朝鮮半島 ちょうせんはんとう 軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん
各種 かくしゅ 表記 ひょうき ハングル :
한반도 비무장 지대(南 みなみ ) チョソングル :
조선반도 비무장 지대(北 きた ) 漢字 かんじ :
韓 かん 半島 はんとう 非 ひ 武裝 ぶそう 地帶 ちたい (南 みなみ ) 朝鮮半島 ちょうせんはんとう 非 ひ 武裝 ぶそう 地帶 ちたい (北 きた ) 発音 はつおん :
ハンバンドビムジャンチデ(南 みなみ ) チョソンバンドビムジャンチデ(北 きた ) 日本語 にほんご 読 よ み:
かんはんとうひぶそうちたい(南 みなみ ) ちょうせんはんとうひぶそうちたい(北 きた ) 英語 えいご 表記 ひょうき :
Korean Demilitarized Zone (DMZ) テンプレートを表示 ひょうじ
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん (ぐんじきょうかいせん、朝鮮 ちょうせん 語 ご : 군사분계선 /軍事 ぐんじ 分界 ぶんかい 線 せん 、英語 えいご : Korean Demilitarized Zone 〈略称 りゃくしょう :DMZ 〉)とは、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 陸上 りくじょう において大韓民国 だいかんみんこく (以下 いか 、韓国 かんこく )と朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (以下 いか 、北朝鮮 きたちょうせん )との実効 じっこう 支配 しはい 地域 ちいき を分割 ぶんかつ する地帯 ちたい のことである。あくまで実効 じっこう 支配 しはい 地域 ちいき の「境界 きょうかい 線 せん 」であり、「国境 こっきょう 線 せん 」ではない。また、韓国 かんこく においては北緯 ほくい 38度 ど 線 せん 付近 ふきん にあることから38線 せん (삼팔선 :サンパルソン)と呼 よ ばれることが多 おお い(厳密 げんみつ な北緯 ほくい 38度 ど 線 せん とは一致 いっち しない)。
朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の休戦 きゅうせん ラインであり、1953年 ねん 7月 がつ 27日 にち の朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 休戦 きゅうせん 協定 きょうてい により発効 はっこう した。軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん の周囲 しゅうい には南北 なんぼく に非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい が設定 せってい され、加 くわ えて韓国 かんこく 側 がわ では民間 みんかん 人 じん 出入 でいり 統制 とうせい 区域 くいき も設定 せってい されているため、一部 いちぶ の例外 れいがい を除 のぞ き一般人 いっぱんじん が軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん 付近 ふきん へ近 ちか づくことはできない。この境界 きょうかい 線 せん は海上 かいじょう にも延伸 えんしん しており北方 ほっぽう 限界 げんかい 線 せん (NLL)と呼 よ ばれるが、韓国 かんこく 側 がわ と北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ で主張 しゅちょう するラインが大 おお きく異 こと なり、紛争 ふんそう が度々 たびたび 起 お きている。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (太平洋戦争 たいへいようせんそう ・日本 にっぽん 名 めい 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )に敗 やぶ れた 大日本帝國 だいにっぽんていこく (現 げん ・日本 にっぽん 国 こく )は、1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )から植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい していた朝鮮半島 ちょうせんはんとう を失 うしな った。
これに伴 ともな い、朝鮮半島 ちょうせんはんとう は北緯 ほくい 38度 ど 線 せん に沿 そ って南北 なんぼく にアメリカ とソ連 それん の分割 ぶんかつ 占領 せんりょう が行 おこな われた。1948年 ねん に南北 なんぼく が別々 べつべつ の独立 どくりつ 国家 こっか となった後 のち も、当初 とうしょ 境界 きょうかい 線 せん は分割 ぶんかつ 占領 せんりょう 線 せん である北緯 ほくい 38度 ど 線 せん ちょうどに設定 せってい されていた。
1950年 ねん 6月 がつ に始 はじ まった朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう は約 やく 3年 ねん を経 へ て膠着 こうちゃく 状態 じょうたい となり、1953年 ねん 7月 がつ 27日 にち 、国連 こくれん 軍 ぐん 代表 だいひょう でアメリカ司令 しれい 官 かん のウィリアム・ハリソンや朝鮮人民軍 ちょうせんじんみんぐん 代表 だいひょう の南 みなみ 日 び らが朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 休戦 きゅうせん 協定 きょうてい に署名 しょめい し、休戦 きゅうせん の施行 しこう 時 じ の現状 げんじょう を境界 きょうかい として画定 かくてい させることになった[1] 。その結果 けっか 、西海岸 にしかいがん では北朝鮮 きたちょうせん が38度 ど 線 せん の南 みなみ に食 く い込 こ み、東海岸 ひがしかいがん では韓国 かんこく が北 きた に食 く い込 こ む形 かたち の線 せん となった。朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 以前 いぜん は大半 たいはん の地域 ちいき が南側 みなみがわ であった開城 かいじょう と、黄海 こうかい 道 どう の海岸 かいがん 線 せん 付近 ふきん は北側 きたがわ となった。一方 いっぽう 、江原 えばら 道 みち 中部 ちゅうぶ (束 たば 草市 くさいち など)は北側 きたがわ から南側 みなみがわ に属 ぞく することとなった。
