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マンハッタン計画けいかく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
トリニティ実験じっけん写真しゃしん

マンハッタン計画けいかく(マンハッタンけいかく、えい: Manhattan Project)は、だい世界せかい大戦たいせんなかナチス・ドイツなどの一部いちぶ枢軸すうじくこく原子げんしばくだん開発かいはつあせったアメリカイギリスカナダ原子げんしばくだん開発かいはつ製造せいぞうのために、科学かがくしゃ技術ぎじゅつしゃ総動員そうどういんした計画けいかくである。計画けいかく成功せいこうし、原子げんしばくだん製造せいぞうされ、1945ねん7がつ16にち世界せかいはじめて原爆げんばく実験じっけん実施じっしした。さらに、広島ひろしま同年どうねん8がつ6にち長崎ながさき8がつ9にち投下とうか合計ごうけいすうじゅうまんにん犠牲ぎせいになり、戦後せんご核兵器かくへいき開発かいはつかく実験じっけん競争きょうそう冷戦れいせん構造こうぞうすきっかけともなった。

科学かがく部門ぶもんのリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。だい規模きぼ計画けいかく効率こうりつてき運営うんえいするために管理かんり工学こうがく使用しようされた。

なお、計画けいかくは、当初とうしょ本部ほんぶがニューヨーク・マンハッタンかれていたため、一般いっぱんぐんこうめいをつけるさいのやりかたならって「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初さいしょは「代用だいよう物質ぶっしつ開発かいはつ研究所けんきゅうじょ (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名めいめいされたが、これをった(のちにプロジェクトを牽引けんいんすることになる)レズリー・グローヴスが、その名称めいしょう好奇心こうきしんてるだけであるとしてあらたに提案ていあんしたのが採用さいようされたものである[1]

歴史れきし

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背景はいけい

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ナチス・ドイツさき核兵器かくへいき保有ほゆうすることをおそれた亡命ぼうめいユダヤじん物理ぶつり学者がくしゃレオ・シラードらが、1939ねんおな亡命ぼうめいユダヤじんアインシュタイン署名しょめいりてルーズベルト大統領だいとうりょう信書しんしょおくったことがアメリカ政府せいふかく開発かいはつへのうごきをうながす最初さいしょのものとなった。この「進言しんげん」ではかく連鎖れんさ反応はんのう軍事ぐんじ目的もくてきのために使用しようされる可能かのうせいがあることがべられ、かくによって被害ひがいける可能かのうせい示唆しさされた。なお、以降いこうアインシュタインはマンハッタン計画けいかくには関与かんよしておらず、また、政府せいふからその政治せいじ姿勢しせい警戒けいかいされて実際じっさい計画けいかくがスタートした事実じじつさえらされていなかった[2]

ルーズベルトは、国立こくりつ標準ひょうじゅんきょく長官ちょうかんリーマン・ブリッグズにめいじてS-1ウラン委員いいんかいもうけ、シラードが提案ていあんした問題もんだい検討けんとうした。ブリッグズは1939ねん10がつ21にちにシラード、ユージン・ウィグナーエドワード・テラーとのはじめての会合かいごうひらいた[3]。11月1にちに、諮問しもん委員いいんかい大統領だいとうりょうあて報告ほうこくしょ作成さくせいし、潜水せんすいかん動力どうりょくげんとして核分裂かくぶんれつ反応はんのう調査ちょうさ開始かいしすることを報告ほうこくした。しかし、「もしその(ウランの)反応はんのう爆発ばくはつせいのものならば、既知きちのどんなものとくらべてもはるかにおおきな破壊はかいりょくをもったばくだんになろう」[4]くわえた。

ブリッグズは合衆国がっしゅうこく防衛ぼうえい研究けんきゅう委員いいんかい (NDRC) にたいして、ウランと当時とうじ発見はっけんされたばかりのプルトニウムの研究けんきゅうに16まん7000ドルの支出ししゅつ要求ようきゅうした。しかし当初とうしょはルーズベルトは関心かんしんしめさず、そのまま委員いいんかい中断ちゅうだんした[4]

