だい2ソウルのたたか

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だいソウルのたたか
戦争せんそう朝鮮ちょうせん戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1950ねん9月22にち - 9月28にち
場所ばしょ大韓民国だいかんみんこくソウル特別とくべつ
結果けっか国連こくれんぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
国際連合の旗 国際こくさい連合れんごう 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮きたちょうせん
指導しどうしゃ指揮しきかん
ダグラス・マッカーサー
アメリカ合衆国の旗 エドワード・アーモンド
アメリカ合衆国の旗 オリバー・P・スミス英語えいごばん
大韓民国の旗 さる鉉俊
朝鮮民主主義人民共和国の旗 きむ日成いるそん
朝鮮民主主義人民共和国の旗 ちぇいさおけん

だい2ソウルのたたかえい: Second Battle of Seoulあさ: 제2차 서울 전투)は、朝鮮ちょうせん戦争せんそうなかの1950ねん9がつおこなわれた国連こくれんぐんおよ朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐんとの戦闘せんとう

編制へんせい[編集へんしゅう]

国連こくれんぐん[編集へんしゅう]

  • だい10軍団ぐんだん ぐん団長だんちょうエドワード・アーモンド少将しょうしょう
    • だい1海兵かいへい師団しだん 団長だんちょうオリバー・スミス少将しょうしょう
      • だい1海兵かいへい連隊れんたい 連隊れんたいちょうルイス・B・プラー大佐たいさ
      • だい5海兵かいへい連隊れんたい 連隊れんたいちょう:レイモンド・マレイ(Raymond Murray大佐たいさ
      • だい7海兵かいへい連隊れんたい 連隊れんたいちょう:ホーマー・リッツェンバーグ(Homer L. Litzenberg大佐たいさ
      • 韓国かんこく海兵かいへいだい1連隊れんたい 連隊れんたいちょうさる鉉俊大領だいりょう
    • だい7師団しだん 団長だんちょう:デビット・バー(David G. Barr少将しょうしょう
      • だい32連隊れんたい 連隊れんたいちょう:ビューチャンプ大佐たいさ
      • 韓国かんこくだい17連隊れんたい 連隊れんたいちょうはくひとし大領だいりょう

朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん[編集へんしゅう]

  • 西海岸にしかいがん地区ちく司令しれい 司令しれいかんちぇいさおけん大将たいしょう
    • だい18師団しだんだい42連隊れんたい配属はいぞく
    • だい70連隊れんたい
    • だい107治安ちあん連隊れんたい
    • だい25旅団りょだん 旅団りょだんちょうはじめ[1][注釈ちゅうしゃく 1]少将しょうしょう
    • だい78独立どくりつ連隊れんたい 連隊れんたいちょうぼくハンリン大佐たいさ

経緯けいい[編集へんしゅう]

アメリカぐんだい10軍団ぐんだん仁川にがわ上陸じょうりく仁川にがわ上陸じょうりく作戦さくせん)して漢江かんこうせまると、人民じんみんぐんはソウル周辺しゅうへん部隊ぶたい集結しゅうけつさせ、らく東江あがりえ戦線せんせん移動いどうちゅうであった部隊ぶたいもどすなど、だいあわてでソウル地域ちいき防御ぼうぎょりょく強化きょうかつとめた[4]。これによって仁川にがわ上陸じょうりく作戦さくせん直前ちょくぜんにソウルをってらく東江あがりえ戦線せんせん南下なんかちゅうであっただい18師団しだん水原みずはら付近ふきん配備はいびされ、だい70連隊れんたいとともにきょうひとし地域ちいき防御ぼうぎょき、どう師団しだん1個いっこ連隊れんたい規模きぼ部隊ぶたいえいのぼるうら防御ぼうぎょ投入とうにゅうされた[4]だい18師団しだんは、だい42戦車せんしゃ連隊れんたい配属はいぞくしてT-34戦車せんしゃ18りょう保有ほゆうしていた。また開城かいじょう南側みなみがわにいただい107治安ちあん連隊れんたいは、富平とみひら金浦このうらこうはな付近ふきんかく1個いっこ大隊だいたい配備はいびし、1個いっこ大隊だいたい予備よびとした[4]

これら人民じんみんぐん移動いどうじょうきょうは、アメリカ空軍くうぐん航空こうくう偵察ていさつ捕虜ほりょ証言しょうげんから確認かくにんされ、ソウル防衛ぼうえいのために動員どういんされた人民じんみんぐんやく2まんめい判断はんだんした[4]

