天守てんしゅ

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現存げんそん12天守てんしゅ
ひだり1れつじょうから姫路城ひめじじょう彦根城ひこねじょう松本まつもとじょう犬山いぬやましろちゅう1れつじょうから松江城まつえじょう備中びっちゅう松山まつやまじょう丸岡まるおかしろ弘前ひろさきじょうみぎ1れつじょうから伊予いよ松山まつやまじょう高知こうちじょう宇和島うわじまじょう丸亀まるがめじょう

天守てんしゅ(てんしゅ)とは、日本にっぽん戦国せんごく時代じだい以降いこうしろてられた象徴しょうちょうてき建造けんぞうぶつ名称めいしょう[1]日本にっぽん建築けんちくがく学術がくじゅつ用語ようごである。俗語ぞくご天守閣てんしゅかく(てんしゅかく)。ヨーロッパのしろ象徴しょうちょうてき建築けんちくである「keep tower」の日本語にほんごやくとして使つかわれることもある。

概略がいりゃく[編集へんしゅう]

日本にっぽんしろ天守てんしゅは、住宅じゅうたくとして利用りようされた天正てんしょう安土あづちじょう織田おだ)やだい坂城さかき豊臣とよとみ)などのれい別格べっかくとして、江戸えど時代じだいとおして居住きょじゅう空間くうかんとして使用しようされたれいすくない。姫路城ひめじじょう熊本くまもとじょうなどの江戸えど時代じだい初期しょきまでにてられた天守てんしゅないには、井戸いどともな台所だいどころ便所べんじょたたみきの部屋へやなど居住きょじゅう設備せつびもうけていたれいもあるが、城主じょうしゅ本丸ほんまるまる三ノ丸さんのまるなどにてられた御殿ごてん政務せいむ生活せいかつおこない、天守てんしゅはおもに物置ものおきとして利用りようされることがおおかった[2]

江戸えど時代じだい初頭しょとう徳川とくがわ幕府ばくふ届出とどけでをするさい天守てんしゅ名称めいしょうはばかったれいがあり、現在げんざいではそれらの象徴しょうちょうてき役割やくわりにあった天守てんしゅ分類ぶんるいし、それらを総称そうしょうして天守てんしゅ建築けんちくということがある。外観がいかんで2じゅうから5じゅうのものがあり、安土あづち桃山ももやま時代じだいすえには最終さいしゅう防衛ぼうえい拠点きょてんとしての位置いちづけがされており、本丸ほんまるきずくことがおおかった。本丸ほんまるなか天守てんしゅをさらにかこかくつくり、このくるわ天守てんしゅかく天守てんしゅ曲輪くるわ(てんしゅくるわ)や天守てんしゅまる(てんしゅまる)などとんだ。ちなみに、天守てんしゅてることを「 - をげる」という。

しろによっては、ちいさめの多重たじゅうしょう天守てんしゅふく天守てんしゅまたしょう天守てんしゅとのあいだほど規模きぼのものをちゅう天守てんしゅなどといい、姫路城ひめじじょう天守てんしゅぐんのようにしょう天守てんしゅ複数ふくすうある場合ばあいには方角ほうがくかんすることもある。それらがある場合ばあいとくおおきな天守てんしゅを、だい天守てんしゅということがおおい。主体しゅたい付属ふぞくするのことをぞく(つづきやぐら)というが、天守てんしゅ付属ふぞくするのことはづけ(つけやぐら)という。付属ふぞく附属ふぞく(ふぞくやぐら)ということもある。

なお、天守てんしゅは、おなじく「もと(き)」とかぞえるが、一般いっぱん住宅じゅうたくおなじく「むね(とう・むね)」とかぞえられることもある。

表記ひょうき呼称こしょう[編集へんしゅう]

「てんしゅ」の漢字かんじ表記ひょうきは「殿しんがりぬし」「殿しんがりもり」「天主てんしゅ」などもてられる。「天守閣てんしゅかく」は明治めいじ時代じだい前後ぜんこうられるようになった俗称ぞくしょうである[3]建築けんちくがく学術がくじゅつ用語ようごでは「天守てんしゅ」(てんしゅ)がもちいられている[4]。 「てんしゅ」の名前なまえこりには諸説しょせつある。以下いかにいくつか紹介しょうかいする。

  1. 帝釈天たいしゃくてんが、外郭がいかくをなすもちそうやまかこまれた須弥山しゅみせんにあっててん主催しゅさいした、という仏教ぶっきょう思想しそう須弥山しゅみせん姿すがた由来ゆらいするというせつ[5]
  2. 天主てんしゅ(デオ、デウス)を楼閣ろうかくないまつったからというキリスト教きりすときょう思想しそう由来ゆらいするせつ[6]
  3. 岐阜ぎふじょう天主てんしゅはじまりで、織田おだ信長のぶながさく彦周りょう依頼いらいして、岐阜ぎふじょうふもとにあったという4かいての御殿ごてん命名めいめいしたものというせつ宮上みやうえせつ[7]
  4. おも殿どのまもる殿どの)をまも建物たてものという意味いみで「殿しんがりぬし」「殿しんがりもり」と呼称こしょうされ、のちに「殿しんがり」の文字もじが「てん」にてんじた[5]

なお、「だい天守てんしゅ」と「しょう天守てんしゅ」の呼称こしょうは、『金城きんじょうあつしろくよもぎひだり文庫本ぶんこぼんでは「オウ」と「コ」、鶴舞つるまい図書館としょかんほんでは「ヲホ」と「コ」の仮名がなっており、みは「オウテンシュ」と「コテンシュ」としている[8]。また、『金城きんじょうあつしろく』では「だい天守てんしゅ」の表記ひょうき一般いっぱんろんかたった部分ぶぶん事実じじつじょういちれいしかなく、尾張おわりはんでは「だい天守てんしゅ」ではなく「天守てんしゅ」を呼称こしょうとしていた[8]

機能きのう[編集へんしゅう]

天守てんしゅは、一城かずき象徴しょうちょうてきなものである。天守てんしゅはまず軍事ぐんじ施設しせつ要塞ようさいとしての機能きのうっている[8]天守てんしゅ起源きげんひとつにかんして「ろう」(物見ものみ)にもとめるせつがある[9]天守てんしゅ城郭じょうかくないもっと安全あんぜん場所ばしょとされ、戦時せんじには司令塔しれいとうとなり、大垣おおがきじょうたたかのように武器ぶき修理しゅうり拠点きょてんとして使用しようされたれいもある[8]

一方いっぽう天守てんしゅ政治せいじ権力けんりょく象徴しょうちょうとされ、巨大きょだい白亜はくあ天守てんしゅ姫路城ひめじじょうきむしゃちられる名古屋なごやじょうなどにみられる[8]見晴みはらしや防御ぼうぎょりょくなどの軍事ぐんじてき実用じつようせいもとめるのであれば、頑丈がんじょう物見ものみがそのやくになう。天守てんしゅはそれにくわえて、城主じょうしゅ権威けんい誇示こじするための象徴しょうちょうせいもとめるのである[10]

慶長けいちょうには、岡山おかやまじょう天守てんしゅ熊本くまもとじょう天守てんしゅのように書院造しょいんづくり要素ようそふくんだ天守てんしゅてられ、儀式ぎしき迎賓げいひん有事ゆうじ避難ひなん場所ばしょなどにも使つかわれた[11]一方いっぽうで、徳川とくがわ家康いえやす名古屋なごやじょう天守てんしゅ広島ひろしまじょう天守てんしゅのように、外観がいかん重視じゅうしして内部ないぶをなるべく簡素かんそつくったものもあらわれ、城主じょうしゅ客人きゃくじん建物たてものとしての機能きのう天守てんしゅからは省略しょうりゃくされはじめた。そのであることがおおく、物置ものおきとしてもちいられることもすくなくなかった[3]

江戸えど時代じだい兵学へいがくでは、天守てんしゅの10の利点りてん目的もくてきが「天守てんしゅ十徳じっとく」としてべられている[12]

  1. 城内きうち見渡みわたせる
  2. しろがい見晴みはらせる
  3. 遠方えんぽうもちできる
  4. 城内きうち武士ぶし配置はいち自由じゆう
  5. 城内きうちくばれる
  6. まもりのさい下知げじ自由じゆう
  7. てき侵攻しんこう見渡みわたせる
  8. 道具どうぐへの防御ぼうぎょ自由じゆう
  9. 非常ひじょうさい戦法せんぽう自在じざいにできる
  10. しろ象徴しょうちょう

歴史れきし[編集へんしゅう]

起源きげん[編集へんしゅう]

名称めいしょう様式ようしき形式けいしきなにから由来ゆらいしているかについての結論けつろんていない。

初期しょきころ物見ものみ司令塔しれいとうおさむしろせん最終さいしゅう防御ぼうぎょ設備せつびとしての要素ようそつよかったが、織田おだ信長のぶなが近畿きんき平定へいていころからは遠方えんぽうからでももちできる華麗かれい権力けんりょく象徴しょうちょうする建造けんぞうぶつという色彩しきさいくなっていったものともかんがえられている。

