(Translated by https://www.hiragana.jp/)
彦根城 - Wikipedia コンテンツにスキップ

彦根城ひこねじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
彦根城ひこねじょう
滋賀しがけん
国宝天守(2016年撮影)
国宝こくほう天守てんしゅ(2016ねん撮影さつえい
別名べつめい 金亀こんきじょう
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき平山ひらやまじょう
天守てんしゅ構造こうぞう ふくごうしき望楼ぼうろうがた 3じゅう3かい地下ちか1かい(1604ねんきずけ
築城ちくじょうぬし 井伊いいただしつぎ
築城ちくじょうねん 1622ねん元和がんわ8ねん
おも城主じょうしゅ 井伊いい
はいじょうねん 1874ねん明治めいじ7ねん
遺構いこう 現存げんそん天守てんしゅもんへい馬屋うまや
石垣いしがきるいほり
指定してい文化財ぶんかざい 国宝こくほう天守てんしゅとう2むね
重要じゅうよう文化財ぶんかざいもん馬屋うまやとう5むね
特別とくべつ史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ おもて御殿ごてんひょうむこう
位置いち

北緯ほくい3516ふん35びょう 東経とうけい13615ふん07びょう / 北緯ほくい35.276422 東経とうけい136.251889 / 35.276422; 136.251889 (彦根城ひこねじょう)座標ざひょう: 北緯ほくい3516ふん35びょう 東経とうけい13615ふん07びょう / 北緯ほくい35.276422 東経とうけい136.251889 / 35.276422; 136.251889 (彦根城ひこねじょう)

彦根城の位置
彦根城の位置
彦根城ひこねじょう
彦根城ひこねじょう (滋賀しがけん)
テンプレートを表示ひょうじ

彦根城ひこねじょう(ひこねじょう)は、近江おうみこく犬上いぬかみぐん彦根ひこね現在げんざい滋賀しがけん彦根ひこね金亀こんきまち[1]にあるしろ江戸えど時代じだいには彦根ひこねはん政庁せいちょうかれた。天守てんしゅおよ多聞たもん国宝こくほう城跡じょうせき特別とくべつ史跡しせきかつ琵琶湖びわこ国定こくてい公園こうえんだい1しゅ特別とくべつ地域ちいきである。天守てんしゅ国宝こくほう指定していされた5しろのうちのひとつでもある(犬山いぬやましろ松本まつもとじょう姫路城ひめじじょう松江城まつえじょう)。彦根ひこね八景はっけい琵琶湖びわこ八景はっけい選定せんていされている。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい初期しょき現在げんざい彦根ひこね金亀こんきまちにある彦根ひこねさん鎮西ちんぜいにな井伊いい拠点きょてんとしてきずかれた平山ひらやましろ標高ひょうこう50m)。やまは「金亀こんきさん(こんきやま)」の異名いみょうつため、金亀こんきじょう(こんきじょう)ともばれた。おおくの大老たいろう輩出はいしゅつした譜代ふだい大名だいみょうである井伊いい14だい居城きょじょうであった。

明治めいじ時代じだい初期しょきはいじょうれいによるやぶ却をまぬかれ、天守てんしゅ現存げんそんする。天守てんしゅ[ちゅう 1](つけやぐら)およ多聞たもん(たもんやぐら)の2むね[ちゅう 2]国宝こくほう指定していされるほか、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだいもんなど5むね現存げんそんし、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。なかでも馬屋うまや重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい物件ぶっけんとして全国ぜんこくてき稀少きしょうである。

天守てんしゅ国宝こくほう指定していされた5しろひとつにかぞえられる[ちゅう 3]姫路城ひめじじょうとともに遺構いこうをよくのこしている城郭じょうかくで、1992ねん平成へいせい4ねん)に日本にっぽん世界せかい遺産いさん暫定ざんていリスト掲載けいさいされたものの、近年きんねん世界せかい遺産いさん登録とうろく厳格げんかくにより、20ねん以上いじょう推薦すいせん見送みおくられている。

滋賀しがけんはいじょうれい解体かいたいされたしろおおく、彦根城ひこねじょう県内けんない唯一ゆいいつ保存ほぞんれいである(歴史れきし沿革えんかく参照さんしょう)。

歴史れきし沿革えんかく

[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい

[編集へんしゅう]
げん宮園みやそのから天守てんしゅのぞ

徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとり井伊いい直政なおまさは、1600ねん慶長けいちょう5ねん関ヶ原せきがはらたたかのち、その軍功ぐんこうにより18まんせきにて近江おうみこく北東ほくとうふうぜられ、西にしぐん指揮しきかん石田いしだ三成みつなり居城きょじょうであった佐和さわ山城やましろ入城にゅうじょうした。佐和山さわやまじょうは「三成みなりぎたるものがふたつあり、しま左近さこん佐和山さわやましろ」とわれるほどの名城めいじょうであったが、直政なおまさは、中世ちゅうせいてきふる縄張なわばりや三成みなり居城きょじょうであったことをきらったという[2]。このため琵琶湖びわこきしちか磯山いそやま現在げんざい米原まいばらいそ)に居城きょじょううつすことを計画けいかくしていたが、関ヶ原せきがはら戦傷せんしょうえず、1602ねん慶長けいちょう7ねん)に死去しきょした。家督かとくいだ井伊いいただしつぎ幼少ようしょうであったため、直政なおまさ遺臣いしんである家老がろう木俣きまたまもるかち徳川とくがわ家康いえやす相談そうだんして直政なおまさ遺志いしぎ、1603ねん慶長けいちょう8ねん琵琶湖びわこめんした彦根ひこねさん彦根城ひこねじょう築城ちくじょう開始かいしした。

築城ちくじょうには公儀こうぎ奉行ぶぎょう3めいけられ、尾張おわりはん越前えちぜんはんなど7かこく12大名だいみょう(15大名だいみょうとも)が手伝てつだいをめいじられる天下てんか普請ふしんであった。1606ねん慶長けいちょう11ねん)2までの工事こうじ完了かんりょうし、同年どうねん天守てんしゅ完成かんせいおなごろちょくつぎ入城にゅうじょうした。大坂おおさかなつじん豊臣とよとみ滅亡めつぼう1616ねん元和がんわ2ねん彦根ひこねはんによりだい3工事こうじ開始かいしされ、御殿ごてん建造けんぞうされた。1622ねん元和がんわ8ねん)、すべての工事こうじ完了かんりょうし、彦根城ひこねじょう完成かんせいした。その井伊いい加増かぞうかさね、1633ねん寛永かんえい10ねん)には徳川とくがわ幕府ばくふ譜代ふだい大名だいみょうなかでは最高さいこうとなる35まんせきるにいたった。

