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和歌山わかやまじょう

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和歌山わかやまじょう
和歌山わかやまけん
大天守
だい天守てんしゅ
別名べつめい とらふくじょう竹垣たけがきじょう
城郭じょうかく構造こうぞう はしごくるわしき平山ひらやまじょう
天守てんしゅ構造こうぞう 連立れんりつしきそうとうがた3じゅう3かい1605ねん/1619ねんちく1850ねんさい
外観がいかん復元ふくげん1958ねんさい
築城ちくじょうぬし 豊臣とよとみ秀長ひでなが
築城ちくじょうねん 1585ねん天正てんしょう13ねん
おも改修かいしゅうしゃ 浅野あさの幸長よしなが徳川とくがわ頼宣よりのぶ
おも城主じょうしゅ 豊臣とよとみ浅野あさの徳川とくがわ
はいじょうねん 1871ねん明治めいじ4ねん
遺構いこう もんへい庭園ていえん石垣いしがきほり
指定してい文化財ぶんかざい くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい岡口おかぐちもんぞくへい
くに史跡しせき
くに名勝めいしょう西にしまる庭園ていえん
和歌山わかやま文化財ぶんかざい追廻おいまわしもん
再建さいけん造物ぞうぶつ 天守てんしゅもんはし
位置いち 北緯ほくい3413ふん39.46びょう 東経とうけい13510ふん17.84びょう / 北緯ほくい34.2276278 東経とうけい135.1716222 / 34.2276278; 135.1716222座標ざひょう: 北緯ほくい3413ふん39.46びょう 東経とうけい13510ふん17.84びょう / 北緯ほくい34.2276278 東経とうけい135.1716222 / 34.2276278; 135.1716222
地図
地図ちず
和歌山城の位置(和歌山県内)
和歌山城
和歌山わかやまじょう
和歌山城の位置(日本内)
和歌山城
和歌山わかやまじょう
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天守てんしゅからもん左上ひだりうえ)と右上みぎうえ)をのぞ

和歌山わかやまじょう(わかやまじょう)は、和歌山わかやまけん和歌山わかやま一番丁いちばんちょうにある日本にっぽんしろ平山ひらやましろ)。徳川とくがわ御三家ごさんけひと紀州きしゅうはん紀州きしゅう徳川とくがわ居城きょじょうである。城跡じょうせきくに史跡しせき指定していされている。

概要がいよう

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和歌山わかやまじょう和歌山わかやま中心ちゅうしん位置いちする標高ひょうこう48.9mのとら伏山ふしやま(とらふすやま)山頂さんちょう建造けんぞうされ、北部ほくぶながれるかわ天然てんねんほりとする。本丸ほんまる北側きたがわまるはいされ、そのそとおおきくさんまるはいされた、はしごくるわしき平山ひらやましろである。

徳川とくがわ頼宣よりのぶ1621ねん元和がんわ7ねん)よりしろだい改修かいしゅう城下町じょうかまち拡張かくちょうはじめ、計画けいかくでは完成かんせいよりさらだい規模きぼしろかまえになる予定よていであったが、だい規模きぼ改修かいしゅうであったため幕府ばくふより謀反むほん嫌疑けんぎをかけられるほどであった。しかし、家老がろう安藤あんどう直次なおじ弁明べんめいことなきをた。また、外堀そとぼり拡張かくちょうしてそうかまにしようとしたが、これも幕府ばくふより嫌疑けんぎをかけられ中止ちゅうしさせられてしまったため、ほりとめ地名ちめいのこっている。すう火災かさいったが、そのたび再建さいけんされた。現在げんざい城跡じょうせきとして現存げんそんしているのは最盛さいせいの4ぶんの1ほどの面積めんせきである。

その特徴とくちょうとしては時代じだいによってことなる石垣いしがきかたなどがある。それに、豊臣とよとみ浅野あさの時代じだい石垣いしがきには刻印こくいんされた石垣いしがきせきがある。模様もようやく170種類しゅるい、2,100以上いじょういし確認かくにんされているが、その大半たいはん和泉いずみすなせきである。

