トリニティ実験 じっけん の写真 しゃしん
マンハッタン計画 けいかく (マンハッタンけいかく、英 えい : Manhattan Project )は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、ナチス・ドイツ などの一部 いちぶ 枢軸 すうじく 国 こく の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 開発 かいはつ に焦 あせ ったアメリカ 、イギリス 、カナダ が原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 開発 かいはつ ・製造 せいぞう のために、科学 かがく 者 しゃ 、技術 ぎじゅつ 者 しゃ を総動員 そうどういん した計画 けいかく である。計画 けいかく は成功 せいこう し、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が製造 せいぞう され、1945年 ねん 7月 がつ 16日 にち 世界 せかい で初 はじ めて原爆 げんばく 実験 じっけん を実施 じっし した。さらに、広島 ひろしま に同年 どうねん 8月 がつ 6日 にち ・長崎 ながさき に8月 がつ 9日 にち に投下 とうか 、合計 ごうけい 数 すう 十 じゅう 万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい になり、戦後 せんご の核兵器 かくへいき 開発 かいはつ ・核 かく 実験 じっけん 競争 きょうそう の冷戦 れいせん 構造 こうぞう を生 う み出 だ すきっかけともなった。
科学 かがく 部門 ぶもん のリーダーはロバート・オッペンハイマー があたった。大 だい 規模 きぼ な計画 けいかく を効率 こうりつ 的 てき に運営 うんえい するために管理 かんり 工学 こうがく が使用 しよう された。
なお、計画 けいかく の名 な は、当初 とうしょ の本部 ほんぶ がニューヨーク・マンハッタン に置 お かれていたため、一般 いっぱん に軍 ぐん が工 こう 区 く 名 めい をつける際 さい のやり方 かた に倣 なら って「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初 さいしょ は「代用 だいよう 物質 ぶっしつ 開発 かいはつ 研究所 けんきゅうじょ (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名 めいめい されたが、これを知 し った(後 のち にプロジェクトを牽引 けんいん することになる)レズリー・グローヴス が、その名称 めいしょう は好奇心 こうきしん を掻 か き立 た てるだけであるとして新 あら たに提案 ていあん したのが採用 さいよう されたものである[ 1] 。
ナチス・ドイツ が先 さき に核兵器 かくへいき を保有 ほゆう することを恐 おそ れた亡命 ぼうめい ユダヤ人 じん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ レオ・シラード らが、1939年 ねん 、同 おな じ亡命 ぼうめい ユダヤ人 じん のアインシュタイン の署名 しょめい を借 か りてルーズベルト大統領 だいとうりょう に信書 しんしょ を送 おく ったことがアメリカ政府 せいふ の核 かく 開発 かいはつ への動 うご きをうながす最初 さいしょ のものとなった。この「進言 しんげん 」では核 かく 連鎖 れんさ 反応 はんのう が軍事 ぐんじ 目的 もくてき のために使用 しよう される可能 かのう 性 せい があることが述 の べられ、核 かく によって被害 ひがい を受 う ける可能 かのう 性 せい も示唆 しさ された。なお、以降 いこう アインシュタインはマンハッタン計画 けいかく には関与 かんよ しておらず、また、政府 せいふ からその政治 せいじ 姿勢 しせい を警戒 けいかい されて実際 じっさい に計画 けいかく がスタートした事実 じじつ さえ知 し らされていなかった[ 2] 。
