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崇高 すうこう なる国 くに ペルシア
دولت علیه ایران
国歌 こっか : ایران جوان (ペルシア語 ご 版 ばん ) ガージャール朝 あさ の最大 さいだい 版図 はんと (1797年 ねん )
ガージャール朝 あさ (ガージャールちょう(ペルシア語 ご 音 おん )、ペルシア語 ご : قاجاریه 、ガージャーリヤン、カージャール朝 あさ (アラビア語 ご 音 おん )は、18世紀 せいき 末 すえ から20世紀 せいき 初 はつ にかけて現在 げんざい のイラン を中心 ちゅうしん に支配 しはい したトゥルクマーン 系 けい ガージャール部族 ぶぞく 連合 れんごう (英語 えいご 版 ばん ) によるイスラム王朝 おうちょう (1796年 ねん - 1925年 ねん )。首都 しゅと はテヘラン 。
サファヴィー朝 あさ (アフシャール朝 あさ も含 ふく む)滅亡 めつぼう 後 ご のイラン を統一 とういつ して、めまぐるしく移 うつ り変 か わる群雄割拠 ぐんゆうかっきょ の時代 じだい に終止符 しゅうしふ を打 う った。しかし、ガージャール朝 あさ の時代 じだい は内憂 ないゆう 外患 がいかん に悩 なや まされ、イランの暗 くら い時代 じだい として記憶 きおく されている。
ガージャール朝 あさ の権力 けんりょく 基盤 きばん は弱体 じゃくたい であった。ガージャール朝 あさ はその軍事 ぐんじ 力 りょく を部族 ぶぞく 勢力 せいりょく の提供 ていきょう する兵力 へいりょく に依存 いぞん していたため、各 かく 部族 ぶぞく の勢力 せいりょく をおさえきれなかった。また、地方 ちほう 太守 たいしゅ に任 にん じたガージャール一族 いちぞく も独立 どくりつ 傾向 けいこう を露 あら わにして恣意 しい 的 てき な統治 とうち を行 おこな うことが多 おお く、テヘラン への税 ぜい 納 おさめ は滞 とどこお りがちとなった。したがって、国内 こくない 的 てき には必 かなら ずしも統一 とういつ 的 てき 安定 あんてい 的 てき 統治 とうち がおこなわれたとは言 い い難 がた い。脆弱 ぜいじゃく な中央 ちゅうおう 権力 けんりょく のもと、アーガー・ハーン1世 せい マハッラーティー (英語 えいご 版 ばん ) (Hasan Ali Shah Mehalatee )の反乱 はんらん やバーブ教 きょう の反乱 はんらん など内乱 ないらん が相次 あいつ ぎ、社会 しゃかい 的 てき にも不安定 ふあんてい であった。
対外 たいがい 的 てき には2度 ど にわたるロシア帝国 ていこく との戦争 せんそう (1805年 ねん - 13年 ねん 、1827年 ねん - 28年 ねん )とその敗北 はいぼく によってグルジア などカフカズ を失 うしな った(ゴレスターン条約 じょうやく 、トルコマーンチャーイ条約 じょうやく )。また、ホラーサーン のヘラート 遠征 えんせい (1836年 ねん 、56年 ねん )もイギリス との確執 かくしつ と戦争 せんそう を引 ひ き起 お こして失敗 しっぱい に終 お わり、今日 きょう のアフガニスタン の領域 りょういき が確立 かくりつ する(パリ条約 じょうやく )。現在 げんざい のイランの国境 こっきょう 線 せん はおおむねガージャール朝 あさ の時代 じだい に成立 せいりつ したものであるといえる。
こうした状況 じょうきょう にあって19世紀 せいき 後半 こうはん には兵制 へいせい 改革 かいかく や近代 きんだい 的 てき 教育 きょういく 機関 きかん の設立 せつりつ 、金融 きんゆう などの改革 かいかく が幾 いく たびか試 こころ みられることになるが、十分 じゅうぶん な成果 せいか を得 え ることはできなかった。むしろ近代 きんだい 化 か のための費用 ひよう は、ただでさえ戦費 せんぴ にあえぐ財政 ざいせい に重 おも くのしかかり、おりからの銀 ぎん のポンドに対 たい する下落 げらく とあいまって、イランの経済 けいざい 的 てき 従属 じゅうぞく 化 か を進 すす めることになる。政府 せいふ は鉄道 てつどう や電信 でんしん などの利権 りけん を英国 えいこく を初 はじ めとするヨーロッパ の商社 しょうしゃ などに売 う ることでこれをしのごうとした。
このような政府 せいふ の動 うご きは売国 ばいこく 的 てき ・反 はん イスラーム的 てき との印象 いんしょう を与 あた えた。政府 せいふ に対 たい する異議 いぎ 申 もう し立 た ての活動 かつどう が活発 かっぱつ 化 か し、1891年 ねん にはタバコ利権 りけん の売 う り渡 わた しに端 はし を発 はっ するタバコ・ボイコット運動 うんどう が起 お こる。政府 せいふ は改革 かいかく の推進 すいしん と公正 こうせい なるイスラーム的 てき 統治 とうち という矛盾 むじゅん する目的 もくてき を同時 どうじ に追求 ついきゅう せざるをえず、ますます混迷 こんめい を深 ふか め、1905年 ねん - 11年 ねん のイラン立憲 りっけん 革命 かくめい の勃発 ぼっぱつ に至 いた り、ついに立憲 りっけん 議会 ぎかい 制 せい を導入 どうにゅう する。