2024年 ねん 、北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ は韓国 かんこく との対決 たいけつ 姿勢 しせい を強 つよ め[2] 、同年 どうねん 4月 がつ から新 あら たな地雷 じらい の埋設 まいせつ 、戦術 せんじゅつ 道路 どうろ の補強 ほきょう 、対戦 たいせん 車 しゃ 防壁 ぼうへき とみられる構造 こうぞう 物 ぶつ の設置 せっち などを行 おこな った。地雷 じらい の埋設 まいせつ は、場所 ばしょ によっては100人 にん 以上 いじょう が作業 さぎょう に従事 じゅうじ 。しばしば爆発 ばくはつ 事故 じこ が発生 はっせい し、多数 たすう の負傷 ふしょう 者 しゃ が後送 こうそう されていく様子 ようす が韓国 かんこく 軍 ぐん により確認 かくにん されている。また、作業 さぎょう 員 いん が韓国 かんこく 側 がわ に越境 えっきょう して、警告 けいこく 射撃 しゃげき を受 う けている[3] 。
境界 きょうかい 線 せん 付近 ふきん の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい (DMZ)[ 編集 へんしゅう ]
休戦 きゅうせん 協定 きょうてい により南北 なんぼく 双方 そうほう の勢力 せいりょく は軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん から2キロメートル後退 こうたい することになり、計 けい 4キロメートルの非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい (DMZ)が設定 せってい され、地域 ちいき 内 ない には軍隊 ぐんたい の駐屯 ちゅうとん や武器 ぶき の配置 はいち 、軍事 ぐんじ 施設 しせつ の設置 せっち をしないことになった[1] [4] 。非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい の総 そう 面積 めんせき は903平方 へいほう キロメートル であり、内訳 うちわけ は北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ が478平方 へいほう キロメートル、韓国 かんこく 側 がわ が425平方 へいほう キロメートルである[5] 。非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい には毎年 まいとし 約 やく 650万 まん 人 にん の観光 かんこう 客 きゃく が訪 おとず れている[6] 。
非 ひ 武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 地帯 ちたい と民間 みんかん 人 じん 出入 でいり 統制 とうせい 区域 くいき (韓国 かんこく 側 がわ のみ)を隔 へだ てている「南方 なんぽう 限界 げんかい 線 せん 」および「北方 ほっぽう 限界 げんかい 線 せん 」(海上 かいじょう の北方 ほっぽう 限界 げんかい 線 せん とは別 べつ )は、南北 なんぼく 双方 そうほう が休戦 きゅうせん 協定 きょうてい 違反 いはん を理由 りゆう に軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん 側 がわ に押 お し出 だ したため、現在 げんざい ではDMZの幅 はば が300メートルまで狭 せば まっている箇所 かしょ もあり、幅 はば が4キロメートルのままの所 ところ は珍 めずら しい状況 じょうきょう にある。
非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい 内 ない は極 ごく 僅 わず かの地域 ちいき を除 のぞ いて、一 いち 面 めん に地雷 じらい が敷設 ふせつ されているため通行 つうこう は実質 じっしつ 不可能 ふかのう である。DMZに敷設 ふせつ されている地雷 じらい は、北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ が約 やく 80万 まん 個 こ 、韓国 かんこく 側 がわ が約 やく 127万 まん 個 こ で合計 ごうけい 207万 まん 個 こ 程度 ていど と推測 すいそく されている[7] 。そのため半 はん 世紀 せいき 以上 いじょう にわたって人 ひと の寄 よ り付 つ かない場所 ばしょ となったことから、自然 しぜん が豊富 ほうふ であり絶滅 ぜつめつ 危惧 きぐ 種 しゅ などが生息 せいそく する生物 せいぶつ の楽園 らくえん となっている[6] 。
