(Translated by https://www.hiragana.jp/)
沖縄戦における集団自決 - Wikipedia コンテンツにスキップ

沖縄おきなわせんにおける集団しゅうだん自決じけつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

沖縄おきなわせんにおける集団しゅうだん自決じけつ(おきなわせんにおけるしゅうだんじけつ)では、だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそうにおいて、沖縄おきなわけん発生はっせいしたとされる集団しゅうだん自決じけつあつかう。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわせんでは、一般いっぱん住民じゅうみん集団しゅうだん自殺じさつする行為こうい発生はっせいし、これを「集団しゅうだん自決じけつ」と一般いっぱんてきぶ。おも事例じれいとしては、伊江いえむらのアハシャガマ[1] などやく100にん恩納おんなむら11にん読谷よみたんむらチビチリガマなど121にん以上いじょう詳細しょうさい後述こうじゅつ#チビチリガマの集団しゅうだん自決じけつ)、沖縄おきなわ美里みさと33にんうるま具志川ぐしかわ14にん八重やえまち玉城たまき7にん糸満いとまんカミントウごうなど80にん座間味島ざまみじま234にん慶留間島げるまじま53にん渡嘉敷島とかしきじま329にん[2] などとされている。研究けんきゅうしゃなかにはけい1000にん以上いじょうとの見方みかたもあり[3]、これは沖縄おきなわせんにおける住民じゅうみん死者ししゃ9まん4000にんの1%きょうにあたる。

戦後せんご一部いちぶ文献ぶんけん(1950ねんの『てつ暴風ぼうふう』など)では、日本にっぽんぐん命令めいれいなど、手榴弾しゅりゅうだんわたされ、強制きょうせいにより自殺じさつすることになったとしているが、否定ひてい疑問ぎもんする見解けんかいもある。

沖縄おきなわせんにおける県民けんみん犠牲ぎせいしゃかんする教科書きょうかしょへの記載きさいは、1974ねん家永いえなが三郎さぶろうちょしん日本にっぽん』(三省堂さんせいどう)の脚注きゃくちゅうに「沖縄おきなわけん地上ちじょうせん戦場せんじょうとなり、10まんをこえる多数たすう県民けんみん老若男女ろうにゃくなんにょ戦火せんかのなかで非業ひごういやられた」とかれたのが最初さいしょである。1982ねん高校こうこう教科書きょうかしょ日本にっぽん』(実教出版じつきょうしゅっぱん)の脚注きゃくちゅうにおいて、江口えぐち圭一けいいち日本にっぽんぐんによる住民じゅうみん殺害さつがいいたところ、検定けんてい意見いけんがついて除去じょきょされたが、これに沖縄おきなわけんもう反発はんぱつしたためつぎ検定けんていより「住民じゅうみん殺害さつがい」という記述きじゅつ教科書きょうかしょるようになった。しかし、1983ねん家永いえなが三郎さぶろう教科書きょうかしょしん日本にっぽん』で日本にっぽんぐん住民じゅうみん殺害さつがい記述きじゅつしたところ、当時とうじ文部省もんぶしょうは「(自殺じさつである)集団しゅうだん自決じけつおおかったのだから、集団しゅうだん自決じけつをまずけ」との検定けんてい意見いけん修正しゅうせい意見いけん)をつけた。この検定けんてい意見いけん適法てきほうせいかんしてあらそわれた家永教科書裁判いえながきょうかしょさいばん判決はんけつにおいて、理由りゆうちゅう事実じじつ認定にんていではぐんによる住民じゅうみん投降とうこう阻止そしのための自決じけつ強要きょうよう殺害さつがいなど家永いえなが主張しゅちょう沿内容ないようふくまれていたが、結論けつろんとして「集団しゅうだん自決じけつ記述きじゅつせよとの検定けんてい意見いけん違法いほうとまではえない」とされた。この裁判さいばん結果けっか、「集団しゅうだん自決じけつ」の記述きじゅつ教科書きょうかしょ追加ついかされることになったが、その「集団しゅうだん自決じけつ」が日本にっぽんぐん強制きょうせいであったかかの論争ろんそう活発かっぱつとなっていった[4][5][6]

言葉ことばについて

[編集へんしゅう]

集団しゅうだん自決じけつ」という言葉ことば戦後せんご沖縄おきなわタイムス刊行かんこうした『てつ暴風ぼうふう』の執筆しっぴつしゃ一人ひとりである太田おおた良博よしひろが、沖縄おきなわせん当時とうじ使つかわれていた「玉砕ぎょくさい」という用語ようごをいいかえてつくした言葉ことばである。戦争せんそうちゅう実際じっさい使つかわれていたのは「玉砕ぎょくさい」「自決じけつ」「自爆じばく」などであった。沖縄おきなわでは『てつ暴風ぼうふう以後いご、この「集団しゅうだん自決じけつ」という言葉ことばしゅとして使つかわれてきたが、あくまでそれはぐん命令めいれいによってこされたものとしてとらえられてきた。自決じけつとは本来ほんらい軍人ぐんじん敗北はいぼく責任せきにんをとっておこなうものであり、民間みんかんじんおこなうことをすものではないとし、援護えんごほう援護えんご対象たいしょうとなる戦闘せんとう参加さんかしゃという区分くぶんちゅう集団しゅうだん自決じけつげられている[7]にしても、それはあくまでも特別とくべつまれた法律ほうりつ用語ようごであって日本語にほんご本来ほんらい意味いみにおいて沖縄おきなわせんでは「集団しゅうだん自決じけつ」はなかったとする主張しゅちょうもある[8]。その一方いっぽうで「集団しゅうだん自決じけつ」とは、「住民じゅうみん犠牲ぎせいてき精神せいしん発揮はっき自発じはつてき皇国こうこくじゅんじた」ことをあらわ言葉ことばとらえているもの存在そんざいする[注釈ちゅうしゃく 1]

沖縄国際大学おきなわこくさいだいがく教授きょうじゅ石原いしはらあきらは「“集団しゅうだん自決じけつ”という言葉ことばをたとえカギカッコきであっても使つかうべきではない。自決じけつというのはみずからの意思いしによってんだという意味いみ。したがって、軍人ぐんじんみずからの責任せきにんをとってぬことに使つかうことはできても、語句ごく本来ほんらい意味いみから、住民じゅうみんたいしては集団しゅうだん自決じけつという用語ようご使用しようできない。集団しゅうだんいのちった実態じったいは、日本にっぽんぐん作戦さくせんによる強制きょうせい誘導ゆうどう命令めいれいによるものだったので“強制きょうせい集団しゅうだん”“強制きょうせい”として本質ほんしつをとらえなおさなければ、真実しんじつあやまってしまう」と主張しゅちょうしている[9]

著名ちょめい事例じれい

[編集へんしゅう]

チビチリガマの集団しゅうだん自決じけつ

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわせんでもっともよくられている集団しゅうだん自決じけつ事件じけんとして、チビチリガマでの事件じけん[10]げられる。

3がつまつからはげしいばくげきがあり読谷よみたんむら住民じゅうみん近隣きんりんものおおくはいくつかの親類しんるいあつまってガマ(洞窟どうくつ)で寝起ねおきするようになり、チビチリガマには140にんちかくがいた。4月1にち読谷よみたんむら上陸じょうりくしたべいぐんはチビチリガマにせまった。ガマのくち米兵べいへいあらわれるとガマのなかにいた3にん後述こうじゅつ従軍じゅうぐん看護かんごであった25さい女性じょせいふくむ)が竹槍たけやりってそと米兵べいへいかってき、2人ふたり重傷じゅうしょうった(その死亡しぼう)。そとべいぐんでいっぱいであることがわかりガマのなかがパニックになると、南方なんぽうがえりの在郷ざいきょう軍人ぐんじん満期まんき除隊じょたいした高齢こうれい男性だんせい)がサイパンではこうしてんだといって、布団ふとんをつけて窒息ちっそくしようとした。だが4にんおんなした。4にん女性じょせいはいずれも子供こどもがいたという。ガマのなか騒然そうぜんとなった。4月2にち武器ぶきひとにつけていない米兵べいへいがガマのなかはいってきて、投降とうこうびかけ投降とうこう勧告かんこくビラをのこしていった。

米兵べいへいったのち在郷ざいきょう軍人ぐんじんが「たらいかんよ」「だれるな」といながらビラを人々ひとびとからげて回収かいしゅうすると、ガマのなかに「もうどうにもならない。わりだ。」と動揺どうようはし自決じけつはじまった。在郷ざいきょう軍人ぐんじんが「だから昨日きのうんでおけばよかった」とってふたたをつけたが、また4にんおんなした。従軍じゅうぐん看護かんごであった25さい女性じょせいが、中国ちゅうごく戦線せんせん中国人ちゅうごくじん住民じゅうみんがいかにむごくころされたかをかたり、のうとった。彼女かのじょ毒薬どくやくっており注射ちゅうしゃでそれを家族かぞく親戚しんせき15にんほどに注射ちゅうしゃして人々ひとびとんでいった。周囲しゅういひとは「あんなにらくねる」とってうらやましがった。ふたた布団ふとんがつけられ、ガマのなかはパニックになった。ガマでは84にんんだがその半数はんすうは12さい以下いかどもである。

すうじゅうにんはガマをべいぐん投降とうこうした。ガマをたとたん米兵べいへいだい歓迎かんげいけたとかんじるもの[11] ころされるのではないかとおもっていたもの[12] いた。なお、おな読谷よみたんむらないでもチビチリガマがら600mはなれたシムクガマに避難ひなんしたやく1000にん英語えいごはなせる男性だんせい誘導ゆうどう1人ひとりぬことなく投降とうこうした。こうした経緯けいいは1983ねんころ作家さっか下嶋しもじま哲朗てつろう全容ぜんよう発掘はっくつするまでまったくあきらかにされなかった[13]。それは率先そっせんしてのうとったものも、その結果けっかにたくないのにんだものも、またそのうらみをものそれぞれがおな集落しゅうらくない隣人りんじん近親きんしんしゃであり、この「集団しゅうだん自決じけつ」のまわしい記憶きおくますことつよ抵抗ていこうがあったからである。読谷よみたんむら集団しゅうだん自決じけつについては読谷よみたんむらがWEBじょう公開こうかいされている[14][15]

事件じけん背景はいけい

[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそうでは、日本にっぽんがわ軍人ぐんじんをはじめ、戦闘せんとうまれた民間みんかんじんなどのあいだで、沖縄おきなわせんをはじめとしてサイパンのたたか樺太からふとたたか満州まんしゅうたたかおおくの集団しゅうだん自決じけつ発生はっせいしている。

沖縄おきなわにおいても戦陣せんじんくんの「きて虜囚りょしゅうはずかしめけず」という一節いっせつ[注釈ちゅうしゃく 2]長年ながねんにわたるすめらぎみん教育きょういく影響えいきょうほかに、日本にっぽん本土ほんどにおいても鬼畜きちくべいえい宣伝せんでん結果けっかとして、「まいぐん上陸じょうりくしてきたらおとこころされ、おんな強姦ごうかんされる」といったうわさばなし流布るふしたりもしていた[16]が、沖縄おきなわではさらに、住民じゅうみんらがしばしば日本にっぽんぐん兵士へいしらによって「捕虜ほりょになればおとこ戦車せんしゃでひきころされ、おんな暴行ぼうこうされころされる」といったことをいいきかせられ、べいぐん降伏ごうぶくしてもいのちたすからず、陵虐りょうぎゃくてにころされるだけだとかんがえたこと[17]ひとしにより、自決じけつまれたという。べいぐん上陸じょうりくまえ民間みんかんじんをも無差別むさべつ殺傷さっしょうするべいぐんによるじゅうじゅう空襲くうしゅう差別さべつばくげき)や「てつあらし」とばれた砲撃ほうげき体験たいけん、あるいは、むしろ日本にっぽんぐんみずからがこしたものが主体しゅたいとなるが、中国ちゅうごく戦線せんせんなどでの従軍じゅうぐん経験けいけん軍人ぐんじん従軍じゅうぐん看護かんご地元じもともと出征しゅっせい兵士へいし在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい会員かいいんなど)による、戦場せんじょうでの残虐ざんぎゃく行為こういかんするかれらの体験たいけんだんが、とらえられれば大変たいへんなことになるということをしんじさせていったとも[18]

べいぐん上陸じょうりくまえまで日本にっぽんぐんべいぐん敗北はいぼくするという認識にんしきをすべての県民けんみんがもっていたとはいえないが、海上かいじょうくしたべい艦船かんせん目撃もくげきしたおおくの県民けんみんなかには、べいぐんへの投降とうこうのみが生存せいぞんへの唯一ゆいいつみち当時とうじかんがえていたと体験たいけんだんかたったものおおい。当時とうじ国際こくさいほうじょう捕虜ほりょになるのは軍人ぐんじんだけで民間みんかんじん保護ほごされることになっていたが、住民じゅうみん捕虜ほりょになるのは恥辱ちじょくであるとされていた[19]

軍部ぐんぶ台頭たいとうによる国粋こくすい主義しゅぎ大和やまと民族みんぞく民族みんぞく優越ゆうえつ主義しゅぎ)の暴走ぼうそうとそれにともな教育きょういく強化きょうか神国しんこく教育きょういく軍事ぐんじ教練きょうれんなどの精神せいしん教育きょういく)がおおきな原因げんいんであるという意見いけん存在そんざいする[だれによって?]

