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エスファハーン

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エスファハーン
اصفهان / Eṣfahān
イランの旗
イマーム広場の建物
イマーム広場ひろば建物たてもの
愛称あいしょう : 世界せかい半分はんぶん(Nesf-e Jahān)
位置いち
エスファハーンの位置(イラン内)
エスファハーン
エスファハーン
エスファハーン (イラン)
エスファハーンの位置(中東内)
エスファハーン
エスファハーン
エスファハーン (中東ちゅうとう)
地図
座標ざひょう : 北緯ほくい3239ふん5びょう 東経とうけい5140ふん45びょう / 北緯ほくい32.65139 東経とうけい51.67917 / 32.65139; 51.67917
行政ぎょうせい
くに イランの旗 イラン
 しゅう エスファハーンしゅう
  エスファハーン
市長しちょう Morteza Saqaeian Nejad
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき 279 km2
標高ひょうこう 1,550 m
人口じんこう
人口じんこう (2006ねん現在げんざい
  市域しいき 1,583,609にん
その
ひとしときおび IRST (UTC+3:30)
夏時間なつじかん UTC+4:30 (UTC+4:30)
公式こうしきウェブサイト : http://www.isfahan.ir/

エスファハーンペルシア: اصفهان‎; Eṣfahān [esfæˈhɒːn] ( 音声おんせいファイル)えい: Isfahan) は、イラン都市としエスファハーンしゅう州都しゅうとテヘランみなみやく340kmに位置いちする[1]日本語にほんごでは、慣例かんれいてきイスファハンイスファハーンとも表記ひょうきされる[2]

ふるくからの政治せいじ文化ぶんか交通こうつう拠点きょてんであり[3]16世紀せいきすえサファヴィーあさ首都しゅとさだめられ発展はってんした。当時とうじ繁栄はんえいは「エスファハーンは世界せかい半分はんぶんEsfahān nesf-e-jahān ast 、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛しょうさんされ[4][ちゅう 1]、このまちおとずれたヨーロッパの商人しょうにん繁栄はんえい記録きろくのこしている。イランじんにとってエスファハーンは歴史れきしてき文化ぶんかてき重要じゅうようまちであり[5]まちうつくしさは「イランの真珠しんじゅ」とたとえられる[6]

まちは16世紀せいき以前いぜん建設けんせつされたきゅう市街しがいと、サファヴィーあさおうアッバース1せい建設けんせつしたしん市街しがい構成こうせいされる。有名ゆうめいイマーム・モスクおうのモスク[ちゅう 2])などがあるしん市街しがいイマーム広場ひろばおう広場ひろば[ちゅう 2])は、ユネスコにより世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

まち住人じゅうにん出費しゅっぴきびしい「倹約けんやく」「吝嗇りんしょく」としてくもわるくも有名ゆうめいであり、地域ちいき人間にんげんからは敬遠けいえんされることがある[7]。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーンじんさえいなければ」という住民じゅうみん揶揄やゆする言葉ことばられている[8]。また、エスファハーンの人間にんげんなまりがつよいことでもられ、言葉ことばいただけで容易ようい出身しゅっしん判別はんべつできるほどだとわれる[8]

語源ごげん

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古代こだいペルシアの"Aspad-hana"(アスパダナ、大軍たいぐん集結しゅうけつ)が、まち名前なまえ由来ゆらいである[9]。「大軍たいぐん集結しゅうけつ」がしめとおり、まち周辺しゅうへん平原へいげん軍隊ぐんたい駐屯ちゅうとん捕虜ほりょ収容しゅうようしょとして使つかわれていた[10]古代こだいペルシアの"Asp"()から派生はせいした「うまあいするもの」「騎兵きへい補給ほきゅう基地きち」「厩舎きゅうしゃ」を語源ごげんとするせつ存在そんざいする[11]

古代こだいローマプトレマイオスの『地理ちりしょ』には、まちはアスパダナ(Aspadana)の名前なまえしるされている[1]サーサーンあさ末期まっき鋳造ちゅうぞうされた貨幣かへいには、アスパダナを意味いみする"ASP"の3文字もじきざまれていた[10]

エスファハーンの名前なまえは、7世紀せいきまち征服せいふくしたアラブじんによって定着ていちゃくした[9]

歴史れきし

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イスラーム以前いぜん

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エスファハーンの歴史れきし紀元前きげんぜんアケメネスあささかのぼることができる[3]一説いっせつには、紀元前きげんぜん6世紀せいきユダヤじん居住きょじゅうまち起源きげんわれる[12][13]

