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ガージャールあさ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
崇高すうこうなるくにペルシア
دولت علیه ایران
アフシャール朝
ザンド朝
1785ねん - 1925ねん パフラヴィー朝
ペルシアの国旗 ペルシアの国章
国旗こっきくにあきら
国歌こっか: ایران جوانペルシアばん
ペルシアの位置
ガージャールあさ最大さいだい版図はんと(1797ねん
公用こうよう ペルシア
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうシーア
首都しゅと テヘラン
シャー
1779ねん - 1797ねん アーガー・モハンマド
1909ねん - 1925ねんアフマド・シャー
首相しゅしょう
1907ねん - 1907ねんアリー・アスガル・ハーン
1923ねん - 1925ねんレザー・パフラヴィー
面積めんせき
1925ねん1,628,750km²
変遷へんせん
成立せいりつ 1779ねん
ペルシア統一とういつ1796ねん
イラン立憲りっけん革命かくめい1906ねん
滅亡めつぼう1925ねん12月15にち
通貨つうかイラン・トマン
イラン・キラン
時間じかんたいUTC +3:30(DST:+4:30)
現在げんざいイランの旗 イラン
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
アルメニアの旗 アルメニア
ジョージア (国)の旗 ジョージア
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン
イランの歴史
イランの歴史れきし
イランの歴史れきし
イランの先史せんし時代じだい英語えいごばん
はらエラム
エラム
ジーロフト文化ぶんか英語えいごばん
マンナエ
メディア王国おうこく
ペルシア帝国ていこく
アケメネスあさ
セレウコスあさ
アルサケスあさ
サーサーンあさ
イスラームの征服せいふく
ウマイヤあさ
アッバースあさ
ターヒルあさ
サッファールあさ
サーマーンあさ
ズィヤールあさ
ブワイフあさ ガズナあさ
セルジュークあさ ゴールあさ
ホラズム・シャーあさ
イルハンあさ
ムザッファルあさ ティムールあさ
くろひつじあさ しろひつじあさ
サファヴィーあさ
アフシャールあさ
ザンドあさ
ガージャールあさ
パフラヴィーあさ
イスラーム共和きょうわこく

ガージャールあさ(ガージャールちょう(ペルシアおん)、ペルシア: قاجاریه‎、ガージャーリヤン、カージャールあさ(アラビアおん)は、18世紀せいきすえから20世紀せいきはつにかけて現在げんざいイラン中心ちゅうしん支配しはいしたトゥルクマーンけいガージャール部族ぶぞく連合れんごう英語えいごばんによるイスラム王朝おうちょう1796ねん - 1925ねん)。首都しゅとテヘラン

概要がいよう[編集へんしゅう]

サファヴィーあさ(アフシャールあさふくむ)滅亡めつぼうイラン統一とういつして、めまぐるしくうつわる群雄割拠ぐんゆうかっきょ時代じだい終止符しゅうしふった。しかし、ガージャールあさ時代じだい内憂ないゆう外患がいかんなやまされ、イランのくら時代じだいとして記憶きおくされている。

ガージャールあさ権力けんりょく基盤きばん弱体じゃくたいであった。ガージャールあさはその軍事ぐんじりょく部族ぶぞく勢力せいりょく提供ていきょうする兵力へいりょく依存いぞんしていたため、かく部族ぶぞく勢力せいりょくをおさえきれなかった。また、地方ちほう太守たいしゅにんじたガージャール一族いちぞく独立どくりつ傾向けいこうあらわにして恣意しいてき統治とうちおこなうことがおおく、テヘランへのぜいおさめとどこおりがちとなった。したがって、国内こくないてきにはかならずしも統一とういつてき安定あんていてき統治とうちがおこなわれたとはがたい。脆弱ぜいじゃく中央ちゅうおう権力けんりょくのもと、アーガー・ハーン1せいマハッラーティー英語えいごばんHasan Ali Shah Mehalatee)の反乱はんらんバーブきょう反乱はんらんなど内乱ないらん相次あいつぎ、社会しゃかいてきにも不安定ふあんていであった。

