モハンマド・アリー・シャー

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モハンマド・アリー・シャー
ガージャールあさ
シャー
在位ざいい 1907ねん - 1909ねん

出生しゅっしょう 1872ねん6月21にち
死去しきょ 1924ねん4がつ5にち
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくサンレーモ
子女しじょ アフマド・シャー
王朝おうちょう ガージャールあさ
父親ちちおや モザッファロッディーン・シャー
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モハンマド・アリー・シャー1872ねん6月21にち - 1924ねん4がつ5にち)は、ガージャールあさだい6だいシャー在位ざいい1907ねん - 1909ねん)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

即位そくい[編集へんしゅう]

1907ねんちちモザッファロッディーン・シャー病没びょうぼつするとシャーの地位ちい即位そくいした。シャーに即位そくいしたモハンマド・アリーは、イラン立憲りっけん革命かくめい反対はんたいする政策せいさくとして、議会ぎかい解散かいさんと、イスラームほう抵触ていしょくするということで、ちち死亡しぼう間際まぎわ公布こうふ署名しょめいした憲法けんぽう廃止はいし宣言せんげんした[1]。もともと、イラン立憲りっけん革命かくめいにおいて、憲法けんぽう起草きそうされるという段階だんかいで、立憲りっけんせいをめぐって、ウラマーそう内部ないぶでの対立たいりつこっていた。あくまでもシャリーアもとづくものでなければならないという主張しゅちょう展開てんかいされていたため、ほうした平等びょうどうといった従来じゅうらいのウラマーの既得きとく権益けんえき縮小しゅくしょうするうごきに抵抗ていこうするウラマーもいた[2]8がつ31にちには首相しゅしょうミールザー・アリー・アスガル・ハーン英語えいごばん暗殺あんさつされた。


1908ねんになると、立憲りっけんはん立憲りっけん対立たいりつ先鋭せんえいするようになり、テヘランタブリーズエスファハーンといったしょ都市としでは暴動ぼうどう発展はってんするケースもあった。モハンマド・アリーは、ロシアイギリス支援しえんけて議会ぎかい砲撃ほうげきし、6月23にちには議会ぎかい解散かいさんむことに成功せいこうした[2]

立憲りっけん逆襲ぎゃくしゅう[編集へんしゅう]

シャーによるクーデター成功せいこうたいして、一時いちじてき立憲りっけん勢力せいりょく減退げんたいするが、アゼルバイジャン地方ちほう主要しゅよう都市としで、ロシアとの交易こうえきにより、当時とうじのイランでもっと西洋せいよう最新さいしん政治せいじてき思想しそうしたしんできたタブリーズが立憲りっけん拠点きょてんとなった。モハンマド・アリーは、商人しょうにんなか下級かきゅうウラマー、任侠にんきょう無頼ぶらいいたずらであるルーティーとばれる人々ひとびとにより、義勇ぎゆうてき武装ぶそう闘争とうそう集団しゅうだん組織そしきされたタブリーズを包囲ほういしたが、11ヵ月かげつ包囲ほういせんき、イラン全土ぜんど潜伏せんぷくしていた立憲りっけん勇気付ゆうきづけた。そのうごきはラシュト、エスファハーンへひろがり、立憲りっけん組織そしきした軍隊ぐんたい首都しゅとテヘランへとかっていった[2]

亡命ぼうめい[編集へんしゅう]

1909ねん7がつ16にちにシャーの地位ちいり、モハンマド・アリーはロシア大使館たいしかんみ、そのロシア(げんウクライナ)のオデッサ亡命ぼうめいした[1]1911ねんには軍隊ぐんたいひきいてアスタラーバード上陸じょうりくしたが、やぶられている。

死去しきょ[編集へんしゅう]

1924ねん4がつ5にちイタリアサンレーモ死亡しぼうした。かれ子供こどもであるアフマド・シャーがモハンマド・アリーのあとをいだが、アフマド・シャーの時代じだいにガージャールあさはそのまくじる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Donzel, Emeri “van” (1994). Islamic Desk Reference. 9004097384  p. 285-286
  2. ^ a b c 永田ながた雄三ゆうぞうへん『『新版しんぱん世界せかい各国かっこく9 西にしアジアⅡ イラン・トルコ』』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2002ねんISBN 4-634-41390-6  pp. 363-369

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]