サーサーンあさ時代じだいにはエスファハーンは軍隊ぐんたい駐屯ちゅうとんとされており、まちは「軍隊ぐんたい」の複数ふくすうがたであるセパーハーン(Sepāhān)の名前なまえばれていた[1]。サーサーンあさおうヤズデギルド1せい治世ちせいに、ユダヤじんまち移住いじゅうさせられる[8]

工芸こうげいひん産地さんちであるまちは、パルティア王国おうこくとサーサーンあさ時代じだい交易こうえき発展はってんした[10]

7世紀せいきイスラム帝国ていこく征服せいふくまえに、すでにまち原型げんけい形作かたちづくられていた[14]ザーヤンデルードがわきた中心ちゅうしんまち形成けいせいされ、ひがしのジャイ、西にしのヤフーディーヤの2つの集落しゅうらく形成けいせいされた。ジャイは城壁じょうへきかこまれた軍事ぐんじ都市とし、ヤフーディーヤはユダヤじん居住きょじゅうことなる役割やくわりゆうする双子ふたご都市としであり、ゾロアスター教徒きょうと、ユダヤじんネストリウスキリスト教徒きりすときょうとこんじゅうしていた[15]。やがてジャイはすたれ、ヤフーディーヤが発展はってんしていく[1]

642ねんのニハーヴァンドのたたかいの前後ぜんごまちアラブじん支配しはいはいった[1]。サーサーンあさ時代じだいまちんでいたゾロアスター教徒きょうとおおくはイスラームに改宗かいしゅう、あるいは東方とうほう移住いじゅうした[16]。しかし、イスラム教徒きょうと支配しはいでも、のこったゾロアスター教徒きょうと、ユダヤじんキリスト教徒きりすときょうとまち一角いっかく居住きょじゅうしていた[16]

だいいち隆盛りゅうせい

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金曜きんようモスク

773ねんごろに金曜きんようモスク(ジャーメ・モスク)のもととなっただいモスク建立こんりゅうされ、まちだいモスクとコフネ広場ひろばきゅう広場ひろば)を中心ちゅうしん発展はってんしていく[17]

10世紀せいきまでにウマイヤあさアッバースあさサッファールあさサーマーンあさがエスファハーンを支配しはいした。931ねんブワイフあさ支配しはいはい[3]939ねんにブワイフあさ首都しゅとさだめられた[16]アラーウッダウラのもとでかべきずかれ、おおよそかべ沿ってまち発展はってんした[14]貿易ぼうえき交差点こうさてん位置いちする立地りっちのため、おおくの街道かいどうがエスファハーンとむすばれる[18]

11世紀せいきにエスファハーンはガズナあさいでセルジュークあさ領有りょうゆうされる[3]。セルジュークあさスルターンマリク・シャーは、エスファハーンをくにさだめた。金曜きんようモスクと隣接りんせつするコフネ広場ひろば中心ちゅうしんとして、エスファハーンは最初さいしょ隆盛りゅうせいむかえる[14]

金曜きんようモスクは修復しゅうふくされ、南北なんぼくだいドームと、中庭なかにわめんした4つのホール(イーワーン)が増築ぞうちくされる[19]。また、モスクのちかくにニザーミーヤ学院がくいん建設けんせつされた。セルジュークあさ支配しはいのエスファハーンでは200にん両替りょうがえしょう営業えいぎょうおこない、50のキャラバンサライ隊商たいしょう宿やど)がっていた[16]

セルジュークあさ分裂ぶんれつしたのちのエスファハーンは首都しゅととしての機能きのううしなうが、地方ちほう中心ちゅうしん都市としとしての地位ちいたもっていた[14]おおくのくにがエスファハーンの領有りょうゆうめぐってあらそったためにたびたび破壊はかいさらされたが、交通こうつう商業しょうぎょう文化ぶんか農業のうぎょういち拠点きょてんとしての重要じゅうようせい維持いじしていた[12]

停滞ていたい

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11世紀せいきまつから12世紀せいき初頭しょとうにかけてのあいだイスマーイールがエスファハーンを占領せんりょうした[10]1165ねん、エスファハーンでハナフィー学派がくはシャーフィイー学派がくはによる8日間にちかんおよ武力ぶりょく衝突しょうとつこり、家屋かおく商店しょうてん破壊はかいされ、おおくの死者ししゃした[20]

