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学校がっこう教練きょうれん

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軍事ぐんじ教練きょうれんから転送てんそう
大阪おおさか高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん大阪市立大学おおさかいちりつだいがく)での学校がっこう教練きょうれんしき小銃しょうじゅう所持しょじ弾薬だんやく盒は携行けいこうせず、下肢かしにレギンスしき脚絆きゃはんいている。画面がめんみぎはしには指揮しきかんやく指揮しきがたな模造もぞう刀身とうしんのサーベル)がうつっている。
代々木よよぎ練兵れんぺいじょうでの明大めいだい予科よかせい軍事ぐんじ教練きょうれん画面がめん左下ひだりしたには模造もぞう機関きかんじゅううつっている(1940ねんごろ

学校がっこう教練きょうれん(がっこうきょうれん)とは、大日本帝国だいにっぽんていこく学校がっこうにおける教練きょうれんをいう。「教練きょうれん」とはおしえて熟練じゅくれんさせるの軍事ぐんじ教練きょうれんともいう。1925ねんからおこなわれ、これによって配属はいぞくされた陸軍りくぐん現役げんえき将校しょうこう一般いっぱん配属はいぞく将校しょうこうという。

概要がいよう

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学校がっこう教練きょうれん履修りしゅうしたもの陸軍りくぐんでは幹部かんぶ候補こうほせい学校がっこう教練きょうれん制度せいど設立せつりつ当初とうしょいちねん現役げんえきへい)をめいぜられる資格しかく徴兵ちょうへい猶予ゆうよ徴兵ちょうへい兵役へいえき期間きかんが1ねん短縮たんしゅくされるなどの特典とくてんもうけられた[1]

1886ねんころ文部もんぶ大臣だいじんもり有礼ありのり提唱ていしょうによって学校がっこうへいしき体操たいそう採用さいようされたが、本来ほんらい精神せいしんとは乖離かいりし、形式けいしきながれ、神髄しんずいうしなわれかけていた。1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、各国かっこく国民こくみん教練きょうれん機運きうんたかまり、日本にっぽんにおいても国民こくみん心身しんしん発達はったつさせ、資質ししつ向上こうじょうさせ、国力こくりょく根幹こんかんやしない、国運こくうん隆盛りゅうせいし、その基礎きそかたくすることが必要ひつようであるとさけばれ、まずは学校がっこうにおける教練きょうれんをより振作しんさくし、体育たいいく促進そくしんし、徳育とくいく裨益ひえきし、国防こくぼう能力のうりょく増進ぞうしんすることがはかられ、現役げんえき将校しょうこう配属はいぞくさせることとなった。

1925ねん大正たいしょう14ねん)1がつ10日とおか文政ぶんせい審議しんぎかい総会そうかい開催かいさい特別とくべつ委員いいんかいから軍事ぐんじ予備よび教育きょういくかんする諮詢しじゅんけ、付帯ふたい決議けつぎして全会ぜんかい一致いっち可決かけつ[2]陸軍りくぐん現役げんえき将校しょうこう学校がっこう配属はいぞくれい発布はっぷされ[3]同年どうねん5がつまたは8がつにかけて配属はいぞくおこなわれた[4]

学校がっこう教練きょうれん教材きょうざい要目ようもくとしては、各個かっこ教練きょうれん部隊ぶたい教練きょうれん射撃しゃげき指揮しきほう陣中じんちゅう勤務きんむ手旗てばた信号しんごう距離きょり測量そくりょうはか図学ずがく軍事ぐんじ講話こうわ戦史せんしなどで、教材きょうざい配当はいとう学校がっこう程度ていどおうじて差異さいがあった。

文部省もんぶしょうでは操縦そうじゅう早期そうき育成いくせいとして、1938ねんから男子だんし中等ちゅうとう学校がっこうでの滑空かっくう設立せつりつ滑空かっくう訓練くんれん推奨すいしょう指導しどうのため教官きょうかんぐんから派遣はけんされた。訓練くんれん適性てきせいみとめられたもの少年しょうねん航空こうくうへい推薦すいせんされた。1941ねんには太平洋戦争たいへいようせんそう開始かいしにより大量たいりょう育成いくせいのため正課せいかとして格上かくあげされた。練習れんしゅうとして文部省もんぶしょうしき1がた使用しようされた。

目的もくてき

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ほん制度せいど設立せつりつ目的もくてきとしては、おもつぎてんかんがえられる。

配属はいぞくけた学校がっこう

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1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ22にち陸軍りくぐん現役げんえき将校しょうこう学校がっこう配属はいぞくれい施行しこう15ねん記念きねんして、東京とうきょう宮城みやぎぜん広場ひろばおこなわれた青少年せいしょうねん学徒がくと親閲しんえつしき

1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ11にちに、「陸軍りくぐん現役げんえき将校しょうこう学校がっこう配属はいぞくれい」(大正たいしょう14ねん4がつ11にちみことのりれいだい135ごう)が公布こうふされた。どうれいによって、一定いってい官立かんりつまたは公立こうりつ学校がっこうには、原則げんそくとして義務ぎむてき陸軍りくぐん現役げんえき将校しょうこう配属はいぞくされた。なお、配属はいぞく将校しょうこう教練きょうれんかんしては学校がっこうちょう指揮しき監督かんとくけた。