1939ねん6がつ、イギリスでは、バーミンガム大学だいがくのユダヤけい物理ぶつりがく学者がくしゃオットー・フリッシュルドルフ・パイエルスが、ウラン235の臨界りんかい質量しつりょうかんしてブレイクスルーてき発見はっけんげた。2人ふたり計算けいさんによると、ウラン235を爆発ばくはつさせるにはすうkgから10kgで十分じゅうぶんだと見積みつもられた。オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、のちにガンバレル方式ほうしきばれる単純たんじゅん兵器へいき機構きこうと、ドイツが核兵器かくへいき開発かいはつしつつあることにたいする警告けいこくの2つのレポートをき、バーミンガム大学だいがく物理ぶつり学科がっか主任しゅにんマーク・オリファントつうじてイギリス防空ぼうくう科学かがく調査ちょうさ委員いいんかい議長ぎちょう、オクスフォード大学だいがくのヘンリー・トマス・ティザードへおくった。 これにより、1940ねん5がつには、MAUD委員いいんかいばれるウランばくだん実現じつげん可能かのうせい評価ひょうかする委員いいんかい組織そしきされた[5]委員いいんかいによって起草きそうされた調査ちょうさ報告ほうこくしょは、1941ねん10がつ合衆国がっしゅうこく政府せいふつたえられた。それによってアメリカじん物理ぶつり学者がくしゃ認識にんしきしていなかったウランばくだん実現じつげん可能かのうせいしめされた。

着手ちゃくしゅ

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グローヴス(ひだり)とオッペンハイマー

1942ねん10月、ルーズベルトはアメリカ国防こくぼう研究けんきゅう委員いいんかい (NDRC) 議長ぎちょうヴァネヴァー・ブッシュふく大統領だいとうりょうヘンリー・A・ウォレスとのミーティングで、核兵器かくへいき開発かいはつプロジェクトを承認しょうにんした。ルーズベルトはプロジェクトの管轄かんかつを、海軍かいぐんではなくだい規模きぼなプラント建設けんせつれている陸軍りくぐんおこなわせた。また、ルーズベルトはイギリスとの協力きょうりょく体制たいせいについても同意どういし、10月11にちにはイギリスの首相しゅしょうウィンストン・チャーチル書簡しょかんおくった。

プロジェクトの実施じっしにあたっては「陸軍りくぐんマンハッタン工兵こうへい管区かんく」と名称めいしょうけられた組織そしきおこなうこととなった。責任せきにんしゃレズリー・リチャード・グローヴスじゅんしょうが1942ねん9がつ着任ちゃくにんした。

プロジェクトの場所ばしょ

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アメリカ合衆国と南カナダの地図。マンハッタン計画で重要な役割を果たした場所に印がある。Berkeley, CaliforniaInyokern, CaliforniaRichland, WashingtonTrail, British ColumbiaWendover, UtahMonticello, UtahUravan, ColoradoLos Alamos, New MexicoAlamogordo, New MexicoAmes, IowaSt Louis, MissouriChicago, IllinoisDana, IndianaDayton, OhioSylacauga, AlabamaMorgantown, West VirginiaOak Ridge, TennesseeChalk River LaboratoriesRochester, New YorkWashington, D.C.
北米ほくべいでマンハッタン計画けいかくにおいて重要じゅうよう役割やくわりたした場所ばしょ

オークリッジ

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オークリッジにかれたY-12電磁でんじてきウラン濃縮のうしゅく施設しせつのシフト交代こうたい。1945ねん5がつには、82000にん労働ろうどうしゃがクリントン・エンジニア・ワークスでやとわれていた[6]

