国境こっきょう会戦かいせん (朝鮮ちょうせん戦争せんそう)

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朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん韓国かんこく侵攻しんこう

朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん韓国かんこく侵攻しんこうから停戦ていせんまでの朝鮮ちょうせん戦争せんそうのアニメ地図ちず。それぞれあか朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくみどり大韓民国だいかんみんこく実効じっこう支配しはい勢力せいりょく範囲はんい
戦争せんそう朝鮮ちょうせん戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1950ねん6月25にち開戦かいせん[1]
場所ばしょ38せんとその付近ふきんなど。
結果けっか:その侵攻しんこうけとして朝鮮ちょうせん戦争せんそう開戦かいせんし、国際こくさい戦争せんそう発展はってんすることとなる[2]
交戦こうせん勢力せいりょく
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく 大韓民国の旗 大韓民国だいかんみんこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
朝鮮民主主義人民共和国の旗 きむ日成いるそん
朝鮮民主主義人民共和国の旗 金策きんさく
大韓民国の旗 蔡秉とく
戦力せんりょく
10まんにん
戦車せんしゃ200りょう[3]
10まん5752にん[4]
損害そんがい
しょう[よう出典しゅってん] しょう[よう出典しゅってん]

国境こっきょう会戦かいせん(こっきょうかいせん)は、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつ直後ちょくご1950ねん6月25にち北緯ほくい38せん付近ふきん戦場せんじょうとして、大韓民国だいかんみんこく朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)のあいだおこなわれた戦闘せんとうである。

戦争せんそう準備じゅんび[編集へんしゅう]

北朝鮮きたちょうせんにおいては、1950ねん初頭しょとうよりぐん拡充かくじゅういそがれはじめた。作戦さくせん計画けいかく策定さくていは1950ねん5がつまつ完了かんりょうし、1950ねん6がつ10日とおかには師団しだんちょう会議かいぎ開催かいさいされ、部隊ぶたい展開てんかい移動いどうしたれいされるとともに、軍団ぐんだん編成へんせい開始かいしされた。このさい企図きと秘匿ひとくのため、師団しだんきゅう部隊ぶたい機動きどう演習えんしゅう名目めいもくとしていた。よく11にちには「だい機動きどう演習えんしゅう」の実施じっし発令はつれいされた。演習えんしゅう期間きかんについて、きょうそう参謀さんぼうちょうは「多少たしょう長期間ちょうきかんになるかもしれないが、週間しゅうかんもあれば事足ことたりる」[5]説明せつめいし、また演習えんしゅう口外こうがい無用むようであり、家族かぞくにすらするようめいじられた。これは、実際じっさい週間しゅうかん移動いどう訓練くんれんであるなら、非常ひじょうにおかしな命令めいれいであった。かく部隊ぶたい6月12にちから逐次ちくじ駐屯ちゅうとん出発しゅっぱつし、23にちまでには攻撃こうげき位置いちへの進入しんにゅう完了かんりょうした。上述じょうじゅつのように、この部隊ぶたい移動いどう演習えんしゅうとされていたが、おおくのへいは23~24にちよる真実しんじつったとわれている[6]

一方いっぽう韓国かんこく国防こくぼうは、「1950ねんはるには、人民じんみんぐんが38せんから全面ぜんめんてき攻撃こうげきおこなう」との1949ねんまつ総合そうごう情報じょうほう報告ほうこくもとづき、対応たいおう計画けいかく策定さくていいそぎ、1950ねん3月25にちづけ国軍こくぐん防御ぼうぎょ計画けいかく陸本くがほん作戦さくせん命令めいれいだい38ごうおよび付録ふろくしょ計画けいかく)を確定かくていし、隷下れいか部隊ぶたい下達かたつした。韓国かんこくぐんは「北韓ほっかん当局とうきょく侵略しんりゃく計画けいかく完成かんせいされているとおもわれ、かれらの行動こうどうはただ時間じかん問題もんだいである」[7]認識にんしきしており、その勢力せいりょくかんしてもほぼ正確せいかく把握はあくしていた[ちゅう 1]

もちろんアメリカも、韓国かんこくからの報告ほうこくほかにも、北朝鮮きたちょうせんが38せん軍備ぐんび増強ぞうきょうはかっており事態じたい進行しんこうしていることについておおくの情報じょうほうつかんでいた。しかし、アメリカぐん国際こくさい連合れんごう事態じたい楽観らっかんしていた。

  • 1950ねんはる、CIA将校しょうこうジャック・シングローブは38せんえて侵入しんにゅうさせた朝鮮ちょうせんじん工作こうさくいんから、北朝鮮きたちょうせんぐん先鋭せんえい部隊ぶたい境界きょうかいへの移動いどう各地かくちはしでの大量たいりょう工事こうじ境界きょうかいちかくの鉄道てつどう線路せんろ改修かいしゅうとう情報じょうほう入手にゅうしゅしていた。しかしその情報じょうほうは、GHQの情報じょうほう機関きかんであるキャノン機関きかんによって、信頼しんらいせい事実じじつではない報告ほうこくであるとして最低さいていランクの格付かくづけがなされていた[9]
  • 1950ねん5がつおよび6がつ米国べいこく国務省こくむしょう政策せいさく企画きかくしつジョージ・ケナンは、共産きょうさんけん重大じゅうだい事態じたい進行しんこうしつつありあいだもなく大軍たいぐん作戦さくせんはいるとの情報じょうほうていた。しかし、その大軍たいぐん北朝鮮きたちょうせんからである可能かのうせいぐんによって否定ひていされた[9]
  • 1950ねん6がつ12にち、アメリカ軍事ぐんじ顧問こもんだん国連こくれん朝鮮ちょうせん委員いいんかい質問しつもんたいし「攻撃こうげきける現実げんじつてき兆候ちょうこうはない。まんいち侵略しんりゃくこっても、韓国かんこくぐんはこれを撃退げきたいすることができる」と回答かいとうした[6]どう6がつべいぐん統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶチャールズ・ボルテ中将ちゅうじょう下院かいん委員いいんかいにおいて「韓国かんこくぐん面目めんぼく一新いっしんし、兵士へいし装備そうび人民じんみんぐんよりもよい」と証言しょうげんした。しかしこれらの証言しょうげん実際じっさい韓国かんこくぐん実態じったいとはかけはなれたものであった。たとえば、どう6がつ15にち軍事ぐんじ顧問こもんだんからペンタゴンての報告ほうこくでは、韓国かんこくぐんかろうじて存在そんざいできる水準すいじゅんでしかなく、大半たいはん装備そうびおおくの兵器へいき使つかものにならず、攻撃こうげきたいして最長さいちょうでも15にちしかもたないことを指摘してきしている。

また日本にっぽんにおいては、田中たなか山口やまぐちけん知事ちじによって県庁けんちょうない設立せつりつされた朝鮮ちょうせん情報じょうほうしつでは中波ちゅうは短波たんぱ無線むせん分析ぶんせきや、朝鮮ちょうせん内部ないぶ情報じょうほう提供ていきょうしゃからの情報じょうほうなどによる独自どくじ状況じょうきょう分析ぶんせきおこなわれており、1950ねん段階だんかいすで状況じょうきょう切迫せっぱくしているとの分析ぶんせき結果けっかしていた。田中たなか知事ちじは6がつ21にち上京じょうきょうし、吉田よしだしげる首相しゅしょうたずねて現状げんじょうつたえた。しかし吉田よしだはそのわずか3にちまえに38せん視察しさつ帰路きろ訪日ほうにちしたジョン・フォスター・ダレスから「べいぐん士気しき旺盛おうせいで、装備そうび充実じゅうじつしており、まったく心配しんぱいない。」といたばかりであると激怒げきどした[10]

そして韓国かんこくぐん一部いちぶでも危機ききかん欠如けつじょしていた。6月9にち蔡秉とく参謀さんぼう総長そうちょう師団しだんちょう連隊れんたいちょうきゅうにおけるだい規模きぼ人事じんじ異動いどう実施じっし。これによって国境こっきょう団長だんちょうされた将軍しょうぐんたちは、当代とうだい一流いちりゅう人物じんぶつではあったが[6]実際じっさいには目前もくぜんせまっていた戦闘せんとうへの準備じゅんび期間きかんあきらかに不足ふそくしていた。同年どうねん3がつ確定かくていされた防御ぼうぎょ計画けいかく前出ぜんしゅつ)にもとづ防御ぼうぎょ施設しせつ構築こうちくすすめられてはいたものの、38せんにおける北朝鮮きたちょうせん武力ぶりょく挑発ちょうはつ共産きょうさんゲリラの跳梁ちょうりょうにより、その工事こうじ妨害ぼうがいされ、地域ちいき住民じゅうみん青年せいねんだんによる労働ろうどう奉仕ほうしによって相当そうとう進捗しんちょくたとはいえ、障害しょうがいぶつ設置せっちなどはほとんどおこなわれず、とく対戦たいせんしゃ防御ぼうぎょきわめてなおざりなものであった。陸軍りくぐん本部ほんぶ作戦さくせん局長きょくちょうであったきょうぶんたてまつ大佐たいさ防御ぼうぎょ施設しせつ強化きょうか提案ていあんする建議けんぎしょ国会こっかい提出ていしゅつしたものの、5月30にちそう選挙せんきょけて国会こっかい休会きゅうかいちゅうであったため、その建議けんぎしょ処理しょりされなかった。

作戦さくせん計画けいかくおよび戦力せんりょく配置はいち概要がいよう[編集へんしゅう]

りょうぐん戦力せんりょく対比たいひ[編集へんしゅう]

北朝鮮きたちょうせんについては、ソ連それんから当初とうしょより武力ぶりょく統一とういつのための軍備ぐんびあたえられていた形跡けいせきがある。これにたいし、韓国かんこくについては、アメリカあたえた軍備ぐんびは、「まもるにり、めるには不足ふそく」を意図いとしていた[11](しかし開戦かいせん現実げんじつしめすように北朝鮮きたちょうせん全面ぜんめん攻撃こうげきえられるものではなかった)。この結果けっかりょうぐん装備そうびたび兵力へいりょくにはおおきな格差かくさしょうじていた。

概観がいかん[編集へんしゅう]

朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん以下いか北朝鮮きたちょうせんぐん)は1946ねん1がつ創設そうせつされた鉄道てつどう保安ほあんたい起源きげんとしており、正式せいしき発足ほっそく1948ねん2がつ8にちである。1949ねんすえ時点じてんでは4師団しだんゆうするにぎなかったが、その半年はんとしばい以上いじょう増強ぞうきょうされた。とくに49ねんなつごろからは中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんにあった朝鮮ちょうせんけい中国人ちゅうごくじん部隊ぶたい師団しだん編成へんせいたもったままで編入へんにゅうされはじめ、またそれ以外いがい部隊ぶたいにも中国ちゅうごくがえりの将兵しょうへい多数たすう編入へんにゅうされるなど、北朝鮮きたちょうせんぐんきわめてはやいペースで増強ぞうきょうされていた。そしてこれら歴戦れきせん将兵しょうへいにより、きわめてたかたびたもっていた。従来じゅうらい北朝鮮きたちょうせん韓国かんこくよりも人口じんこうすくない(やく43%)ため、兵力へいりょくめんにおいては韓国かんこく優位ゆういであるとかんがえられていたが、これによって軍事ぐんじバランスは一気いっき北側きたがわかたむくこととなった。そして1950ねん6がつ25にち開戦かいせん時点じてんで、北朝鮮きたちょうせんぐん戦力せんりょく完全かんぜん編成へんせい歩兵ほへい師団しだん8充足じゅうそく歩兵ほへい師団しだん2戦車せんしゃ旅団りょだん1個いっこおよび独立どくりつ戦車せんしゃ連隊れんたい1個いっこ正規せいき部隊ぶたい警備けいび旅団りょだん5ふくそう兵力へいりょく19まん8せん戦車せんしゃ242りょう、(ただし開戦かいせん装備そうびしていたのは戦車せんしゃ150りょう)ほう552もん迫撃はくげきほう1728もん航空機こうくうき211にまで増強ぞうきょうされていた[12]

韓国かんこくぐんは1946ねん1がつ創設そうせつされた朝鮮ちょうせん警察けいさつたいをその母体ぼたいとして、1949ねん5がつには5師団しだん1個いっこ旅団りょだんゆうしており、さらに8がつには8師団しだん増強ぞうきょうされた。しかし、部内ぶない多数たすう潜入せんにゅうしていたスパイ粛清しゅくせいや、独立どくりつ以来いらい頻発ひんぱつしていた北朝鮮きたちょうせんによるゲリラ攻撃こうげき討伐とうばつ労力ろうりょくかれていたため、訓練くんれん不足ふそく気味ぎみであった。1950ねん6がつ25にち開戦かいせん時点じてん韓国かんこくぐん戦力せんりょくは、歩兵ほへい師団しだん8基幹きかんとしてそう兵力へいりょく10まん6せん戦車せんしゃなし、ほう91もん迫撃はくげきほう960もん航空機こうくうき22

部隊ぶたい編成へんせい装備そうび[編集へんしゅう]

北朝鮮きたちょうせんぐん[編集へんしゅう]

北朝鮮きたちょうせんぐん歩兵ほへい師団しだん編制へんせいは、だい世界せかい大戦たいせん当時とうじソ連それんぐん師団しだんを、北朝鮮きたちょうせん国情こくじょうわせて縮小しゅくしょうしたものであった。かく師団しだん歩兵ほへい連隊れんたい3基幹きかんとして、砲兵ほうへい連隊れんたい工兵こうへい大隊だいたいゆうし、総員そういんやく11,000めいであった。かく歩兵ほへい連隊れんたい総員そういん2,794めい歩兵ほへい大隊だいたい3じゅう迫撃はくげきほう中隊ちゅうたい120mmじゅう迫撃はくげきほう 6もん)、歩兵ほへいほう中隊ちゅうたい76mm連隊れんたいほうM1927 4もん)、対戦たいせんしゃほう中隊ちゅうたい45mmたい戦車せんしゃほうM1937 4もん)により編制へんせいされていた。また師団しだん砲兵ほうへい連隊れんたいは、野砲やほう大隊だいたい276mm師団しだんほうM1942 12もん)、榴弾りゅうだんほう大隊だいたい122mm榴弾りゅうだんほうM1938 12もん)、はしほう大隊だいたいSU-76 12りょう)により編制へんせいされており、とくにはしほう大隊だいたい師団しだん限定げんていてきながらも機甲きこう火力かりょく付与ふよしていた。

また、国境こっきょう会戦かいせんからソウル会戦かいせんにかけてきわめて重要じゅうよう役割やくわりたしただい105戦車せんしゃ旅団りょだんは、やはりソ連それんぐん戦車せんしゃ師団しだん縮小しゅくしょうした編制へんせいになっているが、旅団りょだんとしての主体しゅたいてき運用うんようというよりは分割ぶんかつされての歩兵ほへいじききょう任務にんむ考慮こうりょしたものになっている。だい107、だい109、だい203の3戦車せんしゃ連隊れんたい(それぞれT-34戦車せんしゃ40りょう)とだい206の1個いっこ機械きかい歩兵ほへい連隊れんたいにより編制へんせいされる。

