1945年 ねん 9月2日 にち 、戦艦 せんかん 「ミズーリ 」艦上 かんじょう でリチャード・サザランド 中将 ちゅうじょう が見守 みまも る中 なか 、降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい する重光 しげみつ 葵 まもる 外務 がいむ 大臣 だいじん 。右 みぎ は随行 ずいこう の加瀬 かせ 俊一 しゅんいち
日本 にっぽん の降伏 ごうぶく (にほんのこうふく)とは、通常 つうじょう 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (太平洋戦争 たいへいようせんそう /大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )末期 まっき の日本 にっぽん による、連合 れんごう 国 こく (事実 じじつ 上 じょう のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく )のポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく (1945年 ねん 8月 がつ 10日 とおか )から玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう および日本 にっぽん 軍 ぐん の戦闘 せんとう 停止 ていし (8月 がつ 15日 にち )、降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 署名 しょめい (9月2日 にち )に至 いた るまでの過程 かてい を指 さ す。以下 いか 、日本 にっぽん 及 およ びその各 かく 占領 せんりょう 地 ち における経過 けいか を説明 せつめい する。
なお、掲 かか げられたのは星条旗 せいじょうき (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の国旗 こっき )のみで、日本 にっぽん の国旗 こっき や他 た の連合 れんごう 国 こく の国旗 こっき も掲 かか げられなかった。
ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく までの経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
ポツダム会談 かいだん の様子 ようす 。写真 しゃしん には、クレメント・アトリー 、アーネスト・ベヴィン 、ヴャチェスラフ・モロトフ 、ヨシフ・スターリン 、ウィリアム・リーヒ 、ジェームズ・F・バーンズ 及 およ びハリー・S・トルーマン を含 ふく む
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )7月 がつ 、サイパンの戦 たたか い でサイパン島 とう が陥落 かんらく すると、岸 きし 信介 しんすけ 国務大臣 こくむだいじん 兼 けん 軍需 ぐんじゅ 次官 じかん (開戦 かいせん 時 じ は商工 しょうこう 大臣 だいじん )が東條 とうじょう 英機 ひでき 首相 しゅしょう に「本土 ほんど 爆撃 ばくげき が繰 く り返 かえ されれば必要 ひつよう な軍需 ぐんじゅ を生産 せいさん できず、軍需 ぐんじゅ 次官 じかん としての責任 せきにん を全 まっと うできないから講和 こうわ すべし」と進言 しんげん した。これに対 たい し、東條 とうじょう は岸 きし に「ならば辞職 じしょく せよ」と辞職 じしょく を迫 せま った。ところが、岸 きし は東條 とうじょう 配下 はいか の憲兵 けんぺい 隊 たい の脅 おど しにも屈 こごめ せず、辞職 じしょく 要求 ようきゅう を拒否 きょひ し続 つづ けたため、閣 かく 内 ない 不一致 ふいっち は明白 めいはく となり、「東條 とうじょう 幕府 ばくふ 」とも呼 よ ばれた開戦 かいせん 内 ない 閣 かく ですら、内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく をせざるを得 え なくなった。
しかしながら、憲兵 けんぺい 隊 たい を配下 はいか に持 も ち陸軍 りくぐん 最大 さいだい の権力 けんりょく 者 しゃ でもある東條 とうじょう が内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく して、後継 こうけい 内 ない 閣 かく の背後 はいご に回 まわ ったため、その後 ご の内閣 ないかく も戦争 せんそう を無理矢理 むりやり 継続 けいぞく せざるを得 え ず、岸 きし が半 なか ば命 いのち を懸 か けて訴 うった えた停戦 ていせん 講和 こうわ の必要 ひつよう 性 せい すら公然 こうぜん と検討 けんとう しにくいという状態 じょうたい が続 つづ いた[1] 。1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )以降 いこう の連合 れんごう 国軍 こくぐん の反攻 はんこう による日本 にっぽん 列島 れっとう への空襲 くうしゅう は時間 じかん の問題 もんだい であったため、戦争 せんそう 終結 しゅうけつ への動 うご きは、この後 のち も水面 すいめん 下 か で続 つづ いた。
東條 とうじょう 内閣 ないかく の後継 こうけい となった小磯 こいそ 内閣 ないかく は、本土 ほんど 決戦 けっせん を準備 じゅんび しつつも、和平 わへい 工作 こうさく を秘密裏 ひみつり に模索 もさく した。元 もと 陸相 りくしょう であった宇垣 うがき 一成 いっせい を大陸 たいりく に派遣 はけん し、中華民国 ちゅうかみんこく 重慶 たーちん 国民 こくみん 政府 せいふ との和平 わへい 交渉 こうしょう を打診 だしん した。そして、サイパンが陥落 かんらく し、本土 ほんど への連合 れんごう 国軍 こくぐん による空襲 くうしゅう が本格 ほんかく 化 か した1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )3月 がつ には南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ 高官 こうかん でありながら、既 すで に重慶 たーちん 政府 せいふ と通 つう じていることが知 し られていた繆斌 を日本 にっぽん に招 まね き、和平 わへい の仲介 ちゅうかい を依頼 いらい した。ところが、重光 しげみつ 葵 まもる 外相 がいしょう が繆斌を信用 しんよう せず、小磯 こいそ 国昭 くにあき 首相 しゅしょう と対立 たいりつ し、これも閣 かく 内 ない 不一致 ふいっち で内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく となった。
この間 あいだ の1945年 ねん 2月 がつ 、元 もと 首相 しゅしょう の近衛 このえ 文麿 ふみまろ を中心 ちゅうしん としたグループは、戦争 せんそう がこれ以上 いじょう 長期 ちょうき 化 か すれば「ソビエト連邦 れんぽう 軍 ぐん による占領 せんりょう 及 およ び“日本 にっぽん の赤化 せっか ”を招 まね く」という危険 きけん 性 せい を訴 うった えた上 うえ で、戦争 せんそう の終結 しゅうけつ を求 もと める「近衛 このえ 上奏 じょうそう 文 ぶん 」を昭和 しょうわ 天皇 てんのう に献言 けんげん した。ところが、昭和 しょうわ 天皇 てんのう はこれを却下 きゃっか し、この工作 こうさく を察知 さっち した憲兵 けんぺい 隊 たい により、吉田 よしだ 茂 しげる ・岩淵 いわぶち 辰雄 たつお ・殖 ふえ 田 た 俊吉 しゅんきち らいわゆる「ヨハンセングループ 」が逮捕 たいほ された。そして昭和 しょうわ 前期 ぜんき の日本 にっぽん 軍 ぐん ・政治 せいじ 家 か ・官僚 かんりょう は、「国体 こくたい 護持 ごじ 」を主張 しゅちょう しつつ、もはや勝利 しょうり の見通 みとお しの全 まった く立 た たなくなった戦争 せんそう を、更 さら に神風 かみかぜ 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい まで編成 へんせい して、無謀 むぼう な戦闘 せんとう を継続 けいぞく させた。
1945年 ねん 4月 がつ 7日 にち に成立 せいりつ した鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく の東郷 とうごう 茂徳 しげのり 外相 がいしょう は、日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく が翌年 よくねん 4月 がつ には期限 きげん が切 き れても、それまでは有効 ゆうこう なはずであったことから、ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう を仲介 ちゅうかい 役 やく として和平 わへい 交渉 こうしょう を行 おこな おうとした。東郷 とうごう 個人 こじん はスターリン が日本 にっぽん を「侵略 しんりゃく 国 こく 」と呼 よ んでいること(1944年 ねん 革命 かくめい 記念 きねん 日 び 演説 えんぜつ )から、連合 れんごう 国 こく との和平 わへい 交渉 こうしょう の機会 きかい を既 すで に逸 いっ したと見 み ていたものの、陸軍 りくぐん が日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく の終了 しゅうりょう 時 じ 、もしくはそれ以前 いぜん のソ連 それん 軍 ぐん の満州 まんしゅう への侵攻 しんこう を回避 かいひ するための外交 がいこう 交渉 こうしょう を望 のぞ んでいたため、ソ連 それん が日本 にっぽん と連合 れんごう 国 こく との和平 わへい を仲介 ちゅうかい すると言 い えば、軍部 ぐんぶ もこれを拒 こば めないであろうという事情 じじょう 、また逆 ぎゃく にソ連 それん との交渉 こうしょう が破綻 はたん すれば、日本 にっぽん が外交 がいこう 的 てき に孤立 こりつ していることが明 あき らかとなり、大本営 だいほんえい も実質 じっしつ 上 じょう の降伏 ごうぶく となる条件 じょうけん を受 う け入 い れざるをえないであろうという打算 ださん があったとされている。かつて東郷 とうごう 自身 じしん 、駐 ちゅう ソ大使 たいし として、モスクワでノモンハン事件 じけん を処理 しょり し、ソ連 それん との和平 わへい を実現 じつげん させたという成功 せいこう 体験 たいけん も背景 はいけい にあったとされる。
翌 よく 5月 がつ 、最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ 構成 こうせい 員 いん 会合 かいごう (首相 しゅしょう ・陸相 りくしょう ・海 うみ 相 しょう ・外相 がいしょう ・陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ・海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう の6人 にん )において、東郷 とうごう 外相 がいしょう は、ソ連 それん の参戦 さんせん 防止 ぼうし 及 およ びソ連 それん の中立 ちゅうりつ をソ連 それん に確約 かくやく させるための外交 がいこう 交渉 こうしょう を行 おこ なうという合意 ごうい を得 え た。当初 とうしょ 、これには戦争 せんそう 終結 しゅうけつ も目的 もくてき として含 ふく まれていたが、阿南 あなみ 惟幾 これちか 陸相 りくしょう が「本土 ほんど を失 うしな っていない日本 にっぽん はまだ負 ま けていない」と反対 はんたい したため、上記 じょうき 2項目 こうもく のみを目的 もくてき とすることとなった[2] 。東郷 とうごう は、かつての上司 じょうし であった元 もと 首相 しゅしょう の広田 ひろた 弘毅 こうき をヤコフ・マリク ソ連 それん 大使 たいし とソ連 それん 大使館 たいしかん (強羅 ごうら ホテル に疎開 そかい 中 ちゅう )などで会談 かいだん させたが、戦争 せんそう 終結 しゅうけつ のための具体 ぐたい 的 てき 条件 じょうけん や「戦争 せんそう 終結 しゅうけつ のための依頼 いらい 」であることを明言 めいげん しなかったため、何 なん ら成果 せいか はなかった。
その上 うえ 、6月6日 にち 、最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ 構成 こうせい 員 いん 会合 かいごう で「国体 こくたい 護持 ごじ と皇 すめらぎ 土 ど 保衛 やすえ 」のために戦争 せんそう を完遂 かんすい するという「今後 こんご 採 と ルヘキ戦争 せんそう 指導 しどう ノ基本 きほん 大綱 たいこう 」が採択 さいたく され、それが御前 ごぜん 会議 かいぎ で正式 せいしき 決定 けってい されたため、日本 にっぽん 側 がわ からの早期 そうき の戦争 せんそう 終結 しゅうけつ は少 すく なくとも表面 ひょうめん 上 じょう は全 まった く不可能 ふかのう となった。にもかかわらず、矛盾 むじゅん する事 こと に、木戸 きど 幸一 こういち 内大臣 ないだいじん と東郷 とうごう 外相 がいしょう 及 およ び米内 よない 光政 みつまさ 海 うみ 相 しょう は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の際限 さいげん ない長期 ちょうき 化 か を憂慮 ゆうりょ して、ソ連 それん による和平 わへい の斡旋 あっせん へと動 うご き出 だ した[3] 。木戸 きど からソ連 それん の斡旋 あっせん による早期 そうき 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ の提案 ていあん を受 う けた昭和 しょうわ 天皇 てんのう はこれに同意 どうい し、6月22日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ でソ連 それん に和平 わへい 斡旋 あっせん を速 すみ やかに行 おこな うよう政府 せいふ 首脳 しゅのう に要請 ようせい した[4] 。
しかし、東郷 とうごう による広田 ひろた ・マリク会談 かいだん は、それまでと同様 どうよう 、何 なん ら進展 しんてん しなかった。ただし広田 ひろた は、1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )のリットン報告 ほうこく 書 しょ のことを考 かんが えれば遅 おそ きに失 しっ した感 かん はあるが、マリクとの最後 さいご の会談 かいだん で、和平 わへい 斡旋 あっせん の条件 じょうけん として満州 まんしゅう 国 こく (現在 げんざい の中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ )を中立 ちゅうりつ 化 か することをソ連 それん に提案 ていあん している[5] 。しかし、マリクは政府 せいふ 上層 じょうそう 部 ぶ で真剣 しんけん に考慮 こうりょ されるだろうと回答 かいとう しただけであった[6] 。7月7日 にち 、これを伝 つた え聞 き いた天皇 てんのう は東郷 とうごう に親書 しんしょ を持 も った特使 とくし を派遣 はけん してはどうかと述 の べた[7] 。そこで東郷 とうごう 外相 がいしょう は近衛 このえ に特使 とくし を依頼 いらい し、7月 がつ 12日 にち 、近衛 このえ は天皇 てんのう から正式 せいしき に特使 とくし に任命 にんめい された。日本 にっぽん 外務省 がいむしょう は、モスクワの日本 にっぽん 大使館 たいしかん を通 つう じて、特使 とくし 派遣 はけん と和平 わへい 斡旋 あっせん の依頼 いらい をソ連 それん 外務省 がいむしょう に伝 つた えることとなった[8] 。
しかしながら、既 すで にソ連 それん は、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )2月 がつ のヤルタ会談 かいだん において、ヨーロッパでの戦勝 せんしょう の日 ひ から3ヶ月 かげつ 以内 いない に対 たい 日 にち 宣戦 せんせん することで英 えい 米 べい と合意 ごうい しており、それとは矛盾 むじゅん する日本 にっぽん 政府 せいふ からのソ連 それん 中立 ちゅうりつ の要請 ようせい や、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の停戦 ていせん 講和 こうわ の依頼 いらい など受 う けられるはずがなかった。5月から6月 がつ にかけて、ポルトガル やスイス にある在外 ざいがい 公館 こうかん の陸海 りくかい 軍 ぐん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん から、ソ連 それん の対 たい 日 にち 参戦 さんせん についての情報 じょうほう が日本 にっぽん に送 おく られたり[9] 、モスクワから帰国 きこく した陸軍 りくぐん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん 補佐 ほさ 官 かん の浅井 あさい 勇 いさむ 中佐 ちゅうさ から「シベリア鉄道 てつどう におけるソ連 それん 兵力 へいりょく の極東 きょくとう 方面 ほうめん への移動 いどう 」が関東軍 かんとうぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ に報告 ほうこく されたりしていたが[10] 、これらの決定的 けっていてき に重要 じゅうよう な情報 じょうほう は全 すべ て、日本 にっぽん 軍 ぐん ・外務省 がいむしょう の間 あいだ では、不都合 ふつごう 過 す ぎて真剣 しんけん に共有 きょうゆう されなかったか、重要 じゅうよう 性 せい に気付 きづ かれないまま捨 す て置 お かれていただけであった。
1945年 ねん 7月 がつ 、ソ連 それん は、ベルリン 郊外 こうがい のソ連 それん 支配 しはい 地域 ちいき であるポツダム においてポツダム会談 かいだん を主催 しゅさい し、イギリス とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、中華民国 ちゅうかみんこく の首脳 しゅのう 会談 かいだん によるポツダム宣言 せんげん に同意 どうい する。その際 さい 、ソ連 それん への近衛 このえ 文麿 ふみまろ 特使 とくし による和平 わへい 工作 こうさく について、米 べい 英 えい と協議 きょうぎ し、ソ連 それん は対 たい 日 にち 宣戦 せんせん 布告 ふこく まで大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ の照会 しょうかい を放置 ほうち することとした。
他方 たほう 、帝国 ていこく 政府 せいふ は、なおもソ連 それん 政府 せいふ による和平 わへい 仲介 ちゅうかい に期待 きたい し続 つづ けた。これを受 う けた東郷 とうごう は最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ と閣議 かくぎ において、「本 ほん 宣言 せんげん は有 ゆう 条件 じょうけん 講和 こうわ であり、これを拒否 きょひ する時 とき は極 きわ めて重大 じゅうだい なる結果 けっか を惹起 じゃっき する」と発言 はつげん した。内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう は記者 きしゃ 会見 かいけん で7月 がつ 28日 にち に「政府 せいふ としては重大 じゅうだい な価値 かち あるものとは認 みと めず黙殺 もくさつ し、斷固 だんこ 戰争 せんそう 完遂 かんすい に邁進 まいしん する」と述 の べ[注釈 ちゅうしゃく 1] 、本土 ほんど 決戦 けっせん に備 そな えた。
