冷戦 れいせん (れいせん、英 えい : Cold War 、露 ろ : Холодная война )もしくは冷 つめ たい戦争 せんそう (つめたいせんそう)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の世界 せかい を二分 にぶん した西側 にしがわ 諸国 しょこく (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を盟主 めいしゅ とする資本 しほん 主義 しゅぎ ・自由 じゆう 主義 しゅぎ 陣営 じんえい )と、東側 ひがしがわ 諸国 しょこく (ソビエト連邦 れんぽう を盟主 めいしゅ とする共産 きょうさん 主義 しゅぎ ・社会 しゃかい 主義 しゅぎ 陣営 じんえい )との対立 たいりつ 構造 こうぞう 。主 おも に米 べい ソ関係 かんけい を軸 じく に展開 てんかい した。米 べい ソ冷戦 れいせん (べいそれいせん)や東西 とうざい 冷戦 れいせん (とうざいれいせん)とも呼 よ ばれる。「冷戦 れいせん 」とは、戦火 せんか を交 まじ えない戦争 せんそう 、つまり米 べい ソが武力 ぶりょく で直接 ちょくせつ には衝突 しょうとつ しないという意味 いみ であるが、冷戦 れいせん 下 か では朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 、ベトナム戦争 せんそう 、ソ連 それん ・アフガン戦争 せんそう のように両国 りょうこく が介入 かいにゅう して東西 とうざい 各 かく 勢力 せいりょく を支援 しえん する代理 だいり 戦争 せんそう が多数 たすう 勃発 ぼっぱつ した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の終結 しゅうけつ 直前 ちょくぜん の1945年 ねん 2月 がつ から1989年 ねん 12月 までの44年間 ねんかん 続 つづ き、連合 れんごう 国 こく としては味方 みかた 同士 どうし であったアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とソビエト連邦 れんぽう が軍事 ぐんじ 力 りょく で直接 ちょくせつ 戦 たたか う戦争 せんそう は起 お こらなかったので、軍事 ぐんじ 力 りょく (火力 かりょく )で直接 ちょくせつ 戦 たたか う「熱戦 ねっせん 」「熱 あつ い戦争 せんそう 」に対 たい して、「冷戦 れいせん 」「冷 つめ たい戦争 せんそう 」と呼 よ ばれた。
「冷戦 れいせん 」という語 かたり は、ジョージ・オーウェル がジェームズ・バーナム の理論 りろん を評 ひょう した時 とき に使 つか っており[ 3] [ 4] [ 5] 、後 のち にバーナード・バルーク も使 つか い[ 6] 、アメリカの政治 せいじ 評論 ひょうろん 家 か ウォルター・リップマン が1947年 ねん に上梓 じょうし した著書 ちょしょ の書名 しょめい 『冷戦 れいせん ―合衆国 がっしゅうこく の外交 がいこう 政策 せいさく 研究 けんきゅう 』に使用 しよう されたことから、その表現 ひょうげん が世界 せかい 的 てき に広 ひろ まった。
各 かく 陣営 じんえい とも構成 こうせい 国 こく の利害 りがい 損得 そんとく が完全 かんぜん に一致 いっち していたわけではなく、個別 こべつ の政策 せいさく や外交 がいこう 関係 かんけい では協力 きょうりょく しないこともあったなど、イデオロギー を概念 がいねん とした包括 ほうかつ 的 てき な同盟 どうめい ・協力 きょうりょく 関係 かんけい である。
冷戦 れいせん 時代 じだい の NATO 諸国 しょこく および ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう の諸国 しょこく 、それらの位置 いち 関係 かんけい 。北極 ほっきょく 付近 ふきん を中心 ちゅうしん にした地図 ちず だと双方 そうほう の面積 めんせき も比較的 ひかくてき 忠実 ちゅうじつ に示 しめ す。
ベルリンの壁 かべ
冷戦 れいせん 中 ちゅう の代表 だいひょう 的 てき な事件 じけん であるキューバ危機 きき
1959年 ねん の世界 せかい の様子 ようす (色分 いろわ け) (ワインレッド = ワルシャワ条約 じょうやく (WT) 加盟 かめい 国 こく 朱色 しゅいろ = ソ連 それん の他 ほか の同盟 どうめい 国 こく (東側 ひがしがわ 諸国 しょこく )青 あお 紺色 こんいろ = 北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく (NATO) 加盟 かめい 国 こく 水色 みずいろ = アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の他 ほか の同盟 どうめい 国 こく (西側 にしがわ 諸国 しょこく )緑 みどり = 植民 しょくみん 地 ち 灰色 はいいろ = 非 ひ 同盟 どうめい 諸国 しょこく )
冷戦 れいせん の多様 たよう 化 か ―1980年 ねん の世界 せかい (色分 いろわ け) (ワインレッド = ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 加盟 かめい 国 こく (WTO)赤 あか = 同 どう 条約 じょうやく 加盟 かめい 国 こく 以外 いがい の東側 ひがしがわ 諸国 しょこく 朱色 しゅいろ = 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか 以外 いがい のソ連 それん よりの諸国 しょこく 紺 こん = 北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく 機構 きこう (NATO) 加盟 かめい 国 こく 青 あお = 同 どう 条約 じょうやく 加盟 かめい 国 こく 以外 いがい の西側 にしがわ 諸国 しょこく 空色 そらいろ = 非 ひ 同盟 どうめい 諸国 しょこく 、永世 えいせい 中立 ちゅうりつ 国 こく 黄色 おうしょく = 孤立 こりつ 化 か 赤 あか い点 てん = 反 はん 資 し ゲリラ運動 うんどう 発生 はっせい 地域 ちいき 青 あお い点 てん = 反共 はんきょう ゲリラ運動 うんどう 発生 はっせい 地域 ちいき
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は1945年 ねん から1992年 ねん の間 あいだ に公式 こうしき で計 けい 1,054回 かい の核 かく 実験 じっけん を実施 じっし した
冷戦 れいせん での両 りょう 陣営 じんえい の対立 たいりつ の境界 きょうかい であるヨーロッパ においては、ソビエト連邦 れんぽう を盟主 めいしゅ とする共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい が東 ひがし ヨーロッパ に集 あつ まっていたことから「東側 ひがしがわ 」、対 たい するアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を盟主 めいしゅ とした資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい が西 にし ヨーロッパ に集 あつ まっていたことから「西側 にしがわ 」と呼 よ んで対峙 たいじ した。その対立 たいりつ は軍事 ぐんじ 、外交 がいこう 、経済 けいざい だけでなく、宇宙 うちゅう 開発 かいはつ や航空 こうくう 技術 ぎじゅつ 、文化 ぶんか 、スポーツなどにも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。又 また 、冷戦 れいせん の対立 たいりつ 構造 こうぞう の中 なか で西 にし ヨーロッパは統合 とうごう が進 すす み、欧州共同体 おうしゅうきょうどうたい の結成 けっせい へ向 む かった。ヤルタ会談 かいだん から始 はじ まってマルタ会談 かいだん で終 お わったため、「ヤルタからマルタへ 」ということもいわれる。
ヨーロッパのみならず、アジア 、中東 ちゅうとう 、南 みなみ アメリカ などでも、それぞれの支援 しえん する機構 きこう や同盟 どうめい が生 う まれ、世界 せかい を二分 にぶん した。この二 ふた つの陣営 じんえい の間 あいだ は、制限 せいげん されているがために経済 けいざい 的 てき 、人的 じんてき な情報 じょうほう の交流 こうりゅう が少 すく なく、冷戦 れいせん 勃発 ぼっぱつ 当時 とうじ のイギリス首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル は、「鉄 てつ のカーテン 」と表現 ひょうげん した。
アメリカ陣営 じんえい とソ連 それん のどちらにも与 くみ しない国家 こっか は「第 だい 三 さん 世界 せかい 」と呼 よ ばれ、それぞれの陣営 じんえい の思惑 おもわく の中 なか で翻弄 ほんろう された。しかし、こうした両 りょう 陣営 じんえい の思惑 おもわく を逆手 さかて に取 と り、両 りょう 陣営 じんえい を天秤 てんびん に乗 の せることで多額 たがく の援助 えんじょ を引 ひ き出 だ す「援助 えんじょ 外交 がいこう 」も活発 かっぱつ に行 おこな われた。また、この米 べい ソ両 りょう 陣営 じんえい の対立 たいりつ 構造 こうぞう を「大国 たいこく の覇権 はけん 主義 しゅぎ 」と否定 ひてい した国々 くにぐに は、インド などを中心 ちゅうしん に非 ひ 同盟 どうめい 主義 しゅぎ を主張 しゅちょう し、第 だい 三 さん 世界 せかい の連帯 れんたい を図 はか る動 うご きもあった(といっても有名 ゆうめい 無実 むじつ である国 くに も多 おお かった)。なお、経済 けいざい 発展 はってん が進 すす んだ開発 かいはつ 途上 とじょう 国 こく が「第 だい 三 さん 世界 せかい 」と呼 よ ばれ、経済 けいざい 発展 はってん が遅 おく れている開発途上国 かいはつとじょうこく は「第 だい 四 よん 世界 せかい 」と呼 よ ばれることもある。
この冷戦 れいせん 時代 じだい の世界 せかい は、
秩序 ちつじょ が長 なが きに亘 わた って固定 こてい されており、変化 へんか が少 すく ない
「質 しつ より量 りょう 」が重視 じゅうし される大量 たいりょう 生産 せいさん 社会 しゃかい
核 かく すなわち原子力 げんしりょく がものをいうテクノロジー
の3点 てん に特徴付 とくちょうづ けられる。最終 さいしゅう 的 てき には1991年 ねん に東側 ひがしがわ 諸国 しょこく の盟主 めいしゅ であったソビエト連邦 れんぽう が崩壊 ほうかい したことにより、日米 にちべい 西欧 せいおう をはじめとする西側 にしがわ 陣営 じんえい の勝利 しょうり に終 お わった。冷戦 れいせん が終 お わると、アメリカが唯一 ゆいいつ の超 ちょう 大国 たいこく として君臨 くんりん していた。しかし、2010年代 ねんだい ころより強権 きょうけん 的 てき 国家 こっか のロシア の軍事 ぐんじ 的 てき 復活 ふっかつ や共産党 きょうさんとう の一 いち 党 とう 独裁 どくさい 国家 こっか の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の軍事 ぐんじ 、経済 けいざい 的 てき 急 きゅう 成長 せいちょう 、またこれら2国 こく とのアメリカ、イギリス、フランス、日本 にっぽん 、韓国 かんこく 、オーストラリア 、フィリピン 、カナダ などの民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 国 くに との対立 たいりつ や、ロシアとウクライナ との軍事 ぐんじ 的 てき 対立 たいりつ など、変化 へんか が多 おお くなって流動 りゅうどう 性 せい を増 ま している。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく
ソビエト連邦 れんぽう
人口 じんこう 統計 とうけい
1990年 ねん の人口 じんこう は2億 おく 4,870万 まん 人 にん で、当時 とうじ は中国 ちゅうごく 、インド、ソビエト連邦 れんぽう に次 つ ぐ地球 ちきゅう 上 じょう で4番目 ばんめ に多 おお い人口 じんこう であった[ 7] 。
1989年 ねん の人口 じんこう は2億 おく 8,670万 まん 人 にん で、中国 ちゅうごく とインドに次 つ ぐ地球 ちきゅう 上 じょう で3番目 ばんめ に多 おお い人口 じんこう であった[ 8] 。
地理 ちり
世界 せかい で3番目 ばんめ または4番目 ばんめ に大 おお きい国 くに で、面積 めんせき は9,630,000 km 2 (3,720,000平方 へいほう マイル)であった[ 9] 。
世界 せかい 最大 さいだい の州 しゅう (実際 じっさい には連邦 れんぽう の 超 ちょう 国家 こっか )で、表面積 ひょうめんせき は22,270,000 km 2 (8,600,000平方 へいほう マイル)であった[ 8] 。
経済 けいざい
1990年 ねん のGNPは5.2兆 ちょう ドル(2019年 ねん での10.2兆 ちょう ドルに相当 そうとう )[ 10] 。世界 せかい 最大 さいだい の経済 けいざい 大国 たいこく である。1979年 ねん 以降 いこう 、所得 しょとく 格差 かくさ の拡大 かくだい もあったが、顧客 こきゃく の需要 じゅよう に応 おう じて生産 せいさん 量 りょう が決 き まる需要 じゅよう と供給 きょうきゅう に基 もと づく資本 しほん 主義 しゅぎ 市場 いちば 経済 けいざい 論 ろん [ 11] 。巨大 きょだい な産業 さんぎょう 基盤 きばん と、大 だい 規模 きぼ で近代 きんだい 化 か された農業 のうぎょう 。大量 たいりょう の輸入 ゆにゅう と輸出 ゆしゅつ 鉱物 こうぶつ 、エネルギー資源 しげん 、金属 きんぞく 、木材 もくざい などの豊富 ほうふ な資源 しげん 。多 おお くの製造 せいぞう 業 ぎょう 製品 せいひん を入手 にゅうしゅ できる高 たか い生活 せいかつ 水準 すいじゅん 。数 かず 多 おお くの大 だい 規模 きぼ なグローバル企業 きぎょう の本拠地 ほんきょち である。ブレトン・ウッズ会議 かいぎ により、米 あめりか ドルが世界 せかい の主要 しゅよう な基軸 きじく 通貨 つうか となった。G7に加盟 かめい している。マーシャル・プラン などで同盟 どうめい 国 こく の経済 けいざい を支援 しえん 。
1990年 ねん のGNPは2.7兆 ちょう ドル(2019年 ねん での5.3兆 ちょう ドル相当 そうとう )[ 12] 。世界 せかい 第 だい 2位 い の経済 けいざい 規模 きぼ 。膨大 ぼうだい な鉱物 こうぶつ エネルギー資源 しげん と燃料 ねんりょう の供給 きょうきゅう 。農業 のうぎょう などの資源 しげん 不足 ふそく に悩 なや まされたが、最小限 さいしょうげん の輸入 ゆにゅう 品 ひん で概 おおむ ね自給 じきゅう していた。大 だい 規模 きぼ な工業 こうぎょう 生産 せいさん は、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき な国家 こっか 機関 きかん によって指導 しどう されており、非 ひ 効率 こうりつ 性 せい が高 たか い。経済 けいざい 的 てき 目標 もくひょう を達成 たっせい するために5カ年 かねん 計画 けいかく が頻繁 ひんぱん に用 もち いられた。雇用 こよう 保証 ほしょう 、医療 いりょう 費 ひ 無料 むりょう 、教育 きょういく 費 ひ 無料 むりょう などの経済 けいざい 的 てき 利益 りえき が社会 しゃかい のあらゆるレベルで提供 ていきょう された。ソ連 それん の平均 へいきん 寿命 じゅみょう や医療 いりょう の一部 いちぶ の指標 しひょう は米国 べいこく を上回 うわまわ っていたが、西欧 せいおう 先進 せんしん 国 こく の水準 すいじゅん を下回 したまわ ることが多 おお かった。経済 けいざい は中 ちゅう 欧 おう ・東欧 とうおう の衛星 えいせい 国 こく と結 むす びついている。
政治 せいじ