ルーズベルトは、国立 こくりつ 標準 ひょうじゅん 局 きょく 長官 ちょうかん リーマン・ブリッグズに命 めい じてS-1ウラン委員 いいん 会 かい を設 もう け、シラードが提案 ていあん した問題 もんだい を検討 けんとう した。ブリッグズは1939年 ねん 10月 がつ 21日 にち にシラード、ユージン・ウィグナー とエドワード・テラー との初 はじ めての会合 かいごう を開 ひら いた[ 3] 。11月1日 にち に、諮問 しもん 委員 いいん 会 かい は大統領 だいとうりょう 宛 あて の報告 ほうこく 書 しょ を作成 さくせい し、潜水 せんすい 艦 かん の動力 どうりょく 源 げん として核分裂 かくぶんれつ 反応 はんのう の調査 ちょうさ を開始 かいし することを報告 ほうこく した。しかし、「もしその(ウランの)反応 はんのう が爆発 ばくはつ 性 せい のものならば、既知 きち のどんなものと比 くら べてもはるかに大 おお きな破壊 はかい 力 りょく をもった爆 ばく 弾 だん になろう」[ 4] と付 つ け加 くわ えた。
ブリッグズは合衆国 がっしゅうこく 防衛 ぼうえい 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい (NDRC) に対 たい して、ウランと当時 とうじ 発見 はっけん されたばかりのプルトニウムの研究 けんきゅう に16万 まん 7000ドルの支出 ししゅつ を要求 ようきゅう した。しかし当初 とうしょ はルーズベルトは関心 かんしん を示 しめ さず、そのまま委員 いいん 会 かい は中断 ちゅうだん した[ 4] 。
1939年 ねん 6月 がつ 、イギリスでは、バーミンガム大学 だいがく のユダヤ系 けい 物理 ぶつり 学 がく 学者 がくしゃ オットー・フリッシュ とルドルフ・パイエルス が、ウラン235の臨界 りんかい 質量 しつりょう に関 かん してブレイクスルー的 てき な発見 はっけん を成 な し遂 と げた。2人 ふたり の計算 けいさん によると、ウラン235を爆発 ばくはつ させるには数 すう kgから10kgで十分 じゅうぶん だと見積 みつ もられた。オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後 のち にガンバレル方式 ほうしき と呼 よ ばれる単純 たんじゅん な兵器 へいき の機構 きこう と、ドイツが核兵器 かくへいき を開発 かいはつ しつつあることに対 たい する警告 けいこく の2つのレポートを書 か き、バーミンガム大学 だいがく 物理 ぶつり 学科 がっか 主任 しゅにん のマーク・オリファント を通 つう じてイギリス防空 ぼうくう 科学 かがく 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい 議長 ぎちょう 、オクスフォード大学 だいがく のヘンリー・トマス・ティザードへ送 おく った。
これにより、1940年 ねん 5月 がつ には、MAUD委員 いいん 会 かい と呼 よ ばれるウラン爆 ばく 弾 だん の実現 じつげん 可能 かのう 性 せい を評価 ひょうか する委員 いいん 会 かい が組織 そしき された[ 5] 。
委員 いいん 会 かい によって起草 きそう された調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ は、1941年 ねん 10月 がつ に合衆国 がっしゅうこく 政府 せいふ に伝 つた えられた。それによってアメリカ人 じん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ が認識 にんしき していなかったウラン爆 ばく 弾 だん の実現 じつげん 可能 かのう 性 せい が示 しめ された。
グローヴス(左 ひだり )とオッペンハイマー
1942年 ねん 10月、ルーズベルトはアメリカ国防 こくぼう 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい (NDRC) 議長 ぎちょう のヴァネヴァー・ブッシュ と副 ふく 大統領 だいとうりょう ヘンリー・A・ウォレス とのミーティングで、核兵器 かくへいき 開発 かいはつ プロジェクトを承認 しょうにん した。ルーズベルトはプロジェクトの管轄 かんかつ を、海軍 かいぐん ではなく大 だい 規模 きぼ なプラント建設 けんせつ に慣 な れている陸軍 りくぐん に行 おこな わせた。また、ルーズベルトはイギリスとの協力 きょうりょく 体制 たいせい についても同意 どうい し、10月11日 にち にはイギリスの首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル に書簡 しょかん を送 おく った。
プロジェクトの実施 じっし にあたっては「陸軍 りくぐん マンハッタン工兵 こうへい 管区 かんく 」と名称 めいしょう が付 つ けられた組織 そしき が行 おこな うこととなった。責任 せきにん 者 しゃ はレズリー・リチャード・グローヴス 准 じゅん 将 しょう が1942年 ねん 9月 がつ に着任 ちゃくにん した。