8月 がつ 6日 にち には広島 ひろしま への、8月 がつ 9日 にち 午前 ごぜん 11時 じ には長崎 ながさき への原爆 げんばく 投下 とうか があったが、日本 にっぽん の降伏 ごうぶく を決定 けってい 付 つ けたのは、8月 がつ 9日 にち 未明 みめい のソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん であった。日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を結 むす んでいたソ連 それん からの突然 とつぜん の宣戦 せんせん 布告 ふこく と満 まん 洲 しゅう 国 こく への侵攻 しんこう により、大日本帝国 だいにっぽんていこく には実質 じっしつ 上 じょう 「ポツダム宣言 せんげん 」の無条件 むじょうけん 受諾 じゅだく による降伏 ごうぶく しか選択肢 せんたくし がなくなった[8] 。(参照 さんしょう :無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく )
ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく から玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう まで(8月 がつ 10日 とおか -15日 にち ) [ 編集 へんしゅう ]
8月 がつ 10日 とおか
松 まつ 花江 はなえ で進軍 しんぐん を続 つづ けるソ連 それん 軍 ぐん (8月 がつ 10日 とおか )
10日 とおか 午前 ごぜん 0時 じ 3分 ふん [11] から行 おこな われた御前 ごぜん 会議 かいぎ での議論 ぎろん では、外相 がいしょう の東郷 とうごう 茂徳 しげのり 、海 うみ 相 しょう の米内 よない 光政 みつまさ 、枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう の平沼 ひらぬま 騏一郎 きいちろう が、天皇 てんのう の地位 ちい の保障 ほしょう のみを条件 じょうけん とするポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく を主張 しゅちょう 、それに対 たい し陸相 りくしょう の阿南 あなみ 惟幾 これちか 、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう の梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 、海 うみ 軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう の豊田 とよだ 副 ふく 武 ぶ は「ポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく には多数 たすう の条件 じょうけん をつけるべきで、条件 じょうけん が拒否 きょひ されたら本土 ほんど 決戦 けっせん をするべきだ」と受諾 じゅだく 反対 はんたい を主張 しゅちょう した。
しかし、唯一 ゆいいつ の同盟 どうめい 国 こく であったドイツ政府 せいふ は5月に無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドなどの連合 れんごう 軍 ぐん は本土 ほんど に迫 せま っており、さらに唯一 ゆいいつ の頼 たの みの綱 つな であった元 もと 中立 ちゅうりつ 国 こく で日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく を破 やぶ って開戦 かいせん したソ連 それん も、先日 せんじつ の開戦 かいせん により樺太 からふと や満州 まんしゅう から日本 にっぽん 本土 ほんど へ迫 せま っており、北海道 ほっかいどう 上陸 じょうりく さえ時間 じかん の問題 もんだい であった。
ヤコフ・マリク 駐 ちゅう 日 にち ソ連 それん 大使 たいし
ここで鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 首相 しゅしょう が昭和 しょうわ 天皇 てんのう に発言 はつげん を促 うなが し、天皇 てんのう 自身 じしん が和平 わへい を望 のぞ んでいることを直接 ちょくせつ 口 くち にしたことにより御前 ごぜん 会議 かいぎ での議論 ぎろん は降伏 ごうぶく へと収束 しゅうそく し、10日 とおか の午前 ごぜん 3時 じ から行 おこな われた閣議 かくぎ で日本 にっぽん のポツダム宣言 せんげん 受託 じゅたく が承認 しょうにん された[12] 。
日本 にっぽん 国 こく の首脳 しゅのう 陣 じん の中 なか では、最終 さいしゅう 的 てき に中立 ちゅうりつ 国 こく であったソ連 それん の参戦 さんせん が最終 さいしゅう 的 てき にポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく を受託 じゅたく する理由 りゆう となった が、実際 じっさい に昭和 しょうわ 天皇 てんのう 実録 じつろく に記載 きさい されている一連 いちれん の和平 わへい 実現 じつげん を巡 めぐ る経緯 けいい に対 たい し、当時 とうじ の出席 しゅっせき 者 しゃ や歴史 れきし 学者 がくしゃ の伊藤 いとう 之 の 雄 ゆう は「(対 たい 日 にち 中立 ちゅうりつ 国 こく の)ソ連 それん 参戦 さんせん がポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく を最終 さいしゅう 的 てき に決意 けつい する原因 げんいん だった ことが改 あらた めて読 よ み取 と れる」と述 の べている[13] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ は、ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく により全日本 ぜんにほん 軍 ぐん が降伏 ごうぶく を決定 けってい する用意 ようい がある事実 じじつ を、10日 とおか の午前 ごぜん 8時 じ に海外 かいがい 向 む けのラジオの国営 こくえい 放送 ほうそう を通 つう じ、日本語 にほんご と英語 えいご で3回 かい にわたり世界 せかい へ放送 ほうそう し、また同盟 どうめい 通信 つうしん 社 しゃ からモールス通信 つうしん で交戦 こうせん 国 こく に直接 ちょくせつ 通知 つうち が行 おこな われた 。また中立 ちゅうりつ 国 こく の加瀬 かせ 俊一 しゅんいち スイス公使 こうし と岡本 おかもと 季 き 正 ただし スウェーデン公使 こうし より、11日 にち に両国 りょうこく 外務 がいむ 大臣 だいじん に手渡 てわた され、両国 りょうこく より連合 れんごう 国 こく に渡 わた された。これ以降 いこう 連合 れんごう 国 こく からの回答 かいとう を待 ま つことになる。なおスウェーデンなど一部 いちぶ の中立 ちゅうりつ 国 こく では、ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく により全日本 ぜんにほん 軍 ぐん が降伏 ごうぶく を決定 けってい する用意 ようい がある事実 じじつ を、「日本 にっぽん が降伏 ごうぶく した」と早 はや とちりし、一部 いちぶ マスコミがこれを報 ほう じた場合 ばあい があった[14] 。
なおソ連 それん 大使館 たいしかん 側 がわ の要請 ようせい により、10日 とおか 午前 ごぜん 11時 じ から貴族 きぞく 院 いん 貴賓 きひん 室 しつ にて外相 がいしょう 東郷 とうごう と駐 ちゅう 日 にち ソ連 それん 大使 たいし ヤコフ・マリク の会談 かいだん が行 おこな われた。その中 なか で、マリク大使 たいし より正式 せいしき に対 たい 日 にち 宣戦 せんせん 布告 ふこく の通知 つうち が行 おこな われたのに対 たい し、東郷 とうごう は「日本 にっぽん 側 がわ はソ連 それん 側 がわ からの特使 とくし 派遣 はけん の回答 かいとう を待 ま っており、ポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく の可否 かひ もその回答 かいとう を参考 さんこう にして決 き められる筈 はず なのに、その回答 かいとう もせずに何 なに をもって日本 にっぽん が宣言 せんげん を拒否 きょひ したとして突然 とつぜん 戦争 せんそう 状態 じょうたい に入 はい ったとしているのか」とソ連 それん 側 がわ を強 つよ く批判 ひはん した。また10日 とおか 夜 よる にはソ連 それん 軍 ぐん による南 みなみ 樺太 からふと および千島 ちしま 列島 れっとう への進攻 しんこう 、つまり沖縄 おきなわ に次 つ ぐ日本 にっぽん 固有 こゆう の領土 りょうど 内 ない での、市民 しみん を巻 ま き込 こ んだ市街 しがい 戦 せん も開始 かいし された[15] 。
ポツダム宣言 せんげん は日本 にっぽん 政府 せいふ により正式 せいしき に受諾 じゅだく の意思 いし があることが表明 ひょうめい されたものの、この時点 じてん では日本 にっぽん 軍 ぐん や一般 いっぱん 市民 しみん に対 たい してもそのことは伏 ふ せられており、さらに停戦 ていせん も全 ぜん 軍 ぐん に対 たい して行 おこな われていなかった。それは「ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく =降伏 ごうぶく ではない」ことから、完全 かんぜん な停戦 ていせん を行 おこな っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連 それん などの連合 れんごう 国 こく も同様 どうよう であった[16] 。なお実際 じっさい 10日 とおか にはアメリカ軍 ぐん により花巻 はなまき 空襲 くうしゅう が行 おこな われ、家屋 かおく 673戸 こ 、倒壊 とうかい 家屋 かおく 61戸 こ 、死者 ししゃ 42名 めい の被害 ひがい を出 だ した。
先頭 せんとう から順 じゅん に鈴木 すずき 首相 しゅしょう 、米 べい 内海 うちうみ 相 しょう 、阿南 あなみ 陸相 りくしょう
8月 がつ 11日 にち
11日 にち においては日本 にっぽん 、連合 れんごう 国 こく の双方 そうほう の首脳 しゅのう 陣 じん において大 おお きな動 うご きはなかった。
8月 がつ 12日 にち
12日 にち 午前 ごぜん 0時 じ 過 す ぎに連合 れんごう 国 こく は、日本 にっぽん のポツダム宣言 せんげん 受託 じゅたく の承認 しょうにん を受 う けて、連合 れんごう 国 こく を代表 だいひょう するものとしてアメリカのジェームズ・F・バーンズ 国務 こくむ 長官 ちょうかん による日本 にっぽん のポツダム宣言 せんげん 受託 じゅたく への正式 せいしき な返答 へんとう 、いわゆる「バーンズ回答 かいとう 」を行 おこな った[12] 。
その回答 かいとう を一部 いちぶ 和訳 わやく すると「降伏 ごうぶく の時 とき より、天皇 てんのう 及 およ び日本国 にっぽんこく 政府 せいふ の国家 こっか 統治 とうち の権限 けんげん は降伏 ごうぶく 条項 じょうこう の実施 じっし の為 ため 其 そ の必要 ひつよう と認 みとめ むる処置 しょち を執 と る連合 れんごう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に従属 じゅうぞく (subject to)する」[17] としながらも、「日本 にっぽん の政体 せいたい は日本 にっぽん 国民 こくみん が自由 じゆう に表明 ひょうめい する意思 いし のもとに決定 けってい される」[18] というものであった。この回答 かいとう の意図 いと は、「天皇 てんのう の権力 けんりょく は最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に従属 じゅうぞく するものであると規定 きてい することによって、間接 かんせつ 的 てき に天皇 てんのう の地位 ちい を認 みと めたもの」[19] であった。また、トルーマンは自身 じしん の日記 にっき に「彼 かれ らは天皇 てんのう を守 まも りたかった。我々 われわれ は彼 かれ らに、彼 かれ を保持 ほじ する方法 ほうほう を教 おし えると伝 つた えた。」[20] と記 しる している。
しかし午前 ごぜん 中 ちゅう に原文 げんぶん を受 う け取 と った参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は、これを「隷属 れいぞく する」と曲解 きょっかい して阿南 あなん 陸相 りくしょう に伝 つた えたため、軍部 ぐんぶ 強硬 きょうこう 派 は が国体 こくたい 護持 ごじ について再 さい 照会 しょうかい を主張 しゅちょう し、また「連合 れんごう 国 こく 全体 ぜんたい ではなくアメリカ1国 こく だけの回答 かいとう 」であることや、「アメリカ大統領 だいとうりょう ではなく国務 こくむ 長官 ちょうかん からの回答 かいとう 」であったこともあり、鈴木 すずき 首相 しゅしょう も再 さい 照会 しょうかい について同調 どうちょう した[12] 。東郷 とうごう 外相 がいしょう は「(連合 れんごう 国 こく からの)正式 せいしき な公電 こうでん が到着 とうちゃく していない」と回答 かいとう して時間 じかん 稼 かせ ぎを行 おこな ったが、一時 いちじ は辞意 じい を漏 も らすほどであった。
なお12日 にち 朝 あさ には皇族 こうぞく に対 たい して、ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく 承認 しょうにん を昭和 しょうわ 天皇 てんのう から直接 ちょくせつ 伝 つた えられている。にもかかわらず、12日 にち 午後 ごご には軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう の豊田 とよだ は梅津 うめづ 陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ともにポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく の反対 はんたい を奏上 そうじょう する[23] 。同 どう 日米 にちべい 内 ない 海軍 かいぐん 大臣 だいじん は豊田 とよだ と大西 おおにし の2人 ふたり を呼 よ び出 だ した。米 べい 内 ない は豊田 とよだ の行動 こうどう を「それから又 また 大臣 だいじん には何 なん の相談 そうだん もなく、あんな重大 じゅうだい な問題 もんだい を、陸軍 りくぐん と一緒 いっしょ になって上奏 じょうそう するとは何事 なにごと か。僕 ぼく は軍令 ぐんれい 部 ぶ のやることに兎 うさぎ や角 かく 干渉 かんしょう するのではない。しかし今度 こんど のことは、明 あかり かに一 いち 応 おう は、海軍 かいぐん 大臣 だいじん と意見 いけん を交 まじ えた上 うえ でなければ、軍令 ぐんれい 部 ぶ と雖も勝手 かって に行動 こうどう すべからざることである。昨日 きのう 海軍 かいぐん 部内 ぶない 一般 いっぱん に出 だ した訓示 くんじ は、このようなことを戒 いまし めたものである。それにも拘 かかわ らず斯る振舞 ふるまい に出 で たことは不都合 ふつごう 千 せん 万 まん である」と述 の べ、また大西 おおにし には「最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ (9日 にち )に、招 まね かれもせぬのに不謹慎 ふきんしん な態度 たいど で入 はい って来 く るなんていうことは、実 じつ にみっともない。そんなことは止 とど めろ」となどと激 はげ しく叱責 しっせき し、豊田 とよだ は硬直 こうちょく したかのような不動 ふどう の姿勢 しせい で聞 き き、「申 もう し訳 わけ ない」という様子 ようす で一言 ひとこと も答 こた えなかった[24] 。
8月 がつ 13日 にち
小田原 おだわら 空襲 くうしゅう 後 ご の市街地 しがいち (8月 がつ 14日 にち )
この日 ひ の閣議 かくぎ は2回 かい 行 おこな われ、午前 ごぜん 9時 じ から行 おこな われた日本 にっぽん 政府 せいふ と軍 ぐん の最高 さいこう 戦争 せんそう 指導 しどう 会議 かいぎ では、「国体 こくたい 護持 ごじ について再 さい 照会 しょうかい の返答 へんとう 」をめぐり再度 さいど 議論 ぎろん が紛糾 ふんきゅう したが、これに先立 さきだ つ午前 ごぜん 2時 じ に駐 ちゅう スウェーデン公使 こうし 岡本 おかもと 季 き 正 ただし から「バーンズ回答 かいとう は日本 にっぽん 側 がわ の申 もう し入 い れを受 う け入 い れたものである」という報告 ほうこく が到着 とうちゃく し、2回 かい 目 め にはポツダム宣言 せんげん の即時 そくじ 受諾 じゅだく が優勢 ゆうせい となった。
しかし1日 にち 以上 いじょう 経 た っても、「バーンズ回答 かいとう 」に対 たい しての日本 にっぽん 政府 せいふ からの「正式 せいしき な回答 かいとう 」がなかったため、連合 れんごう 国 こく とアメリカ政府 せいふ 、連合 れんごう 国軍 こくぐん とアメリカ軍 ぐん では「日本 にっぽん のポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく への回答 かいとう が遅 おそ い」、「ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく に対 たい して、政府 せいふ と軍部 ぐんぶ でからの停戦 ていせん の同意 どうい がなされていないのではないか」という意見 いけん が起 お きており、13日 にち の夕刻 ゆうこく には日本 にっぽん 政府 せいふ の決定 けってい を訝 いぶか しむ連合 れんごう 国軍 こくぐん が、アメリカ軍 ぐん を通 つう じて東京 とうきょう に早期 そうき の申 もう し入 い れと、連合 れんごう 国 こく からの正式 せいしき な返答 へんとう である「バーンズ回答 かいとう 」を記 しる したビラを散布 さんぷ している[26] 。
さらにイギリスやアメリカ、そして中立 ちゅうりつ 国 こく の多 おお くも日本 にっぽん 政府 せいふ のポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく をラジオや新聞 しんぶん などで一般 いっぱん に伝 つた えたが、日本 にっぽん 政府 せいふ はポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく の意思 いし を日本 にっぽん 国民 こくみん および前線 ぜんせん に伝 つた えなかったために、日本 にっぽん 政府 せいふ と軍 ぐん の態度 たいど を懐疑 かいぎ 的 てき に見 み たイギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん 、ソ連 それん 軍 ぐん との戦闘 せんとう や爆 ばく 撃 げき は継続 けいぞく され、その後 ご も千葉 ちば (下記 かき 参照 さんしょう )や小田原 おだわら 、熊谷 くまがい や土崎 つちざき などへの空襲 くうしゅう や、南 みなみ 樺太 からふと および千島 ちしま 列島 れっとう 、満 まん 洲 しゅう 国 こく への地上 ちじょう 戦 せん も行 おこな われた[15] 。
8月 がつ 14日 にち
御前 ごぜん 会議 かいぎ (8月 がつ 14日 にち 午前 ごぜん 11時 じ /日本 にっぽん 標準時 ひょうじゅんじ )
午前 ごぜん 11時 じ より行 おこな われた再度 さいど の御前 ごぜん 会議 かいぎ は、昭和 しょうわ 天皇 てんのう 自身 じしん もその開催 かいさい を待 ま ち望 のぞ んでおり、阿南 あなみ 陸相 りくしょう は午後 ごご 1時 じ が都合 つごう がいいと申 もう し出 で していたが、昭和 しょうわ 天皇 てんのう はなるべく早 はや く開催 かいさい せよと鈴木 すずき 首相 しゅしょう に命 めい じて、午前 ごぜん 11時 じ 開始 かいし となった。
御前 ごぜん 会議 かいぎ では依然 いぜん として阿南 あなみ 陸相 りくしょう や梅津 うめづ 陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう らが戦争 せんそう 継続 けいぞく を主張 しゅちょう したが(この時 とき 阿南 あなん や梅津 うめづ は、もし終戦 しゅうせん になったら陸軍 りくぐん 内 ない で一部 いちぶ 将兵 しょうへい がクーデターが起 お こすことを認知 にんち していた)、昭和 しょうわ 天皇 てんのう が「私 わたし 自身 じしん はいかになろうと、国民 こくみん の生命 せいめい を助 たす けたいと思 おも う。私 わたし が国民 こくみん に呼 よ び掛 か けることがよければいつでもマイクの前 まえ に立 た つ。内閣 ないかく は至急 しきゅう に終戦 しゅうせん に関 かん する詔書 しょうしょ を用意 ようい して欲 ほ しい」と訴 うった えたことで、阿南 あなみ 陸相 りくしょう も了承 りょうしょう し、鈴木 すずき 首相 しゅしょう は至急 しきゅう 詔書 しょうしょ 勅 みことのり 案 あん 奉仕 ほうし の旨 むね を拝承 はいしょう した。