1194ねんイラク・セルジュークあさ最後さいご君主くんしゅトゥグリル3せいホラズム・シャーあさアラーウッディーン・テキシュやぶれるとホラズム・シャーあさ支配しはいくだった。モンゴル帝国ていこくぐんやぶれてインド逃亡とうぼうしたジャラールッディーン・メングベルディーがイランに帰還きかんしたとき兄弟きょうだいたちやモンゴルぐんとの戦闘せんとうなどのためエスファハーンを拠点きょてんとして各地かくち転戦てんせんしている[21]

1240ねんにイラン北部ほくぶ侵攻しんこうしていたモンゴルぐん征服せいふくされ[22]イルハンあさ支配しはいはいった。14世紀せいきに、エスファハーンは学術がくじゅつ商業しょうぎょう拠点きょてんとして復興ふっこうする[19]。14世紀せいき旅行りょこうイブン・バットゥータがエスファハーンをおとずれたとき、まちではスンナシーアあらそいがきていた[23]

14世紀せいきなかばのイルハンあさ崩壊ほうかい混乱こんらん時代じだいに、ヤズド根拠地こんきょちとする地方ちほう政権せいけんムザッファルあさ傘下さんかはい[22][24]1387ねんにはティムールの、1414ねんにはシャー・ルフによって2ティムールあさぐん破壊はかいけている。1387ねんにエスファハーンの住民じゅうみんまち占領せんりょうしたティムールぐん反抗はんこうしたため、70,000にんたっする市民しみん虐殺ぎゃくさつされたen:Siege of Isfahan (1387)という[25]

だい隆盛りゅうせい

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サファヴィーあさおうアッバース1せい
19世紀せいきPascal Costeによってえがかれたおう広場ひろば
エスファハーンのバーザール

16世紀せいき初頭しょとう建国けんこくされたサファヴィーあさ創始そうししゃイスマーイール1せいは、コフネ広場ひろばみなみにハール・ネヴェラーヤトとばれるスーフィー聖者せいじゃ霊廟れいびょうと アリー・モスクを建立こんりゅうした。16世紀せいきとおして王朝おうちょう派遣はけんした地方ちほうかん土着どちゃく有力ゆうりょくしゃによって、おおくの建設けんせつ事業じぎょうおこなわれた[12]1597ねんアッバース1せいによって、サファヴィーあさ首都しゅとガズヴィーンからエスファハーンへ遷都せんとされた[26]

アッバース1せいまち南西なんせい馬場ばば青空あおぞら使つかわれる広場ひろばしん市街しがい中心ちゅうしん選定せんていし、おう広場ひろば後世こうせいのイマーム広場ひろば)を建設けんせつした[27]王宮おうきゅう地域ちいき西側にしがわには、ザーヤンデルードの南岸なんがん北岸ほくがんむすぶチャハール・バーグ大通おおどお[ちゅう 3]建造けんぞうされ、とおりの始点してん終点しゅうてん側面そくめん庭園ていえんつくられた[28]

おう広場ひろばやチャハール・バーグ大通おおどおりを中心ちゅうしんとする計画けいかく都市としとしてのだい規模きぼ市街しがい改造かいぞうすすめられる[29]おう広場ひろば一角いっかく建立こんりゅうされたシャイフ・ルトゥフッラー・モスク英語えいごばんおうのモスク(イマーム・モスク)、アリ・カプ宮殿きゅうでんなどの施設しせつが、しん市街しがい建設けんせつされた。17世紀せいきのはじめに西方せいほう世界せかいまれていたコーヒーがイランに伝播でんぱすると、建設けんせつちゅうおう広場ひろばコーヒーハウス建設けんせつされた[30]

おう広場ひろば外国がいこく使節しせつとの謁見えっけん閲兵えっぺい青空あおぞら公開こうかい処刑しょけいなど多種たしゅのイベントがおこなわれる場所ばしょであり[31]使節しせつとの謁見えっけんノウルーズ新年しんねんさい)のときにはポロ花火はなびもよおされた[16]広場ひろばレスリング古式こしき体操たいそう競技きょうぎじょうとしても使用しようされた。さらに、イベントの観客かんきゃく目当めあてにする大道芸だいどうげいじん娼婦しょうふ客引きゃくひきが広場ひろばあつまった[31]