漢江かんこう渡河とか[編集へんしゅう]

だい1海兵かいへい師団しだんは、9月19にちまでにだい5海兵かいへい連隊れんたいをもって金浦このうら空港くうこう確保かくほして漢江かんこう渡河とか準備じゅんびちゅうであり、だい1海兵かいへい連隊れんたいやす養川ようかわ進出しんしゅつしてえいのぼるうら奪還だっかん準備じゅんびちゅうであった[5]だい5海兵かいへい連隊れんたいは、師団しだん偵察ていさつ中隊ちゅうたい戦車せんしゃ大隊だいたいA中隊ちゅうたいだい56水陸すいりく両用りょうようしゃ大隊だいたいA中隊ちゅうたい韓国かんこくぐん海兵かいへいだい1大隊だいたい配属はいぞくされ、工兵こうへい大隊だいたい海岸かいがん大隊だいたい水陸すいりく両用りょうよう大隊だいたい直接ちょくせつ支援しえんけ、火力かりょく優先ゆうせんあたえられた[5]

9月19にちだい5海兵かいへい連隊れんたいさいわいしゅう部落ぶらくと125高地こうち偵察ていさつたい偵察ていさつ班長はんちょう:ホートン大尉たいい)を派遣はけんした。1時間じかん以上いじょう偵察ていさつ結果けっか人民じんみんぐん配置はいちされてないと判断はんだんし、対岸たいがん捜索そうさく中隊ちゅうたい渡河とかせよとの信号しんごうおくった。しかし偵察ていさつした高地こうちは125高地こうちではなく中間ちゅうかん高地こうちであり、125高地こうちには人民じんみんぐん配置はいちされていた。捜索そうさく中隊ちゅうたい機関きかんじゅう迫撃はくげきほう攻撃こうげきけて渡河とか失敗しっぱいした[6]

9がつ20日はつかだい5海兵かいへい連隊れんたいは125高地こうち猛烈もうれつ攻撃こうげき準備じゅんび射撃しゃげきくわえたのち午前ごぜん640ふんだい3大隊だいたいI中隊ちゅうたい先頭せんとう渡河とかはじめた。I中隊ちゅうたいは125高地こうちからの射撃しゃげきでかなりの損害そんがいけたが、海兵かいへいたい戦闘せんとう支援しえんけ、940ふんごろに125高地こうち確保かくほした。つづいて渡河とかしただい3大隊だいたい主力しゅりょくなん抵抗ていこうけることなく内陸ないりく進出しんしゅつしてきょうよしせん鉄道てつどう道路どうろ遮断しゃだんし、鉄道てつどう沿いにソウルにかって東南とうなん方向ほうこう進撃しんげきした。韓国かんこくぐん海兵かいへいたい仁川にがわ市街地しがいち警備けいび任務にんむかれてあきらりょうかわ付近ふきんの95高地こうち進出しんしゅつした[6]

9月21にちだい5海兵かいへい連隊れんたい人民じんみんぐん逆襲ぎゃくしゅう撃退げきたいし、鉄道てつどう道路どうろ沿いに水色みずいろひがし南方なんぽう前進ぜんしんつづけた。だい3大隊だいたい新村しんむら北側きたがわ白蓮びゃくれんさんだい1大隊だいたい西南せいなんがわの68高地こうち韓国かんこくぐんだい1海兵かいへい大隊だいたい西側にしがわの104高地こうち占領せんりょうし、ソウル中心ちゅうしんへの攻撃こうげき態勢たいせいととのえた[6]

えいのぼるうら[編集へんしゅう]

19にちやす養川ようかわ進出しんしゅつしただい1海兵かいへい連隊れんたいは、だい1大隊だいたい漢江かんこうとの合流ごうりゅうてん付近ふきんの118高地こうち中心ちゅうしんとする高地こうちぐんだい5海兵かいへい連隊れんたいからいで応急おうきゅう防御ぼうぎょちゅうであり、だい2大隊だいたいとくとうげ一帯いったいきょうひとし国道こくどう遮断しゃだんする態勢たいせいえいのぼるうら攻撃こうげき準備じゅんびしており、だい3大隊だいたい連隊れんたい予備よびとしてだい2大隊だいたい後続こうぞくしていた[7]