マンハッタン計画けいかくまった翌日よくじつ、グローヴスじゅんしょうジョージ・マーシャル大佐たいさ提案ていあんされていた土地とち調査ちょうさのため汽車きしゃテネシーしゅうかうと、グローヴスじゅんしょうはその土地とちこう印象いんしょうった[7][8]。 1942ねん2がつ、グローヴスじゅんしょうは、ウラン精製せいせい工場こうじょう計画けいかく司令しれい設置せっちするために、テネシーしゅう東部とうぶクリンチかわ沿いのオークリッジ土地とち取得しゅとくした。取得しゅとくした土地とち面積めんせきは56,000エーカー (23,000 ha) にのぼ[9]べい陸軍りくぐんは、原爆げんばく製造せいぞう必要ひつようなウラン精製せいせい工場こうじょうをオークリッジに建設けんせつした。 土地とち取得しゅとく費用ひよう、350まんドルは、9月29にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく陸軍りくぐん次官じかんロバート・ポーター・パターソンによって承認しょうにんされた。追加ついかの3,000エーカー (1,200 ha) ものち取得しゅとくされた。 10月7にちはっせられた土地とち取得しゅとくによって影響えいきょうけた家族かぞくは1,000以上いじょうのぼ[10]抗議こうぎ懇願こんがんも1943ねん議会ぎかいによる審問しんもんなん抗力こうりょくさなかった[11]。11月中旬ちゅうじゅん連邦れんぽう保安ほあんかん農家のうか家屋かおくのドアにも退去たいきょ告知こくちり、建築けんちく請負人うけおいにんはここに転居てんきょしてきた[12]。いくつかの家族かぞくは1920年代ねんだいグレート・スモーキー山脈さんみゃく国立こくりつ公園こうえんまたは1930年代ねんだいノリス・ダム建設けんせつのために退去たいきょし、ここになん世代せだいにもがれてきたいえ農場のうじょうからの退去たいきょに2週間しゅうかん猶予ゆうよあたえられた[13]。1945ねん3がつまで支払しはらいがわらなかったこの土地とち買収ばいしゅう価格かかくは、想定そうてい価格かかくは1エーカーにつき47ドルであったが合計ごうけいたった260まんドルであった[14]。オークリッジ全体ぜんたいぐん許可きょかなくだれはいることができない排除はいじょ区域くいきとなるという公共こうきょう布告ふこくだい2ばんはっせられたとき、テネシーしゅう知事ちじプレンティス・クーパーおこってその布告ふこくしょやぶてた[15]

最初さいしょはキングストン・デモリション・レンジとばれていたが、1943ねん初頭しょとう公式こうしきクリントン・エンジニア・ワークス (CEW) と名付なづけられた。ストーン・アンド・ウェブスターは製造せいぞう施設しせつ集約しゅうやく可能かのうにするため、13,000にんもの住宅じゅうたく地域ちいき建築けんちく技術ぎじゅつ会社かいしゃスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリルにより計画けいかくおよび建設けんせつされた。このまちのちにオーク・リッジと名付なづけられるもとのブラック・オーク・リッジのおかうえ位置いちしていた[16]。1943ねん8がつ、マンハッタン技術ぎじゅつしゃ地域ちいきちょうがマーシャルからケネス・ニコルスわるとぐんめる地域ちいきひろがっていった。かれ最初さいしょ任務にんむの1つはこの地域ちいき本部ほんぶをオーク・リッジに移転いてんすることであったが、名称めいしょうえなかった[17]。1943ねん9がつまち施設しせつ管理かんりを、オーク・リッジがあるアンダーソンぐんとローンぐんによるローン・アンダーソン・カンパニーとしてられる子会社こがいしゃとおしてターナー・コンストラクション・カンパニー外注がいちゅうした[18]最初さいしょ工場こうじょうができると全米ぜんべいから労働ろうどうしゃあつめられ、人口じんこう増大ぞうだいし、1945ねん5がつにクリントン・エンジニア・ワークスに82,000めい[6]、ローン・アンダーソンに10,000めい[18]やとわれたとき最大さいだいの75,000めいとなった。

オークリッジの4つの施設しせつにはX-10、Y-12、K-25、S-50というコードネームをあたえられた。X-10サイトはのちオークリッジ国立こくりつ研究所けんきゅうじょとなり、Y-12サイトはY-12国家こっか安全あんぜん保障ほしょうふくあい施設しせつen:Y-12 National Security Complex)として現存げんそんしている。のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆げんばくまち)、シークレット・シティ(秘密ひみつ都市とし)とばれるようになった。