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん は国連 こくれん 軍 ぐん と北朝鮮 きたちょうせん ・中国 ちゅうごく 間 あいだ での国際 こくさい 合意 ごうい である朝鮮半島 ちょうせんはんとう 軍事 ぐんじ 停戦 ていせん 合意 ごうい に基 もと づくが、軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん と双方 そうほう の通常 つうじょう 全般 ぜんぱん 前哨 ぜんしょう (GOP:General Out Post)の間 あいだ には韓国 かんこく 軍 ぐん と朝鮮人民軍 ちょうせんじんみんぐん の監視 かんし 所 しょ (GP:Guard Posts)が設置 せっち されており事実 じじつ 上 じょう の当事 とうじ 者 しゃ として実際 じっさい 的 てき な役割 やくわり を果 は たしている[1] 。軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん から南側 みなみがわ に2キロメートル下 さ がった線 せん は南方 なんぽう 限界 げんかい 線 せん と呼 よ ばれ、鉄柵 てっさく が張 は られており、ここを韓国 かんこく 軍 ぐん の兵士 へいし が巡回 じゅんかい する様子 ようす がメディアなどで取 と り上 あ げられる[4] 。両 りょう 軍 ぐん の間 あいだ で銃撃 じゅうげき 戦 せん が発生 はっせい することも数多 かずおお く、1960年代 ねんだい から1980年代 ねんだい にかけては、ほぼ毎年 まいとし 死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ してきた。休戦 きゅうせん 協定 きょうてい の第 だい 1条 じょう 第 だい 10項 こう の規定 きてい によって「民政 みんせい と救済 きゅうさい のための警備 けいび 要員 よういん 」を南北 なんぼく 双方 そうほう が1,000名 めい ずつまで、非 ひ 武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 地帯 ちたい 内 ない に立 た ち入 い れることになっている。このため両 りょう 軍 ぐん とも監 かん 視 し 哨所を建 た てたり、潜伏 せんぷく 斥候 せっこう を入 い れたりしている[8] 。
非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい そのものは非 ひ 武装 ぶそう の緩衝 かんしょう 地帯 ちたい で警備 けいび 兵 へい も拳銃 けんじゅう や自動 じどう 小銃 しょうじゅう のみ携行 けいこう できるにすぎないが、非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい を挟 はさ んで対峙 たいじ する地域 ちいき には非常 ひじょう に大 だい 規模 きぼ な軍事 ぐんじ 力 りょく が配備 はいび されており、百 ひゃく 万 まん 人 にん 以上 いじょう の兵士 へいし 、約 やく 2万 まん 台 だい の装甲車 そうこうしゃ 、戦略 せんりゃく 拠点 きょてん などが散在 さんざい している[1] [4] 。
2020年 ねん 6月 がつ 16日 にち 、韓国 かんこく にいる脱北者 だっぽくしゃ による北朝鮮 きたちょうせん 政権 せいけん 批判 ひはん のビラ を飛 と ばしたことに対 たい する報復 ほうふく 行動 こうどう として、朝鮮人民軍 ちょうせんじんみんぐん 総 そう 参謀 さんぼう 部 ぶ はDMZへの軍隊 ぐんたい の再 さい 進出 しんしゅつ に向 む けた手続 てつづ きを進 すす めると警告 けいこく した[9] 。
共同 きょうどう 警備 けいび 区域 くいき (JSA)[ 編集 へんしゅう ]
共同 きょうどう 警備 けいび 区域 くいき 内 ない の軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん (MDL )
北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ から見 み た写真 しゃしん 。向 む かい合 あ って立 た っている2人 ふたり の兵士 へいし の間 あいだ にあるコンクリートの帯 おび が軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん 。奥 おく の建物 たてもの は韓国 かんこく 側 がわ の「自由 じゆう の家 いえ 」
板門店 はんもんてん を挟 はさ んで北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ にある宣伝 せんでん 村 むら 「機 き 井 い 洞 ほら 」(「平和 へいわ の村 むら 」)にある高 たか さ160メートル の国旗 こっき 掲揚 けいよう 塔 とう 。韓国 かんこく 側 がわ の宣伝 せんでん 村 むら 「台 たい 城 じょう 洞 ほら 」(「自由 じゆう の村 むら 」)との間 あいだ で、かつて国旗 こっき 掲揚 けいよう 塔 とう の高 たか さの競争 きょうそう が起 お こった。
南北 なんぼく が実務 じつむ 協議 きょうぎ を行 おこな う場所 ばしょ は、軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん 上 じょう にある共同 きょうどう 警備 けいび 区域 くいき (JSA: Joint Security Area) 内 ない 、板門店 はんもんてん にある軍事 ぐんじ 停戦 ていせん 委員 いいん 会 かい 本 ほん 会議 かいぎ 場 じょう である(詳細 しょうさい は当該 とうがい 項目 こうもく を参照 さんしょう )。共同 きょうどう 警備 けいび 区域 くいき は、軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を挟 はさ んだ非 ひ 武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 地帯 ちたい を例外 れいがい 的 てき に南北 なんぼく が共同 きょうどう で警備 けいび する区域 くいき として制定 せいてい されている。そのため軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん の真上 まうえ に、建物 たてもの が建 た てられている唯一 ゆいいつ の場所 ばしょ である。
