こて

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こて装飾そうしょくされたサフランしゅ製造せいぞう本舗ほんぽ土蔵どぞう新潟にいがたけん長岡ながおか摂田屋せったや)。登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい[1]
大黒様だいこくさまのこて丸亀まるがめ笠島かさじま

こて(こてえ、鏝絵)とは、日本にっぽん発展はってんした漆喰しっくいもちいてつくられるレリーフのことである。左官さかん職人しょくにんこて左官さかんごて)で仕上しあげていくことからがついた。題材だいざいぶくまね物語ものがたり花鳥風月かちょうふうげつ中心ちゅうしんであり、着色ちゃくしょくされた漆喰しっくいもちいて極彩色ごくさいしょく表現ひょうげんされる。これはざいした豪商ごうしょう網元あみもと母屋もや土蔵どぞう改築かいちくするさいとみ象徴しょうちょうとして外壁がいへき装飾そうしょくさかんにもちいられたからである。

技法ぎほういろとう[編集へんしゅう]

こては、左官さかんかべるこてでえがいたもので、漆喰しっくい装飾そうしょくいち技法ぎほうふるくはこう松塚まつづか古墳こふん法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう壁画へきがにあり歴史れきしふるい。また天平てんぺい年間ねんかん立体りったい塑にもられる。具体ぐたいてきにはちいさなこてをいて、それによってかみまたはいたがしてえがく。鉄筆てっぴつともいう。しんばしらつくり、その外側そとがわ荒土こうど白土しらつちにすさのりぜた材料ざいりょうつくるのがこて源流げんりゅう漆喰しっくいは、貝殻かいがら木炭もくたんかさねていたはいつくる。

顔料がんりょうとしていわいた貝殻かいがら粉末ふんまつにし、くろはまつやロウなどのスス、またすみくだいたものであったりといろいろ工夫くふうがみられた。当時とうじ顔料がんりょういろすうつぎの6しょくのみだった。

  • あかべに=べんがらor紅殻べにがら・ベンガラ(オランダ:Bengala)酸化さんかてつけい顔料がんりょう
  • 朱色しゅいろしゅまこと(に、たん)、しゅすな(しゅさ)やたつすな(しんさ)とう天然てんねんられる硫化りゅうか水銀すいぎん赤色あかいろ顔料がんりょう
  • 青色あおいろ→キンベル、外国がいこくせい酸化さんかコバルト、キングオブブルー
  • 浅黄あさぎしょく→キンベルに漆喰しっくい増量ぞうりょうしてぜる みどりがかったうすいあいいろ
  • 黄色おうしょく黄土おうど
  • くろ、ねずみいろすみまつけむり(スス)

歴史れきし[編集へんしゅう]

このふし出典しゅってん[2]

紀元前きげんぜん2世紀せいき空間くうかんかべなどで仕切しきるようになると、かべることが「免許めんきょせい」となりはじまった[よう出典しゅってん][いつ?]さら戦国せんごく時代じだい築城ちくじょうブームで草庵そうあん茶室ちゃしつなどをこてかざった。

武家ぶけ社会しゃかいとなり、武士ぶし築城ちくじょうするようになると、免許めんきょせい改正かいせいされなかにもかべつくるようになる。漆喰しっくい江戸えど時代じだい出火しゅっか対策たいさくとして幕府ばくふ奨励しょうれいした。づくりの建物たてもの庶民しょみん評価ひょうかされた。 なかわられるのは、つばめて、強度きょうどたもつためわられるようになったともわれているがさだかではない。

煉瓦れんがのところのかざりとしてみずにちなむもの(なみなど)を鏝細工ざいくけると、火事かじけるのろいになるといういいつたえが昭和しょうわ初期しょき左官さかん職人しょくにんにまであったらしい[3]

