白河しらかわ小峰こみねじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
白河しらかわ小峰こみねじょう
福島ふくしまけん
三重櫓(木造復元)
三重みえ木造もくぞう復元ふくげん
別名べつめい 小峰こみねじょう白河しらかわじょう
城郭じょうかく構造こうぞう はしごくるわしき平山ひらやまじょう
天守てんしゅ構造こうぞう 三重みえふくごうしきそうとうがた3じゅう3かい 1632ねんきずけ・1991ねん木造もくぞう復元ふくげん
築城ちくじょうぬし 結城ゆうき親朝ちかとも
築城ちくじょうねん 興国こうこく元年がんねん/こよみおう3ねん1340ねん
おも改修かいしゅうしゃ 丹羽にわ長重ながしげ
おも城主じょうしゅ 白河しらかわ結城ゆうき蒲生がもう丹羽にわ
松平まつだいら阿部あべ
はいじょうねん 明治めいじ4ねん1871ねん
遺構いこう 石垣いしがきるいほり
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 三重みえ太鼓たいこもん
位置いち 北緯ほくい377ふん57.91びょう 東経とうけい14012ふん49.56びょう / 北緯ほくい37.1327528 東経とうけい140.2137667 / 37.1327528; 140.2137667
地図ちず
白河小峰城の位置(福島県内)
白河小峰城
白河しらかわ小峰こみねじょう
テンプレートを表示ひょうじ

白河しらかわ小峰こみねじょう(しらかわこみねじょう)は、福島ふくしまけん白河しらかわ陸奥みちのくこく白河しらかわぐん白河しらかわ)にあった日本にっぽんしろたん小峰こみねじょうともいう。どう市内しないには白川しらかわ城址じょうし存在そんざいするが、地元じもと周辺しゅうへんでもふるくから白河しらかわじょう呼称こしょうされるものはこの白河しらかわ小峰こみねじょうす。くに史跡しせき指定していされている。ほか、日本にっぽん100名城めいじょうの1つにふくまれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

阿武隈川あぶくまがわ谷津田川やつたがわあいだ位置いちする、小峰こみねおかという丘陵きゅうりょうにあった平山ひらやましろである。東北とうほく地方ちほうではめずらしいそう石垣いしがきづくしろで、盛岡もりおかじょう若松わかまつしろともに「東北とうほくさん名城めいじょう」の1つにもかぞえられている。本丸ほんまるまる一部いちぶのこっており、周辺しゅうへん城山しろやま公園こうえんとして整備せいびされ、公園こうえんないには結城ゆうき阿部あべかんする資料しりょう展示てんじした「白河しらかわしゅうえん」がある。本丸ほんまるたいくるわ北側きたがわには白河しらかわバラえんがあったが、東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいによる本丸ほんまる石垣いしがき崩落ほうらく復旧ふっきゅう工事こうじともな廃止はいしとなった。

縄張なわばりははしごくるわしきで、阿武隈川あぶくまがわにした北端ほくたん本丸ほんまる位置いちし、本丸ほんまるみなみまるさんまるひろがっている。また本丸ほんまる周囲しゅういおびくるわおよび竹之丸たけのまるかこんでいる。まるまではそう石垣いしがきかためられていたが、さんまるからは一部いちぶるいとなっていた。

戊辰戦争ぼしんせんそうでほとんどの建物たてもの焼失しょうしつし、城址じょうしには石垣いしがきのこるのみとなっていたが、1991ねん本丸ほんまるさんかい木造もくぞうにより復元ふくげんされた。現在げんざい各地かくち城址じょうしすすめられている、発掘はっくつ調査ちょうさや、図面ずめん写真しゃしんとう資料しりょうもとづく木造もくぞうによる復元ふくげん嚆矢こうしとされている。

2011ねん平成へいせい23ねん)3がつ11にち発生はっせいした東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいにより石垣いしがきとう崩壊ほうかいしたため、三重みえふく本丸ほんまる立入禁止たちいりきんしとなっていたが、2015ねん平成へいせい27ねん)4がつ19にち小峰こみねじょう復興ふっこうしき開催かいさいされ復興ふっこうしき終了しゅうりょう入城にゅうじょう可能かのうとなった[1][2]

2020ねん白河しらかわ本丸ほんまる正面しょうめんにあった清水しみずもん木造もくぞう復元ふくげん目指めざし、「小峰こみね城一じょういちせき城主じょうしゅ」プロジェクトをげた。当初とうしょ2024年度ねんど完成かんせい目標もくひょうとしていたが、白河しらかわによれば2023ねん10がつ20にちづけくに復元ふくげん許可きょかりたことから、2024ねん1がつ着工ちゃっこう2025年度ねんどまつ完成かんせい目指めざすとしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