北米 ほくべい でマンハッタン計画 けいかく において重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした場所 ばしょ 。
オークリッジに置 お かれたY-12電磁 でんじ 的 てき ウラン濃縮 のうしゅく 施設 しせつ のシフト交代 こうたい 。1945年 ねん 5月 がつ には、82000人 にん の労働 ろうどう 者 しゃ がクリントン・エンジニア・ワークスで雇 やと われていた[ 6]
マンハッタン計画 けいかく が決 き まった翌日 よくじつ 、グローヴス准 じゅん 将 しょう とジョージ・マーシャル 大佐 たいさ は提案 ていあん されていた土地 とち の調査 ちょうさ のため汽車 きしゃ でテネシー州 しゅう に向 む かうと、グローヴス准 じゅん 将 しょう はその土地 とち に好 こう 印象 いんしょう を持 も った[ 7] [ 8] 。
1942年 ねん 2月 がつ 、グローヴス准 じゅん 将 しょう は、ウラン精製 せいせい 工場 こうじょう と計画 けいかく の司令 しれい 部 ぶ を設置 せっち するために、テネシー州 しゅう 東部 とうぶ クリンチ川 かわ 沿 ぞ いのオークリッジ の土地 とち を取得 しゅとく した。取得 しゅとく した土地 とち の面積 めんせき は56,000エーカー (23,000 ha) に上 のぼ る[ 9] 。
米 べい 陸軍 りくぐん は、原爆 げんばく 製造 せいぞう に必要 ひつよう なウラン精製 せいせい 工場 こうじょう をオークリッジに建設 けんせつ した。
土地 とち の取得 しゅとく 費用 ひよう 、350万 まん ドルは、9月29日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 陸軍 りくぐん 次官 じかん のロバート・ポーター・パターソン によって承認 しょうにん された。追加 ついか の3,000エーカー (1,200 ha) も後 のち に取得 しゅとく された。
10月7日 にち に発 はっ せられた土地 とち の取得 しゅとく によって影響 えいきょう を受 う けた家族 かぞく は1,000以上 いじょう に上 のぼ る[ 10] 。抗議 こうぎ も懇願 こんがん も1943年 ねん の議会 ぎかい による審問 しんもん も何 なん の抗力 こうりょく も成 な さなかった[ 11] 。11月中旬 ちゅうじゅん 、連邦 れんぽう 保安 ほあん 官 かん は農家 のうか の家屋 かおく のドアにも退去 たいきょ の告知 こくち を貼 は り、建築 けんちく 請負人 うけおいにん はここに転居 てんきょ してきた[ 12] 。いくつかの家族 かぞく は1920年代 ねんだい にグレート・スモーキー山脈 さんみゃく 国立 こくりつ 公園 こうえん または1930年代 ねんだい にノリス・ダム の建設 けんせつ のために退去 たいきょ し、ここに落 お ち着 つ き何 なん 世代 せだい にも受 う け継 つ がれてきた家 いえ と農場 のうじょう からの退去 たいきょ に2週間 しゅうかん の猶予 ゆうよ を与 あた えられた[ 13] 。1945年 ねん 3月 がつ まで支払 しはら いが終 お わらなかったこの土地 とち の買収 ばいしゅう 価格 かかく は、想定 そうてい 価格 かかく は1エーカーにつき47ドルであったが合計 ごうけい たった260万 まん ドルであった[ 14] 。オークリッジ全体 ぜんたい が軍 ぐん の許可 きょか なく誰 だれ も入 はい ることができない排除 はいじょ 区域 くいき となるという公共 こうきょう 布告 ふこく 第 だい 2番 ばん が発 はっ せられた時 とき 、テネシー州 しゅう 知事 ちじ プレンティス・クーパー は怒 おこ ってその布告 ふこく 書 しょ を破 やぶ り捨 す てた[ 15] 。
最初 さいしょ はキングストン・デモリション・レンジと呼 よ ばれていたが、1943年 ねん 初頭 しょとう 、公式 こうしき にクリントン・エンジニア・ワークス (CEW) と名付 なづ けられた。ストーン・アンド・ウェブスターは製造 せいぞう 施設 しせつ の集約 しゅうやく を可能 かのう にするため、13,000人 にん もの住宅 じゅうたく 地域 ちいき は建築 けんちく 技術 ぎじゅつ 会社 かいしゃ のスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル により計画 けいかく および建設 けんせつ された。この町 まち は後 のち にオーク・リッジと名付 なづ けられる元 もと のブラック・オーク・リッジの丘 おか の上 うえ に位置 いち していた[ 16] 。1943年 ねん 8月 がつ 、マンハッタン技術 ぎじゅつ 者 しゃ 地域 ちいき の長 ちょう がマーシャルからケネス・ニコルス に替 か わると軍 ぐん が占 し める地域 ちいき は広 ひろ がっていった。彼 かれ の最初 さいしょ の任務 にんむ の1つはこの地域 ちいき の本部 ほんぶ をオーク・リッジに移転 いてん することであったが、名称 めいしょう は変 か えなかった[ 17] 。1943年 ねん 9月 がつ 、町 まち の施設 しせつ の管理 かんり を、オーク・リッジがあるアンダーソン郡 ぐん とローン郡 ぐん によるローン・アンダーソン・カンパニーとして知 し られる子会社 こがいしゃ を通 とお してターナー・コンストラクション・カンパニー に外注 がいちゅう した[ 18] 。最初 さいしょ の工場 こうじょう ができると全米 ぜんべい から労働 ろうどう 者 しゃ が集 あつ められ、人口 じんこう は増大 ぞうだい し、1945年 ねん 5月 がつ にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名 めい [ 6] 、ローン・アンダーソンに10,000名 めい [ 18] が雇 やと われた時 とき 、最大 さいだい の75,000名 めい となった。
オークリッジの4つの施設 しせつ にはX-10、Y-12、K-25、S-50というコードネームを与 あた えられた。X-10サイトは後 のち にオークリッジ国立 こくりつ 研究所 けんきゅうじょ となり、Y-12サイトはY-12国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 複 ふく 合 あい 施設 しせつ (en:Y-12 National Security Complex )として現存 げんそん している。のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆 げんばく の町 まち )、シークレット・シティ(秘密 ひみつ 都市 とし )と呼 よ ばれるようになった。
計画 けいかく に参加 さんか する科学 かがく 者 しゃ 達 たち のリーダーに選 えら ばれたのは物理 ぶつり 学者 がくしゃ のロバート・オッペンハイマー である。オッペンハイマーの提案 ていあん で研究所 けんきゅうじょ はニューメキシコ州 しゅう ロスアラモス (サイト Y、後 ご のロスアラモス国立 こくりつ 研究所 けんきゅうじょ )に置 お かれることが1942年 ねん 11月に決定 けってい した。彼 かれ を研究所 けんきゅうじょ 長 ちょう に、ニールス・ボーア 、エンリコ・フェルミ 、ジョン・フォン・ノイマン (爆 ばく 縮 ちぢみ レンズ の計算 けいさん 担当 たんとう )、オットー・フリッシュ 、エミリオ・セグレ 、ハンス・ベーテ 、エドワード・テラー 、スタニスワフ・ウラム など著名 ちょめい な科学 かがく 者 しゃ のほか、リチャード・ファインマン など若手 わかて の研究 けんきゅう 者 しゃ やハーバード大学 だいがく やカリフォルニア大学 だいがく など名門 めいもん 校 こう の学生 がくせい などが集 あつ められた。当時 とうじ はコンピュータが実用 じつよう 化 か されていなかったために、計算 けいさん だけを任務 にんむ とする、数学 すうがく の優秀 ゆうしゅう な高校生 こうこうせい も集 あつ められた。
その他 た 、アーサー・コンプトン 、レオ・シラード 、アーネスト・ローレンス 、ジョン・ホイーラー 、グレン・シーボーグ などが協力 きょうりょく した。
プルトニウムの生産 せいさん 場所 ばしょ としてオークリッジは不適切 ふてきせつ であった。オークリッジは人口 じんこう 密集 みっしゅう 地 ち であるノックスヴィルに近 ちか く、予期 よき しない事故 じこ が起 お こった際 さい に市街地 しがいち へ放射 ほうしゃ 性 せい 物質 ぶっしつ が降 ふ り注 そそ ぐ危険 きけん があったためである[ 19] 。
グローヴズ准 じゅん 将 しょう は、建設 けんせつ 監督 かんとく となるデュポン社 しゃ の民間 みんかん 技術 ぎじゅつ 者 しゃ を雇用 こよう し、プルトニウム工場 こうじょう 用地 ようち を管理 かんり する将校 しょうこう と一緒 いっしょ に土地 とち の査定 さてい を行 おこな わせた。
プルトニウムの生産 せいさん には多量 たりょう の水 みず と電気 でんき が必要 ひつよう とされるため、ワシントン州 しゅう 南央 なんおう のコロンビア川 がわ 沿 ぞ いの盆地 ぼんち が候補 こうほ に上 あ がった。1943年 ねん 1月 がつ 末 まつ に、そこの20万 まん ヘクタールが510万 まん ドルで取得 しゅとく され、ハンフォード技術 ぎじゅつ 工場 こうじょう (Hanford Engineer Works: HEW)と名付 なづ けられ(後 ご のハンフォード・サイト で米国 べいこく で最大 さいだい 級 きゅう の核 かく 廃棄 はいき 物 ぶつ 問題 もんだい の箇所 かしょ [ 20] )、サイトWというコードネームが与 あた えられた[ 21] 。工場 こうじょう の建設 けんせつ に当 あ たった労働 ろうどう 者 しゃ は最終 さいしゅう 的 てき には5000人 にん にのぼる。
陸軍 りくぐん による地主 じぬし に対 たい しての農作物 のうさくもつ に対 たい する補償 ほしょう 額 がく が争点 そうてん となり、ハンフォードでの土地 とち の取得 しゅとく 計画 けいかく は難航 なんこう した[ 22] 。一部 いちぶ の土地 とち は終戦 しゅうせん 後 ご のマンハッタン計画 けいかく 終了 しゅうりょう までに完了 かんりょう しなかった。
用地 ようち 買収 ばいしゅう の問題 もんだい はあったものの、工場 こうじょう 建設 けんせつ は進 すす められ1943年 ねん 4月 がつ に工場 こうじょう は稼働 かどう を開始 かいし した。当初 とうしょ そこで働 はたら く労働 ろうどう 者 しゃ はおよそ25000人 にん であり、その半数 はんすう は工場 こうじょう 内 ない のバラックに住 す んでいた。
計画 けいかく に参加 さんか した組織 そしき 等 とう
ロスアラモスの他 ほか にもシカゴ大学 だいがく 冶金 やきん 研究所 けんきゅうじょ やカリフォルニア大学 だいがく バークレー校 こう など多 おお くの施設 しせつ がマンハッタン計画 けいかく に参加 さんか し、米国 べいこく 以外 いがい ではカナダ のモントリオール大学 だいがく が計画 けいかく に参加 さんか している。またデュポン 、ゼネラル・エレクトリック 、ウェスティングハウス・エレクトリック など民間 みんかん の大 だい 企業 きぎょう も参画 さんかく している。
この計画 けいかく に対 たい しては多額 たがく の資金 しきん (当時 とうじ の額面 がくめん で19億 おく ドル )が投入 とうにゅう された。
ウラン鉱石 こうせき の主 おも な産地 さんち は、1940年 ねん 当時 とうじ の世界 せかい でコロラド州 しゅう 、カナダ北部 ほくぶ 、チェコ のヤーヒモフ 、ベルギー領 りょう コンゴ の4か所 しょ しか知 し られておらず、ヤーヒモフ以外 いがい は連合 れんごう 国 こく 側 がわ にあった。1942年 ねん の調査 ちょうさ で、マンハッタン計画 けいかく の需要 じゅよう にはとりあえず十分 じゅうぶん であったが、ベルギー領 りょう コンゴカタンガ州 しゅう シンコロブエ鉱山 こうざん などを持 も つユニオン・ミニエール 社 しゃ がニューヨーク州 しゅう スタテン島 とう に置 お いているストック(1,100トン)を使 つか う決定 けってい をして、また長期 ちょうき 的 てき にウラン鉱石 こうせき 供給 きょうきゅう してもらう独占 どくせん 契約 けいやく をユニオン・ミニエール社 しゃ 専務 せんむ のエドガー・サンジエ と秘密 ひみつ 協定 きょうてい として結 むす んだ。後 のち に、ソビエト連邦 れんぽう も東 ひがし ドイツ にユニオン・ミニエール社 しゃ が置 お いていたウラン鉱石 こうせき のストックを察知 さっち して、それを原爆 げんばく の開発 かいはつ に利用 りよう した[ 23] 。
マンハッタン計画 けいかく は秘密 ひみつ 主義 しゅぎ で行 おこな われ、情報 じょうほう の隔離 かくり が徹底 てってい された。別 べつ の部署 ぶしょ の研究 けんきゅう 内容 ないよう を全 まった く伝 つた えず、個々 ここ の科学 かがく 者 しゃ に与 あた える情報 じょうほう は個別 こべつ の担当 たんとう 分野 ぶんや のみに限定 げんてい させ、全体 ぜんたい を知 し るのは上層 じょうそう 部 ぶ のみというグローヴスの方針 ほうしん には、自由 じゆう な研究 けんきゅう を尊 とうと ぶ科学 かがく 者 しゃ からの反発 はんぱつ も強 つよ かった。
ウラン濃縮 のうしゅく には電磁 でんじ 濃縮 のうしゅく 法 ほう が使用 しよう された。当時 とうじ 、戦略 せんりゃく 物資 ぶっし として銅 どう の使用 しよう が制限 せいげん されていたので、国立 こくりつ 銀行 ぎんこう から銀 ぎん を借 か りて電磁石 でんじしゃく のコイル 用 よう 線 せん 材 ざい に用 もち いた。しかし、銀 ぎん は銅 どう に比 くら べ電気 でんき 抵抗 ていこう が少 すく ないため、結果 けっか 的 てき に多少 たしょう なりとも発生 はっせい 磁力 じりょく 向上 こうじょう と消費 しょうひ 電力 でんりょく 削減 さくげん に貢献 こうけん した。
1945年 ねん 3月 がつ 、連合 れんごう 国 こく によりドイツが原爆 げんばく を開発 かいはつ していない確証 かくしょう が得 え られると、ジェイムス・フランク やシラードらは、フランクレポート の提出 ていしゅつ など、対 たい 日 にち 戦 せん での無 む 思慮 しりょ な原爆 げんばく 使用 しよう に反対 はんたい する活動 かつどう を行 おこな った。
1945年 ねん 7月 がつ 16日 にち 、アメリカのニューメキシコ州 しゅう ソコロ の南東 なんとう 48kmの地点 ちてん にあるアラモゴード 砂漠 さばく のホワイトサンズ射 しゃ 爆 ばく 場 じょう において、人類 じんるい 史上 しじょう 初 はつ の核 かく 実験 じっけん 「トリニティ 」が実施 じっし された。爆発 ばくはつ 実験 じっけん に使用 しよう された人類 じんるい 最初 さいしょ の原子 げんし 爆 ばく 弾 だん はガジェット というコードネーム をつけられ、爆 ばく 縮 ちぢみ レンズ を用 もち いたインプロージョン方式 ほうしき のテストを目的 もくてき としたものだった。8月9日 にち 長崎 ながさき に投下 とうか された原子 げんし 爆 ばく 弾 だん 「ファットマン 」が同様 どうよう の構造 こうぞう をしていたが、ファットマンのように空中 くうちゅう からの投下 とうか ではなく、鉄塔 てっとう 上 じょう に備 そな え付 つ けられた状態 じょうたい で爆発 ばくはつ させた。
ファットマンおよび、8月 がつ 6日 にち 広島 ひろしま に投下 とうか されたリトルボーイ は、このガジェットと並行 へいこう して製造 せいぞう された。
米国 べいこく 政府 せいふ のヘンリー・スティムソン 陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん の下 した に設 もう けられた暫定 ざんてい 委員 いいん 会 かい は6月 がつ 1日 にち 、原爆 げんばく 投下 とうか が複 ふく 合 あい 的 てき 効果 こうか をもたらすよう、標的 ひょうてき に無 む 警告 けいこく で投下 とうか すべきであると決議 けつぎ した。7月 がつ 16日 にち のトリニティ実験 じっけん から一 いち ヶ月 かげつ も経 た たないうちに、日本 にっぽん に原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が投下 とうか された。原子 げんし 爆 ばく 弾 だん は、8月 がつ 6日 にち に日本 にっぽん の広島 ひろしま に投下 とうか され(リトルボーイ )、さらに8月 がつ 9日 にち に長崎 ながさき に投下 とうか された(ファットマン )。
マンハッタン計画 けいかく の費用 ひよう 。1945年 ねん 12月31日 にち まで[ 24]
場所 ばしょ
費用 ひよう (1945年 ねん (米 あめりか ドル))
費用 ひよう (2011年 ねん 現在 げんざい の貨幣 かへい 価値 かち 換算 かんさん (米 あめりか ドル))
オークリッジ
1,188,352,000ドル
145億 おく ドル
ハンフォード
390,124,000ドル
47.6億 おく ドル
特別 とくべつ 作戦 さくせん 物資 ぶっし
103,369,000ドル
12.6億 おく ドル
ロスアラモス
$74,055,000
9億 おく ドル
研究 けんきゅう 開発 かいはつ
69,681,000ドル
8.5億 おく ドル
管理 かんり
37,255,000ドル
4.5億 おく ドル
重水 じゅうすい 炉 ろ
26,768,000ドル
3.27億 おく ドル
計 けい
1,889,604,000ドル
230億 おく ドル
1945年 ねん 10月 がつ までのマンハッタン計画 けいかく の費用 ひよう は、18億 おく 4500万 まん ドルであり、1947年 ねん 1月 がつ 1日 にち のAECの試算 しさん によると21億 おく 9100万 まん ドルだった。資金 しきん の90%以上 いじょう がプラント建設 けんせつ と核分裂 かくぶんれつ 物質 ぶっしつ の生産 せいさん のために使 つか われ、兵器 へいき の開発 かいはつ と生産 せいさん には費用 ひよう の10%以下 いか しか使 つか われなかった[ 25] 。