対外たいがいてきには2にわたるロシア帝国ていこくとの戦争せんそう1805ねん - 13ねん1827ねん - 28ねん)とその敗北はいぼくによってグルジアなどカフカズうしなった(ゴレスターン条約じょうやくトルコマーンチャーイ条約じょうやく)。また、ホラーサーンヘラート遠征えんせい1836ねん56ねん)もイギリスとの確執かくしつ戦争せんそうこして失敗しっぱいわり、今日きょうアフガニスタン領域りょういき確立かくりつする(パリ条約じょうやく)。現在げんざいのイランの国境こっきょうせんはおおむねガージャールあさ時代じだい成立せいりつしたものであるといえる。

こうした状況じょうきょうにあって19世紀せいき後半こうはんには兵制へいせい改革かいかく近代きんだいてき教育きょういく機関きかん設立せつりつ金融きんゆうなどの改革かいかくいくたびかこころみられることになるが、十分じゅうぶん成果せいかることはできなかった。むしろ近代きんだいのための費用ひようは、ただでさえ戦費せんぴにあえぐ財政ざいせいおもくのしかかり、おりからのぎんのポンドにたいする下落げらくとあいまって、イランの経済けいざいてき従属じゅうぞくすすめることになる。政府せいふ鉄道てつどう電信でんしんなどの利権りけん英国えいこくはじめとするヨーロッパ商社しょうしゃなどにることでこれをしのごうとした。

このような政府せいふうごきは売国ばいこくてきはんイスラームてきとの印象いんしょうあたえた。政府せいふたいする異議いぎもうての活動かつどう活発かっぱつし、1891ねんにはタバコ利権りけんわたしにはしはっするタバコ・ボイコット運動うんどうこる。政府せいふ改革かいかく推進すいしん公正こうせいなるイスラームてき統治とうちという矛盾むじゅんする目的もくてき同時どうじ追求ついきゅうせざるをえず、ますます混迷こんめいふかめ、1905ねん - 11ねんイラン立憲りっけん革命かくめい勃発ぼっぱついたり、ついに立憲りっけん議会ぎかいせい導入どうにゅうする。

そのあいだにも1907ねんえい協商きょうしょう南北なんぼくそれぞれがイギリスとロシアの勢力せいりょくけんさだめられるなど、ガージャールあさは、もはや緩衝かんしょうこくとしての役割やくわりになうにぎない状態じょうたいとなった。立憲りっけん革命かくめいもロシアぐん介入かいにゅうでうやむやのうちにわった。命数めいすう使つかたしたガージャールあさ1925ねんパフラヴィーあさわり、以降いこうイランは国民こくみん国家こっかイランとして近代きんだいみちすすむことになる。

ガージャールあさ時代じだいはこのようにきわめて不安定ふあんてい時代じだいではあったが、現代げんだいイランのさまざまな要素ようそ芽生めばえたのもこの時代じだいだった。伝統でんとうおおくが定着ていちゃくしたのはガージャールあさ時代じだいであった。ガージャールあさよわさは「イラン国民こくみん」という意識いしき目覚めざめさせ、一方いっぽうシーアイスラームと政治せいじとのかかわりを濃密のうみつなものとさせたともえるのである。

1779ねんから1926ねんまでのガージャールあさ時代じだいのイランの地図ちずコレクションおよび1807ねんから1925ねんまでのガージャールあさにおけるイランの国際こくさい関係かんけいかんする文書ぶんしょぐん世界せかい記憶きおく登録とうろくされている[1][2]

歴史れきし[編集へんしゅう]

草創そうそう時代じだい[編集へんしゅう]

ガージャール部族ぶぞく連合れんごうはトルコマーンけい遊牧ゆうぼく部族ぶぞく連合れんごうサファヴィーあさではキズィルバーシュ一翼いちよくをなし、サファヴィーちょうには今日きょうナゴルノ・カラバフ自治じちしゅうのカラバフ、のちどうあさまつにはアスタラーバードなみ: اَستِر آبادAsterābād今日きょうのイラン・ゴレスターンしゅうゴルガーン旧称きゅうしょう)を本拠ほんきょとしていた。ガージャール部族ぶぞく連合れんごうはおおむねデヴェルーとコユンルーという集団しゅうだん大別たいべつでき、たがいに勢力せいりょくあらそっていた。

コユンルーのムハンマド・ハサン・ハーンはサファヴィーあさ末期まっき以降いこう群雄割拠ぐんゆうかっきょ時代じだいにあってアフシャールあさナーディル・シャーとの合従連衡がっしょうれんこうにおいて、頭角とうかくをあらわす。ナーディル・シャーぼつ、ムハンマド・ハサン・ハーンはギーラーンマーザンダラーン、ゴルガーンのカスピ海かすぴかい沿岸えんがんさえる一大いちだい勢力せいりょくとなり、イラン南東なんとう本拠ほんきょとするザンドあさカリーム・ハーンあらそうようになった。

こうそうのなかでムハンマド・ハサン・ハーンの息子むすこアーカー・ムハンマド・ハーンはザンドあさちる。カリーム・ハーンはガージャール部族ぶぞく連合れんごうないあらそいからるため、かれ首都しゅとシーラーズ抑留よくりゅうして手元てもとにおく一方いっぽうかれ敵対てきたいするデヴェルーを支援しえんした。1758ねんちちムハンマド・ハサン・ハーンがぼっするとアーカー・ムハンマド・ハーンはガージャール部族ぶぞく連合れんごう一方いっぽうコユンルーのちょうとなり、ザンドあさ宮廷きゅうていせきめる。

アーカー・ムハンマド・ハーンは1779ねん、カリーム・ハーンがぼっするとシーラーズを脱出だっしゅつし、1781ねん、ロシアを撃退げきたいしてアスタラーバードでデヴェルーをおさえてガージャール部族ぶぞく連合れんごうない権力けんりょく確立かくりつした。これをもってガージャールあさ成立せいりつとすることがある。

アーカー・ムハンマド・ハーンは以降いこうザンドあさあらそいながら北部ほくぶイランに勢力せいりょくひろげていく。1785ねんまでにカスピ海かすぴかい沿岸えんがんをほぼさえ、テヘランに本拠ほんきょうつした。これはイラン政治せいじ重心じゅうしん北西ほくせいイランへと移動いどうしたこともしめしており、レイ近郊きんこうちいさなまちにすぎなかったテヘランは成長せいちょうつづ今日きょういたるまでイランの首都しゅととなる。1794ねんにはルトフ・アリー・ハーンらえてザンドあさほろぼした。

しかし、1783ねんロシア帝国ていこくカルトリ・カヘティ王国おうこく1762ねん1798ねん)のあいだギオルギエフスク条約じょうやく英語えいごばん締結ていけつされ、グルジアがロシアにたびたび保護ほごもとめるグルジア問題もんだいはじまると、1795ねんグルジアへ遠征えんせいしてイラン王朝おうちょう伝統でんとう宗主そうしゅけんさい確立かくりつし、ティフリス(今日きょうトビリシ)まで攻略こうりゃくした。

建国けんこく[編集へんしゅう]

アーガー・モハンマド・シャー[編集へんしゅう]

アーカー・ムハンマド・ハーンはテヘランにもどり、1796ねんシャーとして戴冠たいかん、アーガー・モハンマド・シャーを名乗なのった(以降いこう現代げんだいペルシアおんしるす)。つづいて北東ほくとうホラーサーン方面ほうめんてんじてマシュハド確保かくほ、さらにめい目的もくてき命脈めいみゃくたもっていたアフシャールあさほろぼし、ほぼサファヴィーあさ領域りょういき確保かくほするにいたった。

1796ねんなつ、ロシアがグルジア遠征えんせいぐんこしたが(en:Persian Expedition of 1796)、エカチェリーナ2せい死去しきょともなって中止ちゅうしされた。アーガー・モハンマド・シャーは翌年よくねんはるブハラ遠征えんせいえてグルジア安定あんていのためにテヘランを出発しゅっぱつしたが、その途上とじょう1797ねん6月19にち暗殺あんさつされた。グルジア問題もんだい以降いこうガージャールあさ歴代れきだい懸案けんあんとしてロシアとの対立たいりつをもたらし、やがてロシア・ペルシア戦争せんそうだいいちロシア・ペルシア戦争せんそうだいロシア・ペルシア戦争せんそう)をまねくことになる。

ロシアとのこうそうとカフカスの喪失そうしつ[編集へんしゅう]

ファトフ・アリー・シャー[編集へんしゅう]

アーガー・ムハンマド・ハーンは幼時ようじ去勢きょせいされていたためがなかった。 だい宰相さいしょう(サドレ・アーザム)のハジ・エブラーヒームfa)・キャラーンタルシーラーズィーはアーガー・ムハンマド・ハーンの死去しきょによって瓦解がかいする兵力へいりょくさい編成へんせいし、ファールス太守たいしゅであったぜんシャーのおいソルターン・バーバー・ハーンをテヘランにむかえた。これがだい2だいファトフ・アリー・シャー(1797ねん7がつ28にち即位そくい翌年よくねん3がつ19にち戴冠たいかん)である。ファトフ・アリー・シャーはイラン国内こくないでの評判ひょうばんかならずしもたかくない。かれ生涯しょうがい特筆とくひつすべきものはハレムの規模きぼおおきかったことであり、やく100にんどもがいたとされる。

ファトフ・アリー・シャーは即位そくい早々そうそうにアーガー・ムハンマド・ハーンの盟友めいゆうたる有力ゆうりょく族長ぞくちょうたち、アフシャールあさやザンドあさ残党ざんとう叔父おじ兄弟きょうだいなどの一族いちぞくからの挑戦ちょうせんけることになった(1798ねんちゅうアゼルバイジャンにおいてクルドのサーデグ・ハーン・シャガーギー、南部なんぶのモハンマド・ハーン・ザンド、おとうとホセインゴリー・ハーンなど)。ファトフ・アリー・シャーはこれらをひとひと退しりぞけ、ガージャール王権おうけん確立かくりつする。

また1801ねん4がつには建国けんこく功臣こうしんだい宰相さいしょうエブラーヒーム・キャラーンタル・シーラーズィーを罷免ひめん、のちに処刑しょけいしている。これはザンドあさ以降いこう、イラン東部とうぶ南部なんぶ広大こうだい土地とち所有しょゆうしたペルシアじん文人ぶんじん官僚かんりょうタージーク)らの基盤きばん王権おうけん回収かいしゅうすることをねらったものであると同時どうじに、北西ほくせいイランのアゼルバイジャンばつ官僚かんりょうらによる陰謀いんぼうという北西ほくせいたい南東なんとう地方ちほうてき権力けんりょく闘争とうそうめんっていた。

このようにファトフ・アリー・シャーは王権おうけん確立かくりつつとめたが、ガージャールあさ権力けんりょく基盤きばんたる部族ぶぞくちょう一族いちぞく権力けんりょく徹底的てっていてきぐことはできず、打撃だげきあたえたのちに懐柔かいじゅうする微温びおんてき選択せんたくをせざるをなかった。地方ちほう統治とうちのためにファトフ・アリー・シャーは徐々じょじょみずからの各地かくち太守たいしゅにんじて結束けっそくかためていく。もっとも顕著けんちょなものは太子たいしアッバース・ミールザー英語えいごばんタブリーズ太守たいしゅへの起用きようである。

これ以降いこうガージャールあさ太子たいし(ワーリー・アフド)はタブリーズ太守たいしゅとしてアゼルバイジャンに常駐じょうちゅうすることになり、タブリーズはガージャールあさ事実じじつじょうふくとなった。各地かくち分封ぶんぽうされた王子おうじらは任地にんちにおいて地方ちほう宮廷きゅうていいとなんで土着どちゃく部族ぶぞくちょうらと関係かんけいふかめた。その結果けっか王権おうけんはシャーの代替だいがわりごとに独立どくりつ傾向けいこうつよ一族いちぞくによる挑戦ちょうせんけることになるのである。

アーガー・ムハンマド・ハーンによるカフカズ回収かいしゅう作戦さくせんはグルジアをロシアへ接近せっきんさせ、1800ねん東部とうぶグルジアはロシアに併合へいごうされた。これをみとめないガージャールあさとロシアとのあらそいは1804ねん以降いこう散発さんぱつてき武力ぶりょく衝突しょうとつとなり、だいいちロシア・ペルシア戦争せんそう勃発ぼっぱつする。このたたかいを指揮しきしたのはアッバース・ミールザーであった。

かれはロシアとのあらそいをつうじて、たたかいの都度つど部族ぶぞくみんから編成へんせいされるぐん近代きんだい必要ひつようせい実感じっかん兵制へいせい改革かいかくすすめ、洋式ようしきぐんネザーメ・ジャディード編成へんせいしている。これがイランにおける近代きんだい嚆矢こうしといえよう。アッバース・ミールザーは連年れんねんアラスがわえて交戦こうせんエレバン確保かくほ戦争せんそう優勢ゆうせいすすめた。 1810ねんには宗主そうしゅけんのイランへの返還へんかんふく和平わへい条約じょうやくがロシアからもうられたがこれを拒否きょひ、かえって1812ねんアスラーン・デジュのたたかロシアばん決定的けっていてき敗北はいぼくきっしてしまう。

この結果けっかナポレオン・ボナパルトロシア遠征えんせいによるヨーロッパ情勢じょうせい急激きゅうげき展開てんかい、とりわけティルジット条約じょうやく瓦解がかいによるイギリスとロシア帝国ていこく接近せっきん背景はいけいに、イギリスの仲介ちゅうかいによりゴレスターン条約じょうやく1813ねん9月13にち調印ちょういん)が締結ていけつされ、ガージャールあさグルジアバクーなどアゼルバイジャン北半きたはんうしなった。

ロシアはカフカスを完全かんぜん掌握しょうあくするために、コーカサス戦争せんそう1817ねん-1864ねん)を開始かいし。カフカズ西部せいぶでのロシアの活動かつどう黙認もくにんしたオスマン帝国ていこくとのあいだにもオスマン・イラン戦争せんそうトルコばん戦端せんたんひらかれ、ギリシャ独立どくりつ戦争せんそう1821ねん-1829ねん)に忙殺ぼうさつされるオスマン帝国ていこく圧倒あっとうして一時いちじバグダードとすいきおいであったが、こちらもイギリスの介入かいにゅうがあり1823ねん7がつ28にちエルズルム条約じょうやく(First Treaty)で終結しゅうけつした。

1826ねんだいロシア・ペルシア戦争せんそう勃発ぼっぱつ1828ねんトルコマーンチャーイ条約じょうやくだいロシア・ペルシア戦争せんそう講和こうわ条約じょうやく)が締結ていけつされ、カージャールちょうイランはロシアへアーザルバーイジャーンタリシュ・ハンこく英語えいごばんおよアルメニアエレバン・ハンこく英語えいごばんナヒチェヴァン・ハンこく英語えいごばんへの宗主そうしゅけん承認しょうにん)を割譲かつじょうしたが、このあいだ1827ねんにロシアがナヴァリノの海戦かいせん参戦さんせんしたことをきっかけに、1828ねんにオスマン帝国ていこく戦争せんそう (1828ねん-1829ねん)はじめると、1830ねんナクシュバンディー教団きょうだんイマームこく英語えいごばん建国けんこくし、さらにクリミア戦争せんそう1853ねん-1856ねん)をはさんだことで、コーカサス戦争せんそう泥沼どろぬました。

1847ねん5月31にちエルズルム条約じょうやく(Second Treaty)により、1639ねんガスレ・シーリーン条約じょうやく英語えいごばん国境こっきょうせんさい確定かくていされた。

イギリスとロシアによるはん植民しょくみん時代じだい[編集へんしゅう]

モハンマド・シャー[編集へんしゅう]

ファトフ・アリー・シャーののちいだのが、モハンマド・シャー在位ざいい1836ねん - 1848ねん)である。かれ時代じだいには、イギリスの南方なんぽうからの進出しんしゅつすすみ(だいいちアフガン戦争せんそう英語えいごばん1839ねん - 1842ねん)、1839ねん1841ねんの2かいにわたりヘラート陥落かんらくし、イギリスもまた、ロシアが最恵国さいけいこく待遇たいぐう獲得かくとくすることに成功せいこうした。それ以降いこう、イランのはん植民しょくみん徐々じょじょ進行しんこうすることとなった(グレート・ゲーム)。

また、この時代じだい、ガージャールあさたいし、アーガー・ハーン1せい英語えいごばんをリーダーとするイスマーイール反乱はんらんと、セイイェド・アリー・モハンマド通称つうしょうバーブ)が組織そしきしたバーブ教徒きょうと反乱はんらん頻発ひんぱつするようになった。前者ぜんしゃ鎮圧ちんあつにより、アーガー・ハーンはインドへの逃亡とうぼう余儀よぎなくされるが、インドで経済けいざいてき成功せいこうおさめる契機けいきとなっていく。深刻しんこくだったのはバーブきょう存在そんざいであった。バーブは、1844ねん3がつ24にち突如とつじょとして「かみ啓示けいじ」をけたとし、みずからを「かみがくれしたイマーム」そのものを自認じにんしていった。バーブの布教ふきょう活動かつどうは、王政おうせいとシーア宗教しゅうきょう社会しゃかい自体じたい打撃だげきあたえると同時どうじに、ガージャールあさ支配しはい、ヨーロッパ進出しんしゅつ公然こうぜん批判ひはんしていった。1848ねん、モハンマド・シャーが崩御ほうぎょするとバーブ教徒きょうとは、ついに蜂起ほうきたす。

ナーセロッディーン・シャー[編集へんしゅう]

モハンマド・シャーののちいだナーセロッディーン・シャー在位ざいい1848ねん - 1896ねん)は、ロシアの協力きょうりょくた。セイイェド・アリー・モハンマド開祖かいそとするバーブきょう反乱はんらん各地かくち勃発ぼっぱつし、その鎮圧ちんあつ翻弄ほんろうされていたが、アミール・キャビールがバーブ教徒きょうと反乱はんらん鎮圧ちんあつ活躍かつやくし、1850ねんにアリー・モハンマドは銃殺じゅうさつされた(en:Execution of the Báb)。アミール・キャビールのによって、イランは近代きんだい推進すいしんおこなわれるが、1852ねんに、アミール・キャビールがナーセロッディーン・シャーのによって暗殺あんさつされると改革かいかく停滞ていたいしてしまった。アリー・モハンマドの高弟こうていミールザー・ホセイン・アリーはイラクに追放ついほうされ、バハイきょうおこした。

ナポレオン3せい宮廷きゅうていへの大使たいしアミーノッドウレ英語えいごばん

ナーセロッディーン・シャーがそのった政策せいさくとは、アフガニスタン首長しゅちょうこくenりょうヘラートへの進出しんしゅつアングロ・ペルシア戦争せんそう英語えいごばん1856ねん-1857ねん)であった。1855ねんにアフガニスタンはガージャールあさ侵攻しんこう警戒けいかいして、イギリスとペシャーワル条約じょうやくえい: Treaty of Peshawar)を締結ていけつし、両国りょうこく相互そうご防衛ぼうえい関係かんけいきずいていた。ナポレオン3せい仲裁ちゅうさいストラトフォード・カニングアミーノッドウレ英語えいごばんペルシア: هشتپر‎、フランス語ふらんすご: Amīn od-Doule)の交渉こうしょうおこなわれた結果けっかパリ条約じょうやく)、ガージャールあさがヘラートからくと、ロシアの中央ちゅうおうアジアへの進出しんしゅつみ(en:Expansion of Russia 1500–1800)、ブハラ・ハンこく1868ねん)、ヒヴァ・ハンこく1873ねん)を次々つぎつぎ保護ほごこくし、コーカンド・ハンこく1876ねん)を併合へいごうした。このロシアの中央ちゅうおうアジア進出しんしゅつは、だいアフガン戦争せんそう英語えいごばん1878ねん1880ねん)を誘発ゆうはつし、1879ねん5月26にちガンダマク条約じょうやく英語えいごばん締結ていけつによりアフガニスタン首長しゅちょうこくen)はイギリスの保護ほごこくとなった。

15世紀せいきから18世紀せいきのイラン領土りょうど変遷へんせん

また、パリ条約じょうやく関税かんぜい自主権じしゅけんうしない、ヨーロッパ各国かっこく経済けいざいてき権益けんえき供与きょうよすることにもなった。また、ヨーロッパりゅう贅沢ぜいたくをシャーがけたことによって、農民のうみん重税じゅうぜいした。イギリスとロシアによるイランのはん植民しょくみんすすめていくなかで、イラン経済けいざいは、世界せかい経済けいざいまれていくようになったが、廉価れんか織物おりもの製品せいひん海外かいがいから流入りゅうにゅうしたことにより、ますます疲弊ひへいしていった。1872ねんポール・ジュリアス・ロイターに「ロイター利権りけん英語えいごばん」(えい: Reuter Concession)が供与きょうよされたが、ロシアとバーザール商人しょうにん反対はんたいい、権利けんり放棄ほうきしたが、その代償だいしょうとして1885ねんペルシア帝国ていこく銀行ぎんこう設立せつりつした。これにより、イギリスによる財政ざいせい金融きんゆう支配しはいはじまった。外国がいこくじんによる経済けいざいてき権益けんえき争奪そうだつ合戦かっせん展開てんかいされるようになった。

その頂点ちょうてんたっしたのが1890ねんジェラルド F.タルボット英語えいごばん供与きょうよされた「タバコ利権りけん英語えいごばん」(えい: Tobacco Règie)であった。この供与きょうよ自体じたいは、最初さいしょ秘密ひみつであったが、イスタンブールペルシャ日刊にっかんアフタル』(ペルシア: اختر‎ - Akhtar)の報道ほうどうにより、あかるみにた。エジプトウラービー革命かくめい1879ねん - 1882ねん)を皮切かわきりに、イスラーム世界せかいではパン・イスラーム主義しゅぎ英語えいごばん高揚こうようしており、やく2年間ねんかんあいだ、イラン国内こくないは、騒擾そうじょう状態じょうたいとなった。1892ねん聖職せいしょくしゃバーザール商人しょうにん団結だんけつしてこしたこの運動うんどうタバコ・ボイコット運動うんどうという。最終さいしゅうてきには、イラン政府せいふ利権りけん買戻かいもどしということで決着けっちゃくしたが、イランじんナショナリズム高揚こうようする契機けいきとなった。1896ねんに、ジャマールッディーン・アフガーニー弟子でしミールザ・レザー・ケルマーニー英語えいごばんによって、ナーセロッディーン・シャーは暗殺あんさつされた。

イラン立憲りっけん革命かくめい滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

モザッファロッディーン・シャー[編集へんしゅう]

1901ねんにイランで石油せきゆ発見はっけんされると、イラン経済けいざいはますますイギリスの従属じゅうぞくへと転落てんらくしていった。いわゆる「ダースィー利権りけん英語えいごばん」(えい: D'Arcy Concession)とアングロ・ペルシャン石油せきゆ会社かいしゃ英語えいごばん創設そうせつされた。

イラン国内こくないは、ガージャールあさ変革へんかく待望たいぼうきた。そのさいに、にち戦争せんそうで、大国たいこくロシアが日本にっぽんけるという事実じじつ、また、ロシアのロシアだいいち革命かくめいささえに、イランじん改革かいかく意識いしきたかまった。1905ねん12月、テヘランのモスクに、聖職せいしょくしゃとバーザール商人しょうにん集合しゅうごうし、「公正こうせいいえ」の設立せつりつ要求ようきゅうすることを契機けいきに、イラン立憲りっけん革命かくめいはじまった。だい5だいモザッファロッディーン・シャー在位ざいい1896ねん-1907ねん)はいったんはかれらの要求ようきゅうれたが、その約束やくそく履行りこうする姿勢しせいらなかったために、アガー・サイイェド・ジャマーロッディーン・エスファハーニーシェイフ・モハンマド・ヴァーエズといった説教せっきょうがテヘランから追放ついほうされる事態じたいになると、翌年よくねんの7がつには14,000にんあまりがイギリス公使館こうしかん避難ひなん(バスト)する事態じたいへと発展はってんした。その結果けっか、シャーは、議会ぎかい開設かいせつ要求ようきゅうおうじざるをなくなった。同年どうねん12がつにはベルギー憲法けんぽうしたかたちで、イランではじめての憲法けんぽう起草きそうされた。

モハンマド・アリー・シャー[編集へんしゅう]

1907ねん8がつ31にちえい協商きょうしょう両国りょうこくあいだでイランの勢力せいりょく範囲はんいさだめられた。そのため、モハンマド・アリー・シャー在位ざいい1907ねん-1909ねん)とともにクーデターでだいいち立憲りっけんせい崩壊ほうかいさせ、タブリーズ立憲りっけんいつめた。しかし、立憲りっけんぐんテヘランかうとモハンマド・アリー・シャーは亡命ぼうめいし、だい立憲りっけんせいとなった。

アフマド・シャー[編集へんしゅう]

