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日本にっぽん降伏ごうぶく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1945ねん9月2にち戦艦せんかんミズーリ艦上かんじょうリチャード・サザランド中将ちゅうじょう見守みまもなか降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいする重光しげみつまもる外務がいむ大臣だいじんみぎ随行ずいこう加瀬かせ俊一しゅんいち

日本にっぽん降伏ごうぶく(にほんのこうふく)とは、通常つうじょうだい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそう/だい東亜とうあ戦争せんそう末期まっき日本にっぽんによる、連合れんごうこく事実じじつじょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)のポツダム宣言せんげん受諾じゅだく1945ねん8がつ10日とおか)から玉音ぎょくおん放送ほうそうおよび日本にっぽんぐん戦闘せんとう停止ていし8がつ15にち)、降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめい9月2にち)にいたるまでの過程かていす。以下いか日本にっぽんおよびそのかく占領せんりょうにおける経過けいか説明せつめいする。

なお、かかげられたのは星条旗せいじょうきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国旗こっき)のみで、日本にっぽん国旗こっき連合れんごうこく国旗こっきかかげられなかった。

ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

ポツダム会談かいだん様子ようす写真しゃしんには、クレメント・アトリーアーネスト・ベヴィンヴャチェスラフ・モロトフヨシフ・スターリンウィリアム・リーヒジェームズ・F・バーンズおよハリー・S・トルーマンふく

1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつサイパンのたたかサイパンとう陥落かんらくすると、きし信介しんすけ国務大臣こくむだいじんけん軍需ぐんじゅ次官じかん開戦かいせん商工しょうこう大臣だいじん)が東條とうじょう英機ひでき首相しゅしょうに「本土ほんど爆撃ばくげきかえされれば必要ひつよう軍需ぐんじゅ生産せいさんできず、軍需ぐんじゅ次官じかんとしての責任せきにんまっとうできないから講和こうわすべし」と進言しんげんした。これにたいし、東條とうじょうきしに「ならば辞職じしょくせよ」と辞職じしょくせまった。ところが、きし東條とうじょう配下はいか憲兵けんぺいたいおどしにもこごめせず、辞職じしょく要求ようきゅう拒否きょひつづけたため、かくない不一致ふいっち明白めいはくとなり、「東條とうじょう幕府ばくふ」ともばれた開戦かいせんないかくですら、内閣ないかくそう辞職じしょくをせざるをなくなった。

しかしながら、憲兵けんぺいたい配下はいか陸軍りくぐん最大さいだい権力けんりょくしゃでもある東條とうじょう内閣ないかくそう辞職じしょくして、後継こうけいないかく背後はいごまわったため、その内閣ないかく戦争せんそう無理矢理むりやり継続けいぞくせざるをず、きしなかいのちけてうったえた停戦ていせん講和こうわ必要ひつようせいすら公然こうぜん検討けんとうしにくいという状態じょうたいつづいた[1]。1944ねん昭和しょうわ19ねん以降いこう連合れんごう国軍こくぐん反攻はんこうによる日本にっぽん列島れっとうへの空襲くうしゅう時間じかん問題もんだいであったため、戦争せんそう終結しゅうけつへのうごきは、こののち水面すいめんつづいた。

東條とうじょう内閣ないかく後継こうけいとなった小磯こいそ内閣ないかくは、本土ほんど決戦けっせん準備じゅんびしつつも、和平わへい工作こうさく秘密裏ひみつり模索もさくした。もと陸相りくしょうであった宇垣うがき一成いっせい大陸たいりく派遣はけんし、中華民国ちゅうかみんこく重慶たーちん国民こくみん政府せいふとの和平わへい交渉こうしょう打診だしんした。そして、サイパンが陥落かんらくし、本土ほんどへの連合れんごう国軍こくぐんによる空襲くうしゅう本格ほんかくした1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつには南京なんきん国民こくみん政府せいふ高官こうかんでありながら、すで重慶たーちん政府せいふつうじていることがられていた繆斌日本にっぽんまねき、和平わへい仲介ちゅうかい依頼いらいした。ところが、重光しげみつまもる外相がいしょうが繆斌を信用しんようせず、小磯こいそ国昭くにあき首相しゅしょう対立たいりつし、これもかくない不一致ふいっち内閣ないかくそう辞職じしょくとなった。

このあいだの1945ねん2がつもと首相しゅしょう近衛このえ文麿ふみまろ中心ちゅうしんとしたグループは、戦争せんそうがこれ以上いじょう長期ちょうきすれば「ソビエト連邦れんぽうぐんによる占領せんりょうおよび“日本にっぽん赤化せっか”をまねく」という危険きけんせいうったえたうえで、戦争せんそう終結しゅうけつもとめる「近衛このえ上奏じょうそうぶん」を昭和しょうわ天皇てんのう献言けんげんした。ところが、昭和しょうわ天皇てんのうはこれを却下きゃっかし、この工作こうさく察知さっちした憲兵けんぺいたいにより、吉田よしだしげる岩淵いわぶち辰雄たつおふえ俊吉しゅんきちらいわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕たいほされた。そして昭和しょうわ前期ぜんき日本にっぽんぐん政治せいじ官僚かんりょうは、「国体こくたい護持ごじ」を主張しゅちょうしつつ、もはや勝利しょうり見通みとおしのまったたなくなった戦争せんそうを、さら神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたいまで編成へんせいして、無謀むぼう戦闘せんとう継続けいぞくさせた。

1945ねん4がつ7にち成立せいりつした鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく東郷とうごう茂徳しげのり外相がいしょうは、にち中立ちゅうりつ条約じょうやく翌年よくねん4がつには期限きげんれても、それまでは有効ゆうこうなはずであったことから、ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう仲介ちゅうかいやくとして和平わへい交渉こうしょうおこなおうとした。東郷とうごう個人こじんスターリン日本にっぽんを「侵略しんりゃくこく」とんでいること(1944ねん革命かくめい記念きねん演説えんぜつ)から、連合れんごうこくとの和平わへい交渉こうしょう機会きかいすでいっしたとていたものの、陸軍りくぐんにち中立ちゅうりつ条約じょうやく終了しゅうりょう、もしくはそれ以前いぜんソ連それんぐん満州まんしゅうへの侵攻しんこう回避かいひするための外交がいこう交渉こうしょうのぞんでいたため、ソ連それん日本にっぽん連合れんごうこくとの和平わへい仲介ちゅうかいするとえば、軍部ぐんぶもこれをこばめないであろうという事情じじょう、またぎゃくソ連それんとの交渉こうしょう破綻はたんすれば、日本にっぽん外交がいこうてき孤立こりつしていることがあきらかとなり、大本営だいほんえい実質じっしつじょう降伏ごうぶくとなる条件じょうけんれざるをえないであろうという打算ださんがあったとされている。かつて東郷とうごう自身じしんちゅう大使たいしとして、モスクワでノモンハン事件じけん処理しょりし、ソ連それんとの和平わへい実現じつげんさせたという成功せいこう体験たいけん背景はいけいにあったとされる。

よく5がつ最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ構成こうせいいん会合かいごう首相しゅしょう陸相りくしょううみしょう外相がいしょう陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう海軍かいぐん軍令ぐんれい総長そうちょうの6にん)において、東郷とうごう外相がいしょうは、ソ連それん参戦さんせん防止ぼうしおよソ連それん中立ちゅうりつソ連それん確約かくやくさせるための外交がいこう交渉こうしょうおこなうという合意ごういた。当初とうしょ、これには戦争せんそう終結しゅうけつ目的もくてきとしてふくまれていたが、阿南あなみ惟幾これちか陸相りくしょうが「本土ほんどうしなっていない日本にっぽんはまだけていない」と反対はんたいしたため、上記じょうき2項目こうもくのみを目的もくてきとすることとなった[2]東郷とうごうは、かつての上司じょうしであったもと首相しゅしょう広田ひろた弘毅こうきヤコフ・マリクソ連それん大使たいしソ連それん大使館たいしかん強羅ごうらホテル疎開そかいちゅう)などで会談かいだんさせたが、戦争せんそう終結しゅうけつのための具体ぐたいてき条件じょうけんや「戦争せんそう終結しゅうけつのための依頼いらい」であることを明言めいげんしなかったため、なん成果せいかはなかった。

そのうえ、6月6にち最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ構成こうせいいん会合かいごうで「国体こくたい護持ごじすめらぎ保衛やすえ」のために戦争せんそう完遂かんすいするという「今後こんごルヘキ戦争せんそう指導しどう基本きほん大綱たいこう」が採択さいたくされ、それが御前ごぜん会議かいぎ正式せいしき決定けっていされたため、日本にっぽんがわからの早期そうき戦争せんそう終結しゅうけつすくなくとも表面ひょうめんじょうまった不可能ふかのうとなった。にもかかわらず、矛盾むじゅんすることに、木戸きど幸一こういち内大臣ないだいじん東郷とうごう外相がいしょうおよ米内よない光政みつまさうみしょうは、だい世界せかい大戦たいせん際限さいげんない長期ちょうき憂慮ゆうりょして、ソ連それんによる和平わへい斡旋あっせんへとうごした[3]木戸きどからソ連それん斡旋あっせんによる早期そうき戦争せんそう終結しゅうけつ提案ていあんけた昭和しょうわ天皇てんのうはこれに同意どういし、6月22にち御前ごぜん会議かいぎソ連それん和平わへい斡旋あっせんすみやかにおこなうよう政府せいふ首脳しゅのう要請ようせいした[4]

しかし、東郷とうごうによる広田ひろた・マリク会談かいだんは、それまでと同様どうようなん進展しんてんしなかった。ただし広田ひろたは、1932ねん昭和しょうわ7ねん)のリットン報告ほうこくしょのことをかんがえればおそきにしっしたかんはあるが、マリクとの最後さいご会談かいだんで、和平わへい斡旋あっせん条件じょうけんとして満州まんしゅうこく現在げんざい中国ちゅうごく東北とうほく)を中立ちゅうりつすることをソ連それん提案ていあんしている[5]。しかし、マリクは政府せいふ上層じょうそう真剣しんけん考慮こうりょされるだろうと回答かいとうしただけであった[6]。7月7にち、これをつたいた天皇てんのう東郷とうごう親書しんしょった特使とくし派遣はけんしてはどうかとべた[7]。そこで東郷とうごう外相がいしょう近衛このえ特使とくし依頼いらいし、7がつ12にち近衛このえ天皇てんのうから正式せいしき特使とくし任命にんめいされた。日本にっぽん外務省がいむしょうは、モスクワの日本にっぽん大使館たいしかんつうじて、特使とくし派遣はけん和平わへい斡旋あっせん依頼いらいソ連それん外務省がいむしょうつたえることとなった[8]

しかしながら、すでソ連それんは、1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつヤルタ会談かいだんにおいて、ヨーロッパでの戦勝せんしょうから3ヶ月かげつ以内いないたいにち宣戦せんせんすることでえいべい合意ごういしており、それとは矛盾むじゅんする日本にっぽん政府せいふからのソ連それん中立ちゅうりつ要請ようせいや、だい東亜とうあ戦争せんそう停戦ていせん講和こうわ依頼いらいなどけられるはずがなかった。5月から6がつにかけて、ポルトガルスイスにある在外ざいがい公館こうかん陸海りくかいぐん駐在ちゅうざい武官ぶかんから、ソ連それんたいにち参戦さんせんについての情報じょうほう日本にっぽんおくられたり[9]、モスクワから帰国きこくした陸軍りくぐん駐在ちゅうざい武官ぶかん補佐ほさかん浅井あさいいさむ中佐ちゅうさから「シベリア鉄道てつどうにおけるソ連それん兵力へいりょく極東きょくとう方面ほうめんへの移動いどう」が関東軍かんとうぐんそう司令しれい報告ほうこくされたりしていたが[10]、これらの決定的けっていてき重要じゅうよう情報じょうほうすべて、日本にっぽんぐん外務省がいむしょうあいだでは、不都合ふつごうぎて真剣しんけん共有きょうゆうされなかったか、重要じゅうようせい気付きづかれないままかれていただけであった。

1945ねん7がつソ連それんは、ベルリン郊外こうがいソ連それん支配しはい地域ちいきであるポツダムにおいてポツダム会談かいだん主催しゅさいし、イギリスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく中華民国ちゅうかみんこく首脳しゅのう会談かいだんによるポツダム宣言せんげん同意どういする。そのさいソ連それんへの近衛このえ文麿ふみまろ特使とくしによる和平わへい工作こうさくについて、べいえい協議きょうぎし、ソ連それんたいにち宣戦せんせん布告ふこくまで大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ照会しょうかい放置ほうちすることとした。

他方たほう帝国ていこく政府せいふは、なおもソ連それん政府せいふによる和平わへい仲介ちゅうかい期待きたいつづけた。これをけた東郷とうごう最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ閣議かくぎにおいて、「ほん宣言せんげんゆう条件じょうけん講和こうわであり、これを拒否きょひするとききわめて重大じゅうだいなる結果けっか惹起じゃっきする」と発言はつげんした。内閣ないかく総理そうり大臣だいじん鈴木すずき貫太郎かんたろう記者きしゃ会見かいけん7がつ28にちに「政府せいふとしては重大じゅうだい価値かちあるものとはみとめず黙殺もくさつし、斷固だんこ戰争せんそう完遂かんすい邁進まいしんする」と[注釈ちゅうしゃく 1]本土ほんど決戦けっせんそなえた。