ロスアラモス

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計画けいかく参加さんかする科学かがくしゃたちのリーダーにえらばれたのは物理ぶつり学者がくしゃロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーの提案ていあん研究所けんきゅうじょニューメキシコしゅうロスアラモス(サイト Y、ロスアラモス国立こくりつ研究所けんきゅうじょ)にかれることが1942ねん11月に決定けっていした。かれ研究所けんきゅうじょちょうに、ニールス・ボーアエンリコ・フェルミジョン・フォン・ノイマンばくちぢみレンズ計算けいさん担当たんとう)、オットー・フリッシュエミリオ・セグレハンス・ベーテエドワード・テラースタニスワフ・ウラムなど著名ちょめい科学かがくしゃのほか、リチャード・ファインマンなど若手わかて研究けんきゅうしゃハーバード大学だいがくカリフォルニア大学だいがくなど名門めいもんこう学生がくせいなどがあつめられた。当時とうじはコンピュータが実用じつようされていなかったために、計算けいさんだけを任務にんむとする、数学すうがく優秀ゆうしゅう高校生こうこうせいあつめられた。

そのアーサー・コンプトンレオ・シラードアーネスト・ローレンスジョン・ホイーラーグレン・シーボーグなどが協力きょうりょくした。

ハンフォード

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プルトニウムの生産せいさん場所ばしょとしてオークリッジは不適切ふてきせつであった。オークリッジは人口じんこう密集みっしゅうであるノックスヴィルにちかく、予期よきしない事故じここったさい市街地しがいち放射ほうしゃせい物質ぶっしつそそ危険きけんがあったためである[19]。 グローヴズじゅんしょうは、建設けんせつ監督かんとくとなるデュポンしゃ民間みんかん技術ぎじゅつしゃ雇用こようし、プルトニウム工場こうじょう用地ようち管理かんりする将校しょうこう一緒いっしょ土地とち査定さていおこなわせた。 プルトニウムの生産せいさんには多量たりょうみず電気でんき必要ひつようとされるため、ワシントンしゅう南央なんおうのコロンビアがわ沿いの盆地ぼんち候補こうほがった。1943ねん1がつまつに、そこの20まんヘクタールが510まんドルで取得しゅとくされ、ハンフォード技術ぎじゅつ工場こうじょう(Hanford Engineer Works: HEW)と名付なづけられ(ハンフォード・サイト米国べいこく最大さいだいきゅうかく廃棄はいきぶつ問題もんだい箇所かしょ[20])、サイトWというコードネームがあたえられた[21]工場こうじょう建設けんせつたった労働ろうどうしゃ最終さいしゅうてきには5000にんにのぼる。 陸軍りくぐんによる地主じぬしたいしての農作物のうさくもつたいする補償ほしょうがく争点そうてんとなり、ハンフォードでの土地とち取得しゅとく計画けいかく難航なんこうした[22]一部いちぶ土地とち終戦しゅうせんのマンハッタン計画けいかく終了しゅうりょうまでに完了かんりょうしなかった。

用地ようち買収ばいしゅう問題もんだいはあったものの、工場こうじょう建設けんせつすすめられ1943ねん4がつ工場こうじょう稼働かどう開始かいしした。当初とうしょそこではたら労働ろうどうしゃはおよそ25000にんであり、その半数はんすう工場こうじょうないのバラックにんでいた。

計画けいかく参加さんかした組織そしきとう

ロスアラモスのほかにもシカゴ大学だいがく冶金やきん研究所けんきゅうじょカリフォルニア大学だいがくバークレーこうなどおおくの施設しせつがマンハッタン計画けいかく参加さんかし、米国べいこく以外いがいではカナダモントリオール大学だいがく計画けいかく参加さんかしている。またデュポンゼネラル・エレクトリックウェスティングハウス・エレクトリックなど民間みんかんだい企業きぎょう参画さんかくしている。