明治維新めいじいしん本丸ほんまる天守てんしゅぐんのこったが太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっき和歌山大わかやまだい空襲くうしゅう焼失しょうしつする。 現在げんざいは、本丸ほんまるまる市立しりつ和歌山わかやまじょう公園こうえんとなっており、本丸ほんまる南西なんせいには和歌山わかやまけん護国ごこく神社じんじゃがあり、みなみまるには和歌山わかやまじょう公園こうえん動物どうぶつえんがある。おもさんまるあととうには和歌山わかやまけん庁舎ちょうしゃ和歌山わかやま市役所しやくしょ和歌山わかやま消防局しょうぼうきょく和歌山わかやま地方裁判所ちほうさいばんしょ和歌山わかやま家庭かてい裁判所さいばんしょ和歌山わかやま地方ちほう検察庁けんさつちょうをはじめ公的こうてき機関きかん学校がっこう商業しょうぎょう施設しせつ、オフィスがい和歌山わかやま中央ちゅうおう郵便ゆうびんきょく県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん県立けんりつ博物館はくぶつかんなどがある。

遺構いこうとして石垣いしがきほりをはじめ、公園こうえんないには岡口おかぐちもん土塀どべい追廻おいまわしもん現存げんそんしている。なかでも岡口おかぐちもん土塀どべいくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、まるにある大楠おおくす和歌山わかやまけん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつである。また、大小だいしょう天守てんしゅぐんとそれにつづもん大手門おおてもん一之かずゆききょう外観がいかん復元ふくげんされてあるが、老朽ろうきゅうにより今後こんご大小だいしょう天守てんしゅぐんまる御殿ごてん木造もくぞう復元ふくげんする予定よていである。

歴史れきし沿革えんかく

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安土あづち桃山ももやま時代じだい

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豊臣とよとみ秀吉ひでよしおとうと豊臣とよとみ秀長ひでながは、1585ねん天正てんしょう13ねん)の紀州きしゅう征伐せいばつふく将軍しょうぐんとしてさんじんし、平定へいてい紀伊きい和泉いずみの2ヶ国かこく加増かぞうされた。当時とうじは「若山わかやま」とばれたこの秀吉ひでよし築城ちくじょうめいじ、みずから「吹上ふきあげみね[1]しろ選定せんてい縄張なわばりをおこなった。普請ふしん奉行ぶぎょう藤堂とうどう高虎たかとら補佐ほさやく羽田はた正親まさちか横浜よこはまりょうけいにんじ、1ねん完成かんせいさせた。このさいに「若山わかやま」が「和歌山わかやま」とあらためられている。

1586ねん天正てんしょう14ねん)、桑山くわやま重晴しげはるに3まんせきあた城代しろだいえた。重晴しげはる本丸ほんまる中心ちゅうしん手直てなおしをおこなった。1596ねん慶長けいちょう元年がんねん重晴しげはる隠居いんきょともなまごいちはれ城代じょうだいいだ。

江戸えど時代じだい

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紀伊きい国名こくめいしょ図会ずえ大手おおて御門みかど
紀伊きい國名こくめいしょ図会ずえ吹上ふきあげ御門みかど周辺しゅうへん

1600ねん慶長けいちょう5ねん)、関ヶ原せきがはらたたかのちひがしぐんぞくした桑山くわやまいちはれ正式せいしき紀伊きい和歌山わかやまに2まんせきあたえられたが、まもなくして大和やまと新庄しんじょうはんてんふうとなった。そのおなじくひがしぐんぞくした浅野あさの幸長よしなが軍功ぐんこうにより37まん6せんせきあたえられ紀州きしゅう藩主はんしゅとなり入城にゅうじょうした。幸長よしながつづしろ改修かいしゅうおこなっている。1605ねん慶長けいちょう10ねんごろ下見したみ板張いたば天守てんしゅてられた[2]。その長晟ながあきらるいから石垣いしがき改修かいしゅうした。