このクーデターに反発はんぱつするミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリー英語えいごばんによるジャンギャリー運動うんどう英語えいごばん1914ねん-1921ねん)がこったさいも、イギリスロシア帝国ていこく侵入しんにゅうした。

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、オスマン帝国ていこくぐん侵攻しんこうにより、ガージャールあさ混乱こんらん拍車はくしゃがかかった。1917ねんにイギリスはロシア内戦ないせんへの干渉かんしょうen:Allied intervention in the Russian Civil War)の前線ぜんせん基地きちとしてイランを利用りようしたが、その結果けっか政府せいふ状態じょうたいへと転落てんらくし、王朝おうちょう権威けんい失墜しっついしていった(ギーラーン共和きょうわこくホラサーン自治じち政府せいふ英語えいごばんクルディスタン王国おうこく英語えいごばん)。この混乱こんらん収束しゅうそくさせたのが、ペルシア・コサック旅団りょだん英語えいごばん軍人ぐんじんレザー・ハーンであった。1921ねん2がつ21にちにレザー・ハーンはペルシア・クーデター英語えいごばんこし、2がつ26にちソ連それんロシア・ペルシア和親わしん条約じょうやく英語えいごばん締結ていけつ。レザー・ハーンは、アフマド・シャー在位ざいい1909ねん-1925ねん)にせまり、軍隊ぐんたい改革かいかく断行だんこうし、軍隊ぐんたいみずからに忠実ちゅうじつ組織そしき改編かいへんさせ、イラン中央ちゅうおう暗躍あんやくしていた遊牧民ゆうぼくみん反乱はんらん平定へいていしていった(シムコ・シカクの反乱はんらん英語えいごばんシャイフ・ハザールの反乱はんらん英語えいごばん)。1925ねん10月31にち、ペルシア議会ぎかいは5たい85で王朝おうちょう廃止はいし決議けつぎ[3]同日どうじつ、アフマド・シャーは皇太子こうたいしとともに特別とくべつ列車れっしゃでフランスへのがれた。同年どうねん12月12にち、ペルシア議会ぎかい満場一致まんじょういっちでレザー・ハーンを国王こくおうとしてみとめたことから[4]1926ねん4がつ25にち即位そくいしきおこなわれた[5]パフラヴィーあさ)。ガージャールあさ滅亡めつぼうしたが、亡命ぼうめい政府せいふアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく拠点きょてん存在そんざいする。


歴代れきだいシャー[編集へんしゅう]

称号しょうごうはサファヴィーあさ以降いこう伝統でんとうによりシャーを名乗なのる。ほん事典じてんではガージャールあさ以降いこう現代げんだいペルシアおんでカナ転写てんしゃする。カッコないはアラビアぜん近代きんだいペルシアおん

  1. アーガー・モハンマド・シャー1796ねん - 1797ねん、アーカー・ムハンマド・シャー)
  2. ファトフ・アリー・シャー(1797ねん - 1834ねん
  3. モハンマド・シャー(1834ねん - 1848ねん、ムハンマド・シャー)
  4. ナーセロッディーン・シャー(1848ねん - 1896ねん、ナースィル・アッディーン・シャー)
  5. モザッファロッディーン・シャー(1896ねん - 1907ねん、ムザッファル・アッディーン・シャー)
  6. モハンマド・アリー・シャー(1907ねん - 1909ねん、ムハンマド・アリー・シャー)
  7. アフマド・シャー(1909ねん - 1925ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ A Collection of selected maps of Iran in the Qajar Era (1193 - 1344 Lunar Calendar / 1779-1926 Gregorian Calendar)” (英語えいご). UNESCO. 2023ねん5がつ27にち閲覧えつらん
  2. ^ UNESCO Memory of the World Register”. UNESCO. 2023ねん5がつ27にち閲覧えつらん
  3. ^ 議会ぎかい、カジャール王朝おうちょう廃止はいし決議けつぎ」『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1925ねん11月2にち大正たいしょうニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp.631 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ 首相しゅしょうリザ・カーンが国王こくおうされる」『時事新報じじしんぽう』1925ねん12月14にち大正たいしょうニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp.631 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ 「リザ・カーンの即位そくいしき挙行きょこう」『中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう』1926ねん4がつ25にち大正たいしょうニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp.631 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]