ルーホッラー・ホメイニー

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ルーホッラー・ホメイニー
روح‌الله خمینی

1981ねん

任期にんき 1979ねん12月3にち1989ねん6月3にち

出生しゅっしょう 1902ねん9月24にち
ペルシアマルキャズィーしゅうホメイン
死去しきょ (1989-06-03) 1989ねん6月3にち(86さいぼつ
イランの旗 イランテヘラン
配偶はいぐうしゃ ハディージェ・サカフィー
署名しょめい

アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーآیت‌الله روح‌الله خمینی, Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī Fa-ir-khomeini_(1).ogg 発音はつおん[ヘルプ/ファイル], 1902ねん9月24にち - 1989ねん6月3にち)は、イランにおけるシーアじゅうイマーム精神せいしんてき指導しどうしゃであり、政治せいじ法学ほうがくしゃ。1979ねんパフラヴィー皇帝こうてい国外こくがい追放ついほうし、イスラム共和きょうわせい政体せいたい成立せいりつさせたイラン革命かくめい指導しどうしゃで、以後いご新生しんせい「イラン・イスラム共和きょうわこく」の元首げんしゅである最高さいこう指導しどうしゃとして、同国どうこく精神せいしんめんから指導しどうした。

「ルーホッラー・ホメイニー」は原語げんごでの発音はつおんちかいカタカナ表記ひょうきで、比較的ひかくてきあたらしい表記ひょうきほうである。日本にっぽんではホメイニーの存命ぞんめいちゅうから今日きょういたるまで、外務省がいむしょう[1]新聞しんぶん報道ほうどう一貫いっかんして「ホメイニ」「アヤトラ・ホメイニ」などと表記ひょうきしており、死後しごでも一般いっぱんにはこのホメイニほうがよりひろられている。

1000リアルから10まんリアルの7種類しゅるい紙幣しへいにその肖像しょうぞうることができる。

経歴けいれきについて[編集へんしゅう]

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わかころのホメイニー(みぎから2人ふたり)

ホメイニーは、1902ねん、イラン中部ちゅうぶ人口じんこう1まんたないちいさなまち・ホメインに、シーアだい7だいイマーム、ムーサーの子孫しそんしょうするサイイド預言よげんしゃムハンマド直系ちょっけい子孫しそん)の家系かけいとしてまれ、出生しゅっしょうめいをルーホッラー・ムーサーヴィーといった。当時とうじイランには近代きんだい政策せいさくともなそうせいほうによりすでにいえせい存在そんざいしたため、ムーサヴィーが本名ほんみょうせいにあたる。のちに「ホメイン出身しゅっしんもの」を意味いみするニスバより、ホメイニーを名乗なのる。なお、シーアでは法学ほうがくしゃ出身しゅっしんなどをかんしたニスバでばれるのはきわめて一般いっぱんてきである。

ホメイニーが生後せいご5ヶ月かげつとき法学ほうがくしゃであった父親ちちおや地元じもと人間にんげんにより殺害さつがいされ、母親ははおやとおばたちによって教育きょういくける。16さいときにんともくなり、そのあに教育きょういくけた。 おさなころくなったちちにならい、アラークでまなんだのちかれもイランのシーア聖地せいちゴムイスラム法学ほうがくおさめ、シーア上級じょうきゅう法学ほうがくしゃ意味いみするアーヤトッラー称号しょうごうた。これらの教育きょういく研究けんきゅうなかで「きることの本義ほんぎ簡素かんそ自由じゆう公共こうきょうぜんにあり」という信念しんねんたしかなものとし、自分じぶん人生じんせいにおいてもこれを実践じっせんするとともに人々ひとびとびかけた。

皇帝こうてい政策せいさくへの批判ひはんはんみかどせい運動うんどう[編集へんしゅう]

そしてだい世界せかい大戦たいせんなかの1941ねんごろから、モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝こうてい独裁どくさいてき西欧せいおう政策せいさくたいする不満ふまん表明ひょうめいする。その1963ねんに、皇帝こうてい宣言せんげんした「白色はくしょく革命かくめい」のしょ改革かいかくひそむイラン皇帝こうてい独裁どくさいてき性格せいかく非難ひなん抵抗ていこう運動うんどうびかけて逮捕たいほされる。このとき釈放しゃくほうされるものの政府せいふ批判ひはんつづけ、翌年よくねん1964ねん、ついにホメイニーの国民こくみんへの影響えいきょうりょくおそれたパフラヴィー皇帝こうてい拉致らちされ、国外こくがい追放ついほう亡命ぼうめいした。

この「白色はくしょく革命かくめい」をふく皇帝こうてい政策せいさくは、石油せきゆアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリス日本にっぽんなどへの輸出ゆしゅつによる豊富ほうふ外貨がいか収入しゅうにゅう背景はいけいにした工業こうぎょう西欧せいおう中心ちゅうしんえたものであるものの、西欧せいおうてき世俗せぞくてきなだけでなく、多分たぶん独裁どくさいてき性格せいかくつよく、さらにイランの内情ないじょう国民こくみん生活せいかつかえりみない急激きゅうげき改革かいかくおこなったために貧富ひんぷ格差かくさ増大ぞうだいした。これらのことに国民こくみん反発はんぱつして抵抗ていこう運動うんどうきた。ホメイニーはこの運動うんどうのシンボルてき存在そんざいだった。

その、トルコに滞在たいざいしたのちに、イラクのシーア聖地せいちナジャフうつったホメイニーは、イラン国民こくみん改革かいかくびかけをおこな一方いっぽう、ここでシーアのイスラム法学ほうがくしゃがおかくれ(ガイバちゅうのイマームにわって信徒しんと統治とうちおこなわなければならないとするホメイニ以前いぜんからあったシーア理論りろんをさらに発展はってんさせた「法学ほうがくしゃ統治とうちろん(ヴェラヤティ・ファキーフ)」をとなえた。

このイラク滞在たいざい長男ちょうなん突然とつぜんしているが、パフラヴィー皇帝こうていの「サヴァク」による暗殺あんさつとみられている。1978ねんにイラクをはなれ、フランス亡命ぼうめいしてからも、一貫いっかんして国外こくがいからイラン国民こくみん皇帝こうていへの抵抗ていこうびかけつづけた。

革命かくめい成功せいこう[編集へんしゅう]

1979ねん1がつ16にち、フランスからいといたはん体制たいせい運動うんどうたかまりにえかね、皇帝こうていとその家族かぞくエジプト亡命ぼうめい。これをけて、ホメイニーは2がつ1にち亡命ぼうめいさきのフランスから15ねんぶりの帰国きこくたし、ただちにイスラーム革命かくめい評議ひょうぎかい組織そしきした。

2がつ11にち評議ひょうぎかいはパーレヴィー皇帝こうてい時代じだい政府せいふから強制きょうせいてき権力けんりょく奪取だっしゅ唯一ゆいいつ公式こうしき政府せいふとなると、「イスラム共和きょうわこく」への移行いこう是非ぜひ国民こくみん投票とうひょうおこない、98%の賛意さんいた。4月1にち、ホメイニーは「イラン・イスラム共和きょうわこく」の樹立じゅりつ宣言せんげんし、「法学ほうがくしゃ統治とうちろん」にもとづいて、終身しゅうしん任期にんき最高さいこう指導しどうしゃ国家こっか元首げんしゅ)となり、任期にんき4ねん大統領だいとうりょう行政府ぎょうせいふちょう)をも指導しどうしうる、文字通もじどお同国どうこく最高さいこう指導しどうしゃとなった。この一連いちれんうごきをイラン革命かくめいぶ。

国家こっか元首げんしゅとして[編集へんしゅう]

しん政権せいけんは、その発足ほっそく直後ちょくごからイランアメリカ大使館たいしかん人質ひとじち事件じけんイラン・イラク戦争せんそうなどの外交がいこう危機きき戦争せんそうバニーサドル大統領だいとうりょう議会ぎかい多数たすうとうイスラム共和党きょうわとう対立たいりつなど、さまざまな危機ききてき状況じょうきょうにもまれたが、革命かくめいイランの最高さいこう指導しどうしゃとしてホメイニーは、しょ政策せいさくつよ影響えいきょうりょくをもった。ホメイニーは政治せいじ司法しほう文化ぶんかイスラムもとづいて構築こうちくなおすことを目指めざしたが、当初とうしょはある程度ていど現実げんじつにあわせたイスラムをかんがえて改革かいかくてき政策せいさく施行しこうしていた。

ホメイニーは、革命かくめいちゅうはかつてのシーアイマームたちの殉教じゅんきょうを「抑圧よくあつしゃ(モスタズアフィーン)」の抵抗ていこう象徴しょうちょうとし、皇帝こうてい独裁どくさい対抗たいこうするシーア社会しゃかい主義しゅぎ理念りねんれ、この革命かくめいを「イスラームにもとづく抑圧よくあつしゃ解放かいほう」と主張しゅちょうした。この主張しゅちょうによってホメイニーは、元来がんらい社会しゃかい主義しゅぎ支持しじしゃだった貧困ひんこんそう世俗せぞくてき中産ちゅうさん階級かいきゅうからも支持しじけ、革命かくめい達成たっせいした。

しかし革命かくめい達成たっせい一転いってんして、世俗せぞく主義しゅぎしゃ社会しゃかい主義しゅぎしゃを「イスラームのてき(カーフィル)」として弾圧だんあつするなど、事実じじつじょう宗教しゅうきょう独裁どくさい体制たいせいいた[2]。さらに1988ねん発表はっぴょうされた、イギリス作家さっかサルマン・ラシュディムハンマド生涯しょうがい題材だいざいいた小説しょうせつ悪魔あくま』を「冒涜ぼうとくてき」だとして、1989ねん2がつ14にち著者ちょしゃのラシュディ、およ発行はっこうかかわったものなどにたいして死刑しけい宣言せんげんするなど、強権きょうけんてき姿勢しせいをさらにつよめ、イスラム教いすらむきょうこくふく世界せかい各国かっこくからつよ反発はんぱつまねいた(日本語にほんご訳者やくしゃ五十嵐いがらしはじめ殺害さつがいされたが解決かいけつ)。

死去しきょ[編集へんしゅう]

1989ねん6がつ3にち死去しきょ。86さいだった。最期さいご言葉ことばは「あかりをしてくれ、わたしはもうねむい」だった。イラン最高さいこう指導しどうしゃしょくアリー・ハーメネイー継承けいしょうした。葬儀そうぎさいには、かん移送いそうちゅうあつかいの不手際ふてぎわかんぶたひらいて遺体いたい落下らっか、これを一部いちぶ参会さんかいしゃがショックで卒倒そっとうする一方いっぽうで、おおくの参会さんかいしゃはその衣服いふくからだ一部いちぶを「せい遺物いぶつ」としてかえろうとその遺体いたい殺到さっとう、これが暴徒ぼうとしてだい騒動そうどうになった。現在げんざいはテヘラン南部なんぶホメイニーびょうまつられている。

主義しゅぎ主張しゅちょうについて[編集へんしゅう]

統治とうち形態けいたいについて[編集へんしゅう]

ホメイニーの著書ちょしょ『イスラム統治とうち体制たいせい』(法学ほうがくしゃ統治とうちろん)はイスラムにもとづく国家こっか社会しゃかいのありかたについてべているが、本書ほんしょ理念りねんイラン・イスラム共和きょうわこく憲法けんぽう基本きほん原理げんりとしてまれた[3]

法学ほうがくしゃ統治とうちろんじゅうイマーム政治せいじ理論りろんであり、ホメイニー以前いぜんから存在そんざいしていたもので、ホメイニーはこれを発展はってんさせ、『イスラム統治とうち体制たいせい』でイスラム法学ほうがくしゃはイスラム政治せいじ体制たいせい樹立じゅりつし、国家こっか権力けんりょくった社会しゃかい統治とうちおこなう(連帯れんたい義務ぎむっているとした。 また、『イスラム統治とうち体制たいせい』ではイスラムの政治せいじ体制たいせい目的もくてきはイスラムのほうおこなうことであり、統治とうちしゃ必要ひつよう条件じょうけんはイスラム法学ほうがくについての知識ちしき指導しどうしゃとしての公正こうせいさであるとし、一般いっぱん信徒しんと謬のイマームたいするのとおなじようにしたが義務ぎむがあるとされている[4]

そして、イスラームほう厳正げんせいにのっとった統治とうちおこなうことで社会しゃかいに「イスラーム」てき秩序ちつじょ貫徹かんてつさせ、汚職おしょくのない公平こうへい税収ぜいしゅう運用うんよう[5]支配しはいしゃによる収奪しゅうだつ徹底てっていした排除はいじょ[6]抑圧よくあつしゃ解放かいほう救済きゅうさい[7]などを達成たっせいするよういており、かれ主張しゅちょうする「イスラームてき統治とうち」によって、君主くんしゅ貴族きぞく汚職おしょく浪費ろうひ収奪しゅうだつなどが批判ひはんされたパフラヴィーあさとはまったことなるイスラームてき公益こうえき社会しゃかい実現じつげんしようとした。

ホメイニーは君主くんしゅせい世襲せしゅう権力けんりょくをイスラームの理念りねんはんしているとして否定ひていしている。直接ちょくせつにはパフラヴィーあさしているが、ホメイニーはそれまで合議ごうぎせいだったカリフウマイヤ世襲せしゅうせいにしたことにシーア対抗たいこうした事例じれいげることで、シーア歴史れきしなかはん君主くんしゅせい世襲せしゅう権力けんりょくといううごきを見出みいだそうとしている[8]。 ただし、当時とうじシーアがウマイヤのカリフ世襲せしゅう反対はんたいしたのは、預言よげんしゃ血縁けつえんアリーいえによるカリフ世襲せしゅう目指めざしたためである。

現実げんじつかなわせたイスラームについて[編集へんしゅう]

1988ねんはじめ、ホメイニーは公益こうえきかなうならば政府せいふれい伝統でんとうてきイスラームほう優先ゆうせんすると表明ひょうめいした[9]。これは、国家こっか現実げんじつにイスラームの伝統でんとうてき規範きはん適合てきごうさせようとする努力どりょくであった。また、当時とうじイスラームほう政府せいふれい優先ゆうせんするという伝統でんとうてきかんがかた人物じんぶつおおくいるなかでの重要じゅうよう表明ひょうめいだった[10]同年どうねん9がつ宗教しゅうきょうてき道徳どうとくはんする使用しようはしないという条件じょうけんきで、楽器がっきチェス解禁かいきんおこなった。このとき、コムの宗教しゅうきょう法学ほうがくしゃ権威けんいあるイスラーム・シーア伝承でんしょう引用いんようしてこのことをホメイニーにいただしたが、ホメイニーは「現代げんだい適応てきおうできない宗教しゅうきょう学者がくしゃ」のくびきからだっすべしとこの宗教しゅうきょう法学ほうがくしゃさとした[11]

革命かくめい貢献こうけんした女性じょせい役割やくわり女性じょせい地位ちいについて[編集へんしゅう]

ホメイニーのつぎ最高さいこう指導しどうしゃとなったハーメネイーはその見解けんかい[12]でホメイニーの発言はつげんかんがえにも言及げんきゅうしている。(以下いかはこの見解けんかい参考さんこう

イラン・イスラム革命かくめい勝利しょうりしたさい、ホメイニーは「もしこの運動うんどう女性じょせい協力きょうりょくがなかったら、革命かくめい勝利しょうりしていなかっただろう」とべ、女性じょせいたちが賛同さんどうせず、しんじなければこの革命かくめい成功せいこうすることはなかったとのかんがえをしめした。 イラン・イスラム革命かくめいでは、参加さんかしゃ半数はんすう女性じょせいであり、女性じょせい革命かくめい先頭せんとうにたってたたかい、家庭かてい環境かんきょうにおいても女性じょせいはその家族かぞく文化ぶんかてき影響えいきょうあたえた。

ホメイニーは革命かくめいおよびその革命かくめい体制たいせいどきにおける女性じょせい役割やくわりを、またイスラム社会しゃかい完成かんせいとその革命かくめいてき・イスラムてき成熟せいじゅくにおける女性じょせい地位ちいを、非常ひじょうおおきなものとていた。これには、"イランひと女性じょせい・イスラム女性じょせいが、「西側にしがわ堕落だらくした文化ぶんか」がきずいたみちなかで、様々さまざまわなから解放かいほうされるためのみずからのせいなるたたかいを、強固きょうこ決意けつい継続けいぞくする"ことが必須ひっすであるとした。

植民しょくみん主義しゅぎしゃ」のはんイスラーム政策せいさくへの危惧きぐについて[編集へんしゅう]

『イスラーム統治とうちろん』では、「植民しょくみん主義しゅぎもの」の政策せいさくかんする警告けいこくもなされている。ここでは、西側にしがわ植民しょくみん主義しゅぎしゃは、300ねんあるいはそれ以上いじょうまえからイスラム諸国しょこく進出しんしゅつしていたが、自分じぶんたちの利益りえき獲得かくとくむずかしくし、その政治せいじてき権力けんりょくあやうくしているのはイスラームとそのほう規範きはん人々ひとびとのイスラームへの信仰しんこうだと做したため、多様たよう手段しゅだんをもってはんイスラームの宣伝せんでん陰謀いんぼう実施じっししたとされている。当時とうじ宗教しゅうきょう学院がくいんかい養成ようせいされた布教ふきょうもの大学だいがく政府せいふ宣伝せんでん機構きこう印刷いんさつ出版しゅっぱんしょにおける植民しょくみん主義しゅぎしゃ代理人だいりにん植民しょくみん主義しゅぎてきしょ政府せいふ奉仕ほうしする東洋とうよう学者がくしゃたちがこの政策せいさく協力きょうりょくし、本来ほんらい真理しんり正義まさよしもとめる人々ひとびと宗教しゅうきょうであるイスラムをげ、ことなったかたち紹介しょうかいし、一般いっぱん人々ひとびとあやまったかんがえをたせ、宗教しゅうきょう学院がくいんかい不完全ふかんぜんなイスラムの姿すがた提示ていじしたとする。

この理由りゆうとして、「イスラームの活力かつりょく革命かくめいてき性格せいかくうばい、そしてムスリムたちが努力どりょくすること、運動うんどう従事じゅうじすること、自由じゆうもとめること、イスラームのほう規範きはん執行しっこうもとめること、ムスリムたちの幸福こうふく保障ほしょう人間にんげんとしての尊厳そんげんたもった生活せいかつみとめる統治とうち体制たいせい)をつくること、これらを阻止そしする意図いとである」としている。 このれいとして「イスラームは包括ほうかつてき宗教しゅうきょうではない。生活せいかつそくした宗教しゅうきょうではない。社会しゃかい運営うんえい)のためのしょ制度せいど諸法しょほうっていない。統治とうち方法ほうほうやその諸法しょほうっていない。」、「倫理りんりせいつが、生活せいかつ社会しゃかい運営うんえいにはあたいしない」と宣伝せんでんされていたことがげられている。

本来ほんらいのイスラームはもちろんまったくことなるきわめて政治せいじてき宗教しゅうきょうであるが、当時とうじこれらの「植民しょくみん主義しゅぎしゃ」の悪意あくいのある宣伝せんでん効果こうかげており、一般いっぱん民衆みんしゅうよりも教育きょういくけた大学だいがくじん宗教しゅうきょう学徒がくとのほうがあやまったかんがえをしんじてイスラムをまったくただしく理解りかいしていなく、もしだれかがただしいイスラームを紹介しょうかいしようとしても人々ひとびと簡単かんたんにはしんじようとはせず、ぎゃく宗教しゅうきょう学院がくいん植民しょくみん主義しゅぎ協力きょうりょくしゃさわてるという状況じょうきょうがあった、としている[13]

イスラムの社会しゃかいせい政治せいじせいについて[編集へんしゅう]

この植民しょくみん主義しゅぎ宣伝せんでんあやまっていることを証明しょうめいするために、ホメイニーはつぎのようにべている。「コーランにおいて、社会しゃかい問題もんだい言及げんきゅうした箇所かしょと(社会しゃかい問題もんだいではなく個人こじんてき次元じげんぞくする)宗教しゅうきょう儀礼ぎれい章句しょうくは100たい1以上いじょうである。やく50かんからなり、すべてのほう規範きはん包含ほうがんする伝承でんしょうの1セットちゅう、3かんないし4かん宗教しゅうきょう儀礼ぎれいならびにかみたいする人間にんげん義務ぎむ関連かんれんし、また、一部いちぶほう規範きはん道徳どうとく関連かんれんしているが、のこりはすべて社会しゃかい経済けいざい法律ほうりつ政治せいじ社会しゃかい運営うんえい関連かんれんしている(つまり、「本来ほんらいのイスラーム」は個人こじん次元じげん信仰しんこうよりも、社会しゃかい問題もんだいによりおおかかわるものである)」[14]

以上いじょうのことをべたうえで、わか世代せだいけて自分じぶんべる論題ろんだいについて研究けんきゅうしながら、イスラムの諸法しょほう制度せいど紹介しょうかいするために生涯しょうがい努力どりょくし、イスラムがそのはじめからいかなる障害しょうがい直面ちょくめんし、現在げんざいいかなる敵意てきい苦難くなん直面ちょくめんしているかを人々ひとびとらせ、イスラムの本質ほんしつ真実しんじつおおかくされたままにしてはならない、キリストきょうおなじくイスラムもかみ人民じんみん関係かんけい社会しゃかいかかわりをもたない関係かんけい)についての命令めいれいのみの宗教しゅうきょうだと人々ひとびとかんがえないようにしなければならない、とうったえている。

また、どうちょでユダヤじんはんイスラーム宣伝せんでんかんする記述きじゅつもある。

「(第三次中東戦争だいさんじちゅうとうせんそう〈1967ねん直後ちょくごの)今日きょうユダヤ教徒きょうとのままにかいざんしたコーランをイスラエルの占領せんりょう印刷いんさつしていること」をげたうえで、「こえをあげ、人々ひとびとづかせ、もってユダヤ教徒きょうとたちやかれらを支援しえんする外国がいこくものたちはイスラームの根幹こんかん反対はんたいし、ユダヤ教徒きょうと統治とうち世界せかいちたてようとしていることをはっきりさせなければならない。我々われわれ一部いちぶもの無気力むきりょくさが原因げんいんとなって、ユダヤ教徒きょうと我々われわれ統治とうちすることになるのをおそれる」[15]べており、これらの人々ひとびとをムスリムたちをおびやかす存在そんざいとして、イランにおいて存在そんざいし、宣教せんきょう活動かつどうおこなっていることにたいして危惧きぐねんしめしている。

宗教しゅうきょう勢力せいりょく見方みかたとイスラム時代じだい以前いぜん世界せかい見方みかたについて[編集へんしゅう]

ホメイニーは著作ちょさくいて「イスラムの支配しはいいて異教徒いきょうと一定いってい程度ていど人権じんけんまもられるだけで満足まんぞくするべきであり、政治せいじてき権利けんりなどあたえられない」と主張しゅちょうしている。著書ちょしょにおいて、現代げんだいにおいてもジズヤ徴収ちょうしゅう(すなわちズィンミーせい)は有効ゆうこうだと主張しゅちょうしている箇所かしょがある[16]

パフラヴィーあさの1962ねん10がつ6にちに、政府せいふ地方ちほう選挙せんきょにおいて選挙せんきょけん被選挙権ひせんきょけんをムスリムのみにかぎった条項じょうこう[ちゅう 1]撤廃てっぱいし、バハイ教徒きょうとなどにも市民しみんけん拡大かくだいさせようとしたときには、バハイ教徒きょうと背教はいきょうしゃとして憎悪ぞうおする12イマーム立場たちばから、同僚どうりょう法学ほうがくしゃとともにはげしい抗議こうぎ運動うんどうおこない、どうほう撤回てっかいさせた[17]。しかし、のちに「かれら(バハイ教徒きょうと)が我々われわれ(ムスリム)をしだいに弛緩しかんさせて相互そうご離反りはんさせ、かく個人こじんに「宗教しゅうきょう義務ぎむ」をあきらかにした結果けっか、[我々われわれ]に言葉ことばちがいと混乱こんらんひろがった。そしていまや、かれらがのぞむことをなんでもムスリムたちやイスラーム国家こっかたいしてっている」と主張しゅちょうしている[17]

著書ちょしょでイスラム以前いぜん時代じだいかんして、アメリカ先住民せんじゅうみんを「野蛮やばん状態じょうたい日々ひびごす半開はんかい赤色あかいろじん[18]古代こだいの(自国じこくである)イランとローマの国家こっかして「専制せんせい支配しはい貴族きぞくせい差別さべつせいしたにあり、専横せんおうなる人々ひとびと支配しはいで、人々ひとびとほうによる統治とうち痕跡こんせきかった」[19]べている。イスラム教いすらむきょうでは、発祥はっしょうであるアラビア半島はんとうのこともイスラム教いすらむきょう以前いぜん時代じだいは「ジャーヒリーヤ時代じだい無知むち無明むみょう時代じだい)」とされ、野蛮やばん時代じだいとされている。

イスラエルのユダヤじんたいしてはイスラエルのパレスチナ占領せんりょうおよびパレスチナじんへの抑圧よくあつという事情じじょうもあって対立たいりつする立場たちばで、イスラームの初期しょきにおけるユダヤじんとの確執かくしつを「はんイスラームの宣伝せんでん陰謀いんぼう[20]とし、現在げんざいのパレスチナ問題もんだいいたるまでこの対立たいりついたものと認識にんしきしている[21]

また、公正こうせいなる支配しはいしゃかんする記述きじゅつで、「ムスリムたちと人類じんるい社会しゃかい統治とうちするものはつね公的こうてきしょめん利益りえき配慮はいりょし、個人こじんてきしょめん個人こじんてき愛着あいちゃくにはをつむらなければならない」[22]とし、それゆえにイスラームでは社会しゃかい人類じんるい利益りえきはんする部族ぶぞく集団しゅうだんほろぼしてきたとしている[23]れいとしてムハンマドがクライザぞく腐敗ふはいやしていたためにほろぼした(クライザぞく虐殺ぎゃくさつ事件じけん)ことをげている。

刑罰けいばつについて[編集へんしゅう]

ホメイニーはハッドけいかんしても、著書ちょしょでその必要ひつようせいつよ主張しゅちょうしていた[24]れいとして(ホメイニーは「堕落だらく」と表現ひょうげんしている)こんがいせい交渉こうしょうおこなったものにたいする100かい鞭打むちうち(未婚みこんしゃ[25]いしちによる死刑しけい既婚きこんしゃ[26]窃盗せっとうはんたいする人体じんたい切断せつだん[27]などをあげている。

共和きょうわこくへの影響えいきょうについて[編集へんしゅう]

結果けっかとして、ホメイニーが著書ちょしょ主張しゅちょうした政体せいたいのほとんどが、革命かくめいイランのイスラム共和きょうわせいにおいて実現じつげんされた。

イラン刑法けいほうイスラム法体ほうたいけい(シャリーア)規定きていにそい、イスラームを棄教したもの、こんがいせい交渉こうしょうをしたもの同性愛どうせいあいしゃたいする鞭打むちうけい投石とうせきころせけいなどをさだめている。またイスラーム以外いがい宗教しゅうきょうのうち、ユダヤきょう・ゾロアスターきょうキリスト教きりすときょうは、当初とうしょのホメイニーの主張しゅちょうどおりにズィンミーになることはまぬかれ、憲法けんぽうでもその尊重そんちょうがうたわれたものの、政治せいじてき権利けんり信仰しんこう自由じゆうなどでイスラム教徒きょうとたいして劣勢れっせいかれることとなった。また、バハイきょうかみろんしゃ完全かんぜんにその存在そんざい否定ひていされ、発覚はっかくした場合ばあい死刑しけいである。

まごたちについて[編集へんしゅう]

ホメイニーには15にんまごがいるが、そのうちの4めい政治せいじ活動かつどうおこなっている。最年長さいねんちょうホセイン英語えいごばん祖父そふかかげた「法学ほうがくしゃによる統治とうちろん」の廃止はいし世俗せぞく国家こっか主張しゅちょうし、「聖職せいしょくしゃ(ウラマー)政治せいじ介入かいにゅうするげん体制たいせい全体ぜんたい主義しゅぎ同然どうぜん」として体制たいせい転換てんかん主張しゅちょうしており[28]現在げんざいはイラン当局とうきょくにより自宅じたく軟禁なんきんかれている。アリーは改革かいかく陣営じんえいから2008ねん議会ぎかい選挙せんきょ立候補りっこうほしたが、保守ほしゅのウラマーで構成こうせいされる監督かんとくしゃ評議ひょうぎかい審査しんさにより立候補りっこうほ資格しかく剥奪はくだつされた。おなじく改革かいかくから立候補りっこうほした孫娘まごむすめのザフラー (en) も立候補りっこうほ資格しかくされている。このため、ホメイニーのまご現在げんざい政治せいじかかわっているのはハサン英語えいごばんただ一人ひとりである。そのハサンも2009ねん1がつ31にちおこなわれたイスラーム革命かくめい30周年しゅうねん記念きねん式典しきてんでの演説えんぜつ革命かくめいがイスラーム主義しゅぎしゃだけではなく、左翼さよく民族みんぞく主義しゅぎしゃなどすべての勢力せいりょく参加さんかして実現じつげんできたとし、間接かんせつてきにではあるが、現在げんざい体制たいせい不満ふまん表明ひょうめいしたといわれる[29]。また最近さいきんは、2009ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ国内こくない騒乱そうらん逮捕たいほされた改革かいかく幹部かんぶ家族かぞくたく慰問いもんしたり、国営こくえい放送ほうそう祖父そふホメイニーにかんする放送ほうそう内容ないようがあまりにいちめんてきだと抗議こうぎするなど、保守ほしゅ強硬きょうこう主導しゅどう革命かくめい体制たいせい反発はんぱつしているとされる[30]。このため保守ほしゅ強硬きょうこうあいだにはハサンにたいする不満ふまん存在そんざいしており、2010ねん6がつ4にちひらかれたホメイニー死去しきょから21周年しゅうねん記念きねんする集会しゅうかいでは、アフマディーネジャード大統領だいとうりょう支持しじしゃがハサンの演説えんぜつ途中とちゅうに「偽善ぎぜんしゃを!」「ムーサヴィーを!」などとさけんで妨害ぼうがいし、ハサンの演説えんぜつ中断ちゅうだんまれるという一幕ひとまくがあった[31][32]