立法府 りっぽうふ 、行政 ぎょうせい 、司法 しほう の間 あいだ で行 おこな われる複雑 ふくざつ な抑制 よくせい と均衡 きんこう システムを持 も つ、強力 きょうりょく な三権分立 さんけんぶんりつ の大統領 だいとうりょう 制 せい を採用 さいよう したリベラル な立憲 りっけん 共和 きょうわ 国 こく 。合衆国 がっしゅうこく 議会 ぎかい の立法 りっぽう 権 けん は、文書 ぶんしょ 化 か された憲法 けんぽう と連邦 れんぽう 政府 せいふ の性質 せいしつ によって制限 せいげん されていた。専 せん 門 もん の憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ がないにもかかわらず、法律 ほうりつ の司法 しほう 審査 しんさ は、判例 はんれい により最高裁判所 さいこうさいばんしょ に委 ゆだ ねられている。大統領 だいとうりょう は国家 こっか 元首 げんしゅ であると同時 どうじ に政府 せいふ の長 ちょう でもあり、その内閣 ないかく は議会 ぎかい の信任 しんにん を得 え る必要 ひつよう はなかった。国民 こくみん の選挙 せんきょ は、2年 ねん に1度 ど の連邦 れんぽう 議会 ぎかい 選挙 せんきょ のみであった。しかし、4年 ねん に1度 ど の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ は、事実 じじつ 上 じょう 、選挙 せんきょ 人 じん 団 だん による間接 かんせつ 選挙 せんきょ から、重 おも み付 づ けされているとはいえ、直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ に変更 へんこう された。民主党 みんしゅとう と共和党 きょうわとう の二 に 大 だい 政党 せいとう 制 せい 。国連 こくれん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい の常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく であり、2つの同盟 どうめい 国 こく (フランス とイギリス)とともに存在 そんざい する。
強力 きょうりょく なマルクス・レーニン主義 しゅぎ 国家 こっか で、大 だい 規模 きぼ な秘密 ひみつ 警察 けいさつ 組織 そしき を持 も ち、立法府 りっぽうふ の信任 しんにん を得 え ることを主眼 しゅがん とした行政府 ぎょうせいふ と司法 しほう の牽制 けんせい 機能 きのう を持 も つ、強力 きょうりょく な権力 けんりょく 融合 ゆうごう 型 がた の準 じゅん 議会 ぎかい 制度 せいど の下 した で組織 そしき されている。書 か かれた憲法 けんぽう と名目 めいもく 上 じょう の連邦 れんぽう 制 せい にもかかわらず、司法 しほう 審査 しんさ 権 けん を持 も つ裁判所 さいばんしょ がないため、最高 さいこう ソビエトは事実 じじつ 上 じょう の議会 ぎかい 主権 しゅけん を享受 きょうじゅ していた。正式 せいしき な大統領 だいとうりょう 職 しょく が存在 そんざい しないため、常任 じょうにん 理事 りじ 会 かい が集団 しゅうだん 的 てき な国家 こっか 元首 げんしゅ の役割 やくわり を果 は たしていた。国民 こくみん レベルの一般 いっぱん 選挙 せんきょ は、2年 ねん に1度 ど の最高 さいこう ソビエト連邦 れんぽう 選挙 せんきょ のみで、事前 じぜん に選 えら ばれた候補者 こうほしゃ に対 たい するイエス・ノーの投票 とうひょう であった。しかし、1989年 ねん の抜本 ばっぽん 的 てき な政府 せいふ 改革 かいかく により、競争 きょうそう 制 せい の選挙 せんきょ 、直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ で選 えら ばれる行政 ぎょうせい 長官 ちょうかん 、憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ が導入 どうにゅう され、いずれも既存 きそん の制度 せいど とは初歩 しょほ 的 てき な三権分立 さんけんぶんりつ がなされた。一 いち 党 とう 制 せい で、共産党 きょうさんとう が制度 せいど 的 てき に権力 けんりょく を独占 どくせん している。国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい の常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく 。
外交 がいこう 関係 かんけい
西 にし ヨーロッパ 、ラテンアメリカ のいくつかの国 くに 、英 えい 連邦 れんぽう 、いくつかの東 ひがし アジア諸国 しょこく 、イスラエル との強 つよ い結 むす びつき。世界中 せかいじゅう の自由 じゆう 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と反共 はんきょう 主義 しゅぎ 独裁 どくさい を支持 しじ した。
中央 ちゅうおう および東 ひがし ヨーロッパ 、ラテンアメリカの国々 くにぐに 、東南 とうなん アジア およびアフリカ との強 つよ い結 むす びつき。また、1961年 ねん まで中国 ちゅうごく と同盟 どうめい を結 むす んでいた。世界中 せかいじゅう のマルクス・レーニン主義 しゅぎ 国 こく を支援 しえん した。
軍事 ぐんじ
世界一 せかいいち の軍事 ぐんじ 費 ひ [ 13] 。世界 せかい 最大 さいだい の海軍 かいぐん は次 つぎ の13カ国 かこく の海軍 かいぐん の合計 ごうけい を上回 うわまわ り[ 14] 、陸軍 りくぐん と空軍 くうぐん はソビエト連邦 れんぽう に匹敵 ひってき する。世界 せかい 各地 かくち に基地 きち を保有 ほゆう しており、特 とく にワルシャワ条約 じょうやく 加盟 かめい 国 こく を中心 ちゅうしん に西 にし ・南 みなみ ・東 ひがし の三 さん 方 ぽう に不完全 ふかんぜん な環状 かんじょう の基地 きち を保有 ほゆう している。冷戦 れいせん の前半 ぜんはん では、世界 せかい 最大 さいだい の核兵器 かくへいき を保有 ほゆう していた。西 にし ヨーロッパの強力 きょうりょく な軍事 ぐんじ 同盟 どうめい 国 くに で、独自 どくじ の核 かく 戦力 せんりょく を保有 ほゆう していること。諜報 ちょうほう 機関 きかん とのグローバルな情報 じょうほう ネットワーク 発展 はってん 途上 とじょう 国 こく の準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき やゲリラ組織 そしき との連携 れんけい 。先進 せんしん 国 こく の同盟 どうめい 国 こく とともに、防衛 ぼうえい 関連 かんれん 企業 きぎょう を通 つう じた世界 せかい 市場 いちば 向 む けの大 だい 規模 きぼ な兵器 へいき 生産 せいさん 。
世界 せかい 最大 さいだい の陸軍 りくぐん と空軍 くうぐん 、第 だい 2位 い の海軍 かいぐん を保有 ほゆう 。世界 せかい 各地 かくち に基地 きち を保有 ほゆう 。冷戦 れいせん の後半 こうはん には世界 せかい 最大 さいだい の核兵器 かくへいき を保有 ほゆう した。ワルシャワ条約 じょうやく の創設 そうせつ 者 しゃ であり、中 なか ・東欧 とうおう に衛星 えいせい 国 こく を持 も つ。GRUやKGB第 だい 一 いち 部長 ぶちょう とのグローバルな情報 じょうほう ネットワーク。発展 はってん 途上 とじょう 国 こく の準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき やゲリラ組織 そしき とのつながり。大 だい 規模 きぼ な武器 ぶき 産業 さんぎょう の生産 せいさん と世界 せかい 的 てき な流通 りゅうつう
メディア
憲法 けんぽう で言論 げんろん の自由 じゆう と報道 ほうどう の自由 じゆう が保障 ほしょう されているが、冷戦 れいせん が続 つづ いたためにある程度 ていど の検閲 けんえつ が行 おこな われており、特 とく にベトナム戦争 せんそう や第 だい 二 に 次 じ 赤狩 あかが り の際 さい には検閲 けんえつ が最 もっと も厳 きび しくなった。
憲法 けんぽう で保障 ほしょう されている言論 げんろん の自由 じゆう と報道 ほうどう の自由 じゆう は、市民 しみん の義務 ぎむ を果 は たすことと、政府 せいふ の利益 りえき に合致 がっち することの両方 りょうほう を条件 じょうけん としており、事実 じじつ 上 じょう の死 し 文化 ぶんか となっている。報道 ほうどう は明確 めいかく にコントロールされ、検閲 けんえつ された。すべての国 くに の労働 ろうどう 者 しゃ が団結 だんけつ して、資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい とブルジョワジー の独裁 どくさい と呼 よ ばれる社会 しゃかい を打倒 だとう し、すべての生産 せいさん 手段 しゅだん を公有 こうゆう 化 か する社会 しゃかい 主義 しゅぎ 社会 しゃかい に置 お き換 か えるべきだという社会 しゃかい 主義 しゅぎ の理想 りそう を、プロパガンダを使 つか って推進 すいしん した。
文化 ぶんか
音楽 おんがく 、文学 ぶんがく 、映画 えいが 、テレビ、料理 りょうり 、アート、ファッションなど、豊 ゆた かな伝統 でんとう と世界 せかい 的 てき な文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく を持 も つ。
文学 ぶんがく 、映画 えいが 、クラシック音楽 おんがく 、バレエなどの豊 ゆた かな伝統 でんとう がある。
ヤルタ会談 かいだん
冷戦 れいせん の始 はじ まりは、そのイデオロギー 的 てき 側面 そくめん に注目 ちゅうもく するならばロシア革命 かくめい にまでさかのぼることができるが、超 ちょう 大国 たいこく の対立 たいりつ という構図 こうず は、ヤルタ体制 たいせい に求 もと められる。
主 おも に欧州 おうしゅう の分割 ぶんかつ を扱 あつか った、1945年 ねん 2月 がつ のフランクリン・ルーズベルト (アメリカ)、ヨシフ・スターリン (ソ連 それん )、ウィンストン・チャーチル (イギリス )によるヤルタ会談 かいだん が、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の国際 こくさい レジーム を決定 けってい した。7月のポツダム会談 かいだん でさらに相互 そうご 不信 ふしん は深 ふか まっていった。
1946年 ねん 、モスクワ のアメリカ大使館 あめりかたいしかん に勤務 きんむ していたジョージ・ケナン の「長文 ちょうぶん 電報 でんぽう 」はジェームズ・フォレスタル 海軍 かいぐん 長官 ちょうかん を通 つう じて、トルーマン 政権 せいけん 内 ない で回覧 かいらん され、対 たい ソ認識 にんしき の形成 けいせい に寄与 きよ した。後 のち に、アメリカの冷戦 れいせん 政策 せいさく の根幹 こんかん となる「反共 はんきょう ・封 ふう じ込 こ め政策 せいさく 」につながった。
戦争 せんそう によって大 おお きな損害 そんがい を蒙 こうむ っていた欧州 おうしゅう 諸国 しょこく において、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく の伸張 しんちょう が危惧 きぐ されるようになった。特 とく にフランス やイタリア では共産党 きょうさんとう が支持 しじ を獲得 かくとく しつつあった。戦勝 せんしょう 国 こく であったイギリスもかつての大 だい 英 えい 帝国 ていこく の面影 おもかげ もなく、独力 どくりょく でソ連 それん に対抗 たいこう できるだけの力 ちから は残 のこ っていなかった。そのため、西欧 せいおう においてアメリカの存在 そんざい や役割 やくわり が否応 いやおう なく重要 じゅうよう になっていった。1947年 ねん に入 はい ると、3月12日 にち にトルーマンは一般 いっぱん 教書 きょうしょ 演説 えんぜつ でイギリスに代 か わってギリシャ およびトルコ の防衛 ぼうえい を引 ひ き受 う けることを宣言 せんげん した。世界 せかい 的 てき な反共 はんきょう 活動 かつどう を支援 しえん すると宣言 せんげん した、いわゆる「トルーマン・ドクトリン 」であり、全体 ぜんたい 主義 しゅぎ と自由 じゆう 主義 しゅぎ の二 ふた つの生活 せいかつ 様式 ようしき というマニ教 きょう 的 てき 世界 せかい 観 かん が顕在 けんざい 化 か した。さらに6月5日 にち にはハーヴァード大学 だいがく の卒業 そつぎょう 式 しき でジョージ・マーシャル 国務 こくむ 長官 ちょうかん がヨーロッパ復興 ふっこう 計画 けいかく (マーシャル・プラン )を発表 はっぴょう し、西欧 せいおう 諸国 しょこく への大 だい 規模 きぼ 援助 えんじょ を行 おこな った。こうして戦後 せんご アメリカは、継続 けいぞく 的 てき にヨーロッパ大陸 たいりく に関与 かんよ することになり、孤立 こりつ 主義 しゅぎ から脱却 だっきゃく することになった。
東欧 とうおう 諸国 しょこく のうち、ドイツ と同盟 どうめい 関係 かんけい にあったルーマニア 、ブルガリア 、ハンガリー 、スロバキア にはソ連 それん 軍 ぐん が進駐 しんちゅう し、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく を中心 ちゅうしん とする政府 せいふ が樹立 じゅりつ された。当初 とうしょ は、「反 はん ファシズム 」をスローガン とする社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく との連立 れんりつ 政権 せいけん であったが、法務 ほうむ 、内務 ないむ といった主要 しゅよう ポストは共産党 きょうさんとう が握 にぎ った。ヤルタ会談 かいだん で独立 どくりつ 回復 かいふく が約束 やくそく されたポーランド でも、ロンドン の亡命 ぼうめい 政府 せいふ と共産党 きょうさんとう による連立 れんりつ 政権 せいけん が成立 せいりつ したが、選挙 せんきょ 妨害 ぼうがい や脅迫 きょうはく などによって、亡命 ぼうめい 政府 せいふ 系 けい の政党 せいとう や閣僚 かくりょう が排除 はいじょ されていった。こうした東欧 とうおう における共産 きょうさん 化 か を決定 けってい 付 つ けるとともに、西側 にしがわ 諸国 しょこく に冷戦 れいせん の冷徹 れいてつ な現実 げんじつ を突 つ きつけたのが、1948年 ねん 2月 がつ のチェコスロバキア政変 せいへん であった。またその前年 ぜんねん の10月 がつ にはコミンフォルム が結成 けっせい され、社会 しゃかい 主義 しゅぎ に至 いた る多様 たよう な道 みち が否定 ひてい され、ソ連 それん 型 がた の社会 しゃかい 主義 しゅぎ が画一 かくいつ 的 てき に採用 さいよう されるようになった。他方 たほう 、ユーゴスラビア とアルバニア における共産党 きょうさんとう 体制 たいせい の成立 せいりつ において、ソ連 それん の主導 しゅどう というよりも、戦中 せんちゅう のパルチザン 闘争 とうそう に見 み られる土着 どちゃく 勢力 せいりょく による内 うち 発 はつ 的 てき 要因 よういん が大 おお きかった。この点 てん が、1948年 ねん のユーゴ・ソ連 それん 論 ろん 争 そう の遠因 えんいん ともなり、共産 きょうさん 圏 けん からユーゴスラビアが追放 ついほう され、自主 じしゅ 管理 かんり 社会 しゃかい 主義 しゅぎ や非 ひ 同盟 どうめい 主義 しゅぎ 外交 がいこう という独自 どくじ 路線 ろせん を歩 あゆ むことになった。
枢軸 すうじく 国 こく の中心 ちゅうしん であったドイツとオーストリア は、アメリカ・イギリス・フランス ・ソ連 それん が4分割 ぶんかつ して占領 せんりょう 統治 とうち した。占領 せんりょう 行政 ぎょうせい の方式 ほうしき や賠償 ばいしょう 問題 もんだい などでソ連 それん と米 べい 英 えい 仏 ふつ の対立 たいりつ が深 ふか まり、1949年 ねん 、西側 にしがわ 占領 せんりょう 地域 ちいき にはドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (西 にし ドイツ )、ソ連 それん 占領 せんりょう 地域 ちいき にはドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ)が成立 せいりつ する。
