる。これは上張うわばりのかみ材質ざいしつうらひょう材質ざいしつことなる表面ひょうめんるときなどにかぎって使用しようする。

これらの幾重いくえにも和紙わしかさねていく工程こうていは、組子くみこ障子しょうじ格子こうしかみきで固定こていし、木材もくざいのひずみを防止ぼうしするとともに、ゆきのある(ふくらみのある)風合ふうあいをもたせて仕上しあげるためのものである。ほねしばりはきのつよ反故ほごもちい、中期ちゅうき工程こうていにはみなと和泉いずみみなとむらかれたかえしのかみで、薄墨うすずみまたは鼠色ねずみいろかみ)やちゃちり(ちゃちり)こうぞくろがわのくずからいたかみや、故紙こし再生さいせいしたものでたん塵紙ちりがみともいう)をもちい、きよし工程こうていにはねばりのつよ生漉きずきの美濃紙みのがみ細川ほそかわいししゅう半紙ばんしなどがもちいられた。

板戸いたどかり障子しょうじ建具たてぐ職人しょくにんによってつくられるが、ふすま一般いっぱん建具たてぐとはわず、「ふすま」とい、けい表具ひょうぐによって、幾重いくえにもかみかさねることによって「ふすま」となってく。紙質かみしつえ、りのつかまつくちをかえて、かみかさねていくと、ふすまは丈夫じょうぶになるとともに、吸音効果こうか断熱だんねつ効果こうかそして調しらべ湿しめ効果こうかなどとともに、ぴんとりつめたなかにも、ふっくらとしたやわらかいあじわいで、いた和風わふう雰囲気ふんいきかもす。

ふすましろ

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古来こらいから、日本人にっぽんじんは「しろ」といういろを、よごれのないきよらかなもの清浄せいじょうなもの、神聖しんせいなものとしてとく大切たいせつにしてきた。しろ無限むげん可能かのうせいかんじ、うつくしさの原点げんてんでもあった。

古代こだいからあさこうぞ繊維せんいから衣料いりょうつくったが、とくこうぞかわ繊維せんいは「木綿こわた(ゆふ)」とばれ、いだ樹皮じゅひ繊維せんいしたのちみずにさらして糸状いとじょう精製せいせいしたものである。この木綿もめんったぬのしろさらしたものを白妙しろたえび、日本人にっぽんじんしろさにたいする感覚かんかく原点げんてんえる。きよらかなつめたいみずなか幾度いくどもくぐらせて、なんもさらすことによって、きよしめるようにしてられた、うつくしくしろ繊維せんい木綿もめんしろさに神聖しんせいなものとしての感情かんじょう移入いにゅうされている。木綿もめんは「ぬさ」ともばれ、ぬさまたは幣帛へいはくという漢字かんじてられている。

木綿もめんは、かみ招来しょうらいするための祭具さいぐであり、かみかざりでもあった。神前しんぜん巫女ふじょさかきしょうえだや、かみささげる若竹わかたけしのなどをもちいたときくしけたり、しめなわたれ四手よつで)としてかざり、神聖しんせい領域りょういきしめ結界けっかい象徴しょうちょうとしてもちいてきた。木綿もめんこうぞかわ繊維せんいからつくり、かみもまたこうぞ繊維せんいからつくる。和紙わし普及ふきゅうする奈良なら時代じだいには、木綿もめんわってかみぬさめ、どこの神社じんじゃかみ幣帛へいはくかざられるようになった。