38せん警備けいび旅団りょだんは、旅団りょだん本部ほんぶ隷下れいかに7歩兵ほへい大隊だいたい本部ほんぶ中隊ちゅうたい衛生えいせい中隊ちゅうたい輸送ゆそう中隊ちゅうたい偵察ていさつ中隊ちゅうたい、45mmたい戦車せんしゃほう中隊ちゅうたい警備けいび小隊しょうたい構成こうせいされ、さらにかく歩兵ほへい大隊だいたい大隊だいたい本部ほんぶ、3中隊ちゅうたい機関きかんじゅう中隊ちゅうたい迫撃はくげきほう中隊ちゅうたい、45mmたい戦車せんしゃほう小隊しょうたい勤務きんむたい編制へんせいされていた[13]定員ていいんは8,312めいであったが、人員じんいん不足ふそく完全かんぜん補充ほじゅうできず、戦争せんそう直前ちょくぜん兵力へいりょくは、だい1警備けいび旅団りょだんが5,000めいだい3旅団りょだんだい7旅団りょだんが4,000めいであった[14]

だい766部隊ぶたいは、ゆうげき部隊ぶたいとして3歩兵ほへい大隊だいたい砲兵ほうへい大隊だいたい通信つうしん大隊だいたいきょうおもて大隊だいたいとして編制へんせいされ、3大隊だいたいのうち2大隊だいたい上陸じょうりく部隊ぶたい1個いっこ大隊だいたい内陸ないりく浸透しんとう運用うんようされるよう組織そしきされた[15]きょうおもて大隊だいたいは、1949ねん5がつ韓国かんこくからこしきたしたおもてたけはじめきょうふとしたけひきいた部隊ぶたいであった[16]海軍かいぐんだい945陸戦りくせんたい[ちゅう 2]は、3上陸じょうりくけい歩兵ほへい大隊だいたい通信つうしん中隊ちゅうたい後方こうほう勤務きんむたい編制へんせいされていた[15]

だい603モーターサイクル連隊れんたいは、4モーターサイクル大隊だいたい1個いっこ装甲車そうこうしゃ大隊だいたい1個いっこたい戦車せんしゃほう大隊だいたい編成へんせいされていた。モーターサイクル大隊だいたいは、3モーターサイクル中隊ちゅうたい1個いっこ迫撃はくげきほう中隊ちゅうたい1個いっこじゅう機関きかんじゅう中隊ちゅうたい構成こうせいされていた。モーターサイクル中隊ちゅうたいは45だいのモーターサイクルと135めい迫撃はくげきほう中隊ちゅうたいは82mm迫撃はくげきほう9もんと30めいじゅう機関きかんじゅう中隊ちゅうたいは14.5mm機関きかんじゅう9ていと30めい装甲車そうこうしゃ大隊だいたいBA-64かた装甲車そうこうしゃ54だいたい戦車せんしゃほう大隊だいたいは45mmたい戦車せんしゃほう16もん編成へんせいされていた[18]

北朝鮮きたちょうせんぐんには、9ぐん工兵こうへい大隊だいたい、30師団しだん工兵こうへい中隊ちゅうたいがあったが、装備そうび非常ひじょう不足ふそくしており、だい部分ぶぶん工兵こうへい手作業てさぎょう依存いぞんしていた[19]渡河とか装備そうび不足ふそくしており、ほとんどが最高さいこう司令しれい隷下れいかにあった[19]師団しだんには独自どくじ渡河とか装備そうびかったので、最高さいこう司令しれいから優先ゆうせん順位じゅんいもとづいててられるかたち運用うんようされた[19]おおくの人員じんいん装備そうび渡河とかさせることができる渡船とせんばん/橋梁きょうりょう装備そうびであるNLPとN2P[ちゅう 3]ソ連それんから供給きょうきゅうされた。NLPは24くみ、N2Pは48くみ供給きょうきゅうされ、そのうち24くみのN2Pはだい6師団しだんのこりの24くみだい105戦車せんしゃ師団しだん運用うんようされ、またソ連それんがわ資料しりょうからNLPの一部いちぶだい1師団しだん運用うんようされたと推測すいそくされる[21]のこりの師団しだんについてはボートやわたぶね浮遊ふゆうぶつなど現地げんち調達ちょうたつした資材しざい最大限さいだいげん活用かつようしたと推測すいそくされる[21]

韓国かんこくぐん[編集へんしゅう]

韓国かんこく軍師ぐんしだん編制へんせいは、だい世界せかい大戦たいせん当時とうじのアメリカぐん師団しだんを、韓国かんこく国情こくじょうわせて縮小しゅくしょうしたものであった。定数ていすうとしては、かく師団しだん歩兵ほへい連隊れんたい3基幹きかんとして、砲兵ほうへい連隊れんたい工兵こうへい大隊だいたいゆうし、総員そういんやく10,000めいであった。かく歩兵ほへい連隊れんたい総員そういんやく2,650めい歩兵ほへい大隊だいたい3対戦たいせんしゃほう中隊ちゅうたいM1 57mmたい戦車せんしゃほう 6もん)により編制へんせいされていた。また師団しだん砲兵ほうへい連隊れんたいは、けいほう大隊だいたい3105mm榴弾りゅうだんほうM3 5もん)により編制へんせいされていた。ただし、後方こうほうだい2、だい3、だい5師団しだんは2歩兵ほへい連隊れんたい基幹きかんとし、砲兵ほうへい大隊だいたいけい歩兵ほへい師団しだんであったほか、開戦かいせんだい7師団しだん隷属れいぞくえにより一時いちじてきに2連隊れんたい基幹きかんとなっていた。装備そうび充足じゅうそくについても、前方ぜんぽう防御ぼうぎょ部隊ぶたいはおおむね装備そうびそろっていたが、後方こうほう警戒けいかい部隊ぶたいにおいては装備そうび調達ちょうたつわず、南部なんぶでゲリラ討伐とうばつおこなっていた3師団しだんいたっては、きゅう日本にっぽんぐんきゅうきゅうしき短小たんしょうじゅう改修かいしゅうして使つかっている状況じょうきょうであった。また、ゲリラ討伐とうばつ麗水れいすいじゅんてん事件じけん鎮圧ちんあつなど多忙たぼうであったために全体ぜんたい訓練くんれん不足ふそくしていた。6月15にち時点じてんでは、だい7師団しだんの6大隊だいたいだい8師団しだん1個いっこ大隊だいたい首都しゅと警備けいび司令しれいの9大隊だいたいけい16大隊だいたい大隊だいたい訓練くんれん修了しゅうりょうしていたが、32大隊だいたい中隊ちゅうたい訓練くんれんまたはその移行いこう途上とじょう、17大隊だいたい小隊しょうたいきゅう訓練くんれんすらわっていない状況じょうきょうで、連隊れんたいきゅう訓練くんれん修了しゅうりょうしている部隊ぶたい皆無かいむであった[22]

韓国かんこくぐん保有ほゆうしていた車両しゃりょうは1,566りょうであったが、これらはアメリカぐん太平洋戦争たいへいようせんそう使つかった中古ちゅうこひん撤退てったいしたとき韓国かんこくぐん譲渡じょうとしたものであり、さらに反乱はんらん鎮圧ちんあつやゲリラ討伐とうばつでの酷使こくしにより、だい部分ぶぶん老朽ろうきゅうしていた[23]。そのため整備せいび必要ひつようせまられ、1950ねん3がつから500りょう車両しゃりょう後送こうそうして整備せいびちゅうであり、のこりの1000りょう順次じゅんじ後送こうそうする予定よていであった[23]師団しだん編制へんせい定数ていすうは377りょうであったが、整備せいびによって開戦かいせんだい1せん師団しだん保有ほゆう車両しゃりょう平均へいきん52パーセントであり、さらにだい1せん連隊れんたい優先ゆうせんして配備はいびしたため、かく師団しだん予備よび連隊れんたい南部なんぶの3師団しだん車両しゃりょういていた[23]。これが予備よび師団しだん集中しゅうちゅう兵站へいたん部隊ぶたい運用うんよういちじるしく阻害そがいする原因げんいんとなった[23]

その比較ひかく[編集へんしゅう]

韓国かんこくぐん戦車せんしゃゆうさないうえに、有効ゆうこう対戦たいせんしゃ火力かりょくにもけていた。かく歩兵ほへい連隊れんたいは6もんの57mmたい戦車せんしゃほうゆうし、またかく歩兵ほへい小隊しょうたいに2もんの2.36インチ(60mm)たい戦車せんしゃロケットだん発射はっしゃM9/M9A1「バズーカ」)がはいされていたが、これらはのちに、北朝鮮きたちょうせんぐんのT-34戦車せんしゃたいしては事実じじつじょう無力むりょくであることがかった[ちゅう 4]。このため、機甲きこう火力かりょくについては、北朝鮮きたちょうせんぐん優位ゆういはまったく隔絶かくぜつしたものであった[11]

砲兵ほうへい火力かりょくについても、しつりょうともにおおきな格差かくさがあった。砲兵ほうへい連隊れんたい装備そうびについては、韓国かんこくぐん有効ゆうこう射程しゃてい6,525mの105mm榴弾りゅうだんほうM3がたを15もん装備そうびする程度ていどであったのにたいし、北朝鮮きたちょうせんぐん有効ゆうこう射程しゃてい11,710mのM1938 122mm榴弾りゅうだんほうを12もん有効ゆうこう射程しゃてい11,260mのSU-76 76mmはしほうを12もん有効ゆうこう射程しゃてい13,090mのM1939 76mm野砲やほうを24もんけい48もん火砲かほう装備そうびしていた。北朝鮮きたちょうせんぐんではさらにかく歩兵ほへい連隊れんたいにM1938 76mm山砲さんぽうが4もん配備はいびされていたので、これをふくめると1分間ふんかん投射とうしゃだんりょうは1:10で北朝鮮きたちょうせん軍師ぐんしだん圧倒的あっとうてき優位ゆういであった。また迫撃はくげきほうについても、60mmのけい迫撃はくげきほう韓国かんこく師団しだんの81もんたい北朝鮮きたちょうせん師団しだんは108もん、80mmきゅうなか迫撃はくげきほう韓国かんこく師団しだんの36もんたい北朝鮮きたちょうせん師団しだんは81もん口径こうけい100mm超過ちょうかじゅう迫撃はくげきほうについては、韓国かんこく師団しだんがアメリカせい4.2インチ(107mm)じゅう迫撃はくげきほう一切いっさい保有ほゆうしていなかったのにたいして北朝鮮きたちょうせん師団しだんは18もんソ連それんせい120mmじゅう迫撃はくげきほうゆうしていた。やまがちな朝鮮半島ちょうせんはんとう地形ちけい考慮こうりょすると、迫撃はくげきほうにおけるきわめて重大じゅうだいである[11]

北朝鮮きたちょうせんぐんによる攻撃こうげき計画けいかく[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん戦争せんそう開戦かいせん当初とうしょ朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん戦闘せんとう序列じょれつ

北朝鮮きたちょうせんぐん作戦さくせん計画けいかくおおむね、韓国かんこくぐん主力しゅりょくをソウル周辺しゅうへん捕捉ほそく殲滅せんめつし、同市どうし占領せんりょうしたのち、すみやかに残存ざんそん兵力へいりょく掃討そうとうしつつ釜山ぷさん進出しんしゅつし、これを解放かいほうするというもので、つぎの3つの段階だんかいによって達成たっせいされる計画けいかくであった。

  1. 韓国かんこくぐん防御ぼうぎょせん突破とっぱぐん主力しゅりょく殲滅せんめつ、3にち以内いないソウル占領せんりょうし、ソウル~はらしゅうさんのぼる進出しんしゅつする
  2. 予備よび部隊ぶたい撃破げきはしつつ戦果せんか拡大かくだいぐんやま大邱たいきゅう浦項ほこうまで進出しんしゅつする
  3. 韓国かんこくぐん残存ざんそん戦力せんりょく掃討そうとうしつつみなみ海岸かいがん進出しんしゅつし、釜山ぷさん麗水れいすい木浦きうら展開てんかいする

これを実現じつげんするため、北朝鮮きたちょうせんぐんはその地上ちじょうぐんぜん10師団しだんを、だい1、だい2の2軍団ぐんだん編成へんせいした。

だい1軍団ぐんだん[編集へんしゅう]

だい1軍団ぐんだんはソウル北方ほっぽう弧状こじょう配置はいちされ、ソウルにけて求心きゅうしんてき攻撃こうげき実施じっしするよう指導しどうされた。このことから、だい1軍団ぐんだんには、前線ぜんせん司令しれい直轄ちょっかつだい105戦車せんしゃ旅団りょだんやなぎきょう少将しょうしょう)が配属はいぞくされていた。

隷下れいか部隊ぶたい[編集へんしゅう]

だい1師団しだんは、もっとふる師団しだんの1つで1947ねん3がつ創設そうせつされ、ソ連それんがえりの将校しょうこうおおく、歩兵ほへい連隊れんたい1個いっこもと中共ちゅうきょうぐん連隊れんたい連隊れんたいにも相当そうとうすうもと中共ちゅうきょうぐん兵士へいし編入へんにゅうされていたとわれている[24]だい2、だい3、だい14の3連隊れんたい基幹きかんとしており、師団しだんちょうちぇひかり少将しょうしょう駐屯ちゅうとん南川みなみかわ站であり、きゅうさと展開てんかいした。

だい3師団しだんは、1948ねん2がつ創設そうせつされ、最初さいしょ完全かんぜん編成へんせいされた師団しだんであり、もと中共ちゅうきょう軍兵ぐんびょう含有がんゆうりつひくかったが、将校しょうこうだい部分ぶぶんソ連それんがえりで部隊ぶたい全般ぜんぱん士気しきたか最強さいきょうほこり、侵攻しんこうにはだい4師団しだんともしゅおさむ正面しょうめん使用しようされた[24]だい7、だい8、だい9の3連隊れんたい基幹きかんとしており、師団しだんちょうひさし少将しょうしょう駐屯ちゅうとんたいらやすし站であり、くもかわ展開てんかいした。

だい4師団しだんは、ソ連それんがえりがおお精鋭せいえいほこった師団しだんであった[25]。1950ねんだい4野戦やせんぐんない朝鮮ちょうせんじんあつめて編成へんせいされた独立どくりつだん編入へんにゅうされだい18連隊れんたいとなった[26]だい5、だい16、だい18の3連隊れんたい基幹きかんとしており、師団しだんちょうけんたけ少将しょうしょう駐屯ちゅうとん南浦みなみうらであり、さざなみかわ展開てんかいした。

だい6師団しだんは、もと中共ちゅうきょうぐんだい166であり、1949ねん7がつ25にちから10がつにかけてやく10,000めい北朝鮮きたちょうせん入国にゅうこくしんしゅうで800めい補充ほじゅうけてだい13、だい14[ちゅう 5]だい15連隊れんたいからなるだい6師団しだんとして編成へんせいされた[27][28]師団しだんちょうは、朝鮮ちょうせん戦争せんそうじゅう英雄えいゆう称号しょうごう授与じゅよされたほうとらやま少将しょうしょう[28]駐屯ちゅうとんしんしゅうであり、開城かいじょう北側きたがわ展開てんかいした。1個いっこ連隊れんたい半島はんとう投入とうにゅうされたため、開城かいじょう方面ほうめん師団しだん主力しゅりょく総員そういん8,000めいであった。