彦根城ひこねじょうきずくにあたり、大津おおつじょう佐和さわ山城やましろはじめ近江おうみこくしょしろ移転いてんやぶ却し、しろ建設けんせつぶつ利用りようしたとされる。結果けっかとして彦根ひこねはんには彦根城ひこねじょうしかのこらず、大老たいろう譜代ふだい筆頭ひっとう井伊いいしょ大名だいみょう一国一城いっこくいちじょうれいまも手本てほんしめした格好かっこうになった。筆頭ひっとう家老がろう木俣このまたは1まんせきりょうしていたが、陣屋じんやたなかったため、月間げっかん20にち西にしまる三重みえ執務しつむおこなっていたという。徳川とくがわ統治とうち太平たいへいにおいては、城郭じょうかく軍事ぐんじ施設しせつとしての意義いぎうしない、彦根城ひこねじょう西国さいごく大名だいみょうおさえのための江戸えど幕府ばくふ重要じゅうよう軍事ぐんじ拠点きょてんから、藩政はんせい年貢ねんぐまい保管ほかん場所ばしょとなり、天守てんしゅ倉庫そうことうとして使つかわれた。

1854ねん安政あんせい元年がんねん)に天秤てんびんだい修理しゅうりおこなわれ、そのさい石垣いしがき半分はんぶんなおされた。かって右手みぎて築城ちくじょう当初とうしょからの「牛蒡ごぼうみ」、左手ひだりてあらたになおされた「おとみ」の石垣いしがきである。

幕末ばくまつ大老たいろうつとめた井伊いい直弼なおすけも、35さい藩主はんしゅとなるまでこの城下町じょうかまちごしている。直弼なおすけがそのときんだ屋敷やしきは、「埋木うめきしゃ(うもれぎのや)」として現存げんそんしている[ちゅう 4]

明治めいじ時代じだい

[編集へんしゅう]
大隈おおくま重信しげのぶ

明治維新めいじいしん廃藩置県はいはんちけんによってかくはん城郭じょうかくはそれまでの機能きのううしない、建築けんちくぶつとしても「無用むよう長物ちょうぶつ」となり、そのおおくがはいじょうれいによりはいじょうとなったが、彦根城ひこねじょう当初とうしょ陸軍りくぐんしょう管轄かんかつ施設しせつとなったため維持いじされた。しかし、老朽ろうきゅうのため民間みんかん売却ばいきゃくされてやぶ却される予定よていとなったが、明治めいじ11ねん明治天皇めいじてんのう彦根ひこね行幸ぎょうこうさい供奉ぐぶしていた参議さんぎ大隈おおくま重信しげのぶ天皇てんのうはたらきかけた結果けっか天守てんしゅ保存ほぞん決定けっていし、皇室こうしつ付属ふぞく彦根ひこね御料ごりょうしょとなり、最終さいしゅうてきには最後さいご彦根ひこね藩主はんしゅであった井伊いいただしけん下賜かしされて保存ほぞんされた[3]

昭和しょうわ時代じだい

[編集へんしゅう]
1985ねん彦根ひこね城跡じょうせき周辺しゅうへん航空こうくう写真しゃしん
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん)、築城ちくじょう以来いらい徳川とくがわ幕府ばくふよう役割やくわりたしていた彦根城ひこねじょうにはさくらえられていなかった。これをうれいた彦根ひこねまち会議かいぎいん吉田よしだしげる治郎じろう観光かんこうのシンボルとしてソメイヨシノ苗木なえぎ1,000ほん城内じょうない植樹しょくじゅした。[4]
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん)、井伊いいから彦根ひこねへ、彦根城ひこねじょうおよびその一帯いったい寄付きふされる。
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん)、8がつ15にちよる連合れんごう国軍こくぐん彦根ひこね夜間やかん爆撃ばくげきする予定よていであったが、同日どうじつ正午しょうご終戦しゅうせん詔勅しょうちょくにより日本にっぽん降伏ごうぶく発表はっぴょうさればくげきおこなわれなかった[ちゅう 5]
  • 1951ねん昭和しょうわ26ねん)、「彦根ひこね城跡じょうせき」としてくに史跡しせき指定してい天守てんしゅとう6むね重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。
  • 1952ねん昭和しょうわ27ねん)、前年ぜんねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた6むねのうち天守てんしゅ(1むね)とおよ多聞たもん(1むね)の2むね国宝こくほう指定していされた。
彦根城ひこねじょう国宝こくほう指定していしょ
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん)、「彦根ひこね城跡じょうせき」が特別とくべつ史跡しせき指定していされた。
  • 昭和しょうわだい修理しゅうり
    • 1957ねん昭和しょうわ32ねん)~1960ねん昭和しょうわ35ねん)、天守てんしゅおよ多聞たもん修理しゅうり
    • 1960ねん昭和しょうわ35ねん)~1962ねん昭和しょうわ37ねん)、西にしまる三重みえ丸佐まるさ和口わぐち多聞たもん解体かいたい修理しゅうり
    • 1965ねん昭和しょうわ40ねん)~1968ねん昭和しょうわ43ねん)、馬屋うまやなどの解体かいたい修理しゅうり
  • 1963ねん昭和しょうわ38ねん)、馬屋うまや重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。
  • 1987ねん昭和しょうわ62ねん)、彦根ひこね市制しせい50周年しゅうねんとしておもて御殿ごてんひょうむかい外観がいかん復元ふくげん(鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞう)され、「彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかん」として藩政はんせい時代じだい調度ちょうどひん武具ぶぐなどが展示てんじされている。また奥向おくむき発掘はっくつ調査ちょうさて「平面へいめん」と「こし絵図えず」にもとづき木造もくぞう復元ふくげんされた。