9がつ20日はつか人民じんみんぐんは118高地こうち奪回だっかいするために部隊ぶたい集結しゅうけつしてだい1大隊だいたいがまだ部隊ぶたい配置はいちしていない80高地こうちと85高地こうち占領せんりょうし、118高地こうち攻撃こうげき開始かいしした。この攻撃こうげき撃退げきたいしただい1大隊だいたいつづけて80高地こうちと85高地こうち攻撃こうげきし、激戦げきせんすえに85高地こうち占領せんりょうした。だい2大隊だいたいにも、戦車せんしゃ5りょう前面ぜんめんした1個いっこ大隊だいたい規模きぼ人民じんみんぐんあらわれたが、地形ちけい活用かつようした配備はいびによって瞬時しゅんじにこれを撃滅げきめつした[7]

9月21にちあさ砲兵ほうへい準備じゅんび射撃しゃげきわると、えいのぼるうら市街しがいへの攻撃こうげき開始かいしされた。だい1大隊だいたいだい2大隊だいたい人民じんみんぐん砲撃ほうげきおおくの損害そんがいして苦戦くせんした。だい1大隊だいたいだい2大隊だいたい激戦げきせんひろげているときにだい1大隊だいたいA中隊ちゅうたい人民じんみんぐんづかれることなくやす養川ようかわわたり、人民じんみんぐん陣地じんち後方こうほう漢江かんこう南側みなみがわ堤防ていぼうにたどりき、防御ぼうぎょ陣地じんち編成へんせいした。夜間やかん人民じんみんぐんがA中隊ちゅうたい攻撃こうげきしたが撃退げきたいされた。えいのぼりはじめ北側きたがわ占領せんりょうされ包囲ほうい危険きけんかんじた人民じんみんぐんえいのぼるうら放棄ほうきして撤退てったいした[8]

あんよう水原みずはら[編集へんしゅう]

9月19にちだい7師団しだんだい32連隊れんたいは、だい1海兵かいへい師団しだんからきょうひとし国道こくどう以南いなん地域ちいきぎ、えいのぼるうら西側にしがわ6キロのやす養川ようかわ付近ふきん進出しんしゅつしていた。だい7師団しだん任務にんむは、だい1海兵かいへい師団しだん右側みぎがわかた防護ぼうごし、南側みなみがわからソウルに北上ほくじょうする人民じんみんぐん遮断しゃだんしてだい1海兵かいへい師団しだんのソウル奪還だっかん支援しえんすることだった[8]

9がつ20日はつかだい32連隊れんたいあんよう方面ほうめん攻撃こうげきつづけたが人民じんみんぐん地雷じらいによって進出しんしゅつおくれた。だい73戦車せんしゃ大隊だいたいA中隊ちゅうたい戦車せんしゃ3りょう破壊はかいされ、連隊れんたいちょうのジープも破壊はかいされた。工兵こうへい部隊ぶたいによって150あまりの地雷じらいのぞかれ、9月21にち禿山はげやまさとあんよう占領せんりょうした[9]

9月22にち戦車せんしゃ1個いっこ中隊ちゅうたい歩兵ほへい1個いっこ中隊ちゅうたい砲兵ほうへい1ほうたいおよび衛生えいせい部隊ぶたいによって編成へんせいされたハンナム支隊したい水原みずはら確保かくほし、どう地域ちいき警戒けいかい任務にんむだい31連隊れんたいいだ[10]

ソウルの戦闘せんとう[編集へんしゅう]

人民じんみんぐんは、ソウル西側にしがわ鞍山あんざん(296高地こうち)からのべ禧高(56高地こうち)につづ稜線りょうせんとトンネル高地こうち(105高地こうちきた)、ろうしゅうとさん(105だか地中ちちゅう)、臥牛山がぎゅうさん(105高地こうちみなみ)からなる稜線りょうせん中心ちゅうしん強力きょうりょく防御ぼうぎょせん構成こうせいしていた[10]配置はいちされていた部隊ぶたいだい25旅団りょだんだい78独立どくりつ連隊れんたいであった[11]。とくにだい25旅団りょだん将校しょうこう下士官かしかんおおくが中共ちゅうきょうぐんとしての戦闘せんとう経験けいけんっていた[3][11][注釈ちゅうしゃく 2]

9月22にちだい1海兵かいへい師団しだんはソウル奪還だっかん作戦さくせん発令はつれいした[12]当初とうしょ計画けいかくでは、地上ちじょう部隊ぶたい援助えんじょだい1海兵かいへい師団しだんでソウルを占領せんりょうすることを想定そうていしていたが、だい10軍団ぐんだんちょうアーモンド少将しょうしょう一部いちぶ変更へんこうし、韓国かんこくぐん海兵かいへいたいだい17連隊れんたい都市とし確保かくほ参加さんかさせた[13]