近代きんだい以前いぜん[編集へんしゅう]

戊辰戦争ぼしんせんそう直後ちょくご小峰こみねじょう

白河しらかわ小峰こみねじょう南北なんぼくあさ時代じだい興国こうこく元年がんねん/こよみおう3ねん1340ねん)に結城ゆうき親朝ちかとも小峰こみねおか築城ちくじょうして小峰こみねじょうづけたのがはじまりとされる。 この当時とうじは、現在げんざい本丸ほんまるさんまる北端ほくたん丘陵きゅうりょうしろいきで、現在げんざいまる付近ふきん阿武隈川あぶくまがわながれており、かわはさまれた細長ほそながおかうえしろだった。

天正てんしょう18ねん1590ねん)、城主じょうしゅ白河しらかわ結城ゆうき豊臣とよとみ秀吉ひでよし奥州おうしゅう仕置しおきにより改易かいえきされるとこの会津あいづりょうとなり、蒲生がもうつづいて上杉うえすぎ再度さいど蒲生がもう支配しはいしたが、寛永かんえい4ねん1627ねん)に丹羽にわ長重ながしげが10まんせき棚倉たなぐらしろ福島ふくしまけん棚倉たなぐらまち)からうつりふうされると、幕命ばくめいにより寛永かんえい6ねん1629ねん)より城郭じょうかくだい改築かいちく着手ちゃくしゅ、3ねん歳月さいげつついやして寛永かんえい9ねん1632ねん)に完成かんせいした。

このさい阿武隈川あぶくまがわしろきたながれを本流ほんりゅうとし、みなみ河床かしょうててまるさんまるきずかれた。また、竹之丸たけのまる東側ひがしがわ堀切ほりきり拡大かくだいして本丸ほんまる丘陵きゅうりょうからはな現在げんざい縄張なわばりとなっている。のちには、しろ西側にしがわみなみおおきく蛇行だこうしていた阿武隈川あぶくまがわながれをきたにつけかえ、てた跡地あとちには町屋まちや形成けいせいされた。会津あいづはん出身しゅっしんしゃおおんだことから、会津あいづまちいまのこっている。

その丹羽にわ榊原さかきばら本多ほんだ奥平おくだいら松平まつへい越前えちぜん松平まつへい久松ひさまつ松平まつへい阿部あべと7いえ21だい城主じょうしゅ交代こうたいがあったが、慶応けいおう3ねん1867ねん)に最後さいご阿部あべ棚倉たなぐらはんうつりふうされたのち白河しらかわはんまくりょうとなり城郭じょうかく二本松にほんまつはん丹羽にわあずかるところとなる。

よく慶応けいおう4ねん1868ねん)、白河しらかわ小峰こみねじょう戊辰戦争ぼしんせんそう奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐんしん政府せいふぐんとのはげしい攻防こうぼう舞台ぶたいとなり、5月1にち大半たいはん焼失しょうしつ落城らくじょうした(白河しらかわこうたたか)。

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

まる

1873ねん明治めいじ6ねん)1がつ14にちはいじょうれいではそんじょう処分しょぶんとされた。城跡じょうせきには曲輪くるわるい石垣いしがき水堀みずほりのこすのみで、まる広場ひろば白河しらかわまち公園こうえん広場ひろばとしてもちいられたのち1952ねん昭和しょうわ27ねん)には「白河しらかわ市営しえい城山しろやま球場きゅうじょう」として野球やきゅうじょう整備せいびされたかさ10m・はば50mほどの石垣いしがきがバックスクリーンとしてもちいられた。1956ねん昭和しょうわ31ねん)にはセ・リーグ公式こうしきせんが1試合しあい・その2ぐんせん4試合しあいおこなわれ野球やきゅうのほかりや競輪けいりん開催かいさいされた[3]

その史跡しせき公園こうえんとしての整備せいび方針ほうしんともない1987ねん昭和しょうわ62ねん)に球場きゅうじょう施設しせつ撤去てっきょ[3]、1991ねん平成へいせい3ねん)に本丸ほんまるあと三重みえ天守てんしゅ相当そうとう)が、1994ねん平成へいせい6ねん)にぜん御門みかど当時とうじ史料しりょう[4]もとづいて復元ふくげんされた。