ヤルタ会談 かいだん の焦点 しょうてん の一 ひと つがポーランド問題 もんだい であった。米 べい 英 えい にとって、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に参戦 さんせん した直接的 ちょくせつてき 理由 りゆう がナチス・ドイツのポーランド侵攻 しんこう であり、ソ連 それん にとって安全 あんぜん 保障 ほしょう の観点 かんてん から自国 じこく に友好 ゆうこう 的 てき な政権 せいけん がポーランドに樹立 じゅりつ されることが望 のぞ まれていた。いみじくもスターリン がミロヴァン・ジラス に述 の べたように、ポーランド問題 もんだい とは、領土 りょうど 問題 もんだい であると同時 どうじ に政権 せいけん 問題 もんだい という位相 いそう を含 ふく んでいた点 てん で、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の性格 せいかく を如実 にょじつ に表象 ひょうしょう していた。
またポーランドがソ連 それん 軍 ぐん によって解放 かいほう されたことで、戦後 せんご のポーランド政治 せいじ に対 たい して、ソ連 それん の影響 えいきょう 力 りょく が大 おお きくなる要因 よういん となった(敵国 てきこく から解放 かいほう した国家 こっか が占領 せんりょう において主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ るという「イタリア方式 ほうしき 」がここでも作用 さよう していた)。ヤルタ会談 かいだん で、米 べい 英 えい はスターリンにポーランドでの自由 じゆう 選挙 せんきょ の実施 じっし を求 もと め、同意 どうい を取 と り付 つ けたが、スターリンが語 かた ったとされるように、米 べい 英 えい にとって「名誉 めいよ の問題 もんだい 」である一方 いっぽう で、ソ連 それん にとってポーランド問題 もんだい とは「安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 うえ の死活 しかつ 的 てき 問題 もんだい 」であったため、スターリンは強硬 きょうこう な姿勢 しせい を採 と った。
ルーズベルトの死後 しご 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したトルーマンは、こうしたヤルタでの取 と り決 き めをソ連 それん が反故 ほご にしていることを知 し り、国連 こくれん 創設 そうせつ 会議 かいぎ のため訪米 ほうべい 中 ちゅう のソ連 それん の外相 がいしょう ヴャチェスラフ・モロトフ に対 たい し抗議 こうぎ した。その後 ご 、アメリカとソ連 それん は、対立 たいりつ するようになる(選挙 せんきょ が決 き まるまでの過程 かてい は、ヤルタ会談 かいだん の「ポーランド問題 もんだい 」を参照 さんしょう のこと)。
ドイツの首都 しゅと ベルリン は、その国土 こくど 同様 どうよう 、4国 こく で分割 ぶんかつ された。その結果 けっか ベルリンは西側 にしがわ 占領 せんりょう 地区 ちく だけが、東 ひがし ドイツの真 ま ん中 なか に島 しま のように位置 いち することになった。冷戦 れいせん 対立 たいりつ が強 つよ まる中 なか 、ソ連 それん は西側 にしがわ 地区 ちく における通貨 つうか 改革 かいかく への対抗 たいこう 措置 そち として、1948年 ねん に西 にし ベルリン へ繋 つな がる鉄道 てつどう と道路 どうろ を封鎖 ふうさ した(ベルリン封鎖 ふうさ )。これに対抗 たいこう するため、西側 にしがわ 連合 れんごう 国 こく は物資 ぶっし の空輸 くうゆ を行 おこな って、ベルリン封鎖 ふうさ をなし崩 くず しにした。そのため封鎖 ふうさ は約 やく 1年 ねん 後 ご に解 と かれた。
冷戦 れいせん のグローバル化 か (1949年 ねん -1955年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
中華民国 ちゅうかみんこく の蔣介石 せき と宋 そう 美 よし 齢 よわい 、アメリカ陸軍 りくぐん のスティルウェル 中将 ちゅうじょう
冷戦 れいせん は地球 ちきゅう の反対 はんたい 側 がわ でも米 べい ソが向 む き合 あ うため、周辺 しゅうへん のアジア にも強 つよ い影響 えいきょう を与 あた えた。中国 ちゅうごく 大陸 たいりく では、戦後 せんご すぐにアメリカの支援 しえん する中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう とソ連 それん の支援 しえん する中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう が内戦 ないせん を繰 く り広 ひろ げたが、中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう が勝利 しょうり し1949年 ねん に共産 きょうさん 主義 しゅぎ の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を建国 けんこく 。1950年 ねん 2月 がつ に中 ちゅう ソ友好 ゆうこう 同盟 どうめい 相互 そうご 援助 えんじょ 条約 じょうやく を結 むす んでソ連 それん の同盟 どうめい 国 こく となった。一方 いっぽう 、アメリカの支援 しえん を打 う ち切 き られた中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう は台湾 たいわん 島 とう に逃 のが れた。また、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう に出兵 しゅっぺい することで、アメリカと直接 ちょくせつ 対立 たいりつ して台湾 たいわん 海峡 かいきょう も冷戦 れいせん 構造 こうぞう に組 く み入 はい られた。すでにモンゴル ではソ連 それん の支援 しえん の下 した で共産 きょうさん 主義 しゅぎ のモンゴル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく が1924年 ねん に成立 せいりつ していたが、戦後 せんご になって米 べい 英 えい 仏 ふつ 等 とう が承認 しょうにん した。
朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう で戦 たたか う国連 こくれん 軍 ぐん
日本 にっぽん が統治 とうち していた朝鮮半島 ちょうせんはんとう は、ヤルタ会談 かいだん によって北緯 ほくい 38度 ど 線 せん を境 さかい に北 きた をソ連 それん 、南 みなみ をアメリカが占領 せんりょう し、朝鮮半島 ちょうせんはんとう は分断 ぶんだん 国家 こっか となった。このため、1950年 ねん 6月 がつ にソ連 それん の支援 しえん を受 う けた北朝鮮 きたちょうせん が大韓民国 だいかんみんこく へ突如 とつじょ 侵略 しんりゃく を開始 かいし し、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう には「義勇軍 ぎゆうぐん 」の名目 めいもく で中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん も参戦 さんせん し戦闘 せんとう 状態 じょうたい は1953年 ねん まで続 つづ いた。
フランス領 りょう インドシナ では、ベトナム の共産 きょうさん 勢力 せいりょく が独立 どくりつ を目指 めざ し、第 だい 一 いち 次 じ インドシナ戦争 せんそう が起 お こった。1954年 ねん にフランスが敗北 はいぼく したため、ベトナムが独立 どくりつ を得 え たが、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく の拡大 かくだい を恐 おそ れ、ジュネーブ協定 きょうてい によって北緯 ほくい 17度 ど で南部 なんぶ を分割 ぶんかつ し、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の傀儡 かいらい の軍事 ぐんじ 政権 せいけん が統治 とうち する南 みなみ ベトナム を建国 けんこく した。これは後 ご のベトナム戦争 せんそう の引 ひ き金 がね となる。また、フランスとアメリカが強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を残 のこ したラオス (1949年 ねん 独立 どくりつ )、カンボジア (1953年 ねん 独立 どくりつ )でも共産 きょうさん 勢力 せいりょく による政権 せいけん 獲得 かくとく 運動 うんどう が起 お こった。
ジョセフ・マッカーシー上院 じょういん 議員 ぎいん
これら共産 きょうさん 勢力 せいりょく のアジア台頭 たいとう に脅威 きょうい を感 かん じたアメリカは、1951年 ねん 8月 がつ に旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち フィリピン と米 べい 比 ひ 相互 そうご 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく 、9月に一 いち 国 こく 占領 せんりょう していた旧 きゅう 敵国 てきこく 日本 にっぽん と日米 にちべい 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく 、同月 どうげつ にイギリス連邦 れんぽう のオーストラリア ・ニュージーランド と太平洋 たいへいよう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく (ANZUS)、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 後 ご の1953年 ねん 8月 がつ に韓国 かんこく と米 べい 韓 かん 相互 そうご 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく 、1954年 ねん に中華民国 ちゅうかみんこく と米 べい 華 はな 相互 そうご 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく を立 た て続 つづ けに結 むす び、1954年 ねん 9月 がつ にはアジア版 ばん NATO といえる東南 とうなん アジア条約 じょうやく 機構 きこう (SEATO)を設立 せつりつ して西側 にしがわ に引 ひ き入 い れた他 ほか 、中華民国 ちゅうかみんこく への支援 しえん を強化 きょうか した。また中東 ちゅうとう でも、アメリカをオブザーバー とした中東 ちゅうとう 条約 じょうやく 機構 きこう (バグダッド条約 じょうやく 機構 きこう 、METO)を設立 せつりつ し、共産 きょうさん 主義 しゅぎ の封 ふう じ込 こ みを図 はか った。
このように冷戦 れいせん が進 すす む中 なか 、1950年代 ねんだい 前半 ぜんはん のアメリカにおいては、上院 じょういん 政府 せいふ 活動 かつどう 委員 いいん 会 かい 常設 じょうせつ 調査 ちょうさ 小 しょう 委員 いいん 会 かい の委員 いいん 長 ちょう を務 つと めるジョセフ・マッカーシー 上院 じょういん 議員 ぎいん が、政府 せいふ やアメリカ軍 ぐん 内部 ないぶ の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ を炙 あぶ り出 だ すことを口実 こうじつ とした活動 かつどう 、いわゆる「赤狩 あかが り 」旋風 せんぷう を起 お こし、多 おお くの無実 むじつ の政府 せいふ 高官 こうかん や軍 ぐん の将官 しょうかん だけでなく、チャールズ・チャップリン のような外国 がいこく の著名 ちょめい 人 じん でさえ共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ のレッテルを貼 は られ解雇 かいこ 、もしくは国外 こくがい 追放 ついほう された。
1950年代 ねんだい にアメリカの総 そう 生産 せいさん は世界 せかい の約 やく 4割 わり 、金 かね と外貨 がいか の保有 ほゆう は約 やく 5割 わり に上 のぼ り、名実 めいじつ 共 ども に世界 せかい の盟主 めいしゅ となっていた。このようなアメリカを中心 ちゅうしん とするアジア ・太平洋 たいへいよう の同盟 どうめい は、戦禍 せんか を蒙 こうむ らずに一人 ひとり 勝 が ちできたアメリカ経済 けいざい によって支 ささ えられていた。
主 おも な出来事 できごと
ニキータ・フルシチョフ とヨシフ・スターリン
1953年 ねん 、スターリンが死去 しきょ し、冷戦 れいせん 状態 じょうたい が緩和 かんわ する兆 きざ しが見 み え始 はじ めた。同年 どうねん に朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の休戦 きゅうせん が合意 ごうい され、1955年 ねん にはNATOに対抗 たいこう するワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう が結成 けっせい 、オーストリア は永世 えいせい 中立 ちゅうりつ が宣言 せんげん されて東西 とうざい の緩衝 かんしょう 帯 たい となり、連合 れんごう 国軍 こくぐん が撤退 てったい した。またジュネーヴ で米 べい ソ英 えい 仏 ふつ の首脳 しゅのう が会談 かいだん し、ソ連 それん と西 にし ドイツが国交 こっこう 樹立 じゅりつ 、ソ連 それん は翌年 よくねん に日本 にっぽん とも国交 こっこう を回復 かいふく し、1959年 ねん にはフルシチョフがアメリカを訪問 ほうもん するなど、冷戦 れいせん の「雪 ゆき どけ 」ムードを演出 えんしゅつ した。
この時期 じき 、東側 ひがしがわ 陣営 じんえい ではソ連 それん の覇権 はけん が揺 ゆ らぎつつあった。スターリンの後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いを勝 か ち抜 ぬ いたフルシチョフ は、1956年 ねん の第 だい 20回 かい ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 大会 たいかい でスターリン批判 ひはん を行 おこな った。この演説 えんぜつ の反響 はんきょう は大 おお きく、ソ連 それん の衛星 えいせい 諸国 しょこく に大 おお きな衝撃 しょうげき をもたらし、東欧 とうおう 各地 かくち で反 はん ソ暴動 ぼうどう が起 お きた。ポーランド では反 はん ソ暴動 ぼうどう に次 つ いで、国民 こくみん の人気 にんき が高 たか かったヴワディスワフ・ゴムウカ が党 とう 第 だい 一 いち 書記 しょき に就 つ き、ソ連 それん 型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の是正 ぜせい を行 おこな った。ポーランドの動 うご きに触発 しょくはつ される形 かたち で、ハンガリー でも政権 せいけん 交代 こうたい が起 お こり、ナジ・イムレ が政界 せいかい に復帰 ふっき したが、国民 こくみん の改革 かいかく 要求 ようきゅう に引 ひ きずられる形 かたち で、共産党 きょうさんとう 体制 たいせい の放棄 ほうき 、ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう からの脱退 だったい 、中立 ちゅうりつ 化 か を宣言 せんげん するに至 いた り、ソ連 それん 軍 ぐん の介入 かいにゅう を招 まね いた(ハンガリー動乱 どうらん )。
一方 いっぽう 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく はスターリン批判 ひはん に反発 はんぱつ した。1960年代 ねんだい にはキューバ危機 きき や部分 ぶぶん 的 てき 核 かく 実験 じっけん 禁止 きんし 条約 じょうやく でしばしば対立 たいりつ 、ダマンスキー島 とう 事件 じけん などの国境 こっきょう 紛争 ふんそう を起 お こすに至 いた った。
主 おも な出来事 できごと
危機 きき の時代 じだい (1958年 ねん -1962年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
U-2撃墜 げきつい 事件 じけん で撃墜 げきつい された機体 きたい の残骸 ざんがい