9月22にちあさだい5海兵かいへい連隊れんたいはソウル西側にしがわ高地こうちぐん占領せんりょうするため攻撃こうげき開始かいしした[14]北側きたがわだい3大隊だいたいは296高地こうち中央ちゅうおうだい2大隊だいたい韓国かんこくぐん海兵かいへいたいは105高地こうちだい1大隊だいたいは105高地こうちみなみ目標もくひょうとした[14]

攻撃こうげき午前ごぜん7開始かいしされ、2あいだきただい3大隊だいたいが296高地こうち奪取だっしゅしたが、南側みなみがわ斜面しゃめん稜線りょうせん人民じんみんぐん集中しゅうちゅうしていた[14][15]

みなみだい1大隊だいたいは、人民じんみんぐん猛烈もうれつ射撃しゃげきによって進攻しんこうまっていたが、同日どうじつおそくに砲兵ほうへい迫撃はくげきほう支援しえんで105高地こうちみなみ奪取だっしゅした[14]。しかしだい1大隊だいたい人民じんみんぐん砲撃ほうげきによって6めい戦死せんしふくむ39めい死傷ししょうしゃした[14]

中央ちゅうおうだい2大隊だいたい韓国かんこくぐん海兵かいへいたい目標もくひょうである105高地こうちでは、まず56高地こうちと88高地こうち奪取だっしゅする必要ひつようがあった[14]韓国かんこくぐん海兵かいへいだい1大隊だいたいは56高地こうちかって攻撃こうげき開始かいしし、人民じんみんぐんも120ミリ迫撃はくげきほうをはじめじゅう機関きかんじゅうけい機関きかんじゅうなどあらゆる火器かき動員どういんし、強固きょうこ陣地じんちって海兵かいへいたい攻撃こうげきした[15]海兵かいへいたい開豁かいかつ横断おうだんしようとしたが、航空機こうくうき攻撃こうげきでは人民じんみんぐん防御ぼうぎょ陣地じんち破壊はかいすることは出来できず、56高地こうちからの射撃しゃげき開豁かいかつ通過つうかすることは出来できなかった[15]。この戦闘せんとう韓国かんこくぐん海兵かいへいだい1大隊だいたいは11めい戦死せんししゃと45めい負傷ふしょうしゃしたが、捕虜ほりょ供述きょうじゅつから人民じんみんぐんだい25旅団りょだんおおくの死傷ししょうしゃした[15]

9月23にち韓国かんこくぐんだい1海兵かいへい大隊だいたい攻撃こうげき再開さいかいしたが、おおくの死傷ししょうしゃして攻撃こうげき頓挫とんざした[16]。マレイ大佐たいさ命令めいれいだい2大隊だいたい攻撃こうげきいだが、ほとんど成果せいかがらず、おおくの死傷ししょうしゃした[14]同日どうじつ正午しょうご、スミス少将しょうしょう仁川にがわだい7海兵かいへい連隊れんたい漢江かんこうえてだい5海兵かいへい連隊れんたい後方こうほう移動いどうするようにめいじた[14]

9月24にち午後ごごだい2大隊だいたいD中隊ちゅうたいばくげき支援しえんけて突撃とつげきして56高地こうち頂上ちょうじょう奪取だっしゅした[16]よく25にち攻撃こうげき続行ぞっこうして88高地こうちと105高地こうち占領せんりょうし、だい3大隊だいたいも296高地こうち人民じんみんぐん攻撃こうげき撃退げきたいしてトンネル高地こうち(105高地こうちきた)を占領せんりょうした[16]

なんじ矣島から漢江かんこう渡河とかしただい1海兵かいへい連隊れんたいだい5海兵かいへい連隊れんたい南側みなみがわに、だい7海兵かいへい連隊れんたい仁川にがわから北上ほくじょうしてだい5海兵かいへい連隊れんたい北側きたがわ進出しんしゅつした。韓国かんこくぐん海兵かいへいたいは、すべ地区ちく作戦さくせんちゅうであったきむ聖恩せいおん部隊ぶたい海兵かいへいだい1連隊れんたい合流ごうりゅうしてだい5大隊だいたい改編かいへんされ、だい1大隊だいたいだい5海兵かいへい連隊れんたいに、だい2大隊だいたいだい1海兵かいへい連隊れんたいに、だい5大隊だいたいだい7海兵かいへい連隊れんたい配属はいぞくさせ、だい3大隊だいたいだい1海兵かいへい師団しだん予備よびとなった[17]