終戦 しゅうせん の詔書 しょうしょ の国務大臣 こくむだいじん 署名 しょめい 欄 らん (8月 がつ 14日 にち )
これを受 う けて夕方 ゆうがた には閣僚 かくりょう による終戦 しゅうせん の詔勅 しょうちょく への署名 しょめい 、深夜 しんや には昭和 しょうわ 天皇 てんのう による玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう が皇居 こうきょ 内 ない で録音 ろくおん され、録音 ろくおん されたレコードが放送 ほうそう 局 きょく に搬出 はんしゅつ された。また、終戦 しゅうせん の詔勅 しょうちょく の載 の った官報 かんぽう の号外 ごうがい 、それをやや解説 かいせつ する趣 おもむき のある内閣 ないかく 告諭 こくゆ の号外 ごうがい が印刷 いんさつ され、日付 ひづけ は8月 がつ 14日 にち 午後 ごご 11時 じ 公布 こうふ されたとの扱 あつか いになっている[28] (おそらく実際 じっさい の配布 はいふ ・掲示 けいじ は遅 おく らされたと思 おも われる。)。また加瀬 かせ スイス公使 こうし を通 つう じて、ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく に関 かん する正式 せいしき な詔書 しょうしょ を発布 はっぷ した旨 むね 、またポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく に伴 ともな い各種 かくしゅ の用意 ようい がある旨 むね が連合 れんごう 国 こく 側 がわ に伝 つた えられた[15] 。しかし連合 れんごう 国 こく は、未 いま だ日本 にっぽん 国民 こくみん や軍 ぐん に向 む けての通達 つうたつ が行 おこな われないままであることから、軍民 ぐんみん の体制 たいせい は崩 くず さぬままであった。
当日 とうじつ 新聞 しんぶん 朝刊 ちょうかん の配達 はいたつ ・販売 はんばい は正午 しょうご 以降 いこう とされた[28] 。なお、昭和 しょうわ 天皇 てんのう によるラジオ放送 ほうそう の予告 よこく は、午後 ごご 9時 じ の全国 ぜんこく および外地 がいち 、占領 せんりょう 地 ち などのラジオ放送 ほうそう のニュースで初 はじ めて行 おこな われた。昭和 しょうわ 天皇 てんのう がラジオで国民 こくみん に向 む けて話 はな すのはこれが初 はじ めてのことであった。内容 ないよう として「このたび詔書 しょうしょ が渙発 かんぱつ される」、「15日 にち 正午 しょうご に天皇 てんのう 自 みずか らの放送 ほうそう がある」、「国民 こくみん は1人 ひとり 残 のこ らず玉音 ぎょくおん を拝 はい するように」、「官公 かんこう 署 しょ 、事務所 じむしょ 、工場 こうじょう 、停車場 ていしゃじょう 、郵便 ゆうびん 局 きょく などでは手持 ても ち受信 じゅしん 機 き を活用 かつよう して国民 こくみん がもれなく放送 ほうそう を聞 き けるように手配 てはい すること」などが報 ほう じられたが、どのような内容 ないよう の放送 ほうそう が行 おこな われるかは秘 ひ されたままであった。
阿南 あなみ 陸相 りくしょう は14日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ の直後 ちょくご の午後 ごご 1時 じ に井田 いだ 正 ただし 孝 こう 中佐 ちゅうさ ら陸軍 りくぐん のクーデター首謀 しゅぼう 者 しゃ と会 あ い、御前 ごぜん 会議 かいぎ での昭和 しょうわ 天皇 てんのう の言葉 ことば を伝 つた え「国体 こくたい 護持 ごじ の問題 もんだい については、本日 ほんじつ も陛下 へいか は確証 かくしょう ありと仰 おお せられ、また元帥 げんすい 会議 かいぎ でも朕 ちん は確証 かくしょう を有 ゆう すと述 の べられている」、「御 ご 聖断 せいだん は下 くだ ったのだ、この上 うえ はただただ大 だい 御 ご 心 しん のままにすすむほかない。陛下 へいか がそう仰 おお せられたのも、全 ぜん 陸軍 りくぐん の忠誠 ちゅうせい に信 しん をおいておられるからにほかならない」、と諄諄 じゅんじゅん と説 と いて聞 き かせた。
しかしクーデター計画 けいかく の首謀 しゅぼう 者 しゃ の一人 ひとり であった井田 いだ 中佐 ちゅうさ は納得 なっとく せず「大臣 だいじん の決心 けっしん 変更 へんこう の理由 りゆう をおうかがいしたい」と尋 たず ねると、阿南 あなみ 陸相 りくしょう は「陛下 へいか はこの阿南 あなみ に対 たい し、お前 まえ の気持 きも ちはよくわかる。苦 くる しかろうが我慢 がまん してくれと涙 なみだ を流 なが して申 もう された。自分 じぶん としてはもはやこれ以上 いじょう 抗戦 こうせん を主張 しゅちょう できなかった」、「御 ご 聖断 せいだん は下 くだ ったのである。いまはそれに従 したが うばかりである。不服 ふふく のものは自分 じぶん の屍 かばね を越 こ えていけ」と説 と いた。
この期 き に及 およ んでも一部 いちぶ の佐官 さかん から抗議 こうぎ の声 こえ が上 あ がったが、阿南 あなみ 陸相 りくしょう はその者 もの たちに対 たい して「君 きみ 等 とう が反抗 はんこう したいなら先 ま ず阿南 あなみ を斬 き ってからやれ、俺 おれ の目 め の黒 くろ い間 あいだ は、一切 いっさい の妄動 もうどう は許 ゆる さん」と大喝 だいかつ している。
8月 がつ 15日 にち
しかし8月 がつ 15日 にち 未明 みめい には、「聖断 せいだん 」をも無視 むし する椎崎 しいざき 二郎 じろう 中佐 ちゅうさ や井田 いだ 正 ただし 孝 こう 中佐 ちゅうさ などの狂信 きょうしん 的 てき な陸軍 りくぐん 将校 しょうこう らにより、玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう の録音 ろくおん 音源 おんげん の強奪 ごうだつ 及 およ びクーデターの未遂 みすい 事件 じけん が皇居 こうきょ を舞台 ぶたい に発生 はっせい し、森 もり 赳 たけし 近衛 このえ 師 し 団長 だんちょう が殺害 さつがい されたが、15日 にち 朝 あさ に鎮圧 ちんあつ される(宮城 みやぎ 事件 じけん )など、昭和 しょうわ 天皇 てんのう の元 もと ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく をしたにもかかわらず陸軍 りくぐん 内 ない で争 あらそ いが起 お きていた。また、午前 ごぜん 6時 じ 過 す ぎにクーデターの発生 はっせい を伝 つた えられた昭和 しょうわ 天皇 てんのう は「自 みずか らが兵 へい の前 まえ に出向 でむ いて諭 さと そう」と述 の べている。なお、クーデターか起 お きる中 なか 、阿南 あなみ 惟幾 これちか 陸相 りくしょう は15日 にち 早朝 そうちょう に自決 じけつ している。
玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう を聞 き く日本 にっぽん 国民 こくみん (8月 がつ 15日 にち 12時 じ )
占 うらない 守 もり 島 とう で侵略 しんりゃく を続 つづ けるソ連 それん 軍 ぐん と戦 たたか う日本 にっぽん 軍 ぐん (8月 がつ 16日 にち )
また午前 ごぜん 7時 じ 21分 ふん より全国 ぜんこく および外地 がいち 、占領 せんりょう 地 ち などのラジオ放送 ほうそう で、正午 しょうご に昭和 しょうわ 天皇 てんのう 自 みずか らのラジオ放送 ほうそう が行 おこな われる旨 むね の2回 かい 目 め の事前 じぜん 放送 ほうそう が行 おこな われた[34] 。
正午 しょうご に昭和 しょうわ 天皇 てんのう はラジオ放送 ほうそう (玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう )をもって、日本 にっぽん の全 ぜん 国民 こくみん と全 ぜん 軍 ぐん にポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく と日本 にっぽん の敗戦 はいせん を表明 ひょうめい し、この時点 じてん で一部 いちぶ 地域 ちいき を除 のぞ きほぼ全 すべ ての日本 にっぽん 軍 ぐん の戦闘 せんとう 行為 こうい が停止 ていし された[35] 。
公式 こうしき な第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の最後 さいご の戦死 せんし 者 しゃ は、玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう の1時 じ 間 あいだ 半 はん 前 まえ の午前 ごぜん 10時 じ 過 す ぎに、イギリス海軍 かいぐん 空母 くうぼ 「インディファティガブル 」から化学 かがく 製品 せいひん 工場 こうじょう を爆撃 ばくげき すべく千葉 ちば 県 けん 長生 ちょうせい 郡 ぐん に飛来 ひらい したグラマン TBF アヴェンジャー らが日本 にっぽん 軍 ぐん に撃墜 げきつい され、乗組 のりくみ 員 いん 3名 めい が死亡 しぼう したものだった。なお、同 どう 作戦 さくせん でスーパーマリン シーファイア が零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き との戦闘 せんとう で撃墜 げきつい され、フレッド・ホックレー 少尉 しょうい が無事 ぶじ パラシュート降下 こうか し陸軍 りくぐん 第 だい 147師団 しだん 歩兵 ほへい 第 だい 426連隊 れんたい に捕 とら えられ、その約 やく 1時 じ 間 あいだ 後 ご に玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう があったもののそのまま解放 かいほう されず、夜 よる になり陸軍 りくぐん 将校 しょうこう により斬首 ざんしゅ された事件 じけん も発生 はっせい した(一宮 いちのみや 町 まち 事件 じけん )。
南 みなみ 樺太 からふと 、満 まん 洲 しゅう などは沖縄 おきなわ 戦 せん 同様 どうよう 民間 みんかん 人 じん を巻 ま き込 こ んだ凄惨 せいさん な地上 ちじょう 戦 せん となっていたが、ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく の8月 がつ 15日 にち 以降 いこう も、第 だい 5方面 ほうめん 軍 ぐん による南 みなみ 樺太 からふと 死守 ししゅ 命令 めいれい 等 とう により南 みなみ 樺太 からふと や北 きた 千 せん 島 とう の占 うらない 守 もり 島 とう ではソ連 それん 軍 ぐん との軍事 ぐんじ 攻撃 こうげき が続 つづ いた。
また満 まん 洲 しゅう ではソ連 それん 軍 ぐん と中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん との戦 たたか いの中 なか 、逃 に げ遅 おく れた日本人 にっぽんじん 開拓 かいたく 民 みん が混乱 こんらん の中 なか で生 い き別 わか れ、後 のち に中国 ちゅうごく 残留 ざんりゅう 孤児 こじ 問題 もんだい として残 のこ ることとなった。結局 けっきょく ソ連 それん 軍 ぐん は満 まん 洲 しゅう のみならず、日本 にっぽん 領土 りょうど であった南 みなみ 樺太 からふと 、北 きた 千島 ちしま 、択捉 えとろふ 、国後 くなしり 、色丹 しこたん 、歯舞 はぼまい 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ の全域 ぜんいき を完全 かんぜん に支配 しはい 下 か に置 お いた9月5日 にち になってようやく進駐 しんちゅう を停止 ていし した。
停戦 ていせん 後 ご (8月 がつ 15日 にち -28日 にち )[ 編集 へんしゅう ]
8月 がつ 15日 にち 正午 しょうご からの玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう 終了 しゅうりょう 後 ご 、直 ただ ちに終戦 しゅうせん に伴 ともな う臨時 りんじ 閣議 かくぎ が開催 かいさい され、まず鈴木 すずき 首相 しゅしょう から「阿南 あなん 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん は、今暁 こんぎょう 午前 ごぜん 5時 じ に自決 じけつ されました。謹 つつし んで、弔意 ちょうい を表 ひょう する次第 しだい であります」との報告 ほうこく があり、阿南 あなん の遺書 いしょ と辞世 じせい の句 く も披露 ひろう した。閣僚 かくりょう たちは、1つだけ空 あ いた陸軍 りくぐん 大臣 だいじん の席 せき を見 み ながら、予想 よそう していたこととはいえ大 おお きな衝撃 しょうげき を受 う けていた。
また午後 ごご に大本営 だいほんえい は大陸 たいりく 命 いのち 第 だい 1381号 ごう と大海 たいかい 令 れい 第 だい 47号 ごう にて大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん と海軍 かいぐん に対 たい して「別 べつ に命令 めいれい するまで各々 おのおの の現 げん 任務 にんむ を続行 ぞっこう すべし」と命令 めいれい し、積極 せっきょく 進攻 しんこう 作戦 さくせん の中止 ちゅうし を命令 めいれい した[37] 。しかし、日本 にっぽん の敗戦 はいせん を知 し った厚木 あつぎ 基地 きち の一部 いちぶ 将兵 しょうへい が16日 にち に徹底 てってい 抗戦 こうせん を呼 よ びかけるビラを撒 ま いたり、停戦 ていせん 連絡 れんらく 機 き を破壊 はかい するなどの抵抗 ていこう をしたが、まもなく徹底 てってい 抗戦 こうせん や戦争 せんそう 継続 けいぞく の主張 しゅちょう は止 や んだ。他 た は大 おお きな反乱 はんらん は起 お こらず、外地 がいち や占領 せんりょう 地 ち を含 ふく むほぼ全 すべ ての日本 にっぽん 軍 ぐん が速 すみ やかに戦闘 せんとう を停止 ていし した。ただし、北海道 ほっかいどう の第 だい 5方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい の樋口 ひぐち 中将 ちゅうじょう は、麾下 きか にある南 みなみ 樺太 からふと の第 だい 88師団 しだん に南 みなみ 樺太 からふと 死守 ししゅ 命令 めいれい を出 だ したため、南 みなみ 樺太 からふと ではソ連 それん 軍 ぐん との戦闘 せんとう が続 つづ くこととなった。千島 ちしま 列島 れっとう の占 うらない 守 もり 島 とう においても抗戦 こうせん が決定 けってい され、こちらについても樋口 ひぐち 中将 ちゅうじょう の指示 しじ が疑 うたが われている[38] 。
特攻 とっこう 直前 ちょくぜん の宇垣 うがき 纒 まとい 中将 ちゅうじょう (8月 がつ 16日 にち )
15日 にち 早朝 そうちょう の陸軍 りくぐん によるクーデター発生 はっせい 最中 さいちゅう に自決 じけつ した阿南 あなみ 陸相 りくしょう をはじめ、「武人 ぶじん としての死 し に場所 ばしょ を与 あた えてくれ」と部下 ぶか 22名 めい (うち5人 にん が生還 せいかん )を連 つ れて11機 き の特攻 とっこう 機 き で出撃 しゅつげき し命 いのち を絶 た った宇垣 うがき 纏 まとい 中将 ちゅうじょう 、妻 つま 娘 むすめ らとともに一家 いっか 自決 じけつ した元 もと 第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の隈部 くまべ 正美 まさみ 少将 しょうしょう 、ウルシー環礁 かんしょう から伊 い 401 で内地 ないち へ帰投 きとう する途中 とちゅう アメリカ軍 ぐん に拿捕 だほ される直前 ちょくぜん 、艦内 かんない で自決 じけつ した有泉 ありいずみ 龍 りゅう 之 これ 助 すけ 大佐 たいさ [39] 、陸軍 りくぐん 省 しょう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の大正天皇 たいしょうてんのう 御 ご 野立 のだち 所 しょ で切腹 せっぷく した晴 はれ 気 き 誠 まこと 少佐 しょうさ 、約 やく 1か月 げつ 後 ご となるが元 もと 参謀 さんぼう 総長 そうちょう の杉山 すぎやま 元 はじめ は当人 とうにん ばかりか国防 こくぼう 婦人 ふじん 会 かい の会長 かいちょう であったためその妻 つま まで後追 あとお い自決 じけつ するなど、日本 にっぽん の降伏 ごうぶく を受 う け入 い れられず、また降伏 ごうぶく の責任 せきにん を負 お って、あるいは連合 れんごう 国 こく からの逮捕 たいほ や追及 ついきゅう を怖 こわ れ、皇居 こうきょ 前 まえ や代々木 よよぎ 練兵 れんぺい 場 じょう 、内外 ないがい の基地 きち 、自宅 じたく などで自 みずか ら命 いのち を絶 た った軍人 ぐんじん や政治 せいじ 家 か 、民間 みんかん 人 じん は数 すう 百 ひゃく 人 にん に渡 わた った。
また東條 とうじょう 英機 ひでき のように9月になってから連合 れんごう 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ から逮捕 たいほ 、出頭 しゅっとう を命 めい じられたあと、自殺 じさつ に失敗 しっぱい し逮捕 たいほ される者 もの 、近衛 このえ 文麿 ふみまろ のように12月になってから連合 れんごう 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ から出頭 しゅっとう を命 めい じられたあと、逮捕 たいほ を嫌 いや がり服毒 ふくどく 自殺 じさつ する者 もの もいた。
16日 にち 午後 ごご 4時 じ には大陸 たいりく 命 いのち 第 だい 1382号 ごう にて大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん に対 たい して、停戦 ていせん 交渉 こうしょう 成立 せいりつ に至 いた る間 あいだ やむをえざる自衛 じえい のための戦闘 せんとう 行動 こうどう を除 のぞ いて「即時 そくじ の戦闘 せんとう 停止 ていし 」を命令 めいれい された[37] 。海軍 かいぐん に出 だ された大海 たいかい 令 れい 48号 ごう もほぼ同 どう 内容 ないよう である。1382号 ごう では具体 ぐたい 的 てき な停戦 ていせん 期限 きげん は記載 きさい されていなかったが、日本 にっぽん 側 がわ から連合 れんごう 国 こく 側 がわ に通告 つうこく した「日本 にっぽん 政府 せいふ ・大本営 だいほんえい 発 はつ 、連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 宛 あて 電 でん 一 いち 号 ごう 」では「二 に 、右 みぎ 大命 たいめい ガ第 だい 一線 いっせん ニ到達 とうたつ シ実効 じっこう ヲ挙 きょ グル日時 にちじ ハ左 ひだり ノ如ク予見 よけん ス」として「内地 ないち 四 よん 十 じゅう 八 はち 時 じ 間 あいだ 」としていた。つまり、48時 じ 間 あいだ 後 ご の18日 にち 16時 じ を完全 かんぜん な停戦 ていせん 成立 せいりつ 完了 かんりょう 時 じ になるとみていた。なお、南 みなみ 樺太 からふと では、札幌 さっぽろ にいた第 だい 5方面 ほうめん 軍 ぐん の樋口 ひぐち 中将 ちゅうじょう から南 みなみ 樺太 からふと 死守 ししゅ 命令 めいれい が出 だ されたが、その際 さい 、この自衛 じえい 戦闘 せんとう を理由 りゆう にソ連 それん 軍 ぐん 進攻 しんこう に対 たい し、戦闘 せんとう が継続 けいぞく された。
