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この項目では、中華民国・満洲国の軍人・政治家について説明しています。中華人民共和国の歴史学者については「張海鵬 (歴史学者)」をご覧ください。 |
張 海鵬(ちょう かいほう)は中華民国・満洲国の軍人。北京政府、奉天派に属し、後に満洲国に参加した。字は仙濤。別名は連渓。綽名は張大麻子。
元々は盗賊追捕の任にあった。しかし日清戦争を境に、馬賊の馮徳麟配下となる。日露戦争後に馮に従って清朝に帰順し、張海鵬は巡防隊管帯となる。また、奉天講武堂で学習した。1910年(宣統2年)、張作霖と知り合い、義兄弟の契りを交わした[2][3]。
中華民国が成立した1912年(民国元年)12月、張海鵬は第28師第55旅旅長(第28師師長:馮徳麟)に任命された。1917年(民国6年)、張勲復辟に呼応して挙兵した馮が張作霖に逮捕され、失脚する。以後、張海鵬は張作霖配下に転じた。1921年(民国10年)、張海鵬は中東鉄道護路軍哈満副司令に任命され、1923年(民国12年)には同軍総司令に昇進した。翌年の第2次奉直戦争の後に、奉天騎兵第1遊撃隊統領となった。1927年(民国16年)、遼寧洮遼(または洮南)鎮守使兼東北騎兵第32師師長に任命された[2][4]。
1931年(民国20年)9月18日に満洲事変(九・一八事変)が勃発すると、その直後の21日に張海鵬は関東軍に降伏した[5]。10月1日に張は独立宣言を発布し、洮索辺境保安司令を自称、関東軍に呼応した[6]。翌1932年(大同元年)3月9日、満洲国が正式に成立すると、翌10日、張は参議府参議兼執政府侍従武官処武官長に任ぜられている[7]。同年11月、陸軍上将位を授与された。1933年(大同2年)5月、熱河省警備司令官兼熱河省省長に任ぜられ、翌1934年(大同3年)11月まで務めた[8]。同年中に、侍従武官処武官長(この時点では治安部管轄)に再任された。1939年(康徳6年)1月、侍従武官長は治安部管轄から皇帝直轄へと改められたが、張はそのまま留任した[9]。1941年(康徳8年)3月3日、張は武官長から勇退し、吉興がその後任となった[10]。1944年(康徳11年)9月29日、于芷山・于琛澂と共に軍事諮議官に任命された[11]。
満洲国が滅亡すると、張海鵬は錦州筆架山の寺院に身を隠し、中華人民共和国成立後には北京へ逃れた[4]。しかし1951年5月20日、北京市人民政府から反革命罪として死刑判決をい渡され、即執行された[12]。享年85。
- ^ 『人民日報』1951年5月23日、第5版(「八十五歳」とあり、これは数え年と考えられる)及び徐主編(2007)、1836頁による。王ほか主編(1996)、993頁は1875年(光緒元年)としている。
- ^ a b 徐(2007)、1836頁。
- ^ 王ほか主編(1996)、993-994頁。
- ^ a b 王ほか主編(1996)、994頁。
- ^ 「洮南鎮守使降伏」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)9月22日。
- ^ 「洮遼鎮守使 張海鵬氏独立」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月3日夕刊。
- ^ 「満洲政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
- ^ 1932年から1934年までの張海鵬の職歴については、劉ほか編(1995)、1147・1150・1151・1194頁に拠った。徐(2007)、1836頁及び王ほか主編(1996)、993-994頁の記述は、劉ほか編(1995)のものと若干差異が見られる。
- ^ 劉ほか編(1995)、1150頁。
- ^ 「満洲國軍首脳異動」『朝日新聞』昭和16年(1941年)3月4日。
- ^ 「駐日満洲国大使 王允卿氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。
- ^ 『人民日報』1951年5月23日、第5版。同日に処刑された著名人物としては、池宗墨・張仁蠡・富双英・張仲直などがいる。徐(2007)、1836頁によれば、張海鵬は満洲国滅亡後に天津に身を隠したが、中華人民共和国成立後の1949年に人民政府により処刑された、としているものの、これは誤りと考えられる。