アーモンド少将しょうしょうは、あんよう水原みずはら確保かくほしていただい32連隊れんたい投入とうにゅうすることにめ、だい1海兵かいへい師団しだんがソウル南西なんせいから北西ほくせいを、だい32連隊れんたいだい17連隊れんたい配属はいぞく)は南東なんとう攻撃こうげきするようめいじた[18]

9月25にち午前ごぜん6、30分間ふんかんにわたる攻撃こうげき準備じゅんび射撃しゃげきのちだい32連隊れんたい西にしごおり漢江かんこう渡河とかして南山なんざん占領せんりょうした[19]だい32連隊れんたいつづいてだい17連隊れんたい午後ごご2ごろ漢江かんこう渡河とかした[20][注釈ちゅうしゃく 3]おなじころ、だい1海兵かいへい師団しだんはソウル中心ちゅうしん突入とつにゅうした[22]

9月26にち人民じんみんぐんすう逆襲ぎゃくしゅうこころみたが、だい32連隊れんたい撃退げきたいされた。348たい死体したいらばっており、捕虜ほりょは174めいたっした[19]南山なんざん占領せんりょうされた人民じんみんぐん浮足立うきあしだった。人民じんみんぐん主力しゅりょく撤収てっしゅうさせるため、残留ざんりゅう部隊ぶたいバリケードきず地雷じらい埋設まいせつして国連こくれんぐん進撃しんげき阻止そしし、建物たてものからの狙撃そげき執拗しつよう逆襲ぎゃくしゅうなんこころみた。国連こくれんぐんはソウルの掃討そうとう時間じかんがかかり、28にちにようやくえてソウル北側きたがわ高地こうちぐん占領せんりょうした[18]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 韓国かんこく公刊こうかん戦史せんしによればチェ・キチャン(최기찬[2]べい公刊こうかん戦史せんしはウォル・キチャン(Wol Ki Chan[3]である。
  2. ^ しゅさかえぶくによれば、京畿けいきどう一帯いったい募集ぼしゅうした義勇軍ぎゆうぐん新兵しんぺいであるという[1]
  3. ^ はくひとし燁によれば、だい32連隊れんたい上陸じょうりく以来いらい戦闘せんとう疲労ひろうして、なおかつ分散ぶんさんしていたため、渡河とかじゅんだい17連隊れんたいだい1大隊だいたいだい32連隊れんたいだい2大隊だいたいだい17連隊れんたい本部ほんぶだい2大隊だいたいだい32連隊れんたいだい3大隊だいたいだい17連隊れんたいだい3大隊だいたいだい32連隊れんたい残部ざんぶであったという[21]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう[編集へんしゅう]

  • Appleman, Roy E. (1992). South to the Naktong, North to the Yalu : June-November 1950. Center of Military History, United States Army. ISBN 0-16-035958-9 
  • 佐々木ささきはるたかし朝鮮ちょうせん戦争せんそう/韓国かんこくへん 下巻げかん 漢江かんこうせんから休戦きゅうせんまで』はら書房しょぼう、1977ねん 
  • しゅさかえぶく朝鮮ちょうせん戦争せんそう真実しんじつ もと人民じんみんぐん工兵こうへい将校しょうこう手記しゅきゆうおもえしゃ、1992ねんISBN 4-946424-35-0 
  • 韓国かんこく国防こくぼうぐん研究所けんきゅうじょ 編著へんちょ ちょ翻訳ほんやく編集へんしゅう委員いいんかい やく韓国かんこく戦争せんそう だい2かん らく東江あがりえ防御ぼうぎょせん国連こくれんぐん反攻はんこう』かや書房しょぼう、2001ねんISBN 4-906124-45-3 
  • 田中たなか恒夫つねお図説ずせつ朝鮮ちょうせん戦争せんそう河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2011ねんISBN 978-4-309-76162-6 
  • 6·25戦争せんそう だい6かん-仁川にがわ上陸じょうりく作戰さくせん反擊はんげき作戰さくせん” (PDF) (朝鮮ちょうせん). 韓国かんこく国防こくぼうぐん編纂へんさん研究所けんきゅうじょ. 2019ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん