アンワル・アッ=サーダート

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アンワル・アッ=サーダート
محمد أنور السادات ノーベル賞受賞者


任期にんき 1971ねん9月2にち1981ねん10月6にち

任期にんき 1970ねん10月15にち1971ねん9月2にち
(1970ねん9月28にちから10がつ15にちまで大統領だいとうりょう代行だいこう

任期にんき 1964ねん2がつ17にち1964ねん3月23にち
1969ねん12月19にち1970ねん10月15にち
大統領だいとうりょう ガマール・アブドゥル=ナーセル

任期にんき 1973ねん3月26にち1974ねん9月25にち
1980ねん3月15にち1981ねん10月6にち
大統領だいとうりょう アンワル・アッ=サーダート(兼務けんむ

アラブ連合共和国の旗 アラブ連合れんごう共和きょうわこく
だい2だい 人民じんみん議会ぎかい議長ぎちょう
任期にんき 1960ねん7がつ21にち1968ねん11月12にち
大統領だいとうりょう ガマール・アブドゥル=ナーセル

出生しゅっしょう (1918-12-25) 1918ねん12月25にち
エジプトの旗 エジプトミヌーフィーヤけん
ミト・アブー・アル=クム
死去しきょ (1981-10-06) 1981ねん10月6にち(62さいぼつ
エジプトの旗 エジプトカイロ
政党せいとう アラブ社会しゃかい主義しゅぎ連合れんごう1977ねんまで)
国民こくみん民主党みんしゅとう
配偶はいぐうしゃ ジーハーン・アッ=サーダート
署名しょめい
ノーベルしょう受賞じゅしょうしゃノーベル賞
受賞じゅしょうねん1978ねん
受賞じゅしょう部門ぶもんノーベル平和へいわしょう
受賞じゅしょう理由りゆうキャンプ・デービッド合意ごうい

ムハンマド・アンワル・アッ=サーダートアラビア: محمد أنور السادات, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Muḥammad Anwar al-Sādāt, 1918ねん12月25にち - 1981ねん10月6にち)は、エジプト軍人ぐんじん政治せいじ共和きょうわせいエジプトだい3だい大統領だいとうりょうだい2だいアラブ連合れんごう共和きょうわこく大統領だいとうりょう初代しょだいエジプト・アラブ共和きょうわこく大統領だいとうりょう)。また首相しゅしょうを2つとめた。

名前なまえ[編集へんしゅう]

ファーストネームは「ムハンマド・アンワル」と21くみふく合名ごうめいでこのひとまとまりすべてがファーストネームとなる。しかしながら公人こうじんとして有名ゆうめいになったためムハンマドが省略しょうりゃくされたんにアンワルとのみばれるようになったことから、たんに「アンワル・アッ=サーダート」や日本にっぽんしき定冠詞ていかんしはぶいた「アンワル・サダト」とすることがひろおこなわれている。

ラストネームの「アッ=サーダート」は原語げんごでの発音はつおんちかいカタカナ表記ひょうきで、比較的ひかくてきあたらしい表記ひょうきほうである。日本にっぽんでは存命ぞんめいちゅうから現在げんざいいたるまで、外務省がいむしょう[1]新聞しんぶん報道ほうどう一貫いっかんしてサダト表記ひょうきしており、一般いっぱんにはこちらのほうがよりひろられている。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

自由じゆう将校しょうこうだんへの参加さんかとエジプト革命かくめい[編集へんしゅう]

サダトは1918ねんミヌーフィーヤけんのミト・アブー・アル=クムでまずしいスーダンけいエジプトじん一家いっかの13にん兄弟きょうだい一人ひとりとしてまれた。1937ねんすえにはカイロ王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう1期生きせい卒業そつぎょう[2]当初とうしょカイロ近郊きんこう通信つうしん部隊ぶたい配属はいぞくされたが、もなくだい3旅団りょだんとしてマンカバド英語えいごばん転属てんぞく。ここで2期生きせい卒業そつぎょうガマール・アブドゥル=ナーセルザカリア・ムヒエディン英語えいごばん出会であい、やがてかれらはひそかに士官しかんたち祖国そこく解放かいほう運動うんどうくわわる。それは1922ねんイギリス保護ほごりょうとして成立せいりつしたエジプト王国おうこくにおいて、実権じっけんにぎイギリスぐん支配しはいからしん祖国そこく解放かいほうしようという運動うんどうであった。1939ねん12月にカイロ・マーディ英語えいごばん陸軍りくぐん通信つうしん学校がっこう入学にゅうがく卒業そつぎょうには生徒せいと代表だいひょうとして答辞とうじ[3]卒業そつぎょうはマーディにまり、通信つうしん部隊ぶたいちょうとなり僻地へきち転任てんにんしたナセルとアーメルにわって地下ちか組織そしき育成いくせいいそしんだ。