18日 にち 大陸 たいりく 命 いのち 第 だい 1385号 ごう により大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん に対 たい して、別 べつ に示 しめ す時機 じき に司令 しれい 官 かん らの作戦 さくせん 任務 にんむ を解 と き、それ以降 いこう の戦闘 せんとう が禁止 きんし されるとの命 いのち が出 だ された[40] 。この時点 じてん で、その「別 べつ に示 しめ す時機 じき 」は明示 めいじ されなかったものの、一方 いっぽう で、15日 にち の詔書 しょうしょ 渙発 かんぱつ 以降 いこう に敵 てき 軍 ぐん の勢力 せいりょく 下 か におかれた陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん ・軍属 ぐんぞく は俘虜 ふりょ とは認識 にんしき しないとし、同時 どうじ に隠忍 いんにん 自重 じちょう するようにとの内容 ないよう となっている[37] 。山田 やまだ 朗 あきら は、これをそれまで日本 にっぽん 軍 ぐん が将兵 しょうへい に降伏 ごうぶく を禁 きん じていた手前 てまえ 、連合 れんごう 軍 ぐん に降伏 ごうぶく して俘虜 ふりょ になるのではなく、天皇 てんのう の命令 めいれい で戦闘 せんとう を停止 ていし して連合 れんごう 軍 ぐん の管理 かんり 下 か に入 はい るのだ、という体裁 ていさい をとったものだとする[41] (同時 どうじ にこれは、例 たと えば現地 げんち の軍 ぐん 等 とう がその停戦 ていせん 交渉 こうしょう の結果 けっか として降伏 ごうぶく しても、15日 にち 正午 しょうご 以降 いこう に行 い ったものであれば差 さ し支 つか えないという効果 こうか を、この大陸 たいりく 命 いのち は持 も つことになる筈 はず である。)。海軍 かいぐん には、19日 にち の大海 たいかい 令 れい 第 だい 五 ご 十 じゅう 号 ごう で同 どう 趣旨 しゅし の令 れい が出 で ている。
17日 にち には連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 指令 しれい から一般 いっぱん 命令 めいれい 第 だい 一 いち 号 ごう が下 くだ ったが、同日 どうじつ には日本 にっぽん 本土 ほんど を偵察 ていさつ に来 き たコンソリーデーテッド B-32 を、厚木 あつぎ 基地 きち の日本 にっぽん 軍機 ぐんき が襲 おそ い翌日 よくじつ アメリカ人 じん 搭乗 とうじょう 員 いん 1人 にん が死亡 しぼう するなどのトラブルが起 お きた。しかし本土 ほんど では同 おな じような連合 れんごう 国 こく とのトラブルはこれ以降 いこう 起 お こらなかった上 うえ 、すぐにイギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん が陸海空 りくかいくう 軍 ぐん の相当 そうとう 数 すう の部隊 ぶたい を上陸 じょうりく できる体制 たいせい にあった。17日 にち 日本 にっぽん 側 がわ では、16日 にち の大海 たいかい 令 れい 48号 ごう を繰 く り返 かえ す部分 ぶぶん のある大海 たいかい 令 れい 49号 ごう が海軍 かいぐん に出 で ている。
19日 にち 大陸 たいりく 命 いのち 1386号 ごう で内地 ないち の陸軍 りくぐん は8月 がつ 22日 にち 0時 じ 以降 いこう 一切 いっさい の武力 ぶりょく 行使 こうし が停止 ていし となる[40] 。この日 ひ 大海 たいかい 令 れい 50号 ごう で、海軍 かいぐん は支 ささえ 那 な 方面 ほうめん 艦隊 かんたい を別 べつ にして一切 いっさい の戦闘 せんとう 行為 こうい が停止 ていし される。また、同日 どうじつ 、大陸 たいりく 指 ゆび 2546号 ごう で札幌 さっぽろ の第 だい 五 ご 方面 ほうめん 軍 ぐん にも局地 きょくち 停戦 ていせん 交渉 こうしょう とその実施 じっし の武器 ぶき の引渡を実施 じっし する許可 きょか が出 で る[42] 。しかし、第 だい 五 ご 方面 ほうめん 軍 ぐん は南 みなみ 樺太 からふと の第 だい 88師団 しだん に停戦 ていせん と武器 ぶき の引渡(事実 じじつ 上 じょう の降伏 ごうぶく )を許可 きょか することなく、むしろあらためて南 みなみ 樺太 からふと 死守 ししゅ を命 めい じている。
8月 がつ 22日 にち 大陸 たいりく 命 いのち 1388号 ごう により外地 がいち の陸軍 りくぐん は、支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん の局地 きょくち 的 てき 自衛 じえい の措置 そち を除 のぞ き8月 がつ 25日 にち 0時 じ 以降 いこう 一切 いっさい の武力 ぶりょく 行使 こうし が停止 ていし とされる。また、大本営 だいほんえい の朝枝 あさえだ 繁春 しげはる 参謀 さんぼう は停戦 ていせん の進捗 しんちょく 状 じょう 況 きょう を監督 かんとく するために出張 しゅっちょう した満 まん 洲 しゅう でソ連 それん 側 がわ から樺太 からふと で戦闘 せんとう が続 つづ いていることを知 し り、この前日 ぜんじつ に自衛 じえい 戦闘 せんとう に名 な を借 か りて戦闘 せんとう 継続 けいぞく することに対 たい する警告 けいこく の電報 でんぽう を札幌 さっぽろ の第 だい 五 ご 方面 ほうめん 軍 ぐん に打電 だでん していた[43] 。そのため、ようやく南 みなみ 樺太 からふと の第 だい 88師団 しだん の事実 じじつ 上 じょう の降伏 ごうぶく と武装 ぶそう 解除 かいじょ を前提 ぜんてい とする停戦 ていせん 交渉 こうしょう が開始 かいし し、昼 ひる 頃 ごろ 成立 せいりつ する。
ドイツの場合 ばあい は、本土 ほんど に進攻 しんこう されても容易 ようい に降伏 ごうぶく しなかったため、一 ひと つ一 ひと つ都市 とし が落 お とされていき、最後 さいご は首都 しゅと を含 ふく め本土 ほんど のかなりの地域 ちいき が占領 せんりょう されていった形 かたち での敗戦 はいせん となった。しかし、日本 にっぽん の場合 ばあい は、その時点 じてん では未 いま だ首都 しゅと はもちろん、北海道 ほっかいどう 、本州 ほんしゅう 、九州 きゅうしゅう 、四国 しこく の本土 ほんど は一切 いっさい 占領 せんりょう されていなかった上 うえ に、中央 ちゅうおう 政府 せいふ と軍 ぐん 中枢 ちゅうすう は存続 そんぞく しており[44] 、まだ相当 そうとう の軍人 ぐんじん と武器 ぶき や航空機 こうくうき 、船舶 せんぱく が残 のこ っていた日本 にっぽん に対 たい する連合 れんごう 国軍 こくぐん の動 うご きは慎重 しんちょう に慎重 しんちょう を重 かさ ねた。連合 れんごう 国軍 こくぐん の日本 にっぽん 占領 せんりょう 部隊 ぶたい の第 だい 一 いち 弾 だん であるアメリカ軍 ぐん やイギリス軍 ぐん が日本 にっぽん 本土 ほんど に上陸 じょうりく するまでは、結果 けっか として約 やく 2週間 しゅうかん という異例 いれい の長 なが さであった。
なお、沖縄 おきなわ 県 けん を含 ふく む南西諸島 なんせいしょとう および小笠原諸島 おがさわらしょとう は停戦 ていせん 時 じ にすでにアメリカ軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か 、勢力 せいりょく 下 か にあった。また、中 ちゅう 四国 しこく はイギリス連邦 れんぽう 占領 せんりょう 軍 ぐん が後 のち に駐留 ちゅうりゅう することが決 き まり、結果 けっか 的 てき にアメリカ軍 ぐん とイギリス連邦 れんぽう 軍 ぐん だけで正式 せいしき に日本 にっぽん を占領 せんりょう することとなった。
しかし、少 すこ しでも多 おお くの日本 にっぽん 領土 りょうど 略奪 りゃくだつ を画策 かくさく していたヨシフ・スターリン は、北海道 ほっかいどう の北 きた 半分 はんぶん のソ連 それん 軍 ぐん による分割 ぶんかつ 占領 せんりょう をアメリカ政府 せいふ に提案 ていあん したが、ヤルタ会談 かいだん での合意 ごうい 内容 ないよう を超 こ えることから拒否 きょひ され、駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん のみを送 おく るにとどめた。しかしスターリンの命令 めいれい と日本 にっぽん 軍 ぐん のソ連 それん 軍 ぐん 進駐 しんちゅう 拒否 きょひ により、南 みなみ 樺太 からふと ・千島 ちしま へのソ連 それん 軍 ぐん の攻撃 こうげき は15日 にち の玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう 以降 いこう も継続 けいぞく し、22日 にち には樺太 からふと からの引 ひ き揚 あ げ船 せん 3隻 せき がソ連 それん 潜水 せんすい 艦 かん の攻撃 こうげき を受 う ける三船 みふね 殉難 じゅんなん 事件 じけん が発生 はっせい した。北方領土 ほっぽうりょうど の択捉島 えとろふとう は8月 がつ 28日 にち 、国後島 くなしりとう は9月2日 にち 、歯舞諸島 はぼまいしょとう への上陸 じょうりく は9月3日 にち になって行 おこな われた[45] 。なお、中華民国 ちゅうかみんこく も軍事 ぐんじ 占領 せんりょう を検討 けんとう したが、占領 せんりょう 時 じ の食料 しょくりょう の大 だい 部分 ぶぶん を日本 にっぽん に頼 たよ ろうとしたために、イギリス軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん から正式 せいしき に拒否 きょひ された。
東 ひがし 久邇 くに 宮内 くない 閣 かく (8月 がつ 17日 にち )
17日 にち に鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく し、皇族 こうぞく である東 ひがし 久邇 くに 宮 みや 稔彦 としひこ 王 おう が首相 しゅしょう を継 つ いだ。皇族 こうぞく が首相 しゅしょう に就 つ いたのは武器 ぶき 解除 かいじょ を速 すみ やかに進 すす めるためともいわれ、皇族 こうぞく の首相 しゅしょう は初 はじ めてのことであった。副 ふく 総理 そうり 格 かく の国務大臣 こくむだいじん には近衛 このえ 文麿 ふみまろ 、外務 がいむ 大臣 だいじん には残留 ざんりゅう した重光 しげみつ 葵 まもる 、大蔵 おおくら 大臣 だいじん には津島 つしま 寿一 ひさいち 、内閣 ないかく 書記官 しょきかん 長 ちょう 兼 けん 情報 じょうほう 局 きょく 総裁 そうさい には緒方 おがた 竹虎 たけとら が任命 にんめい された。また海軍 かいぐん 大臣 だいじん には元 もと 首相 しゅしょう の米内 よない 光政 みつまさ が留任 りゅうにん した。陸軍 りくぐん 大臣 だいじん は任命 にんめい が内定 ないてい していた下村 しもむら 定 じょう 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう が23日 にち に帰国 きこく するまでの間 あいだ 、東 ひがし 久邇 くに 宮 みや が兼任 けんにん した。
アメリカ海軍 かいぐん のグラマンF6F に護衛 ごえい される機上 きじょう 作業 さぎょう 練習 れんしゅう 機 き 「白菊 しらぎく 」 の緑 みどり 十 じゅう 字 じ 機 き (8月 がつ 19日 にち )
この時点 じてん でも、日本 にっぽん は連合 れんごう 軍 ぐん に占領 せんりょう された沖縄 おきなわ 県 けん 、樺太 からふと 、千島 ちしま を除 のぞ く日本 にっぽん 本土 ほんど と台湾 たいわん 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう などの開戦 かいせん 前 まえ からの元来 がんらい の領土 りょうど の他 ほか に、中華民国 ちゅうかみんこく の上海 しゃんはい をはじめとする沿岸 えんがん 部 ぶ 、現在 げんざい のベトナム、マレ まれ ー半島 はんとう 、インドネシア、ティモール島 とう などの北東 ほくとう アジアから東南 とうなん アジア、ウェーク島 とう からラバウル など太平洋 たいへいよう 地域 ちいき にも広大 こうだい な占領 せんりょう 地 ち を維持 いじ しており、他 ほか にもタイや満 まん 洲 しゅう 国 こく などの友好国 ゆうこうこく 、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立 ちゅうりつ 国 こく に膨大 ぼうだい な数 かず の民間 みんかん 人 じん と軍人 ぐんじん が駐留 ちゅうりゅう していることから、これらの地 ち からの引 ひ き揚 あ げと権限 けんげん の移譲 いじょう を速 すみ やかに行 おこな う必要 ひつよう があった。
そこで16日 にち に連合 れんごう 軍 ぐん は中立 ちゅうりつ 国 こく のスイスを通 つう じ、日本 にっぽん に対 たい して占領 せんりょう 軍 ぐん の日本 にっぽん 本土 ほんど 受 う け入 い れや、総勢 そうぜい 1万 まん 数 すう 千 せん 機 き 以上 いじょう の残存 ざんそん 機 き 、空母 くうぼ や戦艦 せんかん 、潜水 せんすい 艦 かん など数 すう 千 せん 隻 せき の残存 ざんそん 艇 てい に上 のぼ る各地 かくち の日本 にっぽん 軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ を進 すす めるための停戦 ていせん 連絡 れんらく 機 き の派遣 はけん を依頼 いらい した。これを受 う けて19日 にち に、日本 にっぽん 政府 せいふ 側 がわ の停戦 ていせん 全権 ぜんけん 委員 いいん が2機 き の緑 みどり 十 じゅう 字 じ 飛行 ひこう の塗装 とそう をした一式 いっしき 陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き で木更津 きさらづ から伊江島 いえじま に飛行 ひこう し、そこからダグラス DC-4 でマニラへと向 む かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー 少将 しょうしょう らなどと停戦 ていせん および全権 ぜんけん 移譲 いじょう の会談 かいだん や、さらに日本 にっぽん 本土 ほんど 進駐 しんちゅう の際 さい の安全 あんぜん の確保 かくほ と情報 じょうほう 提供 ていきょう を要求 ようきゅう するなど、イギリス軍 ぐん やオーストラリア軍 ぐん 、アメリカ軍 ぐん やフランス軍 ぐん 、オランダ軍 ぐん に対 たい する停戦 ていせん と武装 ぶそう 解除 かいじょ 、日本 にっぽん 進駐 しんちゅう の準備 じゅんび は順調 じゅんちょう に遂行 すいこう されるかにみえた[46] 。また日本 にっぽん と同盟 どうめい 下 か にあったタイは、16日 にち の日本 にっぽん 降伏 ごうぶく 後 ご に日本 にっぽん 側 がわ の内諾 ないだく を得 え た上 うえ で「宣戦 せんせん 布告 ふこく の無効 むこう 宣言 せんげん 」を発 はっ し、連合 れんごう 国 こく 側 がわ と独自 どくじ に講和 こうわ した。
終戦 しゅうせん 後 ご の中華民国 ちゅうかみんこく 漢 かん 口 こう の日本 にっぽん 軍 ぐん の第 だい 85戦隊 せんたい および第 だい 22戦隊 せんたい
しかし、引 ひ き揚 あ げを受 う け入 い れず「欧米 おうべい 諸国 しょこく からのアジアの解放 かいほう 」という、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の理念 りねん を信 しん じて、ジャワやインドシナ、ビルマ、マレーなどで勃発 ぼっぱつ したイギリスやフランス、オランダからの独立 どくりつ 戦争 せんそう に協力 きょうりょく する日本 にっぽん 軍 ぐん の将兵 しょうへい や、再 ふたた び国共 こっきょう 内戦 ないせん に向 む かいつつある中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん に佐官 さかん 級 きゅう で残 のこ ることを依頼 いらい されそのまま残留 ざんりゅう を決 き めたもの(通 つう 化 か 事件 じけん )、のちに個人 こじん の意思 いし で中華民国 ちゅうかみんこく 国軍 こくぐん や中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん に編入 へんにゅう されたものもいた[注釈 ちゅうしゃく 2] 。また、これらの独立 どくりつ 戦争 せんそう で戦 たたか う側 がわ とフランスやオランダなどの現地 げんち の政府 せいふ 軍 ぐん などの双方 そうほう に、日本 にっぽん 軍 ぐん の残留 ざんりゅう した航空機 こうくうき (九 きゅう 九 きゅう 式 しき 襲撃 しゅうげき 機 き や九 きゅう 八 はち 式 しき 直接 ちょくせつ 協同 きょうどう 偵察 ていさつ 機 き など)や戦車 せんしゃ 、銃器 じゅうき など接収 せっしゅう した武器 ぶき がそのまま利用 りよう されることも多 おお かった。
日本 にっぽん とフランス植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ の権力 けんりょく の空白 くうはく が生 う まれたインドシナでは、17日 にち にベトナム八 はち 月 がつ 革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ した。日本 にっぽん の後 うし ろ盾 たて を失 うしな った満 まん 洲 しゅう 国 こく はソ連 それん 軍 ぐん の侵攻 しんこう を受 う けて崩壊 ほうかい し、18日 にち に退位 たいい した皇帝 こうてい の愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥儀 ふぎ や愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 溥傑 ら満 まん 洲 しゅう 国 こく 帝室 ていしつ と、関東軍 かんとうぐん の吉岡 よしおか 安直 あんちょく 中将 ちゅうじょう や橋本 はしもと 虎之助 とらのすけ 中将 ちゅうじょう などはその後 ご 日本 にっぽん への亡命 ぼうめい を図 はか るが、奉天 ほうてん に侵攻 しんこう してきたソ連 それん 軍 ぐん に身柄 みがら を拘束 こうそく された。
さらには、アメリカ領 りょう フィリピンのルバング島 とう で1974年 ねん まで日本 にっぽん 軍 ぐん の残留 ざんりゅう 兵 へい として戦 たたか い続 つづ けた小野田 おのだ 寛 ひろし 郎 ろう 少尉 しょうい のように、日本 にっぽん 軍 ぐん の将兵 しょうへい として戦闘 せんとう 行為 こうい を継続 けいぞく していた者 もの や、アナタハン島 とう のように島 しま 単位 たんい で引 ひ き揚 あ げから取 と り残 のこ される者 もの も発生 はっせい した。
この様 よう に日本 にっぽん とその友好国 ゆうこうこく 側 がわ 、連合 れんごう 国 こく 側 がわ の上記 じょうき のような準備 じゅんび と混乱 こんらん を経 へ たものの、22日 にち から23日 にち にかけて台風 たいふう が日本 にっぽん を襲 おそ い上陸 じょうりく 予定 よてい 地 ち の厚木 あつぎ 飛行場 ひこうじょう も滑走 かっそう 路 ろ が水 みず に浸 つ かってしまい、さらに連合 れんごう 国軍 こくぐん の占領 せんりょう は遅 おく れた[47] 。
占領 せんりょう 開始 かいし (8月 がつ 28日 にち -30日 にち )[ 編集 へんしゅう ]
到着 とうちゃく したアメリカ軍 ぐん のマッカーサー陸軍 りくぐん 大将 たいしょう (8月 がつ 30日 にち )
ようやく停戦 ていせん から2週間 しゅうかん 後 ご の28日 にち に連合 れんごう 国軍 こくぐん による日本 にっぽん 占領 せんりょう 部隊 ぶたい の第 だい 一 いち 弾 だん として、チャールズ・テンチ大佐 たいさ 率 ひき いる45機 き のカーチス C-47 からなるアメリカ軍 ぐん の先遣 せんけん 部隊 ぶたい が厚木 あつぎ 飛行場 ひこうじょう に到着 とうちゃく 。同 どう 基地 きち を占領 せんりょう した。なお、全面 ぜんめん 戦争 せんそう において首都 しゅと の陥落 かんらく がないままで、また停戦 ていせん から首都 しゅと 占領 せんりょう まで2週間 しゅうかん も時間 じかん がかかったのは、近代 きんだい 戦争 せんそう のみならず史上 しじょう でも初 はじ めてのことであった 。