1619ねん元和がんわ5ねん)、浅野あさの改易かいえきとなった福島ふくしま正則まさのりのち広島ひろしまはん加増かぞうてんふうとなった。わって徳川とくがわ家康いえやすじゅうなん頼宣よりのぶが55まん5せんせき入城にゅうじょうし、南海なんかいの鎮となる御三家ごさんけ紀州きしゅう徳川とくがわ成立せいりつした。頼宣よりのぶあにの2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただよりぎん5せんかん受領じゅりょうし、これを元手もとで1621ねん元和がんわ7ねん)よりしろ改修かいしゅう城下町じょうかまち拡張かくちょう開始かいしした。しかし、この改修かいしゅうだい規模きぼであったため幕府ばくふより謀反むほん嫌疑けんぎをかけられるほどであった[3]

1655ねんあかりれき元年がんねん)11月、西にしまる隣接りんせつする家臣かしん屋敷やしきより出火しゅっか西にしまるまる延焼えんしょうした。1813ねん文化ぶんか10ねん)には西にしまる大奥おおおくより出火しゅっか西にしまる御殿ごてん全焼ぜんしょうした。

1846ねんひろし3ねん)7がつ26にち雷雨らいうがあり、天守てんしゅきょく落雷らくらい御殿ごてんのぞ大小だいしょう天守てんしゅなど本丸ほんまる主要しゅよう建造けんぞうぶつ全焼ぜんしょうした。当時とうじ武家ぶけしょ法度はっとでは天守てんしゅ再建さいけん禁止きんしされていたが、御三家ごさんけという家格かかくにより特別とくべつ再建さいけん許可きょかされ、1850ねんよしみなが3ねん)に大小だいしょう天守てんしゅとう再建さいけんされた。

きん現代げんだい

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1871ねん明治めいじ4ねん)、全国ぜんこく城郭じょうかく存廃そんぱい処分しょぶんなみ兵営へいえいとうせん定方さだかたはいじょうれい)によりはいじょうとなり、おおくの建造けんぞうぶつ解体かいたいもしくは移築いちくされた。まる御殿ごてんは、1885ねん明治めいじ18ねん)にだい坂城さかき移築いちくされ、1931ねん昭和しょうわ6ねん)より大阪おおさか迎賓館げいひんかん紀州きしゅう御殿ごてん)として使用しようされ、戦後せんごべいぐん施設しせつとして使用しようちゅう1947ねん昭和しょうわ22ねん失火しっかにより焼失しょうしつした。

1901ねん明治めいじ34ねん)に本丸ほんまるまる一帯いったいが、和歌山わかやま公園こうえんとして一般いっぱん開放かいほうされた。

1908ねん明治めいじ41ねん城内きうちまる和歌山わかやま県立けんりつ図書館としょかん開館かいかん

1931ねん昭和しょうわ6ねん)にくに史跡しせき指定していされ、1935ねん昭和しょうわ10ねん)には、天守てんしゅなど11むね国宝こくほう保存ほぞんほうもとづく国宝こくほう指定していされた。しかし、1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつ9にちアメリカぐんによるだい規模きぼ戦略せんりゃく爆撃ばくげき和歌山大わかやまだい空襲くうしゅう)により天守てんしゅなどの指定してい建造けんぞうぶつ11むねすべてを焼失しょうしつした。 1947ねん昭和しょうわ22ねん)、昭和しょうわ天皇てんのうあと行幸ぎょうこう昭和しょうわ天皇てんのう戦後せんご巡幸じゅんこう[4]

1957ねん昭和しょうわ32ねん)、岡口おかぐちもんとそれにつづ土塀どべいくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。よく1958ねん昭和しょうわ33ねん)に天守てんしゅぐん東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ藤岡ふじおか通夫みちお指示しじけ、鉄筋てっきんコンクリートにより再建さいけんされた。

