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きむ大中でじゅん事件じけん

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きむ大中でじゅん事件じけん
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 김대중 납치사건
漢字かんじ きむ大中でじゅん拉致らち事件じけん
発音はつおん キム・デジュン ナプチサコン
日本語にほんごみ: きんだいちゅうらちじけん
英語えいご Kidnapping of Kim Dae-jung
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きむ大中でじゅん事件じけん(きんだいちゅうじけん、キム・デジュンじけん [注釈ちゅうしゃく 1])は、1973ねん8がつ8にち大韓民国だいかんみんこく民主みんしゅ活動かつどうおよび政治せいじで、のちに大統領だいとうりょうとなるきむ大中でじゅんが、韓国かんこく中央ちゅうおう情報じょうほう (KCIA) により日本にっぽん東京とうきょう千代田ちよだホテルグランドパレス2212ごうしつから拉致らちされて、ふねられ、ソウル軟禁なんきん状態じょうたいかれた5にちにソウル市内しない自宅じたくまえ発見はっけんされた事件じけんである。

きむ大中でじゅん拉致らち事件じけん(きんだいちゅう/キム・デジュンらちじけん)ともいう。

事件じけん背景はいけい

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きむ大中でじゅん

きむ大中でじゅん1971ねん大韓民国だいかんみんこく大統領だいとうりょう選挙せんきょ新民党しんみんとう当時とうじ)の正式せいしき候補こうほとして立候補りっこうほしたが、民主みんしゅ共和党きょうわとう当時とうじ)の候補こうほぼく正煕せいき(パク・チョンヒ)現役げんえき大統領だいとうりょう当時とうじ)にわずか97まんひょうやぶれた。ほおからくも勝利しょうりしたが、民主みんしゅ主義しゅぎ回復かいふくもとめるかね危機ききかんおぼえた。

大統領だいとうりょうせん直後ちょくご大型おおがたトラックがかねくるまみ、3にん死亡しぼうかねこし股関節こかんせつ障害しょうがいった。のち韓国かんこく政府せいふKCIAおこなった交通こうつう事故じこよそおった暗殺あんさつ工作こうさくであったことをみとめている。そのさい日本にっぽん暴力団ぼうりょくだんへの依頼いらい検討けんとうしていたことが国家こっか情報じょうほういん過去かこ事件じけん真相しんそう究明きゅうめい委員いいんかいあきらかになっているが、最終さいしゅうてきにはKCIAによる外国がいこくでの殺害さつがい断念だんねんした[1]

翌年よくねんほお非常ひじょう事態じたい宣言せんげん発布はっぷ憲法けんぽう無視むしして国家こっか戒厳かいげんれいにおいた(じゅうがつ維新いしん)。そのとき海外かいがいにいたかね韓国かんこくかえればころされると判断はんだん帰国きこく断念だんねん日本にっぽんアメリカ実力じつりょくしゃ会見かいけんをしたり、海外かいがい在住ざいじゅう同胞どうほうたち講演こうえんしたりして、韓国かんこく民主みんしゅ主義しゅぎ自由じゆう選挙せんきょもとめる運動うんどうおこなった。

丁度ちょうどそのころほお側近そっきんであったあつしらく(イ・フラク)中央ちゅうおう情報じょうほう部長ぶちょう平壌ぴょんやん訪問ほうもんし、平壌ぴょんやん金英柱きむよんちゅう組織そしき指導しどう部長ぶちょう会談かいだんし、ぎゃくえいちゅう代理だいりとしてぼくしげるあきらだいふく首相しゅしょう同年どうねん5がつ29にちから6がつ1にちあいだソウルを訪問ほうもんして会談かいだんし、7がつ4にちには南北なんぼく共同きょうどう声明せいめいはっ祖国そこく統一とういつ促進そくしんのための原則げんそく合意ごういした。

この歴史れきしてき会談かいだんによって韓国かんこく国内こくない評価ひょうか一気いっきたかまり、「ポストぼく正煕せいき」とのうわささえささやかれるようになる。そんななか、1973ねん昭和しょうわ48ねん)、首都しゅと警備けいび司令しれいかんいん必鏞(いん・ひつよう/ユン・ピリョン)将軍しょうぐんとの談話だんわらした失言しつげん(「大統領だいとうりょうはもうおねんだから、後継こうけいしゃえらぶべき」)に激怒げきどしたぼく正煕せいきは、両人りょうにんならびに関係かんけいしゃ拘束こうそく徹底的てっていてき調しらげるようにめいじた。しかし、ここで側近そっきんから造反ぞうはんしゃたようにられるのはほお政権せいけんにとって痛手いたでとなるため、あつしらく釈放しゃくほうされた。なお、いん必鏞はこの失言しつげん口実こうじつとしてクーデターを計画けいかくしているという陰謀いんぼうろんひろまったすえ最終さいしゅうてき汚職おしょく容疑ようぎみずからにちかしい軍人ぐんじんとも拘束こうそく処罰しょばつされた。これがいわゆるいん必鏞事件じけんである[注釈ちゅうしゃく 2]

こうしてほお機嫌きげんそこねたは、なにとか名誉めいよ挽回ばんかいほお政敵せいてきであるかね拉致らちする計画けいかくてるにいたったのである。

事件じけん経緯けいい

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1973ねん昭和しょうわ48ねん)7がつ世界せかいでも「民主みんしゅ主義しゅぎ活動かつどう」としてたか名声めいせいるようになっていたきむ大中でじゅんは、日本にっぽん自民党じみんとう左派さは宇都宮うつのみや徳馬とくまらに招待しょうたいされ、講演こうえんするため東京とうきょう訪問ほうもんした。当時とうじのことをかねは「わたし東京とうきょういたとき、友人ゆうじんたち在日ざいにち韓国かんこく朝鮮ちょうせんじんヤクザたちがわたしねらっていると忠告ちゅうこくしてくれました。在日ざいにち韓国かんこく朝鮮ちょうせんじんのヤクザたちは大韓民国だいかんみんこく居留民きょりゅうみんだん民団みんだん)やKCIAとつよむすびつきがあるのです」とのちインタビューかたっている。すぐに亡命ぼうめいしゃ生活せいかつはいり、2・3にちごとにホテルをえ、日本人にっぽんじん偽名ぎめい使つかった。

1973ねん昭和しょうわ48ねん)8がつ8にち午前ごぜん11ごろきむ東京とうきょうホテルグランドパレス2212ごうしつに、病気びょうき療養りょうようのため宿泊しゅくはくしていたはりいちひがし民主みんしゅ統一とういつとう当時とうじ党首とうしゅまねかれ会談かいだんした。前年ぜんねん開業かいぎょうしたどうホテル(東京とうきょう千代田ちよだ飯田橋いいだばし1-1-1)は、九段下くだんした交差点こうさてん飯田橋いいだばし方面ほうめんはいってすぐにあり、うら路地ろじからは朝鮮総連ちょうせんそうれん本部ほんぶ至近しきん場所ばしょ位置いちしている。

午後ごご119ふんごろ、会談かいだんえたかねは2212ごうしつたところを6、7にんおそわれ、そら部屋へやだった2210ごうしつまれ、クロロホルムがされて意識いしき朦朧もうろうとなったのち、4にんにより、エレベーター地下ちかろされ自動車じどうしゃせられた。パレスホテルから自動車じどうしゃ関西かんさい方面ほうめん神戸こうべ)のアジトにれてき、その工作こうさくせんコードネームりゅうきん〈ヨングム〉ごう)で、神戸こうべこうから日本にっぽん出国しゅっこくしたとられる。朦朧もうろうとした意識いしきなか「『こちらが大津おおつ、あちらが京都きょうと』という案内あんないいた」ときむ大中でじゅん証言しょうげんしている。

きむ大中でじゅんは「ふねるとき、あしおもりをつけられた」、「うみになげこまれそうになった」と後日ごじつかたっている。しかし事件じけん察知さっちした(当時とうじ厚生省こうせいしょう高官こうかん通報つうほうによるとされる。またアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連邦れんぽう政府せいふも、このことを察知さっちしていたとされる)海上保安庁かいじょうほあんちょうヘリコプター拉致らちせん追跡ついせきし、照明しょうめいだん投下とうかするなどして威嚇いかくしたため、日本国にっぽんこく政府せいふ拉致らち事実じじつ発覚はっかくしたことをさとった拉致らち実行じっこうはんは、きむ大中でじゅん殺害さつがい断念だんねん釜山ぷさんまで連行れんこうし、ソウル特別とくべつ解放かいほうしたとされている。きむ大中でじゅん自身じしん日本にっぽんマスコミとのインタビューで、甲板かんぱんされ、うみ投下とうかされることを覚悟かくごしたときに、追跡ついせきしていた日本にっぽんのヘリコプターが照明しょうめいだん投下とうかしたと証言しょうげんしている。

拉致らちから5にちきむ大中でじゅんはソウルの自宅じたくちかくのガソリンスタンド解放かいほうされ、自力じりき自宅じたくもどった。直後ちょくご自宅じたく記者きしゃ会見かいけんおこなったさい日本人にっぽんじん記者きしゃだんたいして解放かいほうされた直後ちょくご心境しんきょうを、「暗闇くらやみなかでもなお 明日あしたしんじ 地獄じごくなかでもなお かみ存在そんざいうたがわない」と日本語にほんごでメモにしるした。

KCIAと韓国かんこくけいヤクザ

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事件じけんしばらくってから、警視庁けいしちょう事件じけんにKCIAが関与かんよしていたと発表はっぴょう捜査そうさいんは、ホテルの現場げんばからきむ東雲しののめちゅう日本国にっぽんこく大韓民国だいかんみんこく大使館たいしかん一等いっとう書記官しょきかん変名へんめい本名ほんみょうきむ炳賛〈キム・ピョンチャン〉)の指紋しもん検出けんしゅつし、営利えいり誘拐ゆうかい容疑ようぎ出頭しゅっとうもとめたが、東雲しののめ外交がいこう特権とっけんたて拒否きょひ東雲しののめはKCIAの東京とうきょうでの指揮しきかんられていた人物じんぶつで、逃走とうそう使つかわれた自動車じどうしゃざい横浜よこはまふく領事りょうじのものであった。日本国にっぽんこく政府せいふ東雲しののめたいペルソナ・ノン・グラータ発動はつどうもなく外交がいこう特権とっけん保護ほごされて大韓民国だいかんみんこく帰国きこくした。

警視庁けいしちょうによると「すくなくとも4つのグループ、総勢そうぜい20にんから26にん事件じけん関与かんよした」と公表こうひょうしている。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくの『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』の記事きじによると「ぼく正煕せいき関係かんけいふかかった、韓国かんこくじんヤクザの町井まちい久之ひさゆきていたてひさし〈チョン・ゴンヨン〉東声とうせいかい会長かいちょう)が、ホテルのフロアをほとんどすべてり、KCIAに協力きょうりょくした」と掲載けいさいした。「ニューズウィーク東京とうきょう支局しきょくちょうバーナード・クライシャーは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく本社ほんしゃに「町井まちい久之ひさゆきはKCIAと緊密きんみつ行動こうどうともにし事件じけん背後はいごにいた。しかし日本にっぽんのどの新聞しんぶんもこのことをげない。それは町井まちいくみ自分じぶんたち誹謗ひぼうするものを、(日本人にっぽんじんでさえ)拷問ごうもんころすことさえいとわないからだ」との記事きじおくっている。

韓国かんこく政府せいふが、きむ大中でじゅん中傷ちゅうしょうする情報じょうほう日本にっぽん新聞しんぶんしゃなが役割やくわりをしていた柳川やながわ次郎じろうりょうもとすず〈ヤン・ウォンソク〉山口組やまぐちぐみけい柳川やながわぐみ組長くみちょう)も関与かんよにちかん関連かんれん著書ちょしょおおジャーナリスト五島ごしま隆夫たかおによると「柳川やながわ日本にっぽん暗黒あんこくがいほか人物じんぶつ同様どうように、児玉こだまほまれおっと自民党じみんとう後援こうえんしゃ右翼うよく黒幕くろまく)をつうじて韓国かんこく政府せいふ接触せっしょくをとった」という。

また、もと陸上りくじょう自衛隊じえいたい3で、陸上りくじょう幕僚監部ばくりょうかんぶだいべつはんなどを退官たいかん興信所こうしんじょいとなんでいた坪山つぼやまあきらさんにも、拉致らち設定せってい依頼いらいきむ東雲しののめからあったが、愛国心あいこくしんから坪山つぼやま拒否きょひし、当時とうじ内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかん後藤田ごとうだ正晴まさはるから、しばらくかくしていろと忠告ちゅうこくされ、伊豆半島いずはんとう潜伏せんぷくしていた。

事件じけんのその

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ぶんこう事件じけんぼく正煕せいき暗殺あんさつ事件じけん

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この事件じけん責任せきにんってあつしらく中央ちゅうおう情報じょうほう部長ぶちょうしょく解任かいにんされ、日本にっぽん国内こくないでははんかん感情かんじょうたかまった。その運動うんどうなかから総連そうれんけいそそのかされたぶんこう(ムン・セカン)がぼく正煕せいき殺害さつがいこころみ、りくえいおさむ(ユク・ヨンス)大統領だいとうりょう夫人ふじん死亡しぼうした(ぶんこう事件じけん)。この事件じけん責任せきにんをとって警護けいご室長しつちょうほお鍾圭(パク・チョンキュ)が解任かいにんされた。

その中央ちゅうおう情報じょうほう部長ぶちょう就任しゅうにんしたかねけい(キム・ジェギュ)が、警護けいご室長しつちょう就任しゅうにんして権勢けんせいるうようになったくるまさとし(チャ・ジチョル)にたいする反感はんかんから、1979ねん10がつほおくるま酒席しゅせき射殺しゃさつするぼく正煕せいき暗殺あんさつ事件じけんこしてほお政権せいけん崩壊ほうかいがねくとともに、その事件じけん率先そっせんして調査ちょうさした国軍こくぐん保安ほあん司令しれいかんちょん斗煥どふぁん(チョン・ドゥファン)の台頭たいとうむきっかけとなった。

日本にっぽんたいする主権しゅけん侵害しんがい

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どう事件じけんについて、日本にっぽん政府せいふ主権しゅけん侵害しんがいたいする韓国かんこく政府せいふ謝罪しゃざいと、日本にっぽん捜査そうさ当局とうきょくによる調査ちょうさ要求ようきゅうしていたが、同年どうねん11がつ金鍾泌きんしょうひつ(キム・ジョンピル)首相しゅしょう当時とうじ)の訪日ほうにち1975ねん7がつ宮澤みやざわ喜一きいち外相がいしょうどう)の訪韓ほうかん政治せいじ決着けっちゃくはかり、韓国かんこくがわ捜査そうさりを確認かくにんしたが、韓国かんこく政府せいふはKCIA職員しょくいんかどうかもみとめず起訴きそ処分しょぶんとし、国家こっか機関きかん関与かんよ全面ぜんめん否定ひていしていた。

後年こうねん大統領だいとうりょうになったきむ大中でじゅんはこの事件じけん一切いっさい不問ふもんにするとの立場たちばあきらかにし、韓国かんこく政府せいふたいする賠償ばいしょう請求せいきゅうなどに発展はってんするおそれのある真相しんそう究明きゅうめい露骨ろこつ牽制けんせいした。また、1973ねん11月2にちおこなわれた田中たなか角栄かくえい首相しゅしょう当時とうじ)と金鍾泌きんしょうひつ首相しゅしょう当時とうじ)との会談かいだん内容ないようおさめた機密きみつ文書ぶんしょ盧武鉉のむひょん政権せいけんにより公開こうかい2006ねん2がつ5にち)され、にちかんりょう政府せいふ両国りょうこく関係かんけい配慮はいりょした政治せいじ決着けっちゃく穏便おんびんことませようとしていたことがあきらかになった。『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』2001ねん2がつごう記事きじ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]によると「田中たなか角栄かくえい首相しゅしょうが、政治せいじ決着けっちゃく解決かいけつさぐほお大統領だいとうりょうがわからすくなくとも現金げんきん4おくえんっていた」と現金げんきん授受じゅじゅ同席どうせきした木村きむら博保ひろやすもと新潟にいがた県議けんぎ証言しょうげんしている。

またむすめ田中たなか眞紀子まきこもと外務がいむ大臣だいじんによると、事前じぜん田中たなか角栄かくえいは「殺人さつじんをしないこと」を条件じょうけんに、拉致らちすることを了承りょうしょうずみであったという。ただ角栄かくえい当時とうじ対応たいおうについては「きむ大中でじゅん殺害さつがいするつもりなら爆破ばくはするぞ」とつよ殺害さつがい中止ちゅうしもとめたというせつと、ことなかれ主義しゅぎてき拉致らちみとめたというせつがある[よう出典しゅってん]

2006ねん7がつ26にち韓国かんこく政府せいふ韓国かんこく中央ちゅうおう情報じょうほう (KCIA) の組織そしきてき犯行はんこうだったとする結論けつろんし、国家こっか機関きかん関与かんよしたことをはじめて政府せいふとしてみとめた。2007ねん10月14にち北海道新聞ほっかいどうしんぶんによると、「当初とうしょきむ日本にっぽん韓国かんこくけい暴力団ぼうりょくだん依頼いらいして暗殺あんさつすることがKCIAない検討けんとうされたが、成功せいこう困難こんなん判断はんだんして断念だんねんしたことをもとKCIA職員しょくいん証言しょうげんした」との記事きじ掲載けいさいした。なお、もとほお大統領だいとうりょう側近そっきんはこの証言しょうげん否定ひていしている。拉致らち目的もくてきかね海外かいがいでのはん政府せいふ活動かつどう抑制よくせいするためだったとべつもとKCIA職員しょくいん証言しょうげんし、殺害さつがい計画けいかく事実じじつ否定ひていした。

同年どうねん10月24にち国家こっか情報じょうほういん (NIS) の過去かこ事件じけん真実しんじつ究明きゅうめい委員いいんかいは、当時とうじのKCIAによる組織そしきてき犯行はんこうだったとする報告ほうこくしょ発表はっぴょうし、韓国かんこく政府せいふとして事件じけんへの関与かんよはじめて公式こうしきみとめ、やなぎあきらかき駐日ちゅうにち大使たいし日本にっぽんこく陳謝ちんしゃをした[2]

なお、これにたい日本国にっぽんこく政府せいふは、日本にっぽん主権しゅけん侵害しんがいたいする公式こうしき謝罪しゃざい日本にっぽん捜査そうさ当局とうきょくによる関係かんけいしゃ聴取ちょうしゅもとめたが、2021ねん現在げんざいまで正式せいしき韓国かんこく政府せいふによる謝罪しゃざいはない。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 現在げんざい日本にっぽんでは韓国かんこく朝鮮ちょうせんじん氏名しめい韓国かんこく朝鮮ちょうせんみにするのが慣例かんれいになっているが、当時とうじ日本語にほんご音読おんよにする慣例かんれいがあった。承晩しょうばんラインなどもおなじである。
  2. ^ なお、当時とうじ韓国かんこくぐんないにはほお政権せいけんぐんない支持しじとして構成こうせいされていた秘密ひみつ結社けっしゃハナフェ(ハナかい一心いっしんかい)」が存在そんざいしており、いん事実じじつじょう後見人こうけんにんとなっていた。この事件じけんでハナフェの存在そんざい発覚はっかくしたが、ぼく正煕せいきぐん内部ないぶ動向どうこう把握はあくするためハナフェを解体かいたいせず事実じじつじょう黙認もくにんし、いんちかいメンバーが退役たいえき処分しょぶんとなるだけだった。この結果けっか、ハナフェの創立そうりつメンバーで、実質じっしつてきなリーダーであったちょん斗煥どふぁんだい11・12だい韓国かんこく大統領だいとうりょう)の地位ちいたかまることとなる。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • “(昭和しょうわ再訪さいほうきむ大中でじゅん事件じけん. 朝日新聞あさひしんぶんDIGITAL. (2013ねん7がつ1にち). http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201306290249.html 2014ねん4がつ12にち閲覧えつらん 
  • きむ大中でじゅん先生せんせい拉致らち事件じけん真相しんそう糾明きゅうめいもとめる市民しみんかい(韓国かんこく)『きむ大中でじゅん拉致らち事件じけん真相しんそうさんいち書房しょぼう、1999ねんISBN 978-4380992131 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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