また、同日 どうじつ 東京 とうきょう の大森 おおもり にある連合 れんごう 軍 ぐん の捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ に、アメリカ海軍 かいぐん の軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 「サンフアン 」から上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい が手配 てはい され、病院 びょういん 船 せん 「ビネボレンス」に、イギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん の病人 びょうにん や怪我人 けがにん などを収容 しゅうよう していった。
30日 にち 午前 ごぜん 、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ/SCAP) の総 そう 司令 しれい 官 かん として、連合 れんごう 国 こく の日本 にっぽん 占領 せんりょう の指揮 しき に当 あ たるアメリカ陸軍 りくぐん のダグラス・マッカーサー 大将 たいしょう も、専用 せんよう 機 き 「バターン号 ごう 」でフィリピンから厚木 あつぎ 基地 きち に到着 とうちゃく した。一 いち 行 ぎょう は午後 ごご に日本 にっぽん 軍 ぐん が用意 ようい した専用 せんよう 車 しゃ で横浜 よこはま 市 し 内 うち のホテルニューグランド に移 うつ り、宿 やど を取 と った。続 つづ いてイギリス軍 ぐん やオーストラリア軍 ぐん 、ニュージーランド軍 ぐん 、カナダ軍 ぐん の占領 せんりょう 軍 ぐん と、中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん 、フランス軍 ぐん 、オランダ軍 ぐん 、ソ連 それん 軍 ぐん などの他 ほか の連合 れんごう 国軍 こくぐん の代表 だいひょう 団 だん も到着 とうちゃく した[48] 。
降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん [ 編集 へんしゅう ]
戦艦 せんかん 「ミズーリ 」艦上 かんじょう の日本 にっぽん 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん (9月 がつ 2日 にち ) 最 さい 前列 ぜんれつ の左側 ひだりがわ が重光 しげみつ 葵 まもる 外務 がいむ 大臣 だいじん 、隣 となり の陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん は梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう 2列 れつ 目 め 左 ひだり から宮崎 みやざき 周一 しゅういち 陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう 、岡崎 おかざき 勝男 かつお 外務省 がいむしょう 外局 がいきょく 終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 中央 ちゅうおう 事務 じむ 局 きょく 長官 ちょうかん 、富岡 とみおか 定 じょう 俊 しゅん 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 、加瀬 かせ 俊一 しゅんいち 外務省 がいむしょう 秘書官 ひしょかん 、永井 ながい 八 はち 津 つ 次 じ 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう 3列 れつ 目 め 左 ひだり から横山 よこやま 一郎 いちろう 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 、太田 おおた 三郎 さぶろう 外務省 がいむしょう 終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 部長 ぶちょう 、柴 しば 勝男 かつお 海軍 かいぐん 大佐 たいさ 、杉田 すぎた 一次 かずつぐ 陸軍 りくぐん 大佐 たいさ
連合 れんごう 国 こく 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん (9月 がつ 2日 にち )
退 すさ 艦 かん する日本 にっぽん 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん (9月 がつ 2日 にち )
降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん 式 しき は9月2日 にち に、東京 とうきょう 湾 わん (内 うち の瀬水 せみず 道 みち 中央 ちゅうおう 部 ぶ 千葉 ちば 県 けん 寄 よ りの海域 かいいき )に停泊 ていはく 中 ちゅう のアメリカ海軍 かいぐん 戦艦 せんかん 「ミズーリ 」艦上 かんじょう [49] で、日本 にっぽん 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん と連合 れんごう 国 こく 代表 だいひょう が出席 しゅっせき して行 おこな われた。
午前 ごぜん 8時 じ 56分 ふん に「ミズーリ」艦上 かんじょう に日本 にっぽん 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん が到着 とうちゃく した。日本 にっぽん 側 がわ 代表 だいひょう 団 だん は、大日本帝国 だいにっぽんていこく 政府 せいふ 全権 ぜんけん 外務 がいむ 大臣 だいじん 重光 しげみつ 葵 まもる 、大本営 だいほんえい 全権 ぜんけん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう 梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう 、随員 ずいいん は終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 中央 ちゅうおう 事務 じむ 局 きょく 長官 ちょうかん 岡崎 おかざき 勝男 かつお 、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 第 だい 一 いち 部長 ぶちょう 宮崎 みやざき 周一 しゅういち 陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 第 だい 一 いち 部長 ぶちょう 富岡 とみおか 定 じょう 俊 しゅん 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう (軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 豊田 とよだ 副 ふく 武 ぶ 海軍 かいぐん 大将 たいしょう は出席 しゅっせき 拒否 きょひ )、大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 参謀 さんぼう 永井 ながい 八 はち 津 つ 次 じ 陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう 、海軍 かいぐん 省 しょう 出仕 しゅっし 横山 よこやま 一郎 いちろう 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 、大本営 だいほんえい 海軍 かいぐん 部 ぶ 参謀 さんぼう 柴 しば 勝男 かつお 海軍 かいぐん 大佐 たいさ 、大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 参謀 さんぼう 杉田 すぎた 一次 かずつぐ 陸軍 りくぐん 大佐 たいさ 、内閣 ないかく 情報 じょうほう 局 きょく 第 だい 三 さん 部長 ぶちょう 加瀬 かせ 俊一 しゅんいち 、終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 中央 ちゅうおう 事務 じむ 局 きょく 第 だい 三 さん 部長 ぶちょう 太田 おおた 三郎 さぶろう らであった。
先 さき に到着 とうちゃく していた連合 れんごう 国 こく 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国 ちゅうかみんこく 、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国 かこく の代表 だいひょう 団 だん と、さらには8月 がつ 8日 にち に参戦 さんせん し、15日 にち の日本 にっぽん 軍 ぐん の停戦 ていせん を無視 むし して満 まん 洲 しゅう や択捉 えとろふ 島 とう などで進軍 しんぐん を続 つづ けていたソビエト連邦 れんぽう の代表 だいひょう 団 だん も「戦勝 せんしょう 国 こく 」の一員 いちいん として臨席 りんせき した。9時 じ 2分 ふん に日本 にっぽん 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん による対 たい 連合 れんごう 国 こく 降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ への調印 ちょういん が、その後 ご 連合 れんごう 国 こく 側 がわ 全権 ぜんけん 代表 だいひょう 団 だん による調印 ちょういん が行 おこな われ、9時 じ 25分 ふん にマッカーサー連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん による降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん 式 しき の終了 しゅうりょう が宣言 せんげん され、ここに1939年 ねん 9月 がつ 1日 にち から足 あし かけ7年 ねん にわたって続 つづ いた第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん はついに終結 しゅうけつ した[50] 。
しかし、そのとき甲板 かんぱん ではカナダ代表 だいひょう が署名 しょめい する欄 らん を間違 まちが えたことによる4ヶ国 かこく 代表 だいひょう の署名 しょめい 欄 らん にずれが見 み つかり、正式 せいしき 文書 ぶんしょ として通用 つうよう しないとして降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ の訂正 ていせい がなされていた。具体 ぐたい 的 てき には、連合 れんごう 国 こく 用 よう と日本 にっぽん 用 よう の2通 つう の文書 ぶんしょ のうち、日本 にっぽん 用 よう 文書 ぶんしょ にカナダ代表 だいひょう のエル・コスグレーブ大佐 たいさ が署名 しょめい する際 さい 、自国 じこく の署名 しょめい 欄 らん ではなく1段 だん 飛 と ばしたフランス代表 だいひょう 団 だん の欄 らん に署名 しょめい した。しかし、次 つぎ の代表 だいひょう であるフランスのフィリップ・ルクレール 大将 たいしょう はこれに気 き づかずオランダ代表 だいひょう の欄 らん に署名 しょめい 、続 つづ くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将 たいしょう は間違 まちが いには気 き づいたものの、マッカーサー元帥 げんすい の指示 しじ に従 したが い渋 しぶ 々ニュージーランド代表 だいひょう の欄 らん に署名 しょめい した。最後 さいご の署名 しょめい となるニュージーランドのレナード・イシット少将 しょうしょう もアメリカ側 がわ の指示 しじ に従 したが い欄外 らんがい に署名 しょめい することとなり、結果 けっか 的 てき にカナダ代表 だいひょう の欄 らん が空欄 くうらん となった。
その後 ご 各国 かっこく 代表 だいひょう は祝賀会 しゅくがかい の為 ため に船室 せんしつ に移動 いどう したが、オランダ代表 だいひょう のヘルフリッヒ大将 たいしょう はその場 ば に残 のこ り、日本 にっぽん 側 がわ 代表 だいひょう 団 だん の岡崎 おかざき 勝男 かつお に署名 しょめい の間違 まちが いを指摘 してき した。岡崎 おかざき が困惑 こんわく する中 なか 、マッカーサー元帥 げんすい の参謀 さんぼう 長 ちょう リチャード・サザーランド 中将 ちゅうじょう は日本 にっぽん 側 がわ に降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ をこのまま受 う け入 い れるよう説得 せっとく したが、「不備 ふび な文書 ぶんしょ では枢密院 すうみついん の条約 じょうやく 審議 しんぎ を通 とお らない」と重光 しげみつ がこれを拒否 きょひ したため、岡崎 おかざき はサザーランド中将 ちゅうじょう に各国 かっこく 代表 だいひょう の署名 しょめい し直 なお しを求 もと めた。しかし、各国 かっこく 代表 だいひょう はすでに祝賀 しゅくが 会 かい の最中 さいちゅう だとしてこれを拒否 きょひ 。結局 けっきょく 、マッカーサー元帥 げんすい の代理 だいり としてサザーランド中将 ちゅうじょう が間違 まちが った4カ国 かこく の署名 しょめい 欄 らん を訂正 ていせい することとなった。日本 にっぽん 側 がわ 代表 だいひょう 団 だん はこれを受 う け入 い れ、9時 じ 30分 ふん に退 すさ 艦 かん した[51]
さらに翌 よく 9月 がつ 3日 にち に、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ はトルーマン大統領 だいとうりょう の布告 ふこく を受 う け、「占領 せんりょう 下 か においても日本 にっぽん の主権 しゅけん を認 みと める」としたポツダム宣言 せんげん を反故 ほご にし、「行政 ぎょうせい ・司法 しほう ・立法 りっぽう の三権 さんけん を奪 うば い軍政 ぐんせい を敷 し く」という布告 ふこく を下 くだ し、さらに「公用 こうよう 語 ご も英語 えいご にする」とした。
これに対 たい して重光 しげみつ 外相 がいしょう は、マッカーサー連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に「占領 せんりょう 軍 ぐん による軍政 ぐんせい は日本 にっぽん の主権 しゅけん を認 みと めたポツダム宣言 せんげん を逸脱 いつだつ する 」、「ドイツと日本 にっぽん は違 ちが う。ドイツは政府 せいふ が壊滅 かいめつ したが日本 にっぽん には政府 せいふ が存在 そんざい する」と猛烈 もうれつ に抗議 こうぎ し、布告 ふこく の即時 そくじ 取 と り下 さ げを強 つよ く要求 ようきゅう した。その結果 けっか 、連合 れんごう 国軍 こくぐん 側 がわ は即時 そくじ にトルーマン大統領 だいとうりょう の布告 ふこく の即時 そくじ 取 と り下 さ げを行 おこな い、占領 せんりょう 政策 せいさく はポツダム宣言 せんげん の条件 じょうけん 通 どお りに日本 にっぽん 政府 せいふ を通 とお した間接 かんせつ 統治 とうち となった (連合 れんごう 国軍 こくぐん 占領 せんりょう 下 か の日本 にっぽん も参照 さんしょう )[52] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
旅順 りょじゅん 口 こう 区 く を不法 ふほう 占領 せんりょう したソ連 それん 軍 ぐん (9月 がつ 15日 にち )
一方 いっぽう 、中 ちゅう 四国 しこく はイギリス連邦 れんぽう 占領 せんりょう 軍 ぐん が駐留 ちゅうりゅう することに決 き まり、また沖縄 おきなわ 県 けん を含 ふく む南西諸島 なんせいしょとう および小笠原諸島 おがさわらしょとう は停戦 ていせん 時 じ にすでにアメリカ軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か ないし勢力 せいりょく 下 か にあり、小笠原諸島 おがさわらしょとう は1968年 ねん まで、沖縄 おきなわ は1972年 ねん の本土 ほんど 復帰 ふっき までアメリカの被 ひ 占領 せんりょう の歴史 れきし を歩 あゆ んだ。
なお連合 れんごう 国軍 こくぐん は直 ただ ちに日本 にっぽん 軍 ぐん および政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ 40人 にん の逮捕 たいほ 令状 れいじょう を出 だ し[53] 、のちに極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん などで裁 さば かれた。また中華民国 ちゅうかみんこく や香港 ほんこん 、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた日本 にっぽん 軍人 ぐんじん はそれぞれの現地 げんち で捕虜 ほりょ となり、その後 ご B級 きゅう 並 なら びにC級 きゅう 戦犯 せんぱん として、現地 げんち で裁判 さいばん に掛 かか るものが多 おお かった。
さらにソ連 それん の捕虜 ほりょ になった日本 にっぽん 軍 ぐん 将兵 しょうへい は、シベリア抑留 よくりゅう などで強制 きょうせい 就労 しゅうろう にさせられ5万 まん 5千 せん 人 にん が現地 げんち で死亡 しぼう した。その後 ご 帰国 きこく してきた軍人 ぐんじん も、赤化 せっか されているだけでなく瀬島 せじま 龍三 りゅうぞう 中佐 ちゅうさ のようにソ連 それん 軍 ぐん のスパイ(スリーパー )として仕込 しこ まれているものも多 おお かった[54] 。また民間 みんかん 人 じん や軍属 ぐんぞく なども帰国 きこく の途 と に就 つ いたが、自国 じこく 領土 りょうど の台湾 たいわん や朝鮮 ちょうせん 、またマレーやインドシナなどからは比較的 ひかくてき 順調 じゅんちょう に行 い ったものの、中華民国 ちゅうかみんこく や満州 まんしゅう 国 こく からの帰国 きこく はソ連 それん の占領 せんりょう 下 か にあるなど混乱 こんらん が多 おお く、中国 ちゅうごく 残留 ざんりゅう 孤児 こじ など戦後 せんご の混乱 こんらん でやむなく置 お いておかれるものも多 おお かった。
占領 せんりょう 軍 ぐん による間接 かんせつ 統治 とうち [ 編集 へんしゅう ]
「厚木 あつぎ 航空 こうくう 隊 たい 事件 じけん 」のような反乱 はんらん 事件 じけん がいくつか起 お きたものの、日本 にっぽん 国内 こくない 、アジア各地 かくち に展開 てんかい していた日本 にっぽん 軍 ぐん は、ほとんど抵抗 ていこう らしい抵抗 ていこう もなく約 やく 60日 にち で武装 ぶそう 解除 かいじょ された[55] 。満州 まんしゅう 、南 みなみ 樺太 からふと (サハリン)、千島 ちしま 列島 れっとう などにいた日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし 数 すう 10万 まん 人 にん (86万 まん 人 にん といわれる)は、ソ連 それん 軍 ぐん によって武装 ぶそう 解除 かいじょ 後 ご シベリアをはじめとするソ連 それん 領内 りょうない に連 つ れ去 さ られ、1年 ねん から数 すう 年 ねん にわたる過酷 かこく な自然 しぜん と劣悪 れつあく な待遇 たいぐう の元 もと で強制 きょうせい 労働 ろうどう に服 ふく し、約 やく 6万 まん 8,000人 にん が死亡 しぼう した[56] 。
日本 にっぽん は朝鮮半島 ちょうせんはんとう を米 べい ソに、台湾 たいわん を中華民国 ちゅうかみんこく に、南 みなみ 樺太 からふと 及 およ び千島 ちしま 列島 れっとう 及 およ び歯舞 はぼまい ・色丹 しこたん をソ連 それん に、「本州 ほんしゅう 、北海道 ほっかいどう 、九州 きゅうしゅう 及四国 しこく 並 なら びに吾 われ 等 とう (連合 れんごう 国 こく )の決定 けってい する小島 こじま 」(ポツダム宣言 せんげん )をイギリス軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん によって占領 せんりょう されたが、同 おな じ敗戦 はいせん 国 こく のドイツとは違 ちが い、日本 にっぽん 政府 せいふ による統治 とうち が継続 けいぞく されたことから、イデオロギー が対立 たいりつ する複数 ふくすう の連合 れんごう 国 こく による分割 ぶんかつ 占領 せんりょう を免 まぬか れた[56] 。