この計画けいかくたいしては多額たがく資金しきん当時とうじ額面がくめんで19おくドル)が投入とうにゅうされた。

ウラン鉱石こうせき

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ウラン鉱石こうせきおも産地さんちは、1940ねん当時とうじ世界せかいコロラドしゅう、カナダ北部ほくぶチェコヤーヒモフベルギーりょうコンゴの4かしょしかられておらず、ヤーヒモフ以外いがい連合れんごうこくがわにあった。1942ねん調査ちょうさで、マンハッタン計画けいかく需要じゅようにはとりあえず十分じゅうぶんであったが、ベルギーりょうコンゴカタンガしゅうシンコロブエ鉱山こうざんなどをユニオン・ミニエールしゃニューヨークしゅうスタテンとういているストック(1,100トン)を使つか決定けっていをして、また長期ちょうきてきにウラン鉱石こうせき供給きょうきゅうしてもらう独占どくせん契約けいやくをユニオン・ミニエールしゃ専務せんむエドガー・サンジエ秘密ひみつ協定きょうていとしてむすんだ。のちに、ソビエト連邦れんぽうひがしドイツにユニオン・ミニエールしゃいていたウラン鉱石こうせきのストックを察知さっちして、それを原爆げんばく開発かいはつ利用りようした[23]

開発かいはつ

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マンハッタン計画けいかく秘密ひみつ主義しゅぎおこなわれ、情報じょうほう隔離かくり徹底てっていされた。べつ部署ぶしょ研究けんきゅう内容ないようまったつたえず、個々ここ科学かがくしゃあたえる情報じょうほう個別こべつ担当たんとう分野ぶんやのみに限定げんていさせ、全体ぜんたいるのは上層じょうそうのみというグローヴスの方針ほうしんには、自由じゆう研究けんきゅうとうと科学かがくしゃからの反発はんぱつつよかった。

ウラン濃縮のうしゅくには電磁でんじ濃縮のうしゅくほう使用しようされた。当時とうじ戦略せんりゃく物資ぶっしとしてどう使用しよう制限せいげんされていたので、国立こくりつ銀行ぎんこうからぎんりて電磁石でんじしゃくコイルようせんざいもちいた。しかし、ぎんどうくら電気でんき抵抗ていこうすくないため、結果けっかてき多少たしょうなりとも発生はっせい磁力じりょく向上こうじょう消費しょうひ電力でんりょく削減さくげん貢献こうけんした。

フランクレポート

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1945ねん3がつ連合れんごうこくによりドイツが原爆げんばく開発かいはつしていない確証かくしょうられると、ジェイムス・フランクやシラードらは、フランクレポート提出ていしゅつなど、たいにちせんでの思慮しりょ原爆げんばく使用しよう反対はんたいする活動かつどうおこなった。

トリニティ実験じっけん

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1945ねん7がつ16にち、アメリカのニューメキシコしゅうソコロ南東なんとう48kmの地点ちてんにあるアラモゴード砂漠さばくホワイトサンズしゃばくじょうにおいて、人類じんるい史上しじょうはつかく実験じっけんトリニティ」が実施じっしされた。爆発ばくはつ実験じっけん使用しようされた人類じんるい最初さいしょ原子げんしばくだんガジェットというコードネームをつけられ、ばくちぢみレンズもちいたインプロージョン方式ほうしきのテストを目的もくてきとしたものだった。8月9にち長崎ながさき投下とうかされた原子げんしばくだんファットマン」が同様どうよう構造こうぞうをしていたが、ファットマンのように空中くうちゅうからの投下とうかではなく、鉄塔てっとうじょうそなけられた状態じょうたい爆発ばくはつさせた。

ファットマンおよび、8がつ6にち広島ひろしま投下とうかされたリトルボーイは、このガジェットと並行へいこうして製造せいぞうされた。

原爆げんばく投下とうか

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米国べいこく政府せいふヘンリー・スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんしたもうけられた暫定ざんてい委員いいんかいは6がつ1にち原爆げんばく投下とうかふくあいてき効果こうかをもたらすよう、標的ひょうてき警告けいこく投下とうかすべきであると決議けつぎした。7がつ16にちトリニティ実験じっけんからいちヶ月かげつたないうちに、日本にっぽん原子げんしばくだん投下とうかされた。原子げんしばくだんは、8がつ6にち日本にっぽん広島ひろしま投下とうかされ(リトルボーイ)、さらに8がつ9にち長崎ながさき投下とうかされた(ファットマン)。