互 たが いを常 つね に「仮想 かそう 敵国 てきこく 」と想定 そうてい し、仮想 かそう 敵国 てきこく と戦争 せんそう になった場合 ばあい の勝利 しょうり を保障 ほしょう しようと、両 りょう 国共 こっきょう に勢力 せいりょく の拡大 かくだい を競 きそ い合 あ い、軍備 ぐんび 拡張 かくちょう が続 つづ いた。この象徴 しょうちょう 的 てき な存在 そんざい が、核兵器 かくへいき 開発 かいはつ と宇宙 うちゅう 開発 かいはつ 競争 きょうそう である。両 りょう 陣営 じんえい は、目 め には目 め を、核 かく には核 かく を 、との考 かんが え方 かた からそれぞれ核兵器 かくへいき を大量 たいりょう に保有 ほゆう するようになる。また、大陸 たいりく 間 あいだ 弾道 だんどう ミサイル と共通 きょうつう の技術 ぎじゅつ をもつロケット やU-2 などの高 こう 高度 こうど を飛行 ひこう する偵察 ていさつ 機 き 、宇宙 うちゅう から敵 てき を監視 かんし するための人工 じんこう 衛星 えいせい の開発 かいはつ に没頭 ぼっとう し、国威 こくい 発揚 はつよう のために有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう と月 つき 探査 たんさ 活動 かつどう を活発 かっぱつ 化 か した。
キューバで最初 さいしょ に発見 はっけん されたソ連 それん のMRBM (アルテミサ州 しゅう サン・クリストバル)
しかし、ソ連 それん とアメリカの直接 ちょくせつ 衝突 しょうとつ は、皮肉 ひにく にも核 かく の脅威 きょうい による牽制 けんせい で発生 はっせい しなかった。特 とく に1962年 ねん のキューバ危機 きき によって、米 べい ソの全面 ぜんめん 核 かく 戦争 せんそう の危機 きき が現実 げんじつ 化 か したため、翌年 よくねん から緊張 きんちょう 緩和 かんわ の外交 がいこう 活動 かつどう が開始 かいし されるようになったのである。
その一方 いっぽう 、第 だい 三 さん 世界 せかい の諸国 しょこく では、各 かく 陣営 じんえい の支援 しえん の元 もと で実際 じっさい の戦火 せんか が上 あ がった。これは、二 ふた つの大国 たいこく の熱 あつ い戦争 せんそう を肩代 かたが わりする、代理 だいり 戦争 せんそう と呼 よ ばれた。また、キューバ危機 きき を契機 けいき に「アメリカの裏庭 うらにわ 」と呼 よ ばれる中南米 ちゅうなんべい 諸国 しょこく に対 たい する影響 えいきょう 力 りょく を得 え ることを企 くわだ てたソ連 それん の動 うご きに対 たい し、アメリカはブラジル やボリビア 、ウルグアイ など各国 かっこく の親米 しんべい 軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 政権 せいけん への肩入 かたい れと共産 きょうさん 勢力 せいりょく の排除 はいじょ を行 おこな い、その結果 けっか 共産 きょうさん 勢力 せいりょく の排除 はいじょ に成功 せいこう した。しかし、その後 ご 冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ までの永 なが きにおいて、これらの中南米 ちゅうなんべい 諸国 しょこく では軍事 ぐんじ 政権 せいけん による内戦 ないせん や汚職 おしょく 、軍事 ぐんじ 勢力 せいりょく 同士 どうし によるクーデター が横行 おうこう し、民衆 みんしゅう は貧困 ひんこん にあえぐことになる。
ウィーン会談 かいだん におけるフルシチョフとジョン・F・ケネディ 大統領 だいとうりょう
1949年 ねん 以降 いこう 、分断 ぶんだん 状 じょう 況 きょう が既成 きせい 事実 じじつ 化 か しつつあったドイツ問題 もんだい が暫定 ざんてい 的 てき な形 かたち とはいえ、「解決 かいけつ 」を見 み たのが、1958年 ねん から始 はじ まったベルリン危機 きき (1958年 ねん ) (ドイツ語 ご 版 ばん ) であった。当時 とうじ 、東 ひがし ドイツ における過酷 かこく な社会 しゃかい 主義 しゅぎ 化 か 政策 せいさく によって、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ や知識 ちしき 人 じん 層 そう における反発 はんぱつ が高 たか まり、その多 おお くが西 にし ベルリンを経由 けいゆ して、西 にし ドイツ へと逃亡 とうぼう した。社会 しゃかい 主義 しゅぎ 建設 けんせつ の中核 ちゅうかく となるべき階層 かいそう の流出 りゅうしゅつ に危機 きき 感 かん を募 つの らせたウルブリヒト は、ドイツ問題 もんだい の解決 かいけつ をフルシチョフに訴 うった えるとともに、西側 にしがわ との交渉 こうしょう が挫折 ざせつ した際 さい には、人口 じんこう 流出 りゅうしゅつ を物理 ぶつり 的 てき に阻止 そし することを選択肢 せんたくし として提起 ていき した。フルシチョフの要求 ようきゅう に対 たい し、西側 にしがわ 陣営 じんえい は拒否 きょひ の姿勢 しせい を貫 つらぬ いたため、1961年 ねん 8月 がつ に、西 にし ベルリンを囲 かこ む形 かたち で鉄条 てつじょう 網 もう が敷設 ふせつ され、後 のち に壁 かべ へと発展 はってん した(ベルリン危機 きき (1961年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) )。この当時 とうじ 、ベルリン市長 しちょう を務 つと めていたのが、1969年 ねん に首相 しゅしょう として東方 とうほう 政策 せいさく を推進 すいしん したヴィリー・ブラント であった。彼 かれ の東方 とうほう 政策 せいさく の背景 はいけい には、ベルリン危機 きき の経験 けいけん が反映 はんえい されていた。
主 おも な出来事 できごと
冷戦 れいせん の変容 へんよう (1963年 ねん -1968年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
ベトナム戦争 せんそう 中 ちゅう 、前線 ぜんせん に降下 こうか するアメリカ軍 ぐん のヘリコプター
キューバ危機 きき によって核 かく 戦争 せんそう 寸前 すんぜん の状況 じょうきょう を経験 けいけん した米 べい ソ両国 りょうこく は、核 かく 戦争 せんそう を回避 かいひ するという点 てん において共通 きょうつう 利益 りえき を見出 みいだ した。この結果 けっか 、米 べい 英 えい ソ3国 こく 間 あいだ で部分 ぶぶん 的 てき 核 かく 実験 じっけん 禁止 きんし 条約 じょうやく 、ホットライン 協定 きょうてい などが締結 ていけつ された。しかし、部分 ぶぶん 的 てき 核 かく 実験 じっけん 禁止 きんし 条約 じょうやく は中国 ちゅうごく ・フランスが反対 はんたい し、東西 とうざい 共 ども に一枚岩 いちまいいわ でないことが明白 めいはく となった。シャルル・ド・ゴール 統治 とうち 下 か のフランスは、アメリカ主導 しゅどう のNATO に反対 はんたい し、1964年 ねん には同様 どうよう に米 べい ソと距離 きょり を置 お いていた中国 ちゅうごく を(中国 ちゅうごく と地続 じつづ きな香港 ほんこん を持 も つイギリスを除 のぞ いて)西側 にしがわ 諸国 しょこく では最 もっと も早 はや く国家 こっか 承認 しょうにん した。また、1967年 ねん にド・ゴールは外 そと 訪 おとずれ 先 さき であるカナダで開催 かいさい されたモントリオール万国博覧会 ばんこくはくらんかい で、「自由 じゆう ケベック万歳 ばんざい ! 」と演説 えんぜつ し、今 いま も続 つづ くケベック独立 どくりつ 運動 うんどう に火 ひ を付 つ けた。
米 べい ソ両国 りょうこく の軍拡 ぐんかく 競争 きょうそう が進行 しんこう し、ベトナム戦争 せんそう を契機 けいき とする反戦 はんせん 運動 うんどう 、黒人 こくじん の公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう とそれに対抗 たいこう する人種 じんしゅ 差別 さべつ 主義 しゅぎ 者 しゃ の対立 たいりつ などによって国内 こくない は混乱 こんらん 、マーティン・ルーサー・キング 師 し やロバート・ケネディ などの要人 ようじん の暗殺 あんさつ が横行 おうこう して社会 しゃかい 不安 ふあん に陥 おちい った。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 時 じ はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 以外 いがい の主要 しゅよう な交戦 こうせん 国 こく は戦災 せんさい で著 いちじる しく疲弊 ひへい していたので、世界 せかい の経済 けいざい 規模 きぼ に対 たい するアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の経済 けいざい 規模 きぼ の比率 ひりつ は突出 とっしゅつ して大 おお きかったが、戦災 せんさい から復興 ふっこう した日本 にっぽん や西 にし ドイツ が未曾有 みぞう の経済 けいざい 成長 せいちょう を遂 と げ、西欧 せいおう が経済 けいざい 的 てき に復活 ふっかつ する中 なか で、世界 せかい の経済 けいざい 規模 きぼ に対 たい するアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の経済 けいざい 規模 きぼ の比率 ひりつ は相対 そうたい 的 てき に減少 げんしょう した。
チェコスロバキア はプラハの春 はる と呼 よ ばれる民主 みんしゅ 化 か 、改革 かいかく 路線 ろせん を取 と ったが、ソ連 それん は制限 せいげん 主権 しゅけん 論 ろん に基 もと づきワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 軍 ぐん による軍事 ぐんじ 介入 かいにゅう を行 おこな い武力 ぶりょく でこれを弾圧 だんあつ した。なお、ニコラエ・チャウシェスク 率 ひき いるルーマニア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく はワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 加盟 かめい 国 こく でありながらソ連 それん の介入 かいにゅう を公然 こうぜん と批判 ひはん して独自 どくじ 路線 ろせん を行 おこな い、アメリカなど西側 にしがわ 諸国 しょこく から巨額 きょがく の援助 えんじょ を受 う けた。また、アルバニア はスターリン批判 ひはん 以来 いらい 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 寄 よ りの姿勢 しせい を貫 つらぬ いてワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう を離 はな れ、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく はリチャード・ニクソンの訪中 ほうちゅう を契機 けいき にアメリカに近 ちか づいてソ連 それん と決別 けつべつ 、北朝鮮 きたちょうせん は主体 しゅたい 思想 しそう を掲 かか げてソ連 それん から離反 りはん した。イタリア、スペイン、日本 にっぽん など西側 にしがわ 諸国 しょこく の共産党 きょうさんとう のうちいくつかはソ連 それん 型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ に反発 はんぱつ し、ソ連 それん の影響 えいきょう から離脱 りだつ した(ユーロコミュニズム )。こうして今 いま に至 いた る共産 きょうさん 主義 しゅぎ の多極化 たきょくか が起 お こった。
主 おも な出来事 できごと
デタントの時代 じだい (1967年 ねん -1979年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1960年代 ねんだい 末 まつ から緊張 きんちょう 緩和 かんわ 、いわゆるデタント の時代 じだい に突入 とつにゅう した。米 べい ソ間 あいだ で戦略 せんりゃく 兵器 へいき 制限 せいげん 交渉 こうしょう (SALT)を開始 かいし 、1972年 ねん の協定 きょうてい で核兵器 かくへいき の量的 りょうてき 削減 さくげん が行 おこな われ、緊張 きんちょう 緩和 かんわ を世界 せかい が感 かん じることができた。
この頃 ころ には同 おな じ共産 きょうさん 陣営 じんえい でありながらソ連 それん と中国 ちゅうごく の路線 ろせん 対立 たいりつ はあらゆる方面 ほうめん で亀裂 きれつ を生 う むようになってきており、中 ちゅう ソ国境 こっきょう 紛争 ふんそう など実力 じつりょく 行使 こうし を伴 ともな うほどになってきていた。印 しるし パ戦争 せんそう は中 ちゅう ソの代理 だいり 戦争 せんそう の様相 ようそう を呈 てい した。
このような中 なか ソの対立 たいりつ を見 み たアメリカはソ連 それん を牽制 けんせい する目的 もくてき で、リチャード・ニクソン がパキスタン やルーマニア などの仲介 ちゅうかい により1972年 ねん に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を訪問 ほうもん し、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を承認 しょうにん して外交 がいこう と貿易 ぼうえき を開始 かいし し、東 ひがし アジアにおける冷戦 れいせん の対立 たいりつ 軸 じく であった米 べい 中 ちゅう 関係 かんけい が改善 かいぜん 、1972年 ねん には日本 にっぽん も中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か した。
また、1973年 ねん に北 きた ベトナム とアメリカは和平 わへい 協定 きょうてい に調印 ちょういん し、アメリカ軍 ぐん はベトナムから撤退 てったい した。アメリカは建国 けんこく 以来 いらい 初 はつ の屈辱 くつじょく 的 てき な敗北 はいぼく を味 あじ わうことになった。その後 ご 1975年 ねん 4月 がつ に南 みなみ ベトナム の首都 しゅと であるサイゴン は北 きた ベトナムの手 て に落 お ち、同時 どうじ にラオス 、カンボジア でも共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく が政権 せいけん を獲得 かくとく し、インドシナ半島 いんどしなはんとう は完全 かんぜん に赤化 せっか された。
一般 いっぱん 市民 しみん の日常 にちじょう 生活 せいかつ や仕事 しごと に役立 やくだ つ多種 たしゅ 多様 たよう な商品 しょうひん やサービスが開発 かいはつ ・供給 きょうきゅう され、世界 せかい の経済 けいざい 、財政 ざいせい 、貿易 ぼうえき 、投資 とうし 、通貨 つうか 発行 はっこう は著 いちじる しく拡大 かくだい したので、金本位 きんほんい 制 せい と外国 がいこく 為替 かわせ の固定 こてい 相場 そうば 制 せい の維持 いじ が不可能 ふかのう になり、管理 かんり 通貨 つうか 制度 せいど と変動 へんどう 相場 そうば 制 せい に移行 いこう した。
ヨーロッパでは、1969年 ねん に成立 せいりつ した西 にし ドイツのブラント政権 せいけん が東方 とうほう 政策 せいさく を進 すす め、東側 ひがしがわ との関係 かんけい 改善 かいぜん に乗 の り出 だ した。また1972年 ねん に、かねてからソ連 それん が提案 ていあん していたヨーロッパ全体 ぜんたい の安全 あんぜん 保障 ほしょう を協議 きょうぎ する「ヘルシンキ・プロセス」が始 はじ まり、1975年 ねん に欧州 おうしゅう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 協力 きょうりょく 会議 かいぎ の成立 せいりつ に繋 つな がった。しかし核 かく を削減 さくげん する一方 いっぽう 、ソ連 それん は1977年 ねん から中距離 ちゅうきょり 弾道 だんどう ミサイル を配備 はいび した。これに対抗 たいこう し、アメリカは1979年 ねん 12月に中距離 ちゅうきょり 核 かく 戦力 せんりょく (INF)を西欧 せいおう に配備 はいび すると発表 はっぴょう した。また同 おな じ月 がつ にソ連 それん がアフガニスタンに侵攻 しんこう したため、東西 とうざい はまたも緊張 きんちょう し、デタントの時代 じだい は終焉 しゅうえん した。