しん市街しがいきゅう市街しがいバーザール商業しょうぎょう地区ちく)でむすばれ、都市とし商業しょうぎょう活発かっぱつする[31]なつ酷暑こくしょ風雨ふううふせぐため[32]、バーザールにはドームじょうのアーケードが設置せっちされた。バーザールのみち沿いにてられていたキャラバンサライでは、小売こうりの商人しょうにん卸売おろしうりから品物しなもの仕入しいれていた[33]

きゅう市街しがいにはバーザールではたら商人しょうにん職人しょくにんおおくが居住きょじゅうし、コフネ広場ひろば周辺しゅうへんには商店しょうてんのきつらねていた[34]。また、コフネ広場ひろば周辺しゅうへんには、コクナールという一種いっしゅ麻薬まやくみせや、少年しょうねん男娼だんしょう娼婦しょうふをあてがう置屋おきやなら界隈かいわい存在そんざいしていた[35]

1604ねん[22]アッバース1せいによって当時とうじ国際こくさい交易こうえき活躍かつやくしていたアルメニアじんがエスファハーン郊外こうがい移住いじゅうさせられ、1654ねん[22]かれらはまち南西なんせいのジョルファー(Julfā)とばれる地区ちく居住きょじゅうした[36]。「ジョルファー」の語源ごげんアゼルバイジャンアラス河畔かはんにあるまち名前なまえであり[36]きぬ交易こうえき利益りえきていた[37]。オスマン帝国ていこく食糧しょくりょう補給ほきゅう妨害ぼうがいのため、ジョルファーの収益しゅうえきがオスマン帝国ていこくわたることを阻止そしするため、アッバース1せいはアルメニアの住民じゅうみんをイランに強制きょうせいてき移住いじゅうさせたとかんがえられている[37]。アルメニアじんには数々かずかず特権とっけん付与ふよされ、王室おうしつ独占どくせんするきぬ交易こうえき従事じゅうじすることをゆるされた[36][38]。ジョルファーには、アルメニアじん寄付きふによって建立こんりゅうされたヴァーンク教会きょうかいなどの、いくつかのキリスト教徒きりすときょうと教会きょうかい存在そんざいする。また、ジョルファーの西にしのゲブラーバードには、ゾロアスター教徒きょうと居住きょじゅう形成けいせいされていた[39]

17世紀せいきには、スーフィズム神秘しんぴ主義しゅぎ)の影響えいきょうつよけた思想家しそうかがエスファハーン学派がくは形成けいせいし、哲学てつがくろんめぐらせていた[40]

17世紀せいきまつにはエスファハーンの人口じんこうは500,000にん[31][41]、トルコじん、アラブじん、インドじん、アルメニアじん、ユダヤじん、ゾロアスター教徒きょうと混在こんざいする文化ぶんか都市としとなっていた[36]。そしてまちには1802のキャラバンサライ、162のモスク、48のマドラサ学校がっこう)、273のギャルマーベ公衆こうしゅう浴場よくじょう)がならんでいた[36]まち繁栄はんえい様子ようすは17世紀せいきまつのエスファハーンをおとずれたフランスの商人しょうにんジャン・シャルダンによって記録きろくされ、1711ねんにヨーロッパで出版しゅっぱんされた[42]

18世紀せいきはいるとサファヴィーあさ衰退すいたいし、1722ねんアフガンじんによってエスファハーンは破壊はかいされる[13]。サファヴィーあさ滅亡めつぼうしてしん市街しがいから宮廷きゅうていえるとしん市街しがい急速きゅうそく衰退すいたい[31]荒廃こうはいしたしん市街しがいだい部分ぶぶん耕作こうさくにされた[14][43]

1756ねんから1757ねんにかけてまちおそった飢饉ききんによってやく40,000にん市民しみん餓死がし1759ねんより知事ちじのムハンマド・リナーニーのもとで復興ふっこう事業じぎょうはじめられる[22]

近代きんだい以降いこう

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1942ねん作成さくせいされたエスファハーンの地図ちず

19世紀せいきはいって、エスファハーンの復興ふっこうはじまる[13]ガージャールあさ建国けんこくされたのち遊牧民ゆうぼくみんぞくバフティヤーリーぞくBakhtiari people)がエスファハーンの支配しはいけんにぎった[44]。しかし、首都しゅと機能きのうテヘラン商業しょうぎょう機能きのうタブリーズうつり、まちいち地方ちほう都市とし転落てんらくした[31]