ギャラリー[編集へんしゅう]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 清水しみずまなぶ わけ『ホメイニわが闘争とうそう宣言せんげんダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1980ねん2がつ28にちNDLJP:11928260 
  • 共同通信社きょうどうつうしんしゃ やく『ホメイニわが革命かくめい イスラム政府せいふへのみち共同通信社きょうどうつうしんしゃ、1980ねん3がつ15にちNDLJP:11928434 
  • 富田とみた健次けんじ やく『イスラーム統治とうちろんだいジハードろん平凡社へいぼんしゃ、2003ねん 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • H.ヌスバウマー ちょ、アジア現代げんだい研究所けんきゅうじょ やく『ホメイニー おいたちとイラン革命かくめい社会しゃかい思想しそうしゃ、1981ねん6がつ15にちNDLJP:12220971 
  • ピエール・サリンジャー ちょ玉木たまきひろし,山田やまだ侑平 わけ『ホメイニにやぶれたアメリカ 外交がいこうドキュメント』ティビーエス・ブリタニカ、1982ねん11月25にちNDLJP:11924379 
  • 回教かいきょう革命かくめい アヤトラ・ホメイニ会見かいけん高杉たかすぎ信美のぶよし パン・アジアクラブ, 1987.1.
  • むちくさり帝国ていこく ホメイニのイラン』高山たかやま正之まさゆき 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう, 1988.8.
  • 『ホメイニ賓客ひんきゃく イランべい大使館たいしかん占拠せんきょ事件じけんてなき相克そうこく』マーク・ボウデン 伏見ふしみたけししげるわけ 早川書房はやかわしょぼう 2007.5.
  • 『ホメイニー―イラン革命かくめい富田とみた健次けんじ 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2014.12. ISBN 4634351005

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ イスラム国家こっかにおいて、政治せいじてき権力けんりょくムスリムがつことはきびしく制限せいげんされる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 外務省がいむしょう公式こうしきサイトにおける「ホメイニ表記ひょうき類例るいれい
  2. ^ ジル・ケペル『ジハード-イスラム主義しゅぎ発展はってん衰退すいたいだい5しょう「イラン革命かくめいとホメイニーの遺産いさん」。
  3. ^ しんイスラム事典じてん日本にっぽんイスラム協会きょうかい監修かんしゅう(2002)、445ぺーじ
  4. ^ しんイスラム事典じてん』442ぺーじ
  5. ^ ホメイニー (2003)、33-35ぺーじ
  6. ^ ホメイニー (2003)、50-51ぺーじ
  7. ^ ホメイニー (2003)、39-40ぺーじ
  8. ^ ホメイニー『イスラーム統治とうちろんだいジハードろん』、富田とみた建次けんじ やく (2003)、17・37・49ぺーじ
  9. ^ 富田とみた健次けんじちょ『 アーヤトッラー たちのイラン;イスラーム統治とうち体制たいせい矛盾むじゅん展開てんかい』、(1993),129-132ぺーじ
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  11. ^ 『アジア読本とくほんイラン』、 上岡うえおか弘二こうじへん、(1999)、194ぺーじ
  12. ^ ハーメネイの見解けんかい最高さいこう指導しどうしゃかんがえるイスラム文化ぶんかにおける女性じょせい西側にしがわ文化ぶんかにおける女性じょせい」(2010)
  13. ^ ホメイニー(2003)14ぺーじ
  14. ^ ホメイニー(2003)14-15ぺーじ
  15. ^ ホメイニー (2003)、155-156ぺーじ
  16. ^ ホメイニー (2003)、30、34-35ぺーじ
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  18. ^ ホメイニー (2003)、15ぺーじ
  19. ^ ホメイニー(2003)、15ぺーじ
  20. ^ ホメイニー (2003)、12ぺーじ
  21. ^ ホメイニー (2003)、155ぺーじ
  22. ^ ホメイニー(2003)、98ぺーじ
  23. ^ ホメイニー (2003)、98-99ぺーじ
  24. ^ ホメイニー (2003)、58・84-85ぺーじ
  25. ^ ホメイニー (2003)、20ぺーじ
  26. ^ ホメイニー (2003)、19ぺーじ
  27. ^ ホメイニー (2003)、98ぺーじ
  28. ^ http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP118406 メムリ緊急きんきゅう報告ほうこくシリーズNo 1184
  29. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』2009ねん2がつ4にちづけ国際こくさいめん記事きじより。
  30. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』2010ねん2がつ12にちづけ国際こくさいめん記事きじ
  31. ^ https://web.archive.org/web/20101025165739/http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100604/mds1006042006004-n1.htm ホメイニのまご演説えんぜつ妨害ぼうがい イラン
  32. ^ http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20100611_203438.html

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]