中東 ちゅうとう では、第 だい 四 よん 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう が起 お き、主 おも にソ連 それん の支援 しえん するアラブ諸国 しょこく が政治 せいじ 的 てき な成果 せいか をおさめ、石油 せきゆ 危機 きき によって西側 にしがわ 先進 せんしん 国 こく に深刻 しんこく な打撃 だげき を与 あた えた。しかし、四 よん 度 ど にわたる中東 ちゅうとう 戦争 せんそう を主導 しゅどう してきたエジプト は戦争 せんそう 前 まえ にソ連 それん の軍事 ぐんじ 顧問 こもん 団 だん を追放 ついほう し[ 15] 、戦争 せんそう 後 ご はソ連 それん と関係 かんけい 断絶 だんぜつ し、ソ連 それん と対立 たいりつ するアメリカや中国 ちゅうごく から軍事 ぐんじ 的 てき 経済 けいざい 的 てき 援助 えんじょ を受 う け始 はじ め[ 16] [ 17] [ 18] [ 19] 、アメリカの主導 しゅどう でキャンプ・デービッド合意 ごうい が成立 せいりつ し、さらにアメリカは西側 にしがわ に対 たい する石油 せきゆ 禁輸 きんゆ を主導 しゅどう したサウジアラビア がドル 建 た て決済 けっさい で原油 げんゆ を安定 あんてい 的 てき に供給 きょうきゅう することと引 ひ き換 か えに安全 あんぜん 保障 ほしょう を提供 ていきょう する協定 きょうてい (ワシントン・リヤド密約 みつやく )を交 か わしてオイルダラー を確立 かくりつ することでドル防衛 ぼうえい に成功 せいこう し[ 20] [ 21] [ 22] [ 23] [ 24] 、単純 たんじゅん な米 べい ソ対立 たいりつ が反映 はんえい されてきた中東 ちゅうとう でも新 あら たな冷戦 れいせん の構図 こうず が生 う まれつつあった。
アフリカ では、1978年 ねん からエチオピア とソマリア の間 あいだ でオガデン戦争 せんそう が起 お こっていたが、エチオピアが1974年 ねん の軍事 ぐんじ クーデター で社会 しゃかい 主義 しゅぎ を宣言 せんげん したため、ソ連 それん とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国 ちゅうごく とルーマニア、エジプトなどが支援 しえん した。アンゴラ は1975年 ねん の独立 どくりつ 直後 ちょくご から3つの武装 ぶそう 勢力 せいりょく が対立 たいりつ し内戦 ないせん となり、これに南 みなみ アフリカ とザイール とキューバ が介入 かいにゅう 、間接 かんせつ 的 てき にソ連 それん ・中国 ちゅうごく ・アメリカが援助 えんじょ を行 おこな い、泥沼 どろぬま 化 か した。
東南 とうなん アジア では、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか 同士 どうし のカンボジア・ベトナム戦争 せんそう が起 お き、ソ連 それん 寄 よ りのベトナムの侵攻 しんこう で親中 しんちゅう 国 こく の民主 みんしゅ カンプチア が崩壊 ほうかい するも民主 みんしゅ カンプチアの亡命 ぼうめい 政府 せいふ は中国 ちゅうごく ・ASEAN ・日本 にっぽん ・アメリカの支援 しえん で国連 こくれん 総会 そうかい の議席 ぎせき を保 たも ち続 つづ け、タイ との国境 こっきょう で親 しん ベトナムのヘン・サムリン 政権 せいけん に対 たい しゲリラ活動 かつどう を行 おこな ってカンボジア内戦 ないせん は長期 ちょうき 化 か した。
ラテンアメリカ では、チリ において民主 みんしゅ 的 てき な社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん であるサルバドール・アジェンデ 政権 せいけん を転覆 てんぷく させたチリ・クーデター で成立 せいりつ したアウグスト・ピノチェト が中国 ちゅうごく とルーマニアを除 のぞ く共産 きょうさん 圏 けん と断交 だんこう し、親米 しんべい 軍事 ぐんじ 政権 せいけん の南米 なんべい 諸国 しょこく は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく の排除 はいじょ で連携 れんけい するコンドル作戦 さくせん を立 た ち上 あ げた。
ソ連 それん は1970年代 ねんだい に世界 せかい 的 てき に勢力 せいりょく を伸 の ばし、統一 とういつ ベトナム、カンボジア(親 おや ベトナム政権 せいけん )、ラオス、エチオピア、南 みなみ イエメン の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政府 せいふ と協力 きょうりょく 関係 かんけい を築 きず き、アンゴラ、モザンビーク 、ニカラグア などで共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく に加担 かたん して紛争 ふんそう に介入 かいにゅう し、シリア やイラク などアメリカが近 ちか づきにくい国 くに に接近 せっきん し、友好 ゆうこう 関係 かんけい を築 きず いた。ソ連 それん の影響 えいきょう 力 りょく は1980年代 ねんだい にかけて第 だい 三 さん 世界 せかい に広 ひろ がった。
新 しん 冷戦 れいせん (1979年 ねん -1985年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
チャールズ・ウィルソン とムジャーヒディーン
1978年 ねん に成立 せいりつ した共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん を支 ささ えるために、1979年 ねん にソ連 それん がアフガニスタンに侵攻 しんこう した。このため、西側 にしがわ 世論 せろん が反発 はんぱつ して東西 とうざい は再度 さいど 緊張 きんちょう 、影響 えいきょう は1980年 ねん モスクワオリンピック への西側 にしがわ に加 くわ えて中国 ちゅうごく 、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど親米 しんべい のアラブ ・イスラム 諸国 しょこく も加 くわ わったボイコットとして現 あらわ れた。東側 ひがしがわ は報復 ほうふく として、1984年 ねん のロサンゼルスオリンピック をボイコット した。アメリカはCIA やチャールズ・ウィルソン らによる総額 そうがく 数 すう 十 じゅう 億 おく ドル規模 きぼ の極秘 ごくひ の武器 ぶき 供給 きょうきゅう などによる支援 しえん にてアフガニスタン の反共 はんきょう ムスリム 武装 ぶそう 勢力 せいりょく 「ムジャヒディン 」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助 えんじょ した[ 25] 。また、ソ連 それん と対立 たいりつ する中国 ちゅうごく も武器 ぶき や訓練 くんれん でムジャヒディンを支援 しえん した[ 26] 。戦争 せんそう を短期 たんき で終結 しゅうけつ させるソ連 それん の目論見 もくろみ は外 はず れ、侵攻 しんこう の長期 ちょうき 化 か によってソ連 それん 財政 ざいせい は逼迫 ひっぱく し、アメリカは間接 かんせつ 的 てき にソ連 それん を弱体 じゃくたい 化 か することに成功 せいこう した。
人々 ひとびと は、このアフガニスタンの騒乱 そうらん によって、世界 せかい には東西 とうざい の陣営 じんえい とは別 べつ にもう一 ひと つの勢力 せいりょく があることに気 き が付 つ き始 はじ めた。それはイスラム主義 しゅぎ と呼 よ ばれる勢力 せいりょく であり、二 ふた つのイデオロギー 対立 たいりつ とはまったく異 こと なる様相 ようそう を呈 てい した。アフガニスタンではアメリカはソ連 それん を倒 たお すために、この勢力 せいりょく を支援 しえん したが、1979年 ねん イラン革命 かくめい の際 さい には、国際 こくさい 法 ほう を無視 むし してアメリカ大使館 あめりかたいしかん が1年 ねん 余 あま りにわたり占拠 せんきょ された。アメリカは大使館 たいしかん 員 いん 救出 きゅうしゅつ のために軍 ぐん を介入 かいにゅう させたが失敗 しっぱい 、アメリカ軍 ぐん の無力 むりょく さを露呈 ろてい した(イーグルクロー作戦 さくせん )。イスラム教 いすらむきょう を創始 そうし した預言 よげん 者 しゃ ムハンマド の子孫 しそん (サイイド )でイランの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ となったルーホッラー・ホメイニー は「ソ連 それん は小 しょう 悪魔 あくま 、米国 べいこく は大 だい 悪魔 あくま 」「我々 われわれ は西 にし でも東 ひがし でもない」としてイスラム主義 しゅぎ の時代 じだい を謳 うた った[ 27] 。
このイラン革命 かくめい によってアラブ諸国 しょこく や東西 とうざい 諸国 しょこく は動揺 どうよう し、1980年 ねん にイラン・イラク戦争 せんそう となって火 ひ を噴 ふ いた。欧米 おうべい ソ中 ちゅう はイスラム革命 かくめい が世界 せかい に広 ひろ がることやさらなる石油 せきゆ 危機 きき を恐 おそ れ、イラク を援助 えんじょ して中東 ちゅうとう 最大 さいだい の軍事 ぐんじ 大国 たいこく に仕立 した てた。戦争 せんそう は長期 ちょうき にわたり、1987年 ねん には米 べい 軍 ぐん が介入 かいにゅう したが、決着 けっちゃく のつかないままに終 お わった。しかし、この時 とき のアメリカによる中東 ちゅうとう 政策 せいさく が、後 ご の21世紀 せいき の世界 せかい 情勢 じょうせい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えることになった。一方 いっぽう 、ソ連 それん は国内 こくない 情勢 じょうせい の変化 へんか (下記 かき 参照 さんしょう )によって1989年 ねん には泥沼 どろぬま のアフガンから完全 かんぜん 撤退 てったい 、世界 せかい から急速 きゅうそく にソ連 それん の影響 えいきょう 力 りょく が弱 よわ まりつつあった。
主 おも な出来事 できごと
改革 かいかく から冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 、ソ連 それん 崩壊 ほうかい (1985年 ねん -1991年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
ゴルバチョフによる改革 かいかく (1985年 ねん -1988年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
超 ちょう 大国 たいこく 同士 どうし のリーダーが会談 かいだん している様子 ようす (1985年 ねん 、ロナルド・レーガン とミハイル・ゴルバチョフ )
INFに調印 ちょういん するミハイル・ゴルバチョフ とロナルド・レーガン
ボリス・エリツィン とジョージ・H・W・ブッシュ
1985年 ねん 、ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん したミハイル・ゴルバチョフ は、改革 かいかく (ペレストロイカ )および新 しん 思考 しこう 外交 がいこう を掲 かか げて、経済 けいざい が疲弊 ひへい した国内 こくない 体制 たいせい の改良 かいりょう と、予算 よさん 案 あん を大幅 おおはば に削減 さくげん した大胆 だいたん な軍縮 ぐんしゅく 提案 ていあん を行 おこな い、さらには西側 にしがわ との関係 かんけい 改善 かいぜん に乗 の り出 だ す。
1987年 ねん にアメリカとの間 あいだ で中距離 ちゅうきょり 核 かく 戦力 せんりょく 全廃 ぜんぱい 条約 じょうやく (INF)を調印 ちょういん した。この緊張 きんちょう 緩和 かんわ によって、両国 りょうこく の代理 だいり 戦争 せんそう と化 か していたオガデン戦争 せんそう やアンゴラ内戦 ないせん が1988年 ねん から順次 じゅんじ 終結 しゅうけつ し、リビア とフランス が介入 かいにゅう したチャド 内戦 ないせん も終結 しゅうけつ した。カンボジア内戦 ないせん も1988年 ねん から和平 わへい 会議 かいぎ が開催 かいさい された。
東欧 とうおう 革命 かくめい と冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ (1988年 ねん -1989年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
また、既 すで に1980年代 ねんだい 初頭 しょとう から独立 どくりつ 自主 じしゅ 管理 かんり 労働 ろうどう 組合 くみあい 「連帯 れんたい 」 が結成 けっせい され民主 みんしゅ 化 か の動 うご きが見 み られていたポーランド では1989年 ねん の選挙 せんきょ でポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう が失脚 しっきゃく して政権 せいけん が交代 こうたい し、同様 どうよう に東欧 とうおう 諸国 しょこく の中 なか でも比較的 ひかくてき 早 はや くから改革 かいかく 路線 ろせん を行 おこな っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連 それん 式 しき 共産党 きょうさんとう 体制 たいせい が相次 あいつ いで倒 たお れ、夏 なつ には東 ひがし ドイツ国民 こくみん が西 にし ドイツ へこれらの国 くに を経 へ て大量 たいりょう 脱出 だっしゅつ した。
東 ひがし ドイツはあくまで強硬 きょうこう な社会 しゃかい 主義 しゅぎ 路線 ろせん を取 と り民衆 みんしゅう を抑 おさ え込 こ もうとしたが、10月のライプツィヒ で行 おこな われた月曜 げつよう デモ には10万 まん 人 にん が参加 さんか し、事態 じたい を収拾 しゅうしゅう できなかった社会 しゃかい 主義 しゅぎ 統一 とういつ 党 とう 内部 ないぶ では、幹部 かんぶ であったエーリッヒ・ホーネッカー の求心力 きゅうしんりょく が低下 ていか し、まもなく総 そう 辞職 じしょく に追 お い込 こ まれた。後任 こうにん の指導 しどう 部 ぶ も民主 みんしゅ 化 か を求 もと める動 うご きをせき止 と められず、東 ひがし ドイツは政治 せいじ ・経済 けいざい が崩壊 ほうかい 状態 じょうたい に陥 おちい った。
このため、11月9日 にち には東 ひがし ドイツがベルリンの壁 かべ の開放 かいほう を宣言 せんげん 、冷戦 れいせん の象徴 しょうちょう ともいうべきベルリンの壁 かべ が崩壊 ほうかい した。ルーマニア でも革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ し、ニコラエ・チャウシェスク 大統領 だいとうりょう 夫妻 ふさい が射殺 しゃさつ され、共産党 きょうさんとう 政権 せいけん が倒 たお された。これら東 ひがし ヨーロッパの共産党 きょうさんとう 政権 せいけん が連続 れんぞく 的 てき に倒 たお された革命 かくめい を、東欧 とうおう 革命 かくめい という。1989年 ねん 12月には、地中海 ちちゅうかい のマルタ島 とう で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュ が会談 かいだん し、冷戦 れいせん の終結 しゅうけつ を宣言 せんげん した[ 28] 。しかし、中国 ちゅうごく では六 ろく 四 よん 天安門 てんあんもん 事件 じけん が起 お き、東 ひがし アジアの共産党 きょうさんとう 政権 せいけん (竹 たけ のカーテン )では民主 みんしゅ 化 か ドミノが武力 ぶりょく で抑制 よくせい された。
ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい (1989年 ねん -1991年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1990年 ねん 8月 がつ に起 お きた湾岸 わんがん 戦争 せんそう では、欧米 おうべい ソ中 ちゅう が世界 せかい 第 だい 四 よん の軍事 ぐんじ 大国 たいこく に仕立 した てたイラクのクウェート侵攻 しんこう に対 たい するアメリカ主導 しゅどう の武力 ぶりょく 行使 こうし 容認 ようにん 決議 けつぎ にソ連 それん は同調 どうちょう し、米 べい ソで二 に 極 きょく 化 か してきた世界 せかい はアメリカ一極 いっきょく 化 か への兆 きざ しが見 み え始 はじ めた。アメリカは、1990年 ねん 8月 がつ のイラク軍 ぐん によるクウェート 侵攻 しんこう (湾岸 わんがん 危機 きき )を皮切 かわき りにアラビア半島 はんとう に展開 てんかい 、翌 よく 1991年 ねん 1月 がつ にイラクとの間 あいだ で湾岸 わんがん 戦争 せんそう に踏 ふ み切 き り、これに勝利 しょうり した。湾岸 わんがん 危機 きき の際 さい に1991年 ねん 1月 がつ 中旬 ちゅうじゅん からイラクの要請 ようせい を受 う けていたソ連 それん の和平 わへい 案 あん が当時 とうじ の欧州共同体 おうしゅうきょうどうたい 外相 がいしょう 会議 かいぎ で賛成 さんせい され、翌日 よくじつ にイラクと無条件 むじょうけん 全面 ぜんめん 撤退 てったい で合意 ごうい したが、ブッシュ大統領 だいとうりょう はこれを退 しりぞ けた(数日 すうじつ 後 ご 、シュワルツコフがソ連 それん 案 あん を修正 しゅうせい して停戦 ていせん が決 き まった)。イラクを下 くだ したアメリカは世界 せかい の盟主 めいしゅ として自信 じしん を深 ふか め、その後 ご はパレスチナ問題 もんだい を中心 ちゅうしん に中東 ちゅうとう への関心 かんしん と介入 かいにゅう を深 ふか めていく。湾岸 わんがん 戦争 せんそう はその後 ご の世界 せかい 情勢 じょうせい を形成 けいせい する上 じょう で非常 ひじょう に重要 じゅうよう だったといえる。
ソ連 それん 国内 こくない ではペレストロイカ 路線 ろせん は行 い き詰 づ まりつつあった。バルト三 さん 国 こく の独立 どくりつ 要求 ようきゅう が高 たか まり、1988年 ねん 11月にエストニア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく が主権 しゅけん 宣言 せんげん 、同年 どうねん リトアニア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく でもサユディス による独立 どくりつ 運動 うんどう の加速 かそく により、国旗 こっき がソビエト編入 へんにゅう 以前 いぜん のデザインに戻 もど された。1989年 ねん 7月 がつ にリトアニア共産党 きょうさんとう がソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう からの独立 どくりつ を宣言 せんげん した。
1990年 ねん 3月 がつ から6月 がつ にかけて東欧 とうおう 各国 かっこく で一斉 いっせい に選挙 せんきょ が実施 じっし され、ほとんどの国 くに で共産党 きょうさんとう が第 だい 一 いち 党 とう から転落 てんらく した。バルト三 さん 国 こく でも共産党 きょうさんとう は少数 しょうすう 野党 やとう となり、バルト三 さん 国 こく の各 かく 最高 さいこう 会議 かいぎ は独立 どくりつ 宣言 せんげん を採択 さいたく した。ソ連 それん 政府 せいふ はバルト三 さん 国 こく に対 たい して軍事 ぐんじ 行動 こうどう を起 お こし、1991年 ねん 1月 がつ の血 ち の日曜日 にちようび 事件 じけん (リトアニア)などで、ソ連 それん 軍 ぐん と民間 みんかん 人 じん が衝突 しょうとつ する事態 じたい になった。
ソ連 それん は1991年 ねん 3月 がつ 、バルト三 さん 国 こく を除 のぞ く首脳 しゅのう が、連邦 れんぽう の権限 けんげん を縮小 しゅくしょう した新 しん 連邦 れんぽう の構想 こうそう に合意 ごうい した。同年 どうねん 3月 がつ 17日 にち には新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく を締結 ていけつ するための布石 ふせき として、連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ の賛否 さんぴ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう (英語 えいご 版 ばん 、ロシア語 ご 版 ばん )が各 かく 共和 きょうわ 国 こく で行 おこな われ、投票 とうひょう 者 しゃ の76.4%が連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ に賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じることとなった。しかし、既 すで に分離 ぶんり 独立 どくりつ を宣言 せんげん していたバルト三 さん 国 こく (エストニア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 、ラトビア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 、リトアニア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく )、モルダビア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 、グルジア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 、アルメニア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく は投票 とうひょう をボイコットした。
1991年 ねん 6月 がつ 12日 にち 、ソ連 それん 体制 たいせい 内 ない で機能 きのう が形骸 けいがい 化 か していたロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく で、選挙 せんきょ により大統領 だいとうりょう に当選 とうせん したボリス・エリツィン は、国名 こくめい を「ロシア共和 きょうわ 国 こく 」に改称 かいしょう し、主権 しゅけん 宣言 せんげん を出 だ して連邦 れんぽう からの離脱 りだつ を表明 ひょうめい した。
また、米 べい ソ両国 りょうこく は1991年 ねん 7月 がつ に第 だい 一 いち 次 じ 戦略 せんりゃく 兵器 へいき 削減 さくげん 条約 じょうやく (START)に調印 ちょういん した。8月 がつ 20日 はつか に予定 よてい されていた新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく 調印 ちょういん を前 まえ に、ゴルバチョフの改革 かいかく に反抗 はんこう した勢力 せいりょく が軍事 ぐんじ クーデター を起 お こし、ゴルバチョフを滞在 たいざい 先 さき のクリミア で軟禁 なんきん 状態 じょうたい に置 お いた。しかし、クーデターはボリス・エリツィン の活躍 かつやく やクーデター勢力 せいりょく の準備 じゅんび 不足 ふそく から失敗 しっぱい に終 お わった。
しかし、その結果 けっか バルト三 さん 国 こく は独立 どくりつ を達成 たっせい し、各 かく 構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく でも独立 どくりつ に向 む けた動 うご きが進 すす み、12月8日 にち に、ロシア のエリツィン、ウクライナ のレオニード・クラフチュク 、ベラルーシ のスタニスラフ・シュシケビッチ がベラルーシ のベロヴェーシの森 もり で会談 かいだん し、ソ連 それん からの離脱 りだつ と独立 どくりつ 国家 こっか 共同 きょうどう 体 たい (CIS) の結成 けっせい で合意 ごうい した(「ベロヴェーシの陰謀 いんぼう 」)。こうして12月25日 にち をもってソ連 それん は消滅 しょうめつ した 。その後 ご 十 じゅう 年間 ねんかん で、東欧 とうおう や旧 きゅう ソ連 それん の国々 くにぐに の一部 いちぶ は、相次 あいつ いで資本 しほん 主義 しゅぎ 国家 こっか となった。
ポスト冷戦 れいせん 時代 じだい (1991年 ねん -1990年代 ねんだい 前半 ぜんはん )[ 編集 へんしゅう ]
ベルリンの壁 かべ が崩壊 ほうかい して冷戦 れいせん が終結 しゅうけつ する前後 ぜんご に、それまで反共 はんきょう 主義 しゅぎ が故 ゆえ に、軍事 ぐんじ 政権 せいけん や独裁 どくさい 政権 せいけん 、長期 ちょうき 政権 せいけん の存在 そんざい が容認 ようにん されていた一部 いちぶ の西側 にしがわ 諸国 しょこく (インドネシア や台湾 たいわん 、韓国 かんこく 、ザイール など)が、アメリカからの金銭 きんせん や軍事 ぐんじ 、政治 せいじ 的 てき 支援 しえん を受 う けられなくなったために次々 つぎつぎ と政権 せいけん 崩壊 ほうかい し、選挙 せんきょ の実施 じっし や政権 せいけん 交代 こうたい を余儀 よぎ なくされた。日本 にっぽん でも55年 ねん 体制 たいせい が崩壊 ほうかい し、非 ひ 自民 じみん ・非 ひ 共産 きょうさん 連立 れんりつ 政権 せいけん が樹立 じゅりつ された。さらに反共 はんきょう 主義 しゅぎ を条件 じょうけん にアメリカの援助 えんじょ を受 う けた軍事 ぐんじ 政権 せいけん や独裁 どくさい 政権 せいけん 、長期 ちょうき 政権 せいけん がその殆 ほとん どを占 し めた中南米 ちゅうなんべい 諸国 しょこく においても、チリ やアルゼンチン 、ブラジルなどの主要 しゅよう 国 こく で相次 あいつ いで民政 みんせい 化 か が進 すす んだ。また、ソ連 それん の中南米 ちゅうなんべい における橋頭堡 きょうとうほ として、軍事 ぐんじ 援助 えんじょ やバーター貿易 ぼうえき などの方法 ほうほう でソ連 それん から多大 ただい な援助 えんじょ を受 う けていたキューバは、冷戦 れいせん が終 お わってアメリカとの対決 たいけつ の必然 ひつぜん 性 せい が消 き えたロシアにとって戦略 せんりゃく 的 てき 価値 かち を失 うしな い、援助 えんじょ は途絶 とだ え、経済 けいざい 危機 きき に陥 おちい った。
米 べい ソ冷戦 れいせん が終結 しゅうけつ した当初 とうしょ の1990年代 ねんだい 初期 しょき において、フランシス・フクヤマ が『歴史 れきし の終 お わり 』を発表 はっぴょう し、政治 せいじ 体制 たいせい としてのリベラル民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の最終 さいしゅう 的 てき 勝利 しょうり を宣言 せんげん した。冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ 直後 ちょくご の1991年 ねん に、冷戦 れいせん の盟主 めいしゅ 国 こく の一角 いっかく であるソ連 それん が死滅 しめつ すると世界 せかい の均衡 きんこう が崩 くず れ、アメリカが唯一 ゆいいつ の超 ちょう 大国 たいこく となった。ソ連 それん 型 がた の国営 こくえい の計画 けいかく 経済 けいざい ・統制 とうせい 経済 けいざい モデルの社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい と社会 しゃかい 主義 しゅぎ 経済 けいざい 圏 けん が崩壊 ほうかい し、世界 せかい の経済 けいざい が資本 しほん 主義 しゅぎ 経済 けいざい ・市場 いちば 経済 けいざい により統合 とうごう され、グローバリゼーション が進行 しんこう した。冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ により、それまでクレムリン やホワイトハウス に抑圧 よくあつ されていた世界 せかい 各地 かくち の民族 みんぞく 問題 もんだい が再燃 さいねん した。
東 ひがし ヨーロッパを見 み ると、1993年 ねん にチェコスロバキア がチェコ とスロバキア に平和 へいわ 裏 うら に分離 ぶんり した反面 はんめん 、1993年 ねん に起 お こったユーゴスラビア紛争 ふんそう は、民族 みんぞく 同士 どうし の憎 にく しみに火 ひ を点 つ けてその後 ご も続 つづ いた。カフカス 地方 ちほう ではアゼルバイジャン やアルメニア で内戦 ないせん となり、チェチェン をはじめ各 かく 小 しょう 民族 みんぞく が独立 どくりつ 闘争 とうそう を起 お こし、各国 かっこく で内戦 ないせん に発展 はってん した(第 だい 一 いち 次 じ チェチェン紛争 ふんそう )。この内戦 ないせん はロシア軍 ぐん による圧倒的 あっとうてき な火力 かりょく で制圧 せいあつ されているが、追 お い込 こ まれた独立 どくりつ 派 は はテロ 行為 こうい に走 はし り、収拾 しゅうしゅう がつかなくなっている(第 だい 二 に 次 じ チェチェン紛争 ふんそう )。また、このテロにはイスラーム過激 かげき 派 は の関与 かんよ が疑 うたが われている。
西 にし ヨーロッパの冷戦 れいせん は終 お わったが、東 ひがし アジアではモンゴル の民主 みんしゅ 化 か 、ベトナム とアメリカの和解 わかい の外 そと は、中華民国 ちゅうかみんこく と中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の対立 たいりつ 、大韓民国 だいかんみんこく と朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく の対立 たいりつ (朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう )が現在 げんざい も続 つづ いており、日本 にっぽん 国内 こくない では日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう と朝鮮総連 ちょうせんそうれん は現在 げんざい も公安 こうあん 当局 とうきょく (公安調査庁 こうあんちょうさちょう 、公安 こうあん 警察 けいさつ )に監 かん 視 し されているなど、こちらは解決 かいけつ の見通 みとお しが立 た っていない。
アメリカは「冷戦 れいせん の戦勝 せんしょう 国 こく 」という自信 じしん から、1991年 ねん の湾岸 わんがん 戦争 せんそう に引 ひ き続 つづ いて中東 ちゅうとう への介入 かいにゅう を深 ふか め、ビル・クリントン 政権 せいけん は、双子 ふたご の赤字 あかじ を改善 かいぜん していく傍 かたわ らでパレスチナ問題 もんだい に積極 せっきょく 的 てき に関 かか わり、ノルウェー の仲介 ちゅうかい により初 はじ めて和平 わへい 合意 ごうい をもたらした(オスロ合意 ごうい )。しかし、イスラエル の凶変 きょうへん から和平 わへい は暗礁 あんしょう に乗 の り上 あ げ、パレスチナ過激 かげき 派 は によるテロとイスラエル軍 ぐん による虐殺 ぎゃくさつ によって、パレスチナ は泥沼 どろぬま の様相 ようそう を呈 てい した(パレスチナ問題 もんだい )。また、アフガニスタン やスーダン には1998年 ねん にミサイル 攻撃 こうげき を強行 きょうこう し、特 とく にアフガニスタンには4回 かい に亘 わた る経済 けいざい 制裁 せいさい を与 あた えた。アフリカに対 たい しては、スーダンの外 そと にはソマリア にも国際 こくさい 連合 れんごう の力 ちから で内戦 ないせん に介入 かいにゅう したが失敗 しっぱい し、これによって、クリントン政権 せいけん は地上 ちじょう 軍 ぐん の派遣 はけん を恐 おそ れるようになった。イラク に対 たい しては湾岸 わんがん 戦争 せんそう 以来 いらい 敵対 てきたい しており、イラク武装 ぶそう 解除 かいじょ 問題 もんだい に関 かん しても、武器 ぶき 査察 ささつ が滞 とどこお る度 たび に空爆 くうばく を加 くわ えた。これらのアメリカによる中東 ちゅうとう への介入 かいにゅう やグローバリゼーション に反感 はんかん を抱 いだ くアルカーイダ は、2001年 ねん にアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん を惹 ひ き起 お こし、対 たい テロ戦争 せんそう と呼 よ ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻 しんこう やイラク戦争 せんそう となった。
アメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん
特 とく にイラク戦争 せんそう に関 かん しては開戦 かいせん 時 じ 第 だい 一 いち の理由 りゆう に挙 あ げられた大量 たいりょう 破壊 はかい 兵器 へいき は一切 いっさい 見 み つからず、最終 さいしゅう 的 てき に存在 そんざい しないことが判明 はんめい したため、アメリカ外交 がいこう の信頼 しんらい に大 おお きな傷 きず をつけた[ 29] 。ジョージ・W・ブッシュ 大統領 だいとうりょう も退任 たいにん 直前 ちょくぜん に、大量 たいりょう 破壊 はかい 兵器 へいき の情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう は政権 せいけん の最大 さいだい の失敗 しっぱい の一 ひと つであったことを認 みと めた。