西にしたに恭弘やすひろは、吉野よしのさと遺跡いせきなどにあったろうかん戦国せんごく時代じだいろう(せいろう)などの仮設かせつ高層こうそう建築けんちく城郭じょうかく象徴しょうちょうとなる建物たてもの起源きげんもとめている。そのような象徴しょうちょうてきてられたものを最初さいしょに“てんしゅ”とんだのは室町むろまち幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき御所ごしょであった室町むろまちだいてられた天主てんしゅであるというものである[13]一方いっぽう三浦みうら正幸まさゆきは、天守てんしゅ起源きげんろうなどにもとめず、中世ちゅうせい城郭じょうかくなどにてられた恒久こうきゅうてき高層こうそう大型おおがた礎石そせき建物たてものであるとし、それを“てんしゅ”とんだ建物たてものには信長のぶなが関係かんけいがあるとしている[14]

一般いっぱんてき今日きょうられる本格ほんかくてきな5じゅう以上いじょう天守てんしゅ最初さいしょのものとされているのは織田おだ信長のぶなが天正てんしょう7ねん1579ねん)に建造けんぞうした安土あづちじょう滋賀しがけん近江八幡おうみはちまん安土あづちまち)の天主てんしゅであるといわれる。ただし、天守てんしゅのような象徴しょうちょうてき建物たてもの安土あづちじょう以前いぜんにまったくなかったわけではなく、陸奥むつ国府こくふ鎮守ちんじゅかれた多賀城たがじょう正殿せいでん楠木くすのき正成まさしげ千早ちはやじょう望楼ぼうろう1469ねん前後ぜんご江戸城えどじょうにあった太田おおた道灌どうかんしずかしょうのき摂津せっつ国人くにびと伊丹いたみ居城きょじょう伊丹いたみじょう兵庫ひょうごけん伊丹いたみ[15]、また松永まつなが久秀ひさひでえいろく年間ねんかん1558ねん - 1569ねん)にきずいた大和やまと多聞たもん山城やましろ信貴しぎ山城やましろよんかい、さらに柴田しばた勝家かついえ1575ねんきずいたきたしょうじょうの7じゅう一説いっせつには9じゅう)のものなどが各地かくちてられていた。天守てんしゅのような建物たてものはじめてつくられたしろはわかっておらず、伊丹いたみじょう楽田がくでんじょう多聞山たもんざんじょうなどが文献ぶんけんなどを根拠こんきょ天守てんしゅはつとしてげられているが、具体ぐたいてき遺構いこうなどはしょうであり、いずれも天守てんしゅはつであるとの立証りっしょうむずかしくなっている。

発展はってん[編集へんしゅう]

そのように、てられてきたしろ象徴しょうちょうてき高層こうそう建築けんちく、いわゆる天守てんしゅをさらに流行りゅうこうさせたのは豊臣とよとみ秀吉ひでよしである。豊臣とよとみ秀吉ひでよしによりだい坂城さかき伏見ふしみじょう相次あいついで豪華ごうか天守てんしゅ造営ぞうえいされると、それを手本てほん各地かくち大名だいみょう自身じしんしろ高層こうそう天守てんしゅ造営ぞうえいさせた。このように天守てんしゅは、織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしゆたか政権せいけんにおいて発達はったつした「ゆたかけい城郭じょうかく」に顕著けんちょられることから、ゆたかけい城郭じょうかく特徴とくちょうのひとつにあげられる[16]。また、この時代じだい活躍かつやくした天守てんしゅ造営ぞうえい名手めいしゅとして中井なかい大和やまと守正もりまさきよし岡部おかべ又右衛門またえもんなどがげられる。

豊臣とよとみ政権せいけん衰退すいたいはじめると徳川とくがわ家康いえやすした徳川とくがわ名古屋なごやじょうはじめにしょ大名だいみょう姫路城ひめじじょうなどの豊臣とよとみ大坂おおさかしろえるだい規模きぼ装飾そうしょくてき天守てんしゅ造営ぞうえいしていった。しかし、3だい家光いえみつ武家ぶけしょ法度はっと発布はっぷ以降いこうは「天守てんしゅ」と高層こうそう天守てんしゅ建築けんちく原則げんそくとしてつくられなくなる。

衰退すいたい[編集へんしゅう]

1609ねん中国ちゅうごく西国さいごく大名だいみょうしろ普請ふしんさかんにっている報告ほうこく家康いえやすけ、これにたいして感想かんそういだかなかったとある。具体ぐたいてき史料しりょう確認かくにんできないが、この前後ぜんごより5じゅう以上いじょう天守てんしゅは「遠慮えんりょ」の対象たいしょうとなったとかんがえられ、以降いこうつくられた小倉こくらじょう(1610ねん)では4じゅう屋根やねつくらず5かい平面へいめんさせ5じゅうとなることを回避かいひしている。元和がんわ元年がんねん1615ねん徳川とくがわ幕府ばくふによる一国一城いっこくいちじょうれいにより幕府ばくふ許可きょかなくあらたな築城ちくじょうしろ改修かいしゅう補修ほしゅうができなくなり、天守てんしゅ同様どうよう許可きょかなくあらたに造営ぞうえいすることがきんじられた。

これ以降いこう同様どうように、津山つやまじょう(1616ねん)や福山ふくやまじょう(1622ねん)のように4じゅう屋根やねひさしとみなして事実じじつじょうじゅう天守てんしゅでありながら名目めいもくじょうよんじゅう天守てんしゅとするものや、高松たかまつじょう(1669ねん)のように内部ないぶ5かいてでありながら外観がいかんを3じゅうとするものなどがつくられた。また、伊予いよこく松山まつやまじょうのように5じゅう天守てんしゅを3じゅう改築かいちくするものもあった。また、天守てんしゅ意識いしきしててられただい規模きぼさんじゅう天守てんしゅという名称めいしょうをはばかり、さんかいなどとんだ。

江戸えどになり平和へいわ時代じだいおとずれると、しろ防衛ぼうえい役目やくめ政庁せいちょうへと変化へんかしていったので、天守てんしゅ役目やくめわり、しろ次第しだい御殿ごてんまるさんまる拡充かくじゅうされていった。

明治めいじ以降いこう[編集へんしゅう]

やぶ却前の若松わかまつしろ天守てんしゅ

明治維新めいじいしんのちは、城郭じょうかく陣屋じんやにあった建物たてもの天守てんしゅも、民間みんかんによってあるいは、軍事ぐんじ施設しせつ土地とちとしての接収せっしゅうによってほとんどははらげ、やぶ却されたが、なかには市民しみん運動うんどう公人こうじんぐん関係かんけいしゃなどの保存ほぞんはたらきかけなどによって保存ほぞんされた天守てんしゅがある。保存ほぞんされる経緯けいいに、城主じょうしゅがそのまま所有しょゆうしゃとなったため保存ほぞんされることになったいぬ山城やましろ天守てんしゅや、民間みんかん個人こじん)では解体かいたい工事こうじにかかる費用ひようはらえないという理由りゆうのこったといわれる姫路城ひめじじょう建造けんぞうぶつぐんのような事例じれいまれである。そのように保存ほぞんされた天守てんしゅは、沖縄おきなわくびさとじょう正殿せいでん天守てんしゅではない)をふくんでも21しろだけであった。

その西南せいなん戦争せんそうなどの内乱ないらん太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきには日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう沖縄おきなわせんによってくびさとじょうふくむ8しろ焼失しょうしつまた倒壊とうかいし、戦後せんご松前まさきしろ天守てんしゅ失火しっかにより焼失しょうしつして、現在げんざい12しろ天守てんしゅのこる。太平洋戦争たいへいようせんそうなどで焼失しょうしつしたきゅう国宝こくほう天守てんしゅをコンクリートづくりなどによって外観がいかん復元ふくげんする事業じぎょう戦後せんご活発かっぱつおこなわれ、現在げんざいでも各地かくち天守てんしゅなどを当時とうじ工法こうほうによって城跡じょうせききゅうじょう復興ふっこう復元ふくげんしようとする運動うんどうがある。

平面へいめん構成こうせい[編集へんしゅう]

天守てんしゅ平面へいめん構成こうせいには独立どくりつしきふくごうしき連結れんけつしき連立れんりつしきの4つの形式けいしきがあり、これにくわえてふくあい連結れんけつしきふく連結れんけつしきの2形式けいしきがある。

なお、ここにならべた序列じょれつは、形式けいしき発展はってん順序じゅんじょしめしているわけではない。

独立どくりつしき[編集へんしゅう]

独立どくりつしき天守てんしゅ

天守てんしゅ単独たんどくっているもの。おもにそうとうがた天守てんしゅおおい。しょう天守てんしゅ付属ふぞくしているが、直接ちょくせつ天守てんしゅ出入でいぐちがあるものも独立どくりつしきとみなすこともある[17] 高知こうちじょう丸岡まるおかしろ宇和島うわじまじょうなどに用例ようれいがある。

ふくごうしき[編集へんしゅう]

ふくごうしき天守てんしゅ
天守てんしゅ(A)、づけ(B)、櫓門やぐらもん(C)