だい105戦車せんしゃ旅団りょだんは、だい107、だい109、だい203の3連隊れんたい編成へんせいされていたが、このうちだい203戦車せんしゃ連隊れんたい1個いっこ大隊だいたいかけ)は開城かいじょう・汶山方面ほうめん運用うんようされ、だい203戦車せんしゃ連隊れんたいだい2大隊だいたいだい107、だい109戦車せんしゃ連隊れんたい政府せいふ方面ほうめん投入とうにゅうされた[29]

軍団ぐんだん予備よびとしては、だい10師団しだんおよびだい13師団しだん拘置こうちされる計画けいかくであった。だい10師団しだんだい25、だい27、だい107の3連隊れんたい基幹きかんとし、駐屯ちゅうとん粛川であった。だい13師団しだんだい19、だい21、だい23の3連隊れんたい基幹きかんとしていたが、完全かんぜん編成へんせいではなく、開戦かいせん兵力へいりょくは6000めいであった。師団しだんちょうちぇいさむすすむ少将しょうしょうしんしゅう駐屯ちゅうとんから金川かながわ展開てんかいした。

半島はんとう[編集へんしゅう]

半島はんとうでは、だい6師団しだんだい1連隊れんたい治安ちあん大隊だいたい配属はいぞくしただい3警備けいび旅団りょだん旅団りょだんちょうちぇけん少将しょうしょう)が、-のべやす半島はんとうさだめた6つの目標もくひょう各個かっこ突破とっぱし、だい1連隊れんたいかん翎に進出しんしゅつして韓国かんこくぐんだい17連隊れんたい二分にぶんし、半島はんとうのべやす半島はんとう占領せんりょうする計画けいかくであった[30]。122mm榴弾りゅうだんほう4もん、76mm野砲やほう32もん、45mmたい戦車せんしゃほう45もんなどを保有ほゆうし、兵力へいりょくは8,000めいあまりにたっした[31]

開城かいじょう・汶山方面ほうめん[編集へんしゅう]

この方面ほうめんにはだい1師団しだんだい6師団しだん1個いっこ連隊れんたいかけ)、だい203戦車せんしゃ連隊れんたい1個いっこ大隊だいたいかけ)が投入とうにゅうされた[32]

開城かいじょう - 金浦このうら経路けいろでは、だい6師団しだん主力しゅりょくが、攻撃こうげき初日しょにち正面しょうめん韓国かんこくぐん撃破げきはして開城かいじょう掌握しょうあくし、2にち金浦このうら-えいのぼるうらせん進出しんしゅつして韓国かんこくぐん主力しゅりょく退路たいろ遮断しゃだんする計画けいかくであった[33]金浦このうら進出しんしゅつするには漢江かんこうわたらなければならないため、だい6師団しだんにはもっとおおくの渡河とか機材きざいてられた[34]

高浪たかなみうら - 汶山 - ソウルの経路けいろでは、だい1師団しだん高浪たかなみうら - ちょう - 汶山じくせん突破とっぱし、だい105戦車せんしゃ旅団りょだんより分遣ぶんけんされただい203戦車せんしゃ連隊れんたい共同きょうどうで汶山からソウル西部せいぶ進出しんしゅつして韓国かんこくぐん主力しゅりょく退路たいろ遮断しゃだんする計画けいかくであった[35]

開城かいじょう - 高浪たかなみうら方面ほうめん展開てんかいしただい1、だい6師団しだんわせて21,000めい前後ぜんこうであり、122mm榴弾りゅうだんほう24もん、76mm野砲やほう72もん、45mmたい戦車せんしゃほう168もんほかだい203戦車せんしゃ連隊れんたい戦車せんしゃ40りょうはしほう32もん師団しだん支援しえん集結しゅうけつした[31]

政府せいふ方面ほうめん[編集へんしゅう]

政府せいふだきかわ地域ちいき攻撃こうげきする部隊ぶたいは、2歩兵ほへい師団しだんだい3、だい4)とだい105戦車せんしゃ旅団りょだんの2戦車せんしゃ連隊れんたいおよび2軍団ぐんだん砲兵ほうへい大隊だいたいであった[29]

てつばら - 政府せいふ - ソウルの経路けいろでは、だい105戦車せんしゃ旅団りょだん主力しゅりょくとともに、だい3、だい4の2師団しだん前進ぜんしんする計画けいかくであった。だい4師団しだんだい203戦車せんしゃ連隊れんたいだい2大隊だいたい支援しえんけてひがしまめ川方かわかためんを、だい3師団しだんだい107、だい109戦車せんしゃ連隊れんたい支援しえんけてだき川方かわかためん進攻しんこうした[29]

この方面ほうめん北朝鮮きたちょうせんぐん兵力へいりょく韓国かんこくぐんだい7師団しだん7,211めいじつ兵力へいりょく4,500めい)にたいして総員そういん28,000めいであった[36]主要しゅよう装備そうび戦車せんしゃ156りょうはしほう62もん、122mm榴弾りゅうだんほう48もん、76mm野砲やほう72もん、45mmたい戦車せんしゃほう96もん、120mm迫撃はくげきほう52もん、82mm迫撃はくげきほう162もんなど、戦争せんそう初期しょき動員どういんしたぜん火力かりょくの3ぶんの1をこの方面ほうめん集中しゅうちゅうした[37]

だい2軍団ぐんだん[編集へんしゅう]

だい2軍団ぐんだんじょおさむとして、春川はるかわ正面しょうめん華川はなかわ~麟蹄)で北緯ほくい38せん突破とっぱしたのち、その主力しゅりょく春川はるかわ突破とっぱし、だい1軍団ぐんだん連携れんけいした包囲ほうい攻撃こうげきによってソウルを占領せんりょうする一方いっぽう、その一部いちぶをもって東海岸ひがしかいがんどうにおいて韓国かんこくぐん後方こうほう攪乱かくらんし、その撤退てったい阻害そがいさせる計画けいかくであった。

隷下れいか部隊ぶたい[編集へんしゅう]

だい2師団しだんは、1946ねん11がつ10日とおかみなみ保安ほあん幹部かんぶだい2訓練くんれんしょ前身ぜんしん創設そうせつされた。1949ねんまつから東海岸ひがしかいがん大隊だいたい訓練くんれんから空地くうち共同きょうどう訓練くんれんいたるまで本格ほんかくてき戦闘せんとう訓練くんれん実施じっししたが、とく山岳さんがくせん重点じゅうてんいていた。開戦かいせん時点じてんでほとんどの兵士へいしは6かげつ以上いじょう軍事ぐんじ訓練くんれんえた状態じょうたいであり、1950ねんはじめに北朝鮮きたちょうせんぐん検閲けんえつだん実施じっしした評価ひょうかは7師団しだんのうち最優秀さいゆうしゅう師団しだんえらばれた[38]

だい4、だい6、だい17の3連隊れんたい基幹きかんとしており、師団しだんちょうあおまつ少将しょうしょう元山もとやま駐屯ちゅうとんから華川はなかわ展開てんかいした。

だい5師団しだんは、もと中共ちゅうきょうぐんだい164で、1949ねん7がつ満州まんしゅうからきよし移動いどうし、そこで徴募ちょうぼへい3,500めいくわえて完全かんぜん北朝鮮きたちょうせん軍師ぐんしだん編制へんせいとなった[25]だい10、だい11、だい12の3連隊れんたい基幹きかんとしており、師団しだんちょうきむ昌徳まさのり少将しょうしょうみなみ駐屯ちゅうとんからじょう展開てんかいした。開戦かいせんだい2軍団ぐんだんだい2はしごたいとして使用しようされた[16]

だい12師団しだんは、1950ねん2がつだい4野戦やせんぐんだい13兵団へいだん所属しょぞく朝鮮ちょうせんじんあつめて編成へんせいした独立どくりつだい15もとであり、同年どうねん4がつ入北にゅうほくしてだい30、31、32連隊れんたい、そしてだい1師団しだんから砲兵ほうへい大隊だいたい編入へんにゅうしてだい12砲兵ほうへい連隊れんたいによってだい7師団しだん編成へんせいした[39]。6月2にちだい12師団しだん改称かいしょう[26][ちゅう 6]。この師団しだんだけは定員ていいんえていて12,000めいであった[25]開戦かいせんの2かげつまえ編成へんせいしたので、団結だんけつソ連それんしき訓練くんれん時間じかんがなかったことに問題もんだいがあった[25]実戦じっせん経験けいけん豊富ほうふ兵力へいりょく構成こうせいされ、個々ここ戦闘せんとう能力のうりょく比較的ひかくてきたか評価ひょうかされた[16]師団しだんソ連それんせい兵器へいき装備そうびしていたが、だい12師団しだんはアメリカせい兵器へいき装備そうびしていた[41]だい30、だい31、だい32の3連隊れんたい基幹きかんとしており、師団しだんちょうぜん[ちゅう 7]少将しょうしょう元山もとやま駐屯ちゅうとんから楊口に展開てんかいした。

春川はるかわ洪川こうせん方面ほうめん[編集へんしゅう]

この方面ほうめんにはだい2、だい12師団しだんだい1はしごたいだい5師団しだん主力しゅりょくだい2はしごたいだい603モーターサイクル連隊れんたい高速こうそく機動きどう部隊ぶたいとして編成へんせいしていた[42]だい2師団しだん開戦かいせん当日とうじつ春川はるかわ占領せんりょうしたのち、ソウル東方とうほう水原みずはら方面ほうめん迂回うかいして韓国かんこくぐん主力しゅりょく包囲ほういする計画けいかくであった。その任務にんむは、開戦かいせん当日とうじつのうちに春川はるかわ攻略こうりゃくするというものであった。

だい12師団しだんは、麟蹄-洪川こうせんじく侵攻しんこうして洪川こうせん占領せんりょうしたのちはらしゅう-驪州あいだ幹線かんせん道路どうろ遮断しゃだんし、とぎがわ-水原みずはら方面ほうめん進出しんしゅつするだい603モーターサイクル連隊れんたい左側ひだりがわかた掩護えんごし、洪川こうせん-驪州方面ほうめん進出しんしゅつして韓国かんこくぐん退路たいろ増援ぞうえん遮断しゃだんする計画けいかくであった[43]

だい5師団しだんは、だい1はしごたいだい12師団しだん洪川こうせん方面ほうめん攻撃こうげき開始かいししたのち後続こうぞくして横城よこぎ-はらしゅう方面ほうめん進出しんしゅつして戦果せんか拡張かくちょうさせ、これにより韓国かんこくぐん後方こうほう師団しだん増援ぞうえん遮断しゃだんし、軍団ぐんだんだい1段階だんかい目標もくひょうであるはらしゅう-さんのぼるせん進出しんしゅつする計画けいかくであった[44]

この地域ちいき投入とうにゅうされた兵力へいりょくは36,938めいであり、火力かりょくでは122mm榴弾りゅうだんほう24もん、76mm野砲やほう72もん、76mmはしほう48もん、75mmほう24もん、45mmたい戦車せんしゃほう139もん、37mmたい戦車せんしゃほう12もん、そのに120mm迫撃はくげきほう60もんなどけい204もん迫撃はくげきほう保有ほゆうしていた[45]

東海岸ひがしかいがん[編集へんしゅう]

東海岸ひがしかいがんではだい1警備けいび旅団りょだん旅団りょだんちょうはくりゅう少将しょうしょう)にだい5師団しだんだい10連隊れんたい1個いっこ砲兵ほうへい大隊だいたい1個いっこはしほうたい配属はいぞくさせ[16]東海岸ひがしかいがんどう主力しゅりょく投入とうにゅうしてきたから韓国かんこくぐんだい10連隊れんたい攻撃こうげきだい766部隊ぶたいだい945陸戦りくせんたいは、こう陵南りょうなんがわせい東津ひがしつと臨院上陸じょうりくして韓国かんこくぐんだい21連隊れんたい増援ぞうえん遮断しゃだんするとともに南進なんしん部隊ぶたい合流ごうりゅうしてこう陵北りょうほくがわ連谷れんだにがわ地域ちいき韓国かんこくぐんだい10連隊れんたい挟撃きょうげきし、またいくつかの警備けいび旅団りょだん兵力へいりょく浸透しんとうさせ、韓国かんこくぐん退路たいろ遮断しゃだんする計画けいかくであった[46]

兵力へいりょくは14,000めいほどで、火力かりょくでは122mm榴弾りゅうだんほう4もん、76mm野砲やほう24もん、76mmはしほう4もん、45mmたい戦車せんしゃほう20もん、120mm迫撃はくげきほう14もん、82mm迫撃はくげきほう36もん、60mm対戦たいせんしゃロケットほう200もんなどを保有ほゆうしていた[47]

韓国かんこくぐん防衛ぼうえい計画けいかく[編集へんしゅう]

一方いっぽう韓国かんこくぐんは、人民じんみんぐんしゅおさむてつばら - 政府せいふ - ソウルに指向しこうされるとの判断はんだんのもと、ぐん前方ぜんぽう防御ぼうぎょ部隊ぶたい予備よびたい後方こうほう警戒けいかい部隊ぶたいの3つのはしごたいけ、前方ぜんぽう防御ぼうぎょ地帯ちたいにおいては3ほん陣地じんちせん構築こうちくして段階だんかいてき防御ぼうぎょ作戦さくせん展開てんかいし、とく政府せいふ地区ちくにおいて重点じゅうてん形成けいせいする計画けいかくであった。これらの陣地じんちせんって、防御ぼうぎょ作戦さくせん以下いかの3つの段階だんかいによって実施じっしされる計画けいかくであった。

  1. 初期しょき作戦さくせん: 38せん南側みなみがわ沿った警戒けいかい陣地じんち(Aせん)における防御ぼうぎょ遅滞ちたい戦闘せんとうしゅ抵抗ていこうせん前面ぜんめん橋梁きょうりょう道路どうろ破壊はかいし、しゅ抵抗ていこうせんでの態勢たいせい整頓せいとんするときあいだ確保かくほする。
  2. だい作戦さくせん: 臨津こう南岸なんがん春川はるかわ注文ちゅうもん北側きたがわしゅ抵抗ていこうせん(Bせん)における戦闘せんとう火力かりょく集中しゅうちゅう発揮はっきおよび逆襲ぎゃくしゅうによって、きわめて強力きょうりょく戦闘せんとう実施じっしする。じんまえにおいててき撃滅げきめつすることを目的もくてきとし、陣地じんちへの進入しんにゅうゆるした場合ばあいにも極力きょくりょくこのせん膠着こうちゃくさせる。戦闘せんとう指導しどう困難こんなんきたした場合ばあいには、遅滞ちたい戦闘せんとう実施じっししつつ、逐次ちくじ予備よび陣地じんち移動いどうする。
  3. だいさん作戦さくせん: さい後方こうほう抵抗ていこうせんでの戦闘せんとう予備よび陣地じんちせんにおいて、ぜんぐんをもっててき戦力せんりょく粉砕ふんさいし、どう陣地じんち固守こしゅする。