韓国 かんこく 政府 せいふ の施策 しさく である安保 あんぽ 観光 かんこう は板門店 はんもんてん では1960年代 ねんだい から行 おこな われていたが、1964年 ねん には韓国 かんこく 人 じん 観光 かんこう 客 きゃく が北朝鮮 きたちょうせん に亡命 ぼうめい する事件 じけん が発生 はっせい している[4] 。板門店 はんもんてん 観光 かんこう は、外国 がいこく 人 じん の場合 ばあい は旅行 りょこう 社 しゃ 等 とう を通 つう じて申請 しんせい すればその日 ひ のうちに観光 かんこう することも可能 かのう であるが、自 じ 国民 こくみん の観光 かんこう の場合 ばあい は長期 ちょうき にわたる申請 しんせい や30人 にん 以上 いじょう での団体 だんたい による申請 しんせい など厳 きび しい条件 じょうけん が付 つ けられている[4] 。
警備 けいび 面 めん では1976年 ねん にこの区域 くいき で軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ 事件 じけん (ポプラ事件 じけん )が発生 はっせい したため、以降 いこう は共同 きょうどう 警備 けいび 区域 くいき 内 ない においても軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん の厳格 げんかく 化 か が行 おこな われた。しかし、1996年 ねん から1997年 ねん にかけて物品 ぶっぴん の受 う け取 と りを含 ふく む対 たい 北 きた 接触 せっしょく があったことが韓国 かんこく で問題 もんだい となり24名 めい が摘発 てきはつ されている[4] 。
民間 みんかん 人 じん 出入 でいり 統制 とうせい 区域 くいき [ 編集 へんしゅう ]
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん 付近 ふきん への一般 いっぱん 民間 みんかん 人 じん の立 た ち入 い りは、軍 ぐん の活動 かつどう に支障 ししょう をきたすおそれがあるため、通常 つうじょう 全般 ぜんぱん 前哨 ぜんしょう (GOP:General Out Post)よりもさらに後退 こうたい させる必要 ひつよう がある[1] 。朝鮮 ちょうせん 休戦 きゅうせん 協定 きょうてい 調印 ちょういん 後 ご の1954年 ねん 2月 がつ にアメリカ陸軍 りくぐん 第 だい 8軍団 ぐんだん 司令 しれい 官 かん により民間 みんかん 人 じん 統制 とうせい 線 せん が設定 せってい された[4] 。民 みん 統 すべ 線 せん (みんとうせん、민통선 )と略 りゃく して呼 よ ぶこともある。この非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい (南方 なんぽう 限界 げんかい 線 せん )より南側 みなみがわ に5 - 20キロメートル下 さ がった線 せん までの区域 くいき を民間 みんかん 人 じん 出入 でいり 統制 とうせい 区域 くいき (民間 みんかん 人 じん 統制 とうせい 区域 くいき )という[4] 。この区域 くいき は軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん に近 ちか い島 しま でも設定 せってい されており、隅 すみ 島 とう (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) のように島 しま 全域 ぜんいき が設定 せってい されている例 れい もある。
韓国 かんこく 側 がわ にのみ設定 せってい されており、この民 みん 統 すべ 線 せん が一般人 いっぱんじん の立 た ち入 い れる北限 ほくげん となる。民 みん 統 すべ 線 せん を越 こ えて区域 くいき 内 ない に入 はい る場合 ばあい 、軍 ぐん による検問 けんもん 所 しょ での手続 てつづ きが必要 ひつよう である[10] 。
1958年 ねん 以降 いこう は韓国 かんこく 軍 ぐん が警備 けいび を担当 たんとう しており、軍事 ぐんじ 上 じょう ・保安 ほあん 上 じょう 支障 ししょう のない範囲 はんい で「出入 でいり 農業 のうぎょう 」と「入居 にゅうきょ 農業 のうぎょう 」が許可 きょか されている[4] 。そのため朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 休戦 きゅうせん 前 まえ から土地 とち があるなどの理由 りゆう で、特別 とくべつ に居住 きょじゅう している住民 じゅうみん が存在 そんざい する。また1980年代 ねんだい から主 おも に退役 たいえき 軍人 ぐんじん らが開墾 かいこん を始 はじ めて入植 にゅうしょく した屯田 とんでん 兵 へい のような場所 ばしょ もある[8] 。
分断 ぶんだん の状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
臨津江 こう を越 こ えて北側 きたがわ に続 つづ く京 きょう 義 よし 線 せん 。民 みん 統 すべ 線 せん を示 しめ す鉄条 てつじょう 網 もう が設置 せっち されている。右側 みぎがわ の橋脚 きょうきゃく は朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう で破壊 はかい された旧 きゅう 上 のぼ り線 せん 橋梁 きょうりょう (ソウル ・釜山 ぷさん 方面 ほうめん )の痕跡 こんせき で、かつてここが複線 ふくせん の大動脈 だいどうみゃく であったことを示 しめ す。