8がつ6にちには広島ひろしまへの、8がつ9にち午前ごぜん11には長崎ながさきへの原爆げんばく投下とうかがあったが、日本にっぽん降伏ごうぶく決定けっていけたのは、8がつ9にち未明みめいソ連それんたいにち参戦さんせんであった。にち中立ちゅうりつ条約じょうやくむすんでいたソ連それんからの突然とつぜん宣戦せんせん布告ふこくまんしゅうこくへの侵攻しんこうにより、大日本帝国だいにっぽんていこくには実質じっしつじょう「ポツダム宣言せんげん」の無条件むじょうけん受諾じゅだくによる降伏ごうぶくしか選択肢せんたくしがなくなった[8]。(参照さんしょう無条件むじょうけん降伏ごうぶく

ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくから玉音ぎょくおん放送ほうそうまで(8がつ10日とおか-15にち[編集へんしゅう]

8がつ10日とおか
まつ花江はなえ進軍しんぐんつづけるソ連それんぐん(8がつ10日とおか

10日とおか午前ごぜん03ふん[11]からおこなわれた御前ごぜん会議かいぎでの議論ぎろんでは、外相がいしょう東郷とうごう茂徳しげのりうみしょう米内よない光政みつまさ枢密院すうみついん議長ぎちょう平沼ひらぬま騏一郎きいちろうが、天皇てんのう地位ちい保障ほしょうのみを条件じょうけんとするポツダム宣言せんげん受諾じゅだく主張しゅちょう、それにたい陸相りくしょう阿南あなみ惟幾これちか陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう梅津うめづ美治よしはるろううみ軍令ぐんれい総長そうちょう豊田とよだふくは「ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくには多数たすう条件じょうけんをつけるべきで、条件じょうけん拒否きょひされたら本土ほんど決戦けっせんをするべきだ」と受諾じゅだく反対はんたい主張しゅちょうした。

しかし、唯一ゆいいつ同盟どうめいこくであったドイツ政府せいふは5月に無条件むじょうけん降伏ごうぶくし、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドなどの連合れんごうぐん本土ほんどせまっており、さらに唯一ゆいいつたのみのつなであったもと中立ちゅうりつこくにち中立ちゅうりつ条約じょうやくやぶって開戦かいせんしたソ連それんも、先日せんじつ開戦かいせんにより樺太からふと満州まんしゅうから日本にっぽん本土ほんどせまっており、北海道ほっかいどう上陸じょうりくさえ時間じかん問題もんだいであった。

ヤコフ・マリクちゅうにちソ連それん大使たいし

ここで鈴木すずき貫太郎かんたろう首相しゅしょう昭和しょうわ天皇てんのう発言はつげんうながし、天皇てんのう自身じしん和平わへいのぞんでいることを直接ちょくせつくちにしたことにより御前ごぜん会議かいぎでの議論ぎろん降伏ごうぶくへと収束しゅうそくし、10日とおか午前ごぜん3からおこなわれた閣議かくぎ日本にっぽんのポツダム宣言せんげん受託じゅたく承認しょうにんされた[12]

日本にっぽんこく首脳しゅのうじんなかでは、最終さいしゅうてき中立ちゅうりつこくであったソ連それん参戦さんせん最終さいしゅうてきにポツダム宣言せんげん受諾じゅだく受託じゅたくする理由りゆうとなったが、実際じっさい昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろく記載きさいされている一連いちれん和平わへい実現じつげんめぐ経緯けいいたいし、当時とうじ出席しゅっせきしゃ歴史れきし学者がくしゃ伊藤いとうゆうは「(たいにち中立ちゅうりつこくの)ソ連それん参戦さんせんがポツダム宣言せんげん受諾じゅだく最終さいしゅうてき決意けついする原因げんいんだったことがあらためてれる」とべている[13]

日本にっぽん政府せいふは、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくにより全日本ぜんにほんぐん降伏ごうぶく決定けっていする用意よういがある事実じじつを、10日とおか午前ごぜん8海外かいがいけのラジオの国営こくえい放送ほうそうつうじ、日本語にほんご英語えいごで3かいにわたり世界せかい放送ほうそうし、また同盟どうめい通信つうしんしゃからモールス通信つうしん交戦こうせんこく直接ちょくせつ通知つうちおこなわれた。また中立ちゅうりつこく加瀬かせ俊一しゅんいちスイス公使こうし岡本おかもとただしスウェーデン公使こうしより、11にち両国りょうこく外務がいむ大臣だいじん手渡てわたされ、両国りょうこくより連合れんごうこくわたされた。これ以降いこう連合れんごうこくからの回答かいとうつことになる。なおスウェーデンなど一部いちぶ中立ちゅうりつこくでは、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくにより全日本ぜんにほんぐん降伏ごうぶく決定けっていする用意よういがある事実じじつを、「日本にっぽん降伏ごうぶくした」とはやとちりし、一部いちぶマスコミがこれをほうじた場合ばあいがあった[14]

なおソ連それん大使館たいしかんがわ要請ようせいにより、10日とおか午前ごぜん11から貴族きぞくいん貴賓きひんしつにて外相がいしょう東郷とうごうちゅうにちソ連それん大使たいしヤコフ・マリク会談かいだんおこなわれた。そのなかで、マリク大使たいしより正式せいしきたいにち宣戦せんせん布告ふこく通知つうちおこなわれたのにたいし、東郷とうごうは「日本にっぽんがわソ連それんがわからの特使とくし派遣はけん回答かいとうっており、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく可否かひもその回答かいとう参考さんこうにしてめられるはずなのに、その回答かいとうもせずになにをもって日本にっぽん宣言せんげん拒否きょひしたとして突然とつぜん戦争せんそう状態じょうたいはいったとしているのか」とソ連それんがわつよ批判ひはんした。また10日とおかよるにはソ連それんぐんによるみなみ樺太からふとおよび千島ちしま列島れっとうへの進攻しんこう、つまり沖縄おきなわ日本にっぽん固有こゆう領土りょうどないでの、市民しみんんだ市街しがいせん開始かいしされた[15]

ポツダム宣言せんげん日本にっぽん政府せいふにより正式せいしき受諾じゅだく意思いしがあることが表明ひょうめいされたものの、この時点じてんでは日本にっぽんぐん一般いっぱん市民しみんたいしてもそのことはせられており、さらに停戦ていせんぜんぐんたいしておこなわれていなかった。それは「ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく降伏ごうぶくではない」ことから、完全かんぜん停戦ていせんおこなっていないのはイギリスやアメリカ、ソ連それんなどの連合れんごうこく同様どうようであった[16]。なお実際じっさい10日とおかにはアメリカぐんにより花巻はなまき空襲くうしゅうおこなわれ、家屋かおく673倒壊とうかい家屋かおく61死者ししゃ42めい被害ひがいした。

先頭せんとうからじゅん鈴木すずき首相しゅしょうべい内海うちうみしょう阿南あなみ陸相りくしょう
8がつ11にち

11にちにおいては日本にっぽん連合れんごうこく双方そうほう首脳しゅのうじんにおいておおきなうごきはなかった。

8がつ12にち

12にち午前ごぜん0ぎに連合れんごうこくは、日本にっぽんのポツダム宣言せんげん受託じゅたく承認しょうにんけて、連合れんごうこく代表だいひょうするものとしてアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務こくむ長官ちょうかんによる日本にっぽんのポツダム宣言せんげん受託じゅたくへの正式せいしき返答へんとう、いわゆる「バーンズ回答かいとう」をおこなった[12]

その回答かいとう一部いちぶ和訳わやくすると「降伏ごうぶくときより、天皇てんのうおよ日本国にっぽんこく政府せいふ国家こっか統治とうち権限けんげん降伏ごうぶく条項じょうこう実施じっしため必要ひつようみとめむる処置しょち連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかん従属じゅうぞく(subject to)する」[17]としながらも、「日本にっぽん政体せいたい日本にっぽん国民こくみん自由じゆう表明ひょうめいする意思いしのもとに決定けっていされる」[18]というものであった。この回答かいとう意図いとは、「天皇てんのう権力けんりょく最高さいこう司令しれいかん従属じゅうぞくするものであると規定きていすることによって、間接かんせつてき天皇てんのう地位ちいみとめたもの」[19]であった。また、トルーマンは自身じしん日記にっきに「かれらは天皇てんのうまもりたかった。我々われわれかれらに、かれ保持ほじする方法ほうほうおしえるとつたえた。」[20]しるしている。

しかし午前ごぜんちゅう原文げんぶんった参謀さんぼう本部ほんぶは、これを「隷属れいぞくする」と曲解きょっかいして阿南あなん陸相りくしょうつたえたため、軍部ぐんぶ強硬きょうこう国体こくたい護持ごじについてさい照会しょうかい主張しゅちょうし、また「連合れんごうこく全体ぜんたいではなくアメリカ1こくだけの回答かいとう」であることや、「アメリカ大統領だいとうりょうではなく国務こくむ長官ちょうかんからの回答かいとう」であったこともあり、鈴木すずき首相しゅしょうさい照会しょうかいについて同調どうちょうした[12]東郷とうごう外相がいしょうは「(連合れんごうこくからの)正式せいしき公電こうでん到着とうちゃくしていない」と回答かいとうして時間じかんかせぎをおこなったが、一時いちじ辞意じいらすほどであった[21]

なお12にちあさには皇族こうぞくたいして、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく承認しょうにん昭和しょうわ天皇てんのうから直接ちょくせつつたえられている[22]。にもかかわらず、12にち午後ごごには軍令ぐんれい総長そうちょう豊田とよだ梅津うめづ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうともにポツダム宣言せんげん受諾じゅだく反対はんたい奏上そうじょうする[23]どう日米にちべいない海軍かいぐん大臣だいじん豊田とよだ大西おおにし2人ふたりした。べいない豊田とよだ行動こうどうを「それからまた大臣だいじんにはなん相談そうだんもなく、あんな重大じゅうだい問題もんだいを、陸軍りくぐん一緒いっしょになって上奏じょうそうするとは何事なにごとか。ぼく軍令ぐんれいのやることにうさぎかく干渉かんしょうするのではない。しかし今度こんどのことは、あかりかにいちおうは、海軍かいぐん大臣だいじん意見いけんまじえたうえでなければ、軍令ぐんれいと雖も勝手かって行動こうどうすべからざることである。昨日きのう海軍かいぐん部内ぶない一般いっぱんした訓示くんじは、このようなことをいましめたものである。それにもかかわらず斯る振舞ふるまいたことは不都合ふつごうせんまんである」とべ、また大西おおにしには「最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ(9にち)に、まねかれもせぬのに不謹慎ふきんしん態度たいどはいってるなんていうことは、じつにみっともない。そんなことはとどめろ」となどとはげしく叱責しっせきし、豊田とよだ硬直こうちょくしたかのような不動ふどう姿勢しせいき、「もうわけない」という様子ようす一言ひとことこたえなかった[24]

8がつ13にち
小田原おだわら空襲くうしゅう市街地しがいち(8がつ14にち

この閣議かくぎは2かいおこなわれ、午前ごぜん9からおこなわれた日本にっぽん政府せいふぐん最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎでは、「国体こくたい護持ごじについてさい照会しょうかい返答へんとう」をめぐり再度さいど議論ぎろん紛糾ふんきゅうしたが、これに先立さきだ午前ごぜん2ちゅうスウェーデン公使こうし岡本おかもとただしから「バーンズ回答かいとう日本にっぽんがわもうれをれたものである」という報告ほうこく到着とうちゃくし、2かいにはポツダム宣言せんげん即時そくじ受諾じゅだく優勢ゆうせいとなった[25]

しかし1にち以上いじょうっても、「バーンズ回答かいとう」にたいしての日本にっぽん政府せいふからの「正式せいしき回答かいとう」がなかったため、連合れんごうこくとアメリカ政府せいふ連合れんごう国軍こくぐんとアメリカぐんでは「日本にっぽんのポツダム宣言せんげん受諾じゅだくへの回答かいとうおそい」、「ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくたいして、政府せいふ軍部ぐんぶでからの停戦ていせん同意どういがなされていないのではないか」という意見いけんきており、13にち夕刻ゆうこくには日本にっぽん政府せいふ決定けっていいぶかしむ連合れんごう国軍こくぐんが、アメリカぐんつうじて東京とうきょう早期そうきもうれと、連合れんごうこくからの正式せいしき返答へんとうである「バーンズ回答かいとう」をしるしたビラを散布さんぷしている[26]

さらにイギリスやアメリカ、そして中立ちゅうりつこくおおくも日本にっぽん政府せいふのポツダム宣言せんげん受諾じゅだくをラジオや新聞しんぶんなどで一般いっぱんつたえたが、日本にっぽん政府せいふはポツダム宣言せんげん受諾じゅだく意思いし日本にっぽん国民こくみんおよび前線ぜんせんつたえなかったために、日本にっぽん政府せいふぐん態度たいど懐疑かいぎてきたイギリスぐんやアメリカぐんソ連それんぐんとの戦闘せんとうばくげき継続けいぞくされ、その千葉ちば下記かき参照さんしょう)や小田原おだわら熊谷くまがい土崎つちざきなどへの空襲くうしゅうや、みなみ樺太からふとおよび千島ちしま列島れっとうまんしゅうこくへの地上ちじょうせんおこなわれた[15]

8がつ14にち
御前ごぜん会議かいぎ8がつ14にち午前ごぜん11/日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ

午前ごぜん11よりおこなわれた再度さいど御前ごぜん会議かいぎは、昭和しょうわ天皇てんのう自身じしんもその開催かいさいのぞんでおり、阿南あなみ陸相りくしょう午後ごご1都合つごうがいいともうしていたが、昭和しょうわ天皇てんのうはなるべくはや開催かいさいせよと鈴木すずき首相しゅしょうめいじて、午前ごぜん11開始かいしとなった[27]