また、3はしごたいのうち、後方こうほう警戒けいかい部隊ぶたい本来ほんらい警察けいさつ青年せいねん防衛ぼうえいたいうみ空軍くうぐん主力しゅりょくとなる計画けいかくであったが、実際じっさいには開戦かいせん前日ぜんじつ(24にち)の時点じてんで、ぜん61個いっこ大隊だいたいのうち25大隊だいたいはゲリラ討伐とうばつのために南部なんぶ分散ぶんさん配置はいちされていた。また、11個いっこ大隊だいたいが38せん国境こっきょう付近ふきん前方ぜんぽう防御ぼうぎょ陣地じんちに、のこる25大隊だいたいだい一線いっせん師団しだん予備よびとしてソウル~はらしゅうさんのぼる地域ちいき駐屯ちゅうとんしていた[6]。これらのかくはしごたい編成へんせい任務にんむ防御ぼうぎょ計画けいかく以下いかのようなものであった。

前方ぜんぽう防御ぼうぎょ部隊ぶたい[編集へんしゅう]

だい17連隊れんたい半島はんとうにおいて、だい17連隊れんたい(2,719めい)、だい7砲兵ほうへい大隊だいたい(526めい)、たい戦車せんしゃほう中隊ちゅうたい(129めい)、支援しえん部隊ぶたい(300めい)からなる連隊れんたい戦闘せんとうだん編成へんせいっており、総員そういん3,600めい[48]主要しゅよう装備そうびは、105mm榴弾りゅうだんほう15もん(うち3もん故障こしょう)、57mmたい戦車せんしゃほう6もん、81mm迫撃はくげきほう12もん、60mm迫撃はくげきほう18もん、2.36インチロケットほう60もん各種かくしゅ機関きかんじゅう25てい保有ほゆうしていた[48][49]開戦かいせん連隊れんたいちょうはくひとし大佐たいさ[11]。その任務にんむは、地区ちくにおいて防御ぼうぎょ戦闘せんとう展開てんかいするとともに、ゆうげきせんによっててき後方こうほう攪乱かくらんすることであった。必要ひつようおううみしゅう一帯いったい占領せんりょう準備じゅんびすることになっていた[50]が、一方いっぽうで、戦況せんきょう次第しだいでは一時いちじ撤退てったいすることも考慮こうりょされていた。

だい1師団しだんはソウルの北西ほくせい開城かいじょうから高浪たかなみうらにかけての正面しょうめん担当たんとうしていたが、開城かいじょうについては必要ひつようおうじて放棄ほうきする決心けっしんをしており、防御ぼうぎょ重点じゅうてんは汶山に指向しこうしていた。また、てきしゅおさむけるとかんがえられる政府せいふ正面しょうめんだい7師団しだん左翼さよく援護えんごすることももとめられていた。だい11連隊れんたい(2,527めい)、だい12連隊れんたい(2,728めい)、だい13連隊れんたい(2,578めい)の3連隊れんたい基幹きかんとして砲兵ほうへい工兵こうへい大隊だいたい配属はいぞくされており、総員そういん9,715めい主要しゅよう装備そうびは、105mm榴弾りゅうだんほう15もん、57mmたい戦車せんしゃほう18もん、81mm迫撃はくげきほう36もん、60mm迫撃はくげきほう54もん、2.36インチロケットほう192もん[51]各種かくしゅ機関きかんじゅう43てい保有ほゆうしていた[52]。しかしだい11連隊れんたい保有ほゆうしていた共有きょうゆう火器かきの30パーセントは5がつ下旬げじゅんから6がつ上旬じょうじゅんにかけて後方こうほう基地きちしょう搬送はんそう整備せいびしたため、どう連隊れんたいおも個人こじん火器かきだけを保有ほゆうしていた[52]開戦かいせん師団しだんちょうはくよし大佐たいさ[11]

だい7師団しだんはソウルの北東ほくとう政府せいふ回廊かいろう正面しょうめん担当たんとうしており、てきしゅおさむとの衝突しょうとつ想定そうていされるもっとも重要じゅうよう部隊ぶたいであった。だい1連隊れんたい(2,514めい)、だい3連隊れんたい(2,487めい)、だい9連隊れんたい(2,419めい)の3連隊れんたい基幹きかんとし、砲兵ほうへい工兵こうへい大隊だいたい配属はいぞくされていた。ただし、開戦かいせん直前ちょくぜん(6がつ15にちづけ)におこなわれた部隊ぶたい改編かいへんにより、だい3連隊れんたい首都しゅと警備けいび司令しれい隷属れいぞく変更へんこうされ、これにわりだい2師団しだんより編入へんにゅうされただい25連隊れんたい部隊ぶたい移動いどうおくれたため、だい7師団しだんは2連隊れんたい基幹きかん総員そういん7,211めい)で開戦かいせんむかえた。開戦かいせん師団しだんちょうりゅうきょうじゅんしょう[11]

だい6師団しだん春川はるかわ正面しょうめん中部ちゅうぶ山岳さんがく地帯ちたい守備しゅびしており、春川はるかわ正面しょうめんだい7連隊れんたい、麟蹄正面しょうめんだい2連隊れんたい警備けいびさせ、北朝鮮きたちょうせん侵攻しんこうにあたってははらしゅうだい19連隊れんたいをもって反撃はんげきする計画けいかくであった[53]。この正面しょうめん北朝鮮きたちょうせんぐんじょおさむ正面しょうめんかんがえられ、状況じょうきょうによっては一部いちぶをソウル方面ほうめん転用てんようしなければならないとかんがえられていただけにたてふか陣地じんちつくられていなかった[53]もっと危険きけんだとかんがえられていた華川はなかわ-春川はるかわみち沿いにはじゅうすうのトーチカが構築こうちくされており、これは5代目だいめ師団しだんちょうであったりゅうおき大佐たいさ実施じっししたものであった[53]だい2連隊れんたい(2,724めい)、だい7連隊れんたい(2,503めい)、だい19連隊れんたい(2,160めい)およびだい16砲兵ほうへい大隊だいたい工兵こうへい大隊だいたいにより編成へんせいされており、総員そういん9,338めい[54]主要しゅよう装備そうびは、105mm榴弾りゅうだんほう15もん、57mmたい戦車せんしゃほう12もん、81mm迫撃はくげきほう33もん、60mm迫撃はくげきほう65もん、2.36インチロケットほう276もん保有ほゆうしていたが、105mm榴弾りゅうだんほう2もん故障こしょうにより後方こうほう搬送はんそうしていた[55]開戦かいせん師団しだんちょうきむかね大佐たいさ[11]

だい8師団しだん東海岸ひがしかいがんどう正面しょうめん守備しゅびしており、だい10連隊れんたいだい21連隊れんたい1個いっこ大隊だいたい配属はいぞく)をみぎだい一線いっせんだい21連隊れんたいだい1大隊だいたいひだりだい一線いっせんだい21連隊れんたい1個いっこ大隊だいたい予備よびとして38せん陣地じんち確保かくほ突破とっぱされた場合ばあいてき打撃だげきしながら海岸かいがん沿いに後退こうたいし、連谷れんだにがわせん誘致ゆうちして撃破げきはする。やむをない状況じょうきょうでもこうりょうこういんさと付近ふきん確保かくほして攻勢こうせい転移てんいする、という計画けいかくであった[56]大隊だいたいちょう以上いじょう現地げんち戦術せんじゅつ図上ずじょう演習えんしゅう実施じっしし、かく部隊ぶたい工兵こうへい大隊だいたいだい2、だい3防御ぼうぎょせん構築こうちくちゅうであった[56]だい10連隊れんたい(2,476めい)、だい21連隊れんたい(2,467めい)の2連隊れんたいおよび砲兵ほうへい工兵こうへい大隊だいたいにより編成へんせいされており、総員そういん6,866めい主要しゅよう装備そうびは、105mm榴弾りゅうだんほう15もん、57mmたい戦車せんしゃほう12もん、81mm迫撃はくげきほう24もん、60mm迫撃はくげきほう38もん、2.36インチロケットほう128もん保有ほゆうしていた[57]開戦かいせん師団しだんちょうしげるけい大佐たいさ[11]

予備よびたいおよび後方こうほう警戒けいかい部隊ぶたい[編集へんしゅう]

首都しゅと警備けいび司令しれい首都しゅと警備けいび師団しだん)の任務にんむ金浦このうら仁川にがわふく首都しゅとけん防御ぼうぎょ準備じゅんびすることであり、だい3連隊れんたいだい8連隊れんたいだい18連隊れんたい隷下れいかゆうしており、このうちだい3連隊れんたい開戦かいせん直前ちょくぜんの6がつ20日はつかだい7師団しだんよりくわえられた[58]部隊ぶたい主力しゅりょく儀仗ぎじょうたいであり、戦力せんりょくとして期待きたいしうるものではなかった。総員そういんで9,548めい司令しれいかんかねさん大佐たいさであった[11]

だい2師団しだん大田おおた周辺しゅうへん駐屯ちゅうとんしてしょうしろ山脈さんみゃくのゲリラ討伐とうばつおこなっており、開戦かいせんには春川はるかわ政府せいふ付近ふきん展開てんかいする計画けいかくであった。だい5連隊れんたい(1,895めい)、だい16連隊れんたい(2,408めい)、だい25連隊れんたい(2,210めい)を基幹きかんとして総員そういん7,910めい砲兵ほうへい工兵こうへいゆうさないけい歩兵ほへい部隊ぶたいであった[59]。このうちだい25連隊れんたい政府せいふ正面しょうめんだい7師団しだん編入へんにゅうされていたが、施設しせつ整備せいびわず、開戦かいせんまでに移動いどうできなかった。開戦かいせん師団しだんちょうとおるじゅんしょう[11]

だい3師団しだん大邱たいきゅう釜山ぷさん周辺しゅうへん駐屯ちゅうとんしてゲリラ討伐とうばつおこなっており、開戦かいせんには政府せいふ~汶山付近ふきん展開てんかいする計画けいかくであった。だい22連隊れんたい(2,646めい)、だい23連隊れんたい(2,587めい)の2連隊れんたい基幹きかん総員そういん7,059めい砲兵ほうへい工兵こうへいゆうさないけい歩兵ほへい部隊ぶたいであった。開戦かいせん師団しだんちょうりゅうますれつ大佐たいさ[11]

だい5師団しだん光州こうしゅう周辺しゅうへん駐屯ちゅうとんして全羅道ぜんらどうさとしやま周辺しゅうへん治安ちあん維持いじおこなっており、開戦かいせんには汶山~政府せいふ付近ふきん展開てんかいする計画けいかくであった。だい15連隊れんたい(2,119めい)、だい20連隊れんたい(2,185めい)、だい1独立どくりつ大隊だいたい(698めい)を基幹きかんとして総員そういん7,276めい砲兵ほうへい工兵こうへいゆうさないけい歩兵ほへい部隊ぶたいであった。開戦かいせん師団しだんちょうおうしゅん少将しょうしょう[11]

これらの師団しだんきゅう部隊ぶたいくわえ、独立どくりつ機甲きこう連隊れんたい砲兵ほうへい学校がっこう教導きょうどう連隊れんたいだい1工兵こうへいだんがあり、また重要じゅうよう施設しせつ警備けいび警察けいさつ青年せいねん防衛ぼうえいたい大韓たいかん青年せいねんだんが、海岸かいがんせん警備けいび海軍かいぐん指揮しき特別とくべつ警察けいさつたい海岸かいがん青年せいねん防衛ぼうえいたいおこなう計画けいかくであった。対空たいくう警戒けいかいは、空軍くうぐん本部ほんぶ対空たいくう計画けいかくもとづいて編成へんせいされた対空たいくう監視かんし部隊ぶたい、および陸軍りくぐんかくきゅう部隊ぶたい編成へんせいした対空たいくう部隊ぶたいおこなうことになっていた。

指導しどうしゃ[編集へんしゅう]

北朝鮮きたちょうせんぐん[編集へんしゅう]

前線ぜんせん司令しれい[60]
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
司令しれいかん 大将たいしょう[ちゅう 8] 金策きんさく
参謀さんぼう総長そうちょう 中将ちゅうじょう きょうけん
文化ぶんかふく司令しれいかん 中将ちゅうじょう 金一きんいち
作戦さくせん局長きょくちょう 少将しょうしょう 兪成あきら
作戦さくせんきょくふく局長きょくちょう 上級じょうきゅう大佐たいさ ぼくあきらりん 早稲田大学わせだだいがく日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん中国ちゅうごく戦線せんせんのべやすはい[62]
砲兵ほうへい局長きょくちょう 少将しょうしょう かねたてまつりつ
工兵こうへい局長きょくちょう 上級じょうきゅう大佐たいさ ぼくよしみなみ
通信つうしん局長きょくちょう 上級じょうきゅう大佐たいさ ぼくえいじゅん 東北とうほくこう日連ひづれぐんソ連それんぐん諜報ちょうほう部隊ぶたい出身しゅっしん
偵察ていさつ局長きょくちょう 上級じょうきゅう大佐たいさ ちぇとお
文化ぶんか局長きょくちょう 少将しょうしょう かね ソ連それん
安全あんぜん局長きょくちょう 少将しょうしょう 石山いしやま
後方こうほう局長きょくちょう 少将しょうしょう きむえい
検察けんさつ局長きょくちょう 少将しょうしょう きむまなぶひとし ソ連それん

北朝鮮きたちょうせんぐんは1950ねん6がつ23にち、38せん以南いなんにおけるしょ戦闘せんとう最高さいこう司令しれいわって指揮しきするため、前線ぜんせん司令しれい組織そしきした[60]本来ほんらいなら司令しれいかんは、民族みんぞく保衛やすえしょうちぇいさおけん任命にんめいされるべきだったが、ちぇはアメリカの軍事ぐんじ介入かいにゅううれ発言はつげんをしたため、きむ日成いるそんきらわれ登用とうようされず、わりにもっと信用しんようあつ金策きんさく任命にんめいされた[61]。しかし金策きんさく最近さいきんまで産業さんぎょうしょう職業しょくぎょう軍人ぐんじんではなかったため、実際じっさいには政治せいじ委員いいん兵站へいたん監督かんとくなどをし、軍事ぐんじ問題もんだい作戦さくせん指揮しききょうけんまかせた[61]

連隊れんたいきゅう以上いじょう幹部かんぶは、中共ちゅうきょうぐんおよび朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐん出身しゅっしんしゃのべやす)であるか、きむ日成いるそんをはじめとするだい88特別とくべつ旅団りょだん出身しゅっしんしゃ満州まんしゅう)であった[63]。また師団しだんちょうきゅう以上いじょう幹部かんぶはほとんど30だいであった[63]だい88旅団りょだん出身しゅっしんしゃでは、最高さいこう司令しれいかんである内閣ないかく首相しゅしょうきむ日成いるそんが38さい民族みんぞく保衛やすえしょうちぇいさおけんが50さいであり、そう参謀さんぼうちょうきょうけん(32さい)、だい2軍団ぐんだんちょう金光こんこう侠(35さい)、だい1師団しだんちょうちぇひかり(31さい)、だい2師団しだんちょうあおまつ(38さい)、だい105戦車せんしゃ旅団りょだんちょうやなぎきょう洙(35さい)、だい13師団しだんちょうちぇいさむすすむ(39さい)、だい15師団しだんちょうぼくしげるあきら(36さい)など30だいであった[63]。またはちぐんおよび朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐん出身しゅっしんしゃたけてい(45さい)をのぞき、だい1軍団ぐんだんちょう金雄かねおだい4師団しだんちょうけんたけだい5師団しだんちょうきむ昌徳まさのりだい6師団しだん長方おさかたとらさんだい12師団しだんちょうぜん宇、空軍くうぐん司令しれいかんおうなど30だいであった[64]。これらの年齢ねんれい物語ものがたるように、高級こうきゅう幹部かんぶのほとんどはだい部隊ぶたい指揮しき経験けいけんがないソ連それん中国共産党ちゅうごくきょうさんとう地域ちいきでゲリラ活動かつどうをしたパルチザン出身しゅっしんであった[64]