だい世界せかい大戦たいせんなか1942ねんエルヴィン・ロンメルひきいるドイツ・アフリカ軍団ぐんだんエル・アラメインまで進撃しんげきしていた。祖国そこく解放かいほう目指めざしたサダトはゲズィーラとうザマーレク英語えいごばんにナセルらとあつまり、ドイツぐん呼応こおうしてカイロ市内しないでナハスのワフドとう政権せいけんわってアリ・マヘルを擁立ようりつすることを計画けいかくした[4]。さらに、イギリスの圧力あつりょく解任かいにんされた参謀さんぼう総長そうちょうアジズ・エル・アル=マスリ英語えいごばんがドイツぐんより呼応こおうもとめられているとるや、その手段しゅだんこうじ、最終さいしゅうてきにドイツぐん陣地じんちまでエジプト陸軍りくぐん飛行機ひこうきばそうと計画けいかくするも[5]離陸りりく直前ちょくぜん飛行機ひこうき大破たいはして失敗しっぱいした。その接触せっしょくしていたイギリスぐん将校しょうこうふんするドイツの諜報ちょうほういんサラム作戦さくせん英語えいごばん)が逮捕たいほされ自白じはくしたことでサダトの名前なまえがり、軍法ぐんぽう会議かいぎにかけられる[5]。なお、スパイの協力きょうりょくしゃであったおどヒクマト・ファフミーがサダトの愛人あいじんであったとのち告白こくはくしているがサダトはこれを否定ひていしている[5]。その証拠しょうこ不十分ふじゅうぶん銃殺じゅうさつまぬかれたが軍籍ぐんせき剥奪はくだつうえ投獄とうごくされ、はじめは外国がいこくじん留置りゅうちしょに、つぎ監獄かんごく病院びょういん拘留こうりゅう生活せいかつおくった。1944ねん脱獄だつごく終戦しゅうせんまでカイロの日本にっぽん庭園ていえん潜伏せんぷくした。

士官しかん学校がっこう同期どうき友人ゆうじんガマール・アブドゥル=ナセルとともに自由じゆう将校しょうこうだん結成けっせいし、1952ねんクーデターエジプト革命かくめい)に参加さんかする。クーデターのさい、サダトはラジオおよびテレビ局てれびきょく占拠せんきょ国民こくみん革命かくめい発表はっぴょうおこなった。

ナセル政権せいけん[編集へんしゅう]

革命かくめいによって1953ねん、エジプトは王制おうせい廃止はいし共和きょうわせい移行いこうした。サダトはしん政府せいふのリーダーとなったナセルをささえ、ナセル政権せいけん成立せいりつした1954ねん国務大臣こくむだいじん就任しゅうにんする。1958ねんにナセルがエジプトとシリア合邦がっぽうしてアラブ連合れんごう共和きょうわこく建国けんこくし、その初代しょだい大統領だいとうりょう地位ちいくとサダトも翌年よくねん連合れんごう国務こくむ長官ちょうかん任命にんめいされた。さらに1960ねんから1968ねんまで人民じんみん議会ぎかい議長ぎちょうつとめる。このあいだ1964ねんにはふく大統領だいとうりょう任命にんめいされ、大統領だいとうりょう評議ひょうぎかい議員ぎいんとなった。このときのふく大統領だいとうりょう就任しゅうにん短期間たんきかんであったが1969ねん12月19にちふたたふく大統領だいとうりょう任命にんめいされ、翌年よくねん10月15にちまで同職どうしょくつとめた。

大統領だいとうりょう就任しゅうにん[編集へんしゅう]