天守てんしゅづけ直接ちょくせつ接続せつぞくするもの。が代表だいひょうれいづけ接続せつぞくすることで、てき攻撃こうげきできる場所ばしょやすとともに、天守てんしゅへの入口いりくちとなることもおおい。彦根城ひこねじょう松江城まつえじょう岡山おかやまじょうなどに用例ようれいがある。

連結れんけつしき[編集へんしゅう]

連結れんけつしき天守てんしゅ
天守てんしゅ(A)、わたり(B)、しょう天守てんしゅまたはすみ(C)、櫓門やぐらもん(D)

天守てんしゅからわた廊下ろうか多聞たもんしょう天守てんしゅわたしたもの。名古屋なごやじょうのように、わたりのかわりに土塀どべいはさまれた土橋どばしとなっているものもある。熊本くまもとじょうはちだいじょう福知山ふくちやまじょうなどに用例ようれいがある。

連立れんりつしき[編集へんしゅう]

連立れんりつしき天守てんしゅ
天守てんしゅ(A)、しょう天守てんしゅまたはすみ(B,C,D)、わたり(E)、櫓門やぐらもん(F)

複数ふくすうしょう天守てんしゅ天守てんしゅわたりなどで環状かんじょうにつなげたもの。姫路城ひめじじょう代表だいひょうれいもっと複雑ふくざつかつ防備ぼうび厳重げんじゅう形式けいしきで、天守てんしゅへの入口いりくち建物たてものかこまれた中庭なかにわになるため、てきへい四方しほうから攻撃こうげきできるようになる。姫路城ひめじじょう松山まつやまじょう高取たかとりしろ和歌山わかやまじょうなどに用例ようれいがある。

その[編集へんしゅう]

ふくあい連結れんけつしき(ふくごうれんけつしき)
ふくごうしき連結れんけつしきわせたもの。熊本くまもとじょう福知山ふくちやまじょう松本まつもとじょう岡崎おかざきしろ用例ようれいがある。
ふく連結れんけつしき(ふくれんけつしき)
天守てんしゅに、しょう天守てんしゅ2以上いじょう個別こべつ多聞たもんはしによって連結れんけつしたもの。しょう天守てんしゅ同士どうし連結れんけつしない。しょう天守てんしゅ2連結れんけつしたものは広島ひろしまじょうのみであり、2連結れんけつしたものとして大洲おおすじょう用例ようれいがある。

形式けいしき[編集へんしゅう]

形式けいしき望楼ぼうろうがたそうとうがたの2つに大別たいべつされている。ただし、発展はってん順序じゅんじょにおいてそうとうがたさき望楼ぼうろうがたさきかは結論けつろんていない。

構造こうぞうじょうでは、望楼ぼうろうがたそうとうがたけられ、外観がいかんじょう特異とくいなものにはとく規定きていはないものの復古ふっこ略式りゃくしきからみやつこはちむねづくりなどと、さらにこまかくけることがある。きん現代げんだい復興ふっこう天守てんしゅ模擬もぎ天守てんしゅなど復興ふっこう建築けんちくも、現存げんそん建築けんちくならって、望楼ぼうろうがたそうとうがた分類ぶんるいされている。ここでの望楼ぼうろうがたそうとうがたは、おも外観がいかん構造こうぞうによる分類ぶんるいによってしるす。

望楼ぼうろうがた[編集へんしゅう]

望楼ぼうろうがたは、入母屋いりもやづくりのじょう小型こがた望楼ぼうろうせたような形式けいしきである。おもに、入母屋いりもやづくりひらうえ望楼ぼうろうせたようなものや、入母屋いりもやづくり重箱じゅうばこ望楼ぼうろうせたようなかたちのものがある。入母屋いりもやづくりうえ望楼ぼうろうべつ構造こうぞうせているので、はつじゅう平面へいめんいがんでいても、うえしげる矩形くけいととのえることができる。基部きぶ屋根やねに「入母屋いりもや破風はふ」がかならずできるので、堂々どうどうとしたデザインとなる。

とくにこの望楼ぼうろうがたは、初期しょき望楼ぼうろう後期こうき望楼ぼうろうけられることがある。

初期しょき望楼ぼうろうがた[編集へんしゅう]

初期しょき望楼ぼうろうがた天守てんしゅ犬山いぬやまじょう

関ヶ原せきがはらたたかさかいとして、それ以前いぜんつくられたとされる岡山おかやまじょう広島ひろしまじょう天守てんしゅなど、屋根やね逓減ていげんりつおおきく、望楼ぼうろう部分ぶぶんちいさくつくられているものを初期しょき望楼ぼうろうがたという。

おも関ヶ原せきがはらたたか以前いぜん
など
構造こうぞう確認かくにんできる現存げんそん天守てんしゅ

2019ねんから犬山いぬやま依頼いらい名古屋工業大学なごやこうぎょうだいがく大学院だいがくいんなどがおこなった建築けんちくざい年輪ねんりん年代ねんだいほうによる調査ちょうさでは、はしらやはり、床板とこいたなど、天守てんしゅおも建築けんちくざいは1585ねんからの3年間ねんかん伐採ばっさいされたものと判明はんめいし、当初とうしょから1かいから4かいまで現在げんざいのような姿すがた建築けんちくされたものとみられると報告ほうこくされた[16]。

後期こうき望楼ぼうろうがた[編集へんしゅう]

後期こうき望楼ぼうろうがた天守てんしゅ姫路城ひめじじょう

関ヶ原せきがはらたたか以降いこうつくられた姫路城ひめじじょう天守てんしゅのような、屋根やね逓減ていげんりつちいさくなり、望楼ぼうろう部分ぶぶん物見ものみ要素ようそ減少げんしょうしたものを後期こうき望楼ぼうろうがたという。

おも関ヶ原せきがはらたたかいから寛永かんえい年間ねんかん
など
構造こうぞう確認かくにんできる現存げんそん天守てんしゅ

そうとうがた[編集へんしゅう]

独立どくりつしきそうとうがた天守てんしゅ宇和島うわじまじょう

関ヶ原せきがはらたたかよりられ、元和がんわ寛永かんえい年間ねんかん以降いこう主流しゅりゅうとなった型式けいしきで、寺院じいん五重塔ごじゅうのとうのようにうえからしたまでデザインに統一とういつかんがある。望楼ぼうろうがたのように基部きぶ望楼ぼうろう平面へいめんがたえることはできず、1そうからさい上層じょうそうまでぜんてきちんとした矩形くけいになる。

うえくにつれて平面へいめん規模きぼ逓減ていげんし、最上もがみしげる屋根やねだけを入母屋いりもやとしたもの。直接ちょくせつ基部きぶとなるようなだい入母屋いりもやつくられないから、さい上層じょうそうのぞくと破風はふ必須ひっすではないし、実際じっさい破風はふのないものもある。ただし、単調たんちょうさをけるために千鳥ちどり破風はふ唐破風からはふかざ場合ばあいおおい。複数ふくすうかいつらぬだい入母屋いりもやや、いがんだ平面へいめん構造こうぞうゆうさないため、構造こうぞうてきには簡便かんべん大型おおがたやすい。とく中井なかいただしきよしによる徳川とくがわ巨大きょだい天守てんしゅではその特徴とくちょうかされ、外部がいぶつくむくろたい工事こうじ内部ないぶ仕上しあげをおこな造作ぞうさ工事こうじ分離ぶんりや、各階かくかいごと分担ぶんたん作業さぎょうによる効率こうりつ工期こうき短縮たんしゅくおこなわれた。

など

構造こうぞう確認かくにんできる現存げんそん天守てんしゅ

外観がいかんじょう分類ぶんるい[編集へんしゅう]

復古ふっこがた望楼ぼうろうがた天守てんしゅ高知こうちじょう
ちょういずるとべづくりのある天守てんしゅ熊本くまもとじょうだい天守てんしゅ

構造こうぞうじょう望楼ぼうろうがたそうとうがた以外いがいにも、外観がいかんじょうでは、多彩たさいけられている。ただし、このような分類ぶんるいとくさだめられたものではなく、研究けんきゅうしゃ学者がくしゃによっては、特殊とくしゅかたをする場合ばあいもある。

復古ふっこがた[編集へんしゅう]

復古ふっこがたは、外観がいかん旧観きゅうかん旧式きゅうしきのものにちかづけた天守てんしゅのこと。江戸えど中期ちゅうきから後期こうき幕府ばくふ許可きょか再建さいけんされた天守てんしゅである。江戸えど中期ちゅうきごろにはそうとうがた主流しゅりゅうとなっていたが、構造こうぞう望楼ぼうろうがたのものそうとうがたのものどちらも存在そんざいする。なかでも高知こうちじょう焼失しょうしつ以前いぜん望楼ぼうろうがた天守てんしゅ忠実ちゅうじつ復興ふっこう再建さいけんしたといわれているものであり、また、松山まつやまじょうだい天守てんしゅは、江戸えど時代じだい以前いぜん軍事ぐんじ施設しせつとして最後さいご再建さいけんされたそうとうがた天守てんしゅである。

など

構造こうぞう確認かくにんできる現存げんそん天守てんしゅ

  • 高知こうちじょう天守てんしゅ
  • 松山まつやまじょうだい天守てんしゅ

ちょういずるとべづく[編集へんしゅう]