猪 いの 津 つ - 金剛山 こんごうさん を結 むす ぶ国道 こくどう 7号線 ごうせん と東海 とうかい 北部 ほくぶ 線 せん の線路 せんろ
現在 げんざい 軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん となっている線 せん を跨 また いで京 きょう 義 よし 線 せん ・京 きょう 元 もと 線 せん ・金剛山 こんごうさん 電気 でんき 鉄道 てつどう ・東海 とうかい 北部 ほくぶ 線 せん といった4本 ほん の鉄道 てつどう が存在 そんざい したが、いずれも第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の南北 なんぼく 分断 ぶんだん と朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の戦禍 せんか の中 なか で運行 うんこう が停止 ていし された。このうち、金剛山 こんごうさん 電気 でんき 鉄道 てつどう は営業 えいぎょう が再開 さいかい されることなく事実 じじつ 上 じょう 廃 はい 線 せん となり、東海 とうかい 北部 ほくぶ 線 せん は後 のち に韓国 かんこく 側 がわ の区間 くかん が書類 しょるい 上 じょう 再 さい 開業 かいぎょう したものの、営業 えいぎょう されず1967年 ねん までに全線 ぜんせん 廃止 はいし 。京 きょう 義 よし 線 せん ・京 きょう 元 はじめ 線 せん は復旧 ふっきゅう したものの南北 なんぼく に線路 せんろ が分断 ぶんだん された状態 じょうたい となった。廃 はい 線 せん となり半 はん 世紀 せいき 以上 いじょう 放置 ほうち された路盤 ろばん 跡 あと は、衛星 えいせい 写真 しゃしん などで確認 かくにん できる[11] [12] 。
その後 ご 、韓国 かんこく 側 がわ では線路 せんろ 分断 ぶんだん 地点 ちてん (京 きょう 義 よし 線 せん 汶 山 やま 駅 えき 、京 きょう 元 もと 線 せん 新 しん 炭 すみ 里 さと 駅 えき )に、「鉄 てつ 馬 ば は走 はし りたい」といった南北 なんぼく を結 むす ぶ鉄道 てつどう の再開 さいかい 通 どおり を願 ねが う看板 かんばん が置 お かれたりしていた。
京 きょう 釜 がま 線 せん と並 なら んで、ソウルと満州 まんしゅう ・中国 ちゅうごく を結 むす ぶ朝鮮半島 ちょうせんはんとう における大動脈 だいどうみゃく だった京 きょう 義 よし 線 せん は、民間 みんかん 人 じん 出入 でいり 統制 とうせい 線 せん の横 よこ たわる臨津江 こう の手前 てまえ で分断 ぶんだん されていたが、2000年 ねん の金 きむ 大中 でじゅん ・金 きむ 正日 じょんいる 両 りょう 首脳 しゅのう の南北 なんぼく 首脳 しゅのう 会談 かいだん によって、京 きょう 義 よし 線 せん 再 さい 連結 れんけつ 工事 こうじ の構想 こうそう が持 も ち上 あ がり、続 つづ く当事 とうじ 者 しゃ 会談 かいだん によって正式 せいしき に連結 れんけつ 作業 さぎょう が合意 ごうい された。
南側 みなみがわ の京 きょう 義 よし 線 せん は、2001年 ねん に臨津江 つえ 駅 えき まで、2002年 ねん に民 みん 統 すべ 線 せん を越 こ えて境界 きょうかい 線 せん 近 ちか くの都 みやこ 羅山 らざん 駅 えき まで延伸 えんしん し、2003年 ねん より北側 きたがわ の開城 かいじょう まで再 さい 開通 かいつう させるための工事 こうじ が行 おこな われた。この工事 こうじ 中 ちゅう 、分断 ぶんだん 当時 とうじ の線路 せんろ やタブレット閉塞 へいそく 機 き が発掘 はっくつ され、一部 いちぶ が資料 しりょう 館 かん 等 とう で展示 てんじ されている。
2007年 ねん 頃 ころ 、開城 かいじょう では開城 かいじょう 工業 こうぎょう 地区 ちく の造成 ぞうせい が進 すす み、韓国 かんこく 企業 きぎょう の工場 こうじょう で北朝鮮 きたちょうせん 労働 ろうどう 者 しゃ が働 はたら くようになっているが、南北 なんぼく 鉄道 てつどう の連結 れんけつ は工事 こうじ こそほぼ終 お わっているものの、北朝鮮 きたちょうせん の軍部 ぐんぶ の反対 はんたい もあり頓挫 とんざ した状態 じょうたい であった。また、東海岸 ひがしかいがん ではもう一 ひと つの南北 なんぼく 連絡 れんらく 鉄道 てつどう である東海 とうかい 線 せん (東海 とうかい 北部 ほくぶ 線 せん ・嶺 みね 東 ひがし 線 せん ・東海 とうかい 南部 なんぶ 線 せん の連結 れんけつ )の再 さい 開通 かいつう 工事 こうじ が行 おこな われており、北側 きたがわ の金剛山 こんごうざん 地区 ちく では韓国 かんこく 企業 きぎょう の現代 げんだい による観光 かんこう 開発 かいはつ が行 おこな われ、陸路 りくろ ・海路 かいろ で韓国 かんこく 人 じん が北側 きたがわ へ入 はい ることができるようになるなど、2000年代 ねんだい に入 はい ってからは軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん が少 すこ しずつ開放 かいほう されてきている傾向 けいこう がある。最終 さいしゅう 的 てき に2007年 ねん 5月17日 にち 、京 きょう 義 よし 線 せん では56年 ねん ぶり、東海 とうかい 線 せん では57年 ねん ぶりに軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を越 こ える列車 れっしゃ が試運転 しうんてん された。
京 きょう 元 はじめ 線 せん では、2012年 ねん 11月20日 にち に韓国 かんこく 側 がわ の路線 ろせん が従来 じゅうらい の終着駅 しゅうちゃくえき である新 しん 炭 すみ 里 さと 駅 えき から北 きた へ約 やく 5キロメートル延伸 えんしん され、白馬 はくば 高地 こうち 駅 えき が新 あら たに開業 かいぎょう した。また2015年 ねん 8月 がつ より、民 みん 統 すべ 線 せん 以北 いほく の月 つき 井 い 里 さと 駅 えき までさらに延伸 えんしん する工事 こうじ が開始 かいし され、2017年 ねん までの竣工 しゅんこう を目指 めざ していたものの、2016年 ねん 6月 がつ に工事 こうじ が凍結 とうけつ され、開業 かいぎょう 時期 じき 未定 みてい となっている。最終 さいしゅう 的 てき には北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ の線路 せんろ とも繋 つな がる予定 よてい だが、現 げん 段階 だんかい では北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ の承認 しょうにん が得 え られていない。
2024年 ねん 1月 がつ 、北朝鮮 きたちょうせん の金 きむ 正 ただし 恩 おん 総 そう 書記 しょき は韓国 かんこく との対決 たいけつ 姿勢 しせい を鮮明 せんめい 化 か 。最高 さいこう 人民 じんみん 会議 かいぎ の演説 えんぜつ で韓国 かんこく との連携 れんけい を断 た ち切 き る措置 そち を指示 しじ した。この直後 ちょくご から東海 とうかい 北部 ほくぶ 線 せん などで線路 せんろ を撤去 てっきょ するなどの動 うご きがみられた[13] 。
朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 以降 いこう 、軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を越 こ える道路 どうろ は長 なが らく存在 そんざい せず、南北 なんぼく の往来 おうらい は板門店 はんもんてん を通 つう じて行 おこな われた。その後 ご 、南北 なんぼく 交流 こうりゅう の進展 しんてん により、南北 なんぼく を結 むす ぶ道路 どうろ の建設 けんせつ が行 おこな われ、都 みやこ 羅山 らざん - 開城 かいじょう 工業 こうぎょう 団地 だんち 、猪 いの 津 つ - 金剛山 こんごうさん を結 むす ぶ道路 どうろ が、鉄道 てつどう 、南北 なんぼく 出入 でいり 管理 かんり 事務所 じむしょ と共 とも に整備 せいび された。通行 つうこう にあたっては、あらかじめ通行 つうこう できる時間 じかん が決 き められており、また時間 じかん ごとに集団 しゅうだん で通行 つうこう するために自由 じゆう に往来 おうらい することは出来 でき ない。通行 つうこう する際 さい には、軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を境 さかい に南北 なんぼく 双方 そうほう の軍用 ぐんよう 車両 しゃりょう が警護 けいご に当 あ たる。
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん は、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の休戦 きゅうせん 条約 じょうやく に基 もと づき陸上 りくじょう に設定 せってい されているが、海上 かいじょう には設定 せってい されていない。北緯 ほくい 38度 ど 線 せん より北 きた の黄海 こうかい 上 うえ の幾 いく つかの島嶼 とうしょ を確保 かくほ していた国連 こくれん 軍 ぐん 側 がわ は、休戦 きゅうせん 協定 きょうてい 発効 はっこう 後 ご の1953年 ねん 8月 がつ に北方 ほっぽう 限界 げんかい 線 せん (Northen Limit Line) を宣言 せんげん し、そこを事実 じじつ 上 じょう の境界 きょうかい としている。北朝鮮 きたちょうせん 側 がわ は、これを黙認 もくにん してきたが、1999年 ねん 9月に北方 ほっぽう 限界 げんかい 線 せん の南方 なんぽう に海上 かいじょう 軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん の設定 せってい を宣言 せんげん した。しかし、これは実 じつ 効力 こうりょく を伴 ともな っておらず、韓国 かんこく 側 がわ が北方 ほっぽう 限界 げんかい 線 せん の効力 こうりょく を保 たも っているものの、侵入 しんにゅう してきた北朝鮮 きたちょうせん 艦船 かんせん と銃撃 じゅうげき 戦 せん が発生 はっせい することがある。
1948年 ねん 5月 、水 みず 豊 ゆたか ダム など多 おお くの発電 はつでん 施設 しせつ を有 ゆう した北側 きたがわ から南側 みなみがわ への送電 そうでん が停止 ていし された[14] 。このため、アメリカ軍 ぐん から電源 でんげん 船 せん が急遽 きゅうきょ 派遣 はけん されるなど、南側 みなみがわ 地域 ちいき の電力 でんりょく 不足 ふそく は深刻 しんこく な状況 じょうきょう であった。これ以降 いこう 、南北 なんぼく 相互 そうご の電力 でんりょく 融通 ゆうずう は一切 いっさい できなくなっていたが、2003年 ねん 6月 がつ より造成 ぞうせい の始 はじ まった開城 かいじょう 工業 こうぎょう 地区 ちく 向 む けに限定 げんてい した運用 うんよう であるが、南側 みなみがわ から10万 まん キロワットの送電 そうでん 線 せん を新規 しんき に敷設 ふせつ し韓国 かんこく から北朝鮮 きたちょうせん への送電 そうでん が再開 さいかい された。