1970ねん9月28にち、ナセルが死去しきょするとふく大統領だいとうりょうとして大統領だいとうりょう代行だいこうつとめることになったサダトは国民こくみん大統領だいとうりょう死去しきょつたえるスピーチをおこなった。同年どうねん10がつ15にち、サダトは正式せいしき大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、大統領だいとうりょう就任しゅうにんはナセルの社会しゃかい主義しゅぎてき経済けいざい政策せいさくあらためて経済けいざい自由じゆうすすめるとともにイスラム主義しゅぎ運動うんどう解禁かいきんしてエジプトの路線ろせんおおきくみぎ旋回せんかいさせた。これらの政策せいさくたいする反対はんたい一掃いっそうし、国有こくゆうメディアはそれを革命かくめい矯正きょうせい名付なづけた。さらに1961ねんにシリアが離脱りだつして以来いらい連合れんごう国家こっかからだをなしていなかったアラブ連合れんごう共和きょうわこく正式せいしき解体かいたい決断けつだん1971ねん9月2にち国号こくごうをエジプト・アラブ共和きょうわこくあらためた。

だいよん中東ちゅうとう戦争せんそうたいイスラエル和平わへい[編集へんしゅう]

大統領だいとうりょう就任しゅうにん当初とうしょ、サダトはナセルがいたひろしアラブたいイスラエル強硬きょうこう路線ろせん継承けいしょうし、シリアやリビアとともにアラブ共和きょうわこく連邦れんぽう結成けっせいした。1973ねん10月6にち、シリアと共同きょうどうでイスラエルに開戦かいせんしてだいよん中東ちゅうとう戦争せんそう主導しゅどうし、イスラエルぐんだい打撃だげきあたえた。これによってサダトは国民こくみんてき英雄えいゆうとなった。

1978ねんのキャンプデービッド合意ごういひだりから、ベギン、カーター、サダト。
サダトとベギン。

この戦争せんそうまえにはソビエト連邦れんぽう軍事ぐんじ顧問こもんだん追放ついほうしており、1974ねん2がつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの国交こっこう正常せいじょうさせ、当時とうじリチャード・ニクソン政権せいけんから軍事ぐんじてき経済けいざいてき援助えんじょ[6][7]1976ねんにはナセルのしんソ・反米はんべい外交がいこう路線ろせん完全かんぜんはんソ・親米しんべい転換てんかんした。同年どうねん3がつソ連それんとの友好ゆうこう協力きょうりょく条約じょうやく破棄はきし、よく4がつちゅう対立たいりつこしていた中国ちゅうごくホスニー・ムバラクふく大統領だいとうりょう派遣はけんして毛沢東もうたくとう会見かいけんさせて武器ぶき購入こうにゅうした[8][9][10]同年どうねん9がつにはサウジアラビアモロッコイランなどとともに結成けっせいしたはん同盟どうめいサファリ・クラブ英語えいごばん本部ほんぶをカイロに[11][12]だいいちシャバ紛争ふんそう英語えいごばんオガデン戦争せんそうではザイールソマリア支援しえんしてアフリカからのソ連それん影響えいきょうりょく排除はいじょ画策かくさく[13]ソ連それんのアフガニスタン侵攻しんこう批判ひはんしてモスクワオリンピックをボイコットしてはん政府せいふ武装ぶそう勢力せいりょくムジャヒディンへの支援しえん表明ひょうめいした[14][15]

1977ねんにイスラエルのメナヘム・ベギン首相しゅしょうまねきでエルサレム訪問ほうもんした。エジプト・イスラエルあいだ和平わへい交渉こうしょう開始かいしし、よく1978ねんにアメリカのジミー・カーター大統領だいとうりょう仲介ちゅうかいのもと、キャンプ・デービッド合意ごういにこぎつけた。そして1979ねんには両国りょうこくあいだ平和へいわ条約じょうやくむすばれた。

この合意ごうい長年ながねん仇敵きゅうてきだったイスラエルとの和解わかいをもたらすものだけではなく、1967ねん第三次中東戦争だいさんじちゅうとうせんそうでイスラエルに占領せんりょう英語えいごばんされたシナイ半島しないはんとう領土りょうど平和へいわうら返還へんかんする伏線ふくせんともいうべきもので、エジプトが中東ちゅうとう和平わへい先駆さきがけとして周知しゅうちされることにもつながった。

国民こくみんからの反発はんぱつ[編集へんしゅう]