1983ねん昭和しょうわ58ねん)には1909ねん明治めいじ42ねん)に老朽ろうきゅう崩壊ほうかいした大手門おおてもん一之かずゆききょう復元ふくげんされた。

2006ねん平成へいせい18ねん)4がつまる西にしまるむすんでいたとされるはし廊下ろうか復元ふくげん工事こうじ竣工しゅんこうした。また、同年どうねん4がつ6にち日本にっぽん城郭じょうかく協会きょうかいから日本にっぽん100名城めいじょう(62ばん)に認定にんていされた。

2010ねん平成へいせい22ねん)6がつから、2011ねん平成へいせい23ねん)2がつにかけて、だい天守てんしゅ(1そう)や天守てんしゅ曲輪くるわ一部いちぶたいし、クリーニングおよさい塗装とそう実施じっしした。

2019ねん平成へいせい31ねん)3がつ8にち都市とし公園こうえんとしての名称めいしょう和歌山わかやま公園こうえんから和歌山わかやまじょう公園こうえん変更へんこうされた[5][6]。これにともない、同年どうねん4がつ1にち園内えんない動物どうぶつえん和歌山わかやまじょう公園こうえん動物どうぶつえん改称かいしょうされた[7]

構造こうぞう

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本丸ほんまる

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本丸ほんまる御殿ごてんあと
天守てんしゅ曲輪くるわ天守てんしゅくすのきもん
天守てんしゅ曲輪くるわ外壁がいへき
連立れんりつしき天守てんしゅ構造こうぞう

本丸ほんまる御殿ごてんは、とら伏山ふしやま頂上ちょうじょう付近ふきんにあったため、藩主はんしゅまる御殿ごてんむようになっていった。初代しょだい徳川とくがわ頼宣よりのぶ正室せいしつようりんいん加藤かとう清正きよまさむすめ)、14だい徳川とくがわ茂承もちつぐ正室せいしつりんみや則子のりこ女王じょおう伏見ふしみみや邦家ほうか親王しんのうむすめ)が邸宅ていたくさだめた。また、りんみや則子のりこ女王じょおうんだため、みやさま御殿ごてんともしょうされた。

1621ねん元和がんわ7ねん)につくられた本丸ほんまる庭園ていえんには、宝船たからぶねしたななぶくにわがあったが、給水きゅうすいじょう設置せっちともない、1923ねん大正たいしょう12ねん)にまつまる移築いちくされた。

天守てんしゅ曲輪くるわ

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天守てんしゅきょく菱形ひしがたにちかい平面へいめんをしており、基壇きだん面積めんせきは2,640m2ある。

  • だい天守てんしゅ
  • しょう天守てんしゅ
  • いぬい
  • もん
  • 天守てんしゅもんくすのきもん) - 戦災せんさい焼失しょうしつした天守てんしゅ曲輪くるわ唯一ゆいいつ木造もくぞう復元ふくげんされた。
  • 台所だいどころ

天守てんしゅ

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天守てんしゅだい天守てんしゅしょう天守てんしゅ連結れんけつしきてられ、さら天守てんしゅぐんと2むねぐんわたりによってつらねられた連立れんりつしきばれるものである。姫路城ひめじじょう松山まつやまじょうならんで日本にっぽんさんだい連立れんりつしき平山ひらやまじょうひとつにかぞえられている。

1850ねんよしみひさし3ねん再建さいけん当時とうじだい天守てんしゅは3じゅう3かいで、天守てんしゅだい平面へいめん菱形ひしがたであるため、はつおも比翼ひよく入母屋いりもや破風はふもちいて2じゅう以上いじょう平面へいめんととのえている。南面なんめん入母屋いりもや出窓でまどがあり、はつじゅうには曲線きょくせんてきいしとしけられていた。焼失しょうしつした天守てんしゅ創建そうけんねん不明ふめいであるが、それについては浅野あさの幸長よしなが創建そうけんしたとするせつ1600ねん慶長けいちょう5ねんちく[1]頼宣よりのぶ創建そうけんしたとするせつ1619ねん元和がんわ5ねんちく[8]がある。創建そうけんは、下見したみ板張いたばりの壁面へきめんであったとかんがえられている[2]