集団しゅうだん自決じけつについては、議論ぎろんがあるが、沖縄おきなわせん参加さんかしたひめゆり学徒隊がくとたいのこりの本村もとむらつる証言しょうげんでも戦闘せんとうがはじまるすこまえまでは「戦闘せんとうがおわれば、またうちにもどれる、ちょっとした遠足えんそく気分きぶんにしかかんがえていなかった」と当時とうじのことを回想かいそうべており、上陸じょうりくまえべい艦船かんせん海面かいめんえなくなったのをひと軍民ぐんみんともにおおく、そのときになってはじめてべいぐんによる全域ぜんいき占領せんりょうはじめてさとったと体験たいけんだんおおい。実際じっさい戦場せんじょうめられた軍人ぐんじん住民じゅうみんおおくは、占領せんりょうされたときのことをあらかじめ想定そうていする時間じかんがなかったため、せいかの2しか基本きほんてき発想はっそうできなかったほどであった[よう出典しゅってん]

なお、ぐん強制きょうせい軍命ぐんめいれい)について議論ぎろんがあるのは前述ぜんじゅつのとおりであるが、詳細しょうさい#集団しゅうだん自決じけつぐん強制きょうせい参照さんしょう

集団しゅうだん自決じけつぐん強制きょうせい

[編集へんしゅう]

沖縄おきなわせん集団しゅうだん自決じけつには、それがぐん強制きょうせいであったかどうかで論争ろんそう存在そんざいする。 戦後せんご琉球りゅうきゅう政府せいふ事務じむじょう都合つごう軍命ぐんめいれいはあったとされたれいいち将校しょうこう精神せいしん演説えんぜつをそのまま軍命ぐんめいれいとして認識にんしきとらえたれい手榴弾しゅりゅうだんわたされたことが軍命ぐんめいれいがあったとされたれい軍機ぐんき違反いはんのため民間みんかんじんごうされたという経験けいけんがそのままぐん強制きょうせいがあったと解釈かいしゃくされるれい、なんらかの理由りゆう戦闘せんとう軍人ぐんじん自決じけつまれたことがぐん強制きょうせいがあったとするれいなど、地域ちいき状況じょうきょう個人こじんとらかたなどひとによって定義ていぎ様々さまざまである。軍隊ぐんたいとしての組織そしきてき命令めいれいく、むしろ軍隊ぐんたい自決じけつ阻止そししようとしたとするせつもある。以下いか両論りょうろんせる。

教科きょうかよう図書としょ検定けんてい調査ちょうさ審議しんぎかいだい部会ぶかい日本にっぽんしょう委員いいんかい平成へいせい19ねんに、手榴弾しゅりゅうだん配布はいふなどをつうじて沖縄おきなわにおける集団しゅうだん自決じけつへのぐん関与かんよおおきかったとかんがえられるとしながらも、その種類しゅるい影響えいきょうりょくもあった可能かのうせいもあるとして、教科書きょうかしょでは単純たんじゅんされた記述きじゅつけるべきだとした[20]

ぐん強制きょうせいによるものとする立場たちば

[編集へんしゅう]

研究けんきゅう経緯けいい

[編集へんしゅう]

集団しゅうだん自決じけつがその実態じったいとしては日本にっぽんぐん強制きょうせいであるという研究けんきゅうしゃ見解けんかいは、1984ねん家永教科書裁判いえながきょうかしょさいばんだい3訴訟そしょう研究けんきゅうしゃによりしめされ、そのなりしょとして出版しゅっぱんされている[21][22]。また、以後いご教科書きょうかしょ検定けんてい撤回てっかい運動うんどうさいなどに、新聞しんぶん記事きじにもげられるようになった[23]沖縄国際大学おきなわこくさいだいがく講師こうし大城おおしろすすむは「これ以後いご集団しゅうだん自決じけつ日本にっぽんぐん強制きょうせいであることは、研究けんきゅうしゃあいだでも定説ていせつとなりおおくの教科書きょうかしょにもそのようにかれてきた」と主張しゅちょうしている[24]

現在げんざいまでの沖縄おきなわせんかんする歴史れきししょおおくは、集団しゅうだん自決じけつ日本にっぽんぐんいられたものと主張しゅちょうしている[25]。もっとも、ぐん強制きょうせいとする立場たちば大城おおしろすすむは、1983ねん段階だんかいでは「事実じじつ関係かんけいについてはいまのところ曽野そのせつをくつがえすだけの反証はんしょうていない」と否定ひていせつ調査ちょうさについて評価ひょうかしていたとされる[26]。また、「『隊長たいちょう命令めいれいせつ』はなかったというのが真相しんそうのようだ」とべたむね報道ほうどうされた(1986ねん6がつ6にちづけ神戸こうべ新聞しんぶん)が、大城おおしろ自著じちょ捏造ねつぞう記事きじであるとべている(詳細しょうさい後述こうじゅつ)。

なお、家永教科書裁判いえながきょうかしょさいばんでは沖縄おきなわせんかんする部分ぶぶん検定けんてい合憲ごうけんとされたが、沖縄おきなわせんにおける集団しゅうだん自決じけつについては裁判所さいばんしょ判決はんけつぶんなかで、「(当時とうじの)学会がっかい状況じょうきょうにもとづいて判断はんだんすると、本件ほんけん検定けんてい当時とうじにおける沖縄おきなわせんかんする学会がっかい状況じょうきょうは(中略ちゅうりゃく日本にっぽんぐん命令めいれいによりあるいはいつめられた戦況せんきょうなか集団しゅうだん自決じけついやられたものがそれぞれ多数たすうにのぼることはおおむ異論いろんのないところ」とした。

主張しゅちょうされる強制きょうせい事実じじつ

[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐんは、民間みんかんじん適用てきようすべきではない戦陣せんじんくん防諜ぼうちょう[27]理由りゆうとしてべいぐんへの投降とうこうをしないよう命令めいれいしていた。投降とうこうてき情報じょうほう提供ていきょう日本にっぽんぐん不利ふりにする行為こういとして、治安ちあん維持いじほうの「国体こくたい変革へんかく目的もくてきとするもの」とされたれいもあり、投降とうこうしゃへの狙撃そげき[28]おこなわれた。もと大本営だいほんえい参謀さんぼう厚生省こうせいしょう引揚援護えんごきょく厚生こうせい事務じむかん馬淵まぶち新治しんじは、沖縄おきなわせんでのぐんによる強制きょうせいによって、なんらかのかたち住民じゅうみん死亡しぼうする事例じれい多数たすうきていたことを証言しょうげんした[29]将兵しょうへい一部いちぶ住民じゅうみん避難ひなんしていたガマり、『ぐん作戦さくせん遂行すいこうじょう至上しじょう命令めいれいである、退かないものは非国民ひこくみんつうてきしゃとして厳罰げんばつしょする』などとい、住民じゅうみん威嚇いかくしてごうからの退きをめいじて自己じこ安全あんぜんはか民間みんかんじんべいぐん砲撃ほうげき爆撃ばくげきにさらしんだれい貧弱ひんじゃくきわまりない個人こじん食糧しょくりょうを『徴発ちょうはつ』としょうして略奪りゃくだつしたれい住民じゅうみんごう保身ほしんから進入しんにゅうした兵士へいし一団いちだん無心むしんさけ乳児にゅうじおやたいして『此のまま放置ほうちすればべいぐん発見はっけんされる』と殺害さつがい強要きょうようしたれいなどがある[30]

このように住民じゅうみんべいぐん支配しはいはいることをみとめなかったことから、集団しゅうだん自決じけつは、日本にっぽんぐん強制きょうせいりはなしてかんがえることはできないと主張しゅちょうする[19]戦陣せんじんくんなかの「きて虜囚りょしゅうはずかしめけず」という一節いっせつや、当時とうじ日本にっぽん政府せいふ軍人ぐんじん国民こくみんたいして、鬼畜きちくべいえい恐怖きょうふしんえつけ[31] [32] [33]投降とうこう方法ほうほうなどをおしえなかったことなどが、おおくの軍人ぐんじん民間みんかんじん影響えいきょうおよぼし、自殺じさつへとつながったとする意見いけんがある。

当時とうじ沖縄おきなわでは、こそぎ動員どういんにより15さい未満みまん子供こどもから65さい以上いじょう高齢こうれいしゃまで徴兵ちょうへいされ、日本にっぽんぐん指揮しきにあった[34]行政ぎょうせい組織そしきうえぐん指揮しき命令めいれいするかたち住民じゅうみん完全かんぜん統制とうせいし、天皇てんのうのためにぬことはとうといというかんがかたともに、捕虜ほりょとなることが確実かくじつならば住民じゅうみんぬべきであるという命令めいれい訓示くんじがあらかじめおこなわれている。また実際じっさいぐん管理かんり手榴弾しゅりゅうだん住民じゅうみん従軍じゅうぐん看護かんごくばることがおこなわれたれいもある[35]。こうした状況じょうきょうからあんひとし政昭まさあきぐんによる直接ちょくせつ命令めいれいがなくてもぐんによりまれたものであり強制きょうせいされたものだとしている[21]はやし博史ひろふみ同様どうよう状況じょうきょうの2つのごうにおいて、日本にっぽんぐん同居どうきょしたごうでは「集団しゅうだん自決じけつ」がおこり、日本にっぽんぐん存在そんざいしないごうでは「集団しゅうだん自決じけつ」がおきなかったれい具体ぐたいてき指摘してきし、おおくのれい検討けんとうしたうえ直接ちょくせつ命令めいれいがなくてもぐんによる強制きょうせいかんがえるべきとしている[36]

強制きょうせい証拠しょうこ

[編集へんしゅう]

けいりょうあいだ諸島しょとう場合ばあいについては、当時とうじ兵事へいじ主任しゅにん(あるいは助役じょやく)やその親族しんぞくが、「集団しゅうだん自決じけつ」の命令めいれい直接ちょくせつ日本にっぽんぐんからきたと証言しょうげんしている。具体ぐたいてきには、渡嘉敷島とかしきじまでは兵事へいじ主任しゅにん富山とみやましんじゅん戦後せんご死去しきょ)が、戦後せんごぐんから命令めいれいされた」と証言しょうげんしており、集団しゅうだん自決じけつ生存せいぞんしゃである金城きんじょう重明しげあき現場げんば軍命ぐんめいれい村長そんちょうたことをつたえている人物じんぶつがいたことを証言しょうげんしている[37][38]けい間島あえじまでは、宮里みやさともりひさし宮平みやだいら春子はるこおよ宮村みやむらトキの3にん(それぞれ兵事へいじ主任しゅにん宮里みやさともりしげる父親ちちおやいもうとたち)が、宮里みやさともりしげるより「ぐんから命令めいれいている」といたむね手記しゅきいたり、証言しょうげんしている[39]

また、渡嘉敷島とかしきじま場合ばあいについて、赤松あかまつ投降とうこうのためやまからあらわれたときに地元じもと女子じょし青年せいねん団長だんちょうである古波蔵こはぐら蓉子ようこ同行どうこうしていたが、そのめいである人物じんぶつはは古波蔵こはぐら蓉子ようこいもうと)に蓉子ようこ集合しゅうごう場所ばしょくなとっているのを自決じけつ事件じけんまえいた[40]とされる。これを、文芸ぶんげい評論ひょうろん山崎やまざきこう太郎たろうすくなくとも赤松あかまつがこれからこることがかっていたあかしかんがえている[41]。とくに渡嘉敷とかしきにおいては、集団しゅうだん自決じけつ以前いぜんに、つうてきしたとの名目めいもく部隊ぶたいちょうである赤松あかまつ指示しじによる渡嘉敷とかしき周辺しゅうへんしま住民じゅうみん処刑しょけい相次あいついでおり[42][43][44]赤松あかまつ部隊ぶたいから自決じけつ指示しじされたとき、拒否きょひしても、今度こんど名誉めいよさえよごされて処刑しょけいされるだけという意識いしき住民じゅうみんあいだ醸成じょうせいされていったふしがある。

ぐん強制きょうせい否定ひてい疑問ぎもんする立場たちば

[編集へんしゅう]

集団しゅうだん自決じけつ強制きょうせい否定ひていする意見いけん

[編集へんしゅう]

集団しゅうだん自決じけつは「ぐん命令めいれいだった」とする意見いけんや、「強制きょうせいがあった」や「関与かんよがあった」とする主張しゅちょうたいし、軍命ぐんめいしたとされる当人とうにんほか否定ひてい疑問ぎもんする意見いけん住民じゅうみん研究けんきゅうしゃ、ジャーナリストもいる。