費用ひよう

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マンハッタン計画けいかく費用ひよう。1945ねん12月31にちまで[24]
場所ばしょ 費用ひよう (1945ねんあめりかドル)) 費用ひよう (2011ねん現在げんざい貨幣かへい価値かち換算かんさんあめりかドル))
オークリッジ 1,188,352,000ドル 145おくドル
ハンフォード 390,124,000ドル 47.6おくドル
特別とくべつ作戦さくせん物資ぶっし 103,369,000ドル 12.6おくドル
ロスアラモス $74,055,000 9おくドル
研究けんきゅう開発かいはつ 69,681,000ドル 8.5おくドル
管理かんり 37,255,000ドル 4.5おくドル
重水じゅうすい 26,768,000ドル 3.27おくドル
けい 1,889,604,000ドル 230おくドル

1945ねん10がつまでのマンハッタン計画けいかく費用ひようは、18おく4500まんドルであり、1947ねん1がつ1にちのAECの試算しさんによると21おく9100まんドルだった。資金しきんの90%以上いじょうがプラント建設けんせつ核分裂かくぶんれつ物質ぶっしつ生産せいさんのために使つかわれ、兵器へいき開発かいはつ生産せいさんには費用ひようの10%以下いかしか使つかわれなかった[25]

1945ねんまでにマンハッタン計画けいかくによって開発かいはつされた4つの原子げんしばくだん(トリニティ実験じっけんのガジェット、リトルボーイ、ファットマンと使用しようされなかった1つ)の、1つあたりの平均へいきん製造せいぞう費用ひようは5おくドル(当時とうじ貨幣かへい価値かち)である。 しかし、マンハッタン計画けいかくの1945ねんまでのそう費用ひようは、どう時期じき合衆国がっしゅうこくしょう火器かき生産せいさんがくとの比較ひかくでは90%、戦車せんしゃ生産せいさんの34%[24]でしかない。

文化ぶんかてき影響えいきょう

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比喩ひゆ表現ひょうげんとしての「マンハッタン計画けいかく」という言葉ことばがある。「規模きぼ壮大そうだいだがろくな結果けっかにならない(ならなかった)もの」のことのたとえとして、しばしば[よう出典しゅってん]使つかわれる。2008ねんリーマン・ショックさいし、金融きんゆう商品しょうひん製作せいさくソフトもと開発かいはつしゃマイク・オシンスキーが、サブプライムローン破綻はたん代表だいひょうされる一連いちれん惨劇さんげき要因よういんひとつだとして、みずからのおこないをこう表現ひょうげんした[26]

あつかった作品さくひん

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映画えいが
  • シャドー・メーカーズ (Fat Man and Little Boy、アメリカ、1989ねん) - ポール・ニューマン出演しゅつえん創作そうさくまじえた劇場げきじょう公開こうかいよう映画えいがベルリン国際こくさい映画えいがさいノミネート。公開こうかいすぐにられた[27]日本にっぽんではビデオ&DVDスルー。
  • デイワン/最終さいしゅう兵器へいき覚醒かくせい(めざめ) (Day One、アメリカ、1989ねん) - 史実しじつ沿ってつくられたテレビ映画えいがエミーしょう(ドラマ部門ぶもん最優秀さいゆうしゅう作品さくひんしょう受賞じゅしょう
  • デイ・アフター・トリニティー (The Day after Trinity、アメリカ、1980ねん) - マンハッタン計画けいかくとロバート・オッペンハイマーの半生はんせいつづったドキュメンタリー映画えいが。1980ねんアカデミーしょう、ベスト・ドキュメンタリー映画えいが部門ぶもん入選にゅうせん
  • オッペンハイマー(Oppenheimer、アメリカ、2023ねん) - だい96かいアカデミーしょう7部門ぶもん受賞じゅしょう原爆げんばく開発かいはつ詳細しょうさい追跡ついせきするのではなくオッペンハイマーの一人称いちにんしょう回想かいそう形式けいしき進行しんこうするため、広島ひろしま長崎ながさきにおける原爆げんばく行使こうし結果けっか示唆しさにとどまり、直接ちょくせつ描写びょうしゃされない。また、ジョン・フォン・ノイマン登場とうじょうせず、戦後せんごすぐに発生はっせいしたデーモン・コア事件じけんえがかれない。
TV番組ばんぐみ
展覧てんらんかい
文献ぶんけん
音楽おんがく