そのあいだにも1907年 ねん の英 えい 露 ろ 協商 きょうしょう で南北 なんぼく それぞれがイギリスとロシアの勢力 せいりょく 圏 けん と定 さだ められるなど、ガージャール朝 あさ は、もはや緩衝 かんしょう 国 こく としての役割 やくわり を担 にな うに過 す ぎない状態 じょうたい となった。立憲 りっけん 革命 かくめい もロシア軍 ぐん の介入 かいにゅう でうやむやのうちに終 お わった。命数 めいすう を使 つか い果 は たしたガージャール朝 あさ は1925年 ねん 、パフラヴィー朝 あさ に代 か わり、以降 いこう イランは国民 こくみん 国家 こっか イランとして近代 きんだい 化 か の道 みち を進 すす むことになる。
ガージャール朝 あさ の時代 じだい はこのようにきわめて不安定 ふあんてい な時代 じだい ではあったが、現代 げんだい イランのさまざまな要素 ようそ が芽生 めば えたのもこの時代 じだい だった。伝統 でんとう の多 おお くが定着 ていちゃく したのはガージャール朝 あさ 時代 じだい であった。ガージャール朝 あさ の弱 よわ さは「イラン国民 こくみん 」という意識 いしき を目覚 めざ めさせ、一方 いっぽう でシーア派 は イスラームと政治 せいじ との関 かか わりを濃密 のうみつ なものとさせたとも言 い えるのである。
1779年 ねん から1926年 ねん までのガージャール朝 あさ 時代 じだい のイランの地図 ちず のコレクション および1807年 ねん から1925年 ねん までのガージャール朝 あさ におけるイランの国際 こくさい 関係 かんけい に関 かん する文書 ぶんしょ 群 ぐん は世界 せかい の記憶 きおく に登録 とうろく されている[1] [2] 。
ガージャール部族 ぶぞく 連合 れんごう はトルコマーン系 けい の遊牧 ゆうぼく 部族 ぶぞく 連合 れんごう でサファヴィー朝 あさ ではキズィルバーシュ の一翼 いちよく をなし、サファヴィー朝 ちょう 期 き には今日 きょう のナゴルノ・カラバフ自治 じち 州 しゅう のカラバフ、のち同 どう 朝 あさ 末 まつ にはアスタラーバード (波 なみ : اَستِر آباد Asterābād 、今日 きょう のイラン・ゴレスターン州 しゅう ゴルガーン の旧称 きゅうしょう )を本拠 ほんきょ としていた。ガージャール部族 ぶぞく 連合 れんごう はおおむねデヴェルーとコユンルーという二 に 集団 しゅうだん に大別 たいべつ でき、互 たが いに勢力 せいりょく を争 あらそ っていた。
コユンルーのムハンマド・ハサン・ハーンはサファヴィー朝 あさ 末期 まっき 以降 いこう の群雄割拠 ぐんゆうかっきょ の時代 じだい にあってアフシャール朝 あさ のナーディル・シャー との合従連衡 がっしょうれんこう において、頭角 とうかく をあらわす。ナーディル・シャー没 ぼつ 後 ご 、ムハンマド・ハサン・ハーンはギーラーン 、マーザンダラーン 、ゴルガーンのカスピ海 かすぴかい 沿岸 えんがん 部 ぶ を押 お さえる一大 いちだい 勢力 せいりょく となり、イラン南東 なんとう 部 ぶ を本拠 ほんきょ とするザンド朝 あさ のカリーム・ハーン と争 あらそ うようになった。
抗 こう 争 そう のなかでムハンマド・ハサン・ハーンの息子 むすこ 、アーカー・ムハンマド・ハーン はザンド朝 あさ の手 て に落 お ちる。カリーム・ハーンはガージャール部族 ぶぞく 連合 れんごう 内 ない の争 あらそ いから利 り を得 え るため、彼 かれ を首都 しゅと シーラーズ に抑留 よくりゅう して手元 てもと におく一方 いっぽう 、彼 かれ と敵対 てきたい するデヴェルーを支援 しえん した。1758年 ねん 、父 ちち ムハンマド・ハサン・ハーンが没 ぼっ するとアーカー・ムハンマド・ハーンはガージャール部族 ぶぞく 連合 れんごう の一方 いっぽう コユンルーの長 ちょう となり、ザンド朝 あさ 宮廷 きゅうてい に席 せき を占 し める。
アーカー・ムハンマド・ハーンは1779年 ねん 、カリーム・ハーンが没 ぼっ するとシーラーズを脱出 だっしゅつ し、1781年 ねん 、ロシアを撃退 げきたい してアスタラーバードでデヴェルーを抑 おさ えてガージャール部族 ぶぞく 連合 れんごう 内 ない の権力 けんりょく を確立 かくりつ した。これをもってガージャール朝 あさ の成立 せいりつ とすることがある。
アーカー・ムハンマド・ハーンは以降 いこう ザンド朝 あさ と争 あらそ いながら北部 ほくぶ イランに勢力 せいりょく を広 ひろ げていく。1785年 ねん までにカスピ海 かすぴかい 沿岸 えんがん をほぼ押 お さえ、テヘランに本拠 ほんきょ を移 うつ した。これはイラン政治 せいじ の重心 じゅうしん が北西 ほくせい イランへと移動 いどう したことも示 しめ しており、レイ 近郊 きんこう の小 ちい さな街 まち にすぎなかったテヘランは成長 せいちょう を続 つづ け今日 きょう に至 いた るまでイランの首都 しゅと となる。1794年 ねん にはルトフ・アリー・ハーン を捕 と らえてザンド朝 あさ を滅 ほろ ぼした。
しかし、1783年 ねん にロシア帝国 ていこく とカルトリ・カヘティ王国 おうこく (1762年 ねん –1798年 ねん )の間 あいだ でギオルギエフスク条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) が締結 ていけつ され、グルジアがロシアにたびたび保護 ほご を求 もと めるグルジア問題 もんだい が始 はじ まると、1795年 ねん グルジアへ遠征 えんせい してイラン王朝 おうちょう 伝統 でんとう の宗主 そうしゅ 権 けん を再 さい 確立 かくりつ し、ティフリス(今日 きょう のトビリシ )まで攻略 こうりゃく した。
アーガー・モハンマド・シャー [ 編集 へんしゅう ]
アーカー・ムハンマド・ハーンはテヘランに戻 もど り、1796年 ねん 、シャー として戴冠 たいかん 、アーガー・モハンマド・シャーを名乗 なの った(以降 いこう 、現代 げんだい ペルシア音 おん で記 しる す)。続 つづ いて北東 ほくとう のホラーサーン 方面 ほうめん に目 め を転 てん じてマシュハド を確保 かくほ 、さらに名 めい 目的 もくてき に命脈 めいみゃく を保 たも っていたアフシャール朝 あさ を滅 ほろ ぼし、ほぼサファヴィー朝 あさ の領域 りょういき を確保 かくほ するに至 いた った。
1796年 ねん 夏 なつ 、ロシアがグルジア遠征 えんせい 軍 ぐん を起 お こしたが(en:Persian Expedition of 1796 )、エカチェリーナ2世 せい の死去 しきょ に伴 ともな って中止 ちゅうし された。アーガー・モハンマド・シャーは翌年 よくねん 春 はる 、ブハラ 遠征 えんせい に代 か えてグルジア安定 あんてい のためにテヘランを出発 しゅっぱつ したが、その途上 とじょう 1797年 ねん 6月19日 にち 、暗殺 あんさつ された。グルジア問題 もんだい は以降 いこう ガージャール朝 あさ 歴代 れきだい の懸案 けんあん としてロシアとの対立 たいりつ をもたらし、やがてロシア・ペルシア戦争 せんそう (第 だい 一 いち 次 じ ロシア・ペルシア戦争 せんそう ・第 だい 二 に 次 じ ロシア・ペルシア戦争 せんそう )を招 まね くことになる。
ロシアとの抗 こう 争 そう とカフカスの喪失 そうしつ [ 編集 へんしゅう ]
アーガー・ムハンマド・ハーンは幼時 ようじ に去勢 きょせい されていたため子 こ がなかった。
大 だい 宰相 さいしょう (サドレ・アーザム)のハジ・エブラーヒーム (fa )・キャラーンタル ・シーラーズィー はアーガー・ムハンマド・ハーンの死去 しきょ によって瓦解 がかい する兵力 へいりょく を再 さい 編成 へんせい し、ファールス の太守 たいしゅ であった前 ぜん シャーの甥 おい ソルターン・バーバー・ハーンをテヘランに迎 むか えた。これが第 だい 2代 だい ファトフ・アリー・シャー (1797年 ねん 7月 がつ 28日 にち 即位 そくい ;翌年 よくねん 3月 がつ 19日 にち 戴冠 たいかん )である。ファトフ・アリー・シャーはイラン国内 こくない での評判 ひょうばん は必 かなら ずしも高 たか くない。彼 かれ の生涯 しょうがい で特筆 とくひつ すべきものはハレムの規模 きぼ が大 おお きかったことであり、約 やく 100人 にん の子 こ どもがいたとされる。
ファトフ・アリー・シャーは即位 そくい 早々 そうそう にアーガー・ムハンマド・ハーンの盟友 めいゆう たる有力 ゆうりょく 部 ぶ 族長 ぞくちょう たち、アフシャール朝 あさ やザンド朝 あさ の残党 ざんとう 、叔父 おじ や兄弟 きょうだい などの一族 いちぞく からの挑戦 ちょうせん を受 う けることになった(1798年 ねん 中 ちゅう にアゼルバイジャン においてクルド のサーデグ・ハーン・シャガーギー、南部 なんぶ のモハンマド・ハーン・ザンド、弟 おとうと ホセインゴリー・ハーンなど)。ファトフ・アリー・シャーはこれらを一 ひと つ一 ひと つ退 しりぞ け、ガージャール王権 おうけん を確立 かくりつ する。
また1801年 ねん 4月 がつ には建国 けんこく の功臣 こうしん ・大 だい 宰相 さいしょう エブラーヒーム・キャラーンタル・シーラーズィーを罷免 ひめん 、のちに処刑 しょけい している。これはザンド朝 あさ 以降 いこう 、イラン東部 とうぶ ・南部 なんぶ に広大 こうだい な土地 とち を所有 しょゆう したペルシア人 じん 文人 ぶんじん 官僚 かんりょう (タージーク )らの基盤 きばん を王権 おうけん に回収 かいしゅう することをねらったものであると同時 どうじ に、北西 ほくせい イランのアゼルバイジャン閥 ばつ 官僚 かんりょう らによる陰謀 いんぼう という北西 ほくせい 対 たい 南東 なんとう の地方 ちほう 的 てき 権力 けんりょく 闘争 とうそう の面 めん も持 も っていた。
このようにファトフ・アリー・シャーは王権 おうけん の確立 かくりつ に努 つと めたが、ガージャール朝 あさ の権力 けんりょく 基盤 きばん たる部族 ぶぞく 長 ちょう や一族 いちぞく の権力 けんりょく を徹底的 てっていてき に削 そ ぐことはできず、打撃 だげき を与 あた えたのちに懐柔 かいじゅう する微温 びおん 的 てき な選択 せんたく をせざるを得 え なかった。地方 ちほう 統治 とうち のためにファトフ・アリー・シャーは徐々 じょじょ に自 みずか らの子 こ を各地 かくち の太守 たいしゅ に任 にん じて結束 けっそく を固 かた めていく。もっとも顕著 けんちょ なものは太子 たいし アッバース・ミールザー (英語 えいご 版 ばん ) のタブリーズ 太守 たいしゅ への起用 きよう である。
これ以降 いこう ガージャール朝 あさ の太子 たいし (ワーリー・アフド)はタブリーズ太守 たいしゅ としてアゼルバイジャンに常駐 じょうちゅう することになり、タブリーズはガージャール朝 あさ の事実 じじつ 上 じょう の副 ふく 都 と となった。各地 かくち に分封 ぶんぽう された王子 おうじ らは任地 にんち において地方 ちほう 宮廷 きゅうてい を営 いとな んで土着 どちゃく の部族 ぶぞく 長 ちょう らと関係 かんけい を深 ふか めた。その結果 けっか 、王権 おうけん はシャーの代替 だいが わりごとに独立 どくりつ 傾向 けいこう の強 つよ い一族 いちぞく による挑戦 ちょうせん を受 う けることになるのである。
アーガー・ムハンマド・ハーンによるカフカズ回収 かいしゅう 作戦 さくせん はグルジアをロシアへ接近 せっきん させ、1800年 ねん に東部 とうぶ グルジアはロシアに併合 へいごう された。これを認 みと めないガージャール朝 あさ とロシアとの争 あらそ いは1804年 ねん 以降 いこう 散発 さんぱつ 的 てき な武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ となり、第 だい 一 いち 次 じ ロシア・ペルシア戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ する。この戦 たたか いを指揮 しき したのはアッバース・ミールザーであった。
彼 かれ はロシアとの争 あらそ いを通 つう じて、戦 たたか いの都度 つど 、部族 ぶぞく 民 みん から編成 へんせい される軍 ぐん の近代 きんだい 化 か の必要 ひつよう 性 せい を実感 じっかん 、兵制 へいせい 改革 かいかく を進 すす め、洋式 ようしき 軍 ぐん ネザーメ・ジャディード を編成 へんせい している。これがイランにおける近代 きんだい 化 か の嚆矢 こうし といえよう。アッバース・ミールザーは連年 れんねん アラス川 がわ を越 こ えて交戦 こうせん しエレバン を確保 かくほ し戦争 せんそう を優勢 ゆうせい に進 すす めた。
1810年 ねん には宗主 そうしゅ 権 けん のイランへの返還 へんかん を含 ふく む和平 わへい 条約 じょうやく がロシアから申 もう し出 で られたがこれを拒否 きょひ 、かえって1812年 ねん アスラーン・デジュの戦 たたか い (ロシア語 ご 版 ばん ) で決定的 けっていてき な敗北 はいぼく を喫 きっ してしまう。
この結果 けっか 、ナポレオン・ボナパルト のロシア遠征 えんせい によるヨーロッパ情勢 じょうせい の急激 きゅうげき な展開 てんかい 、とりわけティルジット条約 じょうやく の瓦解 がかい によるイギリスとロシア帝国 ていこく の接近 せっきん を背景 はいけい に、イギリスの仲介 ちゅうかい によりゴレスターン条約 じょうやく (1813年 ねん 9月13日 にち 調印 ちょういん )が締結 ていけつ され、ガージャール朝 あさ はグルジア やバクー などアゼルバイジャン北半 きたはん を失 うしな った。
ロシアはカフカスを完全 かんぜん に掌握 しょうあく するために、コーカサス戦争 せんそう (1817年 ねん -1864年 ねん )を開始 かいし 。カフカズ西部 せいぶ でのロシアの活動 かつどう を黙認 もくにん したオスマン帝国 ていこく との間 あいだ にもオスマン・イラン戦争 せんそう (トルコ語 ご 版 ばん ) の戦端 せんたん が開 ひら かれ、ギリシャ独立 どくりつ 戦争 せんそう (1821年 ねん -1829年 ねん )に忙殺 ぼうさつ されるオスマン帝国 ていこく を圧倒 あっとう して一時 いちじ はバグダード を落 お とす勢 いきお いであったが、こちらもイギリスの介入 かいにゅう があり1823年 ねん 7月 がつ 28日 にち にエルズルム条約 じょうやく (First Treaty)で終結 しゅうけつ した。
1826年 ねん 、第 だい 二 に 次 じ ロシア・ペルシア戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ 。1828年 ねん 、トルコマーンチャーイ条約 じょうやく (第 だい 二 に 次 じ ロシア・ペルシア戦争 せんそう の講和 こうわ 条約 じょうやく )が締結 ていけつ され、カージャール朝 ちょう イランはロシアへアーザルバーイジャーン (タリシュ・ハン国 こく (英語 えいご 版 ばん ) )及 およ びアルメニア (エレバン・ハン国 こく (英語 えいご 版 ばん ) とナヒチェヴァン・ハン国 こく (英語 えいご 版 ばん ) への宗主 そうしゅ 権 けん を承認 しょうにん )を割譲 かつじょう したが、この間 あいだ の1827年 ねん にロシアがナヴァリノの海戦 かいせん に参戦 さんせん したことをきっかけに、1828年 ねん にオスマン帝国 ていこく が露 ろ 土 ど 戦争 せんそう (1828年 ねん -1829年 ねん ) を始 はじ めると、1830年 ねん にナクシュバンディー教団 きょうだん がイマーム国 こく (英語 えいご 版 ばん ) を建国 けんこく し、さらにクリミア戦争 せんそう (1853年 ねん -1856年 ねん )を挟 はさ んだことで、コーカサス戦争 せんそう は泥沼 どろぬま 化 か した。
1847年 ねん 5月31日 にち にエルズルム条約 じょうやく (Second Treaty)により、1639年 ねん のガスレ・シーリーン条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) の国境 こっきょう 線 せん が再 さい 確定 かくてい された。
イギリスとロシアによる半 はん 植民 しょくみん 地 ち 化 か の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
ファトフ・アリー・シャーの後 のち を継 つ いだのが、モハンマド・シャー (在位 ざいい 1836年 ねん - 1848年 ねん )である。彼 かれ の時代 じだい には、イギリスの南方 なんぽう からの進出 しんしゅつ が進 すす み(第 だい 一 いち 次 じ アフガン戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) 、1839年 ねん - 1842年 ねん )、1839年 ねん 、1841年 ねん の2回 かい にわたりヘラート が陥落 かんらく し、イギリスもまた、ロシアが持 も つ最恵国 さいけいこく 待遇 たいぐう を獲得 かくとく することに成功 せいこう した。それ以降 いこう 、イランの半 はん 植民 しょくみん 地 ち 化 か が徐々 じょじょ に進行 しんこう することとなった(グレート・ゲーム )。
また、この時代 じだい 、ガージャール朝 あさ に対 たい し、アーガー・ハーン1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) をリーダーとするイスマーイール派 は の反乱 はんらん と、セイイェド・アリー・モハンマド (通称 つうしょう バーブ)が組織 そしき したバーブ教徒 きょうと の反乱 はんらん が頻発 ひんぱつ するようになった。前者 ぜんしゃ の鎮圧 ちんあつ により、アーガー・ハーン家 か はインドへの逃亡 とうぼう を余儀 よぎ なくされるが、インドで経済 けいざい 的 てき に成功 せいこう を収 おさ める契機 けいき となっていく。深刻 しんこく だったのはバーブ教 きょう の存在 そんざい であった。バーブは、1844年 ねん 3月 がつ 24日 にち 、突如 とつじょ として「神 かみ の啓示 けいじ 」を受 う けたとし、自 みずか らを「神 かみ 隠 がく れしたイマーム」そのものを自認 じにん していった。バーブの布教 ふきょう 活動 かつどう は、王政 おうせい とシーア派 は 宗教 しゅうきょう 社会 しゃかい 自体 じたい に打撃 だげき を与 あた えると同時 どうじ に、ガージャール朝 あさ の支配 しはい 、ヨーロッパ進出 しんしゅつ を公然 こうぜん と批判 ひはん していった。1848年 ねん 、モハンマド・シャーが崩御 ほうぎょ するとバーブ教徒 きょうと は、ついに蜂起 ほうき を果 は たす。
ナーセロッディーン・シャー [ 編集 へんしゅう ]
モハンマド・シャーの後 のち を継 つ いだナーセロッディーン・シャー (在位 ざいい 1848年 ねん - 1896年 ねん )は、ロシアの協力 きょうりょく を得 え た。セイイェド・アリー・モハンマド を開祖 かいそ とするバーブ教 きょう 徒 と の反乱 はんらん が各地 かくち で勃発 ぼっぱつ し、その鎮圧 ちんあつ に翻弄 ほんろう されていたが、アミール・キャビール がバーブ教徒 きょうと の反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ に活躍 かつやく し、1850年 ねん にアリー・モハンマドは銃殺 じゅうさつ された(en:Execution of the Báb )。アミール・キャビールの手 て によって、イランは近代 きんだい 化 か の推進 すいしん が行 おこな われるが、1852年 ねん に、アミール・キャビールがナーセロッディーン・シャーの手 て によって暗殺 あんさつ されると改革 かいかく は停滞 ていたい してしまった。アリー・モハンマドの高弟 こうてい ミールザー・ホセイン・アリー はイラクに追放 ついほう され、バハイ教 きょう を興 おこ した。
ナポレオン3世 せい 宮廷 きゅうてい への大使 たいし アミーノッドウレ (英語 えいご 版 ばん )
ナーセロッディーン・シャーがその後 ご 採 と った政策 せいさく とは、アフガニスタン首長 しゅちょう 国 こく (en )領 りょう ヘラート への進出 しんしゅつ (アングロ・ペルシア戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) 、1856年 ねん -1857年 ねん )であった。1855年 ねん にアフガニスタンはガージャール朝 あさ の侵攻 しんこう を警戒 けいかい して、イギリスとペシャーワル条約 じょうやく (英 えい : Treaty of Peshawar )を締結 ていけつ し、両国 りょうこく の相互 そうご 防衛 ぼうえい 関係 かんけい を築 きず いていた。ナポレオン3世 せい の仲裁 ちゅうさい でストラトフォード・カニング とアミーノッドウレ (英語 えいご 版 ばん ) (ペルシア語 ご : هشتپر 、フランス語 ふらんすご : Amīn od-Doule )の交渉 こうしょう が行 おこ なわれた結果 けっか (パリ条約 じょうやく )、ガージャール朝 あさ がヘラートから手 て を引 ひ くと、ロシアの中央 ちゅうおう アジアへの進出 しんしゅつ を呼 よ び込 こ み(en:Expansion of Russia 1500–1800 )、ブハラ・ハン国 こく (1868年 ねん )、ヒヴァ・ハン国 こく (1873年 ねん )を次々 つぎつぎ と保護 ほご 国 こく 化 か し、コーカンド・ハン国 こく (1876年 ねん )を併合 へいごう した。このロシアの中央 ちゅうおう アジア進出 しんしゅつ は、第 だい 二 に 次 じ アフガン戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) (1878年 ねん –1880年 ねん )を誘発 ゆうはつ し、1879年 ねん 5月26日 にち のガンダマク条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) 締結 ていけつ によりアフガニスタン首長 しゅちょう 国 こく (en )はイギリスの保護 ほご 国 こく となった。
15世紀 せいき から18世紀 せいき のイラン領土 りょうど の変遷 へんせん 。
また、パリ条約 じょうやく で関税 かんぜい 自主権 じしゅけん を失 うしな い、ヨーロッパ各国 かっこく へ経済 けいざい 的 てき 権益 けんえき を供与 きょうよ することにもなった。また、ヨーロッパ流 りゅう の贅沢 ぜいたく をシャーが受 う けたことによって、農民 のうみん に重税 じゅうぜい を課 か した。イギリスとロシアによるイランの半 はん 植民 しょくみん 地 ち 化 か を進 すす めていく中 なか で、イラン経済 けいざい は、世界 せかい 経済 けいざい に組 く み込 こ まれていくようになったが、廉価 れんか な織物 おりもの 製品 せいひん が海外 かいがい から流入 りゅうにゅう したことにより、ますます疲弊 ひへい していった。1872年 ねん のポール・ジュリアス・ロイター に「ロイター利権 りけん (英語 えいご 版 ばん ) 」(英 えい : Reuter Concession )が供与 きょうよ されたが、ロシアとバーザール 商人 しょうにん の反対 はんたい に遭 あ い、権利 けんり を放棄 ほうき したが、その代償 だいしょう として1885年 ねん にペルシア帝国 ていこく 銀行 ぎんこう を設立 せつりつ した。これにより、イギリスによる財政 ざいせい ・金融 きんゆう 支配 しはい が始 はじ まった。外国 がいこく 人 じん による経済 けいざい 的 てき 権益 けんえき の争奪 そうだつ 合戦 かっせん が展開 てんかい されるようになった。
その頂点 ちょうてん に達 たっ したのが1890年 ねん のジェラルド F.タルボット (英語 えいご 版 ばん ) に供与 きょうよ された「タバコ利権 りけん (英語 えいご 版 ばん ) 」(英 えい : Tobacco Règie )であった。この供与 きょうよ 自体 じたい は、最初 さいしょ は秘密 ひみつ であったが、イスタンブール のペルシャ語 ご 日刊 にっかん 紙 し 『アフタル 』(ペルシア語 ご : اختر - Akhtar )の報道 ほうどう により、明 あか るみに出 で た。エジプト のウラービー革命 かくめい (1879年 ねん - 1882年 ねん )を皮切 かわき りに、イスラーム世界 せかい ではパン・イスラーム主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) が高揚 こうよう しており、約 やく 2年間 ねんかん の間 あいだ 、イラン国内 こくない は、騒擾 そうじょう 状態 じょうたい となった。1892年 ねん の聖職 せいしょく 者 しゃ とバーザール 商人 しょうにん が団結 だんけつ して起 お こしたこの運動 うんどう をタバコ・ボイコット運動 うんどう という。最終 さいしゅう 的 てき には、イラン政府 せいふ の利権 りけん 買戻 かいもど しということで決着 けっちゃく したが、イラン人 じん のナショナリズム が高揚 こうよう する契機 けいき となった。1896年 ねん に、ジャマールッディーン・アフガーニー の弟子 でし ミールザ・レザー・ケルマーニー (英語 えいご 版 ばん ) によって、ナーセロッディーン・シャーは暗殺 あんさつ された。
イラン立憲 りっけん 革命 かくめい と滅亡 めつぼう [ 編集 へんしゅう ]
モザッファロッディーン・シャー [ 編集 へんしゅう ]
1901年 ねん にイランで石油 せきゆ が発見 はっけん されると、イラン経済 けいざい はますますイギリスの従属 じゅうぞく 下 か へと転落 てんらく していった。いわゆる「ダースィー利権 りけん (英語 えいご 版 ばん ) 」(英 えい : D'Arcy Concession )とアングロ・ペルシャン石油 せきゆ 会社 かいしゃ (英語 えいご 版 ばん ) が創設 そうせつ された。
イラン国内 こくない は、ガージャール朝 あさ 変革 へんかく の待望 たいぼう が起 お きた。その際 さい に、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で、大国 たいこく ロシアが日本 にっぽん に負 ま けるという事実 じじつ 、また、ロシアのロシア第 だい 一 いち 革命 かくめい を支 ささ えに、イラン人 じん の改革 かいかく 意識 いしき は高 たか まった。1905年 ねん 12月、テヘランのモスク に、聖職 せいしょく 者 しゃ とバーザール商人 しょうにん が集合 しゅうごう し、「公正 こうせい の家 いえ 」の設立 せつりつ を要求 ようきゅう することを契機 けいき に、イラン立憲 りっけん 革命 かくめい が始 はじ まった。第 だい 5代 だい のモザッファロッディーン・シャー (在位 ざいい 1896年 ねん -1907年 ねん )はいったんは彼 かれ らの要求 ようきゅう を受 う け入 い れたが、その約束 やくそく を履行 りこう する姿勢 しせい を採 と らなかったために、アガー・サイイェド・ジャマーロッディーン・エスファハーニー 、シェイフ・モハンマド・ヴァーエズ といった説教 せっきょう 師 し がテヘランから追放 ついほう される事態 じたい になると、翌年 よくねん の7月 がつ には14,000人 にん あまりがイギリス公使館 こうしかん に避難 ひなん (バスト)する事態 じたい へと発展 はってん した。その結果 けっか 、シャーは、議会 ぎかい の開設 かいせつ 要求 ようきゅう に応 おう じざるを得 え なくなった。同年 どうねん 12月 がつ にはベルギー憲法 けんぽう を模 も した形 かたち で、イランで初 はじ めての憲法 けんぽう が起草 きそう された。
モハンマド・アリー・シャー [ 編集 へんしゅう ]
1907年 ねん 8月 がつ 31日 にち の英 えい 露 ろ 協商 きょうしょう で両国 りょうこく 間 あいだ でイランの勢力 せいりょく 範囲 はんい が定 さだ められた。そのため、モハンマド・アリー・シャー (在位 ざいい 1907年 ねん -1909年 ねん )と共 とも にクーデターで第 だい 一 いち 次 じ 立憲 りっけん 制 せい を崩壊 ほうかい させ、タブリーズ の立憲 りっけん 派 は を追 お いつめた。しかし、立憲 りっけん 派 は 軍 ぐん がテヘラン へ向 む かうとモハンマド・アリー・シャーは亡命 ぼうめい し、第 だい 二 に 次 じ 立憲 りっけん 制 せい となった。
このクーデターに反発 はんぱつ するミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリー (英語 えいご 版 ばん ) によるジャンギャリー運動 うんどう (英語 えいご 版 ばん ) (1914年 ねん -1921年 ねん )が起 お こった際 さい も、イギリス とロシア帝国 ていこく が侵入 しんにゅう した。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ すると、オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の侵攻 しんこう により、ガージャール朝 あさ の混乱 こんらん は拍車 はくしゃ がかかった。1917年 ねん にイギリスはロシア内戦 ないせん への干渉 かんしょう (en:Allied intervention in the Russian Civil War )の前線 ぜんせん 基地 きち としてイランを利用 りよう したが、その結果 けっか 、無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい へと転落 てんらく し、王朝 おうちょう の権威 けんい は失墜 しっつい していった(ギーラーン共和 きょうわ 国 こく 、ホラサーン自治 じち 政府 せいふ (英語 えいご 版 ばん ) 、クルディスタン王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) )。この混乱 こんらん を収束 しゅうそく させたのが、ペルシア・コサック旅団 りょだん (英語 えいご 版 ばん ) の軍人 ぐんじん レザー・ハーン であった。1921年 ねん 2月 がつ 21日 にち にレザー・ハーンはペルシア・クーデター (英語 えいご 版 ばん ) を起 お こし、2月 がつ 26日 にち にソ連 それん とロシア・ペルシア和親 わしん 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) を締結 ていけつ 。