御前ごぜん会議かいぎでは依然いぜんとして阿南あなみ陸相りくしょう梅津うめづ陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうらが戦争せんそう継続けいぞく主張しゅちょうしたが(このとき阿南あなん梅津うめづは、もし終戦しゅうせんになったら陸軍りくぐんない一部いちぶ将兵しょうへいがクーデターがこすことを認知にんちしていた)、昭和しょうわ天皇てんのうが「わたし自身じしんはいかになろうと、国民こくみん生命せいめいたすけたいとおもう。わたし国民こくみんけることがよければいつでもマイクのまえつ。内閣ないかく至急しきゅう終戦しゅうせんかんする詔書しょうしょ用意よういしてしい」とうったえたことで、阿南あなみ陸相りくしょう了承りょうしょうし、鈴木すずき首相しゅしょう至急しきゅう詔書しょうしょみことのりあん奉仕ほうしむね拝承はいしょうした。

終戦しゅうせん詔書しょうしょ国務大臣こくむだいじん署名しょめいらん(8がつ14にち

これをけて夕方ゆうがたには閣僚かくりょうによる終戦しゅうせん詔勅しょうちょくへの署名しょめい深夜しんやには昭和しょうわ天皇てんのうによる玉音ぎょくおん放送ほうそう皇居こうきょない録音ろくおんされ、録音ろくおんされたレコードが放送ほうそうきょく搬出はんしゅつされた。また、終戦しゅうせん詔勅しょうちょくった官報かんぽう号外ごうがい、それをやや解説かいせつするおもむきのある内閣ないかく告諭こくゆ号外ごうがい印刷いんさつされ、日付ひづけは8がつ14にち午後ごご11公布こうふされたとのあつかいになっている[28](おそらく実際じっさい配布はいふ掲示けいじおくらされたとおもわれる。)。また加瀬かせスイス公使こうしつうじて、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくかんする正式せいしき詔書しょうしょ発布はっぷしたむね、またポツダム宣言せんげん受諾じゅだくともな各種かくしゅ用意よういがあるむね連合れんごうこくがわつたえられた[15]。しかし連合れんごうこくは、いま日本にっぽん国民こくみんぐんけての通達つうたつおこなわれないままであることから、軍民ぐんみん体制たいせいくずさぬままであった。

当日とうじつ新聞しんぶん朝刊ちょうかん配達はいたつ販売はんばい正午しょうご以降いこうとされた[28]。なお、昭和しょうわ天皇てんのうによるラジオ放送ほうそう予告よこくは、午後ごご9全国ぜんこくおよび外地がいち占領せんりょうなどのラジオ放送ほうそうのニュースではじめておこなわれた。昭和しょうわ天皇てんのうがラジオで国民こくみんけてはなすのはこれがはじめてのことであった。内容ないようとして「このたび詔書しょうしょ渙発かんぱつされる」、「15にち正午しょうご天皇てんのうみずからの放送ほうそうがある」、「国民こくみん1人ひとりのこらず玉音ぎょくおんはいするように」、「官公かんこうしょ事務所じむしょ工場こうじょう停車場ていしゃじょう郵便ゆうびんきょくなどでは手持ても受信じゅしん活用かつようして国民こくみんがもれなく放送ほうそうけるように手配てはいすること」などがほうじられたが、どのような内容ないよう放送ほうそうおこなわれるかはされたままであった。

阿南あなみ陸相りくしょうは14にち御前ごぜん会議かいぎ直後ちょくご午後ごご1井田いだただしこう中佐ちゅうさ陸軍りくぐんのクーデター首謀しゅぼうしゃい、御前ごぜん会議かいぎでの昭和しょうわ天皇てんのう言葉ことばつたえ「国体こくたい護持ごじ問題もんだいについては、本日ほんじつ陛下へいか確証かくしょうありとおおせられ、また元帥げんすい会議かいぎでもちん確証かくしょうゆうすとべられている」[29]、「聖断せいだんくだったのだ、このうえはただただだいしんのままにすすむほかない。陛下へいかがそうおおせられたのも、ぜん陸軍りくぐん忠誠ちゅうせいしんをおいておられるからにほかならない」[30]、と諄諄じゅんじゅんいてかせた。

しかしクーデター計画けいかく首謀しゅぼうしゃ一人ひとりであった井田いだ中佐ちゅうさ納得なっとくせず「大臣だいじん決心けっしん変更へんこう理由りゆうをおうかがいしたい」とたずねると、阿南あなみ陸相りくしょうは「陛下へいかはこの阿南あなみたいし、おまえ気持きもちはよくわかる。くるしかろうが我慢がまんしてくれとなみだながしてもうされた。自分じぶんとしてはもはやこれ以上いじょう抗戦こうせん主張しゅちょうできなかった」[31]、「聖断せいだんくだったのである。いまはそれにしたがうばかりである。不服ふふくのものは自分じぶんかばねえていけ」といた[32]

このおよんでも一部いちぶ佐官さかんから抗議こうぎこえがったが、阿南あなみ陸相りくしょうはそのものたちにたいして「きみとう反抗はんこうしたいなら阿南あなみってからやれ、おれくろあいだは、一切いっさい妄動もうどうゆるさん」と大喝だいかつしている[33]

8がつ15にち

しかし8がつ15にち未明みめいには、「聖断せいだん」をも無視むしする椎崎しいざき二郎じろう中佐ちゅうさ井田いだただしこう中佐ちゅうさなどの狂信きょうしんてき陸軍りくぐん将校しょうこうらにより、玉音ぎょくおん放送ほうそう録音ろくおん音源おんげん強奪ごうだつおよびクーデターの未遂みすい事件じけん皇居こうきょ舞台ぶたい発生はっせいし、もりたけし近衛このえ団長だんちょう殺害さつがいされたが、15にちあさ鎮圧ちんあつされる(宮城みやぎ事件じけん)など、昭和しょうわ天皇てんのうもとポツダム宣言せんげん受諾じゅだくをしたにもかかわらず陸軍りくぐんないあらそいがきていた。また、午前ごぜん6ぎにクーデターの発生はっせいつたえられた昭和しょうわ天皇てんのうは「みずからがへいまえ出向でむいてさとそう」とべている。なお、クーデターかきるなか阿南あなみ惟幾これちか陸相りくしょうは15にち早朝そうちょう自決じけつしている。

玉音ぎょくおん放送ほうそう日本にっぽん国民こくみん(8がつ15にち12
うらないもりとう侵略しんりゃくつづけるソ連それんぐんたたか日本にっぽんぐん(8がつ16にち

また午前ごぜん721ふんより全国ぜんこくおよび外地がいち占領せんりょうなどのラジオ放送ほうそうで、正午しょうご昭和しょうわ天皇てんのうみずからのラジオ放送ほうそうおこなわれるむねの2かい事前じぜん放送ほうそうおこなわれた[34]

正午しょうご昭和しょうわ天皇てんのうはラジオ放送ほうそう玉音ぎょくおん放送ほうそう)をもって、日本にっぽんぜん国民こくみんぜんぐんにポツダム宣言せんげん受諾じゅだく日本にっぽん敗戦はいせん表明ひょうめいし、この時点じてん一部いちぶ地域ちいきのぞきほぼすべての日本にっぽんぐん戦闘せんとう行為こうい停止ていしされた[35]

公式こうしきだい世界せかい大戦たいせん最後さいご戦死せんししゃは、玉音ぎょくおん放送ほうそうの1あいだはんまえ午前ごぜん10ぎに、イギリス海軍かいぐん空母くうぼインディファティガブル」から化学かがく製品せいひん工場こうじょう爆撃ばくげきすべく千葉ちばけん長生ちょうせいぐん飛来ひらいしたグラマン TBF アヴェンジャーらが日本にっぽんぐん撃墜げきついされ、乗組のりくみいん3めい死亡しぼうしたものだった。なお、どう作戦さくせんスーパーマリン シーファイアれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうとの戦闘せんとう撃墜げきついされ、フレッド・ホックレー少尉しょうい無事ぶじパラシュート降下こうか陸軍りくぐんだい147師団しだん歩兵ほへいだい426連隊れんたいとらえられ、そのやく1あいだ玉音ぎょくおん放送ほうそうがあったもののそのまま解放かいほうされず、よるになり陸軍りくぐん将校しょうこうにより斬首ざんしゅされた事件じけん発生はっせいした(一宮いちのみやまち事件じけん)。

みなみ樺太からふとまんしゅうなどは沖縄おきなわせん同様どうよう民間みんかんじんんだ凄惨せいさん地上ちじょうせんとなっていたが、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくの8がつ15にち以降いこうも、だい5方面ほうめんぐんによるみなみ樺太からふと死守ししゅ命令めいれいとうによりみなみ樺太からふときたせんとううらないもりとうではソ連それんぐんとの軍事ぐんじ攻撃こうげきつづいた。

またまんしゅうではソ連それんぐん中華民国ちゅうかみんこくぐんとのたたかいのなかおくれた日本人にっぽんじん開拓かいたくみん混乱こんらんなかわかれ、のち中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじ問題もんだいとしてのこることとなった。結局けっきょくソ連それんぐんまんしゅうのみならず、日本にっぽん領土りょうどであったみなみ樺太からふときた千島ちしま択捉えとろふ国後くなしり色丹しこたん歯舞はぼまい朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶ全域ぜんいき完全かんぜん支配しはいいた9月5にちになってようやく進駐しんちゅう停止ていしした。

停戦ていせん(8がつ15にち-28にち[編集へんしゅう]

8がつ15にち正午しょうごからの玉音ぎょくおん放送ほうそう終了しゅうりょうただちに終戦しゅうせんともな臨時りんじ閣議かくぎ開催かいさいされ、まず鈴木すずき首相しゅしょうから「阿南あなん陸軍りくぐん大臣だいじんは、今暁こんぎょう午前ごぜん5自決じけつされました。つつしんで、弔意ちょういひょうする次第しだいであります」との報告ほうこくがあり、阿南あなん遺書いしょ辞世じせい披露ひろうした。閣僚かくりょうたちは、1つだけいた陸軍りくぐん大臣だいじんせきながら、予想よそうしていたこととはいえおおきな衝撃しょうげきけていた[36]

また午後ごご大本営だいほんえい大陸たいりくいのちだい1381ごう大海たいかいれいだい47ごうにて大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん海軍かいぐんたいして「べつ命令めいれいするまで各々おのおのげん任務にんむ続行ぞっこうすべし」と命令めいれいし、積極せっきょく進攻しんこう作戦さくせん中止ちゅうし命令めいれいした[37]。しかし、日本にっぽん敗戦はいせんった厚木あつぎ基地きち一部いちぶ将兵しょうへいが16にち徹底てってい抗戦こうせんびかけるビラをいたり、停戦ていせん連絡れんらく破壊はかいするなどの抵抗ていこうをしたが、まもなく徹底てってい抗戦こうせん戦争せんそう継続けいぞく主張しゅちょうんだ。おおきな反乱はんらんこらず、外地がいち占領せんりょうふくむほぼすべての日本にっぽんぐんすみやかに戦闘せんとう停止ていしした。ただし、北海道ほっかいどうだい5方面ほうめんぐん司令しれい樋口ひぐち中将ちゅうじょうは、麾下きかにあるみなみ樺太からふとだい88師団しだんみなみ樺太からふと死守ししゅ命令めいれいしたため、みなみ樺太からふとではソ連それんぐんとの戦闘せんとうつづくこととなった。千島ちしま列島れっとううらないもりとうにおいても抗戦こうせん決定けっていされ、こちらについても樋口ひぐち中将ちゅうじょう指示しじうたがわれている[38]

特攻とっこう直前ちょくぜん宇垣うがきまとい中将ちゅうじょう(8がつ16にち

15にち早朝そうちょう陸軍りくぐんによるクーデター発生はっせい最中さいちゅう自決じけつした阿南あなみ陸相りくしょうをはじめ、「武人ぶじんとしての場所ばしょあたえてくれ」と部下ぶか22めい(うち5にん生還せいかん)をれて11特攻とっこう出撃しゅつげきいのちった宇垣うがきまとい中将ちゅうじょうつまむすめらとともに一家いっか自決じけつしたもとだい4航空こうくうぐん隈部くまべ正美まさみ少将しょうしょうウルシー環礁かんしょうから401内地ないち帰投きとうする途中とちゅうアメリカぐん拿捕だほされる直前ちょくぜん艦内かんない自決じけつした有泉ありいずみりゅうこれすけ大佐たいさ[39]陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ大正天皇たいしょうてんのう野立のだちしょ切腹せっぷくしたはれまこと少佐しょうさやく1かげつとなるがもと参謀さんぼう総長そうちょう杉山すぎやまはじめ当人とうにんばかりか国防こくぼう婦人ふじんかい会長かいちょうであったためそのつままで後追あとお自決じけつするなど、日本にっぽん降伏ごうぶくれられず、また降伏ごうぶく責任せきにんって、あるいは連合れんごうこくからの逮捕たいほ追及ついきゅうこわれ、皇居こうきょまえ代々木よよぎ練兵れんぺいじょう内外ないがい基地きち自宅じたくなどでみずかいのちった軍人ぐんじん政治せいじ民間みんかんじんすうひゃくにんわたった。

