ネルソン・マンデラ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ネルソン・マンデラ
Nelson Mandela

ネルソン・マンデラ(1994ねん撮影さつえい

任期にんき 1994ねん5がつ10日とおか1999ねん6月14にち
ふく大統領だいとうりょう フレデリック・デクラーク
ターボ・ムベキ

アフリカ民族みんぞく会議かいぎ
だい11だい 議長ぎちょう
任期にんき 1991ねん7がつ7にち1997ねん12月20にち

任期にんき 1998ねん – 1999ねん

任期にんき 1994ねん5がつ – 1999ねん6がつ

出生しゅっしょう (1918-07-18) 1918ねん7がつ18にち
みなみアフリカ連邦れんぽうトランスカイクヌ
死去しきょ (2013-12-05) 2013ねん12月5にち(95さいぼつ
南アフリカ共和国の旗 みなみアフリカ共和きょうわこくハウテンしゅうヨハネスブルグ
政党せいとう アフリカ民族みんぞく会議かいぎ
みなみアフリカ共産党きょうさんとう
出身しゅっしんこう フォートヘア大学だいがく
ロンドン大学だいがく
みなみアフリカ大学だいがく
ウィットワーテルスランド大学だいがく
配偶はいぐうしゃ エブリン・メイス(1944 – 1957)
ウィニー・マンデラ(1958 – 1996)
グラサ・マシェル(1998 – 2013)
子女しじょ 7にん
署名しょめい
ノーベルしょう受賞じゅしょうしゃノーベル賞
受賞じゅしょうねん1993ねん
受賞じゅしょう部門ぶもんノーベル平和へいわしょう
受賞じゅしょう理由りゆうアパルトヘイト体制たいせい平和へいわてき終結しゅうけつさせてあたらしい民主みんしゅてきみなみアフリカのいしずえきずいたため[1]

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラコサ: Nelson Rolihlahla Mandela [xolíɬaɬa mandɛ̂ːla]1918ねん7がつ18にち - 2013ねん12月5にち)は、みなみアフリカ共和きょうわこく政治せいじ弁護士べんごしだい8だいみなみアフリカ共和きょうわこく大統領だいとうりょう同盟どうめい諸国しょこく首脳しゅのう会議かいぎ事務じむ総長そうちょうだい20だい)、みなみアフリカ共和きょうわこく国民こくみん議会ぎかい議員ぎいん(1)、アフリカ民族みんぞく会議かいぎ議長ぎちょうだい11だい)、みなみアフリカ共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいん歴任れきにんした。

わかくしてはんアパルトヘイト運動うんどうとうじ、1964ねん国家こっか反逆はんぎゃくざい終身しゅうしんけい判決はんけつける。27年間ねんかんおよ獄中ごくちゅう生活せいかつのち1990ねん釈放しゃくほうされる。よく1991ねんアフリカ民族みんぞく会議かいぎ(ANC)の議長ぎちょう就任しゅうにん当時とうじ大統領だいとうりょうフレデリック・デクラークとアパルトヘイト撤廃てっぱい尽力じんりょくし、1993ねんにデクラークとともノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょう1994ねんみなみアフリカはつぜん人種じんしゅ参加さんかした普通ふつう選挙せんきょ大統領だいとうりょう就任しゅうにん民族みんぞく和解わかい協調きょうちょう政策せいさくすすめ、経済けいざい政策せいさくとして復興ふっこう開発かいはつ計画けいかく(RDP)を実施じっしした。1999ねんおこなわれたそう選挙せんきょ政界せいかい引退いんたいした。

みなみアフリカ共和きょうわこくでの愛称あいしょうマディバタタちち[2]。マディバとはかれ先祖せんぞだれかを象徴しょうちょうする氏族しぞくめいであり、部族ぶぞく社会しゃかい影響えいきょうのこみなみアフリカではたんなる愛称あいしょうではなく、尊称そんしょうちかいものである。ミドルネームのホリシャシャはコーサで「トラブルメーカー」の意味いみ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

はんアパルトヘイトの闘士とうし[編集へんしゅう]

青年せいねん時代じだい 1937ねんごろ

マンデラは1918ねん7がつ18にちトランスカイウムタタ近郊きんこうクヌむらで、テンブじんアフリカーンスばん首長しゅちょうとしてまれた。少年しょうねん時代じだいには、首長しゅちょうから、部族ぶぞく社会しゃかいはんえい闘争とうそう歴史れきしや、部族ぶぞく首長しゅちょうつべきリーダーシップや寛容かんよう精神せいしんいてそだった。このとき経験けいけんが、かれはんアパルトヘイト運動うんどう根底こんていからささえた[3]。メソジストのミッションスクールを卒業そつぎょうしたのちフォートヘア大学だいがくまなぶ。在学ざいがくちゅうの1940ねんには、学生がくせいストライキを主導しゅどうしたとして退学たいがく処分しょぶんける。そのみなみアフリカ大学だいがく夜間やかん通信つうしん課程かていまなび1941ねん学士がくしごう取得しゅとくした。また、そのウィットワーテルスランド大学だいがく英語えいごばん法学ほうがくまなび、学士がくしごう取得しゅとくした。1944ねんにアフリカ民族みんぞく会議かいぎ(ANC)に入党にゅうとう。その青年せいねん同盟どうめい創設そうせつ青年せいねん同盟どうめい執行しっこう委員いいん就任しゅうにんしてはんアパルトヘイト運動うんどう取組とりくむ。

1948ねんダニエル・マランひきいる国民党こくみんとう選挙せんきょ勝利しょうり政権せいけん奪取だっしゅすると、しん政権せいけん急速きゅうそくにアパルトヘイト体制たいせい構築こうちくしていき、ただでさえ制限せいげんされていた黒人こくじん権利けんりはさらに制限せいげんされるようになった。このためANCないでも政府せいふへのより強硬きょうこう対決たいけつ姿勢しせいもとめるこえたかまっていき、なかでも青年せいねん同盟どうめい有力ゆうりょくメンバーであるマンデラはその先頭せんとうっていた。1949ねんには穏健おんけんきゅう指導しどうとし、青年せいねん同盟どうめいからマンデラ、ウォルター・シスルオリバー・タンボ指導しどうメンバーに選出せんしゅつされ、以降いこうANCは請願せいがん路線ろせんからストライキデモなどをさかんにって政府せいふ圧力あつりょくをかける戦術せんじゅつ反抗はんこうキャンペーン英語えいごばん)に転換てんかんした[4]1950ねん、ANC青年せいねん同盟どうめい議長ぎちょう就任しゅうにん。アフリカ民族みんぞく会議かいぎ構成こうせいするみなみアフリカ共産党きょうさんとうにもひそかに入党にゅうとうし、とう中央ちゅうおう委員いいんつとめるようになる。1952ねん8がつにはヨハネスブルグにてフォート・ヘア大学だいがく出会であったオリバー・タンボとともに、黒人こくじんはつ弁護士べんごし事務所じむしょ開業かいぎょうする。同年どうねんの12月にANCふく議長ぎちょう就任しゅうにん1955ねん6月25にちおよび26にちには、ANCは政治せいじ団体だんたいとともに、ヨハネスブルク郊外こうがいのクリップタウンにおいてぜん人種じんしゅ参加さんかする人民じんみん会議かいぎ開催かいさいして自由じゆう憲章けんしょう採択さいたくし、自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎ旗印はたじるしとするようになった[5]。こうした活動かつどうみなみアフリカ政府せいふににらまれ、マンデラはじめ人民じんみん会議かいぎ主要しゅよう参加さんかしゃたちは1956ねん国家こっか転覆てんぷくざい逮捕たいほされ裁判さいばんにかけられたが、無罪むざいとなった[6]

しかしこうした活動かつどうなかで、暴力ぼうりょくてき手段しゅだん限界げんかいさけばれるようになり、ANCないでも武装ぶそう闘争とうそう支持しじするこえおおきくなっていった。そして1960ねんシャープビル虐殺ぎゃくさつ事件じけんきると、マンデラも武装ぶそう闘争とうそう路線ろせんへと転換てんかんし、1961ねん11月、ウムコントゥ・ウェ・シズウェ民族みんぞくやり)という軍事ぐんじ組織そしきつくり、その司令しれいかんとなった。しかし、それらの活動かつどうなどで1962ねん8がつ逮捕たいほされる。また、1963ねん7がつにはウォルター・シスルやゴバン・ムベキといったANC指導しどうがヨハネスブルク近郊きんこうのリヴォニアにおいて逮捕たいほされ、すでに獄中ごくちゅうにあったマンデラもこのけんさい逮捕たいほされた。

27年間ねんかん投獄とうごく[編集へんしゅう]

マンデラが収監しゅうかんされていたロベンとう収容しゅうようしょ

リヴォニア裁判さいばん英語えいごばんばれるこの裁判さいばんで、マンデラは1964ねん国家こっか反逆はんぎゃくざい終身しゅうしんけいとなり、ロベンとう刑務所けいむしょ収監しゅうかんされた[注釈ちゅうしゃく 1][7]1969ねん5月には、イギリスじん傭兵ようへい有志ゆうしあつまり、マンデラを救出きゅうしゅつする作戦さくせんてられたことがあったが、みなみアフリカがわへの情報じょうほうれで失敗しっぱいわっている[8]収監しゅうかんは27ねんにもおよび、マンデラはこの時期じき結核けっかくはじめとする呼吸こきゅう疾患しっかんになり[9]石灰石せっかいせき採掘さいくつじょうでの重労働じゅうろうどうによっていためた[10]収監しゅうかんちゅうにも勉学べんがくつづけ、1989ねんにはみなみアフリカ大学だいがく通信つうしんせい課程かてい修了しゅうりょうし、ほう学士がくしごう取得しゅとくした。また、アパルトヘイトの主要しゅよう勢力せいりょくであるアフリカーナーとの対話たいわ予測よそくし、アフリカーンスラグビー知識ちしきにつけたのも獄中ごくちゅうでのことだった。

獄中ごくちゅうにあってマンデラは解放かいほう運動うんどう象徴しょうちょうてき存在そんざいとみなされるようになり、マンデラの釈放しゃくほう国際こくさいてきもとめられるようになっていった。1982ねんにはロベンとうからポールスモア刑務所けいむしょ移送いそうされ、ロベンとう時代じだいよりはやや環境かんきょう改善かいぜんされた。1988ねんにはビクター・フェルスター刑務所けいむしょさい移送いそうされた。1989ねんにはピーター・ウィレム・ボータ大統領だいとうりょうがケープタウンにマンデラをまねき、会見かいけんおこなった[11]1989ねん12月にも当時とうじ大統領だいとうりょうフレデリック・デクラーク会談かいだんしているが、このときはまだ刑務所けいむしょから釈放しゃくほうされることはなかった。

釈放しゃくほうぜん人種じんしゅ選挙せんきょ[編集へんしゅう]

1992ねんフレデリック・ウィレム・デクラークみなみアフリカ共和きょうわこく大統領だいとうりょう握手あくしゅするネルソン・マンデラ次期じき大統領だいとうりょう

1990ねん2がつ2にちにデクラークは、ANCほか禁止きんしされていた政治せいじ団体だんたい活動かつどう許可きょかとともにマンデラ釈放しゃくほう約束やくそくし、2がつ11にちにマンデラは釈放しゃくほうされる。釈放しゃくほう第一声だいいっせいはケープタウンの市役所しやくしょのバルコニーでおこなわれ、10まんにん聴衆ちょうしゅうかれ釈放しゃくほういわった[12]

釈放しゃくほう、マンデラはANCのかり本部ほんぶかれていたザンビア首都しゅとルサカき、病気びょうき療養りょうようちゅうだった議長ぎちょうオリバー・タンボを代行だいこうするかたちでANCふく議長ぎちょう就任しゅうにんして[13]アパルトヘイトの撤廃てっぱいけてむこととなった。また、アパルトヘイト撤廃てっぱいけて理解りかいるためにこの時期じきには外遊がいゆう精力せいりょくてきっており、1990ねん10月27にちから11月1にちまでANC代表だいひょうだんひきいて訪日ほうにちしている。1990ねん5がつには国民党こくみんとう政府せいふとのだいいちかい予備よび会談かいだんがケープタウンでおこなわれ、マンデラはANC代表だいひょうとして出席しゅっせきした[14]。8月にはだいかい会議かいぎおこなわれ、マンデラは政治せいじはん釈放しゃくほうとアパルトヘイトしょ制度せいど撤廃てっぱいしん憲法けんぽう制定せいていのための前提ぜんていとして要求ようきゅうした。かわりに国民党こくみんとうからは政治せいじ暴力ぼうりょく停止ていし要求ようきゅうされた。すべての黒人こくじん勢力せいりょく基盤きばんとするANCと、ナタールしゅう勢力せいりょくズールーじん政治せいじ基盤きばんとするインカタ自由党いんかたじゆうとうとは80年代ねんだい後半こうはんからはげしい武力ぶりょく抗争こうそうつづいていたが、マンデラ釈放しゃくほう騒乱そうらんがさらにはげしくなっていたためである。マンデラはこうそう中止ちゅうし再三さいさんけたが、効果こうかはなく、こうそう悪化あっかするばかりとなっていた。

一方いっぽう国民党こくみんとうはこれをけ、1991ねん6がつにアパルトヘイトの根幹こんかんである人口じんこう登録とうろくほう原住民げんじゅうみん土地とちほう集団しゅうだん地域ちいきほうなどを廃止はいしした。1991ねん7がつには、長年ながねん議長ぎちょうつとめていたオリバー・タンボにわり、マンデラはANC議長ぎちょう選出せんしゅつされた[15]。1991ねん12月には、国民党こくみんとうとANCが国内こくないのすべての政党せいとうびかけ、保守党ほしゅとうやアザニア解放かいほう機構きこうなどは不参加ふさんかめたものの、のこりの政党せいとうによってだいいちかい民主みんしゅみなみアフリカ会議かいぎ(CODESA)が開催かいさいされた。このCODESAにはマンデラは直接ちょくせつ参加さんかせず、党内とうない若手わかてであるシリル・ラマポーザ代表だいひょうとしておくみ、政府せいふ与党よとう国民党こくみんとう代表だいひょうロエルフ・メイヤーとう代表だいひょう折衝せっしょうかさねさせた。CODESAはだいかいまでおこなわれたものの、1992ねん6がつフェリーニヒングちかくのボイパトンでインカタによるANC支持しじしゃへの虐殺ぎゃくさつ事件じけんがあり、これによりマンデラは交渉こうしょうから撤退てったいすることを表明ひょうめいして暗礁あんしょうげた。これはラマポーサの説得せっとく国民党こくみんとうとの交渉こうしょうによって打開だかいされ、ANCは交渉こうしょう復帰ふっき。1993ねん3がつには複数ふくすう政党せいとう交渉こうしょうフォーラムのふたた交渉こうしょうはじまった。交渉こうしょう開始かいし直後ちょくごに、ANCの有力ゆうりょく政治せいじでマンデラの後継こうけいとみなされていたクリス・ハニ英語えいごばん暗殺あんさつされ、みなみアフリカ全土ぜんど緊張きんちょうはしったが、このときマンデラは民衆みんしゅう冷静れいせいになるようもとめ、暴動ぼうどう勃発ぼっぱつ交渉こうしょう崩壊ほうかいふせいでいる。1993ねん11月にはついに合意ごうい成立せいりつし、まず暫定ざんてい憲法けんぽう国会こっかいにおいて採択さいたくされ、1994ねん4がつぜん人種じんしゅ参加さんか制憲せいけん議会ぎかい選挙せんきょおこない、選出せんしゅつされたしん議会ぎかいにおいてしん憲法けんぽう作成さくせいすることがさだめられた。このことをけ、1993ねん12月10にちにはデクラークとともにノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょうした。

ぜん人種じんしゅ選挙せんきょ実施じっし決定けっていしても、ボプタツワナクワズールー英語えいごばんといったホームランド (バントゥースタン)半分はんぶんや、インカタ自由党いんかたじゆうとう保守党ほしゅとう英語えいごばんといった一部いちぶ政党せいとうはこのとき不参加ふさんか表明ひょうめいしており、かく政党せいとう私兵しへいもちいてこうそうかえ状況じょうきょうおさまっていなかった。しかし、1994ねん3がつ10日とおかにはボプタツワナで白人はくじん右翼うよくおよびボプタツワナ・ホームランド政府せいふ民衆みんしゅうとの衝突しょうとつき、民衆みんしゅうがわについたボプタツワナ国防こくぼうぐん英語えいごばん白人はくじん右翼うよく敗走はいそう右翼うよく弱体じゃくたい痛感つうかんしたコンスタンド・フィリューン英語えいごばん新党しんとうである自由戦線じゆうせんせん英語えいごばん結成けっせいして選挙せんきょ参加さんか決断けつだんし、マンデラを訪問ほうもんして協力きょうりょくもとめ、マンデラはこれを快諾かいだくした。これによってクワズールーをのぞくホームランドと白人はくじん右翼うよく選挙せんきょ参加さんか決定けっていし、のこインカタ自由党いんかたじゆうとうおよびクワズールーも、4がつ19にちのマンデラ・デクラーク・インカタ自由党いんかたじゆうとう党首とうしゅマンゴスツ・ブテレジさんしゃ会談かいだんによってブテレジが選挙せんきょ参加さんか承諾しょうだくし、みなみアフリカのぜん有力ゆうりょく勢力せいりょく選挙せんきょ参加さんかすることとなった。

大統領だいとうりょう時代じだいぜん民族みんぞく融和ゆうわ象徴しょうちょう[編集へんしゅう]

1994ねん投票とうひょうするマンデラ

1994ねん4がつ27にちみなみアフリカ史上しじょうはつぜん人種じんしゅ参加さんか選挙せんきょ実施じっしされた。この選挙せんきょでANCは得票とくひょうりつ62.65%、252議席ぎせき獲得かくとくして勝利しょうりし、マンデラは大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。就任しゅうにんしきではヒンドゥーきょうイスラム教いすらむきょうユダヤきょうキリスト教きりすときょう指導しどうしゃいのるなどぜん宗教しゅうきょう融和ゆうわはかられた[16]。5%以上いじょう得票とくひょうりつのあった政党せいとうすべてに政権せいけん参加さんか義務付ぎむづけるという暫定ざんてい憲法けんぽう権力けんりょく分与ぶんよ条項じょうこうもとづき、ANCは国民党こくみんとうおよびインカタ自由党いんかたじゆうとう連立れんりつ政権せいけんをたて、統一とういつ政府せいふ樹立じゅりつした。マンデラ政権せいけんは、だいいちふく大統領だいとうりょうターボ・ムベキ(ANC)、だいふく大統領だいとうりょうにデクラーク(国民党こくみんとう)、内相ないしょうにブテレジ(インカタ自由党いんかたじゆうとう)といった有力ゆうりょく政治せいじえ、ぜん27閣僚かくりょうのうちANC18、国民党こくみんとう6、インカタ3という構成こうせいで、蔵相ぞうしょう工業こうぎょうしょうといった産業さんぎょう経済けいざいてき部門ぶもん国民党こくみんとう閣僚かくりょうおお任命にんめいする一方いっぽう軍事ぐんじ治安ちあん部門ぶもんはANCでさえるという構成こうせいになった。

マンデラ政権せいけんもっとしんくだいたのは、アパルトヘイト体制たいせいでの白人はくじん黒人こくじんあいだ、またインカタとANCなどといった対立たいりつをいかにしておさめ、ぜん人種じんしゅ融和ゆうわさせるかということであった。そのため、それまでの国旗こっきわり、6つの原色げんしょくいろどられたしん国旗こっき象徴しょうちょうされる「にじくに」をかかげ、しん国歌こっか制定せいていすることを手始てはじめに、様々さまざまっていった。1995ねんにはだいさんかいラグビーワールドカップみなみアフリカで開催かいさいされるが、アパルトヘイトはつ自国じこく開催かいさい国際こくさい大会たいかいとなるこの大会たいかいをマンデラは全力ぜんりょくげて支援しえんした。ラグビーみなみアフリカ共和きょうわこく代表だいひょう(スプリングボクス)は当時とうじほとんどの選手せんしゅ白人はくじんとくにアフリカーナーでめられており、またラグビー自体じたい白人はくじんのスポーツとして黒人こくじんなど人種じんしゅには不人気ふにんきであったが、マンデラは開幕かいまくせん直接ちょくせつ観戦かんせんし、またスプリングボクスを国民こくみん融和ゆうわ象徴しょうちょうとして支援しえんつづけた。そのこともあってスプリングボクスはかい進撃しんげきつづけ、決勝けっしょうせんふたたびマンデラが観戦かんせんするなかはつ優勝ゆうしょうげた[17]。1996ねんにはデズモンド・ツツ委員いいんちょうとして真実しんじつ和解わかい委員いいんかい設置せっちされ、アパルトヘイト時代じだい人権じんけん侵害しんがいについて調査ちょうさ公表こうひょうした。マンデラ自身じしん意図いとてきみずからが融和ゆうわのシンボルとなるようこころがけており、こうした施策しさくにより、マンデラ政権せいけん国民こくみん統合とうごうかんしてはかなりの成果せいかげることに成功せいこうした。

経済けいざいてきにはアパルトヘイト時代じだい極度きょくどひろがった人種じんしゅあいだ経済けいざい格差かくさ是正ぜせい経済けいざい制裁せいさいしたこった極度きょくど経済けいざいきょうからの回復かいふく郊外こうがい不衛生ふえいせいインフラととのっていないタウンシップやホームランドにめられていた黒人こくじん生活せいかつ環境かんきょう向上こうじょう急務きゅうむとされ、こうした問題もんだい解決かいけつするためにマンデラ政権せいけん復興ふっこう開発かいはつ計画けいかく(RDP)を公表こうひょうした[18]。これは黒人こくじん居住きょじゅうのインフラ建設けんせつはしらにして積極せっきょくてき公共こうきょう投資とうしおこない、白人はくじん中心ちゅうしん生活せいかつレベルの向上こうじょうねらったものだった。この計画けいかくはさほどの効果こうかげず、白人はくじん白人はくじん経済けいざいレベルはひらいたままとなった。経済けいざい成長せいちょうしたものの、マンデラ政権せいけん経済けいざい政策せいさくてきには国民党こくみんとう政府せいふ末期まっきからのしん自由じゆう主義しゅぎてき経済けいざい政策せいさくをそのままいでおり[19]、このため経済けいざい成長せいちょう順調じゅんちょうすすんだもののそれが貧困ひんこんそう恩恵おんけいあたえることはすくなかった。格差かくさちぢめるべき時点じてんとみさい分配ぶんぱいでなく企業きぎょう成長せいちょう優先ゆうせんさせたため、世界せかいもっとたか所得しょとく格差かくさ改善かいぜんされることなくそのままとなった。一方いっぽうで、隣国りんごくジンバブエロバート・ムガベ政権せいけんおこなった白人はくじん所有しょゆう土地とち国有こくゆうなどのような過激かげき経済けいざい政策せいさくおこなわなかったことでみなみアフリカからのとみ流出りゅうしゅつ自体じたい回避かいひし、みなみアフリカはBRICSの1つにかぞえられるたか経済けいざい成長せいちょうげることになる。

また、アパルトヘイト末期まっき各党かくとうこうそうひろげたさい武器ぶき回収かいしゅうされないまま大量たいりょう市中しちゅうのこっており、これを貧困ひんこんそうれたことで、治安ちあん急速きゅうそく悪化あっかした。この治安ちあん悪化あっか黒人こくじん居住きょじゅうにおけるインフラ整備せいび失敗しっぱい原因げんいんひとつとなっていた。アパルトヘイト末期まっき居住きょじゅう制限せいげん解除かいじょされたものの黒人こくじん居住きょじゅう住環境じゅうかんきょうその改善かいぜんされなかったため、黒人こくじん貧困ひんこんそうかく都市とし中心ちゅうしんがい大挙たいきょしてながんだのである。とくにヨハネスブルク中心ちゅうしんにおいてはあまりの治安ちあん悪化あっか企業きぎょう北部ほくぶ郊外こうがい高級こうきゅう住宅じゅうたくであるサントンに脱出だっしゅつし、そこにあらたに経済けいざい中心ちゅうしんつくげる事態じたいとなった。さらに経済けいざいてき移民いみんたいしマンデラ政権せいけんとく対処たいしょらなかったためモザンビークやジンバブエなどから移民いみん激増げきぞうし、みなみアフリカの黒人こくじんとのあいだ対立たいりつしょうじるようになった。厚生こうせい政策せいさくでは、増加ぞうか報告ほうこくされていたエイズたい積極せっきょくてき対処たいしょおこなわず、このためみなみアフリカは世界せかいでも有数ゆうすうのエイズ感染かんせんりつ記録きろくするようになった。外交がいこうでは、マンデラは自身じしん名声めいせい背景はいけいにアフリカの紛争ふんそう調停ちょうていなどに積極せっきょくてきうごいたものの、成果せいかげることはすくなかった。

1996ねん10がつ11にちにはしん憲法けんぽう制定せいていされ、1997ねんには施行しこうされた。このしん憲法けんぽうにおいては国内こくない有力ゆうりょく言語げんご11個いっこ公用こうよう指定していするなど、ぜん人種じんしゅ民族みんぞく融和ゆうわとく重視じゅうししたものとなった。一方いっぽう、このしん憲法けんぽうには強制きょうせい連立れんりつ規定きていはなく、ANCの政権せいけん運営うんえい不満ふまんつよめていた国民党こくみんとうは1996ねん連立れんりつ離脱りだつした。

マンデラは大統領だいとうりょう就任しゅうにんにすでに76さいであり、就任しゅうにん当初とうしょから大統領だいとうりょうしょくは1かぎりで退しりぞくと推測すいそくされていた。マンデラの後継こうけいしゃをめぐっては、アパルトヘイト時代じだい亡命ぼうめいしゃ中心ちゅうしんとする国際こくさい、および国内こくない解放かいほう運動うんどうおこなっていた急進きゅうしんターボ・ムベキふく大統領だいとうりょうを、国民党こくみんとう政府せいふ解放かいほう交渉こうしょうおこなっていた実務じつむがシリル・ラマポーサANC事務じむ総長そうちょうして党内とうない対立たいりつきていたが、1997ねん12月のANCとう大会たいかいでマンデラは、議長ぎちょうをターボ・ムベキにゆずった。1999ねん2がつ5にち国会こっかい最後さいご演説えんぜつをした。同年どうねん6月14にち任期にんき満了まんりょうともな大統領だいとうりょうしょく退任たいにん同時どうじ政界せいかいから引退いんたいした。

引退いんたい[編集へんしゅう]

2000ねん1がつ19にち国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいはじめて演説えんぜつおこなった。2001ねん7がつ前立腺ぜんりつせんがん発見はっけんされ、7週間しゅうかん放射線ほうしゃせん治療ちりょうけた。2005ねん1がつ7にち前妻ぜんさいウィニーとの子供こどもマカト・マンデラエイズによる合併症がっぺいしょう死亡しぼうしたこと公表こうひょうした。

2008ねん6月30にち正式せいしきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふにより、テロリスト監視かんしリストから名前なまえ削除さくじょされた[20]

引退いんたい人気にんき根強ねづよく、2005ねんBBCおこなった世界せかい政府せいふ大統領だいとうりょう選挙せんきょ仮定かていした世論せろん調査ちょうさではトップにえらばれている[21]2010ねん6月11にちおこなわれたFIFAワールドカップみなみアフリカ大会たいかい開会かいかいしき出席しゅっせきする可能かのうせいたかいと親族しんぞくあきらかにしていたが、前日ぜんじつにひまご交通こうつう事故じこくなったことをけて出席しゅっせき断念だんねんし、わりにビデオメッセージをおくった。なお閉会へいかいしきには出席しゅっせきした。

このとき以降いこうおおやけには姿すがたあらわさなかった。90さいえて高齢こうれいのためからだおとろえがはじめており、2012ねん12月8にちはい感染かんせんしょうのため、首都しゅとプレトリアの病院びょういん入院にゅういんした。2013ねん4がつ6にち症状しょうじょう改善かいぜんしたため退院たいいんした[9]。しかし、2013ねん6がつから体調たいちょう悪化あっかし、感染かんせんしょう再発さいはつし6がつ8にちからさい入院にゅういんとなった[22]

死去しきょ[編集へんしゅう]

マンデラぞう手向たむけられた花束はなたば

2013ねん6がつ23にちみなみアフリカ大統領だいとうりょうはマンデラが危篤きとく状態じょうたいおちいったと発表はっぴょうした[23]。その、7がつ18にち病室びょうしつで95さい誕生たんじょうむかえた。マンデラの誕生たんじょうわせて、2013ねん7がつ18にちに、国際こくさい連合れんごう本部ほんぶで「ネルソン・マンデラ国際こくさいデー」の式典しきてんひらき、マンデラの功績こうせきたたえるととも回復かいふくいのった[24]

2013ねん12月5にち日本にっぽん時間じかん6にち未明みめい)、ヨハネスブルグ自宅じたく死去しきょ[25][26]

追悼ついとうしきにはアメリカ3だいネットワークCNNBBCもそれぞれのアンカーマンを現地げんち(ヨハネスブルグもしくはプレトリア)に派遣はけんし、各国かっこくからも日本にっぽん皇太子こうたいしとくじん親王しんのうイギリスからはチャールズ3せい当時とうじ皇太子こうたいし[注釈ちゅうしゃく 2]デーヴィッド・キャメロン首相しゅしょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくよりバラク・オバマ大統領だいとうりょうおよビル・クリントンジミー・カーターもと大統領だいとうりょうブラジルジルマ・ルセフ大統領だいとうりょうキューバラウル・カストロ国家こっか評議ひょうぎかい議長ぎちょうなど各国かっこく国家こっか元首げんしゅもしくはそれにじゅんずる人物じんぶつ出席しゅっせきし、追悼ついとう式典しきてんVIPせきでバラク・オバマとラウル・カストロが握手あくしゅする、弔問ちょうもん外交がいこうとなった[28]

マンデラはまれ故郷こきょうのクヌにて埋葬まいそうされることとなり、12月15にち、クヌにて国葬こくそうおこなわれ、同地どうち埋葬まいそうされた[29]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

身長しんちょうは185cmだった。

メソジスト教会きょうかい洗礼せんれいけたクリスチャンである。わかかれおおきな影響えいきょうあたえたのは、テンブの人々ひとびと習慣しゅうかんとキリストきょうのミッションスクールでけた教育きょういくであった [30]

結婚けっこんは3している。1944ねんエブリン・メイス最初さいしょ結婚けっこん1957ねん離婚りこん1958ねんウィニーと2度目どめ結婚けっこん。マンデラの収監しゅうかんちゅうにウィニー夫人ふじんごくがい政治せいじ活動かつどうおこなった[31]。しかし1992ねん4がつ13にち離婚りこん意思いし表明ひょうめいし、4ねん1996ねん3月19にちにウィニーとの離婚りこん成立せいりつ1998ねん7がつ18にちモザンビーク初代しょだい大統領だいとうりょう飛行機ひこうき事故じこ英語えいごばんくなったサモラ・マシェル未亡人みぼうじんグラサ・マシェル夫人ふじんと3度目どめ結婚けっこん

政治せいじてきには、相手あいて政治せいじてきよわみを的確てきかく見抜みぬきながら、それを攻撃こうげきするのではなくれやすい提案ていあんおこなっていく政治せいじスタイルをとり[32]政敵せいてきからも信頼しんらいた。大統領だいとうりょう就任しゅうにん国民こくみん統合とうごう象徴しょうちょうとしてみずからを位置いちづけたため、この傾向けいこうはさらにつよまった。

一方いっぽう性格せいかくにははげしいところがあり、フレデリック・デクラークとは大統領だいとうりょう就任しゅうにん犬猿けんえんなかとなり、なんはげしい不満ふまん表明ひょうめいしていて、1996ねん国民党こくみんとう連立れんりつ解消かいしょう一因いちいんともなった[33]政治せいじ信条しんじょう自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎであり、経済けいざい政策せいさくでは共産きょうさん主義しゅぎ影響えいきょうけて解放かいほうには鉱山こうざんなどの国有こくゆう主張しゅちょうしていたものの、それが不可能ふかのうであるとさとると政府せいふしん自由じゆう主義しゅぎ政策せいさくれた。

基本きほんてきには暴力ぼうりょく主義しゅぎとなえており、平和へいわ主義しゅぎてきかんがえはたびたび表明ひょうめいしていたが、ウムコントゥ・ウェ・シズウェの創設そうせつからもわかるとおりいち武装ぶそう闘争とうそう路線ろせんかたむいており、解放かいほうもしばらくは武装ぶそう闘争とうそう路線ろせん否定ひていしてはいなかった。

栄誉えいよ[編集へんしゅう]

ソウェトのマンデラ博物館はくぶつかん青年せいねんのマンデラの自宅じたく

しょうれきとしては、ネルーしょうユネスコ平和へいわしょうアフリカしょうサハロフしょう(1988ねん)、レーニン平和へいわしょう(1990ねん)、ノーベル平和へいわしょう(1993ねん)、ベンジャミン・フランクリン・メダル(2000ねん)、国際こくさい検察官けんさつかん協会きょうかい名誉めいよあきら受章じゅしょうなど。称号しょうごうには名誉めいよ法学ほうがく博士はかせ早稲田大学わせだだいがくなど。

マンデラの生涯しょうがい記念きねんして、マンデラのまれたクヌむらちかいウムタタにネルソン・マンデラ博物館はくぶつかん設立せつりつされており、生地きじであるクヌむらにも分館ぶんかんがある。また、マンデラが青年せいねんごしたソウェト自宅じたくもマンデラ博物館はくぶつかんとなっている。

マンデラを記念きねんし、おおくの都市としとおり、建物たてものなどにマンデラのがつけられ、それはみなみアフリカ国内こくないにとどまらなかった。みなみアフリカ国内こくないにおいては、ひがしケープしゅうポート・エリザベス中心ちゅうしんとする都市としけんネルソン・マンデラ・ベイ都市としけん命名めいめいされ、またヨハネスブルク郊外こうがいサントン地区ちくにあるだい規模きぼショッピングセンターは2004ねんにサントン・スクエアからネルソン・マンデラ・スクエアに改称かいしょうされ、同時どうじ全長ぜんちょう6mのマンデラぞう建設けんせつされている。国外こくがいにおいても、2005ねん開港かいこうしたカーボベルデハブ空港くうこうネルソン・マンデラ国際こくさい空港くうこう名付なづけられている。

2012ねんには、みなみアフリカ政府せいふはマンデラの肖像しょうぞうえがいたあたらしいランド紙幣しへい発行はっこうした[34]

交友こうゆう関係かんけい[編集へんしゅう]

マイケル・ジャクソンとの交友こうゆう[編集へんしゅう]

マイケル・ジャクソンとは家族かぞく同然どうぜんいがあり、自他じたどもみとめる親友しんゆうだった。マイケルがくなったさいマンデラは、

マイケルのあまりにもはや本当ほんとう残念ざんねんおもいます。かれ定期ていきてきみなみアフリカをおとずれ、ライブを披露ひろうしてくれるようになり、我々われわれしたしくなり、かれ家族かぞく同然どうぜん存在そんざいになりました。わたしかれ素晴すばらしい才能さいのう人生じんせいにおける様々さまざま悲劇ひげきえてかれしんから尊敬そんけいしています。マイケルは音楽おんがくかい伝説でんせつです。かれうしなって本当ほんとうかなしいです。かれしまれ、かれ功績こうせきすえなががれていくことでしょう。

追悼ついとうのコメントをのこした[35]

邦訳ほうやく著書ちょしょ[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 堀内ほりうち隆行たかゆき『ネルソン・マンデラ 分断ぶんだんえる現実げんじつ主義しゅぎしゃ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2021ねん7がつISBN 9784004318880全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:23573485 
  • ウィニー・マンデラちょ, アン・ベンジャミンへん『わがたましいはネルソンとともに』阿部あべのぼる,村山むらやま淳彦あつひこわけ しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1987.12
  • メアリー・ベンソン『ネルソン・マンデラ』阿部あべのぼる, 村山むらやま淳彦あつひこ やく しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ、1989.1
  • ファティマ・ミーア『ネルソン・マンデラつたえ こぶしは希望きぼうよりたかく』楠瀬くすのせ佳子けいこ,神野かみのあきら, すなさいわいみのる,前田まえだあや, みね陽一よういち,元木もとき淳子じゅんこやく 明石書店あかししょてん、1990.10
  • アンソニー・サンプソン『マンデラ たたかい・あい人生じんせい濱田はまだとおるわけ 講談社こうだんしゃ、2001.7
  • ジョン・カーリン『インビクタス けざるものたち八坂やさかありさわけ 日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、2009.12
  • ジャック・ラング『ネルソン・マンデラ』塩谷しおやたかしわけ 未來社みらいしゃ、2010.8
  • リチャード・ステンゲル『信念しんねんきる ネルソン・マンデラの行動こうどう哲学てつがく』グロービス経営けいえい大学院だいがくいん やく 英治えいじ出版しゅっぱん、2012.9
  • ジョン・カーリン『二人ふたりのマンデラ られざる素顔すがお新田にった享子きょうこわけ 潮出版社うしおしゅっぱんしゃ、2014.12
  • ゼルダ・ラグレインジ『ネルソン・マンデラわたしあいした大統領だいとうりょう 秘書ひしょつめた最後さいごの19ねん長田ながた雅子まさこ やく 明石書店あかししょてん、2016.9
  • ロジャー・フリードマン ちょ, ベニー・グール 写真しゃしん『ネルソン・マンデラ その世界せかいたましい記録きろく金原かなはらみずほじん, 松浦まつうら直美なおみ やく 西村書店にしむらしょてん東京とうきょう出版しゅっぱん編集へんしゅう、2018.11
  • 『ネルソン・マンデラ 人種じんしゅ差別さべつたたかい、勝利しょうりにしたみなみアフリカのちち (小学館しょうがくかんばん学習がくしゅうまんが人物じんぶつかん ;新井あらい淳也あつや まんが, サイトウケンジ シナリオ, みね陽一よういち 監修かんしゅう 小学館しょうがくかん、2019.9
  • セロ・ハタン, ヴァーン・ハリス『ネルソン・マンデラ』(信念しんねん社会しゃかいえた!シリーズの指針ししんとして) 原田はらだまさるわけ あすなろ書房しょぼう、2020.9

映画えいが[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ このときの、かれ監獄かんごく番号ばんごうが「46664」であり、現在げんざいではかれ財団ざいだん活動かつどう象徴しょうちょうする番号ばんごうとなっている。厳密げんみつには上位じょうい「466」がかれ囚人しゅうじん番号ばんごう下位かい「64」がかれ投獄とうごくされたとし、19「64」ねんした2けたである。そのため、「46664」は一般いっぱんに、four-double six-six-fourと発音はつおんする
  2. ^ 女王じょおうエリザベス2せい出席しゅっせき希望きぼうしたが高齢こうれいのためかなわず、わりにウェストミンスター寺院じいんでの追悼ついとう行事ぎょうじおこなうこととなった。ウェストミンスターで国外こくがい人物じんぶつ追悼ついとう行事ぎょうじおこなうのは史上しじょうはじめてである[27]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ The Nobel Peace Prize 1993 - ウェイバックマシン(2023ねん5がつ11にちアーカイブぶん) NobelPrize.org
  2. ^ 訃報ふほう:ネルソン・マンデラさん95さいもとなん大統領だいとうりょう. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2013ねん12月6にち). オリジナルの2013ねん12月12にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131212054303/http://mainichi.jp/select/news/20131206k0000e030132000c.html 2013ねん11月6にち閲覧えつらん 
  3. ^ 井上いのうえまさるせいしる、2006、『シリーズ日本にっぽんきん現代げんだい1 幕末ばくまつ維新いしん』、岩波書店いわなみしょてん、p.ⅱ-ⅲ
  4. ^ みね陽一よういちみなみアフリカ にじくにへのあゆみ」だい1さつ、1996ねん11がつ20日はつか岩波書店いわなみしょてん)p18
  5. ^ みなみアフリカの衝撃しょうげき」p129  日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱんしゃ (2009/12/9) 平野ひらの克己かつみ
  6. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p380
  7. ^ レナード・トンプソンちょ宮本みやもと ただしきょうみね 陽一よういち吉国よしくに 恒雄つねおやく、1995、『みなみアフリカの歴史れきし』、明石書店あかししょてん ISBN 4750306991、p.369
  8. ^ 『ネルソン・マンデラ』 メアリー・ベンソンちょ
  9. ^ a b “マンデラもと大統領だいとうりょう退院たいいんはい疾患しっかん病状びょうじょう改善かいぜん みなみアフリカ”. CNN. (2013ねん4がつ7にち). http://www.cnn.co.jp/world/35030509.html 2013ねん4がつ7にち閲覧えつらん 
  10. ^ 独居どっきょぼう、N・マンデラの足跡あしあと ナショナルジオグラフィック 2013ねん12月6にち
  11. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p388
  12. ^ みね陽一よういち編著へんちょ、2010ねん4がつ25にち初版しょはんだい1さつ、『みなみアフリカをるための60しょう』p241 明石書店あかししょてん
  13. ^ 世界せかい現代げんだい13 アフリカ現代げんだい1 総説そうせつみなみアフリカ」山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1992ねん8がつ20日はつか2はん1さつ ほしあきらはやしあきら p298
  14. ^ 世界せかい現代げんだい13 アフリカ現代げんだい1 総説そうせつみなみアフリカ」山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1992ねん8がつ20日はつか2はん1さつ ほしあきらはやしあきら p299
  15. ^ 世界せかい現代げんだい13 アフリカ現代げんだい1 総説そうせつみなみアフリカ」山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1992ねん8がつ20日はつか2はん1さつ ほしあきらはやしあきら p302
  16. ^ 読売新聞よみうりしんぶん『「民主みんしゅなんア」世界せかいにアピール 大統領だいとうりょう就任しゅうにんしき 列席れっせき150かこく代表だいひょう祝福しゅくふく』1994ねん5がつ11にちごう(プレトリア10にち
  17. ^ みなみアフリカと民主みんしゅ」p83 (1996/5/10) 勁草書房しょぼう 川端かわばた正久まさひさ佐藤さとうまことへん
  18. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p390
  19. ^ みなみアフリカの衝撃しょうげき」p143  日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱんしゃ (2009/12/9) 平野ひらの克己かつみ
  20. ^ Mandela taken off US terror list BBC 2008-07-01
  21. ^ BBC NEWS | Africa | Mandela wins BBC's 'global election'
  22. ^ “マンデラはい感染かんせんしょうさい入院にゅういん容体ようだい深刻しんこく安定あんてい なんア”. CNN. (2013ねん6がつ9にち). http://www.cnn.co.jp/world/35033154.html 2013ねん6がつ9にち閲覧えつらん 
  23. ^ “マンデラが「危篤きとく」、容体ようだい悪化あっか なん大統領だいとうりょう発表はっぴょう. CNN. (2013ねん6がつ23にち). http://www.cnn.co.jp/world/35033744.html 2013ねん6がつ23にち閲覧えつらん 
  24. ^ “マンデラ誕生たんじょう 国連こくれん式典しきてん. NHK. (2013ねん7がつ19にち). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130719/k10013139881000.html 2013ねん7がつ24にち閲覧えつらん [リンク]
  25. ^ みなみアフリカ マンデラもと大統領だいとうりょう死去しきょNHK2013ねん12月6にち閲覧えつらん アーカイブ 2013ねん12月12にち - ウェイバックマシン
  26. ^ Nelson Mandela Dead Former South African President Dies at 95(ABC News)12/6閲覧えつらん
  27. ^ チャールズ皇太子こうたいし出席しゅっせき MSN産経さんけいニュース、2013ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん アーカイブ 2015ねん1がつ6にち - ウェイバックマシン
  28. ^ NBCナイトリーニュース、Podcastにて2013ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん
  29. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3005180 「マンデラ故郷こきょう埋葬まいそう 首都しゅとでは銅像どうぞう公開こうかいへ」AFPBB 2013ねん12月16にち 2015ねん12月6にち閲覧えつらん
  30. ^ ネルソン マンデラ 幼少ようしょう時代じだい Google Cultural Institute .
  31. ^ ウィニー夫人ふじん、N・マンデラの足跡あしあと ナショナルジオグラフィック 2013ねん12月6にち
  32. ^ みね陽一よういち編著へんちょ、2010ねん4がつ25にち初版しょはんだい1さつ、『みなみアフリカをるための60しょう』p104 明石書店あかししょてん
  33. ^ みね陽一よういち編著へんちょ、2010ねん4がつ25にち初版しょはんだい1さつ、『みなみアフリカをるための60しょう』p110 明石書店あかししょてん
  34. ^ http://www.cnn.co.jp/business/35024222.html 「なんアでマンデラ紙幣しへい発行はっこう」2012.11.08 CNN 2015ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん
  35. ^ Nelson Madela:'Michael Jackson Was Part Of Our Family”. 2014ねん7がつ18にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

マンデラが1990年代ねんだいに、普段着ふだんぎとしての服装ふくそうに このシャツを追加ついかしたことで世界せかいからひろ認知にんちされるようになった

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ウィキニュースに関連かんれん記事きじがあります。訃報ふほう ネルソン・マンデラ - みなみアフリカもと大統領だいとうりょう

公職こうしょく
先代せんだい
フレデリック・デクラーク
南アフリカ共和国の旗 みなみアフリカ共和きょうわこく大統領だいとうりょう
だい8だい:1994 - 1999
次代じだい
タボ・ムベキ
外交がいこうしょく
先代せんだい
アンドレス・パストラーナ・アランゴ
同盟どうめい諸国しょこく首脳しゅのう会議かいぎ事務じむ総長そうちょう
1998 - 1999
次代じだい
タボ・ムベキ
とうしょく
先代せんだい
オリバー・タンボ
ANC議長ぎちょう
だい11だい : 1991-1997
次代じだい
タボ・ムベキ