1945年 ねん までにマンハッタン計画 けいかく によって開発 かいはつ された4つの原子 げんし 爆 ばく 弾 だん (トリニティ実験 じっけん のガジェット、リトルボーイ、ファットマンと使用 しよう されなかった1つ)の、1つあたりの平均 へいきん 製造 せいぞう 費用 ひよう は5億 おく ドル(当時 とうじ の貨幣 かへい 価値 かち )である。
しかし、マンハッタン計画 けいかく の1945年 ねん までの総 そう 費用 ひよう は、同 どう 時期 じき の合衆国 がっしゅうこく の小 しょう 火器 かき 生産 せいさん 額 がく との比較 ひかく では90%、戦車 せんしゃ の生産 せいさん 費 ひ の34%[ 24] でしかない。
比喩 ひゆ 表現 ひょうげん としての「マンハッタン計画 けいかく 」という言葉 ことば がある。「規模 きぼ は壮大 そうだい だがろくな結果 けっか にならない(ならなかった)もの」のことの例 たと えとして、しばしば[要 よう 出典 しゅってん ] 使 つか われる。2008年 ねん のリーマン・ショック に際 さい し、金融 きんゆう 商品 しょうひん 製作 せいさく ソフト の元 もと 開発 かいはつ 者 しゃ マイク・オシンスキーが、サブプライムローン の破綻 はたん に代表 だいひょう される一連 いちれん の惨劇 さんげき の要因 よういん の一 ひと つだとして、自 みずか らの行 おこな いをこう表現 ひょうげん した[ 26] 。
映画 えいが
シャドー・メーカーズ (Fat Man and Little Boy、アメリカ、1989年 ねん ) - ポール・ニューマン 出演 しゅつえん の創作 そうさく を交 まじ えた劇場 げきじょう 公開 こうかい 用 よう 映画 えいが 。ベルリン国際 こくさい 映画 えいが 祭 さい ノミネート。公開 こうかい 後 ご すぐに打 う ち切 き られた[ 27] 。日本 にっぽん ではビデオ&DVDスルー。
デイワン/最終 さいしゅう 兵器 へいき の覚醒 かくせい (めざめ) (Day One、アメリカ、1989年 ねん ) - 史実 しじつ に沿 そ って作 つく られたテレビ映画 えいが 。エミー賞 しょう (ドラマ部門 ぶもん 最優秀 さいゆうしゅう 作品 さくひん 賞 しょう )受賞 じゅしょう 。
デイ・アフター・トリニティー (The Day after Trinity、アメリカ、1980年 ねん ) - マンハッタン計画 けいかく とロバート・オッペンハイマーの半生 はんせい を綴 つづ ったドキュメンタリー映画 えいが 。1980年 ねん アカデミー賞 しょう 、ベスト・ドキュメンタリー映画 えいが 部門 ぶもん に入選 にゅうせん 。
オッペンハイマー (Oppenheimer、アメリカ、2023年 ねん ) - 第 だい 96回 かい アカデミー賞 しょう 7部門 ぶもん 受賞 じゅしょう 。原爆 げんばく 開発 かいはつ の詳細 しょうさい を追跡 ついせき するのではなくオッペンハイマーの一人称 いちにんしょう と回想 かいそう の形式 けいしき で進行 しんこう するため、広島 ひろしま と長崎 ながさき における原爆 げんばく 行使 こうし の結果 けっか は示唆 しさ にとどまり、直接 ちょくせつ 描写 びょうしゃ されない。また、ジョン・フォン・ノイマン が登場 とうじょう せず、戦後 せんご すぐに発生 はっせい したデーモン・コア 事件 じけん も描 えが かれない。
TV番組 ばんぐみ
展覧 てんらん 会 かい
文献 ぶんけん
音楽 おんがく
^ Norris, Robert S (2002). Racing for the Bomb: General Leslie R. Groves, the Manhattan Project's Indispensable Man . Steerforth. pp. p.170. ISBN 978-1-58642-039-0
^ アシモフ, アイザック 『原子核 げんしかく エネルギーの話 はなし 』住田 すみた 健二 けんじ 訳 やく (第 だい 5版 はん )、東海大学 とうかいだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい (原著 げんちょ 1991年 ねん 8月 がつ 20日 はつか )、pp.151-155頁 ぺーじ 。ISBN 4486008715 。
^ ローズ(上 うえ )p.555
^ a b ローズ(上 うえ ), p.559
^ ローズ(上 うえ ), p.579-581
^ a b Johnson & Jackson 1981 , pp. 168–169
^ Hewlett & Anderson 1962 , pp. 116–117.