平成へいせい時代じだい

[編集へんしゅう]
  • 1993ねん平成へいせい5ねん7がつ1にち1996ねん平成へいせい8ねん)12月、平成へいせいだい修理しゅうり天守てんしゅおよび多聞たもん屋根やねえとかべうるしえ、木材もくざい腐食ふしょく部分ぶぶん補修ほしゅう唐破風からはふかざり金具かなぐ金箔きんぱくなおし、西にしまる三重みえぞく屋根やねえとかべえなどの修理しゅうりおこなわれた。
  • 2005ねん平成へいせい17ねん)~2008ねん平成へいせい20ねん)、石垣いしがき構築こうちく調査ちょうさ石材せきざい調査ちょうさ崩落ほうらく調査ちょうさ歴史れきし調査ちょうさ整理せいりとうおこなわれ、今後こんご管理かんり修理しゅうりけての石垣いしがき台帳だいちょう作成さくせいされた[5]
  • 2006ねん平成へいせい18ねん)4がつ6にち日本にっぽん100名城めいじょう(50ばん)に選定せんていされた。
  • 2007ねん平成へいせい19ねん)、国宝こくほう彦根城ひこねじょう築城ちくじょう400ねんさいおこなわれた。
  • 2012ねん以降いこうほり自転車じてんしゃおおくは盗難とうなん自転車じてんしゃ)を投棄とうきされる被害ひがい相次あいついでおり、問題もんだいとなっている[6][7][8][9]
  • 2014ねん8がつ台風たいふう11ごう影響えいきょう天秤てんびん漆喰しっくいが2箇所かしょがれちた[10]
  • 2015ねん平成へいせい27ねん4がつ24にち、「琵琶湖びわことその水辺みずべ景観けいかんいのりとらしのみず遺産いさん 」の構成こうせい文化財ぶんかざいとして日本にっぽん遺産いさん認定にんていされる[14]
  • 2015ねん12月:大正たいしょう時代じだい航空こうくう写真しゃしん発見はっけんされ当時とうじはまだめられていないほり様子ようすなどが判明はんめいした[15]
  • 2017ねん:「国宝こくほう彦根城ひこねじょう築城ちくじょう410ねんさい」がおこなわれる[16]
    • 同年どうねん1がつ外堀そとぼり発掘はっくつ調査ちょうさ切通きりとおしこう御門みかど礎石そせき石垣いしがき発見はっけんされた[17]

れい時代じだい

[編集へんしゅう]