ちょういずる(はりだし)[14]または、とべづくり(はねだしづくり)[9]は、はつじゅう平面へいめんが、天守てんしゅだい平面へいめんよりおおきくつくられたものをいう。初期しょき天守てんしゅだいられる平面へいめんがたゆがみを解消かいしょうするためにかんがえられた[14]ゆか一部いちぶ開口かいこうして、いしとしとすることができた。

  • はぎじょう天守てんしゅ
  • 熊本くまもとじょうだい天守てんしゅ
  • 高松たかまつじょう天守てんしゅ

構造こうぞう[編集へんしゅう]

天守てんしゅ通常つうじょうとしての防御ぼうぎょせい耐火たいかせい耐震たいしんせいなどの構造こうぞうてき実用じつようせいのほかに象徴しょうちょうてき建物たてものとしての装飾そうしょくせい必要ひつようとなっていた。おおくは格式かくしきしめすために、特別とくべつ意匠いしょうとすることがある。

天守てんしゅげられるるい石垣いしがきまれた高台たかだいのことを天守てんしゅだい(てんしゅだい)という。天守てんしゅだい内側うちがわ空洞くうどうとすることによって、穴蔵あなぐらばれる地下ちかかいつくることがある。また、天守てんしゅだいきずかず、曲輪くるわめん直接ちょくせつ礎石そせきき、天守てんしゅてられることもある。

階層かいそう[編集へんしゅう]

城郭じょうかく建築けんちく、おもに天守てんしゅ多重たじゅうは、複雑ふくざつ屋根やねかさねることがあるので、階層かいそう場合ばあいには構造こうぞう複雑ふくざつさにかかわらず、外観がいかんでの屋根やねかずあらわす“そう”または“じゅう”と、内部ないぶゆかすうの“かい”とをならべて、「 - そう - かい」や「 - おも - かい」とする(れい:3じゅう5かい)。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

近世きんせい姫路城ひめじじょう名古屋なごやじょう熊本くまもとじょう松江城まつえじょうなどでは最上階さいじょうかいとそれ以下いか下層かそうかい構造こうぞうけ、下層かそうかいでは防御ぼうぎょのためにできるだけ壁面へきめんおおくする一方いっぽう最上階さいじょうかいでは砲撃ほうげきせん想定そうていしてかべはできるだけすくなく設計せっけいされた[8]最上階さいじょうかい壁面へきめんすくなくすることで射手しゃしゅおお配置はいちでき、射撃しゃげき硝煙しょうえん排気はいき迅速じんそくおこなうことができる[8]

階層かいそうかぞかた[編集へんしゅう]

書物しょもつ口伝くでん伝説でんせつじょうはなしではかいじゅう単独たんどくもちいられることもおおいが、かつては階層かいそうかぞかた統一とういつされた基準きじゅんはなく、さんかいつたわっていても3かいとはかぎらず5かい場合ばあいもあり、じゅう天守てんしゅつたわっていても内部ないぶゆかすうかぞえたものであって、外観がいかんは4じゅうや3じゅうであることもある。場合ばあいによっては地下ちかかぞえていることもある。

またななじゅうきゅうじゅうには「数多かずおおかさなっている」という意味いみもあるので、この両者りょうしゃには十分じゅうぶん注意ちゅういようする。

研究けんきゅうしゃによるちが
研究けんきゅうしゃ学者がくしゃによりかぞかたことなっている。以下いか書籍しょせきべられているものとして、西にしたに恭弘やすひろ三浦みうら正幸まさゆきによるものをあげた。
  • 西にしたに恭弘やすひろは、「-そう-かい」とし、そう屋根やねじゅうゆかかい地下ちかふくまないかい地上ちじょうかい)のかずであるとしている。主宰しゅさいをしている日本にっぽん城郭じょうかく学会がっかい採用さいようするかたのっとったためであり、そうによるかぞかた欠点けってんについても指摘してきしている[9]
  • 三浦みうら正幸まさゆきは、「-しげる-かい」を使用しようし、外観がいかん屋根やねおも内部ないぶゆかかい説明せつめいしている。さらに、そうかいわりにも使つかわれるとして使用しようすすめていない[3]

以上いじょうのように、かぞかたにはちが解釈かいしゃくがあるため、ひとつの文書ぶんしょに「-そう-かい」・「-しげる-かい」・「-しげる-そう」などを併用へいようすると内容ないよう混乱こんらんしょうじることがあるので、日本にっぽん城郭じょうかくあつかった書籍しょせきでは併用へいようけることがある[18]

外壁がいへき[編集へんしゅう]

長押なげしがた姫路城ひめじじょうだい天守てんしゅさい上層じょうそう外壁がいへき
そとまわりえん高欄こうらん広島ひろしまじょうだい天守てんしゅ外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ
長押なげしがた(なげしがた)
漆喰しっくい大壁おおかべ真壁まかべせるために、はしらや、長押なげしかたちのみ漆喰しっくいかせたかべ意匠いしょう一部いちぶにもみられる。
まわりえん高欄こうらん(まわりえん・こうらん)
周回しゅうかいする縁側えんがわ一種いっしゅで、最上階さいじょうかいにあるため、そとることのできるもの(そとまわりえん・そとまわりえん)には高欄こうらん手摺てすり欄干らんかん)がけられる。その外側そとがわかべ戸板といたへだてるとうちまわりえん(うちまわりえん)となる。特異とくいなものでは、からみやつこばれるものもつくられている。実用じつようせいのないそとまわりえんかざまわりえん高欄こうらんという。
かべ外装がいそう
天守てんしゅ外壁がいへきくろうるしまたはくろすみ柿渋かきしぶりの下見したみ板張いたばり(したみいたばり)と漆喰しっくいぬりこめ(しっくいぬりごめ)の大壁おおかべ仕上しあげがある。ほかに、高知こうちじょう大手おおてもんなどにられる羽目板はめいたり、前述ぜんじゅつした長押なげしがた漆喰しっくいかべや、寒冷かんれい地域ちいきかべには海鼠壁なまこかべ(なまこかべ)がもちいられることもある。
従来じゅうらい下見したみ板張いたばり天守てんしゅよりもぬりこめだいかべ天守てんしゅ新式しんしきであるというせつがあったが、近年きんねんでは優劣ゆうれつはないという見方みかたがある[3]

屋根やね[編集へんしゅう]

屋根やねざい[編集へんしゅう]

屋根やねには、粘土ねんどかわら金属きんぞくかわらなどの植物しょくぶつせい材料ざいりょういしかわらなどがかれる。うち、粘土ねんどせい本瓦ほんかわらかれるれいおおい。寒冷かんれいでは、粘土ねんどかわら内部ないぶふくまれる水分すいぶん凍結とうけつし、破損はそん剥落はくらくすることがおおく、このため、丸岡まるおかしろ天守てんしゅのようにいしかわらいたれいや、高島たかしましろ天守てんしゅ米沢よねざわしろさんかい弘前ひろさきじょう辰巳たつみなどのこけら葺[ちゅう 2]弘前ひろさきじょう天守てんしゅのようにどうかわら金属きんぞくかわら)をくことがある。

また、通常つうじょう粘土ねんどかわらより高温こうおん焼成しょうせいしたあかかわられいもある。高温こうおん粘土ねんど鉄分てつぶん酸化さんかされることによりあか変色へんしょくする。あかかわらは釉薬によるものもある。18世紀せいきはぎじょう天守てんしゅえをおこなっており、江戸えど時代じだい後期こうきにはつるおかじょう若松わかまつしろでは17世紀せいき後半こうはんあかい釉薬かわらえをおこなっている。城郭じょうかく建築けんちくでの現存げんそんれいには津和野つわのじょうがある。

破風はふ[編集へんしゅう]

つまかべ破風はふばんなどをふく屋根やね意匠いしょうのことを破風はふ(はふ、はふう)という。装飾そうしょくせいたかくまた、内部ないぶつくられたしょう部屋へや破風はふ部屋へや)は防御ぼうぎょ攻撃こうげきじょうでも重要じゅうよう構造こうぞうともなる。

しゃち[編集へんしゅう]

しゃち(しゃち)は「しゃちほこ」とばれることがおおい。最上階さいじょうかいだいむねうえげることがおおく、木製もくせいかわらせい青銅せいどうせいのものがある。天守てんしゅだけではなく主要しゅようげられることがある。

井戸いど[編集へんしゅう]

籠城ろうじょうせん想定そうていして天守てんしゅ井戸いどもうけたしろがある[8]天守てんしゅ建物たてもの内部ないぶ井戸いどがあるしろには、名古屋なごやじょう松江城まつえじょう駿府すんぷじょう浜松はままつじょうなどがある[8]熊本くまもとじょうしょう天守てんしゅ井戸いどもうけられている[8]。また、姫路城ひめじじょう天守てんしゅ台北たいぺいこし曲輪くるわない井戸いどもうけられている[8]天守てんしゅだいしろもっとたか位置いちにあるため、本来ほんらいもっと井戸いどりづらい場所ばしょであり、これらの築城ちくじょうにはなによりもさき井戸いど作業さぎょうおこなわれたとかんがえられている[8]