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう の南北 なんぼく を結 むす ぶ市外 しがい 電話 でんわ 網 もう の運用 うんよう および保守 ほしゅ は、国際電気 こくさいでんき 通信 つうしん (株) かぶしきがいしゃ が行 おこな っていた。無 む 装荷 そうか ケーブル により接続 せつぞく された市外 しがい 回線 かいせん は、朝鮮半島 ちょうせんはんとう の各所 かくしょ に市内 しない 回線 かいせん 接続 せつぞく のための中継 ちゅうけい 所 しょ が設 もう けられていた。中継 ちゅうけい 所 しょ は釜山 ぷさん 、京 きょう 城 しろ 、平壌 ぴょんやん といった大都市 だいとし だけではなく、信号 しんごう 増幅 ぞうふく のため一定 いってい 距離 きょり ごとにも中継 ちゅうけい 所 しょ があった。終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の1945年 ねん 8月 がつ 26日 にち 未明 みめい 、開城 かいじょう の北 きた およそ60キロメートルほど離 はな れた、現在 げんざい の黄海 こうかい 北道 ほくどう 平山 ひらやま 郡 ぐん にあった、同社 どうしゃ 管理 かんり の南川 みなみかわ 中継 ちゅうけい 所 しょ に進駐 しんちゅう したソビエト連邦 れんぽう 軍 ぐん が、市外 しがい 回線 かいせん ケーブルと局内 きょくない 装置 そうち 間 あいだ にある保安 ほあん 装置 そうち を撤去 てっきょ した。
現在 げんざい では、開城 かいじょう 工業 こうぎょう 地区 ちく と韓国 かんこく を結 むす ぶ電話 でんわ 回線 かいせん が敷設 ふせつ されており、また南北 なんぼく 間 あいだ で特別 とくべつ な行事 ぎょうじ がある際 さい は、平壌 ぴょんやん - ソウル間 あいだ の直通 ちょくつう 電話 でんわ が臨時 りんじ に設置 せっち される。
ラジオ放送 ほうそう を社団 しゃだん 法人 ほうじん 朝鮮 ちょうせん 放送 ほうそう 協会 きょうかい が京 きょう 城 しろ (現在 げんざい のソウル)の京 きょう 城 しろ 中央 ちゅうおう 放送 ほうそう 局 きょく (呼出 よびだし 符号 ふごう JODK)から平壌放送 ぴょんやんほうそう 局 きょく (呼出 よびだし 符号 ふごう JBBK)などの北側 きたがわ 地域 ちいき に中継 ちゅうけい 放送 ほうそう していた。しかしながら1945年 ねん 8月 がつ 26日 にち 、進駐 しんちゅう した赤軍 せきぐん により北緯 ほくい 38度 ど 線 せん を境目 さかいめ に南北 なんぼく の放送 ほうそう 用 よう 中継 ちゅうけい 回線 かいせん が切断 せつだん され、南北 なんぼく の中継 ちゅうけい 放送 ほうそう ができなくなった。なお、同日 どうじつ 南北 なんぼく の市外 しがい 電話 でんわ 回線 かいせん も不通 ふつう となっている。以降 いこう 、分断 ぶんだん が決定的 けっていてき になり北側 きたがわ 地域 ちいき の放送 ほうそう 局 きょく は朝鮮 ちょうせん 中央 ちゅうおう 放送 ほうそう (KCBS)、南側 みなみがわ 地域 ちいき の放送 ほうそう 局 きょく は韓国 かんこく 放送 ほうそう 公社 こうしゃ (KBS)へと再編 さいへん されていった。
ラジオやテレビなどの地上 ちじょう 放送 ほうそう については、スピルオーバー により相手 あいて 側 がわ の放送 ほうそう を一般 いっぱん 住民 じゅうみん が直接 ちょくせつ 視聴 しちょう できないよう、双方 そうほう で妨害 ぼうがい 電波 でんぱ をかけられた。しかしテレビについては南北 なんぼく で放送 ほうそう 方式 ほうしき に差異 さい がある[注 ちゅう 1] ため一般 いっぱん に市販 しはん されている受像 じゅぞう 器 き だけでは視聴 しちょう できない。
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を挟 はさ んで1962年 ねん から2004年 ねん までは、大型 おおがた で大 だい 出力 しゅつりょく の拡声 かくせい 器 き を相手 あいて 側 がわ のエリアが見渡 みわた せる場所 ばしょ に設置 せっち した上 うえ で、プロパガンダや音楽 おんがく を流 なが す「拡声 かくせい 器 き 放送 ほうそう 」が南北 なんぼく 相互 そうご に行 おこ なわれていた。この放送 ほうそう は南北 なんぼく の合意 ごうい により一旦 いったん 中止 ちゅうし されたものの、南北 なんぼく 関係 かんけい の悪化 あっか により2016年 ねん 1月 がつ 、11年 ねん ぶりに拡声 かくせい 器 き 放送 ほうそう が再開 さいかい された。その後 ご 2018年 ねん 4月 がつ に南北 なんぼく 首脳 しゅのう 会談 かいだん 開催 かいさい に伴 ともな い再 ふたた び中止 ちゅうし され、翌 よく 5月 がつ までに双方 そうほう の拡声 かくせい 器 き も撤去 てっきょ された。
人 ひと の寄 よ り付 つ かない場所 ばしょ となったことから、自然 しぜん が豊富 ほうふ であり絶滅 ぜつめつ 危惧 きぐ 種 しゅ などが生息 せいそく する生物 せいぶつ の楽園 らくえん となっている[6] 。韓国 かんこく 側 がわ の調査 ちょうさ によると、非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい 内 ない には2,700種類 しゅるい 以上 いじょう の野生 やせい 種 しゅ または珍 ちん 種 しゅ の動物 どうぶつ 、鳥 とり 、植物 しょくぶつ が生息 せいそく している[1] 。
見学 けんがく
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん の付近 ふきん は見学 けんがく できる。
境界 きょうかい 線 せん の地理 ちり 情報 じょうほう [ 編集 へんしゅう ]
1953年 ねん 7月 がつ 27日 にち
約 やく 248キロメートル