世界せかい遺産いさん登録とうろくけて

[編集へんしゅう]
世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんするペナント
  • 1992ねん平成へいせい4ねん)10がつ1にち - 日本にっぽん世界せかい遺産いさん候補こうほだいいちごうとしてユネスコ世界せかい遺産いさんセンター暫定ざんていリストに掲載けいさい[19][ちゅう 6]
  • 2000ねん2002ねん - ユネスコが世界せかい遺産いさん周辺しゅうへん緩衝かんしょう地帯ちたい)における景観けいかん修繕しゅうぜんもとめるようになったことをうけ、滋賀しがけん彦根ひこね関西電力かんさいでんりょく協力きょうりょくし、内堀うちぼり沿いの電柱でんちゅうやく40ほんとそれにつらなる電線でんせん撤去てっきょし、電線でんせんるい地中ちちゅう実施じっし国内こくない世界せかい遺産いさん登録とうろく候補こうほなかでもこれだけの規模きぼでのおさむけいおこなったのははじめての事例じれいで、ユネスコもたか評価ひょうか将来しょうらいてきには防災ぼうさい観点かんてんからもしろ周辺しゅうへん市街地しがいち城下町じょうかまちすべての地中ちちゅう目指めざ[20]
  • 2007ねん1がつ23にち - 前年ぜんねん文化庁ぶんかちょう実施じっしした世界せかい遺産いさん候補こうほ公募こうぼ選定せんてい結果けっか発表はっぴょうともな今後こんご世界せかい遺産いさんかた方向ほうこうせいをまとめた文化ぶんか審議しんぎかい世界せかい文化ぶんか遺産いさん特別とくべつ委員いいんかい[ちゅう 7]、「すで世界せかい遺産いさん登録とうろくされている姫路城ひめじじょうとのちがいを明確めいかくにする必要ひつようがある」「候補こうほ公募こうぼ名乗なのりをげた松本まつもとじょうなどもふくめ、"近世きんせい日本にっぽん木造もくぞう天守閣てんしゅかくしき城郭じょうかく"といった枠組わくぐみで姫路城ひめじじょう拡張かくちょう登録とうろく目指めざすのもひとつの手段しゅだんではないか」という見解けんかいしめされたが、姫路ひめじが「拡張かくちょう登録とうろくかんがえていない」と拒否きょひ[21]。この文化ぶんか審議しんぎかい指針ししんをうけ、市役所しやくしょ企画きかく推進すいしんが「彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんする方策ほうさくかんがえる懇話こんわかい」を開設かいせつし、登録とうろくけての本格ほんかくてき思案しあん開始かいし[22]
  • 2008ねん4がつ - 教育きょういくいんかい文化財ぶんかざいに「彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんしつ設置せっち推薦すいせんしょ素案そあん作成さくせいなどを開始かいし[22]
  • 2008ねん9がつ - 文化ぶんか審議しんぎかいしめした”姫路城ひめじじょう中心ちゅうしんとした日本にっぽん近世きんせい城郭じょうかくぐんあんかんし、「一定いってい方向ほうこうせいえた段階だんかい準備じゅんびすすめるべき」との検討けんとう結果けっかをうけ、松本まつもとじょう犬山いぬやましろくわえ、松本まつもと犬山いぬやまとの共同きょうどう推薦すいせんかんする「国宝こくほうよんしろ近世きんせい城郭じょうかくぐん研究けんきゅうかい」を発足ほっそく[21]
  • 2009ねん - 懇談こんだんかいが「彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん推進すいしん委員いいんかい」に改称かいしょう[22]
全国ぜんこくてきにもめずらしい城内きうち馬屋うまやとその説明せつめい
  • 2011ねん9月 - 文化ぶんか遺産いさん分野ぶんやにおけるユネスコの諮問しもん機関きかん国際こくさい記念きねんぶつ遺跡いせき会議かいぎ(イコモス)の国内こくない委員いいんかい現地げんち視察しさつし、移築いちくされたしろという文化ぶんか資材しざい文化ぶんか循環じゅんかんがあること[ちゅう 8]姫路城ひめじじょうにはのこされていない御殿ごてんうまやなどがあり武家ぶけ文化ぶんか総体そうたいがうかがえる、琵琶湖びわこやそこにつながる水路すいろなども包括ほうかつした文化ぶんかてき景観けいかん目指めざ手法しゅほう[ちゅう 9]もあるのではとの助言じょげんをうける[23]
  • 2012ねん11月 - イコモスの研究けんきゅうしゃ招聘しょうへいして現地げんち視察しさつおこない、姫路城ひめじじょうにはられない複雑ふくざつほり城下町じょうかまち都市とし機能きのう注目ちゅうもくあたいするとの助言じょげん[23][ちゅう 10]
  • 2014ねん6がつ - ふく市長しちょうパリユネスコ本部ほんぶ世界せかい遺産いさんセンターたずね、封建ほうけん領主りょうしゅ精神せいしんてき文化ぶんかてき生活せいかつのような方向ほうこうせいかんがえるのがよいとの助言じょげん[24]
  • 2014ねん8がつ - けんの「世界せかい遺産いさん関連かんれん連絡れんらく調整ちょうせい会議かいぎ」と作業さぎょうグループを設置せっちの「彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん推進すいしん委員いいんかい」が併合へいごう解散かいさん)、あたらしいコンセプトを「近世きんせい大名だいみょうしろ御殿ごてん」として御殿ごてん包括ほうかつ[22][ちゅう 11]
  • 2015ねん1がつ - ふく市長しちょう世界せかい遺産いさんセンターを再訪さいほうし、国際こくさい比較ひかくとしてヨーロッパおよび近接きんせつする韓国かんこくしろおこなうべき、従来じゅうらい歴史れきしがく建築けんちくがくくわ美術びじゅつ視点してんむべき、城下じょうかにおける武士ぶしのみならず寺社じしゃ庶民しょみんふくめた社会しゃかいてき調和ちょうわ文化ぶんかてきシンボルの役割やくわり追及ついきゅうすべき、都市とししている市街地しがいちとの景観けいかん落差らくさについて見解けんかい展開てんかいすべきなどの助言じょげん[24]
  • 2015ねん7がつ - 島根しまねけん松江城まつえじょう国宝こくほう指定していされたことをけ、国宝こくほうよんしろ研究けんきゅうかい松江まつえ参加さんか姫路城ひめじじょうふくむ「国宝こくほう五城ごじょう」の世界せかい遺産いさん登録とうろく目指めざすことに[21]
  • 2016ねん - 彦根城ひこねじょう単独たんどく登録とうろく目指めざすとして国宝こくほうよんしろ研究けんきゅうかい離脱りだつ[21]
  • 2016~2017ねん - 複数ふくすう海外かいがい研究けんきゅうしゃ招聘しょうへい協議きょうぎかさね、自然しぜんとのかかわりや宗教しゅうきょうかんなども考慮こうりょすべき、屋外おくがい広告こうこくぶつ規制きせいなど景観けいかん保全ほぜんみもすすめるべきとの助言じょげん、「みず彦根ひこね」の指針ししんしめ[25]
  • 2017ねん - 彦根ひこねが「有識者ゆうしきしゃによる学術がくじゅつ検討けんとう委員いいんかい」を設置せっち[22]
  • 2018ねん - イコモスの「城塞じょうさい軍事ぐんじ遺産いさん国際こくさい学術がくじゅつ委員いいんかい(イコフォート)」を招聘しょうへいしての国際こくさい会議かいぎ開催かいさいし、天守てんしゅのほか大名だいみょう庭園ていえん城下町じょうかまち武家ぶけ屋敷やしきなどと一体いったいとした「江戸えど武士ぶし統治とうちあらわふく合体がったい」をコンセプトに2024ねん登録とうろく目指めざすことを表明ひょうめいただし、2015ねん登録とうろくされた明治めいじ日本にっぽん産業さんぎょう革命かくめい遺産いさん 製鉄せいてつ製鋼せいこう造船ぞうせん石炭せきたん産業さんぎょう構成こうせい資産しさんはぎ城下町じょうかまちふくまれており、そちらとの差別さべつはか必要ひつようせい指摘してきされた[26]
  • 2020ねん3がつ - 暫定ざんていリスト掲載けいさいから四半世紀しはんせいき以上いじょうて、2022ねん登録とうろく審査しんさ目指めざはじめて推薦すいせんしょ原案げんあん文化庁ぶんかちょう提出ていしゅつしたがコロナウイルス感染かんせんしょうによる影響えいきょう国内こくない候補こうほ選定せんていおこなわれないことになった[27]
  • 2020ねん4がつ - けん文化財ぶんかざい保護ほごに「彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしんしつ設置せっち[22]
  • 2020ねん5がつ - けんによる「彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん登録とうろく推進すいしん協議きょうぎかい設置せっちけんの「世界せかい遺産いさん関連かんれん連絡れんらく調整ちょうせい会議かいぎ」と作業さぎょうグループが統合とうごう解散かいさんりょう登録とうろく推進すいしんしつ協力きょうりょく体制たいせい[22]
  • 2021ねん3月 - 2023ねん登録とうろく審査しんさ目指めざあらためて推薦すいせんしょ原案げんあん再度さいど提出ていしゅつするも、かね中心ちゅうしんとする佐渡さど鉱山こうざん遺産いさんぐん正式せいしき推薦すいせん佐渡さどとう金山かなやま名称めいしょう変更へんこう)が選定せんていされた。
  • 2021ねん6がつ14にち - 彦根ひこね市長しちょう市議会しぎかい定例ていれいかい一般いっぱん質問しつもん回答かいとうなか彦根城ひこねじょう暫定ざんていリストりしてから30ねんちかぎたことにれ、2024ねん登録とうろくのがした場合ばあいはこれ以上いじょう労力ろうりょく資金しきんけることはけたいと発言はつげんし、運動うんどうりを示唆しさした[28]
  • 2022ねん6がつ - 2024ねん審査しんさ審査しんさ目指めざして推薦すいせんしょ原案げんあん再々さいさい提出ていしゅつするも、8がつ3にちになり文化庁ぶんかちょう彦根城ひこねじょうの2024ねん登録とうろく審査しんさ希望きぼうを1ねん延期えんきし、2025ねん変更へんこうするむね通知つうち。これは2023ねん審査しんさ予定よていだった佐渡さど金山かなやま書類しょるい不備ふびのため審査しんさが1ねん順延じゅんえんとなり、さらに2022ねん開催かいさい予定よていであっただい45かい世界せかい遺産いさん委員いいんかいロシアによるウクライナ侵攻しんこう開催かいさいが1ねん延期えんきとなり(委員いいんかい開催かいさいこくロシアだった。)、佐渡さど審査しんさが2024ねんがったことが影響えいきょうした[29]
  • 2023ねん3がつ15~17にち - 彦根城ひこねじょうについて、海外かいがいとの比較ひかく研究けんきゅう国際こくさいてき評価ひょうか不足ふそくしているとされるため、韓国かんこくフィンランド研究けんきゅうしゃ招聘しょうへい視察しさつ議論ぎろん実施じっし[30]。これをまえ「江戸えど幕府ばくふ成立せいりつてられ、せんいち使つかわれることがなかった"平和へいわ時代じだい象徴しょうちょう"」というあたらしい価値かちかんし、「平和へいわとりで」を憲章けんしょうとしてかかげるユネスコへのアピール材料ざいりょうとする[31]
事前じぜん評価ひょうか制度せいどつたえるまく市役所しやくしょ
  • 2023ねん7がつ4にち - 文化ぶんか審議しんぎかい彦根城ひこねじょうあつかいについて、同年どうねんから運用うんようはじまった事前じぜん評価ひょうか制度せいど(プレリミナリー・アセスメント)を利用りようする方針ほうしんしめした。これは推薦すいせん物件ぶっけん学術がくじゅつてき価値かち審査しんさする諮問しもん機関きかん文化ぶんか遺産いさん場合ばあいはイコモス)が推薦すいせん希望きぼう物件ぶっけん推薦すいせんまえ調査ちょうさして是正ぜせい指摘してき事項じこうなどを指導しどうすることで登録とうろくしやすくするもの。登録とうろく審査しんさ最低さいてい4ねんようし、最短さいたん2027ねんになる[32]
  • 2023ねん9がつ5にち - 事前じぜん評価ひょうか制度せいどでの推薦すいせんしょをユネスコへ提出ていしゅつ結果けっか2024ねん10月1にちまでに通達つうたつされる[33]