江戸えど時代じだい中期ちゅうきから徐々じょじょさかんになり、静岡しずおかけん松崎まつざきまち出身しゅっしん名工めいこう入江いりえ長八ちょうはちがこてとして芸術げいじゅついきにまで昇華しょうかさせたが、戦後せんご在来ざいらい工法こうほう衰退すいたいとも腕利うでききの左官さかん職人しょくにん減少げんしょう一時いちじまぼろし技巧ぎこうとなったが、近年きんねん建築けんちく分野ぶんやさい評価ひょうかすすんでいる。長八ちょうはち故郷こきょう松崎まつざきまちでは1984ねん伊豆いず長八ちょうはち美術館びじゅつかん開館かいかんし、松崎まつざきまちでは毎年まいとし全国ぜんこく漆喰しっくい鏝絵コンクール」が開催かいさいされている。

安心院あじむのこて[編集へんしゅう]

全国ぜんこくやく3000かしょ、そのうち大分おおいたけんだけでやく1000かしょ安心院あじむ(あじむ、大分おおいたけん安心院あじむまち)ではやく100かしょ点在てんざいする。こて見学けんがくすることができるのは、大分おおいたけんやく600かしょ安心院あじむやく60かしょである。崩落ほうらくしたり、いたんでしまったりしている。

安心院あじむ近辺きんぺんにこて集中しゅうちゅうしてつくられたのは、長野ながの鐵道てつどう山上やまかみ重太郎しげたろう藤本ふじもと太郎たろうなどのうでのいい左官さかん職人しょくにん輩出はいしゅつしたことがだいいち要因よういんである。なかでも、長野ながの鐵道てつどうは14にん弟子でしをかかえ、安心院あじむまち龍王りゅうおうはかのこっている。そのはかに14にん弟子でしきざまれている。[よう出典しゅってん]

大分おおいたのこて先駆せんくしゃはなんとっても、日出ひのでまち青柳あおやぎこいであろう。伊豆いず長八ちょうはちのもとでこて習得しゅうとく帰郷ききょうすると、青柳あおやぎこい大分おおいた各地かくち左官さかん棟梁とうりょう師事しじ、そのなか長野ながの鐵道てつどうもいたのではとおもわれる。[よう出典しゅってん]

つぎに、漆喰しっくいはいりやすいことがあげられる。となりまち宇佐うさ長洲ながすうみは、遠浅とおあさになっていることでかいおお収穫しゅうかくでき、貝殻かいがら木炭もくたん交互こうごかさねていたはいから漆喰しっくい製造せいぞうした。そして、安心院あじむ日田ひた玖珠くす中津なかつ別府べっぷむす交通こうつうようとなっていたことから、かく町村ちょうそんとの経済けいざい交流こうりゅうさかんで、比較的ひかくてき生活せいかつ裕福ゆうふく家庭かていおおかったことにある。[よう出典しゅってん]

安心院あじむこて特徴とくちょうけんのこて精巧せいこう緻密ちみつ仕事しごとをしているのにたいし、安心院あじむのこて仕事しごと緻密ちみつさよりもユーモラスな雰囲気ふんいきっただいらかさにウエートをおいている。だくみのわざ賞賛しょうさんできるものは数少かずすくないが、独自どくじ発想はっそうせいみ、左官さかん職人しょくにん心意気こころいきかんじさせるものがおおい。これは安心院あじむ固有こゆう風土ふうどせい文化ぶんか反映はんえいしていることにそとならない。[よう出典しゅってん]

こて施設しせつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ サフランしゅ製造せいぞう本舗ほんぽ土蔵どぞう”. 文化ぶんか遺産いさんオンライン. 文化庁ぶんかちょう. 2016ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  2. ^ "鏝絵". デジタル大辞泉だいじせん. コトバンクより。
  3. ^ 岩本いわもと素白そはく素白そはく随筆ずいひつのこたま学芸がくげい文集ぶんしゅう平凡社へいぼんしゃ、2009ねん5がつ、87ぺーじISBN 978-4-582-76669-1 
  4. ^ 諏訪すわ大社たいしゃ絵馬えまどうや、よりゆきだけてら作品さくひん奉納ほうのうされている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]