また東條とうじょう英機ひできのように9月になってから連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいから逮捕たいほ出頭しゅっとうめいじられたあと、自殺じさつ失敗しっぱい逮捕たいほされるもの近衛このえ文麿ふみまろのように12月になってから連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいから出頭しゅっとうめいじられたあと、逮捕たいほいやがり服毒ふくどく自殺じさつするものもいた。

16にち午後ごご4には大陸たいりくいのちだい1382ごうにて大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんたいして、停戦ていせん交渉こうしょう成立せいりついたあいだやむをえざる自衛じえいのための戦闘せんとう行動こうどうのぞいて「即時そくじ戦闘せんとう停止ていし」を命令めいれいされた[37]海軍かいぐんされた大海たいかいれい48ごうもほぼどう内容ないようである。1382ごうでは具体ぐたいてき停戦ていせん期限きげん記載きさいされていなかったが、日本にっぽんがわから連合れんごうこくがわ通告つうこくした「日本にっぽん政府せいふ大本営だいほんえいはつ連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかんあてでんいちごう」では「みぎ大命たいめいだい一線いっせん到達とうたつ実効じっこうきょグル日時にちじひだりノ如ク予見よけんス」として「内地ないち よんじゅうはちあいだ」としていた。つまり、48あいだの18にち16完全かんぜん停戦ていせん成立せいりつ完了かんりょうになるとみていた。なお、みなみ樺太からふとでは、札幌さっぽろにいただい5方面ほうめんぐん樋口ひぐち中将ちゅうじょうからみなみ樺太からふと死守ししゅ命令めいれいされたが、そのさい、この自衛じえい戦闘せんとう理由りゆうソ連それんぐん進攻しんこうたいし、戦闘せんとう継続けいぞくされた。

18にち大陸たいりくいのちだい1385ごうにより大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんたいして、べつしめ時機じき司令しれいかんらの作戦さくせん任務にんむき、それ以降いこう戦闘せんとう禁止きんしされるとのいのちされた[40]。この時点じてんで、その「べつしめ時機じき」は明示めいじされなかったものの、一方いっぽうで、15にち詔書しょうしょ渙発かんぱつ以降いこうてきぐん勢力せいりょくにおかれた陸軍りくぐん軍人ぐんじん軍属ぐんぞく俘虜ふりょとは認識にんしきしないとし、同時どうじ隠忍いんにん自重じちょうするようにとの内容ないようとなっている[37]山田やまだあきらは、これをそれまで日本にっぽんぐん将兵しょうへい降伏ごうぶくきんじていた手前てまえ連合れんごうぐん降伏ごうぶくして俘虜ふりょになるのではなく、天皇てんのう命令めいれい戦闘せんとう停止ていしして連合れんごうぐん管理かんりはいるのだ、という体裁ていさいをとったものだとする[41]同時どうじにこれは、たとえば現地げんちぐんとうがその停戦ていせん交渉こうしょう結果けっかとして降伏ごうぶくしても、15にち正午しょうご以降いこうったものであればつかえないという効果こうかを、この大陸たいりくいのちつことになるはずである。)。海軍かいぐんには、19にち大海たいかいれいだいじゅうごうどう趣旨しゅしれいている。

17にちには連合れんごうこく最高さいこう司令しれいかん指令しれいから一般いっぱん命令めいれいだいいちごうくだったが、同日どうじつには日本にっぽん本土ほんど偵察ていさつコンソリーデーテッドB-32を、厚木あつぎ基地きち日本にっぽん軍機ぐんきおそ翌日よくじつアメリカじん搭乗とうじょういん1にん死亡しぼうするなどのトラブルがきた。しかし本土ほんどではおなじような連合れんごうこくとのトラブルはこれ以降いこうこらなかったうえ、すぐにイギリスぐんやアメリカぐん陸海空りくかいくうぐん相当そうとうすう部隊ぶたい上陸じょうりくできる体制たいせいにあった。17にち日本にっぽんがわでは、16にち大海たいかいれい48ごうかえ部分ぶぶんのある大海たいかいれい49ごう海軍かいぐんている。

19にち大陸たいりくいのち1386ごう内地ないち陸軍りくぐんは8がつ22にち0以降いこう一切いっさい武力ぶりょく行使こうし停止ていしとなる[40]。この大海たいかいれい50ごうで、海軍かいぐんささえ方面ほうめん艦隊かんたいべつにして一切いっさい戦闘せんとう行為こうい停止ていしされる。また、同日どうじつ大陸たいりくゆび2546ごう札幌さっぽろだい方面ほうめんぐんにも局地きょくち停戦ていせん交渉こうしょうとその実施じっし武器ぶきの引渡を実施じっしする許可きょか[42]。しかし、だい方面ほうめんぐんみなみ樺太からふとだい88師団しだん停戦ていせん武器ぶきの引渡(事実じじつじょう降伏ごうぶく)を許可きょかすることなく、むしろあらためてみなみ樺太からふと死守ししゅめいじている。

8がつ22にち大陸たいりくいのち1388ごうにより外地がいち陸軍りくぐんは、ささえ派遣はけんぐん局地きょくちてき自衛じえい措置そちのぞき8がつ25にち0以降いこう一切いっさい武力ぶりょく行使こうし停止ていしとされる。また、大本営だいほんえい朝枝あさえだ繁春しげはる参謀さんぼう停戦ていせん進捗しんちょくじょうきょう監督かんとくするために出張しゅっちょうしたまんしゅうソ連それんがわから樺太からふと戦闘せんとうつづいていることをり、この前日ぜんじつ自衛じえい戦闘せんとうりて戦闘せんとう継続けいぞくすることにたいする警告けいこく電報でんぽう札幌さっぽろだい方面ほうめんぐん打電だでんしていた[43]。そのため、ようやくみなみ樺太からふとだい88師団しだん事実じじつじょう降伏ごうぶく武装ぶそう解除かいじょ前提ぜんていとする停戦ていせん交渉こうしょう開始かいしし、ひるごろ成立せいりつする。

ドイツの場合ばあいは、本土ほんど進攻しんこうされても容易ようい降伏ごうぶくしなかったため、ひとひと都市としとされていき、最後さいご首都しゅとふく本土ほんどのかなりの地域ちいき占領せんりょうされていったかたちでの敗戦はいせんとなった。しかし、日本にっぽん場合ばあいは、その時点じてんではいま首都しゅとはもちろん、北海道ほっかいどう本州ほんしゅう九州きゅうしゅう四国しこく本土ほんど一切いっさい占領せんりょうされていなかったうえに、中央ちゅうおう政府せいふぐん中枢ちゅうすう存続そんぞくしており[44]、まだ相当そうとう軍人ぐんじん武器ぶき航空機こうくうき船舶せんぱくのこっていた日本にっぽんたいする連合れんごう国軍こくぐんうごきは慎重しんちょう慎重しんちょうかさねた。連合れんごう国軍こくぐん日本にっぽん占領せんりょう部隊ぶたいだいいちだんであるアメリカぐんやイギリスぐん日本にっぽん本土ほんど上陸じょうりくするまでは、結果けっかとしてやく2週間しゅうかんという異例いれいながさであった。

なお、沖縄おきなわけんふく南西諸島なんせいしょとうおよび小笠原諸島おがさわらしょとう停戦ていせんにすでにアメリカぐん占領せんりょう勢力せいりょくにあった。また、ちゅう四国しこくイギリス連邦れんぽう占領せんりょうぐんのち駐留ちゅうりゅうすることがまり、結果けっかてきにアメリカぐんとイギリス連邦れんぽうぐんだけで正式せいしき日本にっぽん占領せんりょうすることとなった。

しかし、すこしでもおおくの日本にっぽん領土りょうど略奪りゃくだつ画策かくさくしていたヨシフ・スターリンは、北海道ほっかいどうきた半分はんぶんソ連それんぐんによる分割ぶんかつ占領せんりょうをアメリカ政府せいふ提案ていあんしたが、ヤルタ会談かいだんでの合意ごうい内容ないようえることから拒否きょひされ、駐在ちゅうざい武官ぶかんのみをおくるにとどめた。しかしスターリンの命令めいれい日本にっぽんぐんソ連それんぐん進駐しんちゅう拒否きょひにより、みなみ樺太からふと千島ちしまへのソ連それんぐん攻撃こうげきは15にち玉音ぎょくおん放送ほうそう以降いこう継続けいぞくし、22にちには樺太からふとからのせん3せきソ連それん潜水せんすいかん攻撃こうげきける三船みふね殉難じゅんなん事件じけん発生はっせいした。北方領土ほっぽうりょうど択捉島えとろふとうは8がつ28にち国後島くなしりとうは9月2にち歯舞諸島はぼまいしょとうへの上陸じょうりくは9月3にちになっておこなわれた[45]。なお、中華民国ちゅうかみんこく軍事ぐんじ占領せんりょう検討けんとうしたが、占領せんりょう食料しょくりょうだい部分ぶぶん日本にっぽんたよろうとしたために、イギリスぐんとアメリカぐんから正式せいしき拒否きょひされた。

ひがし久邇くに宮内くないかく(8がつ17にち

17にち鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかくそう辞職じしょくし、皇族こうぞくであるひがし久邇くにみや稔彦としひこおう首相しゅしょういだ。皇族こうぞく首相しゅしょういたのは武器ぶき解除かいじょすみやかにすすめるためともいわれ、皇族こうぞく首相しゅしょうはじめてのことであった。ふく総理そうりかく国務大臣こくむだいじんには近衛このえ文麿ふみまろ外務がいむ大臣だいじんには残留ざんりゅうした重光しげみつまもる大蔵おおくら大臣だいじんには津島つしま寿一ひさいち内閣ないかく書記官しょきかんちょうけん情報じょうほうきょく総裁そうさいには緒方おがた竹虎たけとら任命にんめいされた。また海軍かいぐん大臣だいじんにはもと首相しゅしょう米内よない光政みつまさ留任りゅうにんした。陸軍りくぐん大臣だいじん任命にんめい内定ないていしていた下村しもむらじょう陸軍りくぐん大将たいしょうが23にち帰国きこくするまでのあいだひがし久邇くにみや兼任けんにんした。

アメリカ海軍かいぐんのグラマンF6F護衛ごえいされる機上きじょう作業さぎょう練習れんしゅう白菊しらぎくみどりじゅう(8がつ19にち

この時点じてんでも、日本にっぽん連合れんごうぐん占領せんりょうされた沖縄おきなわけん樺太からふと千島ちしまのぞ日本にっぽん本土ほんど台湾たいわん朝鮮半島ちょうせんはんとうなどの開戦かいせんまえからの元来がんらい領土りょうどほかに、中華民国ちゅうかみんこく上海しゃんはいをはじめとする沿岸えんがん現在げんざいのベトナム、マレまれ半島はんとう、インドネシア、ティモールとうなどの北東ほくとうアジアから東南とうなんアジア、ウェークとうからラバウルなど太平洋たいへいよう地域ちいきにも広大こうだい占領せんりょう維持いじしており、ほかにもタイやまんしゅうこくなどの友好国ゆうこうこく、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立ちゅうりつこく膨大ぼうだいかず民間みんかんじん軍人ぐんじん駐留ちゅうりゅうしていることから、これらのからのげと権限けんげん移譲いじょうすみやかにおこな必要ひつようがあった。

そこで16にち連合れんごうぐん中立ちゅうりつこくのスイスをつうじ、日本にっぽんたいして占領せんりょうぐん日本にっぽん本土ほんどれや、総勢そうぜい1まんすうせん以上いじょう残存ざんそん空母くうぼ戦艦せんかん潜水せんすいかんなどすうせんせき残存ざんそんていのぼ各地かくち日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょすすめるための停戦ていせん連絡れんらく派遣はけん依頼いらいした。これをけて19にちに、日本にっぽん政府せいふがわ停戦ていせん全権ぜんけん委員いいんが2みどりじゅう飛行ひこう塗装とそうをした一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき木更津きさらづから伊江島いえじま飛行ひこうし、そこからダグラス DC-4でマニラへとかい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将しょうしょうらなどと停戦ていせんおよび全権ぜんけん移譲いじょう会談かいだんや、さらに日本にっぽん本土ほんど進駐しんちゅうさい安全あんぜん確保かくほ情報じょうほう提供ていきょう要求ようきゅうするなど、イギリスぐんやオーストラリアぐん、アメリカぐんやフランスぐん、オランダぐんたいする停戦ていせん武装ぶそう解除かいじょ日本にっぽん進駐しんちゅう準備じゅんび順調じゅんちょう遂行すいこうされるかにみえた[46]。また日本にっぽん同盟どうめいにあったタイは、16にち日本にっぽん降伏ごうぶく日本にっぽんがわ内諾ないだくうえで「宣戦せんせん布告ふこく無効むこう宣言せんげん」をはっし、連合れんごうこくがわ独自どくじ講和こうわした。

終戦しゅうせん中華民国ちゅうかみんこくかんこう日本にっぽんぐんだい85戦隊せんたいおよびだい22戦隊せんたい

しかし、げをれず「欧米おうべい諸国しょこくからのアジアの解放かいほう」という、だい東亜とうあ戦争せんそう理念りねんしんじて、ジャワやインドシナ、ビルマ、マレーなどで勃発ぼっぱつしたイギリスやフランス、オランダからの独立どくりつ戦争せんそう協力きょうりょくする日本にっぽんぐん将兵しょうへいや、ふたた国共こっきょう内戦ないせんかいつつある中華民国ちゅうかみんこくぐん佐官さかんきゅうのこることを依頼いらいされそのまま残留ざんりゅうめたもの(つう事件じけん)、のちに個人こじん意思いし中華民国ちゅうかみんこく国軍こくぐん中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん編入へんにゅうされたものもいた[注釈ちゅうしゃく 2]。また、これらの独立どくりつ戦争せんそうたたかがわとフランスやオランダなどの現地げんち政府せいふぐんなどの双方そうほうに、日本にっぽんぐん残留ざんりゅうした航空機こうくうききゅうきゅうしき襲撃しゅうげききゅうはちしき直接ちょくせつ協同きょうどう偵察ていさつなど)や戦車せんしゃ銃器じゅうきなど接収せっしゅうした武器ぶきがそのまま利用りようされることもおおかった。