1847ねんひろし4ねん)に焼失しょうしつしたさいだい天守てんしゅを5じゅうにするあんされ、天守てんしゅ雛形ひながた木組きぐ模型もけい)と図面ずめん作成さくせいされたが、幕府ばくふへの遠慮えんりょ財政難ざいせいなんのため、構造こうぞう先代せんだい天守てんしゅ踏襲とうしゅう外部がいぶかべ仕上しあげを下見したみ板張いたばりからしろ漆喰しっくいそうぬりめへ意匠いしょうえるにとどまったものとみられている[1]

天守てんしゅ国宝こくほうきゅう国宝こくほう)に指定していされていたが、和歌山大わかやまだい空襲くうしゅう焼失しょうしつし、現在げんざいのものは、1850ねんよしみなが3ねん)の天守てんしゅ再建さいけん大工だいく棟梁とうりょう水島みずしま平次郎へいじろう子孫しそんである栄三郎えいさぶろう所蔵しょぞうしていた天守てんしゅと『天守てんしゅ普請ふしん覚張かくはり』を参考さんこうにして1958ねん昭和しょうわ33ねん)に再建さいけんされたものである。復元ふくげんには東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ藤岡ふじおか通夫みちお指示しじけ、鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞうによる外観がいかん復元ふくげんとされた。復元ふくげん設計せっけいにあたり、参考さんこうにされていた文献ぶんけんには天守てんしゅぐんたかさが記入きにゅうされていなかったため、焼失しょうしつまえ撮影さつえいされた写真しゃしんうつほか建造けんぞうぶつとの高低こうていから天守てんしゅぐんたかさが算出さんしゅつされた。

まる

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初代しょだい頼宣よりのぶと14だい茂承もちつぐ以外いがい藩主はんしゅは、まる御殿ごてんんでいた。また、まる御殿ごてん江戸城えどじょう本丸ほんまる御殿ごてんしていたため、ひょう中奥なかおく大奥おおおくかれていた。また、大奥おおおくがあるのは、江戸城えどじょう和歌山わかやまじょう名古屋なごやじょうのみである。ひょう紀州きしゅうはんはんちょう中奥なかおく藩主はんしゅ執務しつむおこな普段ふだん生活せいかつ空間くうかん大奥おおおく藩主はんしゅ正室せいしつ側室そくしつたちの居所きょしょとして機能きのうした。現在げんざいまる御殿ごてんひょう中奥なかおく相当そうとうする場所ばしょ広場ひろばとして開放かいほうされ、大奥おおおく相当そうとうする場所ばしょ芝生しばふ養生ようじょうされ整備せいびされている。

西にしまる

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西之にしのまる庭園ていえん紅葉こうようけい庭園ていえんとんびぎょかく
はし廊下ろうか
まつまるだか石垣いしがき
重要じゅうよう文化財ぶんかざい岡口おかぐちもん
追廻おいまわしもん

和歌山わかやま城西じょうさいまる庭園ていえんは、江戸えど時代じだい初期しょき西にしまる御殿ごてんとともにつくられた日本にっぽん庭園ていえんで、紅葉こうようけい庭園ていえんともばれる藩主はんしゅ隠居いんきょしょであった。しろ北西ほくせいふもとという地形ちけいかし、とんびぎょかくだんたきもうけられている。しかし、戦災せんさい天守てんしゅなどとともに焼失しょうしつしその図面ずめんなどをもとにして1972ねん昭和しょうわ47ねん)にとんびぎょかく再建さいけんされたが、はし廊下ろうか復元ふくげんさいふたた庭園ていえんいけなどの調査ちょうさおこなった。それによると、とんびぎょかく実際じっさいには現在げんざい場所ばしょではなく、いけ中央ちゅうおう付近ふきんにあったと推測すいそくされている。また、松下まつした幸之助こうのすけから茶室ちゃしつべに松庵しょうあん寄贈きぞうされている。西にしまる庭園ていえんは、江戸えど時代じだい初期しょき遺構いこうのこ大名だいみょう庭園ていえんとして、くに名勝めいしょう指定していされている。