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Norris, Robert S (2002). Racing for the Bomb: General Leslie R. Groves, the Manhattan Project's Indispensable Man. Steerforth. pp. p.170. ISBN 978-1-58642-039-0 
  2. ^ アシモフ, アイザック原子核げんしかくエネルギーのはなし住田すみた健二けんじやくだい5はん)、東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい原著げんちょ1991ねん8がつ20日はつか)、pp.151-155ぺーじISBN 4486008715 
  3. ^ ローズ(うえ)p.555
  4. ^ a b ローズ(うえ), p.559
  5. ^ ローズ(うえ), p.579-581
  6. ^ a b Johnson & Jackson 1981, pp. 168–169
  7. ^ Hewlett & Anderson 1962, pp. 116–117.
  8. ^ Groves 1962, pp. 25–26.
  9. ^ ローズ(した), p.155
  10. ^ Jones 1985, p. 78.
  11. ^ Johnson & Jackson 1981, pp. 39–43.
  12. ^ Fine & Remington 1972, pp. 663–664.
  13. ^ Oak Ridge National Laboratory Review, Vol. 25, Nos. 3 and 4, 2002”. ornl.gov. 2009ねん8がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん3がつ9にち閲覧えつらん
  14. ^ Jones 1985, pp. 327–328.
  15. ^ Johnson & Jackson 1981, p. 49.
  16. ^ Johnson & Jackson 1981, pp. 14–17.
  17. ^ Jones 1985, p. 88.
  18. ^ a b Jones 1985, pp. 443–446.
  19. ^ ローズ(した), p171
  20. ^ ワシントンしゅうハンフォード (アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく環境かんきょう保護ほごちょう)英語えいご
  21. ^ ローズ(した), p172-173
  22. ^ 資料しりょう大月書店おおつきしょてん、p700
  23. ^ NHKスペシャル:原子げんしばくだん秘録ひろくなぞ商人しょうにんとウラン争奪そうだつせん~(2023ねん放映ほうえい
  24. ^ a b Schwartz 1998.
  25. ^ Nichols 1987, pp. 34–35.
  26. ^ 『NHKスペシャル マネー資本しほん主義しゅぎ』(2009)による。
  27. ^ 2013ねん8がつ6にちづけ朝日新聞あさひしんぶん別刷べつづ特集とくしゅうより
  28. ^ Secret Cities The Architecture and Planning of the Manhattan ProjectNational Building Museum

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Johnson, Charles; Jackson, Charles (1981). City Behind a Fence: Oak Ridge, Tennessee, 1942–1946. Knoxville: University of Tennessee Press. ISBN 0-87049-303-5. OCLC 6331350 
  • Bruce Cameron Reed. The Physics of the Manhattan Project, 2014, Springer.
    • 『マンハッタン計画けいかく科学かがく歴史れきし今野こんの廣一ひろかずやく丸善まるぜんプラネット、2018ねん
  • Richard Rhodes, The Making of the Atomic Bomb, 1987, Simon & Schuster.
  • 資料しりょう マンハッタン計画けいかくやまごくあきら立花たちばなまこといっ へん岡田おかだ良之助よしのすけ やく大月書店おおつきしょてん、1993ねん ISBN 4-272-52026-1
  • Denise Kiernan "The Girls of Atomic City: The Untold Story of the Women Who Helped Win World War II" , Touchstone, 2013 

外部がいぶリンク

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