構造こうぞう

[編集へんしゅう]
城内きうち絵図えず(1814ねん文化ぶんか11ねん))

しろ形式けいしきれんくるわしき平山ひらやましろ本丸ほんまるまるさんまる北側きたがわ山崎やまざき曲輪くるわ配置はいちされた。御殿ごてんまるかれた。本丸ほんまる天守てんしゅ西にしまる山崎やまざき曲輪くるわ三重みえてられた。山崎やまざき曲輪くるわ三重みえ明治めいじ初期しょきやぶ却された。なお、しろ北側きたがわにはげん宮園みやその楽々園らくらくえんという大名だいみょう庭園ていえんはいされており、これらは「げんみや楽々園らくらくえん」としてくに名勝めいしょう指定していされている。げん宮園みやその楽々園らくらくえんはかつて松原まつばらないみずうみ戦中せんちゅう戦後せんご干拓かんたく)にめんしており、入江いりえないみずうみのぞめる絶景ぜっけいであった。

なお、現存げんそんれいすくない築城ちくじょう技法ぎほうでもある「のぼ石垣いしがき」が良好りょうこうかたち保存ほぞんされている。この石垣いしがきは、天秤てんびんかってみぎ牛蒡ごぼうみ(野面のづら一種いっしゅ)、かってひだりおととなっている。

地理ちり特性とくせい縄張なわば

[編集へんしゅう]

琵琶湖びわこやまあいだ、5キロメートルほどのせま平地ひらち立地りっちする彦根ひこね中山道なかせんどう北陸ほくりくどうぞく北国きたぐに街道かいどうともいう。)が合流ごうりゅうし、水陸すいりくからきょういた東国とうごく西国さいごく結節けっせつてんであった。このため戦略せんりゃく拠点きょてんとしてふるくから注目ちゅうもくされ、みずのえさるらん672ねん白鳳はくほう元年がんねん))、姉川あねがわたたか1570ねんもとかめ元年がんねん))、賤ヶだけたたか1583ねん天正てんしょう11ねん))、関ヶ原せきがはらたたか1600ねん慶長けいちょう5ねん))など古来こらいおおくの合戦かっせんがこの周辺しゅうへんおこなわれた。織田おだ信長のぶなが佐和山さわやまじょう丹羽にわ長秀ながひでれ、ほどちか長浜ながはまじょう羽柴はしば秀吉ひでよしあたえている。また豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすはそれぞれ重臣じゅうしん石田いしだ三成みつなり井伊いい直政なおまさをこの配置はいちしている。また当時とうじくるわそうかま以外いがいすべ現存げんそんしているも、当時とうじしろのそばまで琵琶湖びわこみずせていたが都市とし開発かいはつためてられた。

彦根城ひこねじょう西国さいこく大名だいみょう防衛ぼうえいのためのしろであったため、防御ぼうぎょのための工夫くふうがされている。狭間はざまそとからえないようにつくられ、階段かいだんてきうえからとっおとせるようにきゅう角度かくど最大さいだい62)であり、またってとせる構造こうぞうである。

建築けんちく

[編集へんしゅう]
天守てんしゅ東側ひがしがわ金蔵きんぞうぞくのぞむ。

彦根城ひこねじょう建築けんちくぶつには、近江おうみぞく京極きょうごく高次こうじ城主じょうしゅつとめた大津おおつじょう天守てんしゅをはじめ、佐和さわ山城やましろから佐和さわくち多門たもん現存げんそん)と太鼓たいこ櫓門やぐらもん小谷おたにしろから西にしまる三重みえ観音寺かんおんじじょうからや、どこのものかは不明ふめいとされているが太鼓たいこもんなどが移築いちくされたという伝承でんしょうおおい。建物たてもの石材せきざい移築いちく転用てんよう縁起えんぎかつぎのほか、コスト削減さくげん工期こうき短縮たんしゅくのためにおこなわれたもので、名古屋なごやじょう岡山おかやまじょう姫路城ひめじじょう福岡ふくおかじょうなどおおくのしろ建物たてもの移築いちく伝承でんしょうがある。

天秤てんびんは、長浜ながはまじょうから移築いちくしたといわれ、時代じだいげき撮影さつえいにも使つかわれる。[ちゅう 12]堀切ほりきりうえ掛橋かけはしわたったたりにあたる、なが多聞たもん左右さゆうはしに2じゅう2かい一対いっついすみかまえ、天秤てんびんばかりのような独特どくとく形状けいじょうである。

本丸ほんまる

[編集へんしゅう]
天守てんしゅ
[編集へんしゅう]

とおばしらもちいず、各階かくかいごとにげられた天守てんしゅは3そう3かい地下ちか1かいふくごうしき望楼ぼうろうがたで、「牛蒡ごぼうみ(ごぼうづみ)[ちゅう 13]」といわれる石垣いしがきささえられ、1じゅうまど突上まど、2じゅう以上いじょうまどはすべてはなあたままどはいし、最上階さいじょうかいには実用じつようでないそとまわえん高欄こうらんけている。かくおも千鳥ちどり破風はふ切妻きりづま破風はふ唐破風からはふ入母屋いりもや破風はふんだように配置はいちしており、変化へんか表情ひょうじょうせる。大津おおつじょう天守てんしゅ(4じゅう5かい)を5じゅう江戸城えどじょうよりひくくするためにえて3じゅう縮小しゅくしょうして移築いちくしたといわれ[ちゅう 14]昭和しょうわ天守てんしゅ解体かいたい修理しゅうり1957ねん昭和しょうわ32ねん)- 1960ねん昭和しょうわ35ねん))のときに、天守てんしゅ用材ようざいから転用てんようされたものとられる部材ぶざい確認かくにんされている[34]天守てんしゅ3かいには破風はふあいだというしょう部屋へやがある[35]

月見つきみじゅうあいだ多聞たもん
[編集へんしゅう]
表門おもてもんから本丸ほんまるのぞ写真しゃしんみぎはしから月見つきみ土塀どべいじゅうあいだ多聞たもん天守てんしゅ入母屋いりもや確認かくにんできる。そのさらにひだり天秤てんびんふもとにはおもて御殿ごてんえる。