和紙わし普及ふきゅうともない、奈良なら時代じだいには格子こうし両面りょうめん和紙わしった衝立ついたて障子しょうじもちいられ、平安へいあん時代じだいにはふすま障子しょうじもちいられるようになっている。障子しょうじ古来こらいあいだ仕切じきりの総称そうしょうとしてもちいられたが、「さわ」はさえぎる、へだてるのがある。障子しょうじ神聖しんせいな「おく」への視界しかいをさえぎり、さらにはのけよこしまれいふせぎ、ふう冷気れいきをさえぎる。衝立ついたて障子しょうじ屏風びょうぶとばりそしてふすま障子しょうじには、木綿もめんられた白妙しろたえあさきぬそしてかみったが、神聖しんせい場所ばしょとしての結界けっかいとして、聖域せいいきよこしまれいからまもふせ意味いみから、清浄せいじょう神聖しんせいな「しろ」がられた。そして、寝具しんぐとしてつつふすまきよらかなしろもちいられた。

類聚るいじゅうざつようしょう』(るいじゅうざつようしょう)所収しょしゅう永久えいきゅう3ねん1115ねん藤原ふじわら忠実ちゅうじつ東三条ひがしさんじょう殿どの寝殿しんでんしつらえ図面ずめんによると、すべての障子しょうじには絵画かいが唐紙からかみ紋様もんようもない「しろ」としるされている。随身ずいじんしょのしつらえりつめんなどには、すでに障子しょうじ表面ひょうめんに「ふすま」という文字もじしるされ、「ふすまるいなんレモしろ」としるされている。ふすま白鳥はくちょうるという伝統でんとう今日きょうにもがれており、格式かくしきたか料亭りょうてい旅館りょかんにも使つかわれており、皇居こうきょ和室わしつふすましろとりられているという。

古代こだい以来いらい日本人にっぽんじんしろたいする神聖しんせいせいとはべつに、仏教ぶっきょう伝来でんらいとも対局たいきょく金色きんいろ燦然さんぜんとした「荘厳そうごん」といわれるかざりのひじりせい獲得かくとくしていった。仏教ぶっきょうにおける祭壇さいだんで、黄金おうごん光背こうはいはな金色きんいろ燦然さんぜんとした金銅かなどうふつ安置あんちされ、きらびやかにいろどられた欄間らんまなどの装飾そうしょくによつて、空間くうかん全体ぜんたい極楽浄土ごくらくじょうど暗示あんじしている。古代こだい神道しんとう清浄せいじょうな「しろ」にたいひじりせいたいして、ひかかがや黄金おうごんしょくあたらしいひじりせいは、古代こだい日本人にっぽんじんおおきな価値かちかん変化へんかをもたらした。仏教ぶっきょう影響えいきょうは、神道しんとうぬぐきよめるしろ神聖しんせいせいと、しろ装飾そうしょくせいから、仏像ぶつぞう伽藍がらんのような、より立派りっぱによりはなやかに装飾そうしょくするというかざりせいおおきくしていった。

ふすま原型げんけいである衝立ついたて障子しょうじ屏風びょうぶそしてしつけかべにも、からえがかれるようになり、きゅう世紀せいき中頃なかごろには大和絵やまとええがかれるようになった。鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい寝殿造しんでんづくりから書院造しょいんづくりへと移行いこうし、江戸えど時代じだい書院造しょいんづくり武士ぶし階級かいきゅう住宅じゅうたく様式ようしきとして完成かんせいしていった。初期しょき書院造しょいんづくりの特徴とくちょうは、接客せっきゃく対面たいめん儀式ぎしきとしての書院しょいんを、権力けんりょく象徴しょうちょうとして、ふすま障子しょうじかべ連続れんぞくさせて、その全面ぜんめん金地きんじ極彩色ごくさいしょくきむあおい障壁しょうへきかざてた。織田おだ信長のぶなが安土あづちじょうは、殿中でんちゅう金箔きんぱくひかかがやいていたという。

出典しゅってん

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  1. ^ 意匠いしょう分類ぶんるい定義ていぎカード(L4) 特許庁とっきょちょう
  2. ^ a b ふすましゅ日本にっぽん内装ないそうざいりょう辞典じてん東京とうきょう内装ないそう材料ざいりょう協同きょうどう組合くみあい

関連かんれん項目こうもく

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