渡嘉敷島とかしきじま陸軍りくぐん海上かいじょう挺進ていしん戦隊せんたいだいさん戦隊せんたいだいさん中隊ちゅうたいちょう皆本みなもと義博よしひろ中尉ちゅうい陸士りくし57)によれば、「戦後せんご沖縄おきなわ集団しゅうだん自決じけつぐん命令めいれいによるものだというせつましたが、そんなことはありえません。むしろ渡嘉敷とかしき方々かたがたは、いのちをかけて父祖ふそ土地とちまもろうと会津あいづ白虎隊びゃっこたいのような精神せいしんじゅんぜられたのではないかとかんがえます。そのような気質きしつほうばかりでした。また、そもそもぐんには村民そんみん命令めいれいくだ権限けんげんはなく、集団しゅうだん自決じけつめいじたなどという証拠しょうこなにもない。ぐん手榴弾しゅりゅうだんわたしたということもありません。当時とうじむらでは臨時りんじ防衛ぼうえいたい組織そしきされていて、これは在郷ざいきょう軍人ぐんじんちょうとして協力きょうりょくしゃあつめたものでした。いわば義勇ぎゆうへいです。かれらは手榴弾しゅりゅうだんなどをっていました。それが、村民そんみんわたるのは容易よういだったのです。」と回想かいそうしている。ただし、当時とうじ沖縄おきなわ防衛ぼうえいたい在郷ざいきょう軍人ぐんじんによる義勇ぎゆうへいではなく、ほとんどが1942ねん防衛ぼうえい招集しょうしゅう規則きそくもとづく防衛ぼうえい招集しょうしゅうへいで、法的ほうてきには正規せいきへいにあたるとされる[45]。また、渡嘉敷島とかしきじまでは島民とうみんがしばしばぐん作業さぎょう協力きょうりょく動員どういんされたほかむら兵事へいじつうじて自決じけつ先立さきだって島民とうみん集合しゅうごう命令めいれいされているひとし、この説明せつめいはいろいろなてん疑問ぎもんがある。

2009ねん5月1にち発売はつばいうらそえ文藝ぶんげいだい14ごうで、沖縄おきなわけん文化ぶんか協会きょうかいちょうほし雅彦まさひこ沖縄おきなわタイムス琉球新報りゅうきゅうしんぽううえ寄稿きこう記事きじ執筆しっぴつしていた上原うえはらただしみのるけいりょうあいだ諸島しょとう赤松あかまつよしみ隊長たいちょう梅澤うめざわひろし隊長たいちょう軍命ぐんめいした事実じじつ一切いっさいなく、沖縄おきなわ県内けんないのマスコミによってスケープゴートとされているという内容ないよう論文ろんぶん発表はっぴょうした[46][47]。2009ねん6月9にちには沖縄おきなわ県庁けんちょうほし雅彦まさひこ上原うえはらただしみのり記者きしゃ会見かいけんひらき、「あたかも2人ふたり悪者わるもの仕立したてた沖縄おきなわタイムスと琉球新報りゅうきゅうしんぽう責任せきにん非常ひじょうおもい」「真実しんじつあきらかになったいま沖縄おきなわ県民けんみん2人ふたり隊長たいちょう謝罪しゃざいし、人間にんげん尊厳そんげんもどすべきだ」「(「てつ暴風ぼうふう」は)現地げんち調査ちょうさしないまま軍命ぐんめいによる集団しゅうだん自決じけつをでっちげたという結論けつろんたっした」とうったえた[46][47][48][49]

命令めいれいしゃとされてきた赤松あかまつもと大尉たいいおとうと梅澤うめざわもと少佐しょうさは、後述こうじゅつのような証言しょうげん著書ちょしょとう証拠しょうことして[50][51]命令めいれいをしたと断言だんげんしてきた大江おおえ健三郎けんざぶろうの『沖縄おきなわノート』[52]家永いえなが三郎さぶろうの『太平洋戦争たいへいようせんそう』にかんし、名誉めいよ毀損きそんによる損害そんがい賠償ばいしょう出版しゅっぱんめ、謝罪しゃざい広告こうこく掲載けいさいをもとめ、大江おおえ健三郎けんざぶろう岩波書店いわなみしょてんうったえるにいたった(集団しゅうだん自決じけつ訴訟そしょう)が、請求せいきゅう退しりぞけられた。

日本にっぽん会議かいぎは、「日本にっぽんぐん強制きょうせいせいつよめる修正しゅうせいおこなうことは教科書きょうかしょへの国民こくみん信頼しんらいきずつける」として記述きじゅつさい訂正ていせい反対はんたいする決議けつぎ採択さいたくした[53]。また、議員ぎいん連盟れんめい日本にっぽん前途ぜんと歴史れきし教育きょういくかんがえる議員ぎいんかい」も否定ひていてき見解けんかいしめしている。

証拠しょうこ不十分ふじゅうぶんとの研究けんきゅう

[編集へんしゅう]

渡嘉敷島とかしきじまにおける「集団しゅうだん自決じけつ」について、赤松あかまつよしみ隊長たいちょうによる命令めいれいによるものという沖縄おきなわわれてきた。これについて、評論ひょうろん石田いしだ郁夫いくおが1967ねん渡嘉敷島とかしきじま訪問ほうもんかれ自身じしん赤松あかまつ最大さいだい責任せきにんしゃかんがえるものの、渡嘉敷島とかしきじまでもたとえば集団しゅうだん自決じけつ犠牲ぎせいしゃおおかった阿波連あはれん部落ぶらくすくなかった渡嘉敷とかしき部落ぶらくでは、当時とうじしま守備しゅびたいへの意見いけん温度おんどがあること、集団しゅうだん自決じけつぜん段階だんかいとなった集合しゅうごう命令めいれい村役場むらやくば担当たんとうしゃつた島民とうみんあつめさせたのは当時とうじとう派遣はけんされていた駐在ちゅうざい巡査じゅんさであるが、その巡査じゅんさべいぐんたたかいさえしなかった赤松あかまつ隊長たいちょう名将めいしょうとし、その言葉ことばそのままに島民とうみんにも赤松あかまつ名将めいしょうとするものすら1人ひとりいたこと(のちに、その人物じんぶつ巡査じゅんさ下宿げしゅくしていたいえ人物じんぶつであることがかされている[54]。また、その人物じんぶつ巡査じゅんさはいずれも、赤松あかまつらがべいぐんとの戦闘せんとうけたために、戦乱せんらんまれて危険きけんけることが出来でき立場たちば人物じんぶつである)、とうもと駐在ちゅうざい巡査じゅんさすでしまって沖縄おきなわ本島ほんとうにいることとうをルポした[55]以後いご赤松あかまつもと隊長たいちょうはマスコミに登場とうじょうはじめ、集団しゅうだん自決じけつ命令めいれいしたことはいと主張しゅちょうするようになった[56]週刊しゅうかん新潮しんちょうは、これを防衛庁ぼうえいちょう戦史せんしかれ名誉めいよ回復かいふくしたからとも(戦史せんしかれ同情どうじょうてきかれたのは、もと赤松あかまつ部隊ぶたいいん防衛庁ぼうえいちょうにいて、そのはたらきかけがあったともわれている)、名将めいしょうせつあらわれたことに本人ほんにんくしたからとも渡嘉敷島とかしきじまではわれていることを紹介しょうかいしている。これにかんし、赤松あかまつらと自決じけつ命令めいれいがあったとする渡嘉敷島とかしきじま住民じゅうみんあいだでは意見いけん対立たいりつつづいていた[57][58]。1970ねん渡嘉敷とかしき村長そんちょう慰霊いれいさい計画けいかく赤松あかまつをはじめ当時とうじ部隊ぶたい関係かんけいしゃしま訪問ほうもんすることとなった。沖縄おきなわ本島ほんとう到着とうちゃくしたところで、赤松あかまつらはそれまでの自決じけつ命令めいれい否定ひていろんもあってはげしい抗議こうぎ反対はんたい運動うんどう直面ちょくめん、このことも地元じもとマスコミに報道ほうどうされた。一般いっぱんもと兵士へいしらをべつとして、赤松あかまつもと幹部かんぶらは直接ちょくせつ訪問ほうもん断念だんねんした。(のち曽野その綾子あやこくところによれば、沖合おきあいから手旗てばた信号しんごう上陸じょうりくもと兵士へいしらにメッセージをおくったともされる。)

それ以前いぜん沖縄おきなわのひめゆり部隊ぶたいについて取材しゅざいしていた曽野そのは、これらのはなし大江おおえ健三郎けんざぶろう著書ちょしょ沖縄おきなわノート』の内容ないようとうって興味きょうみち、渡嘉敷島とかしきじま訪問ほうもん取材しゅざいした。その結果けっか隊長たいちょう集団しゅうだん自決じけつ命令めいれいせつ根拠こんきょ曖昧あいまいうたがわしいことを、現地げんち取材しゅざい赤松あかまつもと隊長たいちょうもと隊員たいいんらへの取材しゅざい、(意見いけん対立たいりつはげしくなった此のころもと赤松あかまつ部隊ぶたいいんらがまとめなおしたものであるが)部隊ぶたい陣中じんちゅう日誌にっしとおしてあきらかにしたとする[59]曽野そのは「かみちがって人間にんげんは、だれ完全かんぜん真相しんそうることはできない」とし、「わたしは、直接ちょくせつ体験たいけんから『赤松あかまつが、自決じけつ命令めいれいした』と証言しょうげんし、証明しょうめいできた当事とうじしゃ一人ひとり出会であわなかった」とうよりはないとした。

曽野その著書ちょしょについてなかほど昌徳まさのり琉球大学りゅうきゅうだいがく法文学部ほうぶんがくぶ教授きょうじゅは「この著書ちょしょ公平こうへい視点してんでルポルタージュされた「本土ほんど作家さっか沖縄おきなわ戦記せんき」である。曽野その調査ちょうさすすんでいくにしたがって集団しゅうだん自決じけつうたがわしくなっていくばかりではなく、ほとんど完膚かんぷなきまでにつきくずされて、「命令めいれいせつ」はよりどころをうしなってしまう。これまで集団しゅうだん自決じけつのあらゆる著書ちょしょ引用いんようされた『てつ暴風ぼうふう』の集団しゅうだん自決じけつ記載きさいした箇所かしょは、重大じゅうだい改定かいていをせまられた。」と評価ひょうかした[60]。ただし、後述こうじゅつ大江おおえたいする名誉めいよ棄損きそん訴訟そしょうでは、曽野その取材しゅざいたいし「取材しゅざい対象たいしょうかたよりがなかったか疑問ぎもんしょうじる」との判決はんけつている。(法廷ほうてい闘争とうそうらん参照さんしょう)また、このなかほど主張しゅちょうは、たとえば太田おおた良博よしひろの、曽野その自決じけつ命令めいれいがあったことを自身じしん手記しゅきいている金城きんじょう重明しげあき取材しゅざいしていない、赤松あかまつ主張しゅちょう不自然ふしぜんてん多々たたありながらそれらを問題もんだいにしていない、朝鮮ちょうせんじん徴用ちょうようこうあつかいについて曽野そのがこれをけば大変たいへんなことになるとうのを太田おおたいた(つまり、それが実際じっさいかれていない以上いじょう曽野その不都合ふつごうなことはせているとおもわれる)といった指摘してき[61]と、かなりことなる。また、山崎やまざきこう太郎たろうは、曽野その著作ちょさくかんして、赤松あかまつもと部隊ぶたいいんがまとめなおした資料しりょう根拠こんきょにしていること、そのなか自決じけつかんする重要じゅうよう部分ぶぶん事実じじつことなる部分ぶぶんがあること指摘してきして、批判ひはんしている[41]

曽野その調査ちょうさについて、『沖縄おきなわけん』の解説かいせつぶん梅澤うめざわ命令めいれいせつ記述きじゅつした沖縄おきなわ史料しりょう編集へんしゅうしょ大城おおしろすすむ主任しゅにん専門せんもんいんは、「曽野その綾子あやこは、それまで流布るふしてきた従来じゅうらいせつをくつがえした。『てつ暴風ぼうふう』や『戦闘せんとう概要がいよう』などの記述きじゅつ誤記ごき矛盾むじゅんてんなどを丹念たんねん指摘してきし、赤松あかまつ隊長たいちょう以下いかもと隊員たいいんたちの証言しょうげんをつきわせて、自決じけつ命令めいれいはなかったこと、集団しゅうだん自決じけつ実態じったいがかなり誇大こだいされているてんなどを立証りっしょうした。事実じじつ関係かんけいについてはいまのところ曽野そのせつをくつがえすだけの反証はんしょうていない」とべた[26]ともされる。(ただし実際じっさいには、曽野その自身じしんは、自分じぶん集団しゅうだん自決じけつ命令めいれい絶対ぜったいになかったとはしていないとかたり、なにしん証拠しょうこてくれば容易よういにひっくりかえると著書ちょしょいている。)