日本にっぽんとフランス植民しょくみん政府せいふ権力けんりょく空白くうはくまれたインドシナでは、17にちベトナムはちがつ革命かくめい勃発ぼっぱつした。日本にっぽんうしたてうしなったまんしゅうこくソ連それんぐん侵攻しんこうけて崩壊ほうかいし、18にち退位たいいした皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎあいしんさとし溥傑まんしゅうこく帝室ていしつと、関東軍かんとうぐん吉岡よしおか安直あんちょく中将ちゅうじょう橋本はしもと虎之助とらのすけ中将ちゅうじょうなどはその日本にっぽんへの亡命ぼうめいはかるが、奉天ほうてん侵攻しんこうしてきたソ連それんぐん身柄みがら拘束こうそくされた。

さらには、アメリカりょうフィリピンのルバングとう1974ねんまで日本にっぽんぐん残留ざんりゅうへいとしてたたかつづけた小野田おのだひろしろう少尉しょういのように、日本にっぽんぐん将兵しょうへいとして戦闘せんとう行為こうい継続けいぞくしていたものや、アナタハンとうのようにしま単位たんいげからのこされるもの発生はっせいした。

このよう日本にっぽんとその友好国ゆうこうこくがわ連合れんごうこくがわ上記じょうきのような準備じゅんび混乱こんらんたものの、22にちから23にちにかけて台風たいふう日本にっぽんおそ上陸じょうりく予定よてい厚木あつぎ飛行場ひこうじょう滑走かっそうみずかってしまい、さらに連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうおくれた[47]

占領せんりょう開始かいし(8がつ28にち-30にち[編集へんしゅう]

到着とうちゃくしたアメリカぐんのマッカーサー陸軍りくぐん大将たいしょう(8がつ30にち

ようやく停戦ていせんから2週間しゅうかんの28にち連合れんごう国軍こくぐんによる日本にっぽん占領せんりょう部隊ぶたいだいいちだんとして、チャールズ・テンチ大佐たいさひきいる45カーチスC-47からなるアメリカぐん先遣せんけん部隊ぶたい厚木あつぎ飛行場ひこうじょう到着とうちゃくどう基地きち占領せんりょうした。なお、全面ぜんめん戦争せんそうにおいて首都しゅと陥落かんらくがないままで、また停戦ていせんから首都しゅと占領せんりょうまで2週間しゅうかん時間じかんがかかったのは、近代きんだい戦争せんそうのみならず史上しじょうでもはじめてのことであった

また、同日どうじつ東京とうきょう大森おおもりにある連合れんごうぐん捕虜ほりょ収容しゅうようしょに、アメリカ海軍かいぐんけい巡洋艦じゅんようかんサンフアン」から上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい手配てはいされ、病院びょういんせん「ビネボレンス」に、イギリスぐんやアメリカぐん病人びょうにん怪我人けがにんなどを収容しゅうようしていった。

30にち午前ごぜん連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ/SCAP) のそう司令しれいかんとして、連合れんごうこく日本にっぽん占領せんりょう指揮しきたるアメリカ陸軍りくぐんダグラス・マッカーサー大将たいしょうも、専用せんようバターンごう」でフィリピンから厚木あつぎ基地きち到着とうちゃくした。いちぎょう午後ごご日本にっぽんぐん用意よういした専用せんようしゃ横浜よこはまうちホテルニューグランドうつり、宿やどった。つづいてイギリスぐんやオーストラリアぐん、ニュージーランドぐん、カナダぐん占領せんりょうぐんと、中華民国ちゅうかみんこくぐん、フランスぐん、オランダぐんソ連それんぐんなどのほか連合れんごう国軍こくぐん代表だいひょうだん到着とうちゃくした[48]

降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん[編集へんしゅう]

戦艦せんかんミズーリ艦上かんじょう日本にっぽんがわ全権ぜんけん代表だいひょうだん(9がつ2にち) さい前列ぜんれつ左側ひだりがわ重光しげみつまもる外務がいむ大臣だいじんとなり陸軍りくぐん軍人ぐんじん梅津うめづ美治よしはるろう陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう 2れつひだりから宮崎みやざき周一しゅういち陸軍りくぐん中将ちゅうじょう岡崎おかざき勝男かつお外務省がいむしょう外局がいきょく終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむきょく長官ちょうかん富岡とみおかじょうしゅん海軍かいぐん少将しょうしょう加瀬かせ俊一しゅんいち外務省がいむしょう秘書官ひしょかん永井ながいはち陸軍りくぐん少将しょうしょう 3れつひだりから横山よこやま一郎いちろう海軍かいぐん少将しょうしょう太田おおた三郎さぶろう外務省がいむしょう終戦しゅうせん連絡れんらく部長ぶちょうしば勝男かつお海軍かいぐん大佐たいさ杉田すぎた一次かずつぐ陸軍りくぐん大佐たいさ
連合れんごうこくがわ全権ぜんけん代表だいひょうだん(9がつ2にち)
退すさかんする日本にっぽんがわ全権ぜんけん代表だいひょうだん(9がつ2にち)

降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしき9月2にちに、東京とうきょうわんうち瀬水せみずみち中央ちゅうおう千葉ちばけんりの海域かいいき)に停泊ていはくちゅうのアメリカ海軍かいぐん戦艦せんかんミズーリ艦上かんじょう[49]で、日本にっぽんがわ全権ぜんけん代表だいひょうだん連合れんごうこく代表だいひょう出席しゅっせきしておこなわれた。

午前ごぜん856ふんに「ミズーリ」艦上かんじょう日本にっぽんがわ全権ぜんけん代表だいひょうだん到着とうちゃくした。日本にっぽんがわ代表だいひょうだんは、大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ全権ぜんけん外務がいむ大臣だいじん重光しげみつまもる大本営だいほんえい全権ぜんけん参謀さんぼう総長そうちょう梅津うめづ美治よしはるろう陸軍りくぐん大将たいしょう随員ずいいん終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむきょく長官ちょうかん岡崎おかざき勝男かつお参謀さんぼう本部ほんぶだいいち部長ぶちょう宮崎みやざき周一しゅういち陸軍りくぐん中将ちゅうじょう軍令ぐんれいだいいち部長ぶちょう富岡とみおかじょうしゅん海軍かいぐん少将しょうしょう軍令ぐんれい総長そうちょう豊田とよだふく海軍かいぐん大将たいしょう出席しゅっせき拒否きょひ)、大本営だいほんえい陸軍りくぐん参謀さんぼう永井ながいはち陸軍りくぐん少将しょうしょう海軍かいぐんしょう出仕しゅっし横山よこやま一郎いちろう海軍かいぐん少将しょうしょう大本営だいほんえい海軍かいぐん参謀さんぼうしば勝男かつお海軍かいぐん大佐たいさ大本営だいほんえい陸軍りくぐん参謀さんぼう杉田すぎた一次かずつぐ陸軍りくぐん大佐たいさ内閣ないかく情報じょうほうきょくだいさん部長ぶちょう加瀬かせ俊一しゅんいち終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむきょくだいさん部長ぶちょう太田おおた三郎さぶろうらであった。

さき到着とうちゃくしていた連合れんごうこくがわ全権ぜんけん代表だいひょうだんは、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国ちゅうかみんこく、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国かこく代表だいひょうだんと、さらには8がつ8にち参戦さんせんし、15にち日本にっぽんぐん停戦ていせん無視むししてまんしゅう択捉えとろふとうなどで進軍しんぐんつづけていたソビエト連邦れんぽう代表だいひょうだんも「戦勝せんしょうこく」の一員いちいんとして臨席りんせきした。92ふん日本にっぽんがわ全権ぜんけん代表だいひょうだんによるたい連合れんごうこく降伏ごうぶく文書ぶんしょへの調印ちょういんが、その連合れんごうこくがわ全権ぜんけん代表だいひょうだんによる調印ちょういんおこなわれ、925ふんにマッカーサー連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんによる降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしき終了しゅうりょう宣言せんげんされ、ここに1939ねん9がつ1にちからあしかけ7ねんにわたってつづいただい世界せかい大戦たいせんはついに終結しゅうけつした[50]

しかし、そのとき甲板かんぱんではカナダ代表だいひょう署名しょめいするらん間違まちがえたことによる4ヶ国かこく代表だいひょう署名しょめいらんにずれがつかり、正式せいしき文書ぶんしょとして通用つうようしないとして降伏ごうぶく文書ぶんしょ訂正ていせいがなされていた。具体ぐたいてきには、連合れんごうこくよう日本にっぽんようの2つう文書ぶんしょのうち、日本にっぽんよう文書ぶんしょにカナダ代表だいひょうのエル・コスグレーブ大佐たいさ署名しょめいするさい自国じこく署名しょめいらんではなく1だんばしたフランス代表だいひょうだんらん署名しょめいした。しかし、つぎ代表だいひょうであるフランスのフィリップ・ルクレール大将たいしょうはこれにづかずオランダ代表だいひょうらん署名しょめいつづくオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将たいしょう間違まちがいにはづいたものの、マッカーサー元帥げんすい指示しじしたがしぶ々ニュージーランド代表だいひょうらん署名しょめいした。最後さいご署名しょめいとなるニュージーランドのレナード・イシット少将しょうしょうもアメリカがわ指示しじしたが欄外らんがい署名しょめいすることとなり、結果けっかてきにカナダ代表だいひょうらん空欄くうらんとなった。

その各国かっこく代表だいひょう祝賀会しゅくがかいため船室せんしつ移動いどうしたが、オランダ代表だいひょうのヘルフリッヒ大将たいしょうはそののこり、日本にっぽんがわ代表だいひょうだん岡崎おかざき勝男かつお署名しょめい間違まちがいを指摘してきした。岡崎おかざき困惑こんわくするなか、マッカーサー元帥げんすい参謀さんぼうちょうリチャード・サザーランド中将ちゅうじょう日本にっぽんがわ降伏ごうぶく文書ぶんしょをこのままれるよう説得せっとくしたが、「不備ふび文書ぶんしょでは枢密院すうみついん条約じょうやく審議しんぎとおらない」と重光しげみつがこれを拒否きょひしたため、岡崎おかざきはサザーランド中将ちゅうじょう各国かっこく代表だいひょう署名しょめいなおしをもとめた。しかし、各国かっこく代表だいひょうはすでに祝賀しゅくがかい最中さいちゅうだとしてこれを拒否きょひ結局けっきょく、マッカーサー元帥げんすい代理だいりとしてサザーランド中将ちゅうじょう間違まちがった4カ国かこく署名しょめいらん訂正ていせいすることとなった。日本にっぽんがわ代表だいひょうだんはこれをれ、930ふん退すさかんした[51]

さらによく9がつ3にちに、連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれいはトルーマン大統領だいとうりょう布告ふこくけ、「占領せんりょうにおいても日本にっぽん主権しゅけんみとめる」としたポツダム宣言せんげん反故ほごにし、「行政ぎょうせい司法しほう立法りっぽう三権さんけんうば軍政ぐんせいく」という布告ふこくくだし、さらに「公用こうよう英語えいごにする」とした。

これにたいして重光しげみつ外相がいしょうは、マッカーサー連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんに「占領せんりょうぐんによる軍政ぐんせい日本にっぽん主権しゅけんみとめたポツダム宣言せんげん逸脱いつだつする」、「ドイツと日本にっぽんちがう。ドイツは政府せいふ壊滅かいめつしたが日本にっぽんには政府せいふ存在そんざいする」と猛烈もうれつ抗議こうぎし、布告ふこく即時そくじげをつよ要求ようきゅうした。その結果けっか連合れんごう国軍こくぐんがわ即時そくじにトルーマン大統領だいとうりょう布告ふこく即時そくじげをおこない、占領せんりょう政策せいさくはポツダム宣言せんげん条件じょうけんどおりに日本にっぽん政府せいふとおした間接かんせつ統治とうちとなった連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょう日本にっぽん参照さんしょう[52][注釈ちゅうしゃく 3]

旅順りょじゅんこう不法ふほう占領せんりょうしたソ連それんぐん(9がつ15にち)

一方いっぽうちゅう四国しこくイギリス連邦れんぽう占領せんりょうぐん駐留ちゅうりゅうすることにまり、また沖縄おきなわけんふく南西諸島なんせいしょとうおよび小笠原諸島おがさわらしょとう停戦ていせんにすでにアメリカぐん占領せんりょうないし勢力せいりょくにあり、小笠原諸島おがさわらしょとう1968ねんまで、沖縄おきなわ1972ねん本土ほんど復帰ふっきまでアメリカの占領せんりょう歴史れきしあゆんだ。

なお連合れんごう国軍こくぐんただちに日本にっぽんぐんおよび政府せいふ関係かんけいしゃ40にん逮捕たいほ令状れいじょう[53]、のちに極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんなどでさばかれた。また中華民国ちゅうかみんこく香港ほんこん、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた日本にっぽん軍人ぐんじんはそれぞれの現地げんち捕虜ほりょとなり、そのBきゅうならびにCきゅう戦犯せんぱんとして、現地げんち裁判さいばんかかるものがおおかった。

