ノーベル賞受賞者
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受賞年:2000年
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受賞部門:ノーベル平和賞
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受賞理由:韓国、および一般に東アジアの民主主義と人権のための努力、特に北朝鮮との平和と和解のため
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金 大中(キム・デジュン、日本語読み:きん だいちゅう、朝鮮語: 김대중、1925年12月3日[3]または1924年1月6日〈陰暦1923年12月3日〉[1][4][5] - 2009年8月18日[6])は、韓国の政治家、市民活動家。第15代大統領(在任:1998年 - 2003年)。
本貫は金海金氏。号は後廣(후광、フグァン、ごこう)。日本名は豊田 大中(とよた だいちゅう[7]、1924年- 1945年)。ニックネームは「忍冬草」。略称は「DJ」。カトリック教徒で、洗礼名はトマス・モア。慶熙大学校大学院修了。エモリー大学・カトリック大学名誉法学博士。モスクワ大学政治学博士[8]。立命館大学第37号名誉博士。
1924年1月6日(自伝による。戸籍上の出生日は1925年12月3日となっている)、全羅南道の荷衣島(現在の全羅南道新安郡荷衣面(朝鮮語版))に生まれるが、本貫はこの地域と対立していた慶尚道の金海である。荷衣島の現在の荷衣小学校(朝鮮語版)に通っていたが、1936年秋に家族とともに木浦府(現、木浦市)に転居し、木浦第一普通学校(現、木浦北橋小学校)(朝鮮語版)に転校。1939年に木浦公立商業学校(現、木商高校)(朝鮮語版)に入学、1943年に卒業。1970年に慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。
木浦商業学校卒業後、木浦日報、海運会社の経営を経て[8]、1954年の総選挙で国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、1959年、1960年と立て続けに落選を経験した。1961年に補欠選挙で国会議員に初当選したが、当選3日目に朴正煕による軍事クーデターが発生し、国会が強制解散となったため失職した[9]。
その後、金泳三とともに野党の代表的な政治家として頭角を現し、1963年と1967年の第6代、第7代、国会議員選挙で連続当選した結果、1970年9月に新民党の大統領候補に指名された。翌1971年の大統領選では、現職の朴正煕に97万票差にまで迫った(朴正煕634万票、金大中537万票)が、落選。以後、朴正煕の政敵としてつけ狙われるようになり、大統領選の直後には交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節の障害を負った。
民主化運動家として[編集]
朴正煕による十月維新の後は、日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年(昭和48年)8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで何者か(複数)によって拉致され、行方不明となった。この犯人たちは、謀殺を意図した韓国中央情報部 (KCIA) の工作員であった事が後に判明する。拉致後、神戸から出港した工作船の上で殺害される寸前であったが、日本の海上保安庁のヘリコプターが船の上を旋回し、照明弾などで威嚇したため、犯人らは殺害を中止。その後、ソウルで解放されて九死に一生を得たが、ソウルの自宅で日本人記者らに会見を行った後、2か月間、軟禁状態に置かれた。
1976年3月には尹潽善らと共に「民主救国宣言」を発表した後に逮捕。裁判中にもかかわらず、ソウルの拘置所から遠く離れた晋州刑務所へ送られる[10]。その後に懲役判決を受け、1978年3月に釈放された。1979年10月26日に朴正煕暗殺事件が起きると、民主化の機運が高まってソウルの春が訪れ、韓国政界で金大中・金泳三・金鍾泌の3人のリーダーが注目される、いわゆる三金時代が始まった。