1986ねんには神戸こうべ新聞しんぶんが「『沖縄おきなわけん訂正ていせいへ」「部隊ぶたいちょう命令めいれいなかった」との見出みだしをかかげ、大城おおしろが「紀要きよう」に梅澤うめざわもと隊長たいちょう手記しゅき掲載けいさいしたうえ、梅澤うめざわ命令めいれいせつ根拠こんきょとなった手記しゅき血塗ちぬられた座間味島ざまみじま」をいた宮城みやぎ初枝はつえ自身じしんが「真相しんそう梅澤うめざわ手記しゅきのとおりであると言明げんめいしている」と記述きじゅつし、実質じっしつてきけん修正しゅうせいしたとほうじた。同時どうじ大城おおしろすすむ主任しゅにん専門せんもんいんの「宮城みやぎ初枝はつえさんからもなんはなしいているが、『隊長たいちょう命令めいれいせつ』はなかったというのが真相しんそうのようだ」というコメントを掲載けいさいした[62]

しかし、これにたいし、大城おおしろは1989ねんの『沖縄おきなわせん歪曲わいきょく真実しんじつ』のなかで、「わたしは『神戸こうべ新聞しんぶん』からインタビューをけたこともないし、掲載けいさいわたし史料しりょう編集へんしゅうしょおくられてきた形跡けいせきもまったくないし、最近さいきんまでこのような記事きじ存在そんざいさえらなかった。ねんのため複数ふくすう当時とうじ同僚どうりょうにもたしかめてみたがだれらないという返答へんとうだった。」と否定ひていし、また、沖縄おきなわ資料しりょう編集へんしゅうしょ紀要きよう梅澤うめざわ手記しゅきせたが、それについては手記しゅきせたことが『沖縄おきなわけん』を訂正ていせいしたことにはならない(つまり、梅澤うめざわ主張しゅちょうかれ個人こじん主張しゅちょうとして、真偽しんぎわず公平こうへい紹介しょうかいしてあげただけ)、と主張しゅちょうしている。

なお、曽野その著作ちょさくでは、赤松あかまつかかわった陸軍りくぐん特攻とっこうてい体当たいあたりを目的もくてきとした生還せいかん不可能ふかのう特攻とっこうていいているが、指揮しきかん指示しじでそういう運用うんようることもあるが、本来ほんらい肉薄にくはくして爆雷ばくらい投下とうかすることを目的もくてきとするもので、海軍かいぐん特攻とっこうていことなり、かならずしも特攻とっこうするための兵器へいきではない。赤松あかまつ部隊ぶたいらも投下とうか反転はんてん離脱りだつ訓練くんれんんでいたとの証言しょうげんもある。

強制きょうせい否定ひていする証拠しょうこ

[編集へんしゅう]

1985ねん7がつ30にちづけ神戸こうべ新聞しんぶんでは「絶望ぜつぼう島民とうみん悲劇ひげき決断けつだん」「日本にっぽんぐん命令めいれいはなかった。」というだい見出みだしのした軍命ぐんめいれいはなかったとする島民とうみん証言しょうげん掲載けいさいし、座間味島ざまみじま集団しゅうだん自決じけつは「べいぐん上陸じょうりく絶望ぜつぼうした島民とうみんたちが、められて集団しゅうだん自決じけつみちえらんだものとわかった」と報道ほうどうした。そこには宮城みやぎ初枝はつえが「梅澤うめざわ少佐しょうさ自決じけつもとめたが、「最後さいごまでのこってぐんとともにたたかおう」と武器ぶき提供ていきょうことわられた」という証言しょうげん掲載けいさいされている。

慶留間島げるまじま大城おおしろ昌子まさこによれば「前々まえまえから阿嘉島あかじま駐屯ちゅうとん野田のだ隊長たいちょう海上かいじょう挺進ていしんだいさんせん隊長たいちょう野田のだ義彦よしひこ少佐しょうさ)さんから、いざとなったときには玉砕ぎょくさいするよう命令めいれいがあったといていましたが、そのころ部落ぶらくみんにはそのようなことは関係かんけいありません。ただ、家族かぞくかお見合みあわせて、はやななければ、とあせりのいろせるだけで、かんがえることといえば、天皇陛下てんのうへいかこと手段しゅだんだけでした。命令めいれいなんてものは問題もんだいではなかったわけです」、「べいぐんにひきいられながら、みち々、にぶらさがってんでいるひとると非常ひじょうにうらやましく、英雄えいゆう以上いじょう神々こうごうしさをおぼえました。(自分じぶんがなさけなくて)しまいには、死人しにんにしっと(嫉妬しっと)すらかんじるようになり、るのもいやになってしまいました」と述懐じゅっかいしている[63]

また、2008ねんには座間味島ざまみじま梅沢うめざわ少佐しょうさのもとで防衛ぼうえい隊員たいいんであった宮平みやだいら秀幸ひでゆき梅澤うめざわ命令めいれいせつ否定ひていするしん証言しょうげんおこなった。宮平みやだいらによれば、1945ねん3がつ25にち10ごろ、野村のむら村長そんちょうむらさんやく宮里みやさともりしげる助役じょやく)、女子じょし青年せいねんだん宮城みやぎ初江はつえらが、梅沢うめざわ少佐しょうさのいる本部ほんぶごうたずねて「明日あしたはいよいよべいぐん上陸じょうりくする。鬼畜きちくべいえいししのようにあつかわれるより、日本にっぽんぐんによってんだほうがいい」「すでに住民じゅうみん自決じけつするため、忠魂碑ちゅうこんひまえあつまっている」と梅沢うめざわ少佐しょうさたのみ、自決じけつよう弾薬だんやく手榴弾しゅりゅうだん毒薬どくやくなどの提供ていきょうもとめたが、梅沢うめざわ少佐しょうさことわられた。そのため同日どうじつ午後ごご11ごろ、忠魂碑ちゅうこんひまえあつまったやく80にん住民じゅうみんたいし、野村のむら村長そんちょうは「梅沢うめざわ少佐しょうさ自決じけつよう弾薬だんやくるいをもらいにったが、もらえなかった。みなさん、自決じけつのためにあつまってもらったが、ここではねないので、解散かいさんする」とはなし、住民じゅうみんたちはそれぞれの家族かぞくごうかえしたという。これらのやりとりを宮平みやだいら秀幸ひでゆきは「すぐちかくでいていた」とし、またかれ梅沢うめざわ少佐しょうさもと部下ぶかから生前せいぜんおくられた手記しゅき保存ほぞんしており、そこにも、まったくおなじことがかれているとかたっている[64]

しかし、大江おおえ岩波いわなみ沖縄おきなわせん裁判さいばん大阪おおさか高裁こうさい(2008ねん10がつ31にち判決はんけつ)は、宮平みやだいら秀幸ひでゆきしん証言しょうげんは「みずからがべてきたことともあきらかに矛盾むじゅんし、不自然ふしぜん変遷へんせんがあり、内容ないようてきにもおおくの証拠しょうこ齟齬そごしている。」「あきらかに虚言きょげんであるとだんじざるをず、到底とうてい証拠しょうこ採用さいようできない。」とした。最高裁さいこうさい(2011ねん4がつ21にち判決はんけつ)も高裁こうさい判決はんけつ支持しじした。

援護えんごほう適用てきようのための偽証ぎしょうとの見方みかた

[編集へんしゅう]

渡嘉敷島とかしきじま座間味島ざまみじま事例じれいなどについて、ぐんによる強制きょうせいであるとの証言しょうげんおこなわれてきたのは、援護えんごほう適用てきようけるための偽証ぎしょうだったのではないかとの主張しゅちょうもある。ただし、これが当時とうじとう駐留ちゅうりゅうした部隊ぶたい関係かんけいしゃ以外いがいものからもつよ主張しゅちょうされはじめたのは、2000ねん宮城みやぎ晴美はるみあらわした「(ははのこしたもの)」のなかでそのははである宮城みやぎ初枝はつえ(座間味島ざまみじま)が自身じしんには梅沢うめざわ自決じけつ指示しじしたことはなかったことがかれ、それを梅澤うめざわひろし赤松あかまつよしみ遺族いぞくが2005ねんこした後述こうじゅつ名誉めいよ棄損きそん訴訟そしょう提訴ていそ理由りゆうなか[65]げてから以後いごのことである。下記かき議論ぎろんちゅう発言はつげん証言しょうげんは、2005ねん以前いぜん発言はつげん証言しょうげんとされるものについても、そのいくつかが実際じっさいかれるようになったのは、しばしばこの2005ねん裁判さいばん以降いこうのことであることに注意ちゅういする必要ひつようがある。(なお、渡嘉敷とかしきりあげた曽野その綾子あやこの「ある神話しんわ背景はいけい」(1973ねん)のなかにも、渡嘉敷島とかしきじま赤松あかまつ隊員たいいんであったもと兵士へいしから、すでにこの主張しゅちょう自己じこ正当せいとうのためになされていることがかれている[66]。その一方いっぽうで、渡嘉敷とかしき場合ばあいは、自決じけつ命令めいれいがあったからというよりも、そもそも島民とうみんがほぼなにかしらのぐん要請ようせい動員どういんされていたため、全員ぜんいんじゅん軍属ぐんぞくとして援護えんごほう適用てきよう対象たいしょうとなったものであることも、曽野その同書どうしょ指摘してきしている。しかし、同時どうじに、"役所やくしょというものは意地悪いじわるなものであるから、援護えんごほう適用てきよう対象たいしょうとなるにはぐん自決じけつ命令めいれいがあったと主張しゅちょうする必要ひつようがある"という意識いしき島民とうみんほうにはあったにちがいないと、曽野そのは、純然じゅんぜんたる民間みんかんじんしまがわ住民じゅうみんはなしかずにもと赤松あかまつたい兵士へいしはなしだけで事実じじつじょうめつけている[67]。)

宮城みやぎ晴美はるみ(座間味島ざまみじま)は「厚生省こうせいしょう職員しょくいん年金ねんきん受給じゅきゅうしゃ調査ちょうさするため座間味島ざまみじまおとずれたときに、証人しょうにんであるはは宮城みやぎ初枝はつえ)はしま長老ちょうろうされて命令めいれいがあったとってしいとたのまれ、調査ちょうさたいし、隊長たいちょう命令めいれいいていないが命令めいれいがあったことにした」(『ははのこしたもの』2000年版ねんばん)と自著じちょしるしていた。しかし大江おおえ岩波いわなみ沖縄おきなわせん裁判さいばんはじまると、玉砕ぎょくさい命令めいれいかんする部分ぶぶんについては、べいぐん上陸じょうりく前夜ぜんやのその時点じてん自分じぶんらの直接ちょくせつ出来事できごとべたのであり、梅澤うめざわらの提訴ていそ理由りゆうは「はは直接ちょくせついていない」とした箇所かしょ都合つごうよく利用りようされたもので、集団しゅうだん自決じけつ自体じたいぐん強制きょうせいであると新聞しんぶん主張しゅちょうした。(なお、長老ちょうろうからのはつえだへの依頼いらいは、梅澤うめざわ隊長たいちょうもと自決じけつはなしをしにいった5にん唯一ゆいいつのこりということで証言しょうげん依頼いらいたもので、島民とうみんがわもそのときそこで自決じけつ決定けっていされたとおもっていたためである。)

櫻井さくらいよしこは、週刊しゅうかん新潮しんちょう自身じしんのコラム『日本にっぽんルネッサンス』において、宮城みやぎ初枝はつえは、上記じょうき告白こくはく、「くに補償ほしょうきんがとまったら、弁償べんしょうしろ」などと村民そんみんとうから非難ひなんびることとなったが、彼女かのじょふたた発言はつげんえることはなく、すうにん住民じゅうみん真実しんじつかたはじめ、自決じけつ命令めいれい宮里みやさともりしげる助役じょやくくだした、といている[68]。(ただし、原文げんぶんかぎり、櫻井さくらい自身じしん実際じっさいなにたとかいたとかったことではなく、"きっとこのようなことこったのではないか"という、櫻井さくらい想像そうぞうべただけのものであるようにおもわれる。)一方いっぽう上記じょうきははのこしたもの』の著作ちょさくしゃであるむすめ宮城みやぎ晴美はるみは、集団しゅうだん自決じけつ命令めいれいについて座間味島ざまみじま民間みんかんじん全員ぜんいん直接ちょくせつげられていなかったとしてもぐんからはしま指導しどうしゃそうつたえられていた[69][65]とする。

神戸こうべ新聞しんぶん』は1987ねん4がつ18にち記事きじで、座間味島ざまみじま宮里みやさともり秀助ひですけやくおとうと宮村みやむら幸延こうえんが、「あに宮里みやさともりしげる当時とうじ助役じょやく兵事へいじがかり)はぐんから自決じけつ命令めいれいけていない、梅澤うめざわ命令めいれいせつ援護えんごほう適用てきようけるためにつくされたものであった」[70]みとめたとほうじた。ただし、これにかんし、宮村みやむら幸延こうえんは、梅澤うめざわから”軍命ぐんめいはなかった。住民じゅうみん自発じはつてき集団しゅうだん自決じけつした”という内容ないよう文書ぶんしょに「公表こうひょうしない。家内かないせるためだけのものだ」として押印おういんしてくれとたのまれ、いったんはことわったものの、その直接ちょくせつ面識めんしきはないがみやむら戦友せんゆうたるとしょうしてたずねてきた人物じんぶつらととも夜通よどお泡盛あわもりみ、翌朝よくあさっているなか再訪さいほうしてきた梅澤うめざわからたのまれ、つい文書ぶんしょ押印おういんしたものだと生前せいぜんかたっていたことが、後記こうき名誉めいよ棄損きそん訴訟そしょうなかみとめられている[71](当該とうがい訴訟そしょうこされたのは宮村みやむら幸延こうえんくなってからである)。また、宮平みやだいら春子はるこ宮里みやさと宮村みやむら兄弟きょうだいいもうと)は、さらに集団しゅうだん自決じけつ事件じけん当時とうじそもそも宮村みやむら幸延こうえん徴兵ちょうへい福岡ふくおかって座間味ざまみにはおらず、このような文書ぶんしょ内容ないよう証明しょうめい出来できはずもないとしたうえで、この発言はつげん内容ないようみとめている[72]

戦後せんご琉球りゅうきゅう政府せいふ軍人ぐんじん軍属ぐんぞく遺族いぞく援護えんご業務ぎょうむたずさわった照屋てるやのぼるゆうは、「遺族いぞくたちに援護えんごほう適用てきようするため、ぐんによる命令めいれいということにし、自分じぶんたちで書類しょるいつくった。当時とうじ軍命ぐんめいれいとする住民じゅうみん1人ひとりもいなかった」「戦後せんごしま村長そんちょうらが赤松あかまつよしみ次元じげん大尉たいい連絡れんらくし、命令めいれいしたことにしてほしいと依頼いらいし、赤松あかまつもと大尉たいいから同意どういて(本当ほんとう命令めいれいしていないが)命令めいれいがあったこととなった」とかたっている[73][74]。ただし実際じっさいには、赤松あかまつ自身じしんたん自決じけつ自分じぶん命令めいれいしたものではないとかたったことしかない[58][75]。(なお、座間味ざまみ梅澤うめざわほうは、宮城みやぎ初枝はつえから自決じけつ命令めいれいいていなかったとの告白こくはくけたときに、しまひとたすかるならば自分じぶん悪者わるものになるのはかまわない、自身じしん家族かぞく真実しんじつつたわれば十分じゅうぶんかたっている[76]むすめ宮城みやぎ晴美はるみは、このときはははつえだ雑誌ざっし投稿とうこうしたことがあったことまではかたっていなかったようで、それが梅澤うめざわ裏切うらぎられたようなおもいをあたえたのではないかとかいしている[76]。)また、照屋てるやのぼるゆうみずからを昭和しょうわ20年代ねんだい後半こうはんから琉球りゅうきゅう政府せいふ社会しゃかいきょく援護えんご勤務きんむしていたとべるが、かれ社会しゃかいきょく援護えんご勤務きんむはじめたのは琉球りゅうきゅう政府せいふ資料しりょうれば昭和しょうわ33ねん(あるいはせいぜい昭和しょうわ32ねん10がつから)とする主張しゅちょうもあり、沖縄おきなわ集団しゅうだん自決じけつそのものについて適用てきよう方針ほうしん自体じたいおそくとも昭和しょうわ32ねん7がつにはまっており、同年どうねん事前じぜんおこなわれた支給しきゅう対象たいしょうしゃ聞取ききと調査ちょうさには照屋てるや援護えんご職員しょくいんとしてあいだっていなかったはずで、照屋てるや主張しゅちょう信頼しんらいできないとするせつ[77]がある。

中村なかむらつばらは、当時とうじしまにいた守備しゅびたい兵士へいし対象たいしょうとした自身じしん調査ちょうさ結果けっかとして「命令めいれいがなかったことがあきらかであり、年金ねんきん支給しきゅうのために軍命ぐんめいれいがあったという証言しょうげん発生はっせいした」とする[78]

には、赤松あかまつ部隊ぶたい関係かんけいしゃが1970ねんにこのとき村長そんちょうらにまねかれて沖縄おきなわ訪問ほうもんしたさいはげしい抗議こうぎ運動うんどう沖縄おきなわ本島ほんとう直面ちょくめんし、記者きしゃ会見かいけんおこなったが、そこで赤松あかまつ部下ぶかであったれん政市まさいちもと小隊しょうたいちょうが「もし本当ほんとうのことをったら大変たいへんなことになる。真相しんそうはいろんなひと迷惑めいわくがかかるからえない」とかたったことを、援護えんごほう適用てきようむすびつけるきもある。ただし、かれらの沖縄おきなわ訪問ほうもん目的もくてきはあくまで英霊えいれい慰霊いれいのためと主張しゅちょう一貫いっかんしており、かれ自身じしん懺悔ざんげという言葉ことば使つかったこともなく、会見かいけん報道ほうどう印象いんしょうかぎりでは、迷惑めいわく云々うんぬん事件じけん当時とうじきゅうぐん関係かんけいしゃたいしてであり、あくまでも内輪うちわきの都合つごうかたった主張しゅちょうであるように見受みうけられる[79]

そもそも援護えんごほう適用てきようについては、沖縄おきなわ復帰ふっきにあたっての厚生省こうせいしょう事前じぜん調査ちょうさ悲惨ひさん沖縄おきなわせん状況じょうきょうから救済きゅうさい措置そち必要ひつよう痛感つうかんされ、そこで、住民じゅうみんがしばしばぐんのための作業さぎょう協力きょうりょく物資ぶっし確保かくほ動員どういんされ、ときには末端まったん兵士へいしにまで食事しょくじ提供ていきょう道案内みちあんない情報じょうほう提供ていきょうをしていたことに着目ちゃくもくし、これらの行為こういがあれば、純然じゅんぜんたる雇用こよう関係かんけいでなくとも、ぐんのもとにかれたなんらかの身分みぶん類似るいじ関係かんけいがあるとして、援護えんごほう適用てきよう対象たいしょうにすることが可能かのうではないかとしてかんがえられたものとされる。じゅん軍属ぐんぞくという身分みぶんもうけ、そのなか戦闘せんとう参加さんかしゃという類型るいけいて、さらにそのなか集団しゅうだん自決じけつをしたもの対象たいしょうとされた[80]なに対象たいしょうとするかについてはぐんへの積極せっきょくてき協力きょうりょくせん引の基準きじゅんとされたともわれるが、集団しゅうだん自決じけつかん文言もんごんじょう軍命ぐんめい有無うむ要件ようけんとされていない。

また、援護えんごほう性格せいかくじょう雇用こようとう身分みぶん類似るいじ関係かんけいもとづいて権利けんり発生はっせいするものであり、その身分みぶん戦傷せんしょうびょう戦没せんぼつしたときには本来ほんらい当然とうぜん適用てきよう対象たいしょうとなるはずのものである。むしろ、純粋じゅんすい法理ほうりろん問題もんだいとしては、ぐん強制きょうせいということを殊更ことさら強調きょうちょうすれば、積極せっきょくてき協力きょうりょくしゃではなくぐん不法ふほう行為こういによる被害ひがいしゃということになり、また別種べっしゅ法律ほうりつ適用てきよう問題もんだいではないかとの議論ぎろんになりかねない。このてんについて、石原いしはらあきらは、ぐん強制きょうせいによる集団しゅうだん自決じけつとなれば積極せっきょくてき協力きょうりょくしゃとされないのでむし援護えんごほう適用てきよう対象たいしょうから除外じょがいされるとしている[81]げんに、戦闘せんとう参加さんかしゃ類型るいけいちゅうごう提供ていきょうかんしては、兵士へいしらにごうからされた住民じゅうみんがその事実じじつのまま援護えんごほう適用てきよう申請しんせいすると、(提供ていきょうという言葉ことばたいする審査しんさ担当たんとうしゃたんなる言語げんご感覚かんかく問題もんだいであったのかもしれないが)自発じはつてきごう提供ていきょうぐん協力きょうりょくでないとして援護えんごほう適用てきよう却下きゃっかされることがあり、申請しんせい窓口まどぐち担当たんとうしゃに"厚意こういで"ごう提供ていきょうなおさせられるケースがしょうじているとされる[80]

これにたいして、石原いしはらしゅんは、集団しゅうだん自決じけつかんしては事実じじつうえぐん強制きょうせいがあったことを前提ぜんてい援護えんごきん支給しきゅうされていること、また、行政ぎょうせい担当たんとう部門ぶもんへの取材しゅざい結果けっかとして、軍命ぐんめいけた結果けっかとしてぐん自決じけつしゃあいだ命令めいれいけるような身分みぶん類似るいじ関係かんけい発生はっせいしたものとして行政ぎょうせい担当たんとうしゃからあつかわれているらしきこと、あくまでもその意味いみにおいて認定にんていぐん命令めいれい要求ようきゅうされているようであることを報告ほうこくしている[82]。(石原いしはらあきら積極せっきょくてき協力きょうりょくということを協力きょうりょくしち貢献こうけん程度ていど問題もんだいとしてかんがえたようであるが、審査しんさ担当たんとうかんとしては、たとえば自発じはつてき難民なんみん誘導ゆうどうのようにぐん要請ようせいまったくない場合ばあい適用てきよう不能ふのうだが、こそぎ動員どういんたんなる集合しゅうごう命令めいれいであっても軍命ぐんめいけておうじたという事実じじつがあれば協力きょうりょくしゃとしてじゅん軍属ぐんぞく身分みぶん発生はっせいし、集団しゅうだん自決じけつであれば私的してき自殺じさつでなく戦死せんし一種いっしゅとして認定にんてい十分じゅうぶんだったのではないかとかんがえられる。宮城みやぎ晴美はるみ自身じしん軍命ぐんめい必要ひつようだとおもっていたが、これはのちつくられたせつであり、けいりょうあいだ諸島しょとう場合ばあい当初とうしょ段階だんかいからすべ認定にんていする方針ほうしんであったことをったとしている[69]。もちろん、そうであっても、住民じゅうみんがわ自決じけつ命令めいれいまでぐんからている必要ひつようがあると誤解ごかいしていた可能かのうせいはある。)

家永いえなが三郎さぶろうは、『太平洋戦争たいへいようせんそう』のだいはん(1986ねん)では、赤松あかまつ命令めいれいせつかんする記述きじゅつ削除さくじょしている(ただし梅澤うめざわ命令めいれいせつ削除さくじょしていない)。

援護えんごほうとの関係かんけい問題もんだいとなった裁判さいばんにおける判断はんだん

[編集へんしゅう]

しかし、大江おおえ岩波いわなみ沖縄おきなわせん裁判さいばん大阪おおさか高裁こうさい(2008ねん10がつ31にち判決はんけつ)は、つぎのように判示はんじした。最高裁さいこうさい(2011ねん4がつ21にち判決はんけつ)も支持しじしている。

  • 宮城みやぎ晴美はるみ『(ははのこしたもの)』について。「『ははのこしたもの』から集団しゅうだん自決じけつについて援護えんごほう適用てきようのために梅澤うめざわ命令めいれいせつ捏造ねつぞうされたとは みとめることはできない。」
  • 宮村みやむら幸延こうえんの「証言しょうげん」とだいする親書しんしょについて。作成さくせい経緯けいい疑念ぎねんがあるうえ宮村みやむら幸延こうえんは、「集団しゅうだん自決じけつ発生はっせいしたさいには、座間味島ざまみじまにいなかったのであって、集団しゅうだん自決じけつもりしげる命令めいれいおこなわれたとか、梅澤うめざわ命令めいれい実際じっさいにはなかったなどとかたれる立場たちばになかったことはあきらか」 「当時とうじ事情じじょうらず、日本にっぽんぐんむら関係かんけい集団しゅうだん自決じけつ背景はいけいにはつうじていないのであり、自決じけつ命令めいれいについてかたれる立場たちばになかった」として、証拠しょうこ採用さいようしなかった。
  • 照屋てるやのぼるゆう証言しょうげんについて。「反対はんたい尋問じんもんていないこと」「あいまいなてんおおく、裏付うらづ調査ちょうさがされた形跡けいせきもないことなど問題もんだいきわめておおいものといわざるをない」よって「照屋てるやのぼるゆうはなしまった信用しんようできず」として、証拠しょうこ採用さいようしなかった。

以上いじょうのように原告げんこく提出ていしゅつ証拠しょうこ信用しんようせい否定ひていしたうえで、「むら当局とうきょくから、援護えんごほう適用てきようのため自決じけつ命令めいれいしたことにしてくれなどという依頼いらいがなされた形跡けいせきはなく、梅澤うめざわもそのよう依頼いらいけたことをじゅつぺていない。厚生省こうせいしょう現地げんち調査ちょうさをしているのであり、きゅう日本にっぽんぐんがわへの調査ちょうさなしに(援護えんごほう適用てきようが)なされたとはかんがえにくい」
梅澤うめざわ命令めいれいせつおよ赤松あかまつ命令めいれいせつは、沖縄おきなわにおいて援護えんごほう適用てきよう意識いしきされる以前いぜんから具体ぐたいてき内容ないようをともなって存在そんざいしていたことがみとめられる」。「日本にっぽんぐんがその作戦さくせん様々さまざまかたち住民じゅうみんきょうカさせ、ぐん行動こうどうともにさせるなどして集団しゅうだん自決じけつなどの悲惨ひさん結果けっかまねいていることは沖縄おきなわせん全体ぜんたい特徴とくちょう(であるとして厚生省こうせいしょうひろ適用てきようみとめる認定にんてい要綱ようこう作成さくせいしており、なかでもけいりょうあいだ諸島しょとうは)戦闘せんとうきょうカした住民じゅうみんひろじゅん軍属ぐんぞくとして処遇しょぐうすることになっていたのであるから、梅澤うめざわ命令めいれいせつおよ赤松あかまつ命令めいれいせつ後日ごじつになってあえてにぎみやつこする必要ひつようがあったとはにわかにかんががたい。」
よって「援護えんごほう適用てきようのために捏造ねつぞうされたものであるとする主張しゅちょう採用さいようできない」とした。

議論ぎろん曖昧あいまいへの批判ひはん

[編集へんしゅう]

はたいくは、証言しょうげんうらづけもつからない状況じょうきょうなかで「関与かんよ」というあいまいな言葉ことばにすりえてぐん強制きょうせいせいかた人間にんげんえており、これは慰安いあん問題もんだいおなじことがかえされていると批判ひはんしている[83]。また、日本にっぽんぐん手榴弾しゅりゅうだん自決じけつよう使つかわれたことして「ぐん関与かんよがあった」としている人間にんげんがいるが、兵器へいき不足ふそくであり、兵士へいし竹槍たけやりまでたせていた日本にっぽんぐんにとって、手榴弾しゅりゅうだん貴重きちょう武器ぶきだった。それを現地げんち召集しょうしゅう防衛ぼうえいたいいんたせていたものが、家族かぞく自決じけつ流用りゅうようされただけなのに「手榴弾しゅりゅうだん自決じけつ命令めいれい現実げんじつしたものだ」とかたるのは問題もんだいだとも批判ひはんしている[84]。ただし、沖縄おきなわでは兵士へいし竹槍たけやりといったことはなく、このはなし将来しょうらい想定そうていされていた本土ほんど決戦けっせんでの国民こくみん義勇ぎゆうたいないし国民こくみん義勇ぎゆう戦闘せんとうたいのこと(本土ほんどなのでかたちうえでは飛躍ひやくてき兵員へいいんすうえる)と混同こんどうがあるとられる。また、個々ここのケースでは、現地げんち指揮しきかんクラスによる示唆しさ誘導ゆうどうから指示しじ命令めいれい主張しゅちょうされるものまで、あるいは、現場げんば兵士へいしによる直接的ちょくせつてき強要きょうようによるものひとし様々さまざまなものがあるため、全体ぜんたいろんじるときは、言葉ことば問題もんだいとして、まず関与かんよとしてげざるをえないめんがある。

論争ろんそうかんする社会しゃかい問題もんだい

[編集へんしゅう]

法廷ほうてい闘争とうそう

[編集へんしゅう]

2005ねん8がつ座間味島ざまみじまもと戦隊せんたいちょうであった梅澤うめざわひろしと、渡嘉敷島とかしきじま戦隊せんたいちょうであった赤松あかまつよしみおとうとが、大江おおえ健三郎けんざぶろう岩波書店いわなみしょてん大阪おおさか地裁ちさい提訴ていそした。二人ふたり大江おおえ健三郎けんざぶろうちょ沖縄おきなわノート』の記述きじゅつが、けいりょうあいだ諸島しょとうにおける「集団しゅうだん自決じけつ」は隊長たいちょう命令めいれいによるものとすることで、もと戦隊せんたいちょう名誉めいよ毀損きそんし、遺族いぞく敬愛けいあい追慕ついぼねんをそこなうものであるとして、出版しゅっぱんめや謝罪しゃざい広告こうこく慰謝いしゃりょう請求せいきゅうした。原告げんこくがわ宮城みやぎ晴美はるみちょ(ははのこしたもの)』や曽野その綾子あやこちょ『ある神話しんわ背景はいけい』などをあげ、「集団しゅうだん自決じけつ」にたいするもと戦隊せんたいちょう命令めいれい否定ひていされているとした。

2007ねん11月9にち大阪おおさか地裁ちさいにて『沖縄おきなわノート』の著者ちょしゃである大江おおえ健三郎けんざぶろう本人ほんにん尋問じんもんおこなわれた。大江おおえは「現地げんち調査ちょうさはしなかったが参考さんこう資料しりょうみ、また『てつ暴風ぼうふう』の著者ちょしゃ沖縄おきなわ知識ちしきじんからはなしき、「集団しゅうだん自決じけつ」は日本にっぽんぐん命令めいれいによるものという結論けつろんいたった」とした。これについて原告げんこくである渡嘉敷とかしきとうもと戦隊せんたいちょう赤松あかまつよしみおとうと赤松あかまつ秀一ひでかずは「大江おおえさんは直接ちょくせつ取材しゅざいしたこともないのに、いい加減かげんなことをき、いきどおりをかんじた」と批判ひはんした。

2008ねん3がつ28にち大阪おおさか地裁ちさい判決はんけつにおいては、原告げんこく主張しゅちょう退しりぞけられ、被告ひこく大江おおえ岩波いわなみがわ勝訴しょうそとなった。焦点しょうてんとなった『ははのこしたもの』については、著者ちょしゃ宮城みやぎ晴美はるみ著書ちょしょで「はは直接ちょくせついていない」とべた箇所かしょ都合つごうよく利用りようされたものとして、被告ひこくがわった証言しょうげんおこなった。座間味島ざまみじま戦隊せんたいちょう命令めいれいについては、日本にっぽんへいによって住民じゅうみん手榴弾しゅりゅうだんわたされたなどの証言しょうげんが「梅澤うめざわ命令めいれいせつ肯定こうていする間接かんせつ事実じじつとなりる」とされた。『ある神話しんわ背景はいけい』については「命令めいれい伝達でんたつ経路けいろあきらかになっていないなど、命令めいれい明確めいかくみとめる証拠しょうこがないとしているてん赤松あかまつ命令めいれいせつ否定ひていする見解けんかい有力ゆうりょく根拠こんきょにはなる」としながらも「取材しゅざい対象たいしょうかたよりがなかったか疑問ぎもんしょうじる」「ぐん関与かんよ否定ひていするものともいえない」とされた。司法しほう歴史れきし研究けんきゅうくちはさむことは、思想しそう学問がくもん自由じゆうたいする迫害はくがいになりかねないので、裁判所さいばんしょによる軍命ぐんめい集団しゅうだん自決じけつかんする明確めいかく判断はんだんけられた。

原告げんこく判決はんけつ不服ふふくとして控訴こうそしたが、2008ねん10がつ31にち大阪おおさか高裁こうさい控訴こうそ棄却ききゃく[85]原告げんこくがわ最高裁判所さいこうさいばんしょ上告じょうこくしたが、最高裁さいこうさい大阪おおさか地裁ちさい判断はんだんおなじく、隊長たいちょう自決じけつ命令めいれいはっしたことをただちに真実しんじつ断定だんていできないとしても、「ぐん関与かんよ」など合理ごうりてき資料しりょうしくは根拠こんきょがあり、当時とうじ被告ひこく隊長たいちょう自決じけつ命令めいれいをしたと「しんじるに相当そうとう理由りゆう」はあり、それは「名誉めいよ毀損きそん」にはあたらないとして原告げんこくうったえを退しりぞけた。

集団しゅうだん自決じけつかんする沖縄おきなわ県民けんみん集会しゅうかい

[編集へんしゅう]

この大江おおえ岩波いわなみ沖縄おきなわせん裁判さいばんは、さらに教科書きょうかしょ検定けんてい問題もんだいにつながっていく。2008年度ねんどぶん教科きょうかよう図書としょ検定けんてい教科書きょうかしょ検定けんてい)で、ぐんによる関与かんよという記述きじゅつについて検定けんてい意見いけんがつき、関与かんよ意味いみする部分ぶぶん削除さくじょされた。この検定けんてい参考さんこう資料しりょうとして文科ぶんかしょうは、21の図書としょとともに大江おおえ岩波いわなみ沖縄おきなわせん裁判さいばんにおけるもと戦隊せんたいちょう証言しょうげんもメディアに公表こうひょうした。

教科書きょうかしょ検定けんていたいする沖縄おきなわ県民けんみん反発はんぱつ急速きゅうそく拡大かくだいした。沖縄おきなわのマスコミは連日れんじつこの問題もんだいおおきくげ、教育きょういく関係かんけいしゃ市民しみん団体だんたい抗議こうぎ相次あいついだ。大江おおえ岩波いわなみ沖縄おきなわせん裁判さいばん被告ひこく支援しえんする団体だんたい活動かつどう活発かっぱつとなった。県議会けんぎかいおよぜん市町村しちょうそん議会ぎかいにおいて「検定けんてい意見いけん撤回てっかいぐん関与かんよ記述きじゅつ復活ふっかつ」をもとめる決議けつぎあん可決かけつされた[86]

2007ねん9がつ28にち山崎やまざきたく代議士だいぎし沖縄おきなわにおいて「渡海とかい文科ぶんか大臣だいじん自分じぶん派閥はばつだ。教科書きょうかしょ検定けんてい意見いけん反対はんたいするように、自分じぶんからっておく」と発言はつげん[87]翌日よくじつの9がつ29にちには宜野湾ぎのわん海浜かいひん公園こうえんにおいて、主催しゅさいしゃ発表はっぴょうで11まんにん参加さんかしたとする超党派ちょうとうは県民けんみん大会たいかい開催かいさいされた。大会たいかいでは、文部もんぶ科学かがくしょう教科書きょうかしょ検定けんてい意見いけん撤回てっかいもとめ、集団しゅうだん自決じけつぐんによる強制きょうせいという記述きじゅつ復活ふっかつもとめる決議けつぎがあげられた。なお、このときの11まんにんという主催しゅさいしゃ発表はっぴょう動員どういん人数にんずうかんする議論ぎろんかんしては後段こうだん参照さんしょうのこと。

沖縄おきなわ県民けんみん集会しゅうかい参加さんかしゃすう問題もんだい

[編集へんしゅう]

集会しゅうかいに11まん6000にん八重山やえやま会場かいじょうの3500にん宮古みやこ会場かいじょうの2500にんふくむ)があつまったとする主催しゅさいしゃがわ発表はっぴょう琉球新報りゅうきゅうしんぽう(見出みだし11まん6000にん)、沖縄おきなわタイムス(どう11まんにん)、読売新聞よみうりしんぶん(どう11まんにん)、朝日新聞あさひしんぶん(どう11まんにん)とう報道ほうどうされた。これにたい世界せかい日報にっぽうが「参加さんかしゃは4まん2せんにんである」と報道ほうどうした[88]産経新聞さんけいしんぶん主催しゅさいしゃ発表はっぴょうであれば実際じっさいはもっとすくないはずでそのままほうじるのは戦前せんぜん大本営だいほんえい発表はっぴょうにもあいつうじるとして朝日あさひ批判ひはん、9月3にち産経さんけいしょうで“関係かんけいしゃからいた数字すうじ”として4まん3せんにんせた[89]日本経済新聞にほんけいざいしんぶんは「県警けんけい調しらやく4まん2せんにん」とせた[90]西日本にしにほん新聞しんぶん政府せいふ関係かんけいすじ数字すうじとして4まんにん程度ていどであると指摘してきした[91]産経さんけい取材しゅざいれば沖縄おきなわ県警けんけい参加さんかしゃ人数にんずう公表こうひょう必要ひつようないとの立場たちばであった。産経さんけいはこれを主催しゅさいしゃから過去かこ抗議こうぎけた背景はいけいがあるからとし、県警けんけい関係かんけいしゃからの情報じょうほうとして、参加さんかしゃを4まん2000〜3000にんほうじた[92]

週刊しゅうかん新潮しんちょうめぐみ隆之たかゆきかいの「相当そうとうきスペースがあったことから参加さんかしゃ最大さいだいで3まん5せんにん程度ていどだ」との意見いけん掲載けいさいした。(ただし、琉球新報りゅうきゅうしんぽう航空こうくう写真しゃしんるとかなりの密集みっしゅう状態じょうたいで、日傘ひがさしたり、すわっているといった言葉ことばから我々われわれ通常つうじょうイメージするようなあいはなれた状態じょうたいではない[93]。)一方いっぽう週刊しゅうかん新潮しんちょう主催しゅさいしゃ発表はっぴょうの11まんにんのみを報道ほうどうすることについて他社たしゃ批判ひはんした産経新聞さんけいしんぶん報道ほうどうについて「たとえば北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち集会しゅうかい参加さんかしゃだったら産経さんけい主催しゅさいしゃ発表はっぴょう参加さんかしゃすうとしてほうじるでしょう」との田島たじま泰彦やすひこのコメントも掲載けいさいした[94]。また、どうごうでは沖縄おきなわ県警けんけい参加さんかしゃ人数にんずう公開こうかいしないと言明げんめいしていることや、屋山ややま太郎たろうかず問題もんだいではないとの主張しゅちょう掲載けいさいしている。

沖縄おきなわ基地きち建設けんせつ物資ぶっし輸送ゆそう警備けいびあつかっている警備けいび会社かいしゃテイケイ独自どくじ入手にゅうしゅした航空こうくう写真しゃしんから総数そうすう1.9まん~2まんにん算出さんしゅつした[95]発表はっぴょうかく政党せいとうかく新聞しんぶんしゃ出版しゅっぱんしゃ送付そうふした。はたいく彦はこれをまえ、さらに熊本くまもとたような手法しゅほうで3にちかけてほぼおな数字すうじしたひとがいるとくと寄稿きこうした[96]日本にっぽん会議かいぎ熊本くまもとや「つくるかい」は、それらを根拠こんきょ主催しゅさいしゃ発表はっぴょう参加さんかしゃすう誇大こだい発表はっぴょうだんじ「政治せいじてきキャンペーンをするな」とう批判ひはんおこなった。

こうした批判ひはんもあるなか当時とうじ福田ふくだ康夫やすお総理そうり大臣だいじん国会こっかい参加さんかしゃは11まんにんであると主要しゅようマスコミとほぼおな答弁とうべんをし、ぐん関与かんよがあったとする記述きじゅつ教科書きょうかしょ復活ふっかつするながれとなった。

異論いろんゆるさない雰囲気ふんいきがあるとの主張しゅちょう

[編集へんしゅう]

これらの状況じょうきょうたいし、主催しゅさいしゃ発表はっぴょう参加さんかしゃすうじゅういちまんにんは「でっちげた数字すうじだ」という指摘してきや、大会たいかい参加さんかした仲井なかい真弘まさひろ知事ちじたいし「政治せいじ介入かいにゅうだ」という批判ひはん、「予算よさんろくわりくに補助ほじょきんたよっている分際ぶんざいで」「沖縄おきなわのクズども」など、ネットでの誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうれ、けん職員しょくいんは「集団しゅうだん自決じけつのことをもっと勉強べんきょうしてほしい」となげいた[91]

西日本にしにほん新聞しんぶん中島なかじま邦之くにゆきは、沖縄おきなわがわ仲井真なかいま知事ちじ職員しょくいん参加さんかうながし、けん教育きょういくちょう県立けんりつがく校長こうちょうらにけし、ナショナリズムの対立たいりつがエスカレートしていると指摘してき。また沖縄おきなわけん出身しゅっしん芥川賞あくたがわしょう作家さっかだい城立じょうりゅうひろしは、こうした分断ぶんだんされた状況じょうきょうに「異論いろんゆるさない雰囲気ふんいきあやうさをかんじる」とかたった[91]

2009ねん6がつ9にち記者きしゃ会見かいけんで、作家さっか上原うえはらただしみのるぐんによる自決じけつ命令めいれいはなかったとした結論けつろんを2007ねん当時とうじ琉球新報りゅうきゅうしんぽう長期ちょうき連載れんさいちゅう沖縄おきなわせんをめぐる記事きじもうとしたところ、「新聞しんぶんしゃがわ圧力あつりょく断念だんねんせざるをず、『うらそえ文藝ぶんげい』での発表はっぴょうった」と説明せつめいしており、沖縄おきなわけん文化ぶんか協会きょうかいちょうほし雅彦まさひこは「今回こんかい勇気ゆうきって真実しんじつらせるべきと決心けっしんした」とべている[46][47][48][49]

防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ図書としょ偽装ぎそう問題もんだい

[編集へんしゅう]

いつごろからか防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ図書館としょかん渡嘉敷とかしきとう座間味島ざまみじま集団しゅうだん自決じけつ隊長たいちょう命令めいれいでなかったことが証明しょうめいされているとの見解けんかいけた資料しりょう公開こうかいされているとのうわさひろがっていたが、2008ねん1がつ13にちこれを一部いちぶ新聞しんぶん一般いっぱん公開こうかいされていることがあきらかになったとしてほうじた。これにたいし、同月どうげつ18にち当時とうじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん鈴木すずき宗男むねお以下いか質問しつもんをした[97]。①防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ設立せつりつ理念りねんおよびそのしゅたる業務ぎょうむ、②報道ほうどう内容ないよう事実じじつか、③事実じじつならば、資料しりょう作成さくせいした防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ部局ぶきょくならびに担当たんとう責任せきにんしゃだれか、④とう資料しりょう作成さくせいは、防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ設立せつりつ理念りねんおよびそのしゅたる業務ぎょうむ該当がいとうするか、⑤ぐん命令めいれいはなかったと主張しゅちょうする根拠こんきょ、⑥政府せいふ答弁とうべんしょ内閣ないかくしゅしついちろくろくだいよんいちきゅうごう)で自決じけつされた沖縄おきなわ住民じゅうみんのすべてにたいして自決じけつ軍命ぐんめいれいくだされたかかについて、政府せいふとしては現時点げんじてんでその詳細しょうさい承知しょうちしていないと答弁とうべんしているが、問題もんだい資料しりょう見解けんかいはそれにはんしないのか、⑦資料しりょう見解けんかい削除さくじょすべきではないのか。

これにたいし、政府せいふ答弁とうべん以下いかとお[98]。①自衛隊じえいたい管理かんりおよ運営うんえいかんする基本きほんてき調査ちょうさ研究けんきゅう幹部かんぶ自衛じえい官等かんとう教育きょういく訓練くんれん、②および③指摘してきされた資料しりょうに、自決じけつ命令めいれいされていないことが証明しょうめいされていると記載きさいされた紙片しへんが「防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ戦史せんし名義めいぎ貼付ちょうふされていたが防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょではこのような紙片しへん貼付ちょうふすることとはしていない、貼付ちょうふ経緯けいいとうにつき関係かんけい職員しょくいんとう聴取ちょうしゅしたところ貼付ちょうふしていないむね回答かいとうた、そのため、④~⑥の回答かいとう困難こんなん政府せいふ見解けんかいさき答弁とうべんわりない、⑦問題もんだい紙片しへんすでのぞいた。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

2007ねん文科ぶんかしょう教科書きょうかしょ検定けんてい参考さんこうとした図書としょ

[編集へんしゅう]
  • 家永いえなが三郎さぶろう太平洋戦争たいへいようせんそう岩波書店いわなみしょてん日本にっぽん歴史れきし叢書そうしょ〉、1968ねん
  • どう太平洋戦争たいへいようせんそう だい2はん岩波書店いわなみしょてん日本にっぽん歴史れきし叢書そうしょ〉、1986ねん
  • 石原いしはらあきら証言しょうげん沖縄おきなわせん戦場せんじょう光景こうけい青木あおき書店しょてん、1984ねん
  • 石原いしはらあきらほか『争点そうてん沖縄おきなわせん記憶きおく社会しゃかい評論ひょうろんしゃ 2002
  • 大江おおえ健三郎けんざぶろう沖縄おきなわノート』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、1970ねん
  • 大城おおしろすすむ沖縄おきなわせん民衆みんしゅうでとらえる「戦争せんそう」』高文たかふみとげ、1985ねん
  • 大田おおた昌秀まさひで写真しゃしん記録きろく・これが沖縄おきなわせんだ(改訂かいていばん)』琉球新報りゅうきゅうしんぽうしゃ、1977ねん
  • どうへんちょ)『そう沖縄おきなわせん写真しゃしん記録きろく岩波書店いわなみしょてん、1982ねん
  • どう沖縄おきなわせんとはなにか』久米くめ書房しょぼう、1985ねん
  • 沖縄おきなわけん沖縄おきなわ史料しりょう編集へんしゅうしょへん)『沖縄おきなわ資料しりょう編集へんしゅうしょ紀要きようだい11ごう沖縄おきなわけん沖縄おきなわ史料しりょう編集へんしゅうしょ、1986ねん
  • 沖縄おきなわタイムスしゃてつ暴風ぼうふう沖縄おきなわタイムスしゃ、1950ねん
  • 嶋津しまづ与志よし大城おおしろすすむ筆名ひつめい)『沖縄おきなわせんかんがえる』ひるぎしゃ〈おきなわ文庫ぶんこ〉、1983ねん
  • 下嶋しもじま哲朗てつろう沖縄おきなわ・チビチリガマの“集団しゅうだん自決じけつ" 』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみブックレット〉、1992ねん
  • 曽野その綾子あやこ『ある神話しんわ背景はいけい沖縄おきなわ渡嘉敷とかしきとう集団しゅうだん自決じけつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1973ねん ISBN 978-4569564760
  • 富村とびむらじゅんいちほか『かくされた沖縄おきなわ戦記せんき』JCA出版しゅっぱん、1979ねん
  • なかほど昌徳まさのり沖縄おきなわ戦記せんき朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ選書せんしょ〉、1982ねん
  • はやし博史ひろふみ沖縄おきなわせん民衆みんしゅう大月書店おおつきしょてん、2001ねん
  • 藤原ふじわらあきらへん)『沖縄おきなわせん-国土こくど戦場せんじょうになったとき』青木あおき書店しょてん、1987ねん
  • 宮城みやぎ晴美はるみははのこしたもの : 沖縄おきなわ座間味ざまみとう集団しゅうだん自決じけつ」のあたらしい証言しょうげん高文たかふみとげ、2000ねんISBN 4874982492NCID BA49948673https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003029993-00 
  • 森山もりやま康平やすひら図説ずせつ沖縄おきなわたたかい:太平洋戦争たいへいようせんそう戦場せんじょう河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2003ねん ISBN 4-309-76031-7
  • 琉球りゅうきゅう政府せいふへん)『沖縄おきなわけん だい8かん琉球りゅうきゅう政府せいふ、1971ねん

その

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 太田おおたみずからがつくした言葉ことばがそのようなとらえられかたをされていることに、のちに反省はんせいあらわしている。
  2. ^ 戦後せんご30ねんして帰国きこくした小野田おのだひろしろう出征しゅっせいまえに、ぐんからは「最後さいご一人ひとりになってもきてたたかえ」と命令めいれいけていたが、母親ははおやからは短刀たんとうわたされ「てき捕虜ほりょとなるおそれがあるときには、この短刀たんとう立派りっぱ最後さいごげ、小野田おのだ名誉めいよはずかしめないでください」とわれており、当時とうじてきつかまることを「はじ」とする風潮ふうちょう日本にっぽんには存在そんざいしていたことがうかがえる(戸井といじゅうがつちょ小野田おのだひろしろうわらないたたかい』)