私立しりつ学校がっこうについては任意にんいてきであったが、おおくの私学しがくでは兵役へいえき期間きかん短縮たんしゅくされるという特典とくてん学生がくせい獲得かくとくする目的もくてき利用りようしていた。軍部ぐんぶでもこれを認識にんしきしており、上智大じょうちだいなま靖国神社やすくにじんじゃ参拝さんぱい拒否きょひ事件じけんさいに、配属はいぞく将校しょうこうげる(教練きょうれん廃止はいしする)と通告つうこくしたことで上智大学じょうちだいがく対応たいおうわれることとなった。

軍事ぐんじ教練きょうれん反対はんたい運動うんどう

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軍事ぐんじ教練きょうれん反対はんたい警官けいかんとにらみ早大そうだいせい(1923ねん

大正たいしょうきた早稲田大学わせだだいがくぐんきょう事件じけん小樽おたるだかしょうぐんきょう事件じけんなどに象徴しょうちょうされる反軍はんぐん学生がくせい運動うんどうのこと。1924ねん大正たいしょう13ねんあきごろから中等ちゅうとう学校がっこう以上いじょう学生がくせい生徒せいとたいして軍事ぐんじ教練きょうれんほどこすとのあん公布こうふ確実かくじつほうぜられるや、これに反対はんたいする学生がくせいたちによって全国ぜんこく学生がくせい軍事ぐんじ教育きょういく反対はんたい同盟どうめい結成けっせいされた。

翌年よくねん1がつ軍事ぐんじ教育きょういく反対はんたいデー」を組織そしき同年どうねん1がつ24にち九段下くだんしたうしふち公園こうえんから芝公園しばこうえんにかけてやく3000にんでデモ行進こうしん計画けいかくしたが、当日とうじつあさ警視庁けいしちょう禁止きんし命令めいれいした。学生がくせいがわ明治大学めいじだいがく校庭こうていやく1000にんあつまり、田部井たべい健次けんじ明治大学めいじだいがく)、かのうたけし早稲田大学わせだだいがく)による示威じい演説えんぜつけ、高揚こうようした学生がくせいうしふち公園こうえんかおうとしたところで警官けいかんたい衝突しょうとつ田部井たべいかのう学生がくせい4にんこうじまち警察けいさつしょ検束けんそくされた[5]

同年どうねん9がつ軍事ぐんじ教練きょうれんはじまった青山学院あおやまがくいんではキリスト教きりすときょう精神せいしんはんするものとして学生がくせいから反対はんたいこえがった[6]ほか、同年どうねん10がつ発生はっせいした小樽おたるだかしょう軍事ぐんじ教練きょうれん事件じけん表面ひょうめんした軍事ぐんじ教練きょうれんたいする抗議こうぎ運動うんどう東京とうきょうにも波及はきゅう同年どうねん11がつ5にちには早稲田大学わせだだいがく小樽おたるだかしょうぐんきょう事件じけん批判ひはん演説えんぜつかい企画きかく総長そうちょう命令めいれいにより直前ちょくぜん中止ちゅうし)された[7]。また、立教大学りっきょうだいがくでは同年どうねん11がつ15にちごう大学だいがく新聞しんぶんにて、立教大学りっきょうだいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく早稲田大学わせだだいがくさん大学だいがく新聞しんぶん軍事ぐんじ教練きょうれん反対はんたい共同きょうどう宣言せんげん掲載けいさい大学だいがく当局とうきょく新聞しんぶん頒布はんぷきんじ、新聞しんぶん全部ぜんぶ押収おうしゅうする出来事できごともあった[8]相次あいつ学生がくせいらの反対はんたい運動うんどうけ、同年どうねん11がつ27にち東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん当局とうきょくのやりかたのまずさ、不合理ふごうりさを記事きじつうじて批判ひはんした[9]

教材きょうざい

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学校がっこう教練きょうれんではコストをおさえるため、陸軍りくぐん使つかわれなくなった旧式きゅうしきしき小銃しょうじゅうのように配備はいび見送みおくった銃器じゅうき使用しようされたが、かずそろわず動作どうさ安定あんていしないものふくまれていたことから、ぐん使つかわれる練習れんしゅうじゅう利用りようされた。

関連かんれん文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ だいせつ 中等ちゅうとう教育きょういく - 文部もんぶ科学かがくしょう
  2. ^ 文政ぶんせい審議しんぎかい総会そうかい軍事ぐんじ教育きょういくあん可決かけつ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん大正たいしょう14ねん1がつ11にち(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp159 大正たいしょうニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  3. ^ 陸軍りくぐん現役げんえき将校しょうこう学校がっこう配属はいぞくれい公布こうふ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん大正たいしょう14ねん4がつ12にち(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp159)
  4. ^ 師範しはん学校がっこうへの配属はいぞく将校しょうこう内定ないてい東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん大正たいしょう14ねん4がつ2にち(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp159)
  5. ^ 学生がくせい反対はんたいデモ、警官けいかん阻止そしされる『時事通信じじつうしん大正たいしょう14ねん1がつ25にち夕刊ゆうかん(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp159)
  6. ^ 青山学院あおやまがくいんでもぐんきょう反対はんたい院長いんちょう決議けつぎぶん東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん大正たいしょう14ねん11月11にち(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp160)
  7. ^ 早大そうだい軍事ぐんじ教育きょういく批判ひはん演説えんぜつかい禁止きんしされる『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん大正たいしょう14ねん11月6にち(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp160)
  8. ^ 反軍はんぐんきょう宣言せんげん掲載けいさいの「立教大学りっきょうだいがく新聞しんぶん没収ぼっしゅうに『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん大正たいしょう14ねん11月14にち(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp160)
  9. ^ 青少年せいしょうねん訓練くんれん見直みなおせ『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん大正たいしょう14ねん11月27にち(『大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp161)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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