1980年2月29日に公民権を回復。政治活動を再開するが、3か月後の1980年5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となった(光州事件)。このため、軍法会議で首謀者として、また1977年に発生した学園浸透スパイ団事件での“摘発スパイ”の自白から「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長とされ、死刑判決を受けた。日本の当時の鈴木善幸首相はこれを憂慮して、11月21日に崔慶禄駐日大使と会談し、「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、『朝鮮日報』は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に民主化弾圧の死刑判決であると国際的な批判が強まって、1982年1月23日の閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止された。
1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、1か月後の3月6日に全斗煥大統領により政治活動を解禁された[11]。1987年には再び公民権を回復。16年ぶりに直接選挙制で行われた大統領選挙で平和民主党を結成して、軍人出身の盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招いて敗北した(金泳三と金大中の得票率の合計は55%で、当選した盧泰愚の36・6%をはるかに上回った)。
1989年1月8日、昭和天皇崩御により在韓日本大使館に設置されていた焼香所で90度のお辞儀をして拝礼をした[12][13]。
1992年にも金泳三・鄭周永らを相手に大統領選を戦うも再び敗北。これをもって金大中は一時、政界引退を表明した。その後、研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目を浴びていた1995年に、新政治国民会議を結成して、総裁に就任。政界復帰した。
大統領として[編集]
1997年の大統領選挙では、与党ハンナラ党の李会昌と、ハンナラ党内での予備選に敗退した李仁済を相手に選挙を戦った。与党の強力な集票力に当選が危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び[14]、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への対応能力をアピールした。結果、自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得たことに加えて、金鍾泌の地盤である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。
大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機は続いていた。金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れた上で、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。そのため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた(DJノミクス)。
1998年、小渕恵三首相と日韓共同宣言を発表し、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推し進めた。
自ら大韓民国中央情報部(KCIA)に拉致され、命を狙われた経験のある金大中は、1999年に国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、権限や機能を大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設した。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては「太陽政策」と称される緊張緩和政策を志向した。2000年6月に朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌で金正日国防委員長との南北首脳会談が実現し、6.15南北共同宣言を締結した。南北首脳会談などが評価されて、ノーベル平和賞を受賞した[15]。これは2024年時点で韓国人唯一のノーベル賞受賞である。ただ、太陽政策は、当時北朝鮮にいた脱北者からみても、困窮して崩壊直前とされていた北朝鮮を救って継続させた上に、核実験の成功や核兵器保有に繋がったため批判がある[16]。