ソ連 それん は参戦 さんせん 後 ご に釧路 くしろ 市 し と留萌 るもい 町 まち (現在 げんざい の留萌 るもい 市 し )の両 りょう 都市 とし と、それらを結 むす ぶ線 せん より北 きた の北海道 ほっかいどう を占領 せんりょう する意向 いこう を8月 がつ 15日 にち に示 しめ したが、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう トルーマン が即座 そくざ に拒否 きょひ した。マッカーサーは、初 はじ め日本 にっぽん を直接 ちょくせつ に統治 とうち する軍政 ぐんせい を布 し こうとし、9月3日 にち にその旨 むね 布告 ふこく しようとしていたが、前日 ぜんじつ にこの方針 ほうしん を知 し った日本 にっぽん 政府 せいふ の苦情 くじょう を受 う け入 い れ、結局 けっきょく 、日本 にっぽん 政府 せいふ を通 つう じた間接 かんせつ 統治 とうち の形 かたち をとることとした[56] 。
このマッカーサーの突然 とつぜん の判断 はんだん 変更 へんこう の背景 はいけい 事情 じじょう としては、アメリカの対 たい 日 にち 政策 せいさく 立案 りつあん を1944年 ねん 暮 く れから手 て がけていた、SWNCC(スウンク;国務 こくむ ・陸軍 りくぐん ・海軍 かいぐん 調整 ちょうせい 委員 いいん 会 かい )が、1945年 ねん 8月 がつ 22日 にち から31日 にち にかけて起草 きそう した「降伏 ごうぶく 後 ご におけるアメリカの初期 しょき の対 たい 日 にち 方針 ほうしん 」の中 なか で「最高 さいこう 司令 しれい 官 かん は・・・天皇 てんのう を含 ふく む日本 にっぽん 政府 せいふ 機構 きこう 及諸機関 きかん を通 つう じて其権限 げん を行使 こうし すべし」、つまり間接 かんせつ 統治 とうち が対 たい 日 にち 占領 せんりょう 政策 せいさく として最適 さいてき であろうと分析 ぶんせき していたことが上 あ げられる[56] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ は、イギリス連邦 れんぽう 占領 せんりょう 軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん を中心 ちゅうしん とした連合 れんごう 国軍 こくぐん による占領 せんりょう 統治 とうち の下 した に置 お かれ、GHQ が一連 いちれん の戦後 せんご 改革 かいかく を連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん の布告 ふこく ・命令 めいれい ・指示 しじ によって展開 てんかい させた。1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )11月3日 にち に、大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう が改正 かいせい された日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう が公布 こうふ され、1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )5月3日 にち に同 どう 憲法 けんぽう が施行 しこう された。
占領 せんりょう の終了 しゅうりょう と日本 にっぽん の主権 しゅけん 回復 かいふく [ 編集 へんしゅう ]
1951年 ねん 7月 がつ 20日 はつか 、日本 にっぽん 政府 せいふ に講和 こうわ 会議 かいぎ 出席 しゅっせき の招請 しょうせい 状 じょう が届 とど いた[57] 。その10日 とおか 前 まえ の7月 がつ 10日 とおか には開城 かいじょう (ケソン)で朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の休戦 きゅうせん 会議 かいぎ が始 はじ まっていた[57] 。9月8日 にち に、サンフランシスコ市内 しない のオペラハウス で、サンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく が日本 にっぽん を含 ふく む49か国 こく で調印 ちょういん され、日本 にっぽん の主権 しゅけん が回復 かいふく した[57] 。
講和 こうわ 会議 かいぎ に招 まね かれた52か国 こく のうち、ソ連 それん とチェコスロバキア 、ポーランド は、米 べい 英 えい などとの意見 いけん の対立 たいりつ から調印 ちょういん を拒否 きょひ した[57] 。また、戦後 せんご 独立 どくりつ したばかりで独立 どくりつ 国家 こっか として日本 にっぽん と対戦 たいせん していなかったインド ・ビルマ ・ユーゴスラビア は招請 しょうせい に応 おう じなかった。また、国共 こっきょう 内戦 ないせん の結果 けっか 台湾 たいわん へ逃 のが れた中華民国 ちゅうかみんこく と、建国 けんこく されたばかりで日本 にっぽん と交戦 こうせん していない中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 、枢軸 すうじく 国 こく として日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく であったドイツを引 ひ き継 つ いだ西 にし ドイツ と東 ひがし ドイツ 、イタリア は招請 しょうせい されなかった[57] 。
なお、出来 でき たばかりか日本 にっぽん と交戦 こうせん していない大韓民国 だいかんみんこく はなぜか会議 かいぎ への招請 しょうせい を主張 しゅちょう したが、大戦 たいせん 当時 とうじ の朝鮮半島 ちょうせんはんとう は日本 にっぽん 領土 りょうど であるうえに、朝鮮 ちょうせん 人 じん の多 おお くが自主 じしゅ 的 てき に日本 にっぽん 軍 ぐん や満 まん 洲 しゅう 軍 ぐん の将兵 しょうへい として参戦 さんせん しており(のちの朴 ぼく 正煕 せいき 大統領 だいとうりょう など)、臨時 りんじ 政府 せいふ を承認 しょうにん されなかったことを理由 りゆう に、当然 とうぜん のことながらアメリカから招請 しょうせい を拒否 きょひ された[58] [59] 。
講和 こうわ 条約 じょうやく が発効 はっこう し、連合 れんごう 国軍 こくぐん による日本 にっぽん 占領 せんりょう が終結 しゅうけつ したのは、1952年 ねん 4月 がつ 28日 にち であった[57] 。しかしながら、横井 よこい 庄一 しょういち や小野田 おのだ 寛 ひろし 郎 ろう に代表 だいひょう されるように、少 すく なからぬ日本 にっぽん 兵 へい が終戦 しゅうせん の伝達 でんたつ が困難 こんなん な環境 かんきょう で潜伏 せんぷく していたために終戦 しゅうせん 後 ご も戦闘 せんとう 状態 じょうたい を長期 ちょうき 継続 けいぞく していた(ただし、大半 たいはん は、数 すう 年 ねん で帰還 きかん した)。旧 きゅう 日本 にっぽん 軍 ぐん 兵士 へいし や満蒙 まもう 開拓 かいたく 青少年 せいしょうねん 義勇軍 ぎゆうぐん たちの中 なか には、八 はち 路 ろ 軍 ぐん や国民 こくみん 政府 せいふ 軍 ぐん に強制 きょうせい 的 てき に参加 さんか させられ、国共 こっきょう 内戦 ないせん に従軍 じゅうぐん した者 もの もあった[60] 。また、自 みずか ら除隊 じょたい し、インドネシア独立 どくりつ 戦争 せんそう や、ベトナム独立 どくりつ 戦争 せんそう に身 み を投 とう じる者 もの もいた。
「終戦 しゅうせん の日 ひ 」はいつか [ 編集 へんしゅう ]
伝統 でんとう 的 てき な戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう において休戦 きゅうせん 協定 きょうてい の合意 ごうい は口頭 こうとう による同意 どうい によれば良 よ く文書 ぶんしょ の手交 しゅこう を要件 ようけん としない(ハーグ陸戦 りくせん 条約 じょうやく ・附属 ふぞく 書 しょ 36条 じょう )。このため休戦 きゅうせん が協定 きょうてい された日 ひ と休戦 きゅうせん 協定 きょうてい が外交 がいこう 文書 ぶんしょ (降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ )として固定 こてい された日 ひ は異 こと なり、実際 じっさい に各地 かくち の戦線 せんせん で休戦 きゅうせん が合意 ごうい された日 ひ もまた異 こと なる。そのため現実 げんじつ に戦闘 せんとう が停止 ていし された日付 ひづけ (あるいは現地 げんち 日本 にっぽん 軍 ぐん が降伏 ごうぶく した日 ひ 、あるいは降伏 ごうぶく 式 しき を執 と り行 おこな った日付 ひづけ )には前 まえ 後 ご があり、また日本 にっぽん 政府 せいふ が停戦 ていせん を通告 つうこく した日 ひ (最初 さいしょ のものは短波 たんぱ ラジオを通 つう じた8月 がつ 10日 とおか )、連合 れんごう 国 こく の各 かく 司令 しれい 部 ぶ により停戦 ていせん の事実 じじつ が確認 かくにん された日 ひ などにも前後 ぜんご 関係 かんけい がある。
今日 きょう 、「終戦 しゅうせん の日 ひ 」とは、昭和 しょうわ 天皇 てんのう が「玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう 」によって、日本 にっぽん 政府 せいふ がポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく (=日本 にっぽん 軍 ぐん の降伏 ごうぶく 表明 ひょうめい )を連合 れんごう 国 こく 側 がわ に通告 つうこく したことを、国民 こくみん に放送 ほうそう を通 つう じて公表 こうひょう した1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )8月 がつ 15日 にち とするのが一般 いっぱん 的 てき である。一方 いっぽう 、日本 にっぽん 政府 せいふ がポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく を連合 れんごう 国 こく 側 がわ に通告 つうこく したのは、前日 ぜんじつ の8月 がつ 14日 にち であり、玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう によって読 よ み上 あ げられた「終戦 しゅうせん の詔書 しょうしょ 」の日付 ひづけ もその日 ひ となっている。
日本 にっぽん 政府 せいふ 及 およ び連合 れんごう 国 こく 代表 だいひょう が降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に調印 ちょういん した日 ひ は、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )9月2日 にち であり、連合 れんごう 国 こく ではこの日 ひ を「対 たい 日 にち 戦勝 せんしょう 記念 きねん 日 び 」としている例 れい が多 おお いが、中華民国 ちゅうかみんこく や中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 、旧 きゅう ソビエト連邦 れんぽう のように9月3日 にち とする国 くに もある。なお国際 こくさい 条約 じょうやく として日本 にっぽん 国 こく が交戦 こうせん 国 こく と正式 せいしき に平和 へいわ 条約 じょうやく などを締約 ていやく し戦争 せんそう 状態 じょうたい が終了 しゅうりょう した日 ひ は日本 にっぽん 国 こく との平和 へいわ 条約 じょうやく が発効 はっこう した1952年 ねん 4月 がつ 28日 にち 、日本 にっぽん 国 こく と中華民国 ちゅうかみんこく との間 あいだ の平和 へいわ 条約 じょうやく が発効 はっこう した1952年 ねん 8月 がつ 5日 にち 、日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん が発効 はっこう した1956年 ねん 12月12日 にち である(ただし日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん は戦争 せんそう 状態 じょうたい の終了 しゅうりょう を確認 かくにん した条約 じょうやく であって平和 へいわ 条約 じょうやく ではない)。
終戦 しゅうせん 工作 こうさく の例 れい [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 軍 ぐん が有利 ゆうり な展開 てんかい なうちに早期 そうき に休戦 きゅうせん ・終結 しゅうけつ させる試 こころ みは、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )の時期 じき から一部 いちぶ の政治 せいじ 家 か ・官僚 かんりょう ・民間 みんかん 人 じん の間 あいだ で摸索 もさく された。しかし、戦争 せんそう 勝利 しょうり を大義 たいぎ とした東條 とうじょう 内閣 ないかく 及 およ び軍部 ぐんぶ により弾圧 だんあつ され、中野 なかの 正 ただし 剛 つよし のように自決 じけつ に追 お い込 こ まれる者 もの もいた。終戦 しゅうせん 工作 こうさく としては、他 た に以下 いか のようなものが知 し られる。
これらはいずれも和平 わへい 条件 じょうけん の問題 もんだい や日本 にっぽん 側 がわ による仲介 ちゅうかい 者 しゃ への不信 ふしん 、時機 じき などから、実現 じつげん には至 いた らなかった。
日本 にっぽん 軍 ぐん は、各 かく 地域 ちいき でGHQ に対 たい する降伏 ごうぶく と降伏 ごうぶく 式 しき を行 おこな った。降伏 ごうぶく 先 さき の指定 してい は1945年 ねん 9月 がつ 2日 にち の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん 直後 ちょくご に「一般 いっぱん 命令 めいれい 第 だい 一 いち 号 ごう 」としてGHQから発令 はつれい された。
青森 あおもり 県 けん :9月9日 にち 、海軍 かいぐん 大湊 おおみなと 警備 けいび 府 ふ 司令 しれい 長官 ちょうかん の宇垣 うがき 完 かん 爾 なんじ 、陸軍 りくぐん 50軍 ぐん 司令 しれい 官 かん の星野 ほしの 利 とし 元 もと 、県知事 けんちじ の金井 かない 元彦 もとひこ らが大湊湾 おおみなとわん 洋上 ようじょう のアメリカ軍艦 ぐんかん パミナント上 じょう で占領 せんりょう 命令 めいれい 書 しょ に署名 しょめい している[67] 。アメリカ軍 ぐん 側 がわ は9月2日 にち に日本 にっぽん と連合 れんごう 国 こく の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん を踏 ふ まえ、24時間 じかん 以内 いない に北海道 ほっかいどう と北東 ほくとう 北 きた を管轄 かんかつ する同 どう 警備 けいび 府 ふ が武装 ぶそう 解除 かいじょ することなどを命 めい じている。
外地 がいち ・大陸 たいりく ・南方 なんぽう [ 編集 へんしゅう ]
太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき 各地 かくち の降伏 ごうぶく 式 しき
外務省 がいむしょう 編 へん 「終戦 しゅうせん 史 し 録 ろく 」 同 どう 刊行 かんこう 会 かい , 新版 しんぱん 1997ほか。初刊 しょかん :新聞 しんぶん 月 がつ 鑑 かん 社 しゃ , 1952
改訂 かいてい 版 ばん 「終戦 しゅうせん 史 し 録 ろく 」 北洋 ほくよう 社 しゃ (全 ぜん 6巻 かん ・別巻 べっかん [73] ), 1977-78
外務省 がいむしょう 編 へん 「日本 にっぽん の選択 せんたく 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終戦 しゅうせん 史 し 録 ろく 」 山手 やまて 書房 しょぼう 新 しん 社 しゃ (3巻 かん 組 ぐみ ), 1990
外務省 がいむしょう 編 へん 「初期 しょき 対 たい 日 にち 占領 せんりょう 政策 せいさく 朝 あさ 海 うみ 浩 ひろし 一郎 いちろう 報告 ほうこく 書 しょ 」毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ (上下 じょうげ ), 1978-79
江藤 えとう 淳 あつし 監修 かんしゅう 、栗原 くりはら 健 けん ・波多野 はたの 澄雄 すみお 編 へん 「終戦 しゅうせん 工作 こうさく の記録 きろく 」、講談社 こうだんしゃ 文庫 ぶんこ (上下 じょうげ ), 1986
江藤 えとう 淳 あつし 編 へん ・波多野 はたの 澄雄 すみお 解題 かいだい 「占領 せんりょう 史 し 録 ろく 」(全 ぜん 4巻 かん )、講談社 こうだんしゃ , 1981-82/講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ , 1989、文庫 ぶんこ 新版 しんぱん (上下 じょうげ ), 1995
林 はやし 茂 しげる ・辻 つじ 清明 きよあき 編 へん 「日本 にっぽん 内 ない 閣 かく 史 し 録 ろく 5」第 だい 一 いち 法規 ほうき , 1981(全 ぜん 6巻 かん )
鹿島 かしま 平和 へいわ 研究所 けんきゅうじょ 編 へん 「日本 にっぽん 外交 がいこう 史 し 25 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう ・終戦 しゅうせん 外交 がいこう 」 松本 まつもと 俊一 しゅんいち 監修 かんしゅう , 1972
同上 どうじょう 「日本 にっぽん 外交 がいこう 史 し 26 終戦 しゅうせん から講和 こうわ 」 鈴木 すずき 九 きゅう 萬 まん 監修 かんしゅう , 1973、鹿島 かしま 出版 しゅっぱん 会 かい (各 かく 新版 しんぱん )
中尾 なかお 裕次 ゆうじ 編 へん 「昭和 しょうわ 天皇 てんのう 発言 はつげん 記録 きろく 集成 しゅうせい 」 芙蓉 ふよう 書房 しょぼう 出版 しゅっぱん (上下 じょうげ ), 2003
参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 所蔵 しょぞう 「敗戦 はいせん の記録 きろく 」 原 はら 書房 しょぼう , 1967、新版 しんぱん 1989、2005
森 もり 松 まつ 俊夫 としお 監修 かんしゅう 「『大本營 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 』大陸 たいりく 命 いのち ・大陸 たいりく 指 ゆび 総 そう 集成 しゅうせい 10巻 かん 」エムティ出版 しゅっぱん , 1994
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 「大本營 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 10 昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 八 はち 月 がつ まで」朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ , 1975
軍事 ぐんじ 史 し 学会 がっかい 編 へん 「大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 戦争 せんそう 指導 しどう 班 はん 機密 きみつ 戦争 せんそう 日誌 にっし 」 錦 にしき 正 せい 社 しゃ (上下 じょうげ ), 1998/新版 しんぱん 合本 がっぽん 2008