この歴史れきしてき合意ごういにより、サダトはベギンとともに1978ねんノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょう世界せかい各国かっこくからたか支持しじけた。だが、このエジプト=イスラエル単独たんどく和平わへいは「パレスチナアラブじん同胞どうほうたいする裏切うらぎり」とられ、スーダンモハメド・アン=ヌメイリ[16]のぞアラブ諸国しょこく指導しどうしゃイスラム教徒きょうと民衆みんしゅう反感はんかんまねき、サダト政権せいけん次第しだい孤立こりつする。また1974ねんから1982ねんまで2石油せきゆ危機ききもあって急激きゅうげき成長せいちょうしたものの、経済けいざい自由じゆう外資がいし導入どうにゅうのインフィタ政策せいさく結果けっか、エジプト社会しゃかい貧富ひんぷひろがり、腐敗ふはい横行おうこうしたことによる国民こくみん不満ふまんたかまっていた。

1978ねん11月、イラクバグダッドおこなわれた1978ねんアラブ首脳しゅのう会議かいぎ英語えいごばんでエジプトは主導しゅどうこくであるにもかかわらず、アラブ連盟れんめい追放ついほうされた[17]同時どうじにアラブ連盟れんめい本部ほんぶもエジプトのカイロからブルギーバ政権せいけんチュニジアチュニスへと移転いてんした。この会議かいぎ主催しゅさいしてエジプト追放ついほう成功せいこうしたイラクはエジプトにわってアラブの盟主めいしゅになることも目論もくろ[18]のちイラン・イラク戦争せんそうこす原因げんいんの1つになったともされる。

1975ねん、イランのパーレビ国王こくおうとともに

1979ねん1がつ、イランでルーホッラー・ホメイニー指導しどうするイラン革命かくめい勃発ぼっぱつした。サダトはしたしかったモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝こうていのエジプトへの亡命ぼうめいれたものの、そのパフラヴィーがアメリカへかうとイスラム教徒きょうと中心ちゅうしん猛烈もうれつ反発はんぱつけることになった。

イスラム教徒きょうと知識ちしきそうからの反発はんぱつつよまるなか1981ねん9月にサダトは共産きょうさん主義しゅぎしゃ、ナセル支持しじしゃフェミニストイスラム原理げんり大学だいがく教授きょうじゅやジャーナリスト、学生がくせい運動うんどうといった知識ちしきじんおよび政治せいじてき活動かつどうおおくをきびしくまり拘束こうそくした。そのかずはおよそ1600にんにおよび、国際こくさいてき非難ひなんけた。

このあいだ発生はっせいした経済けいざい恐慌きょうこう反対はんたいたいする抑圧よくあつによって、サダトにたいする国民こくみん支持しじはますますうしなわれていった。

暗殺あんさつ[編集へんしゅう]

1981ねん10月6にち、サダトはだいよん中東ちゅうとう戦争せんそう開戦かいせん記念きねんしその勝利しょうりいわ戦勝せんしょう記念きねんのパレードを観閲かんえつちゅうにイスラム復興ふっこう主義しゅぎ過激かげきジハードだん所属しょぞくするハリド・イスランブリ砲兵ほうへい中尉ちゅういによって暗殺あんさつされた。

サダト本人ほんにんも、自分じぶんがいつか暗殺あんさつされることを予期よきしており、近々ちかぢか自分じぶんころされるだろうとしたしい友人ゆうじんなどにかたっていたという。直前ちょくぜんにしたためたとされる手記しゅきには「自分じぶんは、いままで永年えいねん仇敵きゅうてきとされていた、イスラエルとのあいだ平和へいわつくげた。これで人生じんせいわり。あとはただ昇天しょうてんつのみである」と記述きじゅつされている。また暗殺あんさつされるいちねんまえされた自伝じでんにも、みずからの予期よきする記述きじゅつがある。しかし事件じけん当日とうじつ制服せいふくほうくずれるとうことで、サダトは防弾ぼうだんチョッキをようとはしなかった。