さらにソ連それん捕虜ほりょになった日本にっぽんぐん将兵しょうへいは、シベリア抑留よくりゅうなどで強制きょうせい就労しゅうろうにさせられ5まん5せんにん現地げんち死亡しぼうした。その帰国きこくしてきた軍人ぐんじんも、赤化せっかされているだけでなく瀬島せじま龍三りゅうぞう中佐ちゅうさのようにソ連それんぐんのスパイ(スリーパー)として仕込しこまれているものもおおかった[54]。また民間みんかんじん軍属ぐんぞくなども帰国きこくいたが、自国じこく領土りょうど台湾たいわん朝鮮ちょうせん、またマレーやインドシナなどからは比較的ひかくてき順調じゅんちょうったものの、中華民国ちゅうかみんこく満州まんしゅうこくからの帰国きこくソ連それん占領せんりょうにあるなど混乱こんらんおおく、中国ちゅうごく残留ざんりゅう孤児こじなど戦後せんご混乱こんらんでやむなくいておかれるものもおおかった。

占領せんりょうぐんによる間接かんせつ統治とうち[編集へんしゅう]

厚木あつぎ航空こうくうたい事件じけん」のような反乱はんらん事件じけんがいくつかきたものの、日本にっぽん国内こくない、アジア各地かくち展開てんかいしていた日本にっぽんぐんは、ほとんど抵抗ていこうらしい抵抗ていこうもなくやく60にち武装ぶそう解除かいじょされた[55]満州まんしゅうみなみ樺太からふと(サハリン)、千島ちしま列島れっとうなどにいた日本にっぽんぐん兵士へいしすう10まんにん(86まんにんといわれる)は、ソ連それんぐんによって武装ぶそう解除かいじょシベリアをはじめとするソ連それん領内りょうないられ、1ねんからすうねんにわたる過酷かこく自然しぜん劣悪れつあく待遇たいぐうもと強制きょうせい労働ろうどうふくし、やく6まん8,000にん死亡しぼうした[56]

日本にっぽん朝鮮半島ちょうせんはんとうべいソに、台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこくに、みなみ樺太からふとおよ千島ちしま列島れっとうおよ歯舞はぼまい色丹しこたんソ連それんに、「本州ほんしゅう北海道ほっかいどう九州きゅうしゅう四国しこくならびにわれとう連合れんごうこく)の決定けっていする小島こじま」(ポツダム宣言せんげん)をイギリスぐんとアメリカぐんによって占領せんりょうされたが、おな敗戦はいせんこくのドイツとはちがい、日本にっぽん政府せいふによる統治とうち継続けいぞくされたことから、イデオロギー対立たいりつする複数ふくすう連合れんごうこくによる分割ぶんかつ占領せんりょうまぬかれた[56]

ソ連それん参戦さんせん釧路くしろ留萌るもいまち現在げんざい留萌るもい)のりょう都市としと、それらをむすせんよりきた北海道ほっかいどう占領せんりょうする意向いこうを8がつ15にちしめしたが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうトルーマン即座そくざ拒否きょひした。マッカーサーは、はじ日本にっぽん直接ちょくせつ統治とうちする軍政ぐんせいこうとし、9月3にちにそのむね布告ふこくしようとしていたが、前日ぜんじつにこの方針ほうしんった日本にっぽん政府せいふ苦情くじょうれ、結局けっきょく日本にっぽん政府せいふつうじた間接かんせつ統治とうちかたちをとることとした[56]

このマッカーサーの突然とつぜん判断はんだん変更へんこう背景はいけい事情じじょうとしては、アメリカのたいにち政策せいさく立案りつあんを1944ねんれからがけていた、SWNCC(スウンク;国務こくむ陸軍りくぐん海軍かいぐん調整ちょうせい委員いいんかい)が、1945ねん8がつ22にちから31にちにかけて起草きそうした「降伏ごうぶくにおけるアメリカの初期しょきたいにち方針ほうしん」のなかで「最高さいこう司令しれいかんは・・・天皇てんのうふく日本にっぽん政府せいふ機構きこう及諸機関きかんつうじて其権げん行使こうしすべし」、つまり間接かんせつ統治とうちたいにち占領せんりょう政策せいさくとして最適さいてきであろうと分析ぶんせきしていたことがげられる[56]

日本にっぽん政府せいふは、イギリス連邦れんぽう占領せんりょうぐんとアメリカぐん中心ちゅうしんとした連合れんごう国軍こくぐんによる占領せんりょう統治とうちしたかれ、GHQ一連いちれん戦後せんご改革かいかく連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかん布告ふこく命令めいれい指示しじによって展開てんかいさせた。1946ねん昭和しょうわ21ねん11月3にちに、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう改正かいせいされた日本国にっぽんこく憲法けんぽう公布こうふされ、1947ねん昭和しょうわ22ねん5月3にちどう憲法けんぽう施行しこうされた。

占領せんりょう終了しゅうりょう日本にっぽん主権しゅけん回復かいふく[編集へんしゅう]

1951ねん7がつ20日はつか日本にっぽん政府せいふ講和こうわ会議かいぎ出席しゅっせき招請しょうせいじょうとどいた[57]。その10日とおかまえの7がつ10日とおかには開城かいじょう(ケソン)で朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん会議かいぎはじまっていた[57]。9月8にちに、サンフランシスコ市内しないオペラハウスで、サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく日本にっぽんふくむ49かこく調印ちょういんされ、日本にっぽん主権しゅけん回復かいふくした[57]

講和こうわ会議かいぎまねかれた52かこくのうち、ソ連それんチェコスロバキアポーランドは、べいえいなどとの意見いけん対立たいりつから調印ちょういん拒否きょひした[57]。また、戦後せんご独立どくりつしたばかりで独立どくりつ国家こっかとして日本にっぽん対戦たいせんしていなかったインドビルマユーゴスラビア招請しょうせいおうじなかった。また、国共こっきょう内戦ないせん結果けっか台湾たいわんのがれた中華民国ちゅうかみんこくと、建国けんこくされたばかりで日本にっぽん交戦こうせんしていない中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく枢軸すうじくこくとして日本にっぽん同盟どうめいこくであったドイツをいだ西にしドイツひがしドイツイタリア招請しょうせいされなかった[57]

なお、出来できたばかりか日本にっぽん交戦こうせんしていない大韓民国だいかんみんこくはなぜか会議かいぎへの招請しょうせい主張しゅちょうしたが、大戦たいせん当時とうじ朝鮮半島ちょうせんはんとう日本にっぽん領土りょうどであるうえに、朝鮮ちょうせんじんおおくが自主じしゅてき日本にっぽんぐんまんしゅうぐん将兵しょうへいとして参戦さんせんしており(のちのぼく正煕せいき大統領だいとうりょうなど)、臨時りんじ政府せいふ承認しょうにんされなかったことを理由りゆうに、当然とうぜんのことながらアメリカから招請しょうせい拒否きょひされた[58][59]

講和こうわ条約じょうやく発効はっこうし、連合れんごう国軍こくぐんによる日本にっぽん占領せんりょう終結しゅうけつしたのは、1952ねん4がつ28にちであった[57]。しかしながら、横井よこい庄一しょういち小野田おのだひろしろう代表だいひょうされるように、すくなからぬ日本にっぽんへい終戦しゅうせん伝達でんたつ困難こんなん環境かんきょう潜伏せんぷくしていたために終戦しゅうせん戦闘せんとう状態じょうたい長期ちょうき継続けいぞくしていた(ただし、大半たいはんは、すうねん帰還きかんした)。きゅう日本にっぽんぐん兵士へいし満蒙まもう開拓かいたく青少年せいしょうねん義勇軍ぎゆうぐんたちのなかには、はちぐん国民こくみん政府せいふぐん強制きょうせいてき参加さんかさせられ、国共こっきょう内戦ないせん従軍じゅうぐんしたものもあった[60]。また、みずか除隊じょたいし、インドネシア独立どくりつ戦争せんそうや、ベトナム独立どくりつ戦争せんそうとうじるものもいた。

終戦しゅうせん」はいつか[編集へんしゅう]

伝統でんとうてき戦時せんじ国際こくさいほうにおいて休戦きゅうせん協定きょうてい合意ごうい口頭こうとうによる同意どういによれば文書ぶんしょ手交しゅこう要件ようけんとしない(ハーグ陸戦りくせん条約じょうやく附属ふぞくしょ36じょう)。このため休戦きゅうせん協定きょうていされた休戦きゅうせん協定きょうてい外交がいこう文書ぶんしょ降伏ごうぶく文書ぶんしょ)として固定こていされたことなり、実際じっさい各地かくち戦線せんせん休戦きゅうせん合意ごういされたもまたことなる。そのため現実げんじつ戦闘せんとう停止ていしされた日付ひづけ(あるいは現地げんち日本にっぽんぐん降伏ごうぶくした、あるいは降伏ごうぶくしきおこなった日付ひづけ)にはまえがあり、また日本にっぽん政府せいふ停戦ていせん通告つうこくした最初さいしょのものは短波たんぱラジオをつうじた8がつ10日とおか)、連合れんごうこくかく司令しれいにより停戦ていせん事実じじつ確認かくにんされたなどにも前後ぜんご関係かんけいがある。

今日きょう、「終戦しゅうせん」とは、昭和しょうわ天皇てんのうが「玉音ぎょくおん放送ほうそう」によって、日本にっぽん政府せいふがポツダム宣言せんげん受諾じゅだく(=日本にっぽんぐん降伏ごうぶく表明ひょうめい)を連合れんごうこくがわ通告つうこくしたことを、国民こくみん放送ほうそうつうじて公表こうひょうした1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ15にちとするのが一般いっぱんてきである。一方いっぽう日本にっぽん政府せいふがポツダム宣言せんげん受諾じゅだく連合れんごうこくがわ通告つうこくしたのは、前日ぜんじつの8がつ14にちであり、玉音ぎょくおん放送ほうそうによってげられた「終戦しゅうせん詔書しょうしょ」の日付ひづけもそのとなっている。

日本にっぽん政府せいふおよ連合れんごうこく代表だいひょう降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしたは、1945ねん昭和しょうわ20ねん9月2にちであり、連合れんごうこくではこのを「たいにち戦勝せんしょう記念きねん」としているれいおおいが、中華民国ちゅうかみんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくきゅうソビエト連邦れんぽうのように9月3にちとするくにもある。なお国際こくさい条約じょうやくとして日本にっぽんこく交戦こうせんこく正式せいしき平和へいわ条約じょうやくなどを締約ていやく戦争せんそう状態じょうたい終了しゅうりょうした日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく発効はっこうした1952ねん4がつ28にち日本にっぽんこく中華民国ちゅうかみんこくとのあいだ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうした1952ねん8がつ5にちにち共同きょうどう宣言せんげん発効はっこうした1956ねん12月12にちである(ただしにち共同きょうどう宣言せんげん戦争せんそう状態じょうたい終了しゅうりょう確認かくにんした条約じょうやくであって平和へいわ条約じょうやくではない)。

終戦しゅうせん工作こうさくれい[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん有利ゆうり展開てんかいなうちに早期そうき休戦きゅうせん終結しゅうけつさせるこころみは、1942ねん昭和しょうわ17ねん)の時期じきから一部いちぶ政治せいじ官僚かんりょう民間みんかんじんあいだ摸索もさくされた。しかし、戦争せんそう勝利しょうり大義たいぎとした東條とうじょう内閣ないかくおよ軍部ぐんぶにより弾圧だんあつされ、中野なかのただしつよしのように自決じけつまれるものもいた。終戦しゅうせん工作こうさくとしては、以下いかのようなものがられる。

これらはいずれも和平わへい条件じょうけん問題もんだい日本にっぽんがわによる仲介ちゅうかいしゃへの不信ふしん時機じきなどから、実現じつげんにはいたらなかった。

ぐん降伏ごうぶく[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんは、かく地域ちいきGHQたいする降伏ごうぶく降伏ごうぶくしきおこなった。降伏ごうぶくさき指定していは1945ねん9がつ2にち降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん直後ちょくごに「一般いっぱん命令めいれいだいいちごう」としてGHQから発令はつれいされた。

本土ほんど[編集へんしゅう]

  • 青森あおもりけん:9月9にち海軍かいぐん大湊おおみなと警備けいび司令しれい長官ちょうかん宇垣うがきかんなんじ陸軍りくぐん50ぐん司令しれいかん星野ほしのとしもと県知事けんちじ金井かない元彦もとひこらが大湊湾おおみなとわん洋上ようじょうのアメリカ軍艦ぐんかんパミナントじょう占領せんりょう命令めいれいしょ署名しょめいしている[67]。アメリカぐんがわは9月2にち日本にっぽん連合れんごうこく降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんまえ、24時間じかん以内いない北海道ほっかいどう北東ほくとうきた管轄かんかつするどう警備けいび武装ぶそう解除かいじょすることなどをめいじている。

沖縄おきなわ[編集へんしゅう]