20世紀せいきパフラヴィーあさレザー・シャーによって都市とし近代きんだいすすめられ、まち近代きんだい産業さんぎょう観光かんこう産業さんぎょうによって復興ふっこうする[31]だい世界せかい大戦たいせん、エスファハーンで実施じっしされた自動車じどうしゃ交通こうつう計画けいかくによって市街地しがいち自動車じどうしゃどうかれたことが、まち転換てんかんてんとなる[45]電気でんき水道すいどうなどのインフラストラクチャー整備せいびされ、伝統でんとうてき都市とし国際こくさいてき価値かちかんまれた[46]減少げんしょうした人口じんこうは、20世紀せいき後半こうはんから急速きゅうそく増加ぞうかした[7]

1977ねん4がつ6にち、エスファハーン近郊きんこう震源しんげんとする地震じしん発生はっせい死者ししゃ500にん被害ひがいとなった[47]

1979ねんしん市街しがいおうのモスクとおう広場ひろば周辺しゅうへん世界せかい遺産いさん登録とうろくされ、イラン革命かくめいのち観光かんこう都市としとして発展はってんつづける[46]

地理ちり

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ハージュきょうとザーヤンデルード

エスファハーンは海抜かいばつ1,500mちょう高地こうち存在そんざいする[48][49]。イランの都市としなかでは、標準ひょうじゅんてき高度こうど位置いちする[8]

ザーヤンデルードがわきた位置いちし、対岸たいがんにはアルメニアじん集落しゅうらく存在そんざいする。まち周辺しゅうへん荒野あらのかこまれているが、ザーヤンデルードの沿岸えんがん灌漑かんがいによって開拓かいたくされている[49]。ザーヤンデルードの豊富ほうふ水量すいりょうささえられた周辺しゅうへん地域ちいき農業のうぎょう生産せいさんりょくと、イラン高原こうげん北部ほくぶイラクペルシアわんきし港湾こうわん都市とし地域ちいきむす交通こうつう要衝ようしょうとして古代こだいから発展はってんした[1][14]。これらの人工じんこう水路すいろもうMadiフランス語ふらんすごばんばれる。

サーサーンあさ時代じだいに、ザーヤンデルードにシャハレスターンきょう英語えいごばんけられる。17世紀せいきのサファヴィーあさでは、アッバース1せいからアッバース2せい治世ちせいにかけてだい規模きぼなザーヤンデルードの治水ちすい工事こうじおこなわれたが、アッバース2せい死後しご工事こうじ中止ちゅうしされた[50]。20世紀せいき以降いこう地球ちきゅう温暖おんだん用水ようすい利用りよう過多かたによりザーヤンデルードが干上ひあがることがあり、まち水不足みずぶそくなやまされている[7]

周囲しゅういには沃野よくやひろがり、穀物こくもつるいケシメロンなどが栽培さいばいされている[3]旅行りょこうイブン・バットゥータは『だい旅行りょこう』で、エスファハーンでれたアンズスイカ甘味あまみ称賛しょうさんした[23]。エスファハーンにはハトのフンを肥料ひりょう使つか伝統でんとうてき農法のうほうがあり、郊外こうがいには「ハトのとう」という名前なまえ施設しせつ[7]。「ハトのとう」はハトの住処すみかとしてつくられ、とうまったフンが肥料ひりょう利用りようされていたが、20世紀せいき後半こうはん以降いこう使用しようされていない[8]

気候きこう

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おだやかな気候きこう四季しき区別くべつがあり[1]砂漠さばく気候きこう分類ぶんるいされる。

まち高地こうちにあるにもかかわらず、夏場なつば酷暑こくしょおそわれ、最高さいこう気温きおんは36前後ぜんこうたっする。しかし、夜間やかんには気温きおんがり、快適かいてきごすことができる。冬季とうき場合ばあい昼間ひるま温暖おんだんだが、夜間やかんになると気温きおん急激きゅうげきがる。

エスファハーンの気候きこう
つき 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月 とし
最高さいこう気温きおん記録きろく °C°F 20
(68)
23
(73)
27
(81)
32
(90)
37.6
(99.7)
41
(106)
43
(109)
42
(108)
39
(102)
33.2
(91.8)
25.5
(77.9)
21.2
(70.2)
43
(109)
平均へいきん最高さいこう気温きおん °C°F 9.2
(48.6)
12.5
(54.5)
17.0
(62.6)
22.7
(72.9)
28.2
(82.8)
34.3
(93.7)
36.7
(98.1)
35.6
(96.1)
31.8
(89.2)
25
(77)
17
(63)
11
(52)
23.42
(74.16)
平均へいきん最低さいてい気温きおん °C°F −2.5
(27.5)
−0.4
(31.3)
4.1
(39.4)
9.3
(48.7)
13.7
(56.7)
18.5
(65.3)
21.0
(69.8)
19.1
(66.4)
14.7
(58.5)
8.9
(48)
3.2
(37.8)
−1
(30)
9.05
(48.29)
最低さいてい気温きおん記録きろく °C°F −19.4
(−2.9)
−12.2
(10)
−6.2
(20.8)
−4
(25)
4.5
(40.1)
10
(50)
13
(55)
11
(52)
5
(41)
0
(32)
−8
(18)
−13
(9)
−19.4
(−2.9)
降水こうすいりょう mm (inch) 19.9
(0.783)
14.2
(0.559)
21.7
(0.854)
18.9
(0.744)
8.7
(0.343)
1.2
(0.047)
1.7
(0.067)
0.3
(0.012)
0.1
(0.004)
3.9
(0.154)
12.5
(0.492)
19.7
(0.776)
122.8
(4.835)
平均へいきん降水こうすい日数にっすう (≥1.0 mm) 4.0 2.9 4.1 3.4 2.0 0.3 0.3 0.1 0.0 0.8 2.2 3.8 23.9
湿度しつど 60 50 43 40 34 25 25 26 28 38 50 60 39.9
平均へいきん月間げっかん日照ひでり時間じかん 203.6 216.8 243.7 250.0 308.7 348.3 349.4 339.7 311.3 281.5 224.2 197.0 3,274.2
出典しゅってんSynoptic Stations Statistics

人口じんこう

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サファヴィーあさ首都しゅとさだめられていた時代じだいのエスファハーンの人口じんこうは、500,000にんたっしていたとされる[41]どう時期じき世界せかい都市としのうち、500,000にん以上いじょう人口じんこうゆうするものはロンドンパリ江戸えど北京ぺきんイスタンブールとごく小数しょうすうかぎられていた[41]。サファヴィーあさ滅亡めつぼう住民じゅうみんイラクやインドに移住いじゅうし、またイランの政治せいじてき混乱こんらん支配しはいしゃした重税じゅうぜいによって人口じんこう最盛さいせいの10ぶんの1にまで減少げんしょうする[51]

20世紀せいき後半こうはんより工業こうぎょう観光かんこう産業さんぎょう集中しゅうちゅうてき振興しんこうされたため、人口じんこう増加ぞうかした[48]。しかし、交通こうつう渋滞じゅうたい貧困ひんこん失業しつぎょう住宅じゅうたく不足ふそく老朽ろうきゅうといった問題もんだいきている[48]

1956ねん 1966ねん 1976ねん 1986ねん 1991ねん 1996ねん 2006ねん
人口じんこう 254,708[52] 424,045[52] 661,510[52] 986,753[53] 1,127,030[52] 1,266,072[53] 1,583,609[52]

経済けいざい

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エスファハーンさんもの

エスファハーンは、ふるくから工業こうぎょう都市としとしても有名ゆうめいである[7]

アッバース1せい絹織物きぬおりもの貴金属ききんぞく細工ざいく書道しょどうミニアチュールなどの手工業しゅこうぎょう奨励しょうれいし、サファヴィーあさ時代じだい技術ぎじゅつ面影おもかげ後世こうせいのこった[54]銀器ぎんき、ガラムカーリー(木型きがた使つかって着色ちゃくしょくした木綿こわた)、ハータムサーズィー(寄木よせぎ細工ざいく一種いっしゅ)、七宝しっぽう、タイルなどの工芸こうげいひん特産とくさんひんとしてられている[7]。17世紀せいきまちおとずれた商人しょうにんジャン・シャルダンは、バーザールとおう広場ひろば露店ろてん詳細しょうさい記録きろくし、広場ひろば露店ろてんを「自分じぶんかぎもっとおおくの酒類しゅるい品物しなものられている、市場いちばなか市場いちば」とひょうした[30]

エスファハーン郊外こうがいのナスラーバードには家内かない工業こうぎょう形態けいたいをとる絨毯じゅうたん工房こうぼうおおあつまり、女性じょせいたちによって絨毯じゅうたんられている[55]。エスファハーンでられた絨毯じゅうたんおおくはまちだいバーザール出荷しゅっかされ、テヘラン・イラン国外こくがい商人しょうにん観光かんこうきゃく購入こうにゅうされる[56]。エスファハーンさん絨毯じゅうたんやミニアチュールには、まちのシンボルであるイマーム広場ひろばがデザインされることがおお[7]

20世紀せいき後半こうはんまち周辺しゅうへん工業こうぎょう地帯ちたい建設けんせつされると経済けいざい構造こうぞう変化へんかし、都市とし人口じんこう増加ぞうかきた[14]ソビエト連邦れんぽう援助えんじょによって製鉄せいてつしょ建設けんせつされ[49]、1972ねん国営こくえい製鉄せいてつしょ操業そうぎょう開始かいしした[57]。エスファハーンの製鉄せいてつしょ操業そうぎょうは、イランの重金属じゅうきんぞく工業こうぎょうはじまりとされている[57]。また、製鉄せいてつしょほか石油せきゆ精製せいせいしょかれている。

観光かんこう

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イマーム・モスクの内部ないぶ
キャラバンサライを改装かいそうしたアッバーシー・ホテル

まち点在てんざいするサファヴィーあさ建設けんせつぶつには、装飾そうしょくようのタイルがおお使用しようされているてん特徴とくちょうがある[3]

紀元前きげんぜんのアケメネスあさ時代じだいには、すでに釉薬をかけていた煉瓦れんがいろつきのタイルとして建築けんちくぶつ使つかわれていた[58]建築けんちくぶついろあざやかなタイルで装飾そうしょくする技法ぎほうは、15世紀せいきのティムールあさ時代じだいはじまる[59]

16世紀せいきまつのサファヴィーあさのアッバース1せい時代じだい、エスファハーンに青色あおいろのタイルで装飾そうしょくされた建物たてものおお完成かんせいする。これらの建物たてもの外面がいめんあお黄色おうしょく装飾そうしょくタイルのかけらでかざられ、タイルのかけらがわされてモザイクじょう模様もよう形成けいせいしている[60]装飾そうしょくおお使つかわれる青色あおいろのタイルは、コバルトから濃紺のうこんのタイルとトルコせき顔料がんりょうとして着色ちゃくしょくしたうすあおのタイルの2種類しゅるい存在そんざいし、トルコせき着色ちゃくしょくされたタイルのほうおお使つかわれている[61]

アッバース1せい時代じだい以降いこう建造けんぞうぶつには、装飾そうしょくタイルのほかに描画びょうがほどこされたストゥッコ(漆喰しっくい絵描えかきタイル)が装飾そうしょく使つかわれている[62]。イマーム広場ひろば西側にしがわてられた宮殿きゅうでん劇場げきじょうは、ストゥッコ壁画へきがによって装飾そうしょくされた[63]。エスファハーンの建築けんちくぶつには、これらのモザイクを形成けいせいする装飾そうしょくタイルと絵描えかきタイルがデザインや建設けんせつ工程こうていによって使つかけられている[64]。ガージャールちょう建設けんせつぶつには、ピンクやあかるい黄色おうしょく派手はでなタイルが使つかわれるようになる[65]

装飾そうしょくタイルはもっぱら宗教しゅうきょう施設しせつ公共こうきょう施設しせつ使つかわれ、一般いっぱん家屋かおく使つかわれることはほとんどなかった[66]。バーザールにあるいくつかの工房こうぼうでは伝統でんとうてき手法しゅほう装飾そうしょくタイルがつくられており、技術ぎじゅつとともに徒弟とてい制度せいど継承けいしょうされている[67]

モスクのほかに、まち各所かくしょにイマームザーデというスーフィズム聖者せいじゃスーフィー)をまつった霊廟れいびょうてられている[68]

過去かこ王朝おうちょうてたキャラバンサライなかには、ホテルに改装かいそうされて宿泊しゅくはく可能かのうになっているものも存在そんざいする[8][69]