便所べんじょ[編集へんしゅう]

姫路城ひめじじょう天守てんしゅには便所べんじょもうけられた[8]

天守てんしゅしろ[編集へんしゅう]

江戸城えどじょう本丸ほんまる天守てんしゅだい

近世きんせい安土あづち桃山ももやま時代じだい以降いこう)では、当初とうしょより天守てんしゅてる必要ひつようがないとの判断はんだんから天守てんしゅだいつくられなかったしろもある。江戸えどになると、天守てんしゅのあったしろでも、損失そんしつ再建さいけん見送みおくることがおおくなる。また、天守てんしゅだいはあるがなんらかの理由りゆうによってそのうえ天守てんしゅつくられていないしろもあった。

江戸えど天守てんしゅ造営ぞうえいされなかったケースには、つぎの4つがある。

  1. 過去かこ天守てんしゅはあったが、うしなって以降いこう再建さいけんしなかったケース(江戸城えどじょうだい坂城さかき金沢かなざわじょう福井ふくいじょう佐賀さがじょうなど)
    江戸城えどじょう寛永かんえい天守てんしゅ)は、あかりれき大火たいかでの焼失しょうしつ復興ふっこうに、城下じょうか再建さいけん優先ゆうせんさせることとして、天守てんしゅ再建さいけん見送みおくった。寛永かんえいだい坂城さかき天守てんしゅ再建さいけん見送みおくりは必要ひつようであるとの判断はんだんからであった。江戸城えどじょう本丸ほんまる富士見ふじみ天守てんしゅ代用だいようとしていた。
    金沢かなざわじょう福井ふくいじょうなどの天守てんしゅ焼失しょうしつしたのち幕府ばくふへの遠慮えんりょ財政難ざいせいなんから再建さいけんしなかったがさんかい三重みえてて、天守てんしゅ代用だいようとしていた。佐賀さがじょうさんかい建造けんぞうもしなかった。
  2. 天守てんしゅだいまではきずいたが、かく事情じじょうによっててなかったケース(じょう明石あかししろ赤穂あこうじょう仙台せんだいじょうど)
    明石あかしじょう赤穂あこうじょうのように天守てんしゅだいだけきずき、天守てんしゅてる計画けいかくがない場合ばあいもある。
  3. 天守てんしゅだい天守てんしゅてなかったが三重みえをもって天守てんしゅ代用だいようとしていたしろ米沢よねざわしろ山形やまがたじょう水戸みとじょうなど)
  4. 天守てんしゅだい天守てんしゅ天守てんしゅ代用だいようもないしろ鹿児島かごしまじょう人吉ひとよししろなど)

1、2、3のケースについては、さんかい天守てんしゅ代用だいようがある場合ばあいもあった。次項じこうべる。福岡ふくおかじょう唐津からつじょう甲府こうふじょうなどは、天守てんしゅだいはあるが天守てんしゅ存否そんぴについて不明ふめいであるので上記じょうきかくケースにたらない。また、沖縄おきなわけんしろには文化ぶんかけんちがいから、天守てんしゅという象徴しょうちょう建築けんちく概念がいねん存在そんざいしない。

現存げんそんするさんかいれい。(弘前ひろさきじょう天守てんしゅ

さんかい天守てんしゅ代用だいよう[編集へんしゅう]

現在げんざい天守てんしゅには、当時とうじ天守てんしゅのないしろさんかい代用だいよう多重たじゅうふくんでいることがある。

さんかい(おさんがいやぐら・ごさんがいやぐら)は、江戸えど時代じだい武家ぶけしょ法度はっと一国一城いっこくいちじょうれい発布はっぷにより、天守てんしゅ存在そんざいしないしろにあった三重みえ名称めいしょうである。幕府ばくふへの配慮はいりょから天守てんしゅとはしょうさなかった「実質じっしつじょう天守てんしゅ」である。ところによっては、さんかい小倉こくらじょう)やだい白石しらいしじょう)、三重みえ白河しらかわ小峰こみねじょう)ともばれた。さんかいというにもかかわらず、金沢かなざわじょう水戸みとじょうのように内部ないぶは5かいや4かい場合ばあいもある。なかには、盛岡もりおかじょうのようにのち天守てんしゅといいなおされたものもある。天守てんしゅ同様どうよう本丸ほんまるてられることがおおかったが、徳島とくしまじょう水戸みとじょうさんかいのようにまるてられることもあった。現存げんそんしているさんかいには、弘前ひろさきじょう天守てんしゅ丸亀まるがめじょう天守てんしゅがある。

しばしば、天守てんしゅ代用だいようばれている建造けんぞうぶつは、おもに「事実じじつじょう天守てんしゅ」をすことがおおく、その規模きぼ意匠いしょうによっては、天守てんしゅとしてあつかうこともある建物たてもののことである(久留くるべいじょうたつみさんじゅう福井ふくいじょうたつみなど)。このように認識にんしきされていたさんかいなどの三重みえかぎらず、じゅうもあった。しかし、これはすみ特殊とくしゅ役目やくめにある天守てんしゅわる象徴しょうちょうてき存在そんざいとして位置いちづけられたものであるため、さんかいほどには天守てんしゅとしてられないこともある。またかぎらず、久保田くぼたしろの「書院しょいん」のように御殿ごてん本丸ほんまるるいじょうてて天守てんしゅ代用だいようとしていたれいもある。

明治めいじ以降いこう天守てんしゅ[編集へんしゅう]

明治めいじ以降いこうしろの、天守てんしゅあつかいについては歴史れきし - 明治めいじ以降いこう前述ぜんじゅつしたとおりである。天守てんしゅ一覧いちらん参照さんしょう

現存げんそん天守てんしゅ[編集へんしゅう]

現存げんそん天守てんしゅ松山まつやまじょうだい天守てんしゅ

1873ねん明治めいじ6ねん)にはいじょうれい公布こうふされ、おおくのしろ建造けんぞうぶつうしなわれた。はいじょうれい発布はっぷ以後いごのこった天守てんしゅは60あまりあったが、そのやぶ却はすすだい大戦たいせんまでに20かしょとなった。

さらに、1945ねん昭和しょうわ20ねん)にべいぐん空襲くうしゅうけて水戸みとじょう名古屋なごやじょう大垣おおがきじょう和歌山わかやまじょう岡山おかやまじょう福山ふくやまじょう広島ひろしまじょうの7かしょうしなわれた。

1949ねん昭和しょうわ24ねん)には松前まさきしろ天守てんしゅ失火しっかによる火災かさいによりうしなわれ、現在げんざい江戸えど以前いぜんから存在そんざいしている天守てんしゅ日本にっぽん国内こくないに12かしょある。そのうち5かしょ国宝こくほう、うち姫路城ひめじじょう世界せかい遺産いさんであり、のこり7かしょがいずれもくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。これらは、現存げんそん12天守てんしゅじゅう現存げんそん天守てんしゅ)、国宝こくほう五城ごじょう重文じゅうぶんななじょう重文じゅうぶんなな天守てんしゅ)などとばれている。

きん現代げんだい天守てんしゅ建設けんせつ[編集へんしゅう]

明治めいじ以降いこうには、城郭じょうかく自体じたい廃止はいしともなって天守てんしゅなどの城郭じょうかく建築けんちくつくることはなくなったが、天守てんしゅせた建物たてものや、きゅうしろ天守てんしゅ再建さいけんしたものはある。地域ちいき振興しんこう目的もくてき天守てんしゅ再建さいけんまたは建設けんせつされはじめたのは昭和しょうわ以降いこうのこととなる。

とくさかんにてられはじめたのはだい大戦たいせん復興ふっこう昭和しょうわ30年代ねんだいごろから)であり、空襲くうしゅう焼失しょうしつしたものや写真しゃしん絵図えずえがかれた天守てんしゅ伝説でんせつじょう天守てんしゅなどが鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞう建設けんせつされているものがおおい。それらのおおくの天守てんしゅ遺構いこううえつくられているため、礎石そせき移動いどうしたり、石垣いしがきえなどをおこなうので、とく近代きんだい工法こうほうてられた模擬もぎ天守てんしゅ復興ふっこう天守てんしゅ外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅなどは「歴史れきし遺構いこう破壊はかいになっているのでは」との意見いけんもあった[よう出典しゅってん]平成へいせいには建築けんちく技術ぎじゅつ向上こうじょうからコンクリートづくりなどでの天守てんしゅ建設けんせつり、また、文化庁ぶんかちょう遺跡いせきにおける建造けんぞうぶつ復元ふくげん方針ほうしん厳格げんかくともな木造もくぞうによる、より忠実ちゅうじつ復元ふくげん原則げんそくとなった。