外地がいち大陸たいりく南方なんぽう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

史伝しでん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 外務省がいむしょうへん終戦しゅうせんろくどう刊行かんこうかい, 新版しんぱん1997ほか。初刊しょかん新聞しんぶんがつかんしゃ, 1952
    • 改訂かいていばん終戦しゅうせんろく北洋ほくようしゃぜん6かん別巻べっかん[73]), 1977-78
  • 外務省がいむしょうへん日本にっぽん選択せんたく だい世界せかい大戦たいせん 終戦しゅうせんろく山手やまて書房しょぼうしんしゃ(3かんぐみ), 1990
  • 外務省がいむしょうへん初期しょきたいにち占領せんりょう政策せいさく あさうみひろし一郎いちろう報告ほうこくしょ毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ上下じょうげ), 1978-79
  • 江藤えとうあつし監修かんしゅう栗原くりはらけん波多野はたの澄雄すみおへん終戦しゅうせん工作こうさく記録きろく」、講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ上下じょうげ), 1986
  • 江藤えとうあつしへん波多野はたの澄雄すみお解題かいだい占領せんりょうろく」(ぜん4かん)、講談社こうだんしゃ, 1981-82/講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ, 1989、文庫ぶんこ新版しんぱん上下じょうげ), 1995
  • はやししげるつじ清明きよあきへん日本にっぽんないかくろく 5」だいいち法規ほうき, 1981(ぜん6かん
  • 鹿島かしま平和へいわ研究所けんきゅうじょへん日本にっぽん外交がいこう 25 だい東亜とうあ戦争せんそう終戦しゅうせん外交がいこう松本まつもと俊一しゅんいち監修かんしゅう, 1972 
  • 同上どうじょう日本にっぽん外交がいこう 26 終戦しゅうせんから講和こうわ鈴木すずききゅうまん監修かんしゅう, 1973、鹿島かしま出版しゅっぱんかいかく新版しんぱん
  • 中尾なかお裕次ゆうじへん昭和しょうわ天皇てんのう発言はつげん記録きろく集成しゅうせい芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん上下じょうげ), 2003
  • 参謀さんぼう本部ほんぶ所蔵しょぞう敗戦はいせん記録きろくはら書房しょぼう, 1967、新版しんぱん1989、2005
  • もりまつ俊夫としお監修かんしゅう「『大本營だいほんえい陸軍りくぐん大陸たいりくいのち大陸たいりくゆびそう集成しゅうせい 10かん」エムティ出版しゅっぱん, 1994
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ大本營だいほんえい陸軍りくぐん10 昭和しょうわじゅうねんはちがつまで」ちょうくも新聞しんぶんしゃ, 1975
  • 軍事ぐんじ学会がっかいへん大本営だいほんえい陸軍りくぐん戦争せんそう指導しどうはん 機密きみつ戦争せんそう日誌にっしにしきせいしゃ上下じょうげ), 1998/新版しんぱん合本がっぽん2008
  • 佐藤さとうもとえい黒沢くろさわぶんとうとへん「GHQ歴史れきし陳述ちんじゅつろく 終戦しゅうせん資料しりょうはら書房しょぼう上下じょうげ), 2002
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    • 日本にっぽん外交がいこう文書ぶんしょ 占領せんりょうろくいち書房しょぼうぜん3かん), 2017-18
    • 日本にっぽん外交がいこう文書ぶんしょ 占領せんりょう 関係かんけい調書ちょうしょしゅうろくいち書房しょぼう, 2019

日記にっき回想かいそうろく[編集へんしゅう]

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  • 鈴木すずき貫太郎かんたろう伝記でんき編纂へんさん委員いいんかいへん鈴木すずき貫太郎かんたろうでん鈴木すずき貫太郎かんたろう伝記でんき編纂へんさん委員いいんかい, 1960
    • 新版しんぱん歴代れきだい総理そうり大臣だいじん伝記でんき叢書そうしょ32 鈴木すずき貫太郎かんたろう」ゆまに書房しょぼう, 2006
  • ひがし久邇くに日記にっき 日本にっぽん激動期げきどうき秘録ひろく徳間書店とくましょてん, 1968
    • ひがし久邇くに稔彦としひこいち皇族こうぞく戦争せんそう日記にっき日本にっぽん週報しゅうほうしゃ, 1957 /「わたし記録きろく東方とうほう書房しょぼう, 1947
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  • 藤田ふじた尚徳なおのり侍従じじゅうちょう回想かいそう講談社こうだんしゃ, 1961 / 中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 1987 / 講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ, 2015
  • 細川ほそかわ護貞もりさだ細川ほそかわ日記にっき中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ新版しんぱん), 1978 / 中公ちゅうこう文庫ぶんこ上下じょうげ), 1979、改版かいはん2002
  • 重光しげみつまもる重光しげみつまもる手記しゅき」(ただしつづけ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ, 1986-88
  • 重光しげみつまもる昭和しょうわ動乱どうらん」(うえした中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ, 1952 / 中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 2001
  • 重光しげみつまもる外交がいこう回想かいそうろく毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ, 1953、新版しんぱん1978 / 中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 2011
  • 岡崎おかざき勝男かつお戦後せんごじゅうねん遍歴へんれき中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 1999。初刊しょかん私家版しかばん
  • 木戸きど幸一こういち木戸きど幸一こういち日記にっき東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかいうえした), 1966
  • 証言しょうげんわたし昭和しょうわ5 終戦しゅうせん前後ぜんこう」ききて三國一さんごくいちろう旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ新版しんぱん), 1989
  • 「もうひとつの戦後せんご」ききて江藤えとうあつし講談社こうだんしゃ, 1978[75]
  • 証言しょうげん記録きろく 太平洋戦争たいへいようせんそう 終戦しゅうせんへの決断けつだんサンケイ新聞しんぶんしゃだい世界せかい大戦たいせんブックス」, 1975
  • 富田とみた健治けんじ敗戦はいせん日本にっぽん内側うちがわ古今ここん書院しょいん, 1962
    • 近衛このえ文麿ふみまろ日米にちべい開戦かいせん――内閣ないかく書記官しょきかんちょうのこした『敗戦はいせん日本にっぽん内側うちがわ』」祥伝社しょうでんしゃ新書しんしょ, 2019。川田かわたみのる解説かいせつ
  • 松村まつむら謙三けんぞうさんだい回顧かいころく東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ, 1964 / 新版しんぱん吉田よしだ書店しょてん、2021。武田たけだ知己ともみへん
  • 高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう高松宮たかまつのみや日記にっき中央公論社ちゅうおうこうろんしゃぜん8かん), 1997
  • 河辺かわべとらよんろう回想かいそうろく 市ヶ谷いちがやだいから市ヶ谷いちがやだいへ」 時事通信社じじつうしんしゃ, 1962 / 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ, 1979
  • 保科ほしな善四郎ぜんしろうだい東亜とうあ戦争せんそう秘史ひし うしなわれた和平わへい工作こうさくはら書房しょぼう, 1975
  • 最後さいご参謀さんぼう総長そうちょう 梅津うめづ美治よしはるろうどう刊行かんこうかいへん芙蓉ふよう書房しょぼう, 1976
  • 有末ありすえ精三せいぞう終戦しゅうせん秘史ひし 有末ありすえ機関きかんちょう手記しゅき芙蓉ふよう書房しょぼう, 1987(新版しんぱん
  • 宮崎みやざき周一しゅういち大本営だいほんえい陸軍りくぐん作戦さくせん部長ぶちょう 宮崎みやざき周一しゅういち中将ちゅうじょう日誌にっしにしきせいしゃ, 2003
  • 豊田とよだふく最後さいご帝国ていこく海軍かいぐん世界せかい日本にっぽんしゃ, 1950 / 中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 2017
  • 富岡とみおかじょうしゅん開戦かいせん終戦しゅうせん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ, 1968 / 中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 2018
  • 高木たかぎそうきち自伝じでんてき日本にっぽん海軍かいぐん始末しまつ 続篇ぞくへん光人みつひとしゃ, 1979
  • 藤田ふじた信勝のぶかつ敗戦はいせん以後いご秋田あきた, 1947 / リーダーズノート新書しんしょ, 2011

歴史れきししょ伝記でんき[編集へんしゅう]

  • 半藤はんどう一利かずとし決定けっていばん 日本にっぽんのいちばんなが文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう, 1995、文春ぶんしゅん文庫ぶんこ, 2006
  • 半藤はんどう一利かずとし聖断せいだん 昭和しょうわ天皇てんのう鈴木すずき貫太郎かんたろう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう, 1985/PHP文庫ぶんこ新版しんぱん), 2006
  • 小堀こぼり桂一郎けいいちろう宰相さいしょう鈴木すずき貫太郎かんたろう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう, 1982、文春ぶんしゅん文庫ぶんこ, 1987
    • 鈴木すずき貫太郎かんたろう もちいうるにげんだまよりだいなるはなしミネルみねるァ書房ぁしょぼう日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉, 2016。ぞうていばん
  • 波多野はたの澄雄すみお宰相さいしょう鈴木すずき貫太郎かんたろう決断けつだん 聖断せいだん」と戦後せんご日本にっぽん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ現代げんだい全書ぜんしょ〉, 2015
  • 萩原はぎはら延壽えんじゅ東郷とうごう茂徳しげのり 伝記でんき解説かいせつはら書房しょぼう, 2005(新版しんぱん)/朝日新聞社あさひしんぶんしゃ, 2008
  • 東郷とうごう茂彦しげひこ祖父そふ東郷とうごう茂徳しげのり生涯しょうがい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう, 1993
  • 豊田とよだみのる孤高ここう外相がいしょう 重光しげみつまもる講談社こうだんしゃ, 1990
  • 渡辺わたなべ行男いくお重光しげみつまもる 上海しゃんはい事変じへんから国連こくれん加盟かめいまで」中公新書ちゅうこうしんしょ, 1996
  • 実松さねまつゆずる米内よない光政みつまさ正伝せいでん光人みつひとしゃ, 2009(新版しんぱん
  • 海軍かいぐん大将たいしょう米内よない光政みつまさ覚書おぼえがき 太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつ真相しんそう実松さねまつゆずるへん産経さんけいNF文庫ぶんこ, 2022。もとはん光人みつひとしゃ
  • 昭和しょうわ天皇てんのう中公ちゅうこう文庫ぶんこ(1-4), 2012。もとはん読売新聞社よみうりしんぶんしゃぜん30かん), 1980完結かんけつ
    • 天皇てんのう終戦しゅうせん 激動げきどうの227にち読売新聞社よみうりしんぶんしゃ, 1988 - 上記じょうき再編さいへんばん
  • 入江いりえ隆則たかのり敗者はいしゃ戦後せんご中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公叢書ちゅうこうそうしょ〉, 1989/文春ぶんしゅん学藝がくげいライブラリー(文庫ぶんこ新版しんぱん), 2015
  • 長谷川はせがわあつし暗闘あんとう スターリン、トルーマンと日本にっぽん降伏ごうぶく中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ, 2006/みすず書房しょぼう, 2023
  • なかあきら黙殺もくさつ ポツダム宣言せんげん真実しんじつ日本にっぽん運命うんめい」 NHKブックス(上下じょうげ), 2000
  • ひゃく旗頭はたがしらしん占領せんりょう 首相しゅしょうたちの新日本しんにほん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ〈20世紀せいき日本にっぽん3〉, 1997/講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ, 2007
  • ひゃく旗頭はたがしらしん日本にっぽん近代きんだい6 戦争せんそう占領せんりょう講和こうわ 1941〜1955」 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ, 2001、中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 2013
  • 戸部とべ良一りょういち日本にっぽん近代きんだい9 逆説ぎゃくせつ軍隊ぐんたい中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ, 1998、中公ちゅうこう文庫ぶんこ, 2012
  • 児島こじまじょう天皇てんのう5 帝国ていこく終焉しゅうえん」 カゼット出版しゅっぱん新版しんぱんぜん5かん), 2007
  • ジョン・トーランド大日本帝国だいにっぽんていこく興亡こうぼう5 平和へいわへのみち毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ外信がいしんやく、ハヤカワ文庫ぶんこぜん5かん)、2015(新版しんぱん
  • レスター・ブルークス「終戦しゅうせん秘話ひわ ひとつの帝国ていこくわらせた秘密ひみつ闘争とうそう井上いのうえいさむわけ時事通信社じじつうしんしゃ, 1968、新版しんぱん1985。原題げんだいBehind Japan's surrender
  • ルイ・アレン「日本にっぽんぐんじゅうをおいた 太平洋戦争たいへいようせんそう終焉しゅうえん長尾ながおあつし也・寺村てらむら誠一せいいちやく早川書房はやかわしょぼう, 1976、改訂かいてい新版しんぱん2022
  • 芦田あしだひとしだい世界せかい大戦たいせん外交がいこう岩波いわなみ文庫ぶんこ上下じょうげ), 2015(新版しんぱん)。解説かいせつ井上いのうえ寿一ひさいち

個別こべつ研究けんきゅう[編集へんしゅう]

  • ひゃく旗頭はたがしらしん日米にちべい戦争せんそう戦後せんご日本にっぽん』(新版しんぱん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2005ねん 
  • 保阪ほさかただしやすし新版しんぱん 敗戦はいせん前後ぜんこう日本人にっぽんじん朝日あさひ文庫ぶんこ、2007ねん 
  • アービン・クックス しる加藤かとう俊平しゅんぺい わけ天皇てんのう決断けつだん 昭和しょうわ20ねん8がつ15にちサンケイ新聞しんぶんしゃだい世界せかい大戦たいせんブックス〉、1971ねん 
  • 遠山とおやま茂樹しげき今井いまい清一せいいち藤原ふじわらあきら昭和しょうわ新版しんぱん岩波いわなみ新書しんしょ、1959ねん 
  • 纐纈こけつあつし日本にっぽん降伏ごうぶく 迷走めいそうする戦争せんそう指導しどうてに』日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、2013ねん 
  • 加藤かとうきよしぶん『「大日本帝国だいにっぽんていこく崩壊ほうかい ひがしアジアの1945ねん中公新書ちゅうこうしんしょ、2009ねん7がつISBN 4-12-102015-4 
  • ちょうけいたち植民しょくみん朝鮮ちょうせん日本にっぽん岩波いわなみ新書しんしょ、2013ねん 
  • 若林わかばやしただしたけ台湾たいわん 変容へんよう躊躇ちゅうちょするアイディンティティ』ちくま新書しんしょ、2001ねん 
  • 小倉おぐら貞男さだお物語ものがたりヴェトナムの歴史れきし いちおくにん国家こっかのダイナミズム中公新書ちゅうこうしんしょ、1997ねん7がつISBN 4-12-101372-7 
  • 小林こばやし英夫ひでお日本にっぽん軍政ぐんせいのアジア』岩波いわなみ新書しんしょ、1993ねん 
  • 中野なかのさとし ちょ植民しょくみん統治とうち南方みなかた軍政ぐんせい帝国ていこく日本にっぽん解体かいたい東南とうなんアジア」、編集へんしゅう委員いいん倉沢くらさわ愛子あいこほか へん岩波いわなみ講座こうざアジア・太平洋戦争たいへいようせんそう だい7かん 支配しはい暴力ぼうりょく岩波書店いわなみしょてん、2006ねん 

辞典じてん事典じてん項目こうもく[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • えた潜水せんすいかんとたった一人ひとり和平わへい工作こうさく』(日本にほんテレビ「ってるつもり?!」2002ねん5がつ28にち放送ほうそうぶん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 東郷とうごうはこれを閣議かくぎ決定けってい違反いはんだと激怒げきどして抗議こうぎした。
  2. ^ はやし航空こうくうたい東北とうほく民主みんしゅれんぐん航空こうくう学校がっこうとして中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん空軍くうぐん創立そうりつ尽力じんりょくした。
  3. ^ 永井ながいかずによれば、重光しげみつ具申ぐしんにより方針ほうしん撤回てっかいさせたことは重要じゅうようであり、無条件むじょうけん降伏ごうぶくがあくまで日本にっぽんぐんたいするものであってくにたいするものではないことにもとづくとする。
  4. ^ 沖縄おきなわせん降伏ごうぶく文書ぶんしょには、リーガルばん厚手あつで用紙ようし使用しようされており、べいぐんがわあおインクで署名しょめいをしている[68]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 福田ふくだ和也かずやあくとくきし信介しんすけ未完みかん日本にっぽん産経新聞さんけいしんぶんしゃ 2012ねん4がつ だい19かい『サイパン陥落かんらく』、だい20かい尊攘そんじょう同志どうしかい』 pp.228-246
  2. ^ 長谷川はせがわあつし暗闘あんとううえ)』中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2011ねん、p151
  3. ^ 暗闘あんとううえ)』 p.198
  4. ^ 暗闘あんとううえ) 』 pp.290 - 212、218 - 220
  5. ^ まんしゅうこく―「民族みんぞく協和きょうわ」の実像じつぞうづかせらすすむ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん p.147
  6. ^ 暗闘あんとううえ)』 p.226
  7. ^ 暗闘あんとううえ)』 pp.248 - 250
  8. ^ a b 寺崎てらさき英成えいせいしる 『昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく』 136ページによれば、「わたしいままでいてゐたところでは、海岸かいがん地方ちほう防備ぼうびわるいといふことであつたが、報告ほうこくると、海岸かいがんのみならず、決戦けっせん師団しだんさへ、武器ぶき満足まんぞくわたしつてゐないとうんごとだつた。てきおとしたばくだんてつ利用りようして「シャベル」をつくるのだとうんふ、これでは戦争せんそう不可能ふかのううんごと確認かくにんした。木戸きどべいないにも東郷とうごうにも鈴木すずきにも意見いけんいたが、みな講和こうわしたいとうんふ、しかだれすすんでうんさない。それでわたし最高さいこう指導しどう会議かいぎものんで、すみやかに講和こうわ手筈てはずすすめるよううんつた。「ソビエト」をてやれとうんつたかどうかは記憶きおくしてらぬ。このとき鈴木すずきそのからさきづ「ソビエト」のきもさぐらうと、うんした、わたしはそれはことおもふが、現状げんじょうおいてはすみやかにこと処理しょりする必要ひつようがあるとうんつた。これですつかり講和こうわ決意けつい出来でき安心あんしんした、ただ講和こうわ条件じょうけんづけては、みなかく意見いけんがあつた。これぜんきさきして、鈴木すずき詔書しょうしょして国民こくみん激励げきれいしていただきたいとうんつて釆たが、前述ぜんじゅつ理由りゆうで、絶対ぜったい反対はんたいだとうんつたら、鈴木すずきもっともだとうんつてつた。どうも政府せいふ軍人ぐんじん二股ふたまたかける傾向けいこうがあるのはよろしくない。この場合ばあい鈴木すずきだから、隔意かくいなくおもことうんへたのだ。・・・しかソ連それん誠意せいいあるくにとはおもへないので、さきさぐりをれる必要ひつようがある、それでもし石油せきゆ輸入ゆにゅうしてれるならみなみ樺太からふとも、まんしゅうあずかへてよいといふ内容ないよう広田ひろた「マリク」会談かいだんすすめることにした。しかし、「スターリン」は会議かいぎからかえりつたきさきも、返事へんじ寄越よこさず、そのなかに、不幸ふこうにして「ソビエト」の宣戦せんせん布告ふこくとなつた。こうなつては最早もはや無条件むじょうけん降伏ごうぶくそとはない。」とある
  9. ^ NHKスペシャル終戦しゅうせん なぜはやめられなかったのか」(2012ねん8がつ15にち放映ほうえい[1]とう番組ばんぐみでは連合れんごうこく傍受ぼうじゅ解読かいどくされた駐在ちゅうざい武官ぶかんはつ電報でんぽう(ロンドンに保存ほぞん)が紹介しょうかいされた。
  10. ^ NHK取材しゅざいはん 『太平洋戦争たいへいようせんそう 日本にっぽん敗因はいいん6 外交がいこうなき戦争せんそう終末しゅうまつ』 角川かどかわ文庫ぶんこ、1995ねん、pp.204 - 208
  11. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくより
  12. ^ a b c 大日本帝国だいにっぽんていこく興亡こうぼう5』ジョン・トーランドちょ 早川書房はやかわしょぼう p.264
  13. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろく iza14090905120002 2/3
  14. ^ ころも奈多なた喜男よしお最後さいご特派とくはいん朝日あさひソノラマ 1988ねん7がつISBN 978-4-257-17205-5
  15. ^ a b c 大日本帝国だいにっぽんていこく興亡こうぼう5』ジョン・トーランドちょ 早川書房はやかわしょぼう p.267
  16. ^ 大日本帝国だいにっぽんていこく興亡こうぼう5』ジョン・トーランドちょ 早川書房はやかわしょぼう p.265
  17. ^ "… the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander …"
  18. ^ The ultimate form of government of Japan... government は冠詞かんしである(プログレッシブ英和えいわちゅう辞典じてん(だいはん) government)。
  19. ^ “The Decision to Use the Atomic Bomb” by Henry Stimson
  20. ^ August 10, 1945 Truman Diary
  21. ^ 山下やましたゆうこころざし 1998, pp. 6.
  22. ^ 新城しんじょう道彦みちひこ, 2015 & Kindleばん位置いちNo.ぜん266ちゅう 219 / 85%.
  23. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(7)戦争せんそう最終さいしゅう 471ぺーじ
  24. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(7)戦争せんそう最終さいしゅう 473ぺーじ
  25. ^ 山下やましたゆうこころざし 1998, pp. 7.
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  28. ^ a b 岩田いわた重則しげのり『「玉音ぎょくおん放送ほうそう歴史れきしがく: はちがついちにちをめぐる権威けんい権力けんりょく青土おうづちしゃ、2026ねん6がつ26にち、143-,170ぺーじ 
  29. ^ 角田つのだ房子ふさこ 1980, p. Kindle5159.
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  31. ^ 阿部あべまきろう 2003, p. 461.
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  51. ^ 大日本帝国だいにっぽんていこく興亡こうぼう5」ジョン・ト―ランドちょ 早川書房はやかわしょぼう P.328
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  58. ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296. http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1951v06p1 
  59. ^ 塚本つかもとたかし韓国かんこくたいにち平和へいわ条約じょうやく署名しょめい問題もんだい」『レファレンス』 494かん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん調査ちょうさ立法りっぽう考査こうさきょく、1992ねん3がつ、95-101ぺーじ 
  60. ^ 池谷いけがやかおるあり兵隊へいたい 日本にっぽんへい2600にん山西さんせいしょう残留ざんりゅう真相しんそう』(新潮社しんちょうしゃ2007ねん平成へいせい19ねん))、べいはまやすしえい日本にっぽんぐん山西さんせい残留ざんりゅう」』(オーラル・ヒストリー企画きかく2008ねん平成へいせい20ねん)6がつ)、山口やまぐちみつるぶんぼくはちぐん少年しょうねんへいだった』(くさおもえしゃ 1994ねん平成へいせい6ねん)、新版しんぱん光人みつひとしゃ文庫ぶんこ、2006ねん)にくわしい、また中国ちゅうごく山西さんせいしょう日本にっぽんぐん残留ざんりゅう問題もんだい参照さんしょう
  61. ^ 回想かいそう小野寺おのでら百合子ゆりこバルト海ばるとかいのほとりにて 武官ぶかんつまだい東亜とうあ戦争せんそう』(共同通信社きょうどうつうしんしゃ初版しょはん1985ねん)。
  62. ^ 情報じょうほう開示かいじにより近年きんねん研究けんきゅうすすみ、評伝ひょうでん岡部おかべしん産経新聞さんけいしんぶん編集へんしゅう委員いいん)による『えたヤルタ密約みつやく緊急きんきゅうでん 情報じょうほう士官しかん小野寺おのでらしん孤独こどくたたかい』(新潮しんちょう選書せんしょ、2012ねん)、『「諜報ちょうほう神様かみさま」とばれたおとこ 連合れんごうこくおそれた情報じょうほう士官しかん小野寺おのでらしん流儀りゅうぎ』(PHP研究所けんきゅうじょ、2014ねん)がある。
  63. ^ 小野寺おのでら工作こうさくもとに、作家さっか佐々木ささきゆずる小説しょうせつで『ストックホルムの密使みっし』(新潮社しんちょうしゃ、のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)をあらわし、1995ねん平成へいせい7ねん)10がつに、NHKでドラマ放送ほうそうぜん)された。
  64. ^ 岡本おかもと加瀬かせのルートによるスイスでの活動かつどうは、竹内たけうち修司しゅうじまぼろし終戦しゅうせん工作こうさく ピース・フィーラーズ1945なつ』(文春ぶんしゅん新書しんしょ2005ねん)にくわしい。著者ちょしゃは『月刊げっかん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』、『諸君しょくん!』などの編集へんしゅうしゃで、昭和しょうわ関連かんれん著作ちょさく編集へんしゅうおこなっている。なお、岡本おかもと加瀬かせ藤村ふじむら別個べっこ活動かつどうしており、おたがいの活動かつどうをほとんどらなかったとされる。
  65. ^ 有馬ありま哲夫てつお『「スイス諜報ちょうほうもう」の日米にちべい終戦しゅうせん工作こうさく ポツダム宣言せんげんはなぜけいれられたか』(新潮しんちょう選書せんしょ、2015ねん)では、藤村ふじむら和平わへい工作こうさく否定ひていてき見解けんかいべている。
  66. ^ 藤村ふじむら=ダレス工作こうさくもとに、作家さっか西村にしむら京太郎きょうたろう小説しょうせつ『D機関きかん情報じょうほう』(講談社こうだんしゃ)をあらわし、『アナザー・ウェイ ―D機関きかん情報じょうほう』(主演しゅえん役所広司やくしょこうじ1988ねん)で映画えいがされた。
  67. ^ 占領せんりょう瞬間しゅんかん生々なまなましく 降伏ごうぶくしき写真しゃしんつかる」東北新聞社とうほくしんぶんしゃオンライン(2010/03/11)[2]
  68. ^ a b 日本にっぽんぐん降伏ごうぶく文書ぶんしょ 公開こうかい 沖縄おきなわ終戦しゅうせん70ねんてん. 琉球新報りゅうきゅうしんぽう. (2015ねん8がつ19にち). http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-247513.html 2016ねん5がつ27にち閲覧えつらん 
  69. ^ 9月7にち 沖縄おきなわでの降伏ごうぶく調印ちょういんしき (1945ねん”. 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん. 2016ねん5がつ28にち閲覧えつらん
  70. ^ 独立どくりつ混成こんせいだい旅団りょだんきり)l”. アジア歴史れきし資料しりょうセンター. 2018ねん12月21にち閲覧えつらん
  71. ^ Second Instrument of Surrender Document”. Lillian Goldman Law Library. 2018ねん12月21にち閲覧えつらん
  72. ^ Instrument of Surrender, Rabaul”. National Archives of Australia. 2018ねん12月21にち閲覧えつらん
  73. ^ 別巻べっかんは「終戦しゅうせんなおす シンポジウム」栗原くりはらけんほかへん江藤えとうあつし解説かいせつ, 1980。
  74. ^ 時事じじおよ図書としょセンターばんは、回顧かいこだん終戦しゅうせん表情ひょうじょう」(労働ろうどう文化ぶんかしゃ, 1946)を収録しゅうろく
  75. ^ 終戦しゅうせん占領せんりょうでの当事とうじしゃ・その親族しんぞく13めいへのインタビュー

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]