かつて天守てんしゅ南面なんめんにそびえていたそうかいともいう。月見つきみから西にしへと方角ほうがくえると、土塀どべいはさんでじゅうあいだ多聞たもんつづいていた[36]。このふたつのぐん山麓さんろく表門おもてもんから本丸ほんまるあおると、天守てんしゅとともにながめることができた。

太鼓たいこもん
[編集へんしゅう]

じゅうあいだ多聞たもんさきにある櫓門やぐらもんで、現存げんそんぞくとして多聞たもんわきそなえる櫓門やぐらもんであり、解体かいたい修理しゅうり結果けっか場所ばしょ不明ふめいなものの城郭じょうかく寺院じいんだい規模きぼ櫓門やぐらもん縮小しゅくしょう移築いちくしたものであることが判明はんめいしている[2]部分ぶぶんには勾欄こうらん開口かいこうとしてそなわっており、往時おうじはそのとお太鼓たいこき、周囲しゅういときらせていたとされる[37]。なお太鼓たいこもんみなみにくぐったさきは、本丸ほんまるなかでもとく本丸ほんまるみなみこしきょくばれる区画くかくとなる。

天秤てんびん
[編集へんしゅう]
天秤てんびん廊下ろうかきょう

本丸ほんまるみなみこしきょく存在そんざいする櫓門やぐらもんおよそうかい2多聞たもんによって一体化いったいかした形状けいじょうで、そのよう天秤てんびんているためこのがある。井伊いい文書ぶんしょ井伊いい年譜ねんぷ』には「かねまる廊下ろうかきょう多門たもん長濱ながはま大手おおてもんゆかりただし楠木くすのきにてみやつこ」との記載きさいがあり、長浜ながはまじょうから移築いちくされた伝承でんしょうのこ[38][39]天秤てんびんより廊下ろうかきょうわたってすすむと、かねまるという区画くかくになる。

西にしまる

[編集へんしゅう]
西にしまる三重みえ
[編集へんしゅう]
西にしまる三重みえ両翼りょうよく多聞たもんつ。

天守てんしゅ北面ほくめん西にしまる位置いちするさんそうさんかい現存げんそんりょうわき多聞たもんそなえる格式かくしきたかつくりであり、『井伊いい年譜ねんぷ』にて「西丸にしまるさんかい木俣きまた土佐とさあずか也、いちがつ廿にじゅう日程にっていづつ土佐とさしょうつめこうよし」とあるように、竣工しゅんこうには彦根ひこねはん筆頭ひっとう家老がろう木俣きまたあずかり勤務きんむとなっていた[37]小谷おたにしろからの移築いちくぶつとする伝承でんしょうのこっている[2][38]

山崎やまざき曲輪くるわ

[編集へんしゅう]
山崎やまざき三重みえ山崎やまざきくちもん
[編集へんしゅう]

西にしまるのさらに北面ほくめん位置いちする山崎やまざき曲輪くるわにかつて存在そんざいしたさんそうさんかい往時おうじ千鳥ちどり破風はふそなえた三重みえであり、長浜ながはまじょう天守てんしゅ移築いちくしたとする伝承でんしょうがあった[40][37]三重みえには櫓門やぐらもんとして山崎やまざきくちもん近接きんせつしていた。山崎やまざきくちもん彦根城ひこねじょうのなかでももっと琵琶湖びわこがわひらもん部分ぶぶんうしなわれてひさしいが、門扉もんぴのみ現存げんそんしている[2]

内城うちじろいき

[編集へんしゅう]
佐和さわくち多聞たもん
[編集へんしゅう]
木造もくぞう復元ふくげんされた佐和さわくちぞく多聞たもん屏風びょうぶじょう屈折くっせつしつつ、多聞たもんかいつらなる。

彦根城ひこねじょうには内城うちじろいきとして佐和さわくち京橋きょうばしこう船町口ふなまちぐちの3つがきずかれたが、このうち佐和さわこうそうかい多聞たもん現存げんそんする[2]和口わぐち多聞たもん佐和さわ山城やましろからの移築いちくとする伝承でんしょうがあるが[40]、その内部ないぶ構造こうぞうから元和がんわ年間ねんかん創建そうけんとするせつもある[39]和口わぐち付近ふきんほり付近ふきんより天守てんしゅ天秤てんびん佐和さわくち多聞たもん一望いちぼうできる。和口わぐち門跡もんぜき現存げんそん)をはさんで、佐和さわくちぞく多聞たもん犬走いぬばしりとともにびており、この部分ぶぶん復元ふくげん建築けんちくぶつである[2]彦根ひこねによれば、屋敷やしき遺構いこう表示ひょうじをする計画けいかくはあるが建物たてもの木造もくぞう復元ふくげん計画けいかくはない。なお、彦根ひこねでは城下じょうかつづく7つのもんの1つの長曽根ながそね御門みかど木造もくぞう復元ふくげんする計画けいかくがあるが、現時点げんじてんでは門跡もんぜき発掘はっくつ調査ちょうさをしている段階だんかいである。

文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
国宝こくほう
  • 天守てんしゅ
  • およ多聞たもん(1むね
重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 天秤てんびん
  • 太鼓たいこもんおよぞく(1むね
  • 西にしまる三重みえおよぞく(1むね
  • 佐和さわくち多聞たもん
  • 馬屋うまや

観光かんこう

[編集へんしゅう]

しろいきには彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかん[41]や、開国かいこく記念きねんかん[42]がある。庭園ていえんげん宮園みやそのふくめた内堀うちぼりよりなかがわへのにゅういき有料ゆうりょう大人おとな800えんなど)である[43]

観光かんこうきゃく誘致ゆうちのため、彦根ひこねのキャラクター「ひこにゃん」を毎日まいにち登場とうじょうさせている[44]

所在地しょざいち
滋賀しがけん彦根ひこね金亀こんきまち1-1
利用りよう情報じょうほう
日本にっぽん100名城めいじょうスタンプラリーのスタンプは彦根城ひこねじょう開国かいこく記念きねんかん設置せっちされている。
屋形船やかたぶね内堀うちぼり観光かんこうせんめぐる)
山崎やまざき御門みかどまえ←→げん宮園みやそのぜん船着場ふなつきば

アクセス

[編集へんしゅう]
鉄道てつどう
タクシー
自動車じどうしゃ
駐車ちゅうしゃじょう
  • 彦根城ひこねじょう駐車ちゅうしゃじょう(1にち1,000えん

舞台ぶたいとなった作品さくひん

[編集へんしゅう]

映像えいぞう

[編集へんしゅう]

以下いか作品さくひん以外いがいにも、映画えいがやテレビドラマ撮影さつえいとして頻繁ひんぱん使つかわれている。東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ京都きょうと映画えいが撮影さつえいしょから場所ばしょちかいことから、姫路城ひめじじょうとともに時代じだいげきのロケが頻繁ひんぱんおこなわれている。姫路城ひめじじょう江戸城えどじょうわりとしてもちいられることおおいのにたいして、それより小規模しょうきぼ本城ほんじょう無名むめい小城おぎという設定せっていでの撮影さつえいおおい。