佐藤 さとう 元 もと 英 えい ・黒沢 くろさわ 文 ぶん 貴 とうと 編 へん 「GHQ歴史 れきし 課 か 陳述 ちんじゅつ 録 ろく 終戦 しゅうせん 史 し 資料 しりょう 」原 はら 書房 しょぼう (上下 じょうげ ), 2002
『日本 にっぽん 外交 がいこう 文書 ぶんしょ 太平洋戦争 たいへいようせんそう 』 六 ろく 一 いち 書房 しょぼう (全 ぜん 3巻 かん ), 2010 - 各 かく ・外務省 がいむしょう 外交 がいこう 史料 しりょう 館 かん 編 へん
『日本 にっぽん 外交 がいこう 文書 ぶんしょ 占領 せんりょう 期 き 』 六 ろく 一 いち 書房 しょぼう (全 ぜん 3巻 かん ), 2017-18
『日本 にっぽん 外交 がいこう 文書 ぶんしょ 占領 せんりょう 期 き 関係 かんけい 調書 ちょうしょ 集 しゅう 』 六 ろく 一 いち 書房 しょぼう , 2019
日記 にっき ・回想 かいそう 録 ろく [ 編集 へんしゅう ]
「鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 自伝 じでん 」 鈴木 すずき 一 はじめ 編 へん 、時事通信社 じじつうしんしゃ , 1968、新版 しんぱん 1985[74]
鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 伝記 でんき 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 編 へん 「鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 伝 でん 」鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 伝記 でんき 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい , 1960
新版 しんぱん 「歴代 れきだい 総理 そうり 大臣 だいじん 伝記 でんき 叢書 そうしょ 32 鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 」ゆまに書房 しょぼう , 2006
「東 ひがし 久邇 くに 日記 にっき 日本 にっぽん 激動期 げきどうき の秘録 ひろく 」徳間書店 とくましょてん , 1968
東 ひがし 久邇 くに 稔彦 としひこ 「一 いち 皇族 こうぞく の戦争 せんそう 日記 にっき 」日本 にっぽん 週報 しゅうほう 社 しゃ , 1957 /「私 わたし の記録 きろく 」東方 とうほう 書房 しょぼう , 1947
東郷 とうごう 茂徳 しげのり 「時代 じだい の一 いち 面 めん 東郷 とうごう 茂徳 しげのり 外交 がいこう 手記 しゅき 」 改造 かいぞう 社 しゃ , 1952 / 原 はら 書房 しょぼう , 新版 しんぱん 2005 / 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 新版 しんぱん 2021
迫水 さこみず 久常 ひさつね 「機関 きかん 銃 じゅう 下 か の首相 しゅしょう 官邸 かんてい 二 に ・二 に 六 ろく 事件 じけん から終戦 しゅうせん まで 」 恒文社 こうぶんしゃ , 1964、新版 しんぱん 1986 / ちくま学芸 がくげい 文庫 ぶんこ , 2011
迫水 さこみず 久常 ひさつね 「大日本帝国 だいにっぽんていこく 最後 さいご の四 よん か月 げつ 」 オリエント書房 しょぼう , 1973 / 河出 かわで 文庫 ぶんこ , 2015
下村 しもむら 海南 かいなん 「終戦 しゅうせん 秘史 ひし 」 講談社 こうだんしゃ , 1950 / 講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ , 1985
藤田 ふじた 尚徳 なおのり 「侍従 じじゅう 長 ちょう の回想 かいそう 」 講談社 こうだんしゃ , 1961 / 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 1987 / 講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ , 2015
細川 ほそかわ 護貞 もりさだ 「細川 ほそかわ 日記 にっき 」 中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ (新版 しんぱん ), 1978 / 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ (上下 じょうげ ), 1979、改版 かいはん 2002
重光 しげみつ 葵 まもる 「重光 しげみつ 葵 まもる 手記 しゅき 」(正 ただし ・続 つづけ ) 中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ , 1986-88
重光 しげみつ 葵 まもる 「昭和 しょうわ の動乱 どうらん 」(上 うえ ・下 した ) 中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ , 1952 / 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 2001
重光 しげみつ 葵 まもる 「外交 がいこう 回想 かいそう 録 ろく 」 毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ , 1953、新版 しんぱん 1978 / 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 2011
岡崎 おかざき 勝男 かつお 「戦後 せんご 二 に 十 じゅう 年 ねん の遍歴 へんれき 」 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 1999。初刊 しょかん ・私家版 しかばん
木戸 きど 幸一 こういち 「木戸 きど 幸一 こういち 日記 にっき 」 東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい (上 うえ ・下 した ), 1966
「証言 しょうげん ・私 わたし の昭和 しょうわ 史 し 5 終戦 しゅうせん 前後 ぜんこう 」き手 きて 三國一 さんごくいち 郎 ろう 、旺文社 おうぶんしゃ 文庫 ぶんこ 、文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ (新版 しんぱん ), 1989
「もう一 ひと つの戦後 せんご 史 し 」き手 きて 江藤 えとう 淳 あつし 、講談社 こうだんしゃ , 1978[75]
「証言 しょうげん 記録 きろく 太平洋戦争 たいへいようせんそう 終戦 しゅうせん への決断 けつだん 」サンケイ新聞 しんぶん 社 しゃ 「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ブックス」, 1975
富田 とみた 健治 けんじ 「敗戦 はいせん 日本 にっぽん の内側 うちがわ 」古今 ここん 書院 しょいん , 1962
「近衛 このえ 文麿 ふみまろ と日米 にちべい 開戦 かいせん ――内閣 ないかく 書記官 しょきかん 長 ちょう が残 のこ した『敗戦 はいせん 日本 にっぽん の内側 うちがわ 』」祥伝社 しょうでんしゃ 新書 しんしょ , 2019。川田 かわた 稔 みのる 解説 かいせつ 。
松村 まつむら 謙三 けんぞう 「三 さん 代 だい 回顧 かいこ 録 ろく 」東洋経済新報社 とうようけいざいしんぽうしゃ , 1964 / 新版 しんぱん ・吉田 よしだ 書店 しょてん 、2021。武田 たけだ 知己 ともみ 編 へん
高松宮 たかまつのみや 宣仁 のぶひと 親王 しんのう 「高松宮 たかまつのみや 日記 にっき 」中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ (全 ぜん 8巻 かん ), 1997
「河辺 かわべ 虎 とら 四 よん 郎 ろう 回想 かいそう 録 ろく 市ヶ谷 いちがや 台 だい から市ヶ谷 いちがや 台 だい へ」 時事通信社 じじつうしんしゃ , 1962 / 毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ , 1979
保科 ほしな 善四郎 ぜんしろう 「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 秘史 ひし 失 うしな われた和平 わへい 工作 こうさく 」原 はら 書房 しょぼう , 1975
「最後 さいご の参謀 さんぼう 総長 そうちょう 梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 」 同 どう 刊行 かんこう 会 かい 編 へん 、芙蓉 ふよう 書房 しょぼう , 1976
有末 ありすえ 精三 せいぞう 「終戦 しゅうせん 秘史 ひし 有末 ありすえ 機関 きかん 長 ちょう の手記 しゅき 」 芙蓉 ふよう 書房 しょぼう , 1987(新版 しんぱん )
宮崎 みやざき 周一 しゅういち 「大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 作戦 さくせん 部長 ぶちょう 宮崎 みやざき 周一 しゅういち 中将 ちゅうじょう 日誌 にっし 」 錦 にしき 正 せい 社 しゃ , 2003
豊田 とよだ 副 ふく 武 ぶ 「最後 さいご の帝国 ていこく 海軍 かいぐん 」 世界 せかい の日本 にっぽん 社 しゃ , 1950 / 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 2017
富岡 とみおか 定 じょう 俊 しゅん 「開戦 かいせん と終戦 しゅうせん 」毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ , 1968 / 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 2018
高木 たかぎ 惣 そう 吉 きち 「自伝 じでん 的 てき 日本 にっぽん 海軍 かいぐん 始末 しまつ 記 き 続篇 ぞくへん 」光人 みつひと 社 しゃ , 1979
藤田 ふじた 信勝 のぶかつ 「敗戦 はいせん 以後 いご 」秋田 あきた 屋 や , 1947 / リーダーズノート新書 しんしょ , 2011
歴史 れきし 書 しょ ・伝記 でんき [ 編集 へんしゅう ]
半藤 はんどう 一利 かずとし 「決定 けってい 版 ばん 日本 にっぽん のいちばん長 なが い日 ひ 」 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう , 1995、文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ , 2006
半藤 はんどう 一利 かずとし 「聖断 せいだん 昭和 しょうわ 天皇 てんのう と鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 」 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう , 1985/PHP文庫 ぶんこ (新版 しんぱん ), 2006
小堀 こぼり 桂一郎 けいいちろう 「宰相 さいしょう 鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 」 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう , 1982、文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ , 1987
「鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 用 もちい うるに玄 げん 黙 だま より大 だい なるはなし 」 ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 〈日本 にっぽん 評伝 ひょうでん 選 せん 〉, 2016。増 ぞう 訂 てい 版 ばん
波多野 はたの 澄雄 すみお 「宰相 さいしょう 鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう の決断 けつだん 「聖断 せいだん 」と戦後 せんご 日本 にっぽん 」岩波書店 いわなみしょてん 〈岩波 いわなみ 現代 げんだい 全書 ぜんしょ 〉, 2015
萩原 はぎはら 延壽 えんじゅ 「東郷 とうごう 茂徳 しげのり 伝記 でんき と解説 かいせつ 」 原 はら 書房 しょぼう , 2005(新版 しんぱん )/朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ , 2008
東郷 とうごう 茂彦 しげひこ 「祖父 そふ 東郷 とうごう 茂徳 しげのり の生涯 しょうがい 」 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう , 1993
豊田 とよだ 穣 みのる 「孤高 ここう の外相 がいしょう 重光 しげみつ 葵 まもる 」 講談社 こうだんしゃ , 1990
渡辺 わたなべ 行男 いくお 「重光 しげみつ 葵 まもる 上海 しゃんはい 事変 じへん から国連 こくれん 加盟 かめい まで」中公新書 ちゅうこうしんしょ , 1996
実松 さねまつ 譲 ゆずる 「米内 よない 光政 みつまさ 正伝 せいでん 」光人 みつひと 社 しゃ , 2009(新版 しんぱん )
「海軍 かいぐん 大将 たいしょう 米内 よない 光政 みつまさ 覚書 おぼえがき 太平洋戦争 たいへいようせんそう 終結 しゅうけつ の真相 しんそう 」実松 さねまつ 譲 ゆずる 編 へん 、産経 さんけい NF文庫 ぶんこ , 2022。元 もと 版 はん :光人 みつひと 社 しゃ
「昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 」 中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ (1-4), 2012。元 もと 版 はん :読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ (全 ぜん 30巻 かん ), 1980完結 かんけつ
「天皇 てんのう の終戦 しゅうせん 激動 げきどう の227日 にち 」 読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ , 1988 - 上記 じょうき の再編 さいへん 版 ばん
入江 いりえ 隆則 たかのり 「敗者 はいしゃ の戦後 せんご 」 中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 〈中公叢書 ちゅうこうそうしょ 〉, 1989/文春 ぶんしゅん 学藝 がくげい ライブラリー(文庫 ぶんこ 新版 しんぱん ), 2015
長谷川 はせがわ 毅 あつし 「暗闘 あんとう スターリン、トルーマンと日本 にっぽん 降伏 ごうぶく 」 中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ , 2006/みすず書房 しょぼう , 2023
仲 なか 晃 あきら 「黙殺 もくさつ ポツダム宣言 せんげん の真実 しんじつ と日本 にっぽん の運命 うんめい 」 NHKブックス(上下 じょうげ ), 2000
五 ご 百 ひゃく 旗頭 はたがしら 真 しん 「占領 せんりょう 期 き 首相 しゅしょう たちの新日本 しんにほん 」 読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 〈20世紀 せいき の日本 にっぽん 3〉, 1997/講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ , 2007
五 ご 百 ひゃく 旗頭 はたがしら 真 しん 「日本 にっぽん の近代 きんだい 6 戦争 せんそう ・占領 せんりょう ・講和 こうわ 1941〜1955」 中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ , 2001、中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 2013
戸部 とべ 良一 りょういち 「日本 にっぽん の近代 きんだい 9 逆説 ぎゃくせつ の軍隊 ぐんたい 」 中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ , 1998、中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ , 2012
児島 こじま 襄 じょう 「天皇 てんのう 5 帝国 ていこく の終焉 しゅうえん 」 カゼット出版 しゅっぱん (新版 しんぱん 、全 ぜん 5巻 かん ), 2007
ジョン・トーランド 「大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5 平和 へいわ への道 みち 」 毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 外信 がいしん 部 ぶ 訳 やく 、ハヤカワ文庫 ぶんこ (全 ぜん 5巻 かん )、2015(新版 しんぱん )
レスター・ブルークス「終戦 しゅうせん 秘話 ひわ 一 ひと つの帝国 ていこく を終 お わらせた秘密 ひみつ 闘争 とうそう 」井上 いのうえ 勇 いさむ 訳 わけ 、時事通信社 じじつうしんしゃ , 1968、新版 しんぱん 1985。原題 げんだい はBehind Japan's surrender
ルイ・アレン「日本 にっぽん 軍 ぐん が銃 じゅう をおいた日 ひ 太平洋戦争 たいへいようせんそう の終焉 しゅうえん 」長尾 ながお 睦 あつし 也・寺村 てらむら 誠一 せいいち 訳 やく 、早川書房 はやかわしょぼう , 1976、改訂 かいてい 新版 しんぱん 2022
芦田 あしだ 均 ひとし 「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 外交 がいこう 史 し 」岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ (上下 じょうげ ), 2015(新版 しんぱん )。解説 かいせつ 井上 いのうえ 寿一 ひさいち
辞典 じてん ・事典 じてん 項目 こうもく [ 編集 へんしゅう ]
『消 き えた潜水 せんすい 艦 かん とたった一人 ひとり の和平 わへい 工作 こうさく 』(日本 にほん テレビ「知 し ってるつもり?! 」2002年 ねん 5月 がつ 28日 にち 放送 ほうそう 分 ぶん )
^ 福田 ふくだ 和也 かずや 『悪 あく と徳 とく と岸 きし 信介 しんすけ と未完 みかん の日本 にっぽん 』 産経新聞 さんけいしんぶん 社 しゃ 2012年 ねん 4月 がつ 第 だい 19回 かい 『サイパン陥落 かんらく 』、第 だい 20回 かい 『尊攘 そんじょう 同志 どうし 会 かい 』 pp.228-246
^ 長谷川 はせがわ 毅 あつし 『暗闘 あんとう (上 うえ )』中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、2011年 ねん 、p151
^ 『暗闘 あんとう (上 うえ )』 p.198
^ 『暗闘 あんとう (上 うえ ) 』 pp.290 - 212、218 - 220
^ 『満 まん 洲 しゅう 国 こく ―「民族 みんぞく 協和 きょうわ 」の実像 じつぞう 』塚 づか 瀬 せら 進 すすむ 吉川弘文館 よしかわこうぶんかん p.147
^ 『暗闘 あんとう (上 うえ )』 p.226
^ 『暗闘 あんとう (上 うえ )』 pp.248 - 250