だい1軍団ぐんだん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい1軍団ぐんだん[65] 軍団ぐんだんちょう 中将ちゅうじょう きむつよし
文化ぶんかふく軍団ぐんだんちょう 少将しょうしょう かねいく[66]
参謀さんぼうちょう 少将しょうしょう やなぎしん
工兵こうへい部長ぶちょう 中佐ちゅうさ きむ時雄ときお
工兵こうへいふく部長ぶちょう 少佐しょうさ きむえいらく
だい1師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう ちぇひかり
だい2連隊れんたいちょう 大佐たいさ きむ陽春ようしゅん 満州まんしゅう国共こっきょう内戦ないせんきち東分ひがしぶんひろししん警備けいび司令しれい大隊だいたいちょう[67]
だい3連隊れんたいちょう 大佐たいさ あきらけん
だい14連隊れんたいちょう 大佐たいさ 黄石こうせき 国共こっきょう内戦ないせん東北とうほく野戦やせんぐん独立どくりつだい4だい3だん政治せいじ委員いいん[68]、1951ねん2がつ戦死せんし
砲兵ほうへい連隊れんたいちょう 大佐たいさ げんがくたてまつ
だい3師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう ひさし
参謀さんぼうちょう 大佐たいさ ちょう平山ひらやま
だい7連隊れんたいちょう 大佐たいさ きむあきらたてまつ
だい8連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ きむ秉鍾
だい9連隊れんたいちょう 大佐たいさ かねまんえき 満州まんしゅう国共こっきょう内戦ないせんきち東分ひがしぶん司令しれい兵器へいきちょう。1950ねん9がつ8にち戦死せんし[67]
砲兵ほうへい連隊れんたいちょう 大佐たいさ やすはくしげる
だい4師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう けんたけ
文化ぶんかふく師団しだんちょう 少将しょうしょう ほおきん[69]
参謀さんぼうちょう もとおおとりまなぶ[70]
だい5連隊れんたいちょう 大佐たいさ ちぇ仁徳じんとく
だい16連隊れんたいちょう 大佐たいさ ぼくかつひろし
だい18連隊れんたいちょう 大佐たいさ ちょうきょうとく 国共こっきょう内戦ないせんよしひがしぐんぶん独立どくりつだい6だんだい3営営えいえいなが[71]平沢ひらさわたたかいで戦死せんし[72]
砲兵ほうへい連隊れんたいちょう 不明ふめい
だい6師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう ほうとらやま
文化ぶんかふく師団しだんちょう そう ひろしりん だい4野戦やせんぐんだい166政治せいじ主任しゅにん[28]
参謀さんぼうちょう そう あきらよう
だい1連隊れんたいちょう 大佐たいさ きむあつしすすむ
だい13連隊れんたいちょう 大佐たいさ かんにちらい 国共こっきょう内戦ないせん東北とうほく野戦やせんぐん独立どくりつだい4だい1だん政治せいじ委員いいん[68]
だい15連隊れんたいちょう 大佐たいさ かおるみなみ[ちゅう 9]
砲兵ほうへい連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ ちょう宇哲
だい105戦車せんしゃ旅団りょだん 旅団りょだんちょう 少将しょうしょう やなぎきょう
文化ぶんかふく旅団りょだんちょう 安東あんどう
技術ぎじゅつふく旅団りょだんちょう ほおイルム
박일무
こう麗人れいじん[78]
だい107連隊れんたいちょう 大佐たいさ チェ・ウシク
최우식
だい107連隊れんたい技術ぎじゅつふく連隊れんたいちょう サングォン
리상권
日本にっぽんぐん運転うんてんしゅとして勤務きんむ[79]
だい109連隊れんたいちょう 大佐たいさ きむテリョン
김태련
鉄道てつどう駅員えきいん炭鉱たんこう賃金ちんぎん計算けいさんいんとして活動かつどう[78]
だい109連隊れんたい参謀さんぼうちょう チョン・ガン
정강
朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐん出身しゅっしん[78]
だい203連隊れんたいちょう 大佐たいさ チェ・リュルソク
최율석
だい3警備けいび旅団りょだん 旅団りょだんちょう 少将しょうしょう ちぇけん
だい13師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう ちぇいさむすすむ
だい15師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう ぼくしげるあきら
参謀さんぼうちょう 大佐たいさ きむいく 日本にっぽんぐん志願しがんへい上等じょうとうへい出身しゅっしん[80]
だい2軍団ぐんだん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい2軍団ぐんだん[81] 軍団ぐんだんちょう 中将ちゅうじょう 金光かねみつ
文化ぶんかふく軍団ぐんだんちょう 少将しょうしょう はやしうみ
参謀さんぼうちょう 少将しょうしょう ちぇひとし
作戦さくせん部長ぶちょう そう がくきゅう
作戦さくせん課長かちょう 大佐たいさ きょうひがし[82] 1951ねんはる韓国かんこく帰順きじゅん[83]
偵察ていさつ参謀さんぼう 少佐しょうさ きむひろしいさむ[84]
工兵こうへい部長ぶちょう 中佐ちゅうさ はじめもと
工兵こうへいふく部長ぶちょう 少佐しょうさ しゅさかえぶく
だい2師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう あおまつ
参謀さんぼうちょう そう げん
工兵こうへいちょう 中佐ちゅうさ きのえやすし[84]
だい4連隊れんたいちょう 大佐たいさ ソンホ
이성호
だい6連隊れんたいちょう 大佐たいさ チョン・ビョンガプ
전병갑
だい17連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ 全文ぜんぶん
砲兵ほうへい連隊れんたいちょう 大佐たいさ やすギョクホ
안격호
はしほう大隊だいたいちょう 中佐ちゅうさ げんあきら
工兵こうへい大隊だいたい参謀さんぼうちょう 少佐しょうさ 卞庸いち[85]
だい5師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう きむ昌徳まさのり 朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐん出身しゅっしん[86]
文化ぶんかふく師団しだんちょう そう ちょうぶく
砲兵ほうへいふく師団しだんちょう そう ぼく松波まつなみ
参謀さんぼうちょう そう ちょうひろし[86]
だい10連隊れんたいちょう 大佐たいさ ぼく正徳まさのり
だい11連隊れんたいちょう 大佐たいさ きむおおとりあや
だい12連隊れんたいちょう 大佐たいさ おうあきら
砲兵ほうへい連隊れんたいちょう 大佐たいさ くるまひとし
工兵こうへい大隊だいたいちょう 大尉たいい[ちゅう 10] 金元かねもと[88] 日本にっぽんぐん工兵こうへい出身しゅっしん軍曹ぐんそう[87][ちゅう 11]らく東江あがりえ渡河とか作戦さくせん溺死できししたとわれている[88]
だい12師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう ぜん
文化ぶんかふく師団しだんちょう きむつよし[89] 朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐん出身しゅっしん
参謀さんぼうちょう そう いけ炳学
だい30連隊れんたいちょう 大佐たいさ ちぇまなぶくん 朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐん出身しゅっしん[86]
だい31連隊れんたいちょう 大佐たいさ 原城はらのじょう
だい32連隊れんたいちょう 大佐たいさ ひがしはな
砲兵ほうへい連隊れんたいちょう 大佐たいさ まごおうさん
だい1警備けいび旅団りょだん 旅団りょだんちょう 少将しょうしょう はくりゅう
だい766部隊ぶたい 部隊ぶたいちょう そう 呉振宇ごしんう

韓国かんこくぐん[編集へんしゅう]

陸軍りくぐん本部ほんぶ[90]
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
参謀さんぼう総長そうちょう 少将しょうしょう 蔡秉とく
作戦さくせん参謀さんぼう副長ふくちょう じゅんしょう ひのといちけん アメリカ滞在たいざい[90]
行政ぎょうせい参謀さんぼう副長ふくちょう 大佐たいさ 金白かなしろいち 作戦さくせん参謀さんぼう副長ふくちょう兼務けんむ[90]
高級こうきゅう副官ふっかん 大佐たいさ ちぇ慶萬けいまん
作戦さくせん局長きょくちょう 大佐たいさ ちょうあきらこく 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
作戦さくせんきょく次長じちょう 大佐たいさ ぼく林恒はやしつね 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
作戦さくせん課長かちょう 中佐ちゅうさ ちょうらい 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
情報じょうほう局長きょくちょう 大佐たいさ ちょうみやこ
情報じょうほう室長しつちょう [ちゅう 12] ぼく正煕せいき
北韓ほっかん班長はんちょう 中尉ちゅうい 金鍾泌きんしょうひつ
人事じんじ局長きょくちょう 大佐たいさ さる尙澈 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
軍需ぐんじゅ局長きょくちょう 大佐たいさ 楊国鎮
法務ほうむかん 大佐たいさ 楊正しゅう
医務いむかん 大佐たいさ いん致旺
財務ざいむかん 中佐ちゅうさ ていまん 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん、1950ねん6がつ30にち戦死せんし
監察かんさつかん 大佐たいさ あん椿つばきせい
砲兵ほうへいかん 大佐たいさ さるおうひとし 実務じつむ教育きょういく団長だんちょうとして日本にっぽん滞在たいざいちゅう[93][94]
兵站へいたんかん 大佐たいさ いんしげる 満州まんしゅう国軍こくぐん出身しゅっしん
兵器へいきかん 大佐たいさ 沈彦俸
工兵こうへいかん 大佐たいさ ちぇあきらうえ
調達ちょうたつかん 中佐ちゅうさ かねしょうぶく 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん
通信つうしんかん 大佐たいさ 曺應てん
厚生こうせいかん 中佐ちゅうさ ちょうこうちん 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん
憲兵けんぺい司令しれいかん 大佐たいさ そう堯讃

当時とうじ上層じょうそう日本にっぽんぐん満州まんしゅう国軍こくぐん佐官さかん尉官いかんであったひとけんぐん初期しょき入隊にゅうたいしたひと要職ようしょくめており、戦略せんりゃく戦術せんじゅつ能力のうりょくそなえ、国防こくぼう基本きほん方針ほうしん年度ねんど防衛ぼうえい計画けいかくなどを案出あんしゅつするちからったひとはいなかったとわれている[95]日本にっぽんぐん少佐しょうさであった蔡秉とく参謀さんぼう総長そうちょう兵器へいき関連かんれん勤務きんむ終始しゅうしし、大佐たいさ中佐ちゅうさきゅう人達ひとたちさえ配属はいぞく将校しょうこう兵事へいじ関連かんれん勤務きんむおお防衛ぼうえい計画けいかくなどにれる勤務きんむ経験けいけんはなかった[95]

韓国かんこく陸軍りくぐん本部ほんぶ作戦さくせん系統けいとうとソウルの直接ちょくせつ防御ぼうぎょてていた部隊ぶたい高級こうきゅう幹部かんぶ日本にっぽん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう出身しゅっしんしゃかためていた[96]。しかしかれらは複数ふくすう師団しだん運用うんようした経験けいけんはなく、その教育きょういく十分じゅうぶんけていなかった[96]陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうの蔡秉とく少将しょうしょう首都しゅと警備けいび司令しれいかんかねさん大佐たいさ日本にっぽん陸士りくし49期生きせいであったが、蔡秉とく兵器へいき専門せんもん実戦じっせん経験けいけんがなく、かねさん工兵こうへいであった[97]政府せいふ方面ほうめん担当たんとうしただい7師団しだんちょうりゅうおきじゅんしょうは55作戦さくせん局長きょくちょうちょうあきらこく大佐たいさは59作戦さくせん課長かちょうちょうらい赫中は58であったが、日本にっぽん陸軍りくぐん大学だいがく入学にゅうがくしたものはいなかった[97]作戦さくせん参謀さんぼう副長ふくちょうひのといちけんじゅんしょう満州まんしゅう陸軍りくぐん高等こうとう軍事ぐんじ学校がっこう日本にっぽん陸軍りくぐん大学だいがく相当そうとう)をていたが、開戦かいせんにはアメリカ視察しさつちゅうであり、行政ぎょうせい参謀さんぼう副長ふくちょう金白かなしろいち大佐たいさ作戦さくせん全般ぜんぱん差配さはいふるっていた[97]金白かなしろいちはゲリラ討伐とうばつ名手めいしゅであったため[ちゅう 13]正規せいきせんでもゲリラ討伐とうばつ手法しゅほう適用てきようし、政府せいふ方面ほうめん逐次ちくじ投入とうにゅう指導しどうした[99]

開戦かいせん直前ちょくぜんの6がつ10日とおか人事じんじ異動いどうおこなわれ、だい一線いっせん師団しだんちょう3めい交替こうたいした[100]だい8師団しだんとおるじゅんしょうからしげるけい大佐たいさだい6師団しだんさる尙澈大佐たいさからきむかね大佐たいさだい7師団しだんちょうしゅんうえじゅんしょうからりゅうきょうじゅんしょうわり、3めい師団しだんちょう初度しょど巡視じゅんします程度ていど時間じかんしかなかった[100]。また高級こうきゅう幹部かんぶおおくはかく実施じっし学校がっこう在籍ざいせきちゅう、あるいは留学りゅうがく海外かいがい視察しさつちゅうで、本来ほんらい任務にんむいていなかった[93]