(西 にし )漢江 かんこう 河口 かこう 部 ぶ 右岸 うがん ・(東 ひがし )金剛山 こんごうざん 付近 ふきん の海岸 かいがん 「海 うみ 金剛 こんごう 」[8]
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を中心 ちゅうしん に 南北 なんぼく 双方 そうほう 2キロメートル幅 はば (合計 ごうけい 4キロメートル幅 はば )
約 やく 6,400平方 へいほう メートル
軍事 ぐんじ 境界 きょうかい 線 せん を舞台 ぶたい にした作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
^ 韓国 かんこく はNTSC 、北朝鮮 きたちょうせん はPAL を採用 さいよう 。なお、韓国 かんこく ではデジタル放送 ほうそう に完全 かんぜん 移行 いこう されている。
^ a b c d e f 黄 き 義 ぎ 珏. “非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい と分断 ぶんだん された南北朝鮮 なんぼくちょうせん の運命 うんめい ”. 公益 こうえき 財団 ざいだん 法人 ほうじん アジア成長 せいちょう 研究所 けんきゅうじょ . 2022年 ねん 1月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “北朝鮮 きたちょうせん 「韓国 かんこく は同族 どうぞく にあらず」対 たい 南 みなみ 政策 せいさく 転換 てんかん の真意 しんい とは ”. NHK (2024年 ねん 2月 がつ 26日 にち ). 2024年 ねん 6月 がつ 19日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい に地雷 じらい を埋設 まいせつ する北朝鮮 きたちょうせん 軍 ぐん 、相次 あいつ ぐ爆 ばく 発 はつ で数 すう 十 じゅう 人 にん 死傷 ししょう …死地 しち に立 た たされる北 きた の軍人 ぐんじん たち ”. 朝鮮日報 ちょうせんにっぽう (2024年 ねん 6月 がつ 19日 にち ). 2024年 ねん 6月 がつ 19日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e f g h i “韓国 かんこく における民族 みんぞく 分断 ぶんだん と観光 かんこう ”. 島根 しまね 県立 けんりつ 大学 だいがく . 2022年 ねん 1月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 비무장지대(DMZ) 에코타임스 2019年 ねん 9月 がつ 27日 にち 配信 はいしん 2022年 ねん 4月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c 「南北 なんぼく 軍事 ぐんじ 境界 きょうかい は「絶滅 ぜつめつ 危惧 きぐ 種 しゅ 」の楽園 らくえん 自然 しぜん が手付 てつ かずのまま 」『BBCニュース』。2023年 ねん 8月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 朝鮮半島 ちょうせんはんとう ・非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい 周辺 しゅうへん ルポ/南北 なんぼく 間 あいだ に壁 かべ 地雷 じらい 207万 まん 個 こ 『毎日新聞 まいにちしんぶん 』朝刊 ちょうかん 2019年 ねん 9月 がつ 11日 にち (特集 とくしゅう ワイド面 めん )2019年 ねん 9月 がつ 12日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c 『軍事 ぐんじ 研究 けんきゅう 』2007年 ねん 3月 がつ 号 ごう 「韓国 かんこく の戦時 せんじ 即応 そくおう 体制 たいせい 」
^ “非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい への軍 ぐん 進出 しんしゅつ 警告 けいこく 北朝鮮 きたちょうせん 「前線 ぜんせん を要塞 ようさい 化 か 」 ”. 日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん 電子 でんし 版 ばん (2020年 ねん 6月 がつ 16日 にち ). 2020年 ねん 6月 がつ 16日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “長 なが い分断 ぶんだん が作 つく り出 だ した「異質 いしつ 感 かん 」 朝鮮半島 ちょうせんはんとう の非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい を歩 ある いた:朝日新聞 あさひしんぶん GLOBE+ ”. 朝日新聞 あさひしんぶん GLOBE+ (2018年 ねん 5月 がつ 26日 にち ). 2023年 ねん 8月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 京 きょう 元 はじめ 線 せん の路盤 ろばん 跡 あと (Google Mapより)
^ 金剛山 こんごうさん 電気 でんき 鉄道 てつどう の路盤 ろばん 跡 あと (Google Mapより)
^ “北朝鮮 きたちょうせん 南北 なんぼく つなぐ東海 とうかい 線 せん 鉄道 てつどう の線路 せんろ を撤去 てっきょ ”. 聯合 れんごう ニュース (2024年 ねん 6月 がつ 5日 にち ). 2024年 ねん 6月 がつ 15日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 韓国 かんこく 電力 でんりょく 公社 こうしゃ 会社 かいしゃ 紹介 しょうかい 沿革 えんかく より