文学ぶんがく

[編集へんしゅう]

井伊いい直弼なおすけ藩主はんしゅくまでには、さき藩主はんしゅやその候補者こうほしゃおおくが夭折ようせつ(ようせつ)していることから神秘しんぴてき物語ものがたり舞台ぶたいげられることがおおい。なお、国宝こくほう彦根城ひこねじょう築城ちくじょう400ねん開催かいさい小説しょうせつ対象たいしょう2007ねん平成へいせい19ねん)、舟橋ふなばし聖一せいいち文学ぶんがくしょう創設そうせつされた。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 京極きょうごく高次こうじてた大津おおつじょう天守てんしゅ移築いちくしたもの。
  2. ^ およ多聞たもん」を1むねかぞえる。
  3. ^ 国宝こくほう指定してい現存げんそん天守てんしゅつ5箇所かしょ城郭じょうかく姫路城ひめじじょう松本まつもとじょう彦根城ひこねじょう犬山いぬやましろ松江城まつえじょうす。
  4. ^ 昭和しょうわ60年度ねんどから6年間ねんかんにわたって修復しゅうふくけた。
  5. ^ 前月ぜんげつには中堀なかほり外堀そとぼりあいだにある馬場うまばまち空襲くうしゅうけた(彦根ひこね空襲くうしゅう)が、しろ被害ひがいけることはなかった。
  6. ^ 初回しょかい候補こうほには翌年よくねん登録とうろくされた姫路城ひめじじょう法隆寺ほうりゅうじほか、1994ねん登録とうろく古都こと京都きょうと文化財ぶんかざい、1995ねん登録とうろく白川郷しらかわごう五箇山ごかさん合掌がっしょうづく集落しゅうらく、1996ねん登録とうろく厳島いつくしま神社じんじゃ、1998ねん登録とうろく古都こと奈良なら文化財ぶんかざい、1999ねん登録とうろく日光にっこう社寺しゃじ、2000ねん登録とうろく琉球りゅうきゅう王国おうこくのグスクおよ関連かんれん遺産いさんぐん、そして2012ねん推薦すいせんしたものの登録とうろく見送みおくられた武家ぶけ古都こと鎌倉かまくらがある
  7. ^ このとき公募こうぼでは2013ねん登録とうろく富士山ふじさん-信仰しんこう対象たいしょう芸術げいじゅつ源泉げんせん、2014ねん登録とうろく富岡とみおか製糸せいしじょうきぬ産業さんぎょう遺産いさんぐん、2015ねん登録とうろく明治めいじ日本にっぽん産業さんぎょう革命かくめい遺産いさん 製鉄せいてつ製鋼せいこう造船ぞうせん石炭せきたん産業さんぎょう、2017ねん登録とうろくかみ宿やどしま宗像むなかた沖ノ島おきのしま関連かんれん遺産いさんぐん、2018ねん登録とうろく長崎ながさき天草あまくさ地方ちほう潜伏せんぷくキリシタン関連かんれん遺産いさん、2019ねん登録とうろく百舌鳥もず古市ふるいち古墳こふんぐん -古代こだい日本にっぽん墳墓ふんぼぐん-、2021ねん登録とうろく北海道ほっかいどうきた東北とうほく縄文じょうもん遺跡いせきぐんがあるほか、2024ねん登録とうろく審査しんさ予定よてい佐渡さどとう金山かなやま、2026ねん登録とうろく審査しんさ予定よてい飛鳥あすか藤原ふじわらみやとその関連かんれん資産しさんぐんがあり、彦根城ひこねじょうおくれをとっている
  8. ^ ユネスコは「elapsed dismantle(歴史れきしてき経緯けいいがある移築いちく)」の評価ひょうかはじめている
  9. ^ ユネスコが採択さいたくしたグローバル・ストラテジー(世界せかい戦略せんりゃく)では運河うんが水路すいろとそこでの伝統でんとうてき水運すいうん舟運しゅううん文化ぶんかてき景観けいかん登録とうろく推奨すいしょうする
  10. ^ 彦根ひこね城下町じょうかまちには重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく選定せんてい河原町かわらまちせりまち地区ちくがあるが、かならずしも江戸えど時代じだい街並まちなみというわけではない
  11. ^ 城郭じょうかく御殿ごてん古都こと京都きょうと文化財ぶんかざい構成こうせい資産しさん二条城にじょうじょうすで登録とうろくされている
  12. ^ 内藤ないとう信成のぶなり時代じだい長浜ながはまじょう大手おおてもん
  13. ^ ごぼうのように細長ほそなが大小だいしょう自然しぜんせきるいなかみ、いしんでいく野面のづらみの一種いっしゅである。外観がいかん野面のづらみの一種いっしゅだが、細長ほそながいし縦横じゅうおうわせたのような石積いしつみで、非常ひじょう堅固けんごである。四角しかくったいしんだ石垣いしがきちがい、無骨ぶこつだがくずれにくく、非常ひじょう頑丈がんじょう石垣いしがきである。(「石垣いしがきかた」も参照さんしょう。)
  14. ^ 天守てんしゅがややずんぐりしているのはそのためであるという。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 25 滋賀しがけん
  2. ^ a b c d e f 西にしたに恭弘やすひろほか『名城めいじょうあるく : 彦根城ひこねじょう : 関ケ原せきがはら合戦かっせんんだ湖東ことう水城みずき』 4かんPHP研究所けんきゅうじょ歴史れきし街道かいどう3月特別とくべつ増刊ぞうかんごう)〉、2003ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20373443 
  3. ^ 展示てんじ公文書こうぶんしょ近代きんだい城郭じょうかく”. 滋賀しがけん. 2021ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ 広報こうほうひこねだい1262ごう4ページ 2012ねん3がつ1にちごう
  5. ^ 先山さきやま てっ 編著へんちょ特別とくべつ史跡しせき彦根ひこね城跡じょうせき石垣いしがき総合そうごう調査ちょうさ報告ほうこくしょ」『彦根ひこね文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ』3彦根ひこね教育きょういく委員いいんかい文化財ぶんかざい文化財ぶんかざい、2010ねん
  6. ^ 自転車じてんしゃ盗難とうなん急増きゅうぞう 彦根城ひこねじょう中堀なかほり投棄とうきも、城内きうち啓発けいはつ活動かつどう滋賀しが彦根ひこね新聞しんぶん(2013ねん3がつ8にち
  7. ^ 憤懣ふんまん本舗ほんぽしろほり大量たいりょう自転車じてんしゃが…」毎日放送まいにちほうそう(2013ねん2がつ25にち
  8. ^ 彦根城ひこねじょうほり相次あいつ自転車じてんしゃ投棄とうき けい115だい愉快ゆかいはん日本経済新聞にほんけいざいしんぶん(2013ねん2がつ10日とおか
  9. ^ ひこにゃんもこまった 彦根城ひこねじょうほり自転車じてんしゃ投棄とうき115だい彦根ひこね告発こくはつ産経新聞さんけいしんぶん(2013ねん2がつ10日とおか
  10. ^ 彦根城ひこねじょうかべはがれちる 滋賀しが草津くさつ宿本しゅくほんじん
  11. ^ 彦根城ひこねじょう 夜間やかん開放かいほう14にちしろフェスとしろサミットのパンフレット完成かんせい
  12. ^ 全国ぜんこくじょうサミットin彦根ひこね
  13. ^ 滋賀しがけん観光かんこう情報じょうほう全国ぜんこくじょうサミットin彦根ひこね