核 かく 開発 かいはつ 競争 きょうそう によって生産 せいさん された高性能 こうせいのう 核弾頭 かくだんとう を、現在 げんざい もアメリカとロシアが数 すう 千 せん 発 はつ 保有 ほゆう している。冷戦 れいせん 初期 しょき に核 かく のアメリカ一極 いっきょく 集中 しゅうちゅう を恐 おそ れた一部 いちぶ の科学 かがく 者 しゃ は、核 かく の抑止 よくし 力 りょく で世界 せかい の均衡 きんこう を保 たも とうと、ソ連 それん とイギリス とフランス に開発 かいはつ 法 ほう を伝授 でんじゅ し、ソ連 それん から中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく にも継承 けいしょう されて、現在 げんざい の核 かく 五 ご 大国 たいこく が形成 けいせい された。この外 そと にも、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく やソ連 それん から流出 りゅうしゅつ した開発 かいはつ 法 ほう によって(中 ちゅう ソ対立 たいりつ なども要因 よういん となっているが)インド やパキスタン の核保有 かくほゆう (印 しるし パ戦争 せんそう #両国 りょうこく の核保有 かくほゆう )や、アメリカから供与 きょうよ された技術 ぎじゅつ によってイスラエル の核保有 かくほゆう に及 およ んでいる。
2008年 ねん 8月 がつ には南 みなみ オセチア紛争 ふんそう が起 お こり、米 べい 露 ろ 間 あいだ に軍事 ぐんじ 的 てき 緊張 きんちょう が生 しょう じ、「冷戦 れいせん の再来 さいらい 」「新 しん 冷戦 れいせん 」などと呼 よ ばれる状況 じょうきょう となっており、緊張 きんちょう 状態 じょうたい が続 つづ いている。同年 どうねん の世界 せかい 金融 きんゆう 危機 きき で財政 ざいせい 出動 しゅつどう により、景気 けいき を回復 かいふく させ影響 えいきょう 力 りょく を高 たか めた中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく も、米 べい 中 ちゅう 冷戦 れいせん と呼 よ ばれる緊張 きんちょう 状態 じょうたい にあるとされ、中 ちゅう 露 ろ はNATO と対立 たいりつ する上海 しゃんはい 協力 きょうりょく 機構 きこう を組織 そしき している。ロシアは、ソ連 それん が崩壊 ほうかい すると共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか として甦生 そせい し、ボリス・エリツィン 政権 せいけん 下 か で経済 けいざい の再建 さいけん と資本 しほん 主義 しゅぎ 化 か が推進 すいしん された。しかし、これが裏目 うらめ に出 で てロシアの経済 けいざい は悪化 あっか し、特 とく にアジア通貨 つうか 危機 きき 後 ご の1998年 ねん にはロシア財政 ざいせい 危機 きき が起 お きて一層 いっそう 悪化 あっか するなど、「冷戦 れいせん の敗戦 はいせん 国 こく 」として欧米 おうべい の経済 けいざい 援助 えんじょ に甘 あま んじていた。しかし、2003年 ねん 頃 ころ より原油 げんゆ 価格 かかく 高騰 こうとう の恩恵 おんけい により経済 けいざい は好転 こうてん し、それを背景 はいけい にウラジーミル・プーチン 政権 せいけん は再 ふたた び「強 つよ いロシア」の復権 ふっけん を謳 うた い、EU やNATOへの旧 きゅう ソ連 それん 加盟 かめい 国 こく の取 と り込 こ みを進 すす めていた欧米 おうべい に対 たい して、シリア内戦 ないせん に介入 かいにゅう するなど牽制 けんせい の動 うご きを見 み せるようになった。
1989年 ねん - 1991年 ねん に起 お こった「ソ連 それん 型 がた 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 体制 たいせい 」の消滅 しょうめつ により、多 た 国籍 こくせき 企業 きぎょう は地球 ちきゅう 規模 きぼ で市場 いちば と利益 りえき を奪 うば い合 あ うグローバリゼーション が進行 しんこう した。冷戦 れいせん 時代 じだい 末期 まっき のIMF不 ふ 況 きょう と1990年代 ねんだい のグローバリゼーションに遭遇 そうぐう したラテンアメリカ では、2000年代 ねんだい になると反米 はんべい ・左派 さは の政権 せいけん が続々 ぞくぞく と生 う まれ、社会 しゃかい 主義 しゅぎ が復活 ふっかつ する動 うご きを見 み せていたが、その代表 だいひょう 格 かく であったベネズエラ のチャベス大統領 だいとうりょう が病死 びょうし したことで2012年 ねん 頃 ころ から親米 しんべい 路線 ろせん に回帰 かいき する国 くに も増 ふ えている。また2015年 ねん には、オバマ 政権 せいけん において、アメリカとキューバ の国交 こっこう が回復 かいふく した。
グレゴリー・ガウスが執筆 しっぴつ した『新 あたら しい中東 ちゅうとう の冷戦 れいせん 』と題 だい された宗派 しゅうは 主義 しゅぎ に関 かん する文献 ぶんけん では、イラン とサウジアラビア は超 ちょう 大国 たいこく として地域 ちいき に影響 えいきょう を与 あた える能力 のうりょく を持 も っているとされている。そして、「これは、純粋 じゅんすい なる軍事 ぐんじ 的 てき な争 あらそ いというよりも、中東 ちゅうとう の国内 こくない 政治 せいじ の方向 ほうこう 性 せい をめぐる争 あらそ いである」とガウスは論 ろん じ、この状況 じょうきょう を「中東 ちゅうとう の冷戦 れいせん 」と表現 ひょうげん している。
資本 しほん 主義 しゅぎ を基調 きちょう とし、東側 ひがしがわ と対立 たいりつ した国々 くにぐに 。アメリカを中心 ちゅうしん とし、基本 きほん 的 てき には民主 みんしゅ 的 てき な国 くに が多 おお かったが、アジアや南米 なんべい にはアメリカに支援 しえん された軍事 ぐんじ 政権 せいけん や開発 かいはつ 独裁 どくさい の国 くに もあった。しかし現在 げんざい ではそうした国 くに も民主 みんしゅ 化 か し、経済 けいざい 的 てき に発展 はってん している。
南北 なんぼく アメリカ
アジア
ヨーロッパ
オセアニア
中東 ちゅうとう
アフリカ
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい (東側 ひがしがわ )[ 編集 へんしゅう ]
社会 しゃかい 主義 しゅぎ を基調 きちょう とし、西側 にしがわ と対立 たいりつ した国々 くにぐに 。ソ連 それん を中心 ちゅうしん とし、基本 きほん 的 てき に共産党 きょうさんとう や社会党 しゃかいとう による一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい が取 と られだが、中 なか には独自 どくじ 路線 ろせん をとる国 くに もあった。冷戦 れいせん 後 ご にはほとんどが崩壊 ほうかい 、民主 みんしゅ 化 か し、現在 げんざい 残 のこ る社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく は少数 しょうすう になっている。
アジア
ヨーロッパ
中東 ちゅうとう
アフリカ
西側 にしがわ 寄 よ り
東側 ひがしがわ 寄 よ り
孤立 こりつ 化 か
資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい →共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい [ 編集 へんしゅう ]
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい →資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい [ 編集 へんしゅう ]
資本 しほん 主義 しゅぎ 陣営 じんえい →イスラム主義 しゅぎ 陣営 じんえい [ 編集 へんしゅう ]
政治 せいじ 的 てき 対立 たいりつ
軍事 ぐんじ 的 てき 対立 たいりつ
経済 けいざい 的 てき 対立 たいりつ
冷戦 れいせん は、それがグローバルな戦後 せんご 国際 こくさい 政治 せいじ に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたことから起源 きげん 、展開 てんかい 、終焉 しゅうえん に対 たい して様々 さまざま な解釈 かいしゃく が示 しめ され、論争 ろんそう を呼 よ んできた。以下 いか では、学術 がくじゅつ 的 てき な冷戦 れいせん 史 し 研究 けんきゅう の中 なか で行 おこな われた論争 ろんそう について説明 せつめい する[ ※ 3] 。
冷戦 れいせん 史 し 研究 けんきゅう では様々 さまざま な争点 そうてん が存在 そんざい したが、特 とく に大 おお きな争点 そうてん を形成 けいせい したのは、「冷戦 れいせん はいつ、なぜ生 しょう じたのか」という冷戦 れいせん の起源 きげん を巡 めぐ る論争 ろんそう だった。この論争 ろんそう は、西側 にしがわ 陣営 じんえい 最大 さいだい の当事 とうじ 国 こく である米国 べいこく の学界 がっかい を中心 ちゅうしん として活発 かっぱつ になされることとなった。
冷戦 れいせん 起源 きげん 論争 ろんそう は二 ふた つの特徴 とくちょう を有 ゆう していたといえる。第 だい 一 いち に、冷戦 れいせん 起源 きげん 論争 ろんそう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん などの起源 きげん を巡 めぐ る学術 がくじゅつ 論 ろん 争 そう と異 こと なり、それが同 どう 時代 じだい 的 てき に継続 けいぞく している状況 じょうきょう の起源 きげん を論 ろん じるものであったため、ベトナム戦争 せんそう を典型 てんけい として、研究 けんきゅう が発表 はっぴょう された当時 とうじ の出来事 できごと や問題 もんだい 関心 かんしん に強 つよ く影響 えいきょう されたものになった。第 だい 二 に に、その論争 ろんそう が米国 べいこく 学界 がっかい を中心 ちゅうしん に展開 てんかい されたことや、資料 しりょう 公開 こうかい ペースのスピードなどから、特 とく に米国 べいこく に分析 ぶんせき の重点 じゅうてん を置 お いたものとなった点 てん である。そして、一般 いっぱん に研究 けんきゅう 学派 がくは は伝統 でんとう 学派 がくは /正統 せいとう 学派 がくは 、修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは 、ポスト修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは に大別 たいべつ されている[ ※ 4] 。
伝統 でんとう 学派 がくは /正統 せいとう 学派 がくは (Traditionalist / Orthodox) は1950年代 ねんだい から60年代 ねんだい にかけて研究 けんきゅう を発表 はっぴょう した学派 がくは であり、この学派 がくは に分類 ぶんるい される研究 けんきゅう 者 しゃ の議論 ぎろん は冷戦 れいせん の起源 きげん をソ連 それん の拡張 かくちょう 的 てき ・侵略 しんりゃく 的 てき な行動 こうどう に求 もと めるという特徴 とくちょう を有 ゆう していた[ ※ 5] 。伝統 でんとう 学派 がくは はソ連 それん がヤルタ会談 かいだん で合意 ごうい されたポーランド自由 じゆう 選挙 せんきょ を実施 じっし しなかったこと、東欧 とうおう 各国 かっこく に対 たい して共産党 きょうさんとう 政権 せいけん を樹立 じゅりつ する動 うご きを示 しめ したことなどの一連 いちれん の行動 こうどう が西側 にしがわ に警戒 けいかい 感 かん を生 う み出 だ し、マーシャル・プラン 、NATO 結成 けっせい などの西側 にしがわ 陣営 じんえい 強化 きょうか はこれに対 たい する防御 ぼうぎょ 的 てき な行動 こうどう としてなされたとする解釈 かいしゃく を示 しめ した。
以上 いじょう のような解釈 かいしゃく はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史 れきし としての冷戦 れいせん 』(1967)、ハーバート・ファイス のFrom Trust to Terror (1970) などに代表 だいひょう されるものであったが、これはトルーマン政権 せいけん の国務 こくむ 長官 ちょうかん を務 つと め、冷戦 れいせん 政策 せいさく を展開 てんかい したディーン・アチソン の回顧 かいこ 録 ろく の記述 きじゅつ とも重 かさ なるものだった。その意味 いみ で伝統 でんとう 学派 がくは は、戦後 せんご 米国 べいこく の外交 がいこう 政策 せいさく を擁護 ようご するニュアンスも帯 お びていたと評 ひょう されている[ 30] 。
続 つづ いて1960年代 ねんだい より登場 とうじょう した修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは (Revisionist) は、伝統 でんとう 学派 がくは の解釈 かいしゃく と真 ま っ向 こう から対立 たいりつ し、冷戦 れいせん の発生 はっせい はソ連 それん の行動 こうどう よりも米国 べいこく 側 がわ の行動 こうどう により大 おお きな原因 げんいん があったとする解釈 かいしゃく を提示 ていじ した。修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは の最大 さいだい の特徴 とくちょう は、経済 けいざい 的 てき 要因 よういん を重視 じゅうし する点 てん にあった。1958年 ねん に『アメリカ外交 がいこう の悲劇 ひげき 』を発表 はっぴょう し、後 のち に自 みずか らの勤務 きんむ したウィスコンシン大学 だいがく マディソン校 こう で「ウィスコンシン学派 がくは 」といわれる後進 こうしん たちを育成 いくせい したことで知 し られるウィリアム・A・ウィリアムズ は、同書 どうしょ で建国 けんこく 以来 いらい 米国 べいこく 指導 しどう 者 しゃ 層 そう が海外 かいがい に市場 いちば を求 もと める必要 ひつよう があるという「門戸 もんこ 開放 かいほう 」イデオロギーを奉 ほう じていたことに最大 さいだい の原因 げんいん があったとする主張 しゅちょう を展開 てんかい した。ウィリアムズは、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で大 おお きな被害 ひがい を受 う けたソ連 それん が伝統 でんとう 学派 がくは の考 かんが えるような脅威 きょうい ではなかったと指摘 してき した。そして、冷戦 れいせん は米国 べいこく が門戸 もんこ 開放 かいほう イデオロギーのもと東欧 とうおう 地域 ちいき の市場 いちば 開放 かいほう を執拗 しつよう に要求 ようきゅう し、ソ連 それん に対 たい して非 ひ 妥協 だきょう 的 てき 態度 たいど を貫 つらぬ いたこと、これにソ連 それん が反発 はんぱつ したことによってもたらされたものであったとして、米国 べいこく により大 おお きな責任 せきにん があったとする解釈 かいしゃく を示 しめ した。ウィリアムズのテーゼは、彼 かれ が育成 いくせい した外交 がいこう 史家 しか である ウォルター・ラフィーバー の America, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナー の Architects of Illusion (1970) などによってより精緻 せいち に検討 けんとう されることとなる[ 31] 。