また、づるけい門跡もんぜき浅野あさの時代じだいづるけい庭園ていえんあとがある。西にしまる庭園ていえんまえ山吹やまぶきだには、徳川とくがわ時代じだいまでは水堀みずほりであった。

はし廊下ろうか

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藩主はんしゅ生活せいかつしているまると、庭園ていえんがある西にしまるをつなげる傾斜けいしゃのあるはし藩主はんしゅ移動いどうするのをづかれないために、かべづけになっていた。江戸えど時代じだい図面ずめんをもとに木造もくぞう復元ふくげんされており、実際じっさいとおることができる。

さんまる

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紀州きしゅうはん重臣じゅうしんである水野みずの安藤あんどう三浦みうらなどの上流じょうりゅう藩士はんし邸宅ていたくならんでいた。廃藩置県はいはんちけんのちは、公的こうてき機関きかん学校がっこう商業しょうぎょう施設しせつ、オフィスがいになっている。

御蔵おぐらまる

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東堀ひがしほり沿いの石垣いしがきには、かつて多聞たもんてられていたため、しろへい昇降しょうこうよう長大ちょうだい雁木がんぎのこっている。

まつまる

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まつまるだいから初代しょだい頼宣よりのぶ紀州きしゅう富士ふじ龍門山りゅうもんざん)をながめ、故郷こきょう駿河するがこくしのんだといわれている。

城門じょうもん

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岡口おかぐちもん
浅野あさの時代じだいには大手おおてもんであったが、浅野あさの時代じだい後期こうき大手おおてもんから搦手からめてもんとして修復しゅうふくされた。1621ねん元和がんわ7ねん)に徳川とくがわ頼宣よりのぶおこなったしろだい改修かいしゅうさい再建さいけんされた櫓門やぐらもん現存げんそんしている。現在げんざいもん切妻きりづま屋根やねであるが当初とうしょは、もん両側りょうがわぞくがあった。
追廻おいまわしもん
すなまる乗馬じょうば調練ちょうれんじょう門外もんがいおうぎしば馬場ばばむすもんである。うままわしたことからそうばれた。姫路城ひめじじょうなどにられる旧型きゅうがた高麗こうらいもんである[9]1984ねん昭和しょうわ59ねん)からよく1985ねん昭和しょうわ60ねん)にかけての解体かいたい修理しゅうりにより、江戸えど時代じだいにはしゅられていたことがかり、赤門あかもんであったとられている。
赤門あかもん御守おまもり殿どのさん以上いじょう大名だいみょうとついだ徳川とくがわ将軍家しょうぐんけむすめ)の御殿ごてんもんとしててられる、または御守おまもり殿どのむかえたりにもんあかられたものをいうが、和歌山わかやまじょう場合ばあいまるの「御座ぎょざあいだ」(藩主はんしゅ居所きょしょ)からたとき裏鬼門うらきもんひつじさる南西なんせい))の方角ほうがくたるため、魔除まよけけのためにあかられたと推測すいそくされている。
京橋きょうばしもん
大手門おおてもん一之かずゆき橋門はしかど)からきたびたところにあった櫓門やぐらもん北堀きたほりげん堀川ほりかわ)にめんしており、物見ものみもあったとされる。京橋きょうばしがわ石碑せきひつ。
本町ほんちょうもん
京橋きょうばしからさらにきたにあり、真田さなだほりめんしたところにあった櫓門やぐらもん城下町じょうかまちさかいとしていた。参勤交代さんきんこうたいさいかならずこのもんとおったという。
不明ふめいもん
「あかずのもん」ともわれ、きゅうようする場合ばあいのみひらかれ、通常つうじょうじられたままであったという。和歌山わかやま城南しろみなみがわさんねんざかめんした場所ばしょにあり、現在げんざい和歌山わかやまじょう駐車ちゅうしゃじょうのゲートがかれている。
吹上ふきあげもん
きゅうちゅう消防署しょうぼうしょまえにあったとされるもん西側にしがわには吹上ふきあげ御門みかどもあったとされるが明治めいじてられた。現在げんざい鳥居とりいっている。