2006ねん平成へいせい18ねん)4がつ6にち日本にっぽん100名城めいじょう(13ばん)に選定せんていされた。

石垣いしがき崩壊ほうかい様子ようす

東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいでの被害ひがい

2011ねん平成へいせい23ねん)3がつ11にち発生はっせいした東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいにより、三重みえ崩壊ほうかいにはいたらなかったものの数箇所すうかしょ石垣いしがき曲輪くるわ崩壊ほうかい、またはかさねがゆるむ被害ひがいがあった[5][6][7]曲輪くるわじょうにあった白河しらかわバラえん公園こうえん石碑せきひとう崩壊ほうかいし、震災しんさい以後いご本丸ほんまるへの禁止きんしとなった[8][9]とく三重みえ下段げだん曲輪くるわ崩壊ほうかい被害ひがいおおきく、小峰こみねじょう入口いりくちからも確認かくにんできた。このほか、公園こうえんない売店ばいてん一部いちぶ損傷そんしょうがあったが、城壁じょうへき前方ぜんぽう芝生しばふ城内きうちえられていたさくらはおおむね被害ひがいかった。

2011ねんあきから修復しゅうふく工事こうじおこなわれ、修復しゅうふくにあたってはくずれたいしひとつづつ図面ずめんこし、形状けいじょう崩落ほうらくまえ石垣いしがき写真しゃしん比較ひかくしてどこのいしかを特定とくていし、もととおりになおすという作業さぎょうつづけられた。こうした作業さぎょう結果けっかとしみとばれる、特徴とくちょうてき同心どうしん半円はんえん形状けいじょう石積いしつみもきゅうじょうふくすることとなった。小峰こみねじょう石垣いしがき修復しゅうふくのノウハウは、熊本くまもとじょう石垣いしがき修復しゅうふくにもかされるという。

上記じょうきのように2015ねん4がつから入城にゅうじょう可能かのうとなり、2019ねん4がつ鈴木すずき和夫かずお市長しちょう城山しろやま公園こうえん石垣いしがき修復しゅうふく完了かんりょう宣言せんげんした。[10][11]。なお、白河しらかわバラえん閉園へいえんとなった。

さんかい[編集へんしゅう]

さんかいは1632ねん寛永かんえい9ねん)にてられたふくごうしきそうとうがた3じゅう3かいで、当時とうじは「三重みえ」とばれた実質じっしつてき天守てんしゅであった[12]石垣いしがき上端じょうたん余裕よゆうたせづけや2かい出窓でまどけた姿すがたは、若松わかまつしろ天守てんしゅ共通きょうつうする。くろうるしりの下見したみ板張いたばりで、風雨ふううにさらされることを考慮こうりょしてまどちいさくひらいている[12]。この三重みえは1868ねん慶応けいおう4ねん)にこった戊辰戦争ぼしんせんそうによって焼失しょうしつした。

現在げんざいさんかいは1991ねん復元ふくげんされたものである。復元ふくげん天守てんしゅ昭和しょうわ多数たすうつくられたが、それらはみな鉄筋てっきんコンクリートづくりで、外観がいかんのみもとふくしたもの(外観がいかん復元ふくげん)であった。白河しらかわじょう三重みえ木造もくぞう復元ふくげんされた城郭じょうかく建築けんちくのうち、天守てんしゅ相当そうとうする建物たてもの復元ふくげんでは最初さいしょのもので、現在げんざいでも数少かずすくない木造もくぞう復元ふくげん天守てんしゅの1つである。戊辰戦争ぼしんせんそう激戦げきせんとなった松並まつなみ稲荷山いなりやますぎ使つかって復元ふくげんをしており、なかはいばしらをみるとたまきず確認かくにんできる。

水堀みずほり石垣いしがき

屋根やね[編集へんしゅう]

雨漏あまもり、腐朽ふきゅうふせぐため、葺土をもちいない引掛桟瓦葺かわらぶき工法こうほう使用しようしている。

かわら[編集へんしゅう]

かわら文様もんようは、松平まつだいら定信さだのぶ家紋かもんであるうめはちである。

石垣いしがき[編集へんしゅう]

さまざまなおおきさのいしんだらんせきもちいている。石垣いしがき地場じばさん白河しらかわせきよわく、火災かさいによる劣化れっかられる。


だい規模きぼ木造もくぞう建築けんちく日本にっぽんでは建築けんちく基準きじゅんほう原則げんそく禁止きんしされているが、白河しらかわじょうではひとりを想定そうていしない工作こうさくぶつとして建築けんちく許可きょかたのち、完成かんせい見学けんがくしゃ内部ないぶれるよう変更へんこうした。これは一種いっしゅの「脱法だつほう行為こうい」であるとの観点かんてんから問題もんだいとなったが、のち問題もんだいなくれるようになった[13]

現存げんそん建造けんぞうぶつ[編集へんしゅう]