半島はんとう韓国かんこくぐん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい17連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ はくひとし
だい1大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ きむ禧泰
だい2大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ そうとらりん
だい3大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ えきけい
だい7砲兵ほうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ ほお廷鎬
開城かいじょう・汶山方面ほうめん韓国かんこくぐん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい1師団しだん 師団しだんちょう 大佐たいさ はくよし 歩兵ほへい学校がっこう高級こうきゅう課程かてい入校にゅうこうちゅう[93]
参謀さんぼうちょう 大佐たいさ いしぬしがん
作戦さくせん参謀さんぼう 少佐しょうさ きむいさおしゅん 日本にっぽんぐん志願しがんへい出身しゅっしん[101]
後方こうほう参謀さんぼう 中佐ちゅうさ ほお璟遠[102] 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん
だい11連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ ちぇけいろく
だい12連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ 全盛ぜんせい
だい13連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ かねえきれつ
だい6砲兵ほうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ
工兵こうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ ちょうおさむいん
増援ぞうえん
教導きょうどう連隊れんたい 連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ 兪海濬[103]
ふく連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ きむあずまあきら[103]
作戦さくせん参謀さんぼう 少佐しょうさ りゅう[104]
こう教導きょうどう隊長たいちょう 少佐しょうさ きむ秉化 日本にっぽんぐん志願しがんへい出身しゅっしん[105]
陸士りくし教導きょうどう隊長たいちょう 少佐しょうさ きむおういさむ
だい15連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ ちぇ栄喜えいき
だい3大隊だいたいちょう 少佐しょうさ ちぇ炳淳
だい20連隊れんたい だい3大隊だいたいちょう 少佐しょうさ ぼくひろしひがし[106]
政府せいふ方面ほうめん韓国かんこくぐん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい7師団しだん 師団しだんちょう じゅんしょう りゅうきょう 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
参謀さんぼうちょう 大佐たいさ きむ鍾甲 だい25連隊れんたい移駐いちゅう監督かんとくするため、ゆたか出張しゅっちょうちゅう[107]
情報じょうほう参謀さんぼう 少佐しょうさ [108]
だい1連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ 咸俊鎬
だい9連隊れんたい 連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ いんはる
だい25連隊れんたい 連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ きむ炳徽 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん、1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[109]
だい8砲兵ほうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ 圭三けいぞう
工兵こうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ もと弼殷
増援ぞうえん
首都しゅと警備けいび司令しれい 司令しれいかん 大佐たいさ 鍾賛
だい2師団しだん 師団しだんちょう じゅんしょう とおる
春川はるかわ洪川こうせん方面ほうめん韓国かんこくぐん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい6師団しだん 師団しだんちょう 大佐たいさ きむかね 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
参謀さんぼうちょう 中佐ちゅうさ こう時福ときよし[110]
作戦さくせん参謀さんぼう 中佐ちゅうさ りょうなか[110] 日本にっぽんぐん志願しがんへい出身しゅっしん
だい2連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ 咸炳ぜん
ふく連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ きむおおとり 日本にっぽんぐん志願しがんへい出身しゅっしん
だい1大隊だいたいちょう 中佐ちゅうさ ほお魯圭 日本にっぽんぐん志願しがんへい出身しゅっしん、1951ねん3がつ戦死せんし
だい2大隊だいたいちょう 少佐しょうさ きむしょうりゅう
だい3大隊だいたいちょう 少佐しょうさ 雲山くもやま
だい7連隊れんたい 連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ はやし富澤とみざわ
だい1大隊だいたいちょう 少佐しょうさ きむりゅうつちかえ
だい2大隊だいたいちょう 少佐しょうさ きむ鍾洙
だい3大隊だいたいちょう 少佐しょうさ しるしせい
だい19連隊れんたい 連隊れんたいちょう 大佐たいさ 閔丙けん 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん陸軍りくぐん参謀さんぼう学校がっこう入校にゅうこうちゅう[111]
だい1大隊だいたいちょう 少佐しょうさ ちぇ炳黙
だい2大隊だいたいちょう 少佐しょうさ ちぇすずらく
だい3大隊だいたいちょう 少佐しょうさ きむかんいさお
だい16砲兵ほうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ きむきよし
工兵こうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ ぼくただしさい
東海岸ひがしかいがん韓国かんこくぐん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい8師団しだん 師団しだんちょう 大佐たいさ しげるけい 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
参謀さんぼうちょう 中佐ちゅうさ ちぇかぶとちゅう 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん
だい10連隊れんたい 連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ 高根たかねひろし 日本にっぽんぐん志願しがんへい出身しゅっしん
だい21連隊れんたい 連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ きむひろしつちかえ
だい18砲兵ほうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 少佐しょうさ ちょうかのえせき
工兵こうへい大隊だいたい だい隊長たいちょう 大尉たいい かねだま 満州まんしゅう国軍こくぐん出身しゅっしん
ソウルの警備けいび陸軍りくぐん本部ほんぶ直轄ちょっかつ部隊ぶたい
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
首都しゅと警備けいび司令しれい 司令しれいかん 大佐たいさ 鍾賛 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
だい3連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ しょう とおる実弟じってい日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん。1950ねん9がつ戦死せんし。1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[109]
だい8連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ じょかね 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[109]陸軍りくぐん参謀さんぼう学校がっこう入校にゅうこうちゅう[58]
だい18連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ にんちゅううえ
陸本くがほん直轄ちょっかつ 機甲きこう連隊れんたいちょう 大佐たいさ りゅうきょうもり 日本にっぽんぐん学徒がくとへい出身しゅっしん
後方こうほう韓国かんこく軍師ぐんしだん
役職やくしょく 階級かいきゅう 氏名しめい 備考びこう
だい2師団しだん 師団しだんちょう じゅんしょう とおる 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[91]
参謀さんぼうちょう 大佐たいさ ちぇ昌彦まさひこ
作戦さくせん参謀さんぼう 中佐ちゅうさ あきら[112]
情報じょうほう参謀さんぼう 中佐ちゅうさ まろうどあきらあきら[112]
人事じんじ参謀さんぼう 少佐しょうさ ちょうくもづる[112]
軍需ぐんじゅ参謀さんぼう 少佐しょうさ くるまこうてん[112]
だい5連隊れんたいちょう代理だいり 中佐ちゅうさ ぼくはじめなり[ちゅう 14] 釜山ぷさん出張しゅっちょうちゅう[113]
だい16連隊れんたいちょう 大佐たいさ ぶんよういろどり 1950ねん6がつ10日とおか補任ほにん[109]
だい3師団しだん 師団しだんちょう 大佐たいさ りゅうますれつ
参謀さんぼうちょう 中佐ちゅうさ あなこく 陸軍りくぐん参謀さんぼう学校がっこう入校にゅうこうちゅう[114]
だい22連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ きょうやすしさとし
だい23連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ きむはじめもと
陸軍りくぐん報国ほうこく大隊だいたいちょう
だい5師団しだん 師団しだんちょう 少将しょうしょう おうしゅん
だい15連隊れんたいちょう 大佐たいさ ちぇ栄喜えいき 陸軍りくぐん参謀さんぼう学校がっこう入校にゅうこうちゅう[115]
だい20連隊れんたいちょう 中佐ちゅうさ ぼくはじめへい
だい1独立どくりつ大隊だいたいちょう

戦闘せんとう経過けいか[編集へんしゅう]

開戦かいせん[編集へんしゅう]

1950ねん6がつ25にち午前ごぜん4北朝鮮きたちょうせんぐん半島はんとうにおいて攻撃こうげき準備じゅんび射撃しゃげき開始かいしした。射撃しゃげき信号しんごうだんによる合図あいずとともに順次じゅんじひがしけて拡大かくだいし、午前ごぜん5ごろには東海岸ひがしかいがんにおいても開始かいしされた。投入とうにゅうされた火力かりょくは、38せん全線ぜんせんほうせりけい3,000もんおよんだ[ちゅう 15]。これに先立さきだって午前ごぜん1半島はんとうだい17連隊れんたいてき接近せっきんを偵知し、緊急きんきゅうでんによりこれを陸軍りくぐん本部ほんぶ急報きゅうほうした。3にはだい1師団しだん、さらに330ふんにはだい7師団しだんてき攻勢こうせい準備じゅんび報告ほうこくした。これにつづき、北朝鮮きたちょうせんぐん計画けいかくどおり38せん越境えっきょうし、攻撃こうげき開始かいしした。

一方いっぽう韓国かんこくぐん北朝鮮きたちょうせんぐん南侵なんしん警戒けいかいして、6月11にちより非常ひじょう警戒けいかい態勢たいせいにあったが、なんらの兆候ちょうこうつかめなかったため、23にち午前ごぜん0けでこれを解除かいじょしていた。よく24にちよるには蔡秉とく命令めいれい諜報ちょうほうたい潜入せんにゅうしていたが、北朝鮮きたちょうせんぐん包囲ほういされたため、かれらが陸軍りくぐん本部ほんぶ出頭しゅっとうしたのは攻撃こうげきはじまってしばらくったのちのことだった[117]

また砲撃ほうげきこったさい幹部かんぶおおくが研修けんしゅう留学りゅうがくのために手薄てうす状態じょうたいであり、またわずか2週間しゅうかんほどまえ人事じんじ異動いどう着任ちゃくにんしたばかりのあたらしい将校しょうこう部隊ぶたい掌握しょうあくできていなかった。さらに農繁期のうはんきだったため、かく部隊ぶたい兵士へいしたち外出がいしゅつ外泊がいはく休暇きゅうかみとめており、やく3ぶんの1の兵力へいりょくけていた。

また前日ぜんじつよるには陸軍りくぐん会館かいかん将校しょうこうクラブの落成らくせいパーティーがひらかれており、高級こうきゅう将校しょうこうおおくが夜半やはんまでうたげ参加さんかしていた。非常ひじょう召集しょうしゅうけた将校しょうこうには二日酔ふつかよいのものおおかった。

韓国かんこくぐんはこれ以前いぜんにもメーデーそう選挙せんきょにあわせて非常ひじょう警戒けいかい態勢たいせいをとっており、その合計ごうけいは45にちにもおよんでいた。

半島はんとう[編集へんしゅう]

半島はんとうにおける北朝鮮きたちょうせんぐん攻撃こうげき部隊ぶたいは、上述じょうじゅつだい6師団しだんだい1連隊れんたいくわえ、内務省ないむしょう管轄かんかつだい3警備けいび旅団りょだん合計ごうけい6800めいであった。これにたいする韓国かんこくぐんだい17連隊れんたいは、この前日ぜんじつより北朝鮮きたちょうせんぐん様子ようす尋常じんじょうでないことをさっし、警戒けいかい態勢たいせい強化きょうかし、戦闘せんとう配置はいちおこなっていた。しかし北朝鮮きたちょうせんぐん攻撃こうげき部隊ぶたい兵力へいりょくやく2ばいはん装備そうび優越ゆうえつしており、午前ごぜん6にはだい1大隊だいたいしゅ抵抗ていこうせん突破とっぱされた。連隊れんたいちょうはただちにだい2大隊だいたい逆襲ぎゃくしゅう命令めいれいし、これは成功せいこうしたが、今度こんどだい3大隊だいたい後退こうたい余儀よぎなくされた。17には連隊れんたい分断ぶんだんされ、事態じたい絶望ぜつぼうしたアメリカぐん顧問こもん5めい連絡れんらくでソウルに退避たいひし、連隊れんたい撤退てったい要請ようせいした。よく26にちあさだい17連隊れんたい主力しゅりょく派遣はけんされた3せきLST分乗ぶんじょうして撤退てったいした。また、逆襲ぎゃくしゅう成功せいこうしただい2大隊だいたいは、だい1大隊だいたい落伍らくごへい収容しゅうようしつつ、民間みんかん船舶せんぱくによって撤退てったいした。

開城かいじょう・汶山-たてまつ日川にっかわ[編集へんしゅう]

この地域ちいき守備しゅびする韓国かんこくぐんだい1師団しだんは、だい12連隊れんたい開城かいじょう正面しょうめん)とだい13連隊れんたい高浪たかなみうら正面しょうめん)を前方ぜんぽう配置はいちし、だい11連隊れんたい水色みずいろにおいて予備よびとしていた。

開城かいじょうにおいては、地域ちいき一帯いったいせい高点こうてんであるまつ嶽山たけやま朝鮮ちょうせんばん標高ひょうこう486m)が北緯ほくい38せん北側きたがわにあったため、韓国かんこくぐんだい12連隊れんたい陣地じんち北朝鮮きたちょうせんぐんによって見下みおろされる状態じょうたいにあったうえに、このあさおおくの兵員へいいん休暇きゅうか外泊がいはくによって配置はいちはずれており、じつ勢力せいりょくは1461めい[118]であった。まただい12連隊れんたい正面しょうめんは70キロもあり、きたつうずる道路どうろ戦術せんじゅつじょうせい高点こうてんさえるために兵力へいりょく分散ぶんさんしていた[51]。この方面ほうめんには、北朝鮮きたちょうせんぐんだい6師団しだん主力しゅりょく2連隊れんたい指向しこうされていたが、このうちだい13連隊れんたいまつ岳山たけやま足場あしば韓国かんこくぐんだい12連隊れんたいだい2大隊だいたい防御ぼうぎょ陣地じんちにいくらかの兵力へいりょく浸透しんとうさせ、一部いちぶ兵力へいりょく迂回うかいして後方こうほうから攻撃こうげきすることによって瞬時しゅんじ韓国かんこくぐん陣地じんち無力むりょくさせ、だい15連隊れんたい攻撃こうげき準備じゅんび射撃しゃげき同時どうじに1ばん道路どうろ沿って開城かいじょう突進とっしんした[119]。6北朝鮮きたちょうせんぐん開城かいじょう突入とつにゅうし、開城かいじょう鉄道てつどう警察けいさつ交戦こうせんした[120][ちゅう 16]韓国かんこくぐんだい12連隊れんたい奇襲きしゅうによって崩壊ほうかいしたため、北朝鮮きたちょうせんぐん迅速じんそく開城かいじょうないかく道路どうろ封鎖ふうさ遮断しゃだんすることで韓国かんこくぐんだい12連隊れんたい本部ほんぶ支援しえん早期そうきち、開城かいじょう鉄道てつどう警察けいさつたい退路たいろ遮断しゃだんした[125]。やがて北朝鮮きたちょうせんぐん戦車せんしゃ5りょう開城かいじょう侵入しんにゅうし、730ふんにはのこされた警察けいさつ隊員たいいん最後さいご突撃とつげき敢行かんこうし、北朝鮮きたちょうせんぐん集中しゅうちゅう射撃しゃげきけて戦死せんしした[126]だい12連隊れんたいのうち、組織そしきてき後退こうたい成功せいこうしたのは連隊れんたい本部ほんぶと2中隊ちゅうたいのみであった。開城かいじょう占領せんりょうした北朝鮮きたちょうせんぐんだい6師団しだん韓国かんこくぐん追撃ついげきし、金浦このうら方面ほうめん進攻しんこうした[127]

高浪たかなみうら韓国かんこくぐんだい13連隊れんたいは、5ごろより北朝鮮きたちょうせんぐんによる砲兵ほうへい射撃しゃげきけ、これにつづだい203戦車せんしゃ連隊れんたいの40りょうのT-34戦車せんしゃ支援しえんけた北朝鮮きたちょうせんぐんだい1師団しだん攻撃こうげきけた。これにたいし、だい13連隊れんたいはまず57mmたい戦車せんしゃほう射撃しゃげきをしたものの効果こうかく、爆雷ばくらい梱包こんぽう爆薬ばくやく爆薬ばくやくなどによる肉薄にくはく攻撃こうげきいたった。これによって戦車せんしゃ4りょう撃破げきはしたものの、だい一波いっぱやく90めい全員ぜんいん戦死せんししたため、のちつづくものがいなくなり、ついに北朝鮮きたちょうせんぐん戦車せんしゃたい陣地じんち蹂躙じゅうりんするにいたった。これをけて韓国かんこくぐんだい13連隊れんたいはそれ以上いじょう防御ぼうぎょ戦闘せんとう断念だんねんして、効果こうかてき遅滞ちたい戦闘せんとうおこないつつ、計画けいかくどおりに臨津江つえ南岸なんがん、坡平やま既設きせつ陣地じんち移動いどうした[128]