きん現代げんだいつくられた天守てんしゅは、復元ふくげん天守てんしゅ復原ふくげん天守てんしゅ木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅ外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ)・復興ふっこう天守てんしゅ模擬もぎ天守てんしゅ天守閣てんしゅかくふう建造けんぞうぶつけられている。このほかに、復元ふくげん天守てんしゅ復興ふっこう天守てんしゅわせて再建さいけん天守てんしゅということがある。なお、学者がくしゃ研究けんきゅうしゃ見解けんかいにより以下いか記述きじゅつはしばしば相違そういしており、とく復元ふくげん天守てんしゅ以外いがい分類ぶんるい差異さいおおきく、書籍しょせきにより記述きじゅつ大幅おおはばことなる場合ばあい散見さんけんされるため、以下いかには一般いっぱんてき見解けんかいしめす。

復元ふくげん天守てんしゅ復原ふくげん天守てんしゅ[編集へんしゅう]

はつ本格ほんかく木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅ 掛川かけがわじょう

火事かじ天災てんさいやぶ却・戦災せんさい消失しょうしつした天守てんしゅを、すくなくとも外観がいかん以前いぜんとおりに復元ふくげんしたものをいう。太平洋戦争たいへいようせんそうでのべいぐん爆撃ばくげきにより損失そんしつした天守てんしゅおもである。さらに、木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅ外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅけられる。一方いっぽうで、日本にっぽん文化庁ぶんかちょう木造もくぞう復元ふくげんのみを「復元ふくげん」とみなしている[19]

木造もくぞう建築けんちくによる天守てんしゅ復元ふくげんには、建築けんちく基準きじゅんほう消防しょうぼうほうなどの法令ほうれいによる制約せいやくがあり、これらの法令ほうれい適用てきよう除外じょがいみとめられねばならない。またくに史跡しせき指定していされている城跡じょうせきでの再建さいけん行為こういについては、文化財ぶんかざい保護ほごほうもとづき文化庁ぶんかちょう長官ちょうかんより現状げんじょう変更へんこう許可きょかけねばならず、同庁どうちょうにより「考古学こうこがくてき遺産いさん保存ほぞん管理かんりかんする国際こくさい憲章けんしょう[ちゅう 3]」にもとづいた再建さいけん行為こういもとめられている。

木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅ[編集へんしゅう]

木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅとは、天守てんしゅ現存げんそんした当時とうじ図面ずめん文書ぶんしょ記録きろく遺構いこうなどにもとづき、当時とうじ使つかわれていた材料ざいりょう木材もくざい種類しゅるい)・構法・工法こうほう[ちゅう 4]によって忠実ちゅうじつ原状げんじょうふくしたものをす。

平成へいせいになり、建築けんちく技術ぎじゅつ向上こうじょう建設省けんせつしょう指導しどうけつつ伝統でんとうてき工法こうほうかぎりなくちかづけた木造もくぞうによる天守てんしゅ復元ふくげん原則げんそくとなった[20]

天守てんしゅじゅんずるものとしての木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅ最初さいしょのものは、1990ねん平成へいせい2ねんちくの「白河しらかわじょう さんかい」(福島ふくしまけん白河しらかわ)であるが、当時とうじほうあな利用りようした建築けんちくであった。1994ねん平成へいせい6ねん)4がつちくの「掛川かけがわしろ 天守てんしゅ」(静岡しずおかけん掛川かけがわ)は、建築けんちく基準きじゅんほう適用てきよう除外じょがい消防しょうぼうほう特例とくれいとして認可にんかされた最初さいしょの「木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅ[21]であるとする一方いっぽう山内やまうち一豊かずとよ高知こうちじょう天守てんしゅ作事さくじするにたって「掛川かけがわのとおり」と指示しじしたことを参考さんこう現存げんそん天守てんしゅの「高知こうちじょう天守てんしゅ」を内部ないぶ参考さんこうに、宮上みやうえしげたかし考証こうしょう2004ねん平成へいせい16ねん)に竣工しゅんこうした「大洲おおすじょう天守てんしゅ」(愛媛えひめけん大洲おおす)は、木造もくぞう4かいてが法的ほうてきみとめられた復元ふくげん天守てんしゅ最初さいしょれいであり、江戸えど時代じだい製作せいさくされた天守てんしゅ雛形ひながたじく模型もけい)や画像がぞう資料しりょう出土しゅつど遺構いこうなどから、従来じゅうらい姿すがた復元ふくげんされたれいでもある[20]名古屋なごやじょうも、木造もくぞう復元ふくげん目指めざしている。白石しらいしじょう新発田しばたじょう木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅである。

外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ[編集へんしゅう]
はつ外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ 名古屋なごやじょう

鉄骨てっこつ鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞうなどをもちいて、外観がいかんだけを往時おうじのように再現さいげんしたものをさす。 昭和しょうわ戦後せんごから平成へいせいはじめにかけておお建築けんちくされ、おおくの天守てんしゅ内部ないぶは、最上階さいじょうかい展望てんぼう施設しせつとし、フロアにはしろ歴史れきし資料しりょう郷土きょうど資料しりょうなどを展示てんじ広義こうぎ博物館はくぶつかんとして利用りようされている。このたね天守てんしゅ最初さいしょのものは、1957ねん昭和しょうわ32ねんちくの「名古屋なごやじょう 天守てんしゅ」(愛知あいちけん名古屋なごや)である。

建築けんちく基準きじゅんほう施行しこうれいによって4かい以上いじょう木造もくぞう建築けんちく建設けんせつ筋交すじかい金物かなもの使用しよう、コンクリート基礎きそとする必要ひつようがあるなどの制約せいやく消防しょうぼうほうなど、厳密げんみつ意味いみ天守てんしゅ復元ふくげんすると、耐震たいしん基準きじゅん建物たてもの利用りようかんする安全あんぜんせいたすことはできないため、天守てんしゅ野外やがい復元ふくげんできるだけの資料しりょうそろっていたとしても、鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞう天守てんしゅてざるをえなかった。また、鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞう木造もくぞう建築けんちくすうばい重量じゅうりょうとなり、石垣いしがき礎石そせきなどの本来ほんらい基礎きそではえられないため、天守てんしゅだい補強ほきょうあらたな基礎きそ工事こうじおこなっててられる。

外観がいかん復元ふくげんとはうが、観光かんこうなどの目的もくてきのために細部さいぶ変更へんこうくわえたり、細部さいぶでは建築けんちく基準きじゅんほうそくした結果けっかとしてどうしてもまど規模きぼ場所ばしょ形状けいじょうことなったり、屋根やね具合ぐあいことなる場合ばあいがある。たとえば、戦後せんご外観がいかん復元ふくげんされた「名古屋なごやじょう」や「大垣おおがきじょう」(岐阜ぎふけん大垣おおがき)の天守てんしゅは、戦前せんぜん外観がいかんをほぼ踏襲とうしゅうしているが、展望てんぼうだいとしての目的もくてきかんがえてさい上層じょうそうまど往時おうじよりもややおおきくつくられている。なお「小田原おだわらじょう」(神奈川かながわけん小田原おだわら)のように仕様しようおおきく変更へんこうをしてしまった場合ばあい許容きょよう範囲はんいがいとして復興ふっこう天守てんしゅとすることもある。また、平成へいせい初期しょきごろから文化庁ぶんかちょうさだめる城郭じょうかく史跡しせきにおける当時とうじ建造けんぞうぶつ復元ふくげんかんし、基準きじゅん審査しんさきびしくなっていったこともあり、許容きょよう範囲はんいないであっても近代きんだい材料ざいりょう工法こうほうによる外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ厳密げんみつには復興ふっこう天守てんしゅはいるという見解けんかい存在そんざいする(復興ふっこう天守てんしゅ参照さんしょう)。

復興ふっこう天守てんしゅ[編集へんしゅう]

最古さいこ復興ふっこう天守てんしゅ だい坂城さかき

天守てんしゅがかつて存在そんざいしたことはたしかで、もと場所ばしょ構造こうぞうわず再建さいけんされた天守てんしゅのうち、史料しりょう不足ふそく[ちゅう 5]により規模きぼ意匠いしょう推定すいてい部分ぶぶんがあるものをいう。また、規模きぼ意匠いしょう再建さいけん改変かいへんしてしまったものもふくまれる。

このたね天守てんしゅ最初さいしょのものは、昭和しょうわ18ねんによる失火しっか焼失しょうしつした1910ねん明治めいじ43ねんちくの「岐阜ぎふじょう 天守てんしゅ」(岐阜ぎふけん岐阜ぎふ)である[ちゅう 6][9]現存げんそんする最古さいこ復興ふっこう天守てんしゅは、1931ねん昭和しょうわ6ねんちくの「大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかく」(大阪おおさか大阪おおさか)である。コンクリート建築けんちくによる再建さいけん天守てんしゅとしても最古さいこである(ちなみに戦後せんごはつ復興ふっこう天守てんしゅ1954ねん昭和しょうわ29ねんちくの「岸和田きしわだじょう 天守てんしゅ」(大阪おおさか岸和田きしわだ)である)。

復興ふっこう天守てんしゅ再建さいけん改変かいへんれいとしては、「小倉こくらじょう 天守てんしゅ」(福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう)のように、屋根やね破風はふのないそうとうがたであったものを復興ふっこうさい破風はふ付加ふかして望楼ぼうろうがたとしているものなどがある。またまどおおきさのちがいや、高欄こうらん付加ふかされている「小田原おだわらじょう 天守てんしゅ」や、「岡崎おかざきしろ 天守てんしゅ」(愛知あいちけん岡崎おかざき)などもこれに分類ぶんるいすることがある一方いっぽうで、これらのあやまりを許容きょよう範囲はんいとして外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ分類ぶんるいすることもある[9]

模擬もぎ天守てんしゅ[編集へんしゅう]

模擬もぎ天守てんしゅ郡上こおりかみ八幡やはたじょう

しろ実在じつざいしたが、元々もともと天守てんしゅのなかったしろや、天守てんしゅ存在そんざいしたか不明ふめいしろてられた天守てんしゅのことである。「復興ふっこう模擬もぎ天守てんしゅ」とばれることもある。また、天守てんしゅ存在そんざいしたことは確実かくじつでも、史実しじつもとづかないものでことなる場所ばしょてられた場合ばあいもこの部類ぶるいはいる。三重みえなどもふくむ。外観がいかんは、独自どくじかんがえられてつくられているものもあるが、現存げんそんする「彦根城ひこねじょう」(滋賀しがけん彦根ひこね)や「犬山いぬやましろ」(愛知あいちけん犬山いぬやま)、「高知こうちじょう」(高知こうちけん高知こうち)を手本てほんとしている天守てんしゅおおい。なかには、建築けんちく様式ようしき時代じだい考証こうしょう無視むしした建築けんちくもある。

おも以下いか条件じょうけんてはまる天守てんしゅす。

  • 天守てんしゅ歴史れきしじょう存在そんざいしなかったことが明確めいかくしろあと建設けんせつされたもの
    天守てんしゅ出現しゅつげん以前いぜん中世ちゅうせい城郭じょうかくにある千葉城ちばじょう天守てんしゅ史料しりょうには「しがらみなどがあった」とのみしるされている墨俣すのまたじょうなどがあげられる。
  • 天守てんしゅ存在そんざい不明瞭ふめいりょうしろあと建設けんせつされたもの
    天守てんしゅ移築いちくされたという伝承でんしょうがあるが良質りょうしつ史料しりょうがない今治いまばりじょうなどがあげられる。
  • 天守てんしゅてられなかったしろあと建設けんせつされたもの(伊賀上野いがうえのじょう富山とやまじょうなど)
  • 天守てんしゅ実在じつざいしたが、ことなる場所ばしょ再建さいけんされたもの(伏見ふしみじょう清洲きよすしろ尼崎あまがさきじょうなど)

このたね天守てんしゅはつれいは、「しま本城ほんじょう」(兵庫ひょうごけん洲本すもと・RCづくり1928ねん昭和しょうわ3ねんちく)であり、しま本城ほんじょう天守てんしゅ復元ふくげん天守てんしゅ復興ふっこう天守てんしゅふくめても、現存げんそんするもののなかではもっとふるい。木造もくぞうによる模擬もぎ天守てんしゅとしては、「郡上ぐじょう八幡やはたじょう」(岐阜ぎふけん郡上こおりかみ1933ねん昭和しょうわ8ねん))がもっともふるい。ちなみに戦後せんごはつ模擬もぎ天守てんしゅは、「富山とやまじょう」(富山とやまけん富山とやま・RCづくり1954ねん昭和しょうわ29ねんちく)で、2004ねん平成へいせい16ねんこく登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ)に登録とうろくされた。

天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつ[編集へんしゅう]

安土あづちじょう天主てんしゅした天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつ伊勢いせ安土あづち桃山ももやま文化ぶんかむら

模擬もぎ天守てんしゅ一部いちぶであり、厳密げんみつけられているものではないが、上記じょうき模擬もぎ天守てんしゅ条件じょうけんてはまらない天守てんしゅ意匠いしょうして建設けんせつされたものをいう。一般いっぱんてきに、テーマパークや観光かんこう施設しせつ役所やくしょなどの公共こうきょう施設しせつ学校がっこう博物館はくぶつかん美術館びじゅつかん資料しりょうかん店舗てんぽ個人こじん住宅じゅうたくなど、幅広はばひろ天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつす。天守てんしゅふう建築けんちく天守てんしゅふう建物たてものともばれる(伏見桃山ふしみももやまじょうのように模擬もぎ天守てんしゅ分類ぶんるいすることもある)。