その後の報道では、会談実現のために金大中大統領から現代グループを通じて4億から5億ドルを金正日に渡していたとされる。(後述)
朴正煕・全斗煥・盧泰愚・金泳三と4代続いた慶尚道地域出身の大統領から、全羅道地域の金大中へ権力が移ったことにより韓国の地域対立の打破が期待されたが、当選時の経緯や、共に与党である新政治国民会議と忠清道地域に影響力を持つ自民連の統合が頓挫したことにより、この分野では目覚しい成果を上げることが出来なかった。
2001年3月8日、ワシントンでの米韓首脳会談後の会見で、横に立ったジョージ・W・ブッシュ大統領から「Mr.president」ではなく「this man」と呼ばれた[17]。同会談と、その前の電話協議で北朝鮮への融和政策を執拗に説いて不興を買ったためと見られている[17]。
2002年の任期末に3人の息子である金弘一・金弘業(朝鮮語版)・金弘傑(朝鮮語版)による不正蓄財が発覚し、国民へ代わりに謝罪をした[18]。なお、3人はそれぞれ国会議員に当選したことがある[19][20]。
3人の息子らが斡旋収賄で身柄を拘束された時に、李姫鎬(イ・ヒホ)夫人によると「家庭の中外でも言葉を失くした。互いに各々の書斎で別々に過ごし、夜遅くに寝ようとした。夫(金大中)が死刑宣告を受けた時の辛さも、これほどではなかった。一日も早く青瓦台(大統領府)から出ていきたかった」。月刊誌のインタビューで夫人は「2002年は悪夢」と語っている[21]。
大統領退任後と晩年[編集]
退任後は政界を引退した。延世大学校付属の金大中図書館設立に携わるなど政治とは距離を置き、研究生活を送った。
2006年6月に北朝鮮を訪問する予定であったが、北朝鮮のテポドン発射問題によって取り消された。
2008年11月27日に、民主労働党指導部に対して「民主労働党・民主党・市民社会団体がしっかりと手を組んで広範囲の民主連合を結成し、逆走を阻止する闘争をすれば必ず成功するはずだ。李明博政府の非核・開放3000政策は失敗した米ブッシュ政権の政策である」と述べた[22]。
2009年7月13日に三たび持病の肺炎を患う。同年8月18日にソウル市内の延世大学校医療院セブランス病院で、多臓器不全により、死去。83歳だった[23][24][25][26][27][28]。また、盧武鉉の死去(同年5月23日)と同じく、韓国の大手サイト(ネイバー、ダウム、ネート、Yahoo!、Google、MSN)では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。太陽政策を推し進めた大統領経験者が4か月足らずで相次いで死去したことになる。
日本政府は、金大中の死去に際し、麻生太郎内閣総理大臣(当時)名の追悼談話を発表した[29]。
2009年8月23日、ソウル市の国会議事堂前広場にて、韓国史上2人目の国葬に処された[30][31][32][33][34][35][36]。
盧武鉉が2009年5月23日に亡くなった際には、金大中は「私の体の半分が崩れたような気持ちだ」と語った。盧武鉉の死後、自身の死去(2009年8月18日)の約2か月前に、文在寅・朴智元・丁世均・安熙正らを呼び[37]、「必ず政権交代を果たしてほしい。私は年老いて病気で先が長くない。あなたたちがしなければならない」と言い遺していた。この金大中の「遺言」を受けて文在寅は政界入りを決意[38]し、8年後の2017年5月9日の大統領選挙に当選して第19代大統領に就任した。安熙正は翌2010年6月の全国同時地方選挙の忠清南道知事選挙に出馬し、当選した(2014年6月の全国同時地方選挙で再選)。朴智元は2016年の朴槿恵の大統領弾劾の際に、野党第二党(当時)の国民の党の院内代表兼非常対策委員長として国会での弾劾訴追案の可決に尽力した。丁世均は朴槿恵の弾劾訴追案議決の際に国会議長であった。
金大中は、併合時代の統治下で日本語教育を受けており、戦後も日本滞在歴が長かったため、流暢な日本語を話すことができた。日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じることが出来た。大統領当選前の、議員時代にも野党議員でありながらも日韓国交樹立に関し必要性を認識していた。反日度合いが強い韓国左派において、韓国右派最高権現である朴正煕への唯一の対抗馬であり続け、1971年大韓民国大統領選挙での得票率45.3%という善戦したことなど、韓国左派の絶対神のような存在であった。そのため、彼らの批判を抑えられるために韓国の国益に沿った対日言動が比較的出来た。日本統治時代の名前を名乗る、良かったことなど一切無く地獄だったという史観や経験談すら許されない韓国で統治時代の良かった部分も語る、昭和天皇崩御には日本大使館で焼香に参席、禁止されていた日本文化を解禁など、韓国右派の大統領が同じ言動をしたら袋叩きにされるようなことも、行った。
金大中大統領時代の一般日本人からの韓国への歴代大統領の中でも好感度が高く、民主化したことで吹き出た反日ポピュリズムに乗った金泳三時代の反日一色で起きていた日本人からの韓国への好感度の低下を回復どころか大幅に上昇させた。2002年の日韓ワールドカップ共催決定前まで、一般日本人の韓国の認知度は低く、無関心、全く知らないか、知っていても金大中事件などから軍事独裁国家というイメージであり、北朝鮮の方がイメージが良かった時代であったことも考慮してもであった。大統領になった金大中が1998年10月8日に日本の国会で「このような通貨危機を克服する過程で日本の支援は本当に大きかったです。日本は韓国の短期外債延長において、その3分の1を超える79億ドルを中長期外債に転換してくれました。世界のどの国よりも多くの協力をしていただいたのです。『困った時の友達が本当の友達』という言葉があります。私はこの場を借りて、改めて日本の積極的な誠意のこもったご協力に心から感謝を申し上げます」と韓国左派の大統領でなければ韓国の土を踏むことを許されないほど叩かれたはずであろう日本への感謝の国会演説までした。韓国では韓国左派メディアも左派の大統領という陣営の論理で演説を批判的に報道しなかった上に、反日が最も強い市民団体を含むほぼ全ての韓国左派も黙認したために炎上しなかった。この演説以後の2023年時点でも韓国ではIMF事態の日本の支援や利子の支払い放棄や猶予など情けは全く知られておらず「日本が資金を引き上げたから、IMF事態が起きた」と信じられている中でしたことは韓国左派の最高権力者である金大中でなければ不可能だったと指摘されている。
日韓関係を金泳三が破壊したが、収拾は金大中がした。このような反日度が歴代大統領で最小と指摘される対日姿勢は南北関係のためには日本の力が必要という韓国人の大多数が認められない事実を知っていたためと指摘されるが、どのような目的であったとしても金大中大統領の時代に日韓関係自体は最も良好であった。逆に、同じ左派大統領でも日本統治時代の朝鮮の実態を知らない、韓国の教科書やメディアなどで朝鮮半島史で最悪の地獄時代と教え込ままれた盧武鉉大統領は、金大中大統領と異なり、支持母体の韓国左派の好む反日言動・反日市民団体を優遇を含む反日政策に邁進したため、再び日韓関係は悪化している。日韓関係の回復が日本側から期待された韓国右派の李明博大統領も任期末期、国内の支持率が下がってからは人気取りのために反日路線に舵を切って、竹島上陸・天皇陛下の侮辱発言で日本人の対韓好感度が歴代最低になるなど日韓関係を最悪にした。朴槿恵大統領も歴代最も上手い用日であった父が「親日派」と韓国左派から指摘されていたことを意識してか、2015年にアメリカの裏付けがなされた慰安婦合意をするまでは日本から「告げ口外交」と批判されるまでの反日路線を取っていた[39]。 このような金泳三・盧武鉉の様に、強固な反日姿勢はとっておらず、宇都宮徳馬らの働きかけで2度命を救った日本に対しても寛容な立場で、韓国的基準なら本来「親日派」認定される言動をしているが[40]、小泉純一郎の靖国神社参拝問題には反対の姿勢であった。
また、前述の金大中事件がKCIAの犯行と判明した際には、事件の阻止と韓国側への抗議はしたものの、朴正煕大統領側との日韓政府友好関係を意識していた田中角栄らを田中の没後であったのにもかかわらず、痛烈に批判している。ただし、日本語訳版も出た大統領就任直後に出版された自伝『死線を越えて』では「金大中事件の際には日本の皆様には世話になった。」と日本に対する謝意は表明している。
大統領就任後の来日時には日本統治時代の恩師を訪問し、「豊田です。」と日本語で創氏改名時の苗字を名乗って、謝意を示した。1998年の来日に先立って、韓国政府として天皇を表す「日王」の呼称を取り止め、「天皇」を使用することを公式に宣言。また、来日前から「過去の清算」に強い意欲を持っていたとされる。皇居での宮中晩餐会で天皇の「お言葉」に対する答辞では、植民地支配など過去の歴史の傷には触れなかった[41]。愛子内親王の誕生に際しては「皇室と国民が待ちこがれた皇孫が誕生した事を、韓国国民とともに心よりおいします。皇室がこの度の慶事を機に、一層繁栄することを確信します」との祝電を送った。また、金は日本の常任理事国入りに対する韓国国内の支持を求めていた[43]。映画や音楽などの日本文化を受容することも表明[44]。
日韓ワールドカップも共同開催するなど、民間交流で日韓関係を好転させ、過去最も良好な外交関係を築いた。
対北や安全保障関連[編集]
盧武鉉と合わせて公安事件犯3,500人を特赦で釈放したり、韓国の情報機関である国家安全企画部を廃止し、大幅縮小・弱体化改編させた結果、北朝鮮の金正日死亡を、公式報道直前まで兆候すら把握出来なくさせたと批判する者もいる。日韓関係の面では評価される金大中に対し、批判的な韓国右派は「北朝鮮に引き取ってもらうべく策謀しており、弱い韓国という従北勢力の悲願をいくつも達成させた」としている[45]。
金大中は南北首脳会談の直前に現代グループが事業の権利を得るべく行った北朝鮮への5億ドル(4億ドルとも伝えられてる)の違法な送金を命令し[46]、中華人民共和国の北京・マカオ・香港を経由[47]して金正日とその長男の金正男[48][49]や側近の張成沢[50]に渡ったとされる。このため首脳会談は送金の見返りだったという見方があり[51]、ノーベル平和賞受賞に疑問を投げかけられている。
金大中の対北政策は苦難の行軍で破綻目の前だった北朝鮮を復活させ、統一を遠のかせたと指摘されている。当時脱北者も金大中開始前に障子すら手に入らない破綻寸前だったのに金大中政権が成立すると一気に物資であふれたと証言している。2002年3月、アメリカ議会調査局のラリー・ニクシー研究員が「現代は北朝鮮に対し、金剛山事業費以外にも4億ドル(約420億円)の秘密資金を支払った」と報告書を通じて明らかにした。当時、現代グループと北朝鮮による裏契約説のうわさがすでに広まっていたが、具体的な額を指摘されたのはこの報告書が初めてだった。金大中(キム・デジュン)政権も現代グループもどちらも「根拠のないうわさだ」として一蹴したが、のちに虚偽答弁だと明らかになった。韓国軍兵士6人が戦死した第2延坪海戦が2002年6月に起き、北朝鮮警備艇が韓国の高速艇に1発で命中させたとのニュースを見て「北朝鮮は新しい兵器を使った」と多くの人が想起した。「ニクシー報告書」には「北朝鮮は韓国から受け取った巨額の現金を軍事目的に使用している」とするCIA(米中央情報局)の分析も記載されていた。同年9月の韓国国会国政監査で厳総裁は、現代商船が産業銀行から融資を受けた4000億ウォン(当時4億ドル、約420億円)についてオム・ホソン議員に問いただされた厳総裁は国家情報院対北担当次長に会ったことも「現代商船社長は『われわれが使った金ではない。政府が代わりに返済すべきだ』と言った」と証言した。4000億ウォンの融資を承認した前任者(当時の金融監督委員長)が「私も悩んだ。青瓦台(韓国大統領府)秘書室長があまりにも強く言ってくるので、どうしようもなかった」と言っていたことも暴露した。北朝鮮への違法送金が社会に知られた瞬間だった。厳総裁は2017年の回顧録で「第2延坪海戦当時、北朝鮮軍は南韓が送った資金によって武装したかもしれないと考えると、夜も寝られなかった」と告白した。さらに2002年初めに会ったあるグループの役員が「(金大中)政権が対北事業への参加を要求してくるので頭が痛い」と言っていたとして「(私は)現代に続いて別の企業まで対北事業に関係するのは絶対に望ましくないと思った」「阻止しなければならないと考えた」とも伝えている。対北送金について自ら直接明らかにしようと決意した理由を明らかにした[52][53]。結局2003年、対北送金特別検事の捜査で金大中大統領と金正日)総書記による首脳会談の際、「裏金」として北朝鮮に4億5000万ドル(約470億円)が支払われていたことが分かった。送金について北朝鮮側と合意した人物は「1ドル(約105円)も支払っていない」とずっとうその証言を続けていた朴智元文化観光部(省に相当)長官だった。しかし、証拠が全て出てきたため刑務所に服役した[53]。
2004年3月28日、最高裁判所は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への不法送金事件で起訴された林東源元国家情報院長、李瑾栄元産業銀行総裁、朴相培元産業銀行副総裁、金潤圭現代峨山社長に対し有罪を確定したと発表。判決文では「高度な政治性を帯びた国家行為に対し、司法審査を抑制するという統治行為概念は認めるとしても、適法な手続きに沿うことなく、北朝鮮に4億5000万ドルを送金した行為自体は法的審査の対象となる」としている[54]。
2004年6月12日のMBCのインタビューにて、金大中は「対北送金に対する特別検事捜査は、それ自体やってはならないことだった。国政を遂行していれば、外部には知らせられない多数の問題がある。これを一々特別検事が捜査し、問題視すれば、国政は難しくなる。1億ドルを提供しようとしたのは事実だが、実定法では難しい部分があり、政府レベルでは提供できなかった。現代が通信に関する権利を北朝鮮側から提供される対価として支払ったと聞いている」と関与を認めた[55]。
2011年12月、金大中政権が発足当時からノーベル平和賞受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、北朝鮮に5億ドルを不法送金した内幕、安全企画部による盗聴などをメディアに次々と暴露した元国家情報院職員がアメリカへの政治亡命が認められた。この元職員は機密漏洩の容疑で国家情報院より告発されている[56][57]。
- 1967年の選挙では「建國大学」卒になっていた[58]。後日、自伝で「進学の夢は破れたが、建国大学へ行かなかったのはラッキーだった」とい訳をしていた[59]。
- 下の名前は元の漢字表記が「大仲」であったが、後に「大中」に改名した[60]。
- 木浦商業学校時代の恩師の椋本伊三郎は戦後、日本の外交官を務めたことがある。1998年10月、金大中が日本への国賓訪問中、迎賓館で椋本に会って、感謝の挨拶をしたこともある[61]。
- 魚のコモンカスベ(ガンギエイ)が好物である。1993年に政界引退宣言をしてイギリスに行った時も、韓国からガンギエイを輸送して食べたことがある[62]。
- 国会議員初当選時の任期は3日だけであったが、実はクーデターのニュースを受けてから上京したため、一度も国会議事堂に入らなかった[9]。
- 大統領になるまでの自宅軟禁、投獄期間は約10年に及ぶ。
- 私邸がソウル市麻浦区東橋洞にあったことから、金大中系の政治家は「東橋洞系」と呼ばれる。
- 妻の李姫鎬と共に書道に長ける[63]。
- ドラマ『砂時計』で全羅方言が悪役の言葉として使われることに不満を持つ[64]。
- 1997年に女優のオ・ジョンヘ(朝鮮語版)の結婚式の司会者を務めた[65]。
- 2000年の元日に、漢字交じりで「새千年 새希望(新たな千年、新たな希望 ハングル専用文:새천년 새희망)」と書き初めし、全国漢字教育推進総連合会から賞賛された。
- 政治家のジョー・バイデンとは金の米国亡命中に知り合った。2001年、米国上院外交委員長として韓国大統領府を訪れたバイデンは金大中のネクタイが気に入って、金とネクタイを交換した。金のネクタイにはスープの跡が残っていたが、バイデンは「大統領になれるという希望の象徴」と見なして大切に保管してきたと言われる[66]。
- 国会議員を務めた1970年に、当時24歳の女性(後に自殺)との間で婚外子をもうけたと、2005年4月、韓国のSBSテレビが報道した。国家情報院はこの問題を「1号懸案」と呼び、関係者の盗聴など特別な注意を払っていたという。
- 2009年に10月17~18日に嶺南大学付設「朴正煕リーダーシップ研究院」が世論調査機関「リサーチ・アンド・リサーチ」に依頼して行った「韓国の発展に最も大きく貢献した大統領」を問うアンケートで2位となった(1位は朴正煕)[67]。
- 2017年5月20~22 日に世論調査専門機関リサーチビューが行った歴代大統領の好感度調査(歴代大統領から最も好感を持つ人を1人だけ選ぶ調査)で盧武鉉(54.2%)、朴正煕(20.6%)に次いで3位(13.5%)となった[68](歴代大統領から1人だけを選ぶ調査では、盧武鉉と支持層が重なる金大中は不利になる)。
- 大統領在任中に死刑判決を受けた北朝鮮の工作員辛光洙(シン・グァンス)を恩赦で釈放した。また、18か月しか服役していない殺人犯朴琦緖(パク・キソ)を釈放した。
- 2020年、次男の金弘業と三男の金弘傑が金大中の遺産である私邸とノーベル賞の賞金をめぐり法廷闘争を行うことが報道された[69]。
日本語の著書[編集]
金大中を扱った作品[編集]
脚注・出典[編集]
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