おも観光かんこう

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  • イマーム広場ひろば - 東西とうざい160m、南北なんぼく512mのだい広場ひろば[70]きただいバーザール、ひがしきゅう市街しがい西にし宮殿きゅうでん地域ちいきみなみしん市街しがいつながる。
  • アリ・カプ宮殿きゅうでん - サファヴィーあさおう外国がいこく使節しせつ謁見えっけん使つかわれた宮殿きゅうでん[71]。15世紀せいきのティムールあさ時代じだい宮殿きゅうでん原型げんけいができる[10]。サファヴィーあさおうにとって、宮殿きゅうでんもん敷居しきい特別とくべつなものだった[72]。イラン革命かくめいルーホッラー・ホメイニー肖像しょうぞうなどがかかげられている[10]
  • イマーム・モスク - 1630ねん完成かんせい
  • ヴァーンク教会きょうかい - 1655ねん完成かんせい。エスファハーンおよびイラン国内こくない在住ざいじゅうのアルメニアじんコミュニティーのためのアルメニア使徒しと教会きょうかい聖堂せいどう
  • 金曜きんようモスク - 10世紀せいき以前いぜん建立こんりゅう、その増築ぞうちく改修かいしゅうかえす。1121ねん火事かじ見舞みまわれ、図書館としょかん焼失しょうしつした[10]
  • スィー・オ・セきょう - 13のはし意味いみ
  • ハージュきょう英語えいごばん - アッバース2せい時代じだい完成かんせい。33のアーチをそなえ、アーチは必要ひつようおうじて開閉かいへいされるため、ダムとしても機能きのうしている[49]
  • チェヘル・ソトゥーン宮殿きゅうでん英語えいごばん
  • シャイフ・ルトゥフッラー・モスク英語えいごばん(マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー) - サファヴィー王室おうしつのモスク。その名前なまえはアッバース1せいちちタフマースブ1せいによってレバノンからまねかれた説教せっきょう由来ゆらいする[71]。イマーム・モスクが男性だんせいのモスクとばれるのにたいして、こちらは女性じょせいのモスクとばれる[10]
  • サーレバーン・ミナレット - セルジュークあさ時代じだいてられたミナレット
  • バーバー・カージムびょう - イルハンあさ時代じだいてられた聖者せいじゃ霊廟れいびょう

交通こうつう

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エスファハーンテヘランシーラーズヤズドきの列車れっしゃ始発しはつ地点ちてんとなっている。また、2路線ろせんそう延長えんちょう43kmのイスファハーン地下鉄ちかてつ一部分いちぶぶん完成かんせいした。地下鉄ちかてつ全線ぜんせん開通かいつうするまでのあいだは、バスが市内しない公共こうきょう交通こうつうもうささえる。

歴史れきしてき建造けんぞうぶつ保護ほごのため、市内しない高速こうそく道路どうろもう整備せいびにはなが時間じかんようした。テヘランとシーラーズむす自動車じどうしゃどう通過つうかしており、エスファハーンと周辺しゅうへん衛星えいせい都市とし高速こうそく道路どうろによってつながっている[73]

郊外こうがいシャヒード・ベヘシュティー空港くうこう国内線こくないせん国際線こくさいせん両方りょうほう運航うんこうされている。国際線こくさいせんおもドバイダマスカスなどの中東ちゅうとう都市とし中央ちゅうおうアジア都市としきの便びん就航しゅうこうしている。

教育きょういく

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エスファハーン工科こうか大学だいがくのキャンパス

エスファハーンには複数ふくすう大学だいがく神学校しんがっこう存在そんざいする。また、しゅう各地かくち非公式ひこうしき訓練くんれんプログラムを実施じっしするエスファハーンTVTOが運営うんえいする、50ちょう技術ぎじゅつ職業しょくぎょう訓練くんれんこうかれている [74]

2007ねんには国際こくさい物理ぶつりオリンピック開催かいさいとなった。

エスファハーンの大学だいがくには、以下いか学校がっこうがある。

スポーツ

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エスファハーンは、だい規模きぼなスポーツイベントの開催かいさいえらばれている。

50,000にん収容しゅうよう人数にんずうほこナクシェ・ジャハーン・スタジアムは、収容しゅうよう人数にんずうを75,000にんやすために改築かいちくおこなわれている。イランサッカーリーグぞくするサッカークラブのフーラッド・モバラケ・セパハンFCゾブ・アハン・エスファハーンFCは、エスファハーンを本拠地ほんきょちとしている。ナクシェ・ジャハーン・ダービーというエスファハーンを本拠地ほんきょちとするりょうチームのダービーマッチは、イランのサッカーでもっと有名ゆうめいなイベントのひとつである。

姉妹しまい都市とし

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 20世紀せいきのイランの作家さっかサーデグ・ヘダーヤトは、1932ねん同名どうめい紀行きこうぶん『エスファハーンは世界せかい半分はんぶん』を発表はっぴょうした。(『事典じてん イスラームの都市としせい』、59ぺーじ
  2. ^ a b 1979ねんイラン革命かくめいパフラヴィーあさ崩壊ほうかいしたのちおうシャー)という言葉