石垣いしがき

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和歌山わかやまじょう石垣いしがき野面のづらみ)
和歌山わかやまじょう石垣いしがき打込うちこみハギ)

時代じだいにより石材せきざいかた技法ぎほうことなっている。 豊臣とよとみ秀長ひでなが時代じだい緑色みどりいろ片岩かたいわ中心ちゅうしんとした自然しぜんせきしてそのままんだ「野面のづらみ」の石垣いしがきつくられた。 浅野あさの幸長よしなが時代じだいには、友ヶ島ともがしまとう石切場いしきりば整備せいびし、いしいて加工かこうしはぎわせてむ「打込うちこみハギ」の石垣いしがきつくられた。 徳川とくがわには熊野くまの花崗みかげまだらがんもちいて、切石きりいし精密せいみつんだ「切込きりこみハギ」の石垣いしがきつくられた。[10]

文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 岡口おかぐちもん土塀どべい

指定してい文化財ぶんかざい

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  • 追廻おいまわしもん

くに指定してい史跡しせき

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  • 和歌山わかやまじょう

くに指定してい名勝めいしょう

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  • 和歌山わかやま城西じょうさいまる庭園ていえん紅葉こうようけい庭園ていえん

けん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ

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  • いちはしくすのきいつき

焼失しょうしつした文化財ぶんかざい

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以下いか建造けんぞうぶつは、国宝こくほう保存ほぞんほうもとづく国宝こくほう文化財ぶんかざい保護ほごほうにおける「重要じゅうよう文化財ぶんかざい」に相当そうとう)に指定していされていたが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつ9にち戦災せんさい焼失しょうしつした[11]

  • だい天守てんしゅ
  • しょう天守てんしゅ
  • 北西ほくせいすみ
  • 西南せいなんすみ
  • くすのきもん櫓門やぐらもん
  • 北東ほくとう多門たもんたんそう
  • 北西ほくせい多門たもんたんそう
  • 西にし多門たもんたんそう
  • 南多門みなみたもんたんそう
  • ひがし倉庫そうこ
  • 西にし倉庫そうこ

ギャラリー

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現地げんち情報じょうほう

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交通こうつうアクセス

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2012年度ねんどから高齢こうれいしゃあし不自由ふじゆう障害しょうがいしゃけに、天守てんしゅくちまで電動でんどうくるまいす案内あんないするスタッフを常駐じょうちゅうさせる[12]

周辺しゅうへん

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その

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姉妹しまいじょう

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松下まつした(パナソニック)との関係かんけい

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和歌山わかやまじょう再建さいけんさい松下まつした幸之助こうのすけ和歌山わかやま出身しゅっしん)はもっと多額たがく寄附きふをした。がわでも松下まつした寄附きふ期待きたいしており、「まる」の復原ふくげん依頼いらいしようとしていたが、「寄付きふをするので天守閣てんしゅかくナショナル看板かんばんかかげさせてほしい」と冗談じょうだんまじえて和歌山わかやま打診だしんしたという。

時代じだいげき童謡どうよう

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水戸黄門みとこうもん』、『あばれんぼう将軍しょうぐん』、『影武者かげむしゃ徳川とくがわ家康いえやす』、『徳川とくがわ風雲ふううんろく はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむね』、『天下てんか騒乱そうらん徳川とくがわさんだい陰謀いんぼう』、『逃亡とうぼうしゃおりん』などの時代じだいげき中心ちゅうしん撮影さつえいおこなわれている。なかでも徳川とくがわ吉宗よしむねかんするものはおおい。