また、修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは の研究 けんきゅう はウィリアムズの研究 けんきゅう にとどまらず、よりラディカルな展開 てんかい も示 しめ した。ガブリエル・コルコ とジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国 べいこく の対外 たいがい 政策 せいさく のすべては資本 しほん 主義 しゅぎ 体制 たいせい の防衛 ぼうえい を目的 もくてき としており、世界 せかい 規模 きぼ で革命 かくめい 運動 うんどう を弾圧 だんあつ するものであったとするマルクス主義 まるくすしゅぎ に親和 しんわ 的 てき な解釈 かいしゃく を主張 しゅちょう することとなった[ 32] 。これらの研究 けんきゅう は、ベトナム戦争 せんそう の泥沼 どろぬま 化 か により、従来 じゅうらい の米国 べいこく 外交 がいこう のあり方 かた に対 たい する不信 ふしん が強 つよ まっていた60年代 ねんだい の時代 じだい 状況 じょうきょう 下 か で、強 つよ い支持 しじ を受 う けることになった。当然 とうぜん ながらこれらの主張 しゅちょう は、伝統 でんとう 学派 がくは からの反発 はんぱつ と論争 ろんそう を巻 ま き起 お こすこととなる。伝統 でんとう 学派 がくは からは修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは の分析 ぶんせき の実証 じっしょう 性 せい の乏 まず しさ、経済 けいざい 要因 よういん の過大 かだい 評価 ひょうか 、米国 べいこく の行動 こうどう のみを実質 じっしつ 的 てき に分析 ぶんせき している分析 ぶんせき の偏重 へんちょう などが批判 ひはん されることとなった[ 33] 。
伝統 でんとう 学派 がくは ・修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは に続 つづ くポスト修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは (Post-Revisionist) は、先行 せんこう する学派 がくは の議論 ぎろん の抱 かか える問題 もんだい 点 てん を克服 こくふく し、さらにこの頃 ころ 徐々 じょじょ に公開 こうかい が進 すす んだ西側 にしがわ 政府 せいふ の公文書 こうぶんしょ を活用 かつよう することで、歴史 れきし 研究 けんきゅう としての実証 じっしょう 性 せい を増 ま す形 かたち で議論 ぎろん を展開 てんかい することとなった。その先駆 せんく 的 てき 著作 ちょさく とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディス の The United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一 いち 次 じ 資料 しりょう に依拠 いきょ した上 うえ で、正統 せいとう 学派 がくは の重視 じゅうし する安全 あんぜん 保障 ほしょう 要因 よういん 、修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは の重視 じゅうし する経済 けいざい 要因 よういん を同時 どうじ に取 と り入 い れつつ、さらに国際 こくさい 政治 せいじ 構造 こうぞう 、国内 こくない 政治 せいじ 要因 よういん 、政策 せいさく 決定 けってい プロセス(官僚 かんりょう 政治 せいじ )の影響 えいきょう などを盛 も り込 こ んだ分析 ぶんせき を提示 ていじ した[ 34] 。
ギャディスは、各国 かっこく の疲弊 ひへい によって「力 ちから の真空 しんくう 」が生 しょう じていたヨーロッパにおいて、米 べい ソ両国 りょうこく が対峙 たいじ するという状況 じょうきょう 下 か が生 う まれたこと、対峙 たいじ の緊張 きんちょう の中 なか で米 べい ソが様々 さまざま な要因 よういん から相手 あいて の行動 こうどう ・思惑 おもわく に対 たい する誤解 ごかい を重 かさ ねたことが(本来 ほんらい 両者 りょうしゃ の想定 そうてい しなかった)冷戦 れいせん を生 う んだとする解釈 かいしゃく を示 しめ し、米 べい ソいずれかの行動 こうどう に冷戦 れいせん 発生 はっせい の責任 せきにん を求 もと める過去 かこ の議論 ぎろん を排 はい する主張 しゅちょう を展開 てんかい した[ 35] 。ギャディスによるこのような新 あたら しい解釈 かいしゃく は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマン の Stalin's American Policy (1982) などにも継承 けいしょう され、彼 かれ らの研究 けんきゅう は「ポスト修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは 」として広 ひろ く受 う け入 い れられることとなった[ 36] 。
また、米国 べいこく で進 すす んだポスト修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは の研究 けんきゅう に対 たい して、ヨーロッパにおける研究 けんきゅう も呼応 こおう する動 うご きを示 しめ した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッド は、大戦 たいせん 後 ご のヨーロッパの政治 せいじ 指導 しどう 者 しゃ たちがソ連 それん の影響 えいきょう 力 りょく を相殺 そうさい するべく、ヨーロッパで米国 べいこく がより積極 せっきょく 的 てき な役割 やくわり を果 は たすことを希望 きぼう していたと論 ろん じ、戦後 せんご の米国 べいこく はいわばヨーロッパに「招 まね かれた帝国 ていこく (Empire by Invitation)」であったとする解釈 かいしゃく を示 しめ した[ 37] 。
ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご の冷戦 れいせん 起源 きげん 論争 ろんそう [ 編集 へんしゅう ]
冷戦 れいせん の終結 しゅうけつ とソ連邦 それんぽう の崩壊 ほうかい により、過去 かこ 西側 にしがわ で閲覧 えつらん することが不可能 ふかのう だった東側 ひがしがわ 文書 ぶんしょ の開示 かいじ が進 すす むこととなった。これは各種 かくしゅ の研究 けんきゅう ・資料 しりょう 収集 しゅうしゅう プロジェクトの始動 しどう をもたらすとともに、冷戦 れいせん 起源 きげん を巡 めぐ る論争 ろんそう において伝統 でんとう 学派 がくは 的 てき な解釈 かいしゃく の復活 ふっかつ という、新 あたら しい展開 てんかい を生 う むこととなった。開示 かいじ された東側 ひがしがわ の資料 しりょう 群 ぐん をもとに発表 はっぴょう されたヴォイチェフ・マストニー の『冷戦 れいせん とは何 なに だったのか』(1996年 ねん )、ヴラディスラヴ・ズボク とコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による Inside the Kremlin's Cold War (1996) は、ソ連 それん 中枢 ちゅうすう の情勢 じょうせい 認識 にんしき や政策 せいさく 決定 けってい を明 あき らかにすることとなった。これらの著書 ちょしょ は、ソ連 それん がマルクス・レーニン主義 しゅぎ のイデオロギーに基 もと づき、自発 じはつ 的 てき ・主体 しゅたい 的 てき にヨーロッパへの拡張 かくちょう を図 はか っていたとする解釈 かいしゃく を示 しめ した[ 38] 。その他 た 、90年代 ねんだい には様々 さまざま な資料 しりょう を活用 かつよう したドミトリー・ヴォルコゴーノフ によるスターリン の伝記 でんき 研究 けんきゅう も発表 はっぴょう され、スターリンのパラノイア 的 てき 性質 せいしつ を指摘 してき する書物 しょもつ として注目 ちゅうもく を浴 あ びることとなった[ 39] 。
このような研究 けんきゅう 進展 しんてん の影響 えいきょう を受 う けた典型 てんけい ともいえるのが、ポスト修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 学派 がくは の旗手 きしゅ であったギャディスの冷戦 れいせん 起源 きげん 解釈 かいしゃく の変化 へんか である。ギャディスは東側 ひがしがわ についての研究 けんきゅう の進展 しんてん を受 う けて、1997年 ねん に発表 はっぴょう した『歴史 れきし としての冷戦 れいせん 』では、冷戦 れいせん の起源 きげん を米 べい ソ双方 そうほう のパーセンプション・ギャップや、国際 こくさい 政治 せいじ 構造 こうぞう に見出 みいだ す過去 かこ の解釈 かいしゃく から、イデオロギーが冷戦 れいせん におよぼした影響 えいきょう を重視 じゅうし し、ソ連 それん の政治 せいじ 体制 たいせい とスターリンという指導 しどう 者 しゃ が冷戦 れいせん の発生 はっせい により多 おお くの責任 せきにん を負 お っているとする解釈 かいしゃく へと転 てん じた[ 40] 。しかし、このギャディスの解釈 かいしゃく 変化 へんか の要因 よういん としては、ソ連 それん の実態 じったい が明 あき らかになったことだけでなく、東側 ひがしがわ 陣営 じんえい の崩壊 ほうかい と西側 にしがわ 陣営 じんえい の「勝利 しょうり 」が明 あき らかになった時期 じき に発表 はっぴょう されたという要因 よういん も無視 むし できないことから、その解釈 かいしゃく が後 こう 知恵 ちえ 的 てき であるとして賛否 さんぴ を呼 よ ぶことともなった[ 41] 。
冷戦 れいせん 史 し 研究 けんきゅう は、米国 べいこく 学界 がっかい でその主要 しゅよう な論争 ろんそう が戦 たたか われてきたこともあり、主要 しゅよう な分析 ぶんせき 対象 たいしょう は米 べい ソ関係 かんけい であり、活用 かつよう される資料 しりょう の多 おお くは米国 べいこく 政府 せいふ の公文書 こうぶんしょ であった。このような冷戦 れいせん 史 し 研究 けんきゅう の動 うご きに対 たい し、1978年 ねん にイギリスのドナルド・キャメロン・ワット は公開 こうかい 書簡 しょかん で冷戦 れいせん 史 し 研究 けんきゅう の資料 しりょう 的 てき 偏重 へんちょう を指摘 してき し、英国 えいこく 公文 こうぶん 書 しょ などを活用 かつよう して研究 けんきゅう を深化 しんか させる必要 ひつよう を訴 うった えた[ 42] 。このような提言 ていげん を反映 はんえい する形 かたち で、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の Britain and the Cold War (1982)、アン・デイトン (Anne Deighton) の The Impposible Peace (1990) など、冷戦 れいせん の発生 はっせい に対 たい してイギリスの果 は たした役割 やくわり を分析 ぶんせき する研究 けんきゅう なども現 あらわ れ、冷戦 れいせん の発生 はっせい にはソ連 それん の脅威 きょうい を米国 べいこく より早 はや く意識 いしき し行動 こうどう したイギリス政府 せいふ の果 は たした役割 やくわり が少 すく なくなかったことを明 あき らかにした[ 43] 。
イギリスを一 ひと つの典型 てんけい として、他国 たこく についても「自国 じこく と冷戦 れいせん (および冷戦 れいせん に果 は たした役割 やくわり )」について考察 こうさつ した研究 けんきゅう も進 すす められている。1998年 ねん よりノースカロライナ大学 だいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく (University of North Carolina Press) が刊行 かんこう している冷戦 れいせん 史 し 研究 けんきゅう のシリーズである The New Cold War History では、フランス、ソ連 それん 、中国 ちゅうごく 、東西 とうざい ドイツなど、様々 さまざま な国家 こっか と冷戦 れいせん の関係 かんけい を考察 こうさつ した研究 けんきゅう 書 しょ が刊行 かんこう されている[ 44] 。おp
冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ を受 う けて米国 べいこく でも安全 あんぜん 保障 ほしょう に関 かか わる各種 かくしゅ の資料 しりょう 公開 こうかい が進 すす んだことで、冷戦 れいせん 期 き の安全 あんぜん 保障 ほしょう やインテリジェンスなどについて新 あら たに研究 けんきゅう が進展 しんてん している。一 いち 例 れい としては、米 べい 英 えい による暗号 あんごう 解読 かいどく プロジェクトであったベノナ の関係 かんけい 資料 しりょう 開示 かいじ による諜報 ちょうほう 戦 せん の実体 じったい 解明 かいめい が挙 あ げられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の Venona (2000) は、冷戦 れいせん 期 き に米国 べいこく 内 ない で活発 かっぱつ な諜報 ちょうほう 活動 かつどう が展開 てんかい されていたことを明 あき らかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は Total Cold War (2006) において、USIA ・CIA などの資料 しりょう を活用 かつよう し、アイゼンハワー政権 せいけん の展開 てんかい していた(日本 にっぽん も対象 たいしょう に含 ふく む)宣伝 せんでん ・情報 じょうほう 戦 せん の実態 じったい を解明 かいめい することとなった[ 45] 。
冷戦 れいせん を題材 だいざい 若 も しくは冷戦 れいせん に影響 えいきょう を受 う けた作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
テレビ
^ スハルト政権 せいけん 以降 いこう も軍 ぐん の装備 そうび などの面 めん でソビエトの支援 しえん を受 う けた。
^ 中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく や北朝鮮 きたちょうせん が物質 ぶっしつ 的 てき な支援 しえん を行 おこな い、ソビエト自体 じたい は傍観 ぼうかん の姿勢 しせい を取 と った。
^ 以下 いか の記述 きじゅつ 、例示 れいじ する文献 ぶんけん の選定 せんてい については、Robert J. McMahon , The Cold War: A Very Short Introduction . (Oxford University Press, 2003); Michael Kort, The Colubia Guide to the Cold War . (Columbia University Press, 1998); 麻田 あさだ 貞雄 さだお 「冷戦 れいせん の起源 きげん と修正 しゅうせい 主義 しゅぎ 研究 けんきゅう ――アメリカの場合 ばあい 」『国際 こくさい 問題 もんだい 』第 だい 170号 ごう (1974年 ねん )などを参照 さんしょう している。
^ また、冷戦 れいせん 史 し 研究 けんきゅう は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の戦時 せんじ 外交 がいこう 研究 けんきゅう にも影響 えいきょう を与 あた えることとなった。 マーク・ストーラー は1940年代 ねんだい 後半 こうはん に始 はじ まる戦時 せんじ 外交 がいこう 研究 けんきゅう が、冷戦 れいせん 起源 きげん 論 ろん の解釈 かいしゃく と密接 みっせつ な関係 かんけい を持 も ったことを指摘 してき している。Mark A. Stoler, "A Half Century of Conflict: Interpretations of U.S. World War II Diplomacy." in Michael Horgan (ed.), America in the World: the Historiography of American Foreign Relations since 1941 , (Cambridge University Press, 1995).
^ なお、ソ連 それん の行動 こうどう の動機 どうき としてイデオロギー的 てき なものを重視 じゅうし するか、地政学 ちせいがく 的 てき ・安全 あんぜん 保障 ほしょう 的 てき なものに重視 じゅうし するかについては解釈 かいしゃく に差 さ があった。後述 こうじゅつ のファイスは前者 ぜんしゃ 、グレーブナーは後者 こうしゃ に属 ぞく する
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