  14. ^ 琵琶湖びわことその水辺みずべ景観けいかんいのりとらしのみず遺産いさん”. 文化庁ぶんかちょう. 2020ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  15. ^ 90ねんまえ彦根ひこね城下じょうか航空こうくう写真しゃしん発見はっけん まえ外堀そとぼりあと
  16. ^ 国宝こくほう彦根城ひこねじょう築城ちくじょう410ねんさい
  17. ^ 彦根城ひこねじょう外堀そとぼり正門せいもん櫓門やぐらもんか 滋賀しが礎石そせき石垣いしがき出土しゅつど印刷いんさつよう画面がめんひら
  18. ^ 国宝こくほう彦根城ひこねじょうがアートにかがやく、タンポポを「天守てんしゅ」に投影とうえい Lmagazine(京阪神けいはんしんエルマガジンしゃ) 2023ねん10がつ19にち
  19. ^ Tentative Lists 》 Hikone-Jo (castle) UNESCO World Heritage Center
  20. ^ 『ユネスコ世界せかい遺産いさん年報ねんぽう2002』日本にっぽんユネスコ協会きょうかい連盟れんめい、2002ねん3がつ15にちISBN 4-582-71404-8 
  21. ^ a b c d 国宝こくほう5じょう世界せかい文化ぶんか遺産いさん登録とうろくへ 松本まつもと犬山いぬやま松江まつえが「連携れんけい」も…「単独たんどく」の姫路ひめじ彦根ひこねとは温度おんど. 東京とうきょう新聞しんぶん. (2021ねん11月16にち). https://www.tokyo-np.co.jp/article/143017 2023ねん7がつ15にち閲覧えつらん 
  22. ^ a b c d e f g ©彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさんに 》 「登録とうろくけたみ」 彦根ひこね
  23. ^ a b 世界せかい遺産いさん登録とうろくけたみ(平成へいせい25年度ねんどまで) 彦根ひこね
  24. ^ a b 世界せかい遺産いさん登録とうろくけたみ(平成へいせい26年度ねんど 彦根ひこね
  25. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろくけたみ(平成へいせい28年度ねんど 彦根ひこね
  26. ^ 彦根城ひこねじょう24ねん世界せかい遺産いさん目指めざ本年度ほんねんどちゅう推薦すいせんしょ原案げんあん提出ていしゅつへ”. 京都きょうと新聞しんぶん. (2018ねん10がつ22にち). https://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20181022000077 2018ねん11月26にち閲覧えつらん 
  27. ^ “20年度ねんど世界せかい遺産いさん候補こうほ選定せんてい見送みおくり”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2020ねん6がつ29にち). https://www.sankei.com/article/20200629-BEMMOT5KHZP7NOCNRTO2Y757RE/ 2023ねん12月12にち閲覧えつらん 
  28. ^ 彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん登録とうろく、24年度ねんど目標もくひょう堅持けんじ 市長しちょうのがしたさい方向ほうこうせいかんがなおす」”. 中日ちゅうにち新聞しんぶん (2021ねん6がつ15にち). 2021ねん6がつ19にち閲覧えつらん
  29. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろくへ1ねんあづけ/滋賀しが”. BBCびわ湖放送こほうそう (2022ねん8がつ3にち). 2022ねん8がつ4にち閲覧えつらん
  30. ^ ““彦根城ひこねじょう世界せかい遺産いさん登録とうろくなに必要ひつよう” 3にん専門せんもん視察しさつ. NHK. (2023ねん3がつ17にち). https://www3.nhk.or.jp/lnews/otsu/20230317/2060012905.html 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん 
  31. ^ たたかしろから平和へいわ象徴しょうちょうへ。築城ちくじょう当時とうじのままの姿すがた現代げんだいのこ国宝こくほう彦根城ひこねじょう」”. NIHONMONO. (2023ねん4がつ18にち). https://nihonmono.jp/article/36249/ 2023ねん7がつ16にち閲覧えつらん 
  32. ^ 今後こんご世界せかい文化ぶんか遺産いさんへの推薦すいせんかか文化ぶんか審議しんぎかい意見いけんについて”. 文化庁ぶんかちょう (2023ねん7がつ4にち). 2023ねん7がつ5にち閲覧えつらん
  33. ^ 彦根城ひこねじょうの「事前じぜん評価ひょうか申請しんせい世界せかい遺産いさん可能かのうせい確認かくにんへ―政府せいふ. 時事通信じじつうしん. (2023ねん9がつ5にち). https://sp.m.jiji.com/article/show/3038618 2023ねん9がつ6にち閲覧えつらん 
  34. ^ 上田うえだ耕三こうぞうほか三浦みうら正幸まさゆき監修かんしゅう『【決定けっていばん図説ずせつ天守てんしゅのすべて : しろ象徴しょうちょうにこめられたわざ智恵ちえ学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ歴史れきしぐんぞうシリーズ ; 特別とくべつ編集へんしゅう〉、2007ねん4がつISBN 978-4-05-604634-2NCID BA81899412全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:21228492 
  35. ^ 彦根城ひこねじょう 天守てんしゅの「かく部屋へや」には屋外おくがいからえないしょうまど存在そんざい
  36. ^ 西にしだに (2001), p. 111.
  37. ^ a b c 土屋つちや & 城戸きど (1938), p. 219.
  38. ^ a b 西にしだに (2001), p. 112.
  39. ^ a b 土屋つちや & 城戸きど (1938), p. 220.
  40. ^ a b 西にしだに (2001), p. 114.
  41. ^ 彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかん(2018ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  42. ^ 開国かいこく記念きねんかん彦根ひこねホームページ(2018ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  43. ^ 彦根城ひこねじょう観覧かんらんについて(2018ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  44. ^ 彦根城ひこねじょういきでの登場とうじょうひこにゃん公式こうしきサイト(2018ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]