そのため、4じゅう警護けいごまもられており、パレードにおける火器かき使用しよう規制きせいおこなわれるはずであったが、その手続てつづきを担当たんとうする士官しかんはメッカ巡礼じゅんれいかけていた。おりしも上空じょうくうでは空軍くうぐんのフランスせいの6ミラージュ見事みごとなアクロバット飛行ひこう披露ひろうしてあかしろみどりけむりでエジプト国旗こっきえがいており、群衆ぐんしゅうはそれにをとられていた。パレードちゅう砲兵ほうへい車両しゃりょう部隊ぶたいの1りょう大統領だいとうりょう観閲かんえつせきまえにエンジン故障こしょうよそお突然とつぜん停止ていしし、乗車じょうしゃしていた暗殺あんさつたいりてきた。イスランブリ砲兵ほうへい中尉ちゅうい大統領だいとうりょうまえすすみ、サダトはイスランブリ砲兵ほうへい中尉ちゅうい敬礼けいれいけようと起立きりつしていたがイスランブリ砲兵ほうへい中尉ちゅういは3手榴弾しゅりゅうだんげつけ、そのうち1個いっこ爆発ばくはつした。イスランブリ砲兵ほうへい中尉ちゅうい暗殺あんさつたい突撃とつげきじゅう観閲かんえつスタンドに射撃しゃげきした。サダトがたおれたのち人々ひとびと銃弾じゅうだんからサダトをまもるために周囲しゅうい椅子いすげた。そのとき、イスランブリ砲兵ほうへい中尉ちゅういが「ファラオへの!」とさけびながら観閲かんえつスタンドにはしり、サダトのからだじゅう発射はっしゃした。

銃撃じゅうげきせんはなおもやく2分間ふんかんつづき、キューバ特命とくめい全権ぜんけん大使たいしオマーン将官しょうかん中国ちゅうごく軍事ぐんじ技術ぎじゅつしゃ[19]コプト正教せいきょう司祭しさいふくむ11めい死亡しぼうホスニー・ムバラクふく大統領だいとうりょうブトロス・ブトロス=ガーリ外務がいむ大臣だいじん訪問ほうもんきゃくアイルランドジェームズ・タリー国防こくぼう大臣だいじん、4にんアメリカぐん連絡れんらく将校しょうこうふくむ38めい負傷ふしょうした。

保安ほあん部隊ぶたい不意ふいかれたものの、もなく応戦おうせんした。 暗殺あんさつたい2人ふたり射殺しゃさつされ、イスランブリ砲兵ほうへい中尉ちゅうい暗殺あんさつたい憲兵けんぺいたいによってその逮捕たいほされた。

くびむねこしなどに被弾ひだんしたサダトは病院びょういん搬送はんそうされ、11にん医師いしによる手術しゅじゅつけたものの同日どうじつ午後ごご750ふん日本にっぽん時間じかん7にち午前ごぜん250ふん)、エジプト政府せいふから正式せいしきにその発表はっぴょうされた。62さいぼつ。サダトの後継こうけいとしてムバラクふく大統領だいとうりょう大統領だいとうりょう昇格しょうかくした。ムバラクふく大統領だいとうりょうもこの攻撃こうげき負傷ふしょうし、サダトの葬儀そうぎには世界中せかいじゅうからおおくの高官こうかん参列さんれつした。サダトの亡骸なきがらは、ナスルシティ英語えいごばんピラミッドじょう無名むめい戦士せんし記念きねん英語えいごばんほうむられた。

家族かぞく[編集へんしゅう]

サダトは2結婚けっこんしている。最初さいしょつまエーサン・マジと1949ねん5月29にち離婚りこんし、そのに16さい年下とししたのエジプトじんとイギリスじん混血こんけつであるジーハーン・サフワト・ラオウフ英語えいごばん当時とうじ15さい)と結婚けっこん再婚さいこん)した。サダトはジーハーンとのあいださんにんむすめ一人ひとり息子むすこをもうけた。ジーハーンは『In Search of Identity』(1977ねん)により2001ねんパール・バックしょう受賞じゅしょうしている。