紀州きしゅう殿様とのさまうたった童謡どうようまりと殿様とのさま』(作詞さくし西条さいじょう八十やそ作曲さっきょく中山なかやま晋平しんぺい)が城内じょうないのチャイムに使つかわれており、はちじゅう直筆じきひつ歌碑かひ天守てんしゅぜん広場ひろば設置せっちされている。再建さいけん50周年しゅうねん城郭じょうかく整備せいび基金ききん寄付きふ証書しょうしょとしても発行はっこうされた[13]

チャイム

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『まりと殿様とのさま』のチャイムは午前ごぜん7午前ごぜん9正午しょうご午後ごご3午後ごご5午後ごご9、の1にちけい6かいらされる。午後ごご9のみドボルザーク交響こうきょうきょくだい9ばんしん世界せかいより」のだい2楽章がくしょう家路いえじをアレンジしたチャイムである。この「家路いえじ」チャイムはかつて午後ごご10らされていたが、近隣きんりん住民じゅうみんからの苦情くじょうともない2010ねんごろさかいりやめた。2018ねん5がつ8にちより午後ごご9チャイムの「まりと殿様とのさま」を代替だいたいするかたち復活ふっかつした。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西にしたに恭弘やすひろ へん定本ていほん 日本にっぽん城郭じょうかく事典じてん秋田あきた書店しょてん、2000ねん、279-280ぺーじISBN 4-253-00375-3 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 加藤かとうさとしぶん執筆しっぴつ『よみがえる日本にっぽんしろ1 だい坂城さかき学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ 2004ねん平成へいせい16ねん
  2. ^ a b 天守てんしゅおこり図面ずめん」1717ねん 和歌山わかやま市立しりつ博物館はくぶつかんぞう
  3. ^ 大類おおるいしん 監修かんしゅう日本にっぽん城郭じょうかく辞典じてん秋田あきた書店しょてん 1970年刊ねんかん(280ページ上段じょうだん
  4. ^ はら武史たけし昭和しょうわ天皇てんのう御召おめし列車れっしゃぜん記録きろく新潮社しんちょうしゃ、2016ねん9がつ30にち、93ぺーじISBN 978-4-10-320523-4 
  5. ^ 和歌山わかやま (2019ねん3がつ15にち). “和歌山わかやま公報こうほう だい1651ごう”. 和歌山わかやま告示こくじだい79ごう平成へいせい31ねん3がつ8にち. p. 11. 2019ねん4がつ12にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん4がつ13にち閲覧えつらん
  6. ^ 和歌山わかやまじょう公園こうえんに 7わりらない名称めいしょう変更へんこう」『わかやま新報しんぽう』2019ねん1がつ30にち2019ねん4がつ13にち閲覧えつらんオリジナルの2019ねん4がつ13にち時点じてんにおけるアーカイブ。
  7. ^ 和歌山わかやま (2019ねん3がつ29にち). “動物どうぶつえんからのおらせ”. 2019ねん4がつ13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん4がつ13にち閲覧えつらん
  8. ^ 西にしたに恭弘やすひろ監修かんしゅう復原ふくげん 名城めいじょう天守てんしゅ学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ 1996ねん
  9. ^ 三浦みうら正幸まさゆきちょしろのつくり方図ほうずてん小学館しょうがくかん 2005ねん
  10. ^ ぐるっとわかやましん発見はっけん15「和歌山わかやまじょう石垣いしがき広報こうほうわかやま2016ねん
  11. ^ 文化庁ぶんかちょうへん新版しんぱん 戦災せんさいとうによる焼失しょうしつ文化財ぶんかざい 20世紀せいき文化財ぶんかざい過去かこちょう』、えびすひかりさち出版しゅっぱん、2003、p.401
  12. ^ めずらしい「登城とじょうアシスト」常駐じょうちゅう 和歌山わかやまじょう高齢こうれいしゃ電動でんどうくるまいすで天守閣てんしゅかく産経新聞さんけいしんぶん(2011ねん2がつ8にち
  13. ^ 和歌山わかやま

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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