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 伊江島いえじま アハシャガマ
  2. ^ 琉球新報りゅうきゅうしんぽう』2007ねん6がつ22にち
  3. ^ えかなあさ「沖縄おきなわせんと「集団しゅうだん自決じけつ」―― なにきたか、なにつたえるか」『世界せかい』764ごう岩波書店いわなみしょてん、2008ねん
  4. ^ はやし博史ひろふみ歴史れきしがく研究けんきゅう
  5. ^ えのながれ 2007ねん6がつ20にち沖縄おきなわタイムス[リンク]
  6. ^ せめぎい 2007ねん4がつ30にち沖縄おきなわタイムス[リンク]
  7. ^ 仲本なかもと和彦かずひこ (2016-03), 沖縄おきなわせんかんするしん資料しりょう紹介しょうかい : 援護えんご業務ぎょうむ関係かんけい文書ぶんしょ中心ちゅうしんに” (PDF), 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん研究けんきゅう紀要きよう (沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん) (18): 1-13, hdl:20.500.12001/19585, ISSN 13442155, NAID 120005771714, https://www.archives.pref.okinawa.jp/wp-content/uploads/kiyou18-nakamoto.pdf 2021ねん12月9にち閲覧えつらん 
  8. ^ 沖縄おきなわタイムス2005ねん7がつ2にち 朝刊ちょうかん26めん集団しゅうだん自決じけつ」をかんがえる(18) 識者しきしゃく(1) あんひとし政昭まさあきおき国大こくだい名誉めいよ教授きょうじゅ すべてがぐん統制とうせい足手あしてまといおそえら[リンク]
  9. ^ 沖縄おきなわタイムス2005ねん7がつ3にち 朝刊ちょうかん26めん集団しゅうだん自決じけつ」をかんがえる(19) 識者しきしゃく(2) 石原いしはらあきらおき国大こくだい教授きょうじゅ 住民じゅうみんにはてはまらぬ 実態じったいゆがめる教科書きょうかしょ懸念けねん[リンク]
  10. ^ 読谷よみたんむら役場やくば - 読谷よみたんむら戦跡せんせきめぐり[リンク]
  11. ^ 体験たいけん - 読谷よみたんむら
  12. ^ 体験たいけん - 読谷よみたんむら
  13. ^ 強制きょうせい史実しじつきざむチビチリガマ 87ねんには「平和へいわぞう破壊はかい”. 琉球新報りゅうきゅうしんぽう (2017ねん9がつ13にち). 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  14. ^ 下嶋しもじま哲朗てつろう(1992ねん)。
  15. ^ チビチリガマでの「集団しゅうだん自決じけつ”. 読谷よみたんむら. 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  16. ^ 占領せんりょうぐん米兵べいへいとのはつ見参けんざんきもやす”. 朝日新聞あさひしんぶん. (2010ねん10がつ22にち). https://www.asahi.com/special/koe-senso/?id=0466&map=13 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん 
  17. ^ 教科書きょうかしょうそゆるさず 大城おおしろさん、いきどおりでこえふるわせる”. 琉球新報りゅうきゅうしんぽう. (2007ねん8がつ28にち) 
  18. ^ NHKスペシャル取材しゅざいはん『NHKスペシャル 沖縄おきなわせんぜん記録きろくしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、2016ねん5がつ28にち、77ぺーじ 
  19. ^ a b はやし博史ひろふみ沖縄おきなわ戦記せんきろく研究けんきゅう現状げんじょう課題かだい ―“軍隊ぐんたい民衆みんしゅう”の視点してんから―ひがし学院がくいん大学だいがく経済学部けいざいがくぶ一般いっぱん教育きょういく論集ろんしゅう自然しぜん人間にんげん社会しゃかいだい8ごう、1987ねん4がつ
  20. ^ 高等こうとう学校がっこう日本にっぽん教科書きょうかしょかんする訂正ていせい申請しんせいについて(沖縄おきなわせん関係かんけい
  21. ^ a b あんひとし政昭まさあきさばかれた沖縄おきなわせんばんこえしゃ、1989ねん
  22. ^ 石原いしはらほか(2002ねん)。
  23. ^ 沖縄おきなわタイムス、2005ねん7がつ集団しゅうだん自決じけつ」をかんがえる(18)識者しきしゃく(1)~(2)[1] あるいは [2] など
  24. ^ 大城おおしろ(2007ねん)。
  25. ^ 安里あさとすすむほか『沖縄おきなわけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱん、2004ねん
  26. ^ a b 嶋津しまづ与志よし大城おおしろすすむ筆名ひつめい)(1983ねん)。
  27. ^ 昭和しょうわ19ねん牛島うしじま司令しれいかんの7項目こうもく訓示くんじの7項目こうもくに「いむ防諜ぼうちょう注意ちゅういスヘシ」とある
  28. ^ 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
  29. ^ 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
  30. ^ 大阪おおさか地方裁判所ちほうさいばんしょ民事みんじだい9民事みんじ深見ふかみ敏正としまさ裁判さいばんちょう2008ねん3がつ28にち判決はんけつ全文ぜんぶん
  31. ^ 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
  32. ^ 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
  33. ^ 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
  34. ^ 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう「3にん捕虜ほりょ読谷よみたんバーチャル平和へいわ資料しりょうかん
  35. ^ 沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう沖縄おきなわけん公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
  36. ^ はやし(2001ねん)。
  37. ^ 佐野さの 眞一しんいちぼくしま戦場せんじょうだった 封印ふういんされた沖縄おきなわせん記憶きおく集英社しゅうえいしゃインターナショナル、2013ねん5がつ15にち、290ぺーじ 
  38. ^ 琉球新報りゅうきゅうしんぽう
  39. ^ 沖縄おきなわタイムス2007ねん7がつ6にち および集団しゅうだん自決じけつ訴訟そしょう陳述ちんじゅつしょ
  40. ^ 季刊きかん女子じょし教育きょういくもんだい. (7 1992). 
  41. ^ a b 山崎やまざきこう太郎たろう (2014-1-24). “「沖縄おきなわ集団しゅうだん自決じけつろんそう」にかん曽野そのへ"公開こうかい質問しつもんじょう"”. 週刊しゅうかん金曜日きんようび: 23. 
  42. ^ 川田かわた文子ふみこ (2017-03). “70年余ねんよふくかく陣地じんちあとと「慰安いあん」の写真しゃしん. 商学しょうがく論纂ろんさん (中央大学ちゅうおうだいがく商学しょうがく研究けんきゅうかい) 58 (5-6): 63-102. ISSN 0286-7702. NAID 120006642238. http://id.nii.ac.jp/1648/00009192/ 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん. 
  43. ^ 戦記せんき告発こくはつされた赤松あかまつ大尉たいい”. 週刊しゅうかん新潮しんちょう. (1968-04-06). 
  44. ^ ひらなお赤松あかまつもと大尉たいい”. 琉球新報りゅうきゅうしんぽう. (1968ねん4がつ8にち) 
  45. ^ 河合かわい正廣まさひろ. “陸軍りくぐん防衛ぼうえい招集しょうしゅうとその実態じったいについてー沖縄おきなわにおける防衛ぼうえい招集しょうしゅう”. 防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ. 2022ねん1がつ2にち閲覧えつらん
  46. ^ a b c 集団しゅうだん自決じけつ軍命ぐんめいはなかった」作家さっかほし雅彦まさひこ上原うえはらただしみのる会見かいけん 沖縄おきなわ県庁けんちょう 世界せかい日報にっぽう 2009ねん6がつ10にちづけ 閲覧えつらん
  47. ^ a b c 沖縄おきなわ集団しゅうだん自決じけつぐん命令めいれいではない」 地元じもと特集とくしゅう記事きじ 産経新聞さんけいしんぶん 2009ねん6がつ10にちづけ 閲覧えつらん
  48. ^ a b 1/2【沖縄おきなわ集団しゅうだん自決じけつ】「軍命ぐんめいれいはなかった」-『うらそえ文藝ぶんげい会見かいけん前半ぜんはんさくら H21/6/15】 日本にっぽん文化ぶんかチャンネルさくら 2009/06/15
  49. ^ a b 2/2【沖縄おきなわ集団しゅうだん自決じけつ】「軍命ぐんめいれいはなかった」-『うらそえ文藝ぶんげい会見かいけん後半こうはんさくら H21/6/15】 日本にっぽん文化ぶんかチャンネルさくら 2009/06/15
  50. ^ 書証しょしょう一覧いちらん
  51. ^ 赤松あかまつ手記しゅき
  52. ^ 沖縄おきなわノートIX-「本土ほんど」は実在じつざいしない
  53. ^ 議員ぎいんこん教科書きょうかしょ修正しゅうせい反対はんたい
  54. ^ 沖縄おきなわ闘争とうそう』 1かん御茶おちゃみず書房しょぼう石田いしだ郁夫いくお記録きろく文学ぶんがく選集せんしゅう〉、1993ねん12月15にち、209ぺーじ 
  55. ^ 石田いしだ郁夫いくお (1967). “沖縄おきなわ断層だんそう”. 展望てんぼう (筑摩書房ちくましょぼう) (11月). 
  56. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう. (1967-4-6). 
  57. ^ 弁明べんめいおこ生存せいぞんしゃ”. 琉球新報りゅうきゅうしんぽう. (1968ねん4がつ8にち) 
  58. ^ a b “"命令めいれいしなかった"「ただしい歴史れきしつくりたい”. 琉球新報りゅうきゅうしんぽう. (1968ねん4がつ8にち) 
  59. ^ 『ある神話しんわ背景はいけい文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう、1973ねん5がつ10日とおか 
  60. ^ なかほど昌徳まさのり(1982ねん)。
  61. ^ 太田おおた良博よしひろ太田おおた良博よしひろ著作ちょさくしゅう』 3かん、ボーダーインク、2005ねん7がつ1にち 
  62. ^ 神戸こうべ新聞しんぶん1986ねん6がつ6にち
  63. ^ 図説ずせつ沖縄おきなわたたかい:太平洋戦争たいへいようせんそう戦場せんじょう 24ぺーじ
  64. ^ 産経新聞さんけいしんぶん2008ねん2がつ22にち
  65. ^ a b 石原いしはらしゅん & 加藤かとう美春みはる 2016, p. 68-70.
  66. ^ 曽野その綾子あやこ選集せんしゅうだいかん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1984ねん6がつ18にち、306ぺーじ 
  67. ^ 曽野その綾子あやこ選集せんしゅうだいかん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1984ねん6がつ18にち、305-306ぺーじ 
  68. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう』2007ねん1がつ4にち・11にちごう
  69. ^ a b ははのこしたもの, p. 280,308.
  70. ^ 神戸こうべ新聞しんぶん1987ねん4がつ18にち
  71. ^ 伊藤いとう秀美ひでみ沖縄おきなわけいりょうあいだの「集団しゅうだん自決じけつ」: 命令めいれい形式けいしきもってせざる命令めいれい紫峰しほう出版しゅっぱん、2020ねん2がつ1にち、87ぺーじ 
  72. ^ ぐん命令めいれいだ」とあにはいって3にんのわがにかけ“自決じけつ”した 沖縄おきなわ”. 全日本ぜんにほん民医連みんいれん. 全日本ぜんにほん民主みんしゅ医療いりょう機関きかん連合れんごうかい (2007ねん12月1にち). 2019ねん6がつ5にち閲覧えつらん
  73. ^ 産経新聞さんけいしんぶん2006ねん8がつ27にち
  74. ^ おもねとめ瑠比小田おだ博士はかせ (2007ねん10がつ16にち). “検定けんてい撤回てっかい将来しょうらい禍根かこんべいぐん施政しせい沖縄おきなわせん真実しんじつ封印ふういん”. iza!. 産経新聞さんけいしんぶんしゃ. 2007ねん10がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん6がつ5にち閲覧えつらん
  75. ^ 赤松あかまつよしみ (6 1971). “6.22慰霊いれい特集とくしゅう "集団しゅうだん自決じけつ"のしま 渡嘉敷とかしきとう兵士へいし村民そんみん "わたしたちをしんじてほしい"”. あおうみ. 
  76. ^ a b ははのこしたもの, p. 263,266.
  77. ^ 沖縄おきなわせん支援しえん連絡れんらくかい 地裁ちさい 被告ひこく準備じゅんび書面しょめん(11)要旨ようし”. 大江おおえ健三郎けんざぶろう岩波書店いわなみしょてん沖縄おきなわせん裁判さいばん支援しえん連絡れんらくかい. 2021ねん12月14にち閲覧えつらん
  78. ^ 産経新聞さんけいしんぶん2007ねん10がつ3にち
  79. ^ 『ある神話しんわ背景はいけい文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう、1973ねん5がつ10日とおか、26-29ぺーじ 
  80. ^ a b 公文書こうぶんしょかん研究けんきゅう紀要きようだい18ごう”. 沖縄おきなわ公文書こうぶんしょかん. p. 4. 2021ねん12月13にち閲覧えつらん
  81. ^ 戦争せんそう責任せきにん免責めんせきにした援護えんごほう本質ほんしつ”. 飛礫つぶて (つぶて書房しょぼう) (60): 19-34. (2008). 
  82. ^ 石原いしはらしゅん & 加藤かとう美春みはる, p. 87-89.
  83. ^ 2007ねん10がつ3にち産経新聞さんけいしんぶん朝刊ちょうかん正論せいろん
  84. ^ 産経新聞さんけいしんぶん2007ねん7がつ6にち朝刊ちょうかん正論せいろん
  85. ^ 沖縄おきなわタイムス2008ねん10がつ31にちもと戦隊せんたいちょう控訴こうそ棄却ききゃく集団しゅうだん自決じけつ訴訟そしょう
  86. ^ 強制きょうせいでなく関与かんよとして可決かけつ-沖縄おきなわ県議会けんぎかい意見いけんしょ
  87. ^ めぐみ隆之たかゆきかい 虚構きょこうの『軍命ぐんめいれい強制きょうせいせつ』の復活ふっかつゆるさない国民こくみん決起けっき集会しゅうかい」(2007ねん11月13にち)における証言しょうげん
  88. ^ 世界せかい日報にっぽう』2007ねん10がつ2にち
  89. ^ 産経新聞さんけいしんぶん産経さんけいしょう、2007ねん10がつ3にち
  90. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん』2007ねん10がつ9にち
  91. ^ a b c 中島なかじま邦之くにゆき『「政治せいじ介入かいにゅうやめろ」「参加さんかしゃすうでっちあげ」 / 沖縄おきなわ県庁けんちょう批判ひはんメール / 県民けんみんがわにも感情かんじょうてき意見いけん / 寛容かんよう地域ちいき対立たいりつ懸念けねん西日本にしにほん新聞しんぶん 2007ねん10がつ10日とおか
  92. ^ 産経新聞さんけいしんぶん. (2007ねん10がつ7にち) 
  93. ^ 県民けんみん大会たいかい沖縄おきなわのうねり - 琉球新報りゅうきゅうしんぽうデジタル|沖縄おきなわのニュース速報そくほう情報じょうほうサイト”. 琉球新報りゅうきゅうしんぽうデジタル. 2021ねん12月18にち閲覧えつらん
  94. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう』2007ねん10がつ18にちごう
  95. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう』2007ねん11月1にちごう
  96. ^ 産経新聞さんけいしんぶん オピニオンらん. (2007ねん10がつ26にち) 
  97. ^ 沖縄おきなわせんにおける集団しゅうだん自決じけつたいする防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ認識にんしきかんする質問しつもん主意しゅいしょ”. 衆議院しゅうぎいん. 2021ねん1がつ2にち閲覧えつらん
  98. ^ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん鈴木すずき宗男むねおくん提出ていしゅつ沖縄おきなわせんにおける集団しゅうだん自決じけつたいする防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ認識にんしきかんする質問しつもんたいする答弁とうべんしょ”. 衆議院しゅうぎいん. 2021ねん1がつ2にち閲覧えつらん

参照さんしょう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]