邦訳ほうやく著作ちょさく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 外務省がいむしょう公式こうしきサイトにおける「サダト大統領だいとうりょう」の表記ひょうきれい
  2. ^ John McCain, Mark Salter (2007). Hard Call: Great Decisions and the Extraordinary People Who Made Them. Twelve. https://books.google.co.jp/books?id=fnVlAgAAQBAJ&pg=PT104&lpg=PT104&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=eZgmsYRmUt&sig=vplploYl049_I1AsaWS6eZnn0mA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEILTAB#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false 
  3. ^ Magdalena Alagna (2004). Anwar Sadat. Rosen Pub Group. pp. 30. https://books.google.co.jp/books?id=9lIOS5DjocIC&pg=PA30&lpg=PA30&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=NSShINeoYl&sig=s2EJnat9I_IO_PBmontKKF7GPek&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEIMzAC#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false 
  4. ^ はやし(1973)、p.115
  5. ^ a b c はやし(1973)、p.119-120
  6. ^ Craig A. Daigle, "The Russians are going: Sadat, Nixon and the Soviet presence in Egypt." Middle East 8.1 (2004): 1.
  7. ^ Moshe Gat (2012). In Search of a Peace Settlement: Egypt and Israel Between the Wars, 1967-1973. Palgrave Macmillan. pp. 256–58.
  8. ^ EGYPT AND CHINA SIGN ARMS PACT, HAIL CLOSER TIES”. ニューヨーク・タイムズ (1976ねん4がつ22にち). 2019ねん7がつ11にち閲覧えつらん
  9. ^ 长城拥抱苏伊ちゅうほこり军事合作がっさくてき些事さじ. 360doc个人图书馆. (2015ねん9がつ8にち). http://www.360doc.com/content/15/0908/10/7536781_497643422.shtml 2019ねん7がつ11にち閲覧えつらん 
  10. ^ “China Will Sell Arms to Egypt, Sadat Announces”. ワシントン・ポスト. (1979ねん6がつ6にち). https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1979/06/06/china-will-sell-arms-to-egypt-sadat-announces/3c70f99a-2fa6-4dea-a92e-b8fbd8d0a97c/ 2019ねん7がつ11にち閲覧えつらん 
  11. ^ Heikal, Iran: The Untold Story (1982), p. 114.
  12. ^ Cooley, John. Unholy Wars: Afghanistan, America and International Terrorism. London: Pluto Press, 1999; 3rd edition, 2002. ISBN 9780745319179 p.17
  13. ^ Bronson, Thicker than Oil (2006), p. 134.
  14. ^ “SADAT SAYS U.S. BUYS SOVIET ARMS IN EGYPT FOR AFGHAN REBELS”. ニューヨーク・タイムズ. (1981ねん9がつ23にち). https://www.nytimes.com/1981/09/23/world/sadat-says-us-buys-soviet-arms-in-egypt-for-afghan-rebels.html 2019ねん7がつ12にち閲覧えつらん 
  15. ^ “Egypt Says It Trains Afghan Rebels”. ワシントン・ポスト. (1980ねん2がつ14にち). https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/02/14/egypt-says-it-trains-afghan-rebels/a09f455a-fca0-48c0-b7fe-12e8c9bcede6/ 2019ねん7がつ12にち閲覧えつらん 
  16. ^ Libya - Government
  17. ^ Tucker, Spencer C.; Roberts, Priscilla (12 May 2008). The Encyclopedia of the Arab-Israeli Conflict: A Political, Social, and Military History [4 volumes]: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. ISBN 9781851098422.
  18. ^ Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)
  19. ^ わが驻埃及使馆在开罗さい奠烈张宝だま”. 人民じんみんもう (2017ねん9がつ30にち). 2018ねん7がつ30にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • はやしたけし『ナセル小伝しょうでん日本にっぽん国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ国際こくさい問題もんだい新書しんしょ〉、1973ねん3がつ30にちNDLJP:12262433 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
アラブ連合れんごう共和きょうわこく大統領だいとうりょう
より移行いこう
エジプトの旗 エジプト・アラブ共和きょうわこく
大統領だいとうりょう
1971ねん - 1981ねん
次代じだい
スーフィー・アブー・ターリブ
代行だいこう人民じんみん議会ぎかい議長ぎちょう
先代せんだい
ガマール・アブドゥル=ナーセル
アラブ連合共和国の旗 アラブ連合れんごう共和きょうわこく大統領だいとうりょう
1970ねん - 1971ねん
次代じだい
エジプト・アラブ共和きょうわこく大統領だいとうりょう
移行いこう
先代せんだい
ムスタファー・ハリール英語えいごばん
エジプトの旗 エジプト・アラブ共和きょうわこく
首相しゅしょう
1980ねん - 1981ねん
次代じだい
ホスニー・ムバラク
先代せんだい
アジーズ・セドキー英語えいごばん
エジプトの旗 エジプト・アラブ共和きょうわこく
首相しゅしょう
1973ねん - 1974ねん
次代じだい
アブドルアジーズ・ムハンマド・ヘガーズィー英語えいごばん