^ Groves 1962 , pp. 25–26.
^ ローズ(下 した ), p.155
^ Jones 1985 , p. 78.
^ Johnson & Jackson 1981 , pp. 39–43.
^ Fine & Remington 1972 , pp. 663–664.
^ “Oak Ridge National Laboratory Review, Vol. 25, Nos. 3 and 4, 2002 ”. ornl.gov. 2009年 ねん 8月 がつ 25日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2010年 ねん 3月 がつ 9日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Jones 1985 , pp. 327–328.
^ Johnson & Jackson 1981 , p. 49.
^ Johnson & Jackson 1981 , pp. 14–17.
^ Jones 1985 , p. 88.
^ a b Jones 1985 , pp. 443–446.
^ ローズ(下 した ), p171
^ ワシントン州 しゅう ハンフォード (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 環境 かんきょう 保護 ほご 庁 ちょう ) (英語 えいご )
^ ローズ(下 した ), p172-173
^ 資料 しりょう ・大月書店 おおつきしょてん 、p700
^ NHKスペシャル:原子 げんし 爆 ばく 弾 だん ・秘録 ひろく ~謎 なぞ の商人 しょうにん とウラン争奪 そうだつ 戦 せん ~(2023年 ねん 放映 ほうえい )
^ a b Schwartz 1998 .
^ Nichols 1987 , pp. 34–35.
^ 『NHKスペシャル マネー資本 しほん 主義 しゅぎ 』(2009)による。
^ 2013年 ねん 8月 がつ 6日 にち 付 づけ 朝日新聞 あさひしんぶん の別刷 べつづ り特集 とくしゅう より
^ Secret Cities The Architecture and Planning of the Manhattan Project National Building Museum
Johnson, Charles; Jackson, Charles (1981). City Behind a Fence: Oak Ridge, Tennessee, 1942–1946 . Knoxville: University of Tennessee Press. ISBN 0-87049-303-5 . OCLC 6331350
Bruce Cameron Reed. The Physics of the Manhattan Project, 2014, Springer.
『マンハッタン計画 けいかく の科学 かがく と歴史 れきし 』今野 こんの 廣一 ひろかず 訳 やく 、丸善 まるぜん プラネット、2018年 ねん
Richard Rhodes, The Making of the Atomic Bomb , 1987, Simon & Schuster.
『資料 しりょう マンハッタン計画 けいかく 』 山 やま 極 ごく 晃 あきら 、立花 たちばな 誠 まこと 逸 いっ 編 へん 、岡田 おかだ 良之助 よしのすけ 訳 やく 、大月書店 おおつきしょてん 、1993年 ねん ISBN 4-272-52026-1
Denise Kiernan "The Girls of Atomic City: The Untold Story of the Women Who Helped Win World War II" , Touchstone, 2013
施設 しせつ 管理 かんり 者 しゃ 科学 かがく 者 しゃ 作戦 さくせん 部隊 ぶたい 兵器 へいき 関連 かんれん 項目 こうもく
単位 たんい 測定 そくてい 放射線 ほうしゃせん の種類 しゅるい 物質 ぶっしつ との相互 そうご 作用 さよう 放射線 ほうしゃせん と健康 けんこう
基本 きほん 概念 がいねん 放射線 ほうしゃせん の利用 りよう 放射線 ほうしゃせん と健康 けんこう 影響 えいきょう 放射能 ほうしゃのう 被害 ひがい
法律 ほうりつ ・資格 しかく 関連 かんれん
歴史 れきし 性能 せいのう 運用 うんよう 種類 しゅるい ・設計 せっけい
全般 ぜんぱん 核分裂 かくぶんれつ 兵器 へいき 核 かく 融合 ゆうごう 兵器 へいき
一覧 いちらん その他 た