しろ自体じたい実在じつざいしなかったれい[編集へんしゅう]
しろ実在じつざいしたが場所ばしょ意匠いしょう史実しじつ無視むししているれい[編集へんしゅう]
  • 勝山かつやましろ博物館はくぶつかん 
    • 1992ねん完成かんせいかち山城やましろ博物館はくぶつかん歴史れきしじょう勝山かつやましろあとからみなみやく3kmほど、平泉寺へいせんじ白山はくさん神社じんじゃ参道さんどう入口いりくち周囲しゅうい水田すいでんかこまれた場所ばしょ建設けんせつされている。たかさは57.8mで、天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつなかではもっとたかい。この場所ばしょ城跡じょうせきではなく、位置いち形式けいしきともに歴史れきしじょう勝山かちやまじょうとは無関係むかんけいである。歴史れきしじょう勝山かちやまじょう越前えちぜん勝山かつやまはんおも居城きょじょうであった。天守てんしゅだいもあったが、天守てんしゅてられたことはなかった。歴史れきしじょう勝山かちやまじょう明治めいじ初期しょきはいじょう以降いこう戦後せんごまでのうち建物たてもの石垣いしがきとうはほぼすべて撤去てっきょされ、跡地あとち勝山かつやま市役所しやくしょ勝山かつやま市民しみん会館かいかん敷地しきちになっている。城郭じょうかく遺構いこうはなく、しろがあったことをしめいしぶみてられているのみである。勝山かつやま市内しないにはしろ以外いがいにも藩政はんせい時代じだい遺構いこうがほとんどのこっていないため、勝山かつやましろ博物館はくぶつかん運営うんえいする財団ざいだんは、博物館はくぶつかん地域ちいき歴史れきし遺産いさん記憶きおくめるための象徴しょうちょうとしての機能きのうたすべく、博物館はくぶつかんとして天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつ建設けんせつし、「勝山かちやまじょう」のかんしたという。
  • つねそう地域ちいき交流こうりゅうセンター[26]
    • 合併がっぺいまえきゅう石下いしげまち地域ちいき交流こうりゅうセンターとして1992ねん完成かんせい。ホール・展示てんじしつ図書としょしつ展望てんぼうしつなどをそなえた公民館こうみんかんたかさは48.5mあり、勝山かつやましろ博物館はくぶつかんぐ。石下いしげまち当時とうじより別名べつめいとして「豊田とよだしろ」と公称こうしょうしている。豊田とよだじょう実在じつざいしていたが中世ちゅうせい城郭じょうかくであり、天守てんしゅ天守てんしゅだいもなかった。地域ちいき交流こうりゅうセンターの場所ばしょ城跡じょうせきではなく、また周辺しゅうへんにはのような楼閣ろうかくすうむね建設けんせつされているが、いずれも位置いち形式けいしきともに歴史れきしじょう豊田とよだしろとは無関係むかんけいである。歴史れきしじょう豊田とよだじょう東側ひがしがわ小貝川こかいがわ沿いに平安へいあん時代じだい末期まっき以来いらい存在そんざいしていたが、江戸えど時代じだいはじめにはいじょうとなった。その城跡じょうせき水田すいでんとして使用しようされていたが、明治めいじ時代じだいからの小貝川こかいがわ河川かせん改修かいしゅうにより遺構いこうはすべて消滅しょうめつしており、堤防ていぼううえいしぶみ説明せつめいばんっている。石下いしげまち明治めいじ大正たいしょう時代じだい文人ぶんじん長塚ながつかたかし出身しゅっしんであるため、天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつまえにその銅像どうぞうてられている。平成へいせい27ねん9がつ関東かんとう東北とうほく豪雨ごううでは西側にしがわ鬼怒川きぬがわ堤防ていぼうから越水こしみずし、鬼怒川きぬがわ小貝川こかいがわはさまれた地域ちいき交流こうりゅうセンター一帯いったい洪水こうずいとなったが、地域ちいき交流こうりゅうセンターは浸水しんすいまぬかれ、住民じゅうみん天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつ避難ひなんした[27]
  • 田舎館いなかだてむら役場やくば田舎館いなかだてむら文化ぶんか会館かいかん
    • 役場やくばしん庁舎ちょうしゃとして1995ねん完成かんせい役場やくば東側ひがしがわ一帯いったいむら指定してい史跡しせき田舎館いなかだて城址じょうし」であるが、ほとんど水田すいでんになっており、るいがわずかにのこるのみである。城址じょうし水田すいでんんぼアート会場かいじょうになっており、役場やくば城門じょうもんふう建築けんちくぶつから入場にゅうじょうし、天守閣てんしゅかくふう展望てんぼうだいから観覧かんらんする。歴史れきしじょう田舎館いなかだてじょう中世ちゅうせい城郭じょうかくであり、天守てんしゅ天守てんしゅだいもなかった。田舎館いなかだてじょう自体じたいたてたけし年間ねんかんには存在そんざいしていたことが判明はんめいしており、天正てんしょう年間ねんかんほろぼされてはいじょうとなっている。
  • 下田しもだじょう美術館びじゅつかん
    • 1965ねんに「モリシタ産業さんぎょう」が建設けんせつし、観光かんこう施設しせつとして経営けいえいしていたが、1984ねん倒産とうさん経営けいえいしゃわたるも、2008ねん11月閉鎖へいさ秘宝ひほうかんるいであった。建物たてもの閉鎖へいさ維持いじされている。姿すがたさん山腹さんぷくてられており、位置いち形式けいしきともに歴史れきしじょう下田しもだじょうとは無関係むかんけいである。歴史れきしじょう下田しもだじょう鵜島うじまじょうともしょうし、下田しもだこう南西なんせいがわみさきうえにあった。本丸ほんまる北側きたがわだん天守てんしゅ曲輪くるわがあったが、江戸えど幕府ばくふ成立せいりつまえはいじょうとなっており、天守てんしゅてられたことはなかった。歴史れきしじょう下田しもだじょうあと下田しもだ公園こうえん城山しろやま公園こうえん)となっており、曲輪くるわるい空堀からぼりなどの遺構いこうがある。
  • 佐和山さわやま遊園ゆうえん
    • 石田いしだ三成みつなり敬愛けいあいする滋賀しがけん彦根ひこね実業じつぎょう三成みなりテーマパーク構想こうそうし、佐和山さわやまふもと国道こくどう8ごう沿いに1976ねん着工ちゃっこう天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつ佐和さわ山城やましろ天守閣てんしゅかく」や「佐和さわ山城やましろ城門じょうもん」などを建設けんせつした。かつての佐和山さわやまには三成みなり居城きょじょうであった歴史れきしじょう佐和さわ山城やましろ存在そんざいしており、そう(あるいはさんそう)の天守てんしゅがあった、との記録きろくのこるが、その外観がいかん意匠いしょうとうつたわっていない。佐和山さわやま遊園ゆうえん所在地しょざいち城跡じょうせきではなく、天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつ位置いち形式けいしきともに歴史れきしじょう佐和山さわやまじょうとは無関係むかんけいである。佐和山さわやま遊園ゆうえん一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん佐和山さわやま三成みなりかい[28]なる団体だんたいにより一部いちぶ施設しせつのみ運営うんえいされていたものの、完成かんせいのまま開園かいえんいたらず廃墟はいきょ2017ねん閉鎖へいさされた。すで土地とちには「売却ばいきゃく」の看板かんばんてられており、天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつをはじめとするすべての施設しせつ撤去てっきょ解体かいたいされるという。関ヶ原せきがはらたたかのち、このふうじられた井伊いい彦根城ひこねじょう築城ちくじょう歴史れきしじょう佐和山さわやまじょうやぶしろされ、はいじょうとなった。石垣いしがきいしちくざいなど彦根城ひこねじょうさい利用りようされたとみられるものがあるが、佐和山さわやまじょう遺構いこう自体じたいはほとんどのこっていない[29]。とりわけ本丸ほんまる完全かんぜんやぶ却されたといい[30]天守てんしゅだいあともない。
  • 天神山てんじんやまじょう
    • 歴史れきしじょう天神山てんじんやまじょう小田原おだわら征伐せいばつおりはいじょうとなっている。天守てんしゅ天守てんしゅだいもなかった。1970ねん観光かんこう目的もくてきとして本丸ほんまるあと展望てんぼうだい資料しりょうかんとして天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつ模擬もぎじゅう)やはしなどが建設けんせつされたが、採算さいさんがあわず運営うんえい会社かいしゃ倒産とうさん。そのながらく天守閣てんしゅかくふう建築けんちくぶつなども放置ほうちされ廃墟はいきょしている。中世ちゅうせい以来いらいるい空堀からぼりなどの遺構いこうのこっているものの、城跡じょうせきいた山道さんどうてており、史跡しせきとしてはまった整備せいびされていない。
  • 広島ひろしまじょう木造もくぞう仮設かせつ天守閣てんしゅかく
    • だい6かい国民こくみん体育たいいく大会たいかい協賛きょうさん事業じぎょう体育たいいく文化ぶんか博覧はくらんかい(1951ねん3がつ25にちから5がつ27にち)にあわせて、1951ねんてられた[31]館内かんない郷土きょうどかんとして使つかわれ、展望てんぼうだいもうけられていた。秋季しゅうき大会たいかい終了しゅうりょうまもなく解体かいたいされたが、1958ねん現在げんざい外観がいかん復元ふくげんされた天守てんしゅてられた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 現在げんざい天守てんしゅ改築かいちくそうとうがたとなったが創建そうけん当時とうじ望楼ぼうろうがたであった。
  2. ^ 弘前ひろさきじょう辰巳たつみ現在げんざい、こけら葺の屋根やねうえ銅板どうばんをかぶせてある。
  3. ^ 1990ねん 国際こくさい記念きねんぶつ国際こくさい会議かいぎでの採択さいたく
  4. ^ 工法こうほうつくかた。構法:構造こうぞう仕組しくみ。
  5. ^ 大阪城おおさかじょう大多喜おおたきじょうのように、天守てんしゅ絵図えず以外いがい史料しりょうがないことがおお
  6. ^ 岐阜ぎふじょう天守てんしゅ移築いちくしたものとつたわる加納かのうじょうさんかい絵図えずをもとに長良ながらきょうざいもちいて石垣いしがきじょう建築けんちくしたもの

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 西にしたに恭弘やすひろ監修かんしゅう、枻出版しゅっぱんしゃへんさい入門にゅうもん オトナのためのしろ』(別冊べっさつDiscovery Japan)枻出版しゅっぱんしゃ、2015ねんISBN 978-4-7779-3660-1
  2. ^ しろからの手紙てがみvol.29
  3. ^ a b c d 三浦みうら正幸まさゆきしろのつくり方図ほうずてん小学館しょうがくかん、 2005ねんISBN 4-09-626091-6
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  5. ^ a b 城戸きどひさしろ民家みんか毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1972ねん
  6. ^ 田中たなか義成よしなり天守閣てんしゅかくこう」『史学しがくかい雑誌ざっししん年号ねんごう、1890ねん
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  9. ^ a b c d e 西にしたに恭弘やすひろ監修かんしゅう復原ふくげん 名城めいじょう天守てんしゅ学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, 1996ねん,ISBN 4-05-500160-6
  10. ^ 内藤ないとうあきら復元ふくげん安土あづちじょう講談社こうだんしゃ、 2006ねん
  11. ^ NHKスペシャル「安土あづちじょう」プロジェクト 『信長のぶながゆめ安土あづちじょう発掘はっくつ
  12. ^ 西にしたに恭弘やすひろ定本ていほん 日本にっぽん城郭じょうかく事典じてん
  13. ^ 西にしたに恭弘やすひろ監修かんしゅう日本にっぽんしろ世界文化社せかいぶんかしゃ、1997ねん
  14. ^ a b c 三浦みうら正幸まさゆき監修かんしゅう『【決定けっていばん図解ずかい天守てんしゅのすべて』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2007ねんISBN 978-4-05-604634-2
  15. ^ 天文てんもん12ねん1543ねん)にしるされた『細川ほそかわ両家りょうけ』のえいただし18ねん1521ねん2がつ17にちじょう
  16. ^ 木戸きどまさ寿ひさししろから秀吉ひでよし遠方えんぽう支配しはい石井いしい正明まさあきほか執筆しっぴつ秀吉ひでよししろ戦略せんりゃく成美せいびどう、1998ねん
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  18. ^ 全国ぜんこく城郭じょうかく管理かんりしゃ協議きょうぎかいへんしろのしおり』全国ぜんこく城郭じょうかく管理かんりしゃ協議きょうぎかい 2005ねん
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  20. ^ a b 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃへん歴史れきしぐんぞうシリーズ よみがえる 日本にっぽんしろ 30』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、 2006ねん
  21. ^ 掛川かけがわ商工しょうこう観光かんこう発行はっこう掛川かけがわじょうパンフレット」
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  28. ^ 公益こうえき法人ほうじんとう詳細しょうさい 法人ほうじんコード:A024887 法人ほうじん名称めいしょう一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん佐和山さわやま三成みなりかい 法人ほうじん番号ばんごう(JCN)9160005004889 「事業じぎょう概要がいよう(3)佐和山さわやま遊園ゆうえん工作こうさくぶつ展示てんじ施設しせつ)の管理かんり運営うんえいかんする活動かつどう」とある。公益こうえき法人ほうじんデータベース 総務そうむしょう
  29. ^ 痕跡こんせき一掃いっそう居城いじろせしめ」破壊はかい発掘はっくつ裏付うらづけ”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2016ねん3がつ25にち). https://mainichi.jp/articles/20160325/k00/00m/040/160000c 2017ねん7がつ4にち閲覧えつらん 
  30. ^ 石田いしだ三成みつなり佐和さわ山城やましろ徳川とくがわ破壊はかいくされていた 彦根ひこね教委きょうい調査ちょうさあきらかに産経さんけいWEST、2016ねん3がつ26にち
  31. ^ しろうや!広島ひろしまじょう だい15ごう - 広島ひろしまじょう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]