レザー・ハーンは、アフマド・シャー (在位 ざいい 1909年 ねん -1925年 ねん )に迫 せま り、軍隊 ぐんたい 改革 かいかく を断行 だんこう し、軍隊 ぐんたい を自 みずか らに忠実 ちゅうじつ な組織 そしき に改編 かいへん させ、イラン中央 ちゅうおう 部 ぶ で暗躍 あんやく していた遊牧民 ゆうぼくみん の反乱 はんらん を平定 へいてい していった(シムコ・シカクの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) 、シャイフ・ハザールの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) )。1925年 ねん 10月31日 にち 、ペルシア議会 ぎかい は5対 たい 85で王朝 おうちょう の廃止 はいし を決議 けつぎ [3] 。同日 どうじつ 、アフマド・シャーは皇太子 こうたいし とともに特別 とくべつ 列車 れっしゃ でフランスへ逃 のが れた。同年 どうねん 12月12日 にち 、ペルシア議会 ぎかい は満場一致 まんじょういっち でレザー・ハーンを国王 こくおう として認 みと めたことから[4] 、1926年 ねん 4月 がつ 25日 にち 、即位 そくい 式 しき が行 おこな われた[5] (パフラヴィー朝 あさ )。ガージャール朝 あさ は滅亡 めつぼう したが、亡命 ぼうめい 政府 せいふ がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を拠点 きょてん に存在 そんざい する。
称号 しょうごう はサファヴィー朝 あさ 以降 いこう の伝統 でんとう によりシャーを名乗 なの る。本 ほん 事典 じてん ではガージャール朝 あさ 以降 いこう は現代 げんだい ペルシア語 ご 音 おん でカナ転写 てんしゃ する。カッコ内 ない はアラビア語 ご /前 ぜん 近代 きんだい ペルシア語 ご 音 おん 。
アーガー・モハンマド・シャー (1796年 ねん - 1797年 ねん 、アーカー・ムハンマド・シャー)
ファトフ・アリー・シャー (1797年 ねん - 1834年 ねん )
モハンマド・シャー (1834年 ねん - 1848年 ねん 、ムハンマド・シャー)
ナーセロッディーン・シャー (1848年 ねん - 1896年 ねん 、ナースィル・アッディーン・シャー)
モザッファロッディーン・シャー (1896年 ねん - 1907年 ねん 、ムザッファル・アッディーン・シャー)
モハンマド・アリー・シャー (1907年 ねん - 1909年 ねん 、ムハンマド・アリー・シャー)
アフマド・シャー (1909年 ねん - 1925年 ねん )
^ “A Collection of selected maps of Iran in the Qajar Era (1193 - 1344 Lunar Calendar / 1779-1926 Gregorian Calendar) ” (英語 えいご ). UNESCO . 2023年 ねん 5月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “UNESCO Memory of the World Register ”. UNESCO. 2023年 ねん 5月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 「議会 ぎかい 、カジャール王朝 おうちょう 廃止 はいし を決議 けつぎ 」『大阪毎日新聞 おおさかまいにちしんぶん 』1925年 ねん 11月2日 にち (大正 たいしょう ニュース事典 じてん 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 『大正 たいしょう ニュース事典 じてん 第 だい 7巻 かん 大正 たいしょう 14年 ねん -大正 たいしょう 15年 ねん 』本編 ほんぺん p.631 毎日 まいにち コミュニケーションズ刊 かん 1994年 ねん )
^ 「首相 しゅしょう リザ・カーンが国王 こくおう に推 お される」『時事新報 じじしんぽう 』1925年 ねん 12月14日 にち (大正 たいしょう ニュース事典 じてん 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 『大正 たいしょう ニュース事典 じてん 第 だい 7巻 かん 大正 たいしょう 14年 ねん -大正 たいしょう 15年 ねん 』本編 ほんぺん p.631 毎日 まいにち コミュニケーションズ刊 かん 1994年 ねん )
^ 「リザ・カーンの即位 そくい 式 しき を挙行 きょこう 」『中外 ちゅうがい 商業 しょうぎょう 新報 しんぽう 』1926年 ねん 4月 がつ 25日 にち (大正 たいしょう ニュース事典 じてん 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 『大正 たいしょう ニュース事典 じてん 第 だい 7巻 かん 大正 たいしょう 14年 ねん -大正 たいしょう 15年 ねん 』本編 ほんぺん p.631 毎日 まいにち コミュニケーションズ刊 かん 1994年 ねん )