^ a b 寺崎 てらさき 英成 えいせい 著 しる 『昭和 しょうわ 天皇 てんのう 独白 どくはく 録 ろく 』 136ページによれば、「私 わたし が今 いま 迄 まで 聞 き いてゐた所 ところ では、海岸 かいがん 地方 ちほう の防備 ぼうび が悪 わる いといふ事 こと であつたが、報告 ほうこく に依 よ ると、海岸 かいがん のみならず、決戦 けっせん 師団 しだん さへ、武器 ぶき が満足 まんぞく に行 い き渡 わたし つてゐないと云 うん ふ事 ごと だつた。敵 てき の落 おと した爆 ばく 弾 だん の鉄 てつ を利用 りよう して「シャベル」を作 つく るのだと云 うん ふ、これでは戦争 せんそう は不可能 ふかのう と云 うん ふ事 ごと を確認 かくにん した。木戸 きど は米 べい 内 ない にも東郷 とうごう にも鈴木 すずき にも意見 いけん を聞 き いたが、皆 みな 講和 こうわ したいと云 うん ふ、然 しか し誰 だれ も進 すす んで云 うん ひ出 だ さない。それで私 わたし は最高 さいこう 指導 しどう 会議 かいぎ の者 もの を呼 よ んで、速 すみや かに講和 こうわ の手筈 てはず を進 すす める様 よう に云 うん つた。「ソビエト」を経 へ てやれと云 うん つたかどうかは記憶 きおく して居 お らぬ。この時 とき 鈴木 すずき その他 た から先 さき づ「ソビエト」の肝 きも を探 さぐ らうと、云 うん ひ出 だ した、私 わたし はそれは良 よ い事 こと と思 おも ふが、現状 げんじょう に於 おい ては速 すみや かに事 こと を処理 しょり する必要 ひつよう があると云 うん つた。これですつかり講和 こうわ の決意 けつい が出来 でき て安心 あんしん した、但 ただ し講和 こうわ の条件 じょうけん に付 づけ ては、皆 みな 各 かく と意見 いけん があつた。之 これ と前 ぜん 后 きさき して、鈴木 すずき は詔書 しょうしょ を出 だ して国民 こくみん を激励 げきれい して頂 いただ きたいと云 うん つて釆たが、前述 ぜんじゅつ の理由 りゆう で、絶対 ぜったい に反対 はんたい だと云 うん つたら、鈴木 すずき は御 ご 尤 もっと もだと云 うん つて帰 き つた。どうも政府 せいふ も軍人 ぐんじん も二股 ふたまた かける傾向 けいこう があるのはよろしくない。この場合 ばあい 鈴木 すずき だから、隔意 かくい なく思 おも ふ事 こと が云 うん へたのだ。・・・然 しか しソ連 それん は誠意 せいい ある国 くに とは思 おも へないので、先 さき づ探 さぐ りを入 い れる必要 ひつよう がある、それでもし石油 せきゆ を輸入 ゆにゅう して呉 く れるなら南 みなみ 樺太 からふと も、満 まん 洲 しゅう も与 あずか へてよいといふ内容 ないよう の広田 ひろた 「マリク」会談 かいだん を進 すす める事 こと にした。しかし、「スターリン」は会議 かいぎ から帰 かえり つた后 きさき も、返事 へんじ を寄越 よこ さず、その中 なか に、不幸 ふこう にして「ソビエト」の宣戦 せんせん 布告 ふこく となつた。こうなつては最早 もはや 無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく の外 そと はない。」とある
^ NHKスペシャル 「終戦 しゅうせん なぜ早 はや く決 き められなかったのか」(2012年 ねん 8月 がつ 15日 にち 放映 ほうえい )[1] 。当 とう 番組 ばんぐみ では連合 れんごう 国 こく に傍受 ぼうじゅ 解読 かいどく された駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん 発 はつ の電報 でんぽう (ロンドンに保存 ほぞん )が紹介 しょうかい された。
^ NHK取材 しゅざい 班 はん 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 日本 にっぽん の敗因 はいいん 6 外交 がいこう なき戦争 せんそう の終末 しゅうまつ 』 角川 かどかわ 文庫 ぶんこ 、1995年 ねん 、pp.204 - 208
^ 昭和 しょうわ 天皇 てんのう 実録 じつろく より
^ a b c 『大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5』ジョン・トーランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう p.264
^ 昭和 しょうわ 天皇 てんのう 実録 じつろく iza14090905120002 2/3
^ 衣 ころも 奈多 なた 喜男 よしお 『最後 さいご の特派 とくは 員 いん 』朝日 あさひ ソノラマ 1988年 ねん 7月 がつ 、ISBN 978-4-257-17205-5
^ a b c 『大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5』ジョン・トーランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう p.267
^ 『大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5』ジョン・トーランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう p.265
^ "… the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander …"
^ The ultimate form of government of Japan... government は無 む 冠詞 かんし である(プログレッシブ英和 えいわ 中 ちゅう 辞典 じてん (第 だい 4版 はん ) government )。
^ “The Decision to Use the Atomic Bomb” by Henry Stimson
^ August 10, 1945 Truman Diary
^ 戦史 せんし 叢書 そうしょ 93大本営 だいほんえい 海軍 かいぐん 部 ぶ ・聯合 れんごう 艦隊 かんたい (7)戦争 せんそう 最終 さいしゅう 期 き 471頁 ぺーじ
^ 戦史 せんし 叢書 そうしょ 93大本営 だいほんえい 海軍 かいぐん 部 ぶ ・聯合 れんごう 艦隊 かんたい (7)戦争 せんそう 最終 さいしゅう 期 き 473頁 ぺーじ
^ 『大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5』ジョン・トーランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう p.274
^ a b 岩田 いわた 重則 しげのり 『「玉音 ぎょくおん 」放送 ほうそう の歴史 れきし 学 がく : 八 はち 月 がつ 一 いち 五 ご 日 にち をめぐる権威 けんい と権力 けんりょく 』青土 おうづち 社 しゃ 、2026年 ねん 6月 がつ 26日 にち 、143-,170頁 ぺーじ 。
^ 『大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5』ジョン・トーランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう p.275
^ 『大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5』ジョン・トーランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう pp.277-278
^ a b c “命 いのち (終戦 しゅうせん に関 かん する書類 しょるい )、官報 かんぽう (号外 ごうがい ) ”. 国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター. 2023年 ねん 7月 がつ 13日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 井 い 澗 裕 ひろし . “占 うらない 守 もり 島 とう ・1945年 ねん 8月 がつ ”. 北海道大学 ほっかいどうだいがく スラブ・ユーラシア研究 けんきゅう センター. 2023年 ねん 7月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 叢書 そうしょ 九 きゅう 八 はち 432a
^ a b “命 いのち 巻 まき 21 3部 ぶ の内 うち 2号 ごう (4) ”. 国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター. 2023年 ねん 7月 がつ 25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 山田 やまだ 朗 あきら 「日本 にっぽん の敗戦 はいせん と大本営 だいほんえい 命令 めいれい 」『駿台 すんだい 史學 しがく 』第 だい 94巻 かん 、明治大学 めいじだいがく 史学 しがく 地理 ちり 学会 がっかい 、1995年 ねん 3月 がつ 、132-168頁 ぺーじ 、CRID 1050845762305962624 、hdl :10291/1641 、ISSN 0562-5955 、NAID 120001439091 。
^ “指 ゆび 巻 まき 14 第 だい 2525号 ごう ~2556号 ごう ”. 国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター. 2023年 ねん 7月 がつ 25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ NHKスペシャル取材 しゅざい 班 はん 編 へん 『樺太 からふと 地上 ちじょう 戦 せん 終戦 しゅうせん 後 ご 7日間 にちかん の悲劇 ひげき 』(株) かぶしきがいしゃ KADOKAWA、2019年 ねん 10月 がつ 25日 にち 。
^ Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan , Library of Congress Catalogue Card # 67-27047, p.239
^ “「スターリンの野望 やぼう 」北海道 ほっかいどう 占領 せんりょう を阻止 そし した男 おとこ : 読売新聞 よみうりしんぶん ”. 読売新聞 よみうりしんぶん . 2023年 ねん 7月 がつ 13日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 『占領 せんりょう 下 か の津 つ 京 きょう 』佐藤 さとう 洋一 よういち p.25(河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ )2006年 ねん
^ 「厚木 あつぎ でマッカーサーを出迎 でむか えた「太平洋戦争 たいへいようせんそう きっての名 めい 作戦 さくせん 家 か 」2021年 ねん 9月 がつ 6日 にち 」 - 2021年 ねん 9月 がつ 6日 にち 譚 たん 璐美 JBpress
^ 『占領 せんりょう 下 か の東京 とうきょう 』佐藤 さとう 洋一 よういち p.24(河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ )2006年 ねん
^ 外務省 がいむしょう
^ 『占領 せんりょう 下 か の東京 とうきょう 』佐藤 さとう 洋一 よういち p.84(河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ )2006年 ねん
^ 「大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5」ジョン・ト―ランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう P.328
^ 杉田 すぎた 一次 かずつぐ の回想 かいそう -2-杉田 すぎた 一次 かずつぐ 著 ちょ 『情報 じょうほう なきミズリー号 ごう 艦上 かんじょう の降伏 ごうぶく 調印 ちょういん 映像 えいぞう で見 み る占領 せんりょう 期 き の日本 にっぽん -占領 せんりょう 軍 ぐん 撮影 さつえい フィルムを見 み る- 永井 ながい 和 かず 京都 きょうと 大学 だいがく 教授 きょうじゅ
^ 「大日本帝国 だいにっぽんていこく の興亡 こうぼう 5」ジョン・ト―ランド著 ちょ 早川書房 はやかわしょぼう P.318
^ 「私 わたし を通 とお り過 す ぎたスパイたち」佐々淳行 さっさあつゆき 著 ちょ 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう P.178
^ 石川 いしかわ 真澄 ますみ 『戦後 せんご 政治 せいじ 史 し 新版 しんぱん 』(2004年 ねん )岩波 いわなみ 新書 しんしょ 、6ページ
^ a b c d 石川 いしかわ 真澄 ますみ 『戦後 せんご 政治 せいじ 史 し 新版 しんぱん 』(2004年 ねん )岩波 いわなみ 新書 しんしょ 、7ページ
^ a b c d e f 石川 いしかわ 真澄 ますみ 著 ちょ 『戦後 せんご 政治 せいじ 史 し 新版 しんぱん 』(2004年 ねん )岩波 いわなみ 新書 しんしょ 56ページ
^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts) . VI, Part 1 . pp. p. 1296. http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1951v06p1
^ 塚本 つかもと 孝 たかし 「韓国 かんこく の対 たい 日 にち 平和 へいわ 条約 じょうやく 署名 しょめい 問題 もんだい 」『レファレンス』 494巻 かん 、国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 調査 ちょうさ 立法 りっぽう 考査 こうさ 局 きょく 、1992年 ねん 3月 がつ 、95-101頁 ぺーじ 。
^ 池谷 いけがや 薫 かおる 『蟻 あり の兵隊 へいたい 日本 にっぽん 兵 へい 2600人 にん 山西 さんせい 省 しょう 残留 ざんりゅう の真相 しんそう 』(新潮社 しんちょうしゃ 、2007年 ねん (平成 へいせい 19年 ねん ))、米 べい 濱 はま 泰 やすし 英 えい 『日本 にっぽん 軍 ぐん 「山西 さんせい 残留 ざんりゅう 」』(オーラル・ヒストリー企画 きかく 、2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )6月 がつ )、山口 やまぐち 盈 みつる 文 ぶん 『僕 ぼく は八 はち 路 ろ 軍 ぐん の少年 しょうねん 兵 へい だった』(草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 1994年 ねん (平成 へいせい 6年 ねん )、新版 しんぱん が光人 みつひと 社 しゃ 文庫 ぶんこ 、2006年 ねん )に詳 くわ しい、また中国 ちゅうごく 山西 さんせい 省 しょう 日本 にっぽん 軍 ぐん 残留 ざんりゅう 問題 もんだい を参照 さんしょう 。
^ 回想 かいそう に小野寺 おのでら 百合子 ゆりこ 『バルト海 ばるとかい のほとりにて 武官 ぶかん の妻 つま の大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 』(共同通信社 きょうどうつうしんしゃ 。初版 しょはん 1985年 ねん )。
^ 情報 じょうほう 開示 かいじ により近年 きんねん 研究 けんきゅう が進 すす み、評伝 ひょうでん に岡部 おかべ 伸 しん (産経新聞 さんけいしんぶん 編集 へんしゅう 委員 いいん )による『消 き えたヤルタ密約 みつやく 緊急 きんきゅう 電 でん 情報 じょうほう 士官 しかん ・小野寺 おのでら 信 しん の孤独 こどく な戦 たたか い』(新潮 しんちょう 選書 せんしょ 、2012年 ねん )、『「諜報 ちょうほう の神様 かみさま 」と呼 よ ばれた男 おとこ 連合 れんごう 国 こく が恐 おそ れた情報 じょうほう 士官 しかん 小野寺 おのでら 信 しん の流儀 りゅうぎ 』(PHP研究所 けんきゅうじょ 、2014年 ねん )がある。
^ 小野寺 おのでら 工作 こうさく を元 もと に、作家 さっか の佐々木 ささき 譲 ゆずる が小説 しょうせつ で『ストックホルムの密使 みっし 』(新潮社 しんちょうしゃ 、のち新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ )を著 あらわ し、1995年 ねん (平成 へいせい 7年 ねん )10月 がつ に、NHK でドラマ放送 ほうそう (前 ぜん ・後 ご )された。
^ 岡本 おかもと ・加瀬 かせ のルートによるスイスでの活動 かつどう は、竹内 たけうち 修司 しゅうじ 『幻 まぼろし の終戦 しゅうせん 工作 こうさく ピース・フィーラーズ1945夏 なつ 』(文春 ぶんしゅん 新書 しんしょ 、2005年 ねん )に詳 くわ しい。著者 ちょしゃ は『月刊 げっかん 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 』、『諸君 しょくん ! 』などの編集 へんしゅう 者 しゃ で、昭和 しょうわ 史 し 関連 かんれん の著作 ちょさく 編集 へんしゅう を行 おこな っている。なお、岡本 おかもと ・加瀬 かせ と藤村 ふじむら は別個 べっこ に活動 かつどう しており、お互 たが いの活動 かつどう をほとんど知 し らなかったとされる。
^ 有馬 ありま 哲夫 てつお 『「スイス諜報 ちょうほう 網 もう 」の日米 にちべい 終戦 しゅうせん 工作 こうさく ポツダム宣言 せんげん はなぜ受 う けいれられたか』(新潮 しんちょう 選書 せんしょ 、2015年 ねん )では、藤村 ふじむら の和平 わへい 工作 こうさく に否定 ひてい 的 てき な見解 けんかい を述 の べている。
^ 藤村 ふじむら =ダレス工作 こうさく を元 もと に、作家 さっか の西村 にしむら 京太郎 きょうたろう が小説 しょうせつ 『D機関 きかん 情報 じょうほう 』(講談社 こうだんしゃ )を著 あらわ し、『アナザー・ウェイ ―D機関 きかん 情報 じょうほう ― 』(主演 しゅえん 役所広司 やくしょこうじ 、1988年 ねん )で映画 えいが 化 か された。
^ 「占領 せんりょう の瞬間 しゅんかん 生々 なまなま しく 降伏 ごうぶく 式 しき の写真 しゃしん 見 み つかる」デ で ーリ り ー東北新聞社 とうほくしんぶんしゃ オンライン(2010/03/11)[2]
^ a b “日本 にっぽん 軍 ぐん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 公開 こうかい 沖縄 おきなわ 市 し が終戦 しゅうせん 70年 ねん 展 てん ” . 琉球新報 りゅうきゅうしんぽう . (2015年 ねん 8月 がつ 19日 にち ). http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-247513.html 2016年 ねん 5月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “9月7日 にち 沖縄 おきなわ での降伏 ごうぶく 調印 ちょういん 式 しき (1945年 ねん ) ”. 沖縄 おきなわ 県 けん 公文書 こうぶんしょ 館 かん . 2016年 ねん 5月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “独立 どくりつ 混成 こんせい 第 だい 5旅団 りょだん (桐 きり )l ”. アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター. 2018年 ねん 12月21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Second Instrument of Surrender Document ”. Lillian Goldman Law Library. 2018年 ねん 12月21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Instrument of Surrender, Rabaul ”. National Archives of Australia. 2018年 ねん 12月21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 別巻 べっかん は「終戦 しゅうせん を問 と い直 なお す シンポジウム」栗原 くりはら 健 けん ほか編 へん 、江藤 えとう 淳 あつし 解説 かいせつ , 1980。
^ 時事 じじ 及 およ び図書 としょ センター版 ばん は、回顧 かいこ 談 だん 「終戦 しゅうせん の表情 ひょうじょう 」(労働 ろうどう 文化 ぶんか 社 しゃ , 1946)を収録 しゅうろく
^ 終戦 しゅうせん ・占領 せんりょう での当事 とうじ 者 しゃ ・その親族 しんぞく 13名 めい へのインタビュー