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冷戦れいせん

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東西とうざい冷戦れいせん

左上ひだりうえから時計とけいまわりにアメリカのかく実験じっけんであるアイビー作戦さくせん朝鮮ちょうせん戦争せんそうでの仁川にがわ上陸じょうりく作戦さくせんベトナム戦争せんそう介入かいにゅうしたべいぐん宇宙うちゅう開発かいはつ競争きょうそうでのアメリカとソ連それん宇宙うちゅう飛行ひこうベルリンのかべ崩壊ほうかいよろこ人々ひとびとアフガニスタン戦争せんそう介入かいにゅうしたソ連それんぐんプラハのはる介入かいにゅうしたソ連それんぐん対抗たいこうする人々ひとびとキューバ危機ききでのアメリカの軍用ぐんようソ連それん貨物かもつせん
戦争せんそう東西とうざい冷戦れいせん
年月日ねんがっぴ1947ねん3月12にち- 1989ねん12月2にち[1]
場所ばしょ世界せかい各地かくち
結果けっかべい両国りょうこく首脳しゅのうマルタ会談かいだん冷戦れいせん終結しゅうけつ共同きょうどう宣言せんげん発表はっぴょうし、のち東西とうざいドイツの統一とういつソ連それん崩壊ほうかいなどがこり冷戦れいせん終結しゅうけつ[1]
交戦こうせん勢力せいりょく
西側にしがわ諸国しょこく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
イタリアの旗 イタリア
オランダの旗 オランダ
ベルギーの旗 ベルギー
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
西ドイツの旗 西にしドイツ
 デンマーク
 ノルウェー
アイスランドの旗 アイスランド
スペインの旗 スペイン
ポルトガルの旗 ポルトガル
ギリシャの旗 ギリシャ
トルコの旗 トルコ
カナダの旗 カナダ
メキシコの旗 メキシコ
グアテマラの旗 グアテマラ
ホンジュラスの旗 ホンジュラス
エルサルバドルの旗 エルサルバドル
コスタリカの旗 コスタリカ
パナマの旗 パナマ
バハマの旗 バハマ
ハイチの旗 ハイチ
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国どみにかきょうわこく
トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ
 コロンビア
ベネズエラの旗 ベネズエラ
エクアドルの旗 エクアドル
ペルーの旗 ペルー
ブラジルの旗 ブラジル
ボリビアの旗 ボリビア
パラグアイの旗 パラグアイ
ウルグアイの旗 ウルグアイ
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
 チリ
日本の旗 日本にっぽん
大韓民国の旗 大韓民国だいかんみんこく
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
フィリピンの旗 フィリピン
タイ王国の旗 タイ王国おうこく
イスラエルの旗 イスラエル
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
南アフリカの旗 みなみアフリカ共和きょうわこく
東側ひがしがわ諸国しょこく
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ポーランドの旗 ポーランド
東ドイツの旗 ひがしドイツ
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
ハンガリーの旗 ハンガリー
ルーマニアの旗 ルーマニア
ブルガリアの旗 ブルガリア
モンゴル人民共和国の旗 モンゴル
中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく
 ベトナム
Template:Country alias AFG1980の旗 アフガニスタン民主みんしゅ共和きょうわこく
イラクの旗 イラク
シリアの旗 シリア
南イエメンの旗 イエメン人民じんみん民主みんしゅ共和きょうわこく
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗 リビア
エチオピアの旗 社会しゃかい主義しゅぎエチオピア
ベナンの旗 ベナン
コンゴ人民共和国の旗 コンゴ人民じんみん共和きょうわこく
アンゴラの旗 アンゴラ
モザンビーク
 キューバ
ニカラグアの旗 ニカラグア
セーシェル
指導しどうしゃ指揮しきかん
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国の旗 ドワイト・D・アイゼンハワー
アメリカ合衆国の旗 ジョン・F・ケネディ
アメリカ合衆国の旗 リンドン・ジョンソン
アメリカ合衆国の旗 リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国の旗 ジェラルド・R・フォード
アメリカ合衆国の旗 ジミー・カーター
アメリカ合衆国の旗 ロナルド・レーガン
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・H・W・ブッシュ
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・マレンコフ
ソビエト連邦の旗 ニキータ・フルシチョフ
ソビエト連邦の旗 レオニード・ブレジネフ
ソビエト連邦の旗 ユーリ・アンドロポフ
ソビエト連邦の旗 コンスタンティン・チェルネンコ
ソビエト連邦の旗 ミハイル・ゴルバチョフ
戦力せんりょく
北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこうぐん[2]
そう兵力へいりょく625まんにん
うち地上ちじょうぐん324まんにん
じゅん軍事ぐんじ組織そしき64まんにん
予備よびやく914まんにん
けい1600まんにん以上いじょう
主力しゅりょく戦車せんしゃ3まん3800りょう
作戦さくせん1まん500
ワルシャワ条約じょうやく機構きこうぐん[2]
そう兵力へいりょく502まんにん
うち地上ちじょうぐん221まんにん
じゅん軍事ぐんじ組織そしき90まんにん
予備よびやく753まんにん
けい1345まんにん以上いじょう
主力しゅりょく戦車せんしゃ7まん8600りょう
作戦さくせん1まん
冷戦れいせん

冷戦れいせん(れいせん、えい: Cold War: Холодная война)もしくはつめたい戦争せんそう(つめたいせんそう)は、だい世界せかい大戦たいせん世界せかい二分にぶんした西側にしがわ諸国しょこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく盟主めいしゅとする資本しほん主義しゅぎ自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえい)と、東側ひがしがわ諸国しょこくソビエト連邦れんぽう盟主めいしゅとする共産きょうさん主義しゅぎ社会しゃかい主義しゅぎ陣営じんえい)との対立たいりつ構造こうぞうおもべい関係かんけいじく展開てんかいした。べい冷戦れいせん(べいそれいせん)や東西とうざい冷戦れいせん(とうざいれいせん)ともばれる。「冷戦れいせん」とは、戦火せんかまじえない戦争せんそう、つまりべいソが武力ぶりょく直接ちょくせつには衝突しょうとつしないという意味いみであるが、冷戦れいせんでは朝鮮ちょうせん戦争せんそうベトナム戦争せんそうソ連それん・アフガン戦争せんそうのように両国りょうこく介入かいにゅうして東西とうざいかく勢力せいりょく支援しえんする代理だいり戦争せんそう多数たすう勃発ぼっぱつした。

語源ごげん

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だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ直前ちょくぜん1945ねん2がつから1989ねん12月までの44年間ねんかんつづき、連合れんごうこくとしては味方みかた同士どうしであったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくソビエト連邦れんぽう軍事ぐんじりょく直接ちょくせつたたか戦争せんそうこらなかったので、軍事ぐんじりょく火力かりょく)で直接ちょくせつたたかう「熱戦ねっせん」「あつ戦争せんそう」にたいして、「冷戦れいせん」「つめたい戦争せんそう」とばれた。

冷戦れいせん」というかたりは、ジョージ・オーウェルジェームズ・バーナム理論りろんひょうしたとき使つかっており[3][4][5]のちバーナード・バルーク使つか[6]、アメリカの政治せいじ評論ひょうろんウォルター・リップマン1947ねん上梓じょうしした著書ちょしょ書名しょめい冷戦れいせん合衆国がっしゅうこく外交がいこう政策せいさく研究けんきゅう』に使用しようされたことから、その表現ひょうげん世界せかいてきひろまった。

かく陣営じんえいとも構成こうせいこく利害りがい損得そんとく完全かんぜん一致いっちしていたわけではなく、個別こべつ政策せいさく外交がいこう関係かんけいでは協力きょうりょくしないこともあったなど、イデオロギー概念がいねんとした包括ほうかつてき同盟どうめい協力きょうりょく関係かんけいである。

概要がいよう

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冷戦れいせん時代じだい  NATO諸国しょこく および   ワルシャワ条約じょうやく機構きこう諸国しょこく、それらの位置いち関係かんけい北極ほっきょく付近ふきん中心ちゅうしんにした地図ちずだと双方そうほう面積めんせき比較的ひかくてき忠実ちゅうじつしめす。
ベルリンのかべ
冷戦れいせんちゅう代表だいひょうてき事件じけんであるキューバ危機きき
1959ねん世界せかい様子ようす色分いろわけ)
(ワインレッド = ワルシャワ条約じょうやく (WT) 加盟かめいこく
朱色しゅいろ = ソ連それんほか同盟どうめいこく東側ひがしがわ諸国しょこく
あお紺色こんいろ = 北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく (NATO) 加盟かめいこく
水色みずいろ = アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくほか同盟どうめいこく西側にしがわ諸国しょこく
みどり = 植民しょくみん
灰色はいいろ = 同盟どうめい諸国しょこく
冷戦れいせん多様たよう―1980ねん世界せかい色分いろわけ)
(ワインレッド = ワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこく (WTO)
あか = どう条約じょうやく加盟かめいこく以外いがい東側ひがしがわ諸国しょこく
朱色しゅいろ = 共産きょうさん主義しゅぎ国家こっか以外いがいソ連それんよりの諸国しょこく
こん = 北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう (NATO) 加盟かめいこく
あお = どう条約じょうやく加盟かめいこく以外いがい西側にしがわ諸国しょこく
空色そらいろ = 同盟どうめい諸国しょこく永世えいせい中立ちゅうりつこく 黄色おうしょく = 孤立こりつ
あかてん = はんゲリラ運動うんどう発生はっせい地域ちいき
あおてん = 反共はんきょうゲリラ運動うんどう発生はっせい地域ちいき
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは1945ねんから1992ねんあいだ公式こうしきけい1,054かいかく実験じっけん実施じっしした

陣営じんえい

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冷戦れいせんでのりょう陣営じんえい対立たいりつ境界きょうかいであるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦れんぽう盟主めいしゅとする共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえいひがしヨーロッパあつまっていたことから「東側ひがしがわ」、たいするアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく盟主めいしゅとした資本しほん主義しゅぎ陣営じんえい西にしヨーロッパあつまっていたことから「西側にしがわ」とんで対峙たいじした。その対立たいりつ軍事ぐんじ外交がいこう経済けいざいだけでなく、宇宙うちゅう開発かいはつ航空こうくう技術ぎじゅつ文化ぶんか、スポーツなどにもおおきな影響えいきょうあたえた。また冷戦れいせん対立たいりつ構造こうぞうなか西にしヨーロッパは統合とうごうすすみ、欧州共同体おうしゅうきょうどうたい結成けっせいかった。ヤルタ会談かいだんからはじまってマルタ会談かいだんわったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。

ヨーロッパのみならず、アジア中東ちゅうとうみなみアメリカなどでも、それぞれの支援しえんする機構きこう同盟どうめいまれ、世界せかい二分にぶんした。このふたつの陣営じんえいあいだは、制限せいげんされているがために経済けいざいてき人的じんてき情報じょうほう交流こうりゅうすくなく、冷戦れいせん勃発ぼっぱつ当時とうじのイギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチルは、「てつのカーテン」と表現ひょうげんした。

アメリカ陣営じんえいソ連それんのどちらにもくみしない国家こっかは「だいさん世界せかい」とばれ、それぞれの陣営じんえい思惑おもわくなか翻弄ほんろうされた。しかし、こうしたりょう陣営じんえい思惑おもわく逆手さかてり、りょう陣営じんえい天秤てんびんせることで多額たがく援助えんじょす「援助えんじょ外交がいこう」も活発かっぱつおこなわれた。また、このべいりょう陣営じんえい対立たいりつ構造こうぞうを「大国たいこく覇権はけん主義しゅぎ」と否定ひていした国々くにぐには、インドなどを中心ちゅうしん同盟どうめい主義しゅぎ主張しゅちょうし、だいさん世界せかい連帯れんたいはかうごきもあった(といっても有名ゆうめい無実むじつであるくにおおかった)。なお、経済けいざい発展はってんすすんだ開発かいはつ途上とじょうこくが「だいさん世界せかい」とばれ、経済けいざい発展はってんおくれている開発途上国かいはつとじょうこくは「だいよん世界せかい」とばれることもある。

特徴とくちょう

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この冷戦れいせん時代じだい世界せかいは、

  1. 秩序ちつじょながきにわたって固定こていされており、変化へんかすくない
  2. しつよりりょう」が重視じゅうしされる大量たいりょう生産せいさん社会しゃかい
  3. かくすなわち原子力げんしりょくがものをいうテクノロジー