おおくの城内じょうない建造けんぞうぶつ焼失しょうしつまたはやぶ却によりうしなわれたが、まる入口いりくち付近ふきん太鼓たいこもん西側にしがわてられていた太鼓たいこは1873ねん明治めいじ6ねん)に民間みんかんはらげられ、さんまる紅葉こうよう土手どて移築いちくされたのち、1930ねん昭和しょうわ5ねん)に福島ふくしま地方裁判所ちほうさいばんしょ 白河しらかわ支部しぶちかくに移築いちくされ、現在げんざい茶室ちゃしつとして利用りようされている。2移築いちくにより、建物たてものそのものは改造かいぞうされ原型げんけいおおきくそこなわれているが、当時とうじ面影おもかげいまつたえる唯一ゆいいつ建物たてもの遺構いこうである。

2010ねん平成へいせい22ねん)8がつ5にちくに史跡しせき指定していされた。

伝説でんせつ[編集へんしゅう]

  • おとめさくら伝説でんせつ
寛永かんえい年間ねんかんしろだい改修かいしゅうおこなったさい本丸ほんまる石垣いしがきなん崩壊ほうかいしたため、人柱ひとばしらてることになり、人柱ひとばしらにするのはその最初さいしょしろものということにまった。すると、最初さいしょたのは作事さくじ奉行ぶぎょう和知わちはん三郎さぶろうむすめ「おとめ」だった。ちち必死ひっしに「るな」と合図あいずをしたが、ぎゃくに「い」という合図あいず勘違かんちがいしたおとめはらえられ、人柱ひとばしらにされてしまった[14]。その石垣いしがき無事ぶじ完成かんせいし、おとめがめられた場所ばしょにはさくらえられ「おとめさくら」とばれるようになったという。現在げんざいさんじゅうのすぐよこえられているおとめさくら代目だいめで、初代しょだい戊辰戦争ぼしんせんそうとき焼失しょうしつしている[15]

ギャラリー[編集へんしゅう]

所在地しょざいち交通こうつう[編集へんしゅう]

おも登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 北日本きたにっぽん近世きんせい城郭じょうかく検討けんとうかい へん東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいによる城郭じょうかく被災ひさい復旧ふっきゅう建造けんぞうぶつ北日本きたにっぽん近世きんせい城郭じょうかく検討けんとうかい、2013ねん 
  • 加藤かとうさとしぶん日本にっぽんからしろえる:「城郭じょうかく再建さいけん」がかかえるだい問題もんだいよういずみしゃ歴史れきし新書しんしょ〉、2016ねん 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 小峰こみねしろ復興ふっこうしきさくらまつり
  2. ^ 小峰こみねしろ復興ふっこうしきさくらまつり
  3. ^ a b NPBニュース 【たまあとめぐり・だい18かい】「城壁じょうへきのバックスクリーン」でおこなわれた唯一ゆいいつのプロ野球やきゅう 白河しらかわ市営しえい城山しろやま球場きゅうじょう - 日本にっぽん野球やきゅう機構きこう(2019ねん5がつ31にち
  4. ^ 白河しらかわじょうけん絵図えず重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  5. ^ 小峰こみねしろ石垣いしがき崩落ほうらく鶴ケ城つるがじょうにひび - 福島ふくしまみんほう(2011ねん3がつ12にちづけ
  6. ^ 白河しらかわ小峰こみねじょう石垣いしがき崩壊ほうかい - 福島ふくしまけん写真しゃしん記事きじ紹介しょうかい(2011ねん4がつ29にちエントリー) ※「ごう魔術まじゅつ」による個人こじんブログ。
  7. ^ 鈴木すずきいさお史跡しせき小峰こみねじょう災害さいがい復旧ふっきゅう」(北日本きたにっぽん近世きんせい城郭じょうかく検討けんとうかい 2013, pp. 27–32)
  8. ^ 白河しらかわ小峰こみねじょうのご入場にゅうじょうについて - おこなって!みっぺ!!白河しらかわ白河しらかわ観光かんこう物産ぶっさん協会きょうかい
  9. ^ しろについて白河しらかわ小峰こみねじょう) - 福島ふくしまそら(NTT東日本ひがしにっぽん
  10. ^ 福島ふくしま文化財ぶんかざい復旧ふっきゅう着々ちゃくちゃく 沿岸えんがん先行さきゆえず河北かわきた新報しんぽう
  11. ^ 白河しらかわの「小峰こみね城跡じょうせき完全かんぜん復活ふっかつ 石垣いしがき修復しゅうふく完了かんりょう全国ぜんこく支援しえん感謝かんしゃ福島ふくしまみんとも(2019ねん4がつ22にち
  12. ^ a b 三浦みうら正幸まさゆき監修かんしゅう『【決定けっていばん図解ずかい天守てんしゅのすべて』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2007ねん
  13. ^ (加藤かとうさとしぶん 2016, p. 80)
  14. ^ 名城めいじょう (日本にっぽん発見はっけんだい13ごう)』あかつき教育きょういく図書としょ
  15. ^ 白河しらかわ公式こうしきホームページ『しらかわさくら情報じょうほう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]