一方いっぽう水色みずいろにあっただい11連隊れんたいだい1師団しだん司令しれい秩序ちつじょよく北上ほくじょうし、だい13連隊れんたい左翼さよく連係れんけいして、汶山付近ふきんの臨津江つえ南岸なんがん陣地じんち進入しんにゅうした。臨津全体ぜんたい水量すいりょう豊富ほうふで、渡河とかは臨津江つえ鉄橋てっきょうか、またはだい7師団しだんとの境界きょうかい地域ちいきにあるカヨウルにおいておこなうしかなかった。このため、だい1師団しだんは臨津江北こうほくがん部隊ぶたい撤退てったい、臨津江つえ鉄橋てっきょう爆破ばくはする計画けいかくであった。しかし、壊乱かいらんしただい12連隊れんたい、および休暇きゅうか外泊がいはくちゅうだった将兵しょうへいが臨津江つえ鉄橋てっきょうわたって三々五々さんさんごごと臨津江つえ南岸なんがん集結しゅうけつしつつあったため、爆破ばくはするタイミングの判断はんだん困難こんなんであった。さらに、北朝鮮きたちょうせんぐんだい12連隊れんたい後衛こうえい混交こんこう状態じょうたい急追きゅうついしたため、ついにだい1師団しだん鉄橋てっきょう爆破ばくは失敗しっぱいし、はし無傷むきず北朝鮮きたちょうせんぐんちた。しかし臨津活用かつようした河川かせん防御ぼうぎょ、およびだい1師団しだんちょう適切てきせつ陣頭じんとう指揮しきにより、25にち戦闘せんとう韓国かんこくぐん優勢ゆうせいのうちに推移すいいし、北朝鮮きたちょうせんぐん進撃しんげき阻止そしされていた[128]

ひがしまめがわだきがわ-政府せいふ[編集へんしゅう]

北朝鮮きたちょうせん計画けいかくし、韓国かんこく予想よそうしたとおり、北朝鮮きたちょうせんぐんしゅおさむはこの方面ほうめん指向しこうされた。北朝鮮きたちょうせんぐんだい3師団しだんくもかわからだきかわに、だい4師団しだんさざなみかわからひがしまめかわけ、それぞれだい109、だい107戦車せんしゃ連隊れんたい支援しえんけつつ、急速きゅうそく前進ぜんしんした。この方面ほうめん守備しゅびする韓国かんこくぐんだい7師団しだん事実じじつじょう2連隊れんたい基幹きかんとなっており、だい1連隊れんたい[ちゅう 17]ひがしまめかわ正面しょうめんを、だい9連隊れんたいだきかわ正面しょうめん担当たんとうし、予備よびたい存在そんざいしなかった。このため、かく部隊ぶたい配置はいちうとになっており、とくだい1連隊れんたいは、だい2大隊だいたい北朝鮮きたちょうせんぐん強力きょうりょくせん協同きょうどう部隊ぶたい激戦げきせんちゅうであるにもかかわらず、の2大隊だいたいせってきすらしていないという状況じょうきょうにあった。だい2大隊だいたい勇戦ゆうせん敢闘かんとうしたものの弾薬だんやくさい補給ほきゅうけられず、15ごろよりおも抵抗ていこうせん突破とっぱされはじめた。北朝鮮きたちょうせんぐんはそのいきおいをり、夕刻ゆうこくにはひがしまめかわ市内しない突入とつにゅうした。韓国かんこくぐんだい1連隊れんたい後退こうたいし、集結しゅうけつしたが、通信つうしん途絶とぜつによりだい1大隊だいたいには後退こうたい命令めいれいつたわらなかった。

一方いっぽうだきかわ正面しょうめん韓国かんこくぐんだい9連隊れんたいは、連隊れんたいちょう処置しょちによりぜん将兵しょうへいが営内待機たいきしていた。これにたいする北朝鮮きたちょうせんぐんだい3師団しだんは、部隊ぶたいより20ふんはやい340ふんより攻勢こうせい準備じゅんび射撃しゃげき開始かいしし、だい109戦車せんしゃ連隊れんたい戦車せんしゃ40りょう先頭せんとうにしたしゅおさむはり文里もりからだきかわいたる43号線ごうせん指向しこうする一方いっぽうはり文里もり西方せいほうなが平里ひらさとからだき川北かわきたがわろうやまいたじくせんじょおさむ指向しこうし、だい9連隊れんたい主力しゅりょく後方こうほう遮断しゃだんしようとこころみたが、この方面ほうめん配置はいちされていた前哨ぜんしょう中隊ちゅうたい抵抗ていこうによってこれは失敗しっぱいした。しかしせん協同きょうどう攻撃こうげきにより韓国かんこくぐん圧倒あっとうされ、9にはしゅ抵抗ていこうせんまで後退こうたいしていた。だい9連隊れんたい頑強がんきょう抵抗ていこうしたが、予備よび陣地じんちまでてき蹂躙じゅうりんされ、だい7師団しだんとの連絡れんらく途絶とぜつしたことから、連隊れんたいちょう独断どくだんで17ごろよりひかりりょうへの後退こうたい実施じっしした。このさいだい3大隊だいたいには命令めいれいつたわらず、陣地じんち固守こしゅしていたために後退こうたい時期じきいっし、だい損害そんがいけた。

だい7師団しだんよりソウルの首都しゅと警備けいび司令しれい隷属れいぞくえされていただい3連隊れんたいは11だい7師団しだんへの配属はいぞく命令めいれいけ、この時点じてん召集しょうしゅうされていた600めいを2大隊だいたい臨時りんじ編成へんせいして、だい3大隊だいたいちょう指揮しきだきかわかった。連隊れんたいちょうだきがわ連隊れんたい合流ごうりゅうし、同市どうし南方なんぽうまつすみさと応急おうきゅう陣地じんち配備はいび決心けっしんしたが、配備はいび完了かんりょう以前いぜん戦車せんしゃ7~8りょうふく北朝鮮きたちょうせんぐん機甲きこう部隊ぶたい攻撃こうげきけた。だい3連隊れんたい圧倒あっとうされて連隊れんたいちょう行方ゆくえ不明ふめいになり、だい3大隊だいたいちょう指揮しき後退こうたいした。

北朝鮮きたちょうせんぐん開戦かいせん当日とうじつひがしまめ川道かわみち正面しょうめんで8キロ、だき川道かわみち正面しょうめんで10キロを突破とっぱした。これにたいし、韓国かんこくぐんだい7師団しだん開戦かいせん当日とうじつひがしまめがわだきかわ奪取だっしゅされ、部隊ぶたい分散ぶんさんし、政府せいふ防御ぼうぎょ危険きけん状況じょうきょうおちいっていた。韓国かんこくぐん陸軍りくぐん本部ほんぶはこの状況じょうきょう認識にんしきしており、上述じょうじゅつのようにだい3連隊れんたいだい7師団しだん復帰ふっきしたほか、午後ごごにはだい18連隊れんたい1個いっこ大隊だいたいかけ)にくわえ、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう部隊ぶたい追加ついか配属はいぞくされた。さらに到着とうちゃくしはじめた後方こうほう警戒けいかい部隊ぶたい政府せいふ正面しょうめん投入とうにゅうされ、最終さいしゅうてきに、25にちから26にちにかけて政府せいふ方面ほうめん増援ぞうえんされた部隊ぶたいは5連隊れんたいけい15大隊だいたいおよんだ。しかしこれら部隊ぶたいは、非常ひじょう召集しょうしゅうによって集結しゅうけつした順序じゅんじょのままの臨時りんじ編成へんせい投入とうにゅうされており、指揮しき系統けいとう確立かくりつがまったくなされておらず、また逐次ちくじ投入とうにゅうされたため、これらの増援ぞうえん部隊ぶたい所期しょき戦闘せんとうりょく発揮はっきすることができず、各個かっこ撃破げきはされる結果けっかとなった[129]

春川はるかわ洪川こうせん正面しょうめん[編集へんしゅう]

中部ちゅうぶ戦線せんせん守備しゅびする韓国かんこくぐんだい6師団しだんは、防御ぼうぎょ地域ちいき西側にしがわ南北なんぼくながれるきた漢江かんこうと、前方ぜんぽう横切よこぎあきら利用りようして、だい7連隊れんたい春川はるかわ正面しょうめんにおいてあきら北岸ほくがんに、だい2連隊れんたい[ちゅう 18]洪川こうせん正面しょうめんにおいてあきら南岸なんがん前方ぜんぽう配置はいちし、だい19連隊れんたいはらしゅうにおいて予備よびとしていた。どう師団しだんすでに3ぶんの1の兵員へいいん外出がいしゅつ外泊がいはくしていた[ちゅう 19]が、独自どくじ情報じょうほう判断はんだんもとづき警戒けいかい態勢たいせいをとっていた。ただし、だい2連隊れんたいは6がつ20日はつか編入へんにゅうされてだい8連隊れんたい交替こうたいしたばかり[130]であり、だい19連隊れんたいも5月1にち編入へんにゅうされたばかりで、態勢たいせいはいまだととのっていない状態じょうたいであった。これにたいする北朝鮮きたちょうせんぐんは、だい2師団しだんおもおさむとして春川はるかわ攻撃こうげきし、25にちちゅうにこれを占領せんりょうするとともに、だい12師団しだん独立どくりつ戦車せんしゃ連隊れんたい増強ぞうきょうして洪川こうせん方面ほうめん突進とっしんさせ、早期そうきにこれを占領せんりょうしたのち、迂回うかいしてソウルを包囲ほういする計画けいかくであった。

だい7連隊れんたい正面しょうめん、38せん南側みなみがわ300mにある毛津けづきょうは、きた漢江かんこう渡河とかにおいて重要じゅうようはしであったが、北朝鮮きたちょうせんぐんの瞰制にあったためにこれを爆破ばくはできず、だい7連隊れんたい防御ぼうぎょ一気いっきくずれてしまった。北朝鮮きたちょうせんぐん迅速じんそく進撃しんげきもあってだい7連隊れんたい遅滞ちたい失敗しっぱいし、北朝鮮きたちょうせんぐんどう25にち9ごろには春川はるかわえる付近ふきんまで進出しんしゅつし、いったん進撃しんげきめた。しかしだい7連隊れんたい戦闘せんとう配置はいち迅速じんそくかつ整然せいぜん進行しんこうし、また対戦たいせんしゃ中隊ちゅうたいだい2小隊しょうたい小隊しょうたいちょう沈鎰少尉しょうい)が北朝鮮きたちょうせんぐんはしほう破壊はかい成功せいこうしたことで、戦車せんしゃたいする恐怖きょうふしんうすれていた[131][132][ちゅう 20]。この方面ほうめん攻撃こうげき担当たんとうした北朝鮮きたちょうせんぐんだい2師団しだん春川はるかわ攻略こうりゃくにあたって、だい4連隊れんたい正面しょうめん攻撃こうげきによって韓国かんこくぐん牽制けんせいし、そのすきに、ひそかにだい6連隊れんたいきた漢江かんこう河床かしょう前進ぜんしんさせ、中央ちゅうおう突破とっぱしようとした。しかしだい6連隊れんたいは、韓国かんこくぐんの105mm榴弾りゅうだんほう直接ちょくせつ射撃しゃげきけ、河床かしょうとあって遮蔽しゃへいもなく、りょうきしがけであったために退避たいひもできず、だい損害そんがいけた。また、正面しょうめん攻撃こうげきおこなっただい4連隊れんたいも、かまえていた韓国かんこくぐんもうしゃけてだい損害そんがいした。河床かしょうどうだい6連隊れんたいは、韓国かんこくぐん砲兵ほうへい集中しゅうちゅう射撃しゃげきによって50%にたっする損害そんがいけ、だい4連隊れんたい督戦とくせんけて突撃とつげきかえしたものの、攻撃こうげき頓挫とんざした[128]

一方いっぽう洪川こうせん正面しょうめんだい2連隊れんたいは、上述じょうじゅつとお隷属れいぞくえされた直後ちょくごであり、警備けいび区域くいき地形ちけい把握はあく不十分ふじゅうぶんで、だい2大隊だいたいいたっては洪川こうせん到着とうちゃくしたばかりで、装備そうび梱包こんぽうすらいていなかった。このだい2大隊だいたい予備よびとしてけつくもさと拘置こうちされ、だい1大隊だいたいさい前方ぜんぽうかんむり岱里に、だい3大隊だいたいみぎ前方ぜんぽうけんさと配置はいちされていた。これにたいする北朝鮮きたちょうせんぐんは、だい12の1個いっこ師団しだん独立どくりつ戦車せんしゃ連隊れんたい増強ぞうきょうしたもので、そのしゅおさむかんむり岱里に、じょおさむけんさと指向しこうされていた。この25にち前日ぜんじつ大雨おおあめによってあきら増水ぞうすいして韓国かんこくぐんにとって有利ゆうり障害しょうがいとなっており、かんむり岱里の韓国かんこくぐんだい2連隊れんたいだい1大隊だいたいは、かんむり岱里北方ほっぽうわた渡河とかこころみた北朝鮮きたちょうせんぐんを2にわたって撃退げきたいした。しかし北朝鮮きたちょうせんぐん猛烈もうれつ砲撃ほうげきによってどう大隊だいたいは3ぶんの2もの損害そんがいし、弾薬だんやく消耗しょうもうし、ついに後退こうたいした。また、だい2連隊れんたい警備けいび区域くいき地形ちけいてき東西とうざい分断ぶんだんされており、けんさとだい3大隊だいたいについて、連隊れんたい本部ほんぶでは所在しょざいすら把握はあくできなくなっていた。一方いっぽう予備よびとなっていただい2大隊だいたいは、かんむり岱里の南方なんぽう位置いちする於論さとまで前進ぜんしんし、後退こうたいしてきただい1大隊だいたいとともに守備しゅびについた。だい2大隊だいたい交戦こうせんによって北朝鮮きたちょうせんぐん戦車せんしゃ1りょう撃破げきは、1りょう擱坐かくざさせ、さらにぜん火力かりょく集中しゅうちゅうすることでせん分離ぶんりさせ、ついに撃退げきたい成功せいこうした。この戦果せんか勇気ゆうきだい2連隊れんたいは、この時点じてん掌握しょうあくしていた2大隊だいたいにより、翌朝よくあさをもって反撃はんげきることとした。しかしどう連隊れんたい戦闘せんとうりょくかんがえると、これは冒険ぼうけんであった。

東海岸ひがしかいがん[編集へんしゅう]

東海岸ひがしかいがん地域ちいき守備しゅびしていた韓国かんこくぐんだい8師団しだんは、前方ぜんぽう防御ぼうぎょ部隊ぶたいとしては唯一ゆいいつ2連隊れんたい基幹きかん師団しだんで、38せんだい10連隊れんたいが、後方こうほうさんのぼる予備よびとしてだい21連隊れんたい拘置こうちされていた。東海岸ひがしかいがん地域ちいきでは、6がつ中旬ちゅうじゅんにゲリラが浸透しんとうしており、だい8師団しだんはその討伐とうばつかく連隊れんたいよりけい2大隊だいたい抽出ちゅうしゅつしており、とくだい10連隊れんたいは、左翼さよくだい一線いっせんだい1大隊だいたいをゲリラ討伐とうばつ分遣ぶんけんするため、だい3大隊だいたいとの交代こうたいちゅうであった。これにたいする北朝鮮きたちょうせんぐんは、だい10連隊れんたい配属はいぞくしただい1警備けいび旅団りょだんに、ゲリラ訓練くんれんけた2連隊れんたい相当そうとうのコマンド部隊ぶたいだい766部隊ぶたいだい945陸戦りくせんたい)をくわえたものであった。だい1警備けいび旅団りょだん計画けいかくどおり、25にち4より攻勢こうせい準備じゅんび射撃しゃげき開始かいしし、しゅおさむ注文ちゅうもん指向しこうした。もとより手薄てうすになっていた国境こっきょう陣地じんちだい10連隊れんたい前方ぜんぽう部隊ぶたい即座そくざ圧倒あっとうされ、阻止そし陣地じんちでの抵抗ていこうにも失敗しっぱいし、遅滞ちたい戦闘せんとう展開てんかいしつつ後退こうたいしていた。