の3てん特徴付とくちょうづけられる。最終さいしゅうてきには1991ねん東側ひがしがわ諸国しょこく盟主めいしゅであったソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいしたことにより、日米にちべい西欧せいおうをはじめとする西側にしがわ陣営じんえい勝利しょうりわった。冷戦れいせんわると、アメリカが唯一ゆいいつちょう大国たいこくとして君臨くんりんしていた。しかし、2010年代ねんだいころより強権きょうけんてき国家こっかロシア軍事ぐんじてき復活ふっかつ共産党きょうさんとういちとう独裁どくさい国家こっか中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく軍事ぐんじ経済けいざいてききゅう成長せいちょう、またこれら2こくとのアメリカ、イギリス、フランス、日本にっぽん韓国かんこくオーストラリアフィリピンカナダなどの民主みんしゅ主義しゅぎくにとの対立たいりつや、ロシアとウクライナとの軍事ぐんじてき対立たいりつなど、変化へんかおおくなって流動りゅうどうせいしている。

べいソのデータ比較ひかく

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アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
人口じんこう統計とうけい 1990ねん人口じんこうは2おく4,870まんにんで、当時とうじ中国ちゅうごく、インド、ソビエト連邦れんぽう地球ちきゅうじょうで4番目ばんめおお人口じんこうであった[7] 1989ねん人口じんこうは2おく8,670まんにんで、中国ちゅうごくとインドに地球ちきゅうじょうで3番目ばんめおお人口じんこうであった[8]
地理ちり 世界せかいで3番目ばんめまたは4番目ばんめおおきいくにで、面積めんせきは9,630,000 km 2(3,720,000平方へいほうマイル)であった[9] 世界せかい最大さいだいしゅう実際じっさいには連邦れんぽうちょう国家こっか)で、表面積ひょうめんせきは22,270,000 km 2(8,600,000平方へいほうマイル)であった[8]
経済けいざい 1990ねんのGNPは5.2ちょうドル(2019ねんでの10.2ちょうドルに相当そうとう[10]世界せかい最大さいだい経済けいざい大国たいこくである。1979ねん以降いこう所得しょとく格差かくさ拡大かくだいもあったが、顧客こきゃく需要じゅようおうじて生産せいさんりょうまる需要じゅよう供給きょうきゅうもとづく資本しほん主義しゅぎ市場いちば経済けいざいろん[11]巨大きょだい産業さんぎょう基盤きばんと、だい規模きぼ近代きんだいされた農業のうぎょう大量たいりょう輸入ゆにゅう輸出ゆしゅつ 鉱物こうぶつ、エネルギー資源しげん金属きんぞく木材もくざいなどの豊富ほうふ資源しげんおおくの製造せいぞうぎょう製品せいひん入手にゅうしゅできるたか生活せいかつ水準すいじゅんかずおおくのだい規模きぼなグローバル企業きぎょう本拠地ほんきょちである。ブレトン・ウッズ会議かいぎにより、あめりかドルが世界せかい主要しゅよう基軸きじく通貨つうかとなった。G7に加盟かめいしている。マーシャル・プランなどで同盟どうめいこく経済けいざい支援しえん 1990ねんのGNPは2.7ちょうドル(2019ねんでの5.3ちょうドル相当そうとう[12]世界せかいだい2経済けいざい規模きぼ膨大ぼうだい鉱物こうぶつエネルギー資源しげん燃料ねんりょう供給きょうきゅう農業のうぎょうなどの資源しげん不足ふそくなやまされたが、最小限さいしょうげん輸入ゆにゅうひんおおむ自給じきゅうしていた。だい規模きぼ工業こうぎょう生産せいさんは、中央ちゅうおう集権しゅうけんてき国家こっか機関きかんによって指導しどうされており、効率こうりつせいたかい。経済けいざいてき目標もくひょう達成たっせいするために5カ年かねん計画けいかく頻繁ひんぱんもちいられた。雇用こよう保証ほしょう医療いりょう無料むりょう教育きょういく無料むりょうなどの経済けいざいてき利益りえき社会しゃかいのあらゆるレベルで提供ていきょうされた。ソ連それん平均へいきん寿命じゅみょう医療いりょう一部いちぶ指標しひょう米国べいこく上回うわまわっていたが、西欧せいおう先進せんしんこく水準すいじゅん下回したまわることがおおかった。経済けいざいちゅうおう東欧とうおう衛星えいせいこくむすびついている。
政治せいじ 立法府りっぽうふ行政ぎょうせい司法しほうあいだおこなわれる複雑ふくざつ抑制よくせい均衡きんこうシステムをつ、強力きょうりょく三権分立さんけんぶんりつ大統領だいとうりょうせい採用さいようしたリベラル立憲りっけん共和きょうわこく合衆国がっしゅうこく議会ぎかい立法りっぽうけんは、文書ぶんしょされた憲法けんぽう連邦れんぽう政府せいふ性質せいしつによって制限せいげんされていた。せんもん憲法けんぽう裁判所さいばんしょがないにもかかわらず、法律ほうりつ司法しほう審査しんさは、判例はんれいにより最高裁判所さいこうさいばんしょゆだねられている。大統領だいとうりょう国家こっか元首げんしゅであると同時どうじ政府せいふちょうでもあり、その内閣ないかく議会ぎかい信任しんにん必要ひつようはなかった。国民こくみん選挙せんきょは、2ねんに1連邦れんぽう議会ぎかい選挙せんきょのみであった。しかし、4ねんに1大統領だいとうりょう選挙せんきょは、事実じじつじょう選挙せんきょじんだんによる間接かんせつ選挙せんきょから、おもけされているとはいえ、直接ちょくせつ選挙せんきょ変更へんこうされた。民主党みんしゅとう共和党きょうわとうだい政党せいとうせい国連こくれん安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい常任じょうにん理事りじこくであり、2つの同盟どうめいこくフランスとイギリス)とともに存在そんざいする。 強力きょうりょくマルクス・レーニン主義しゅぎ国家こっかで、だい規模きぼ秘密ひみつ警察けいさつ組織そしきち、立法府りっぽうふ信任しんにんることを主眼しゅがんとした行政府ぎょうせいふ司法しほう牽制けんせい機能きのうつ、強力きょうりょく権力けんりょく融合ゆうごうがたじゅん議会ぎかい制度せいどした組織そしきされている。かれた憲法けんぽう名目めいもくじょう連邦れんぽうせいにもかかわらず、司法しほう審査しんさけん裁判所さいばんしょがないため、最高さいこうソビエトは事実じじつじょう議会ぎかい主権しゅけん享受きょうじゅしていた。正式せいしき大統領だいとうりょうしょく存在そんざいしないため、常任じょうにん理事りじかい集団しゅうだんてき国家こっか元首げんしゅ役割やくわりたしていた。国民こくみんレベルの一般いっぱん選挙せんきょは、2ねんに1最高さいこうソビエト連邦れんぽう選挙せんきょのみで、事前じぜんえらばれた候補者こうほしゃたいするイエス・ノーの投票とうひょうであった。しかし、1989ねん抜本ばっぽんてき政府せいふ改革かいかくにより、競争きょうそうせい選挙せんきょ直接ちょくせつ選挙せんきょえらばれる行政ぎょうせい長官ちょうかん憲法けんぽう裁判所さいばんしょ導入どうにゅうされ、いずれも既存きそん制度せいどとは初歩しょほてき三権分立さんけんぶんりつがなされた。いちとうせいで、共産党きょうさんとう制度せいどてき権力けんりょく独占どくせんしている。国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい常任じょうにん理事りじこく
外交がいこう関係かんけい 西にしヨーロッパラテンアメリカのいくつかのくにえい連邦れんぽう、いくつかのひがしアジア諸国しょこくイスラエルとのつよむすびつき。世界中せかいじゅう自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎ反共はんきょう主義しゅぎ独裁どくさい支持しじした。 中央ちゅうおうおよびひがしヨーロッパ、ラテンアメリカの国々くにぐに東南とうなんアジアおよびアフリカとのつよむすびつき。また、1961ねんまで中国ちゅうごく同盟どうめいむすんでいた。世界中せかいじゅうのマルクス・レーニン主義しゅぎこく支援しえんした。
軍事ぐんじ 世界一せかいいち軍事ぐんじ[13]世界せかい最大さいだい海軍かいぐんつぎの13カ国かこく海軍かいぐん合計ごうけい上回うわまわ[14]陸軍りくぐん空軍くうぐんはソビエト連邦れんぽう匹敵ひってきする。世界せかい各地かくち基地きち保有ほゆうしており、とくにワルシャワ条約じょうやく加盟かめいこく中心ちゅうしん西にしみなみひがしさんぽう不完全ふかんぜん環状かんじょう基地きち保有ほゆうしている。冷戦れいせん前半ぜんはんでは、世界せかい最大さいだい核兵器かくへいき保有ほゆうしていた。西にしヨーロッパの強力きょうりょく軍事ぐんじ同盟どうめいくにで、独自どくじかく戦力せんりょく保有ほゆうしていること。諜報ちょうほう機関きかんとのグローバルな情報じょうほうネットワーク 発展はってん途上とじょうこくじゅん軍事ぐんじ組織そしきやゲリラ組織そしきとの連携れんけい先進せんしんこく同盟どうめいこくとともに、防衛ぼうえい関連かんれん企業きぎょうつうじた世界せかい市場いちばけのだい規模きぼ兵器へいき生産せいさん 世界せかい最大さいだい陸軍りくぐん空軍くうぐんだい2海軍かいぐん保有ほゆう世界せかい各地かくち基地きち保有ほゆう冷戦れいせん後半こうはんには世界せかい最大さいだい核兵器かくへいき保有ほゆうした。ワルシャワ条約じょうやく創設そうせつしゃであり、なか東欧とうおう衛星えいせいこくつ。GRUやKGBだいいち部長ぶちょうとのグローバルな情報じょうほうネットワーク。発展はってん途上とじょうこくじゅん軍事ぐんじ組織そしきやゲリラ組織そしきとのつながり。だい規模きぼ武器ぶき産業さんぎょう生産せいさん世界せかいてき流通りゅうつう
メディア 憲法けんぽう言論げんろん自由じゆう報道ほうどう自由じゆう保障ほしょうされているが、冷戦れいせんつづいたためにある程度ていど検閲けんえつおこなわれており、とくベトナム戦争せんそうだい赤狩あかがさいには検閲けんえつもっときびしくなった。 憲法けんぽう保障ほしょうされている言論げんろん自由じゆう報道ほうどう自由じゆうは、市民しみん義務ぎむたすことと、政府せいふ利益りえき合致がっちすることの両方りょうほう条件じょうけんとしており、事実じじつじょう文化ぶんかとなっている。報道ほうどう明確めいかくにコントロールされ、検閲けんえつされた。すべてのくに労働ろうどうしゃ団結だんけつして、資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいブルジョワジー独裁どくさいばれる社会しゃかい打倒だとうし、すべての生産せいさん手段しゅだん公有こうゆうする社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかいえるべきだという社会しゃかい主義しゅぎ理想りそうを、プロパガンダを使つかって推進すいしんした。
文化ぶんか 音楽おんがく文学ぶんがく映画えいが、テレビ、料理りょうり、アート、ファッションなど、ゆたかな伝統でんとう世界せかいてき文化ぶんかてき影響えいきょうりょくつ。 文学ぶんがく映画えいが、クラシック音楽おんがく、バレエなどのゆたかな伝統でんとうがある。

冷戦れいせん展開てんかい

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起源きげん(1945ねん-)

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ヤルタ会談かいだん

冷戦れいせんはじまりは、そのイデオロギーてき側面そくめん注目ちゅうもくするならばロシア革命かくめいにまでさかのぼることができるが、ちょう大国たいこく対立たいりつという構図こうずは、ヤルタ体制たいせいもとめられる。

おも欧州おうしゅう分割ぶんかつあつかった、1945ねん2がつフランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、ヨシフ・スターリンソ連それん)、ウィンストン・チャーチルイギリス)によるヤルタ会談かいだんが、だい世界せかい大戦たいせん国際こくさいレジーム決定けっていした。7月のポツダム会談かいだんでさらに相互そうご不信ふしんふかまっていった。

1946ねんモスクワアメリカ大使館あめりかたいしかん勤務きんむしていたジョージ・ケナンの「長文ちょうぶん電報でんぽう」はジェームズ・フォレスタル海軍かいぐん長官ちょうかんつうじて、トルーマン政権せいけんない回覧かいらんされ、たい認識にんしき形成けいせい寄与きよした。のちに、アメリカの冷戦れいせん政策せいさく根幹こんかんとなる「反共はんきょうふう政策せいさく」につながった。

戦争せんそうによっておおきな損害そんがいこうむっていた欧州おうしゅう諸国しょこくにおいて、共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく伸張しんちょう危惧きぐされるようになった。とくフランスイタリアでは共産党きょうさんとう支持しじ獲得かくとくしつつあった。戦勝せんしょうこくであったイギリスもかつてのだいえい帝国ていこく面影おもかげもなく、独力どくりょくソ連それん対抗たいこうできるだけのちからのこっていなかった。そのため、西欧せいおうにおいてアメリカの存在そんざい役割やくわり否応いやおうなく重要じゅうようになっていった。1947ねんはいると、3月12にちにトルーマンは一般いっぱん教書きょうしょ演説えんぜつでイギリスにわってギリシャおよびトルコ防衛ぼうえいけることを宣言せんげんした。世界せかいてき反共はんきょう活動かつどう支援しえんすると宣言せんげんした、いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体ぜんたい主義しゅぎ自由じゆう主義しゅぎふたつの生活せいかつ様式ようしきというマニきょうてき世界せかいかん顕在けんざいした。さらに6月5にちにはハーヴァード大学だいがく卒業そつぎょうしきジョージ・マーシャル国務こくむ長官ちょうかんがヨーロッパ復興ふっこう計画けいかくマーシャル・プラン)を発表はっぴょうし、西欧せいおう諸国しょこくへのだい規模きぼ援助えんじょおこなった。こうして戦後せんごアメリカは、継続けいぞくてきヨーロッパ大陸たいりく関与かんよすることになり、孤立こりつ主義しゅぎから脱却だっきゃくすることになった。

東欧とうおう諸国しょこくのうち、ドイツ同盟どうめい関係かんけいにあったルーマニアブルガリアハンガリースロバキアにはソ連それんぐん進駐しんちゅうし、共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく中心ちゅうしんとする政府せいふ樹立じゅりつされた。当初とうしょは、「はんファシズム」をスローガンとする社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ勢力せいりょくとの連立れんりつ政権せいけんであったが、法務ほうむ内務ないむといった主要しゅようポストは共産党きょうさんとうにぎった。ヤルタ会談かいだん独立どくりつ回復かいふく約束やくそくされたポーランドでも、ロンドン亡命ぼうめい政府せいふ共産党きょうさんとうによる連立れんりつ政権せいけん成立せいりつしたが、選挙せんきょ妨害ぼうがい脅迫きょうはくなどによって、亡命ぼうめい政府せいふけい政党せいとう閣僚かくりょう排除はいじょされていった。こうした東欧とうおうにおける共産きょうさん決定けっていけるとともに、西側にしがわ諸国しょこく冷戦れいせん冷徹れいてつ現実げんじつきつけたのが、1948ねん2がつチェコスロバキア政変せいへんであった。またその前年ぜんねんの10がつにはコミンフォルム結成けっせいされ、社会しゃかい主義しゅぎいた多様たようみち否定ひていされ、ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ画一かくいつてき採用さいようされるようになった。他方たほうユーゴスラビアアルバニアにおける共産党きょうさんとう体制たいせい成立せいりつにおいて、ソ連それん主導しゅどうというよりも、戦中せんちゅうパルチザン闘争とうそうられる土着どちゃく勢力せいりょくによるうちはつてき要因よういんおおきかった。このてんが、1948ねんのユーゴ・ソ連それんろんそう遠因えんいんともなり、共産きょうさんけんからユーゴスラビアが追放ついほうされ、自主じしゅ管理かんり社会しゃかい主義しゅぎ同盟どうめい主義しゅぎ外交がいこうという独自どくじ路線ろせんあゆむことになった。

枢軸すうじくこく中心ちゅうしんであったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランスソ連それんが4分割ぶんかつして占領せんりょう統治とうちした。占領せんりょう行政ぎょうせい方式ほうしき賠償ばいしょう問題もんだいなどでソ連それんべいえいふつ対立たいりつふかまり、1949ねん西側にしがわ占領せんりょう地域ちいきにはドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく西にしドイツ)、ソ連それん占領せんりょう地域ちいきにはドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくひがしドイツ)が成立せいりつする。

ポーランド問題もんだい

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ヤルタ会談かいだん焦点しょうてんひとつがポーランド問題もんだいであった。べいえいにとって、だい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんした直接的ちょくせつてき理由りゆうがナチス・ドイツのポーランド侵攻しんこうであり、ソ連それんにとって安全あんぜん保障ほしょう観点かんてんから自国じこく友好ゆうこうてき政権せいけんがポーランドに樹立じゅりつされることがのぞまれていた。いみじくもスターリンミロヴァン・ジラスべたように、ポーランド問題もんだいとは、領土りょうど問題もんだいであると同時どうじ政権せいけん問題もんだいという位相いそうふくんでいたてんで、だい世界せかい大戦たいせん性格せいかく如実にょじつ表象ひょうしょうしていた。

またポーランドがソ連それんぐんによって解放かいほうされたことで、戦後せんごのポーランド政治せいじたいして、ソ連それん影響えいきょうりょくおおきくなる要因よういんとなった(敵国てきこくから解放かいほうした国家こっか占領せんりょうにおいて主導しゅどうけんにぎるという「イタリア方式ほうしき」がここでも作用さようしていた)。ヤルタ会談かいだんで、べいえいはスターリンにポーランドでの自由じゆう選挙せんきょ実施じっしもとめ、同意どういけたが、スターリンがかたったとされるように、べいえいにとって「名誉めいよ問題もんだい」である一方いっぽうで、ソ連それんにとってポーランド問題もんだいとは「安全あんぜん保障ほしょううえ死活しかつてき問題もんだい」であったため、スターリンは強硬きょうこう姿勢しせいった。

ルーズベルトの死後しご大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたトルーマンは、こうしたヤルタでのめをソ連それん反故ほごにしていることをり、国連こくれん創設そうせつ会議かいぎのため訪米ほうべいちゅうソ連それん外相がいしょうヴャチェスラフ・モロトフたい抗議こうぎした。その、アメリカとソ連それんは、対立たいりつするようになる(選挙せんきょまるまでの過程かていは、ヤルタ会談かいだんの「ポーランド問題もんだい」を参照さんしょうのこと)。

ベルリン問題もんだい

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ドイツの首都しゅとベルリンは、その国土こくど同様どうよう、4こく分割ぶんかつされた。その結果けっかベルリンは西側にしがわ占領せんりょう地区ちくだけが、ひがしドイツのなかしまのように位置いちすることになった。冷戦れいせん対立たいりつつよまるなかソ連それん西側にしがわ地区ちくにおける通貨つうか改革かいかくへの対抗たいこう措置そちとして、1948ねん西にしベルリンつながる鉄道てつどう道路どうろ封鎖ふうさした(ベルリン封鎖ふうさ)。これに対抗たいこうするため、西側にしがわ連合れんごうこく物資ぶっし空輸くうゆおこなって、ベルリン封鎖ふうさをなしくずしにした。そのため封鎖ふうさやく1ねんかれた。

冷戦れいせんのグローバル(1949ねん-1955ねん

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中華民国ちゅうかみんこく蔣介せきそうよしよわいアメリカ陸軍りくぐんスティルウェル中将ちゅうじょう

冷戦れいせん地球ちきゅう反対はんたいがわでもべいソがうため、周辺しゅうへんアジアにもつよ影響えいきょうあたえた。中国ちゅうごく大陸たいりくでは、戦後せんごすぐにアメリカの支援しえんする中国ちゅうごく国民党こくみんとうソ連それん支援しえんする中国共産党ちゅうごくきょうさんとう内戦ないせんひろげたが、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう勝利しょうり1949ねん共産きょうさん主義しゅぎ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく建国けんこく1950ねん2がつちゅう友好ゆうこう同盟どうめい相互そうご援助えんじょ条約じょうやくむすんでソ連それん同盟どうめいこくとなった。一方いっぽう、アメリカの支援しえんられた中国ちゅうごく国民党こくみんとう台湾たいわんとうのがれた。また、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく朝鮮ちょうせん戦争せんそう出兵しゅっぺいすることで、アメリカと直接ちょくせつ対立たいりつして台湾たいわん海峡かいきょう冷戦れいせん構造こうぞうはいられた。すでにモンゴルではソ連それん支援しえんした共産きょうさん主義しゅぎモンゴル人民じんみん共和きょうわこく1924ねん成立せいりつしていたが、戦後せんごになってべいえいふつとう承認しょうにんした。

朝鮮ちょうせん戦争せんそうたたか国連こくれんぐん

日本にっぽん統治とうちしていた朝鮮半島ちょうせんはんとうは、ヤルタ会談かいだんによって北緯ほくい38せんさかいきたソ連それんみなみをアメリカが占領せんりょうし、朝鮮半島ちょうせんはんとう分断ぶんだん国家こっかとなった。このため、1950ねん6がつソ連それん支援しえんけた北朝鮮きたちょうせん大韓民国だいかんみんこく突如とつじょ侵略しんりゃく開始かいしし、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつした。朝鮮ちょうせん戦争せんそうには「義勇軍ぎゆうぐん」の名目めいもく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん参戦さんせん戦闘せんとう状態じょうたい1953ねんまでつづいた。

フランスりょうインドシナでは、ベトナム共産きょうさん勢力せいりょく独立どくりつ目指めざし、だいいちインドシナ戦争せんそうこった。1954ねんにフランスが敗北はいぼくしたため、ベトナムが独立どくりつたが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく拡大かくだいおそれ、ジュネーブ協定きょうていによって北緯ほくい17南部なんぶ分割ぶんかつし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく傀儡かいらい軍事ぐんじ政権せいけん統治とうちするみなみベトナム建国けんこくした。これはベトナム戦争せんそうがねとなる。また、フランスとアメリカがつよ影響えいきょうりょくのこしたラオス1949ねん独立どくりつ)、カンボジア1953ねん独立どくりつ)でも共産きょうさん勢力せいりょくによる政権せいけん獲得かくとく運動うんどうこった。

ジョセフ・マッカーシー上院じょういん議員ぎいん

これら共産きょうさん勢力せいりょくのアジア台頭たいとう脅威きょういかんじたアメリカは、1951ねん8がつきゅう植民しょくみんフィリピンべい相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやく、9月にいちこく占領せんりょうしていたきゅう敵国てきこく日本にっぽん日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく同月どうげつイギリス連邦れんぽうオーストラリアニュージーランド太平洋たいへいよう安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく(ANZUS)、朝鮮ちょうせん戦争せんそう1953ねん8がつ韓国かんこくべいかん相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやく1954ねん中華民国ちゅうかみんこくべいはな相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやくつづけにむすび、1954ねん9がつにはアジアばんNATOといえる東南とうなんアジア条約じょうやく機構きこう(SEATO)を設立せつりつして西側にしがわれたほか中華民国ちゅうかみんこくへの支援しえん強化きょうかした。また中東ちゅうとうでも、アメリカをオブザーバーとした中東ちゅうとう条約じょうやく機構きこう(バグダッド条約じょうやく機構きこう、METO)を設立せつりつし、共産きょうさん主義しゅぎふうみをはかった。

このように冷戦れいせんすすなか1950年代ねんだい前半ぜんはんのアメリカにおいては、上院じょういん政府せいふ活動かつどう委員いいんかい常設じょうせつ調査ちょうさしょう委員いいんかい委員いいんちょうつとめるジョセフ・マッカーシー上院じょういん議員ぎいんが、政府せいふアメリカぐん内部ないぶ共産きょうさん主義しゅぎしゃあぶすことを口実こうじつとした活動かつどう、いわゆる「赤狩あかが旋風せんぷうこし、おおくの無実むじつ政府せいふ高官こうかんぐん将官しょうかんだけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国がいこく著名ちょめいじんでさえ共産きょうさん主義しゅぎしゃのレッテルをられ解雇かいこ、もしくは国外こくがい追放ついほうされた。

1950年代ねんだいにアメリカのそう生産せいさん世界せかいやく4わりかね外貨がいか保有ほゆうやく5わりのぼり、名実めいじつども世界せかい盟主めいしゅとなっていた。このようなアメリカを中心ちゅうしんとするアジア太平洋たいへいよう同盟どうめいは、戦禍せんかこうむらずに一人ひとりちできたアメリカ経済けいざいによってささえられていた。

おも出来事できごと

ゆきどけ(1955ねん-1958ねん

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ニキータ・フルシチョフヨシフ・スターリン

1953ねんスターリンが死去しきょし、冷戦れいせん状態じょうたい緩和かんわするきざしがはじめた。同年どうねん朝鮮ちょうせん戦争せんそう休戦きゅうせん合意ごういされ、1955ねんにはNATOに対抗たいこうするワルシャワ条約じょうやく機構きこう結成けっせいオーストリア永世えいせい中立ちゅうりつ宣言せんげんされて東西とうざい緩衝かんしょうたいとなり、連合れんごう国軍こくぐん撤退てったいした。またジュネーヴべいえいふつ首脳しゅのう会談かいだんし、ソ連それん西にしドイツが国交こっこう樹立じゅりつソ連それん翌年よくねん日本にっぽんとも国交こっこう回復かいふくし、1959ねんにはフルシチョフがアメリカを訪問ほうもんするなど、冷戦れいせんの「ゆきどけ」ムードを演出えんしゅつした。

この時期じき東側ひがしがわ陣営じんえいではソ連それん覇権はけんらぎつつあった。スターリンの後継こうけいしゃあらそいをいたフルシチョフは、1956ねんだい20かいソ連それん共産党きょうさんとう大会たいかいスターリン批判ひはんおこなった。この演説えんぜつ反響はんきょうおおきく、ソ連それん衛星えいせい諸国しょこくおおきな衝撃しょうげきをもたらし、東欧とうおう各地かくちはん暴動ぼうどうきた。ポーランドでははん暴動ぼうどういで、国民こくみん人気にんきたかかったヴワディスワフ・ゴムウカとうだいいち書記しょきき、ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ是正ぜせいおこなった。ポーランドのうごきに触発しょくはつされるかたちで、ハンガリーでも政権せいけん交代こうたいこり、ナジ・イムレ政界せいかい復帰ふっきしたが、国民こくみん改革かいかく要求ようきゅうきずられるかたちで、共産党きょうさんとう体制たいせい放棄ほうき、ワルシャワ条約じょうやく機構きこうからの脱退だったい中立ちゅうりつ宣言せんげんするにいたり、ソ連それんぐん介入かいにゅうまねいた(ハンガリー動乱どうらん)。

一方いっぽう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくはスターリン批判ひはん反発はんぱつした。1960年代ねんだいにはキューバ危機きき部分ぶぶんてきかく実験じっけん禁止きんし条約じょうやくでしばしば対立たいりつダマンスキーとう事件じけんなどの国境こっきょう紛争ふんそうこすにいたった。

おも出来事できごと

危機きき時代じだい(1958ねん-1962ねん

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U-2撃墜げきつい事件じけん撃墜げきついされた機体きたい残骸ざんがい

たがいをつねに「仮想かそう敵国てきこく」と想定そうていし、仮想かそう敵国てきこく戦争せんそうになった場合ばあい勝利しょうり保障ほしょうしようと、りょう国共こっきょう勢力せいりょく拡大かくだいきそい、軍備ぐんび拡張かくちょうつづいた。この象徴しょうちょうてき存在そんざいが、核兵器かくへいき開発かいはつ宇宙うちゅう開発かいはつ競争きょうそうである。りょう陣営じんえいは、にはを、かくにはかく、とのかんがかたからそれぞれ核兵器かくへいき大量たいりょう保有ほゆうするようになる。また、大陸たいりくあいだ弾道だんどうミサイル共通きょうつう技術ぎじゅつをもつロケットU-2などのこう高度こうど飛行ひこうする偵察ていさつ宇宙うちゅうからてき監視かんしするための人工じんこう衛星えいせい開発かいはつ没頭ぼっとうし、国威こくい発揚はつようのために有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこうつき探査たんさ活動かつどう活発かっぱつした。

キューバで最初さいしょ発見はっけんされたソ連それんMRBMアルテミサしゅうサン・クリストバル)

しかし、ソ連それんとアメリカの直接ちょくせつ衝突しょうとつは、皮肉ひにくにもかく脅威きょういによる牽制けんせい発生はっせいしなかった。とく1962ねんキューバ危機ききによって、べいソの全面ぜんめんかく戦争せんそう危機きき現実げんじつしたため、翌年よくねんから緊張きんちょう緩和かんわ外交がいこう活動かつどう開始かいしされるようになったのである。

その一方いっぽうだいさん世界せかい諸国しょこくでは、かく陣営じんえい支援しえんもと実際じっさい戦火せんかがった。これは、ふたつの大国たいこくあつ戦争せんそう肩代かたがわりする、代理だいり戦争せんそうばれた。また、キューバ危機きき契機けいきに「アメリカの裏庭うらにわ」とばれる中南米ちゅうなんべい諸国しょこくたいする影響えいきょうりょくることをくわだてたソ連それんうごきにたいし、アメリカはブラジルボリビアウルグアイなど各国かっこく親米しんべい軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけんへの肩入かたいれと共産きょうさん勢力せいりょく排除はいじょおこない、その結果けっか共産きょうさん勢力せいりょく排除はいじょ成功せいこうした。しかし、その冷戦れいせん終結しゅうけつまでのながきにおいて、これらの中南米ちゅうなんべい諸国しょこくでは軍事ぐんじ政権せいけんによる内戦ないせん汚職おしょく軍事ぐんじ勢力せいりょく同士どうしによるクーデター横行おうこうし、民衆みんしゅう貧困ひんこんにあえぐことになる。

ベルリン危機きき(1958ねん-1961ねん

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ウィーン会談かいだんにおけるフルシチョフとジョン・F・ケネディ大統領だいとうりょう

1949ねん以降いこう分断ぶんだんじょうきょう既成きせい事実じじつしつつあったドイツ問題もんだい暫定ざんていてきかたちとはいえ、「解決かいけつ」をたのが、1958ねんからはじまったベルリン危機きき (1958ねん)ドイツばんであった。当時とうじひがしドイツにおける過酷かこく社会しゃかい主義しゅぎ政策せいさくによって、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ知識ちしきじんそうにおける反発はんぱつたかまり、そのおおくが西にしベルリンを経由けいゆして、西にしドイツへと逃亡とうぼうした。社会しゃかい主義しゅぎ建設けんせつ中核ちゅうかくとなるべき階層かいそう流出りゅうしゅつ危機ききかんつのらせたウルブリヒトは、ドイツ問題もんだい解決かいけつをフルシチョフにうったえるとともに、西側にしがわとの交渉こうしょう挫折ざせつしたさいには、人口じんこう流出りゅうしゅつ物理ぶつりてき阻止そしすることを選択肢せんたくしとして提起ていきした。フルシチョフの要求ようきゅうたいし、西側にしがわ陣営じんえい拒否きょひ姿勢しせいつらぬいたため、1961ねん8がつに、西にしベルリンをかこかたち鉄条てつじょうもう敷設ふせつされ、のちかべへと発展はってんした(ベルリン危機きき (1961ねん)英語えいごばん)。この当時とうじ、ベルリン市長しちょうつとめていたのが、1969ねん首相しゅしょうとして東方とうほう政策せいさく推進すいしんしたヴィリー・ブラントであった。かれ東方とうほう政策せいさく背景はいけいには、ベルリン危機きき経験けいけん反映はんえいされていた。

おも出来事できごと

冷戦れいせん変容へんよう(1963ねん-1968ねん

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ベトナム戦争せんそうちゅう前線ぜんせん降下こうかするアメリカぐんのヘリコプター

キューバ危機ききによってかく戦争せんそう寸前すんぜん状況じょうきょう経験けいけんしたべい両国りょうこくは、かく戦争せんそう回避かいひするというてんにおいて共通きょうつう利益りえき見出みいだした。この結果けっかべいえいソ3こくあいだ部分ぶぶんてきかく実験じっけん禁止きんし条約じょうやくホットライン協定きょうていなどが締結ていけつされた。しかし、部分ぶぶんてきかく実験じっけん禁止きんし条約じょうやく中国ちゅうごく・フランスが反対はんたいし、東西とうざいども一枚岩いちまいいわでないことが明白めいはくとなった。シャルル・ド・ゴール統治とうちのフランスは、アメリカ主導しゅどうNATO反対はんたいし、1964ねんには同様どうようべいソと距離きょりいていた中国ちゅうごくを(中国ちゅうごく地続じつづきな香港ほんこんつイギリスをのぞいて)西側にしがわ諸国しょこくではもっとはや国家こっか承認しょうにんした。また、1967ねんにド・ゴールはそとおとずれさきであるカナダで開催かいさいされたモントリオール万国博覧会ばんこくはくらんかいで、「自由じゆうケベック万歳ばんざい!」と演説えんぜつし、いまつづケベック独立どくりつ運動うんどうけた。

べい両国りょうこく軍拡ぐんかく競争きょうそう進行しんこうし、ベトナム戦争せんそう契機けいきとする反戦はんせん運動うんどう黒人こくじん公民こうみんけん運動うんどうとそれに対抗たいこうする人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎしゃ対立たいりつなどによって国内こくない混乱こんらんマーティン・ルーサー・キングロバート・ケネディなどの要人ようじん暗殺あんさつ横行おうこうして社会しゃかい不安ふあんおちいった。だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく以外いがい主要しゅよう交戦こうせんこく戦災せんさいいちじるしく疲弊ひへいしていたので、世界せかい経済けいざい規模きぼたいするアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経済けいざい規模きぼ比率ひりつ突出とっしゅつしておおきかったが、戦災せんさいから復興ふっこうした日本にっぽん西にしドイツ未曾有みぞう経済けいざい成長せいちょうげ、西欧せいおう経済けいざいてき復活ふっかつするなかで、世界せかい経済けいざい規模きぼたいするアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経済けいざい規模きぼ比率ひりつ相対そうたいてき減少げんしょうした。

チェコスロバキアプラハのはるばれる民主みんしゅ改革かいかく路線ろせんったが、ソ連それん制限せいげん主権しゅけんろんもとづきワルシャワ条約じょうやく機構きこうぐんによる軍事ぐんじ介入かいにゅうおこな武力ぶりょくでこれを弾圧だんあつした。なお、ニコラエ・チャウシェスクひきいるルーマニア社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくはワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこくでありながらソ連それん介入かいにゅう公然こうぜん批判ひはんして独自どくじ路線ろせんおこない、アメリカなど西側にしがわ諸国しょこくから巨額きょがく援助えんじょけた。また、アルバニアはスターリン批判ひはん以来いらい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくりの姿勢しせいつらぬいてワルシャワ条約じょうやく機構きこうはなれ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくリチャード・ニクソンの訪中ほうちゅう契機けいきにアメリカにちかづいてソ連それん決別けつべつ北朝鮮きたちょうせん主体しゅたい思想しそうかかげてソ連それんから離反りはんした。イタリア、スペイン、日本にっぽんなど西側にしがわ諸国しょこく共産党きょうさんとうのうちいくつかはソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ反発はんぱつし、ソ連それん影響えいきょうから離脱りだつした(ユーロコミュニズム)。こうしていまいた共産きょうさん主義しゅぎ多極化たきょくかこった。

おも出来事できごと

デタントの時代じだい(1967ねん-1979ねん

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1960年代ねんだいまつから緊張きんちょう緩和かんわ、いわゆるデタント時代じだい突入とつにゅうした。べいあいだ戦略せんりゃく兵器へいき制限せいげん交渉こうしょう (SALT)を開始かいし1972ねん協定きょうてい核兵器かくへいき量的りょうてき削減さくげんおこなわれ、緊張きんちょう緩和かんわ世界せかいかんじることができた。

このころにはおな共産きょうさん陣営じんえいでありながらソ連それん中国ちゅうごく路線ろせん対立たいりつはあらゆる方面ほうめん亀裂きれつむようになってきており、ちゅう国境こっきょう紛争ふんそうなど実力じつりょく行使こうしともなうほどになってきていた。しるし戦争せんそうちゅうソの代理だいり戦争せんそう様相ようそうていした。

このようななかソの対立たいりつたアメリカはソ連それん牽制けんせいする目的もくてきで、リチャード・ニクソンパキスタンルーマニアなどの仲介ちゅうかいにより1972ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもんし、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく承認しょうにんして外交がいこう貿易ぼうえき開始かいしし、ひがしアジアにおける冷戦れいせん対立たいりつじくであったべいちゅう関係かんけい改善かいぜん1972ねんには日本にっぽん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく国交こっこう正常せいじょうした。

また、1973ねんきたベトナムとアメリカは和平わへい協定きょうてい調印ちょういんし、アメリカぐんはベトナムから撤退てったいした。アメリカは建国けんこく以来いらいはつ屈辱くつじょくてき敗北はいぼくあじわうことになった。その1975ねん4がつみなみベトナム首都しゅとであるサイゴンきたベトナムのち、同時どうじラオスカンボジアでも共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく政権せいけん獲得かくとくし、インドシナ半島いんどしなはんとう完全かんぜん赤化せっかされた。

一般いっぱん市民しみん日常にちじょう生活せいかつ仕事しごと役立やくだ多種たしゅ多様たよう商品しょうひんやサービスが開発かいはつ供給きょうきゅうされ、世界せかい経済けいざい財政ざいせい貿易ぼうえき投資とうし通貨つうか発行はっこういちじるしく拡大かくだいしたので、金本位きんほんいせい外国がいこく為替かわせ固定こてい相場そうばせい維持いじ不可能ふかのうになり、管理かんり通貨つうか制度せいど変動へんどう相場そうばせい移行いこうした。

ヨーロッパでは、1969ねん成立せいりつした西にしドイツのブラント政権せいけん東方とうほう政策せいさくすすめ、東側ひがしがわとの関係かんけい改善かいぜんした。また1972ねんに、かねてからソ連それん提案ていあんしていたヨーロッパ全体ぜんたい安全あんぜん保障ほしょう協議きょうぎする「ヘルシンキ・プロセス」がはじまり、1975ねん欧州おうしゅう安全あんぜん保障ほしょう協力きょうりょく会議かいぎ成立せいりつつながった。しかしかく削減さくげんする一方いっぽうソ連それん1977ねんから中距離ちゅうきょり弾道だんどうミサイル配備はいびした。これに対抗たいこうし、アメリカは1979ねん12月に中距離ちゅうきょりかく戦力せんりょく(INF)を西欧せいおう配備はいびすると発表はっぴょうした。またおながつソ連それんアフガニスタンに侵攻しんこうしたため、東西とうざいはまたも緊張きんちょうし、デタントの時代じだい終焉しゅうえんした。

中東ちゅうとうでは、だいよん中東ちゅうとう戦争せんそうき、おもソ連それん支援しえんするアラブ諸国しょこく政治せいじてき成果せいかをおさめ、石油せきゆ危機ききによって西側にしがわ先進せんしんこく深刻しんこく打撃だげきあたえた。しかし、よんにわたる中東ちゅうとう戦争せんそう主導しゅどうしてきたエジプト戦争せんそうまえソ連それん軍事ぐんじ顧問こもんだん追放ついほう[15]戦争せんそうソ連それん関係かんけい断絶だんぜつし、ソ連それん対立たいりつするアメリカや中国ちゅうごくから軍事ぐんじてき経済けいざいてき援助えんじょはじ[16][17][18][19]、アメリカの主導しゅどうキャンプ・デービッド合意ごうい成立せいりつし、さらにアメリカは西側にしがわたいする石油せきゆ禁輸きんゆ主導しゅどうしたサウジアラビアドル決済けっさい原油げんゆ安定あんていてき供給きょうきゅうすることとえに安全あんぜん保障ほしょう提供ていきょうする協定きょうてい(ワシントン・リヤド密約みつやく)をわしてオイルダラー確立かくりつすることでドル防衛ぼうえい成功せいこう[20][21][22][23][24]単純たんじゅんべい対立たいりつ反映はんえいされてきた中東ちゅうとうでもあらたな冷戦れいせん構図こうずまれつつあった。

アフリカでは、1978ねんからエチオピアソマリアあいだオガデン戦争せんそうこっていたが、エチオピアが1974ねん軍事ぐんじクーデター社会しゃかい主義しゅぎ宣言せんげんしたため、ソ連それんとキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国ちゅうごくとルーマニア、エジプトなどが支援しえんした。アンゴラ1975ねん独立どくりつ直後ちょくごから3つの武装ぶそう勢力せいりょく対立たいりつ内戦ないせんとなり、これにみなみアフリカザイールキューバ介入かいにゅう間接かんせつてきソ連それん中国ちゅうごく・アメリカが援助えんじょおこない、泥沼どろぬました。

東南とうなんアジアでは、共産きょうさん主義しゅぎ国家こっか同士どうしカンボジア・ベトナム戦争せんそうき、ソ連それんりのベトナムの侵攻しんこう親中しんちゅうこく民主みんしゅカンプチア崩壊ほうかいするも民主みんしゅカンプチアの亡命ぼうめい政府せいふ中国ちゅうごくASEAN日本にっぽん・アメリカの支援しえん国連こくれん総会そうかい議席ぎせきたもつづけ、タイとの国境こっきょうしんベトナムのヘン・サムリン政権せいけんたいしゲリラ活動かつどうおこなってカンボジア内戦ないせん長期ちょうきした。

ラテンアメリカでは、チリにおいて民主みんしゅてき社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんであるサルバドール・アジェンデ政権せいけん転覆てんぷくさせたチリ・クーデター成立せいりつしたアウグスト・ピノチェト中国ちゅうごくとルーマニアをのぞ共産きょうさんけん断交だんこうし、親米しんべい軍事ぐんじ政権せいけん南米なんべい諸国しょこく共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく排除はいじょ連携れんけいするコンドル作戦さくせんげた。

ソ連それん1970年代ねんだい世界せかいてき勢力せいりょくばし、統一とういつベトナム、カンボジア(おやベトナム政権せいけん)、ラオス、エチオピア、みなみイエメン共産きょうさん主義しゅぎ政府せいふ協力きょうりょく関係かんけいきずき、アンゴラ、モザンビークニカラグアなどで共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく加担かたんして紛争ふんそう介入かいにゅうし、シリアイラクなどアメリカがちかづきにくいくに接近せっきんし、友好ゆうこう関係かんけいきずいた。ソ連それん影響えいきょうりょく1980年代ねんだいにかけてだいさん世界せかいひろがった。

しん冷戦れいせん(1979ねん-1985ねん

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チャールズ・ウィルソンムジャーヒディーン

1978ねん成立せいりつした共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんささえるために、1979ねんソ連それんアフガニスタンに侵攻しんこうした。このため、西側にしがわ世論せろん反発はんぱつして東西とうざい再度さいど緊張きんちょう影響えいきょう1980ねんモスクワオリンピックへの西側にしがわくわえて中国ちゅうごく、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど親米しんべいアラブイスラム諸国しょこくくわわったボイコットとしてあらわれた。東側ひがしがわ報復ほうふくとして、1984ねんロサンゼルスオリンピックボイコットした。アメリカはCIAチャールズ・ウィルソンらによる総額そうがくすうじゅうおくドル規模きぼ極秘ごくひ武器ぶき供給きょうきゅうなどによる支援しえんにてアフガニスタン反共はんきょうムスリム武装ぶそう勢力せいりょくムジャヒディン」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助えんじょした[25]。また、ソ連それん対立たいりつする中国ちゅうごく武器ぶき訓練くんれんでムジャヒディンを支援しえんした[26]戦争せんそう短期たんき終結しゅうけつさせるソ連それん目論見もくろみはずれ、侵攻しんこう長期ちょうきによってソ連それん財政ざいせい逼迫ひっぱくし、アメリカは間接かんせつてきソ連それん弱体じゃくたいすることに成功せいこうした。

人々ひとびとは、このアフガニスタンの騒乱そうらんによって、世界せかいには東西とうざい陣営じんえいとはべつにもうひとつの勢力せいりょくがあることにはじめた。それはイスラム主義しゅぎばれる勢力せいりょくであり、ふたつのイデオロギー対立たいりつとはまったくことなる様相ようそうていした。アフガニスタンではアメリカはソ連それんたおすために、この勢力せいりょく支援しえんしたが、1979ねんイラン革命かくめいさいには、国際こくさいほう無視むししてアメリカ大使館あめりかたいしかんが1ねんあまりにわたり占拠せんきょされた。アメリカは大使館たいしかんいん救出きゅうしゅつのためにぐん介入かいにゅうさせたが失敗しっぱい、アメリカぐん無力むりょくさを露呈ろていした(イーグルクロー作戦さくせん)。イスラム教いすらむきょう創始そうしした預言よげんしゃムハンマド子孫しそんサイイド)でイランの最高さいこう指導しどうしゃとなったルーホッラー・ホメイニーは「ソ連それんしょう悪魔あくま米国べいこくだい悪魔あくま」「我々われわれ西にしでもひがしでもない」としてイスラム主義しゅぎ時代じだいうたった[27]

このイラン革命かくめいによってアラブ諸国しょこく東西とうざい諸国しょこく動揺どうようし、1980ねんイラン・イラク戦争せんそうとなっていた。欧米おうべいちゅうはイスラム革命かくめい世界せかいひろがることやさらなる石油せきゆ危機ききおそれ、イラク援助えんじょして中東ちゅうとう最大さいだい軍事ぐんじ大国たいこく仕立したてた。戦争せんそう長期ちょうきにわたり、1987ねんにはべいぐん介入かいにゅうしたが、決着けっちゃくのつかないままにわった。しかし、このときのアメリカによる中東ちゅうとう政策せいさくが、21世紀せいき世界せかい情勢じょうせいおおきな影響えいきょうあたえることになった。一方いっぽうソ連それん国内こくない情勢じょうせい変化へんか下記かき参照さんしょう)によって1989ねんには泥沼どろぬまのアフガンから完全かんぜん撤退てったい世界せかいから急速きゅうそくソ連それん影響えいきょうりょくよわまりつつあった。

おも出来事できごと

改革かいかくから冷戦れいせん終結しゅうけつソ連それん崩壊ほうかい(1985ねん-1991ねん

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ゴルバチョフによる改革かいかく(1985ねん-1988ねん

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ちょう大国たいこく同士どうしのリーダーが会談かいだんしている様子ようす(1985ねんロナルド・レーガンミハイル・ゴルバチョフ
INFに調印ちょういんするミハイル・ゴルバチョフロナルド・レーガン
ボリス・エリツィンジョージ・H・W・ブッシュ

1985ねんソ連それん共産党きょうさんとう書記しょきちょう就任しゅうにんしたミハイル・ゴルバチョフは、改革かいかくペレストロイカ)およびしん思考しこう外交がいこうかかげて、経済けいざい疲弊ひへいした国内こくない体制たいせい改良かいりょうと、予算よさんあん大幅おおはば削減さくげんした大胆だいたん軍縮ぐんしゅく提案ていあんおこない、さらには西側にしがわとの関係かんけい改善かいぜんす。

1987ねんにアメリカとのあいだ中距離ちゅうきょりかく戦力せんりょく全廃ぜんぱい条約じょうやく(INF)を調印ちょういんした。この緊張きんちょう緩和かんわによって、両国りょうこく代理だいり戦争せんそうしていたオガデン戦争せんそうアンゴラ内戦ないせん1988ねんから順次じゅんじ終結しゅうけつし、リビアフランス介入かいにゅうしたチャド内戦ないせん終結しゅうけつした。カンボジア内戦ないせんも1988ねんから和平わへい会議かいぎ開催かいさいされた。

東欧とうおう革命かくめい冷戦れいせん終結しゅうけつ(1988ねん-1989ねん

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また、すでに1980年代ねんだい初頭しょとうから独立どくりつ自主じしゅ管理かんり労働ろうどう組合くみあい連帯れんたい結成けっせいされ民主みんしゅうごきがられていたポーランドでは1989ねん選挙せんきょポーランド統一とういつ労働ろうどうしゃとう失脚しっきゃくして政権せいけん交代こうたいし、同様どうよう東欧とうおう諸国しょこくなかでも比較的ひかくてきはやくから改革かいかく路線ろせんおこなっていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連それんしき共産党きょうさんとう体制たいせい相次あいついでたおれ、なつにはひがしドイツ国民こくみん西にしドイツへこれらのくに大量たいりょう脱出だっしゅつした。

ひがしドイツはあくまで強硬きょうこう社会しゃかい主義しゅぎ路線ろせん民衆みんしゅうおさもうとしたが、10月のライプツィヒおこなわれた月曜げつようデモには10まんにん参加さんかし、事態じたい収拾しゅうしゅうできなかった社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう内部ないぶでは、幹部かんぶであったエーリッヒ・ホーネッカー求心力きゅうしんりょく低下ていかし、まもなくそう辞職じしょくまれた。後任こうにん指導しどう民主みんしゅもとめるうごきをせきめられず、ひがしドイツは政治せいじ経済けいざい崩壊ほうかい状態じょうたいおちいった。

このため、11月9にちにはひがしドイツがベルリンのかべ開放かいほう宣言せんげん冷戦れいせん象徴しょうちょうともいうべきベルリンのかべ崩壊ほうかいした。ルーマニアでも革命かくめい勃発ぼっぱつし、ニコラエ・チャウシェスク大統領だいとうりょう夫妻ふさい射殺しゃさつされ、共産党きょうさんとう政権せいけんたおされた。これらひがしヨーロッパの共産党きょうさんとう政権せいけん連続れんぞくてきたおされた革命かくめいを、東欧とうおう革命かくめいという。1989ねん12月には、地中海ちちゅうかいマルタとうで、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュ会談かいだんし、冷戦れいせん終結しゅうけつ宣言せんげんした[28]。しかし、中国ちゅうごくではろくよん天安門てんあんもん事件じけんき、ひがしアジアの共産党きょうさんとう政権せいけんたけのカーテン)では民主みんしゅドミノが武力ぶりょく抑制よくせいされた。

ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい(1989ねん-1991ねん

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1990ねん8がつきた湾岸わんがん戦争せんそうでは、欧米おうべいちゅう世界せかいだいよん軍事ぐんじ大国たいこく仕立したてたイラクのクウェート侵攻しんこうたいするアメリカ主導しゅどう武力ぶりょく行使こうし容認ようにん決議けつぎソ連それん同調どうちょうし、べいソできょくしてきた世界せかいはアメリカ一極いっきょくへのきざしがはじめた。アメリカは、1990ねん8がつのイラクぐんによるクウェート侵攻しんこう湾岸わんがん危機きき)を皮切かわきりにアラビア半島はんとう展開てんかいよく1991ねん1がつにイラクとのあいだ湾岸わんがん戦争せんそうり、これに勝利しょうりした。湾岸わんがん危機ききさいに1991ねん1がつ中旬ちゅうじゅんからイラクの要請ようせいけていたソ連それん和平わへいあん当時とうじ欧州共同体おうしゅうきょうどうたい外相がいしょう会議かいぎ賛成さんせいされ、翌日よくじつにイラクと無条件むじょうけん全面ぜんめん撤退てったい合意ごういしたが、ブッシュ大統領だいとうりょうはこれを退しりぞけた(数日すうじつ、シュワルツコフがソ連それんあん修正しゅうせいして停戦ていせんまった)。イラクをくだしたアメリカは世界せかい盟主めいしゅとして自信じしんふかめ、そのパレスチナ問題もんだい中心ちゅうしん中東ちゅうとうへの関心かんしん介入かいにゅうふかめていく。湾岸わんがん戦争せんそうはその世界せかい情勢じょうせい形成けいせいするじょう非常ひじょう重要じゅうようだったといえる。

ソ連それん国内こくないではペレストロイカ路線ろせんまりつつあった。バルトさんこく独立どくりつ要求ようきゅうたかまり、1988ねん11月にエストニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく主権しゅけん宣言せんげん同年どうねんリトアニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくでもサユディスによる独立どくりつ運動うんどう加速かそくにより、国旗こっきがソビエト編入へんにゅう以前いぜんのデザインにもどされた。1989ねん7がつリトアニア共産党きょうさんとうソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとうからの独立どくりつ宣言せんげんした。

1990ねん3がつから6がつにかけて東欧とうおう各国かっこく一斉いっせい選挙せんきょ実施じっしされ、ほとんどのくに共産党きょうさんとうだいいちとうから転落てんらくした。バルトさんこくでも共産党きょうさんとう少数しょうすう野党やとうとなり、バルトさんこくかく最高さいこう会議かいぎ独立どくりつ宣言せんげん採択さいたくした。ソ連それん政府せいふはバルトさんこくたいして軍事ぐんじ行動こうどうこし、1991ねん1がつ日曜日にちようび事件じけん(リトアニア)などで、ソ連それんぐん民間みんかんじん衝突しょうとつする事態じたいになった。

ソ連それんは1991ねん3がつ、バルトさんこくのぞ首脳しゅのうが、連邦れんぽう権限けんげん縮小しゅくしょうしたしん連邦れんぽう構想こうそう合意ごういした。同年どうねん3がつ17にちにはしん連邦れんぽう条約じょうやく締結ていけつするための布石ふせきとして、連邦れんぽうせい維持いじ賛否さんぴ国民こくみん投票とうひょう英語えいごばん、ロシアばん)がかく共和きょうわこくおこなわれ、投票とうひょうしゃの76.4%が連邦れんぽうせい維持いじ賛成さんせいひょうとうじることとなった。しかし、すで分離ぶんり独立どくりつ宣言せんげんしていたバルトさんこく(エストニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくラトビア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく、リトアニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく)、モルダビア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくグルジア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくアルメニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく投票とうひょうをボイコットした。

1991ねん6がつ12にちソ連それん体制たいせいない機能きのう形骸けいがいしていたロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくで、選挙せんきょにより大統領だいとうりょう当選とうせんしたボリス・エリツィンは、国名こくめいを「ロシア共和きょうわこく」に改称かいしょうし、主権しゅけん宣言せんげんして連邦れんぽうからの離脱りだつ表明ひょうめいした。

また、べい両国りょうこくは1991ねん7がつだいいち戦略せんりゃく兵器へいき削減さくげん条約じょうやく(START)に調印ちょういんした。8がつ20日はつか予定よていされていたしん連邦れんぽう条約じょうやく調印ちょういんまえに、ゴルバチョフの改革かいかく反抗はんこうした勢力せいりょく軍事ぐんじクーデターこし、ゴルバチョフを滞在たいざいさきクリミア軟禁なんきん状態じょうたいいた。しかし、クーデターはボリス・エリツィン活躍かつやくやクーデター勢力せいりょく準備じゅんび不足ふそくから失敗しっぱいわった。

しかし、その結果けっかバルトさんこく独立どくりつ達成たっせいし、かく構成こうせい共和きょうわこくでも独立どくりつけたうごきがすすみ、12月8にちに、ロシアのエリツィン、ウクライナレオニード・クラフチュクベラルーシスタニスラフ・シュシケビッチベラルーシベロヴェーシのもり会談かいだんし、ソ連それんからの離脱りだつ独立どくりつ国家こっか共同きょうどうたい(CIS) の結成けっせい合意ごういした(「ベロヴェーシの陰謀いんぼう」)。こうして12月25にちをもってソ連それん消滅しょうめつした。そのじゅう年間ねんかんで、東欧とうおうきゅうソ連それん国々くにぐに一部いちぶは、相次あいついで資本しほん主義しゅぎ国家こっかとなった。

ポスト冷戦れいせん時代じだい(1991ねん-1990年代ねんだい前半ぜんはん

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ベルリンのかべ崩壊ほうかいして冷戦れいせん終結しゅうけつする前後ぜんごに、それまで反共はんきょう主義しゅぎゆえに、軍事ぐんじ政権せいけん独裁どくさい政権せいけん長期ちょうき政権せいけん存在そんざい容認ようにんされていた一部いちぶ西側にしがわ諸国しょこくインドネシア台湾たいわん韓国かんこくザイールなど)が、アメリカからの金銭きんせん軍事ぐんじ政治せいじてき支援しえんけられなくなったために次々つぎつぎ政権せいけん崩壊ほうかいし、選挙せんきょ実施じっし政権せいけん交代こうたい余儀よぎなくされた。日本にっぽんでも55ねん体制たいせい崩壊ほうかいし、自民じみん共産きょうさん連立れんりつ政権せいけん樹立じゅりつされた。さらに反共はんきょう主義しゅぎ条件じょうけんにアメリカの援助えんじょけた軍事ぐんじ政権せいけん独裁どくさい政権せいけん長期ちょうき政権せいけんがそのほとんどをめた中南米ちゅうなんべい諸国しょこくにおいても、チリアルゼンチン、ブラジルなどの主要しゅようこく相次あいついで民政みんせいすすんだ。また、ソ連それん中南米ちゅうなんべいにおける橋頭堡きょうとうほとして、軍事ぐんじ援助えんじょバーター貿易ぼうえきなどの方法ほうほうソ連それんから多大ただい援助えんじょけていたキューバは、冷戦れいせんわってアメリカとの対決たいけつ必然ひつぜんせいえたロシアにとって戦略せんりゃくてき価値かちうしない、援助えんじょ途絶とだえ、経済けいざい危機ききおちいった。

べい冷戦れいせん終結しゅうけつした当初とうしょの1990年代ねんだい初期しょきにおいて、フランシス・フクヤマが『歴史れきしわり』を発表はっぴょうし、政治せいじ体制たいせいとしてのリベラル民主みんしゅ主義しゅぎ最終さいしゅうてき勝利しょうり宣言せんげんした。冷戦れいせん終結しゅうけつ直後ちょくご1991ねんに、冷戦れいせん盟主めいしゅこく一角いっかくであるソ連それん死滅しめつすると世界せかい均衡きんこうくずれ、アメリカが唯一ゆいいつちょう大国たいこくとなった。ソ連それんがた国営こくえい計画けいかく経済けいざい統制とうせい経済けいざいモデルの社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい社会しゃかい主義しゅぎ経済けいざいけん崩壊ほうかいし、世界せかい経済けいざい資本しほん主義しゅぎ経済けいざい市場いちば経済けいざいにより統合とうごうされ、グローバリゼーション進行しんこうした。冷戦れいせん終結しゅうけつにより、それまでクレムリンホワイトハウス抑圧よくあつされていた世界せかい各地かくち民族みんぞく問題もんだい再燃さいねんした。

ひがしヨーロッパをると、1993ねんチェコスロバキアチェコスロバキア平和へいわうら分離ぶんりした反面はんめん1993ねんこったユーゴスラビア紛争ふんそうは、民族みんぞく同士どうしにくしみにけてそのつづいた。カフカス地方ちほうではアゼルバイジャンアルメニア内戦ないせんとなり、チェチェンをはじめかくしょう民族みんぞく独立どくりつ闘争とうそうこし、各国かっこく内戦ないせん発展はってんした(だいいちチェチェン紛争ふんそう)。この内戦ないせんはロシアぐんによる圧倒的あっとうてき火力かりょく制圧せいあつされているが、まれた独立どくりつテロ行為こういはしり、収拾しゅうしゅうがつかなくなっている(だいチェチェン紛争ふんそう)。また、このテロにはイスラーム過激かげき関与かんようたがわれている。

その

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西にしヨーロッパの冷戦れいせんわったが、ひがしアジアではモンゴル民主みんしゅベトナムとアメリカの和解わかいそとは、中華民国ちゅうかみんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく対立たいりつ大韓民国だいかんみんこく朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく対立たいりつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう)が現在げんざいつづいており、日本にっぽん国内こくないでは日本にっぽん共産党きょうさんとう朝鮮総連ちょうせんそうれん現在げんざい公安こうあん当局とうきょく公安調査庁こうあんちょうさちょう公安こうあん警察けいさつ)にかんされているなど、こちらは解決かいけつ見通みとおしがっていない。

アメリカは「冷戦れいせん戦勝せんしょうこく」という自信じしんから、1991ねん湾岸わんがん戦争せんそうつづいて中東ちゅうとうへの介入かいにゅうふかめ、ビル・クリントン政権せいけんは、双子ふたご赤字あかじ改善かいぜんしていくかたわらでパレスチナ問題もんだい積極せっきょくてきかかわり、ノルウェー仲介ちゅうかいによりはじめて和平わへい合意ごういをもたらした(オスロ合意ごうい)。しかし、イスラエル凶変きょうへんから和平わへい暗礁あんしょうげ、パレスチナ過激かげきによるテロとイスラエルぐんによる虐殺ぎゃくさつによって、パレスチナ泥沼どろぬま様相ようそうていした(パレスチナ問題もんだい)。また、アフガニスタンスーダンには1998ねんミサイル攻撃こうげき強行きょうこうし、とくにアフガニスタンには4かいわた経済けいざい制裁せいさいあたえた。アフリカにたいしては、スーダンのそとにはソマリアにも国際こくさい連合れんごうちから内戦ないせん介入かいにゅうしたが失敗しっぱいし、これによって、クリントン政権せいけん地上ちじょうぐん派遣はけんおそれるようになった。イラクたいしては湾岸わんがん戦争せんそう以来いらい敵対てきたいしており、イラク武装ぶそう解除かいじょ問題もんだいかんしても、武器ぶき査察ささつとどこおたび空爆くうばくくわえた。これらのアメリカによる中東ちゅうとうへの介入かいにゅうグローバリゼーション反感はんかんいだアルカーイダは、2001ねんアメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけんこし、たいテロ戦争せんそうばれるアメリカのアフガニスタン侵攻しんこうイラク戦争せんそうとなった。

アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけん

とくにイラク戦争せんそうかんしては開戦かいせんだいいち理由りゆうげられた大量たいりょう破壊はかい兵器へいき一切いっさいつからず、最終さいしゅうてき存在そんざいしないことが判明はんめいしたため、アメリカ外交がいこう信頼しんらいおおきなきずをつけた[29]ジョージ・W・ブッシュ大統領だいとうりょう退任たいにん直前ちょくぜんに、大量たいりょう破壊はかい兵器へいき情報じょうほう収集しゅうしゅう政権せいけん最大さいだい失敗しっぱいひとつであったことをみとめた。

かく開発かいはつ競争きょうそうによって生産せいさんされた高性能こうせいのう核弾頭かくだんとうを、現在げんざいもアメリカとロシアがすうせんはつ保有ほゆうしている。冷戦れいせん初期しょきかくのアメリカ一極いっきょく集中しゅうちゅうおそれた一部いちぶ科学かがくしゃは、かく抑止よくしりょく世界せかい均衡きんこうたもとうと、ソ連それんイギリスフランス開発かいはつほう伝授でんじゅし、ソ連それんから中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにも継承けいしょうされて、現在げんざいかく大国たいこく形成けいせいされた。このそとにも、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくソ連それんから流出りゅうしゅつした開発かいはつほうによって(ちゅう対立たいりつなども要因よういんとなっているが)インドパキスタン核保有かくほゆうしるし戦争せんそう#両国りょうこく核保有かくほゆう)や、アメリカから供与きょうよされた技術ぎじゅつによってイスラエル核保有かくほゆうおよんでいる。

2008ねん8がつにはみなみオセチア紛争ふんそうこり、べいあいだ軍事ぐんじてき緊張きんちょうしょうじ、「冷戦れいせん再来さいらい」「しん冷戦れいせん」などとばれる状況じょうきょうとなっており、緊張きんちょう状態じょうたいつづいている。同年どうねん世界せかい金融きんゆう危機きき財政ざいせい出動しゅつどうにより、景気けいき回復かいふくさせ影響えいきょうりょくたかめた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくも、べいちゅう冷戦れいせんばれる緊張きんちょう状態じょうたいにあるとされ、ちゅうNATO対立たいりつする上海しゃんはい協力きょうりょく機構きこう組織そしきしている。ロシアは、ソ連それん崩壊ほうかいすると共和きょうわせい国家こっかとして甦生そせいし、ボリス・エリツィン政権せいけん経済けいざい再建さいけん資本しほん主義しゅぎ推進すいしんされた。しかし、これが裏目うらめてロシアの経済けいざい悪化あっかし、とくアジア通貨つうか危機きき1998ねんにはロシア財政ざいせい危機きききて一層いっそう悪化あっかするなど、「冷戦れいせん敗戦はいせんこく」として欧米おうべい経済けいざい援助えんじょあまんじていた。しかし、2003ねんころより原油げんゆ価格かかく高騰こうとう恩恵おんけいにより経済けいざい好転こうてんし、それを背景はいけいウラジーミル・プーチン政権せいけんふたたび「つよいロシア」の復権ふっけんうたい、EUやNATOへのきゅうソ連それん加盟かめいこくみをすすめていた欧米おうべいたいして、シリア内戦ないせん介入かいにゅうするなど牽制けんせいうごきをせるようになった。

1989ねん - 1991ねんこった「ソ連それんがた社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい」の消滅しょうめつにより、国籍こくせき企業きぎょう地球ちきゅう規模きぼ市場いちば利益りえきうばグローバリゼーション進行しんこうした。冷戦れいせん時代じだい末期まっきのIMFきょう1990年代ねんだいのグローバリゼーションに遭遇そうぐうしたラテンアメリカでは、2000年代ねんだいになると反米はんべい左派さは政権せいけん続々ぞくぞくまれ、社会しゃかい主義しゅぎ復活ふっかつするうごきをせていたが、その代表だいひょうかくであったベネズエラのチャベス大統領だいとうりょう病死びょうししたことで2012ねんころから親米しんべい路線ろせん回帰かいきするくにえている。また2015ねんには、オバマ政権せいけんにおいて、アメリカとキューバ国交こっこう回復かいふくした。

グレゴリー・ガウスが執筆しっぴつした『あたらしい中東ちゅうとう冷戦れいせん』とだいされた宗派しゅうは主義しゅぎかんする文献ぶんけんでは、イランサウジアラビアちょう大国たいこくとして地域ちいき影響えいきょうあたえる能力のうりょくっているとされている。そして、「これは、純粋じゅんすいなる軍事ぐんじてきあらそいというよりも、中東ちゅうとう国内こくない政治せいじ方向ほうこうせいをめぐるあらそいである」とガウスはろんじ、この状況じょうきょうを「中東ちゅうとう冷戦れいせん」と表現ひょうげんしている。

東西とうざい陣営じんえいおもくに

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資本しほん主義しゅぎ陣営じんえい西側にしがわ

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資本しほん主義しゅぎ基調きちょうとし、東側ひがしがわ対立たいりつした国々くにぐに。アメリカを中心ちゅうしんとし、基本きほんてきには民主みんしゅてきくにおおかったが、アジアや南米なんべいにはアメリカに支援しえんされた軍事ぐんじ政権せいけん開発かいはつ独裁どくさいくにもあった。しかし現在げんざいではそうしたくに民主みんしゅし、経済けいざいてき発展はってんしている。
南北なんぼくアメリカ 

アジア

ヨーロッパ

オセアニア

中東ちゅうとう

アフリカ

共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい東側ひがしがわ

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社会しゃかい主義しゅぎ基調きちょうとし、西側にしがわ対立たいりつした国々くにぐにソ連それん中心ちゅうしんとし、基本きほんてき共産党きょうさんとう社会党しゃかいとうによるいちとう独裁どくさい体制たいせいられだが、なかには独自どくじ路線ろせんをとるくにもあった。冷戦れいせんにはほとんどが崩壊ほうかい民主みんしゅし、現在げんざいのこ社会しゃかい主義しゅぎこく少数しょうすうになっている。
アジア

ヨーロッパ

中東ちゅうとう

アフリカ

同盟どうめい中立ちゅうりつ

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西側にしがわ

東側ひがしがわ

孤立こりつ

資本しほん主義しゅぎ陣営じんえい共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい

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共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい資本しほん主義しゅぎ陣営じんえい

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資本しほん主義しゅぎ陣営じんえい→イスラム主義しゅぎ陣営じんえい

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欧州おうしゅう対立たいりつ構造こうぞう

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冷戦れいせん研究けんきゅう

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冷戦れいせんは、それがグローバルな戦後せんご国際こくさい政治せいじおおきな影響えいきょうあたえたことから起源きげん展開てんかい終焉しゅうえんたいして様々さまざま解釈かいしゃくしめされ、論争ろんそうんできた。以下いかでは、学術がくじゅつてき冷戦れいせん研究けんきゅうなかおこなわれた論争ろんそうについて説明せつめいする[※ 3]

冷戦れいせん起源きげんろんめぐ論争ろんそう

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冷戦れいせん研究けんきゅうでは様々さまざま争点そうてん存在そんざいしたが、とくおおきな争点そうてん形成けいせいしたのは、「冷戦れいせんはいつ、なぜしょうじたのか」という冷戦れいせん起源きげんめぐ論争ろんそうだった。この論争ろんそうは、西側にしがわ陣営じんえい最大さいだい当事とうじこくである米国べいこく学界がっかい中心ちゅうしんとして活発かっぱつになされることとなった。

冷戦れいせん起源きげん論争ろんそうふたつの特徴とくちょうゆうしていたといえる。だいいちに、冷戦れいせん起源きげん論争ろんそうだい世界せかい大戦たいせんなどの起源きげんめぐ学術がくじゅつろんそうことなり、それがどう時代じだいてき継続けいぞくしている状況じょうきょう起源きげんろんじるものであったため、ベトナム戦争せんそう典型てんけいとして、研究けんきゅう発表はっぴょうされた当時とうじ出来事できごと問題もんだい関心かんしんつよ影響えいきょうされたものになった。だいに、その論争ろんそう米国べいこく学界がっかい中心ちゅうしん展開てんかいされたことや、資料しりょう公開こうかいペースのスピードなどから、とく米国べいこく分析ぶんせき重点じゅうてんいたものとなったてんである。そして、一般いっぱん研究けんきゅう学派がくは伝統でんとう学派がくは正統せいとう学派がくは修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは、ポスト修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは大別たいべつされている[※ 4]

伝統でんとう学派がくは正統せいとう学派がくは (Traditionalist / Orthodox) は1950年代ねんだいから60年代ねんだいにかけて研究けんきゅう発表はっぴょうした学派がくはであり、この学派がくは分類ぶんるいされる研究けんきゅうしゃ議論ぎろん冷戦れいせん起源きげんソ連それん拡張かくちょうてき侵略しんりゃくてき行動こうどうもとめるという特徴とくちょうゆうしていた[※ 5]伝統でんとう学派がくはソ連それんヤルタ会談かいだん合意ごういされたポーランド自由じゆう選挙せんきょ実施じっししなかったこと、東欧とうおう各国かっこくたいして共産党きょうさんとう政権せいけん樹立じゅりつするうごきをしめしたことなどの一連いちれん行動こうどう西側にしがわ警戒けいかいかんし、マーシャル・プランNATO結成けっせいなどの西側にしがわ陣営じんえい強化きょうかはこれにたいする防御ぼうぎょてき行動こうどうとしてなされたとする解釈かいしゃくしめした。

以上いじょうのような解釈かいしゃくはノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史れきしとしての冷戦れいせん』(1967)、ハーバート・ファイスFrom Trust to Terror (1970) などに代表だいひょうされるものであったが、これはトルーマン政権せいけん国務こくむ長官ちょうかんつとめ、冷戦れいせん政策せいさく展開てんかいしたディーン・アチソン回顧かいころく記述きじゅつともかさなるものだった。その意味いみ伝統でんとう学派がくはは、戦後せんご米国べいこく外交がいこう政策せいさく擁護ようごするニュアンスもびていたとひょうされている[30]

つづいて1960年代ねんだいより登場とうじょうした修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは (Revisionist) は、伝統でんとう学派がくは解釈かいしゃくこうから対立たいりつし、冷戦れいせん発生はっせいソ連それん行動こうどうよりも米国べいこくがわ行動こうどうによりおおきな原因げんいんがあったとする解釈かいしゃく提示ていじした。修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは最大さいだい特徴とくちょうは、経済けいざいてき要因よういん重視じゅうしするてんにあった。1958ねんに『アメリカ外交がいこう悲劇ひげき』を発表はっぴょうし、のちみずからの勤務きんむしたウィスコンシン大学だいがくマディソンこうで「ウィスコンシン学派がくは」といわれる後進こうしんたちを育成いくせいしたことでられるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書どうしょ建国けんこく以来いらい米国べいこく指導しどうしゃそう海外かいがい市場いちばもとめる必要ひつようがあるという「門戸もんこ開放かいほう」イデオロギーをほうじていたことに最大さいだい原因げんいんがあったとする主張しゅちょう展開てんかいした。ウィリアムズは、だい世界せかい大戦たいせんおおきな被害ひがいけたソ連それん伝統でんとう学派がくはかんがえるような脅威きょういではなかったと指摘してきした。そして、冷戦れいせん米国べいこく門戸もんこ開放かいほうイデオロギーのもと東欧とうおう地域ちいき市場いちば開放かいほう執拗しつよう要求ようきゅうし、ソ連それんたいして妥協だきょうてき態度たいどつらぬいたこと、これにソ連それん反発はんぱつしたことによってもたらされたものであったとして、米国べいこくによりおおきな責任せきにんがあったとする解釈かいしゃくしめした。ウィリアムズのテーゼは、かれ育成いくせいした外交がいこう史家しかである ウォルター・ラフィーバーAmerica, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーArchitects of Illusion (1970) などによってより精緻せいち検討けんとうされることとなる[31]

また、修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは研究けんきゅうはウィリアムズの研究けんきゅうにとどまらず、よりラディカルな展開てんかいしめした。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国べいこく対外たいがい政策せいさくのすべては資本しほん主義しゅぎ体制たいせい防衛ぼうえい目的もくてきとしており、世界せかい規模きぼ革命かくめい運動うんどう弾圧だんあつするものであったとするマルクス主義まるくすしゅぎ親和しんわてき解釈かいしゃく主張しゅちょうすることとなった[32]。これらの研究けんきゅうは、ベトナム戦争せんそう泥沼どろぬまにより、従来じゅうらい米国べいこく外交がいこうのありかたたいする不信ふしんつよまっていた60年代ねんだい時代じだい状況じょうきょうで、つよ支持しじけることになった。当然とうぜんながらこれらの主張しゅちょうは、伝統でんとう学派がくはからの反発はんぱつ論争ろんそうこすこととなる。伝統でんとう学派がくはからは修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは分析ぶんせき実証じっしょうせいまずしさ、経済けいざい要因よういん過大かだい評価ひょうか米国べいこく行動こうどうのみを実質じっしつてき分析ぶんせきしている分析ぶんせき偏重へんちょうなどが批判ひはんされることとなった[33]

伝統でんとう学派がくは修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくはつづポスト修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは (Post-Revisionist) は、先行せんこうする学派がくは議論ぎろんかかえる問題もんだいてん克服こくふくし、さらにこのころ徐々じょじょ公開こうかいすすんだ西側にしがわ政府せいふ公文書こうぶんしょ活用かつようすることで、歴史れきし研究けんきゅうとしての実証じっしょうせいかたち議論ぎろん展開てんかいすることとなった。その先駆せんくてき著作ちょさくとされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスThe United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスはいち資料しりょう依拠いきょしたうえで、正統せいとう学派がくは重視じゅうしする安全あんぜん保障ほしょう要因よういん修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは重視じゅうしする経済けいざい要因よういん同時どうじれつつ、さらに国際こくさい政治せいじ構造こうぞう国内こくない政治せいじ要因よういん政策せいさく決定けっていプロセス(官僚かんりょう政治せいじ)の影響えいきょうなどをんだ分析ぶんせき提示ていじした[34]

ギャディスは、各国かっこく疲弊ひへいによって「ちから真空しんくう」がしょうじていたヨーロッパにおいて、べい両国りょうこく対峙たいじするという状況じょうきょうまれたこと、対峙たいじ緊張きんちょうなかべいソが様々さまざま要因よういんから相手あいて行動こうどう思惑おもわくたいする誤解ごかいかさねたことが(本来ほんらい両者りょうしゃ想定そうていしなかった)冷戦れいせんんだとする解釈かいしゃくしめし、べいソいずれかの行動こうどう冷戦れいせん発生はっせい責任せきにんもとめる過去かこ議論ぎろんはいする主張しゅちょう展開てんかいした[35]。ギャディスによるこのようなあたらしい解釈かいしゃくは、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンStalin's American Policy (1982) などにも継承けいしょうされ、かれらの研究けんきゅうは「ポスト修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは」としてひろれられることとなった[36]。 また、米国べいこくすすんだポスト修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは研究けんきゅうたいして、ヨーロッパにおける研究けんきゅう呼応こおうするうごきをしめした。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦たいせんのヨーロッパの政治せいじ指導しどうしゃたちがソ連それん影響えいきょうりょく相殺そうさいするべく、ヨーロッパで米国べいこくがより積極せっきょくてき役割やくわりたすことを希望きぼうしていたとろんじ、戦後せんご米国べいこくはいわばヨーロッパに「まねかれた帝国ていこく (Empire by Invitation)」であったとする解釈かいしゃくしめした[37]

ソ連それん崩壊ほうかい冷戦れいせん起源きげん論争ろんそう

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冷戦れいせん終結しゅうけつソ連邦それんぽう崩壊ほうかいにより、過去かこ西側にしがわ閲覧えつらんすることが不可能ふかのうだった東側ひがしがわ文書ぶんしょ開示かいじすすむこととなった。これは各種かくしゅ研究けんきゅう資料しりょう収集しゅうしゅうプロジェクトの始動しどうをもたらすとともに、冷戦れいせん起源きげんめぐ論争ろんそうにおいて伝統でんとう学派がくはてき解釈かいしゃく復活ふっかつという、あたらしい展開てんかいむこととなった。開示かいじされた東側ひがしがわ資料しりょうぐんをもとに発表はっぴょうされたヴォイチェフ・マストニーの『冷戦れいせんとはなにだったのか』(1996ねん)、ヴラディスラヴ・ズボクとコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による Inside the Kremlin's Cold War (1996) は、ソ連それん中枢ちゅうすう情勢じょうせい認識にんしき政策せいさく決定けっていあきらかにすることとなった。これらの著書ちょしょは、ソ連それんマルクス・レーニン主義しゅぎのイデオロギーにもとづき、自発じはつてき主体しゅたいてきにヨーロッパへの拡張かくちょうはかっていたとする解釈かいしゃくしめした[38]。その、90年代ねんだいには様々さまざま資料しりょう活用かつようしたドミトリー・ヴォルコゴーノフによるスターリン伝記でんき研究けんきゅう発表はっぴょうされ、スターリンのパラノイアてき性質せいしつ指摘してきする書物しょもつとして注目ちゅうもくびることとなった[39]

このような研究けんきゅう進展しんてん影響えいきょうけた典型てんけいともいえるのが、ポスト修正しゅうせい主義しゅぎ学派がくは旗手きしゅであったギャディスの冷戦れいせん起源きげん解釈かいしゃく変化へんかである。ギャディスは東側ひがしがわについての研究けんきゅう進展しんてんけて、1997ねん発表はっぴょうした『歴史れきしとしての冷戦れいせん』では、冷戦れいせん起源きげんべい双方そうほうのパーセンプション・ギャップや、国際こくさい政治せいじ構造こうぞう見出みいだ過去かこ解釈かいしゃくから、イデオロギーが冷戦れいせんにおよぼした影響えいきょう重視じゅうしし、ソ連それん政治せいじ体制たいせいとスターリンという指導しどうしゃ冷戦れいせん発生はっせいによりおおくの責任せきにんっているとする解釈かいしゃくへとてんじた[40]。しかし、このギャディスの解釈かいしゃく変化へんか要因よういんとしては、ソ連それん実態じったいあきらかになったことだけでなく、東側ひがしがわ陣営じんえい崩壊ほうかい西側にしがわ陣営じんえいの「勝利しょうり」があきらかになった時期じき発表はっぴょうされたという要因よういん無視むしできないことから、その解釈かいしゃくこう知恵ちえてきであるとして賛否さんぴぶことともなった[41]

べい冷戦れいせん相対そうたい

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冷戦れいせん研究けんきゅうは、米国べいこく学界がっかいでその主要しゅよう論争ろんそうたたかわれてきたこともあり、主要しゅよう分析ぶんせき対象たいしょうべい関係かんけいであり、活用かつようされる資料しりょうおおくは米国べいこく政府せいふ公文書こうぶんしょであった。このような冷戦れいせん研究けんきゅううごきにたいし、1978ねんにイギリスのドナルド・キャメロン・ワット公開こうかい書簡しょかん冷戦れいせん研究けんきゅう資料しりょうてき偏重へんちょう指摘してきし、英国えいこく公文こうぶんしょなどを活用かつようして研究けんきゅう深化しんかさせる必要ひつよううったえた[42]。このような提言ていげん反映はんえいするかたちで、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の Britain and the Cold War (1982)、アン・デイトン (Anne Deighton) の The Impposible Peace (1990) など、冷戦れいせん発生はっせいたいしてイギリスのたした役割やくわり分析ぶんせきする研究けんきゅうなどもあらわれ、冷戦れいせん発生はっせいにはソ連それん脅威きょうい米国べいこくよりはや意識いしき行動こうどうしたイギリス政府せいふたした役割やくわりすくなくなかったことをあきらかにした[43]

イギリスをひとつの典型てんけいとして、他国たこくについても「自国じこく冷戦れいせん(および冷戦れいせんたした役割やくわり)」について考察こうさつした研究けんきゅうすすめられている。1998ねんよりノースカロライナ大学だいがく出版しゅっぱんきょく (University of North Carolina Press) が刊行かんこうしている冷戦れいせん研究けんきゅうのシリーズである The New Cold War History では、フランス、ソ連それん中国ちゅうごく東西とうざいドイツなど、様々さまざま国家こっか冷戦れいせん関係かんけい考察こうさつした研究けんきゅうしょ刊行かんこうされている[44]。おp

研究けんきゅう領域りょういき拡大かくだい

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冷戦れいせん終結しゅうけつけて米国べいこくでも安全あんぜん保障ほしょうかかわる各種かくしゅ資料しりょう公開こうかいすすんだことで、冷戦れいせん安全あんぜん保障ほしょうやインテリジェンスなどについてあらたに研究けんきゅう進展しんてんしている。いちれいとしては、べいえいによる暗号あんごう解読かいどくプロジェクトであったベノナ関係かんけい資料しりょう開示かいじによる諜報ちょうほうせん実体じったい解明かいめいげられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の Venona (2000) は、冷戦れいせん米国べいこくない活発かっぱつ諜報ちょうほう活動かつどう展開てんかいされていたことをあきらかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は Total Cold War (2006) において、USIACIAなどの資料しりょう活用かつようし、アイゼンハワー政権せいけん展開てんかいしていた(日本にっぽん対象たいしょうふくむ)宣伝せんでん情報じょうほうせん実態じったい解明かいめいすることとなった[45]

コーポラティズム

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デタント研究けんきゅう進展しんてん

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冷戦れいせん終結しゅうけつをめぐる議論ぎろん

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あたらしい冷戦れいせん

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研究けんきゅうしゃ

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学術がくじゅつ

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冷戦れいせん題材だいざいしくは冷戦れいせん影響えいきょうけた作品さくひん

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テレビ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ スハルト政権せいけん以降いこうぐん装備そうびなどのめんでソビエトの支援しえんけた。
  2. ^ 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん物質ぶっしつてき支援しえんおこない、ソビエト自体じたい傍観ぼうかん姿勢しせいった。
  3. ^ 以下いか記述きじゅつ例示れいじする文献ぶんけん選定せんていについては、Robert J. McMahon, The Cold War: A Very Short Introduction. (Oxford University Press, 2003); Michael Kort, The Colubia Guide to the Cold War. (Columbia University Press, 1998); 麻田あさだ貞雄さだお冷戦れいせん起源きげん修正しゅうせい主義しゅぎ研究けんきゅう――アメリカの場合ばあい」『国際こくさい問題もんだいだい170ごう(1974ねん)などを参照さんしょうしている。
  4. ^ また、冷戦れいせん研究けんきゅうは、だい世界せかい大戦たいせんちゅう戦時せんじ外交がいこう研究けんきゅうにも影響えいきょうあたえることとなった。マーク・ストーラーは1940年代ねんだい後半こうはんはじまる戦時せんじ外交がいこう研究けんきゅうが、冷戦れいせん起源きげんろん解釈かいしゃく密接みっせつ関係かんけいったことを指摘してきしている。Mark A. Stoler, "A Half Century of Conflict: Interpretations of U.S. World War II Diplomacy." in Michael Horgan (ed.), America in the World: the Historiography of American Foreign Relations since 1941, (Cambridge University Press, 1995).
  5. ^ なお、ソ連それん行動こうどう動機どうきとしてイデオロギーてきなものを重視じゅうしするか、地政学ちせいがくてき安全あんぜん保障ほしょうてきなものに重視じゅうしするかについては解釈かいしゃくがあった。後述こうじゅつのファイスは前者ぜんしゃ、グレーブナーは後者こうしゃぞくする

出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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国際こくさい社会しゃかい分類ぶんるい

冷戦れいせん関連かんれん用語ようご

プレ冷戦れいせん時代じだい

各国かっこく冷戦れいせん時代じだい

冷戦れいせん時代じだい国際こくさい関係かんけい

冷戦れいせん時代じだい

外部がいぶリンク

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研究けんきゅうプロジェクト

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その

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