一方いっぽう北朝鮮きたちょうせんぐんだい945陸戦りくせんたいは、25にち早暁そうぎょうには先発せんぱつたい奇襲きしゅう上陸じょうりくさせ、燈明とうみょうほら海岸かいがん哨所にて警戒けいかいちゅうであった警官けいかん1めい射殺しゃさつしてひそかに橋頭堡きょうとうほ確保かくほ、4ごろより本隊ほんたい上陸じょうりく開始かいしし、地元じもと住民じゅうみん強制きょうせい徴用ちょうようして弾薬だんやくとう輸送ゆそうさせた。このことは、同村どうそん大韓たいかん青年せいねんだんいんによって急報きゅうほうされ、だい8師団しだんちょうは540ふんごろ報告ほうこくけた。だい945陸戦りくせんたい1個いっこ大隊だいたいこうりょうけて北上ほくじょうさせ、また1個いっこ大隊だいたいたまけい方向ほうこう南下なんかさせた。また、さらに、北朝鮮きたちょうせんぐんだい766部隊ぶたいは7ごろより臨院上陸じょうりくし、1個いっこ大隊だいたい太白たいはく山脈さんみゃく浸透しんとうし、1個いっこ大隊だいたいさんのぼる方向ほうこう北上ほくじょうした。また、一団いちだんのゲリラせんさんのぼる上陸じょうりくこころみたが、57mmたい戦車せんしゃほうにより2せき撃沈げきちんされて退却たいきゃくした[128][ちゅう 21]

だい8師団しだんちょうは、6より師団しだん作戦さくせん会議かいぎ召集しょうしゅうし、だい10連隊れんたいをもって最大限さいだいげん遅滞ちたいしつつ、さんのぼるだい21連隊れんたいこうりょう移動いどうさせ、連谷れんだにがわ沙川さがわしゅ抵抗ていこうせんてき撃滅げきめつするよう指導しどうした。また、陸軍りくぐん本部ほんぶたい1個いっこ連隊れんたい増援ぞうえん要請ようせいしたが、陸軍りくぐん本部ほんぶはこれをことわった直後ちょくごより連絡れんらく途絶とぜつした。これらの状況じょうきょうから長期ちょうきせん予感よかんした韓国かんこくぐんだい8師団しだんちょうは、25にち10して作戦さくせん地域ちいきない戒厳かいげんれい布告ふこくし、ぐん警察けいさつ家族かぞく公共こうきょう機関きかん後方こうほう避難ひなんさせるとともに、住民じゅうみん避難ひなん計画けいかく発動はつどう要請ようせいした。だい8師団しだん民間みんかんじん保護ほご計画けいかく綿密めんみつさは特筆とくひつすべきものであったので、住民じゅうみんぐん信頼しんらいし、情報じょうほう収集しゅうしゅう連絡れんらくなどの作戦さくせん支援しえんや、などの後方こうほう支援しえんすすんでけた[128][133]

燈明とうみょうほらへの北朝鮮きたちょうせんぐん上陸じょうりくけ、だい10連隊れんたいだい4中隊ちゅうたい対戦たいせんしゃ中隊ちゅうたい急派きゅうはし、だい4中隊ちゅうたいあんひとし西方せいほうにおいて北上ほくじょうしてきた北朝鮮きたちょうせんぐん部隊ぶたい撃破げきはした。また対戦たいせんしゃ中隊ちゅうたいは、あんひとし付近ふきん上陸じょうりくしつつあった船団せんだん交戦こうせんし、これを撃退げきたいした。この報告ほうこくけただい8師団しだんちょうは、みなみよりだい10連隊れんたい挟撃きょうげきしようとしている北朝鮮きたちょうせんぐん部隊ぶたい阻止そし急務きゅうむであると判断はんだんし、こうりょう南方なんぽう12kmのぐんせん防御ぼうぎょ陣地じんちきゅうへんする決心けっしんをした。しかし遅滞ちたい戦闘せんとうちゅうだい10連隊れんたい余力よりょくはなく、だい21連隊れんたいはなおさんのぼる移動いどう準備じゅんびちゅうであった。このため、だい8師団しだんちょうだい10連隊れんたいたいし、だい21連隊れんたい到着とうちゃくまでぐんせんせんまもるようめいじる一方いっぽうどう連隊れんたい1個いっこ工兵こうへい中隊ちゅうたい配属はいぞくするとともに師団しだん工兵こうへい大隊だいたい連谷れんだにがわしゅ抵抗ていこうせん配置はいちした。これをけ、だい10連隊れんたい連隊れんたい予備よびであるだい3中隊ちゅうたいぐんせん派遣はけんし、配属はいぞくされただい21連隊れんたいだい10中隊ちゅうたい1個いっこ工兵こうへい中隊ちゅうたいとともにぐんせん防御ぼうぎょ陣地じんちきゅうへんした。また、しゅ抵抗ていこうせんにおいては、増援ぞうえんされた工兵こうへい大隊だいたい援護えんごだい10連隊れんたいさい編成へんせいおこなっていた。なお、これは韓国かんこくぐん工兵こうへい歩兵ほへい戦闘せんとうおこなったはつ記録きろくである。

一方いっぽう師団しだん作戦さくせん会議かいぎののち、北朝鮮きたちょうせんぐんが臨院上陸じょうりくしたという情報じょうほう入手にゅうしゅしただい21連隊れんたいちょうは、北方ほっぽうだい1大隊だいたいをもってこれを確認かくにんさせた。どう大隊だいたいだい1中隊ちゅうたいたまけいにおいて捜索そうさくちゅう南下なんかちゅう北朝鮮きたちょうせんぐん1個いっこ中隊ちゅうたい規模きぼ発見はっけん警察けいさつおよび大韓たいかん青年せいねんだんとともにこれを壊滅かいめつさせるとともに、北朝鮮きたちょうせんぐんがパムジェにおいて道路どうろ遮断しゃだんしていることを確認かくにんした。だい21連隊れんたいちょうこうりょうへの移動いどう命令めいれいけて準備じゅんびちゅうであったが、この報告ほうこくけ、移動いどう経路けいろ内陸ないりく変更へんこうした。だい21連隊れんたい主力しゅりょくは19さんのぼるってよく26にち1030ふんごろ、ぐんせん防御ぼうぎょ陣地じんちいだ。

総括そうかつ[編集へんしゅう]

北朝鮮きたちょうせんによる奇襲きしゅうはおおむね成功せいこうし、韓国かんこくはほぼ完全かんぜん不意ふいかれたかたちとなった。また、北朝鮮きたちょうせんぐん装備そうびたびにおいても韓国かんこくぐんして相当そうとう優越ゆうえつしていた。とく戦車せんしゃについては、韓国かんこくぐん有効ゆうこう対戦たいせんしゃ火器かきけていたこともあり、韓国かんこくへい根強ねづよ恐怖きょうふしんいだかせるまでにいたり、このため、戦線せんせん全域ぜんいき北朝鮮きたちょうせんぐん優位ゆうい戦況せんきょう推移すいいした。しかし、北朝鮮きたちょうせんとはことなり、韓国かんこくへい戦意せんい旺盛おうせいで、肉薄にくはく攻撃こうげきによって戦車せんしゃ撃破げきはされるれい多々たたられた。また、前方ぜんぽう防御ぼうぎょ部隊ぶたいおおくは、河川かせん障害しょうがい錯雑さくざつ地形ちけい活用かつようしてたくみな防御ぼうぎょせん展開てんかいしており、これらの障害しょうがいけていた政府せいふ正面しょうめんのぞいて、韓国かんこくぐん防御ぼうぎょせん決定的けっていてき破綻はたんたすにはいたらなかった。しかし政府せいふ正面しょうめんにおいては、機甲きこう部隊ぶたい衝撃しょうげきりょく利用りようした北朝鮮きたちょうせんぐん攻勢こうせいにより、当初とうしょ守備しゅび部隊ぶたいであっただい7師団しだんだい損害そんがいけており、また韓国かんこく陸軍りくぐん本部ほんぶ戦力せんりょく逐次ちくじ投入とうにゅうというおかしつつあった。このため、最終さいしゅうてき政府せいふ正面しょうめん北朝鮮きたちょうせんぐんによる突破とっぱゆるし、ソウルの陥落かんらくつながることになる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 韓国かんこくぐん推定すいていした戦力せんりょくは、歩兵ほへい師団しだん6戦車せんしゃ師団しだん1個いっこ基幹きかんやく18まんめい戦車せんしゃやく170りょう、122ミリほうやく120もん航空機こうくうきやく200などであり、歩兵ほへい師団しだんすうのぞけば、ほぼ正確せいかくみきっていた[8]
  2. ^ いままでだい549陸戦りくせんたいとしてられていたが、ロシアが公開こうかいした「朝鮮ちょうせん戦闘せんとう日報にっぽう」によりだい945陸戦りくせんたい確認かくにんされた。だい945陸戦りくせんたいは1950ねん8がつ解体かいたいされ、だい24旅団りょだん統合とうごうされた[17]
  3. ^ だい2世界せかい大戦たいせんで、NLPはソ連それんぐんけい浮橋うきはし大隊だいたい運用うんようされ、200~250フィートの浮橋うきはし構築こうちくすることができ、5~14トンの重量じゅうりょう装備そうびささえることができた。N2Pはちゅう浮橋うきはし大隊だいたい運用うんようされ、325フィートの浮橋うきはし構築こうちくでき、30トンの重量じゅうりょう装備そうびささえることができた[20]
  4. ^ 側面そくめん射撃しゃげきやハッチないへの射撃しゃげきといった奇策きさくによる撃破げきははあった。なお、ドイツぐんどくせんにおいてT-34にたいして使用しようしたパンツァーシュレック口径こうけいは88mmである。
  5. ^ 戦争せんそうまえだい14連隊れんたいだい1師団しだん所属しょぞくとなり、わりにだい1連隊れんたいだい6師団しだん配属はいぞくされた。
  6. ^ 朝鮮ちょうせん戦争せんそう1』によればだい7師団しだん開戦かいせん直後ちょくごだい12師団しだん改称かいしょうしたとされている。アメリカが押収おうしゅうしたロシアぶん人民じんみんぐんそう参謀さんぼう偵察ていさつ命令めいれいあん(1950ねん6がつ18にちづけ)には「だい12師団しだん参謀さんぼうちょう」あてになってあり、きむジュンセンの『朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐんみつ入北にゅうほくろくせんそう』は関係かんけいしゃ証言しょうげんから「入国にゅうこくしてだい7師団しだんとなったが、戦時せんじだい12師団しだん改称かいしょうしたという記載きさいあやまりだ」と明言めいげんしている[40]
  7. ^ 文献ぶんけんによってはちぇひとしまたはちぇひとしとしている場合ばあいがある。
  8. ^ しゅさかえぶくによれば、実際じっさい指揮しききょうけん担当たんとうしていたので、きむ日成いるそんおおくの将官しょうかん耳目じもく意識いしき、または金策きんさく身辺しんぺん使つかったのか、もしくは金策きんさくもうによるのか、大将たいしょう階級かいきゅうあたえず、中佐ちゅうさ階級かいきゅうだったという[61]
  9. ^ かおるみなみ開戦かいせんだい10師団しだんちょうとする文献ぶんけんがあるが[73][74]だい6師団しだんだい10師団しだん所属しょぞくだった捕虜ほりょ供述きょうじゅつ[75][76][77]から、だい10師団しだんちょう就任しゅうにんしたのは開戦かいせんでそれ以前いぜんだい15連隊れんたいちょうであった。
  10. ^ 本来ほんらいであれば工兵こうへい大隊だいたいちょう中佐ちゅうさ任命にんめいされるが、日本にっぽんぐん下士官かしかんであったことから大尉たいいまりであった[87]
  11. ^ 陸戦りくせん研究けんきゅう普及ふきゅうかい日本にっぽん陸士りくし58期生きせいとしている[88]
  12. ^ 文官ぶんかんとして情報じょうほうきょく勤務きんむしていた[92]
  13. ^ かねさんは「匪賊ひぞく討伐とうばつ局地きょくちせんでは自他じたどもゆる第一人者だいいちにんしゃであったが、戦略せんりゃくろんずるひとではなかった」とひょうしている[98]
  14. ^ 連隊れんたいちょうしろみなみけん中佐ちゅうさ日本にっぽんだい1騎兵きへい師団しだん研修けんしゅうけていた[94]
  15. ^ 38せんにはタコツボ程度ていど陣地じんちしかなく、後方こうほう予備よび連隊れんたいはほとんど外泊がいはくしていたため、この準備じゅんび射撃しゃげき北朝鮮きたちょうせんぐん攻勢こうせい事前じぜん予告よこくするようなものであった[116]
  16. ^ 当時とうじ開城かいじょうにいたべいぐん顧問こもんダリゴ大尉たいい開城かいじょうえき列車れっしゃから北朝鮮きたちょうせんへい続々ぞくぞく下車げしゃしているのを目撃もくげきした[121]ことから、だい6師団しだんだい13連隊れんたいまつ岳山たけやまから韓国かんこくぐん攻撃こうげきさせ、だい15連隊れんたいきょうよし本線ほんせん列車れっしゃ利用りようして一気いっき開城かいじょうえきまで突進とっしんさせた[122][123]としている。ビョン・ヘソク(변혜석)は、ダリゴの証言しょうげん以外いがい北朝鮮きたちょうせんぐん列車れっしゃ利用りようした記録きろく証言しょうげんつからないことなどから、北朝鮮きたちょうせんぐん列車れっしゃ使つかって開城かいじょう侵入しんにゅうしていないと結論けつろんけた[124]
  17. ^ 陸戦りくせんしゅう1』ではだい3連隊れんたいとされているが、同隊どうたいはこのとき首都しゅと警備けいび司令しれい隷下れいかにあり、あやまりとかんがえられる。
  18. ^ 韓国かんこく戦争せんそうだいいちかん』による。『朝鮮ちょうせん戦争せんそう1』によればだい8連隊れんたい
  19. ^ 韓国かんこく戦争せんそうだいいちかん』による。『朝鮮ちょうせん戦争せんそう1』によれば、だい6師団しだんちょう外出がいしゅつ外泊がいはくゆるさなかった。
  20. ^ 韓国かんこく戦争せんそうだいいちかん』によると、この時期じき韓国かんこくへいはしほうSU-76)と戦車せんしゃT-34)を区別くべつできなかった。
  21. ^ ただし、後述こうじゅつだい10連隊れんたい対戦たいせんしゃ中隊ちゅうたいによるあんひとしでの交戦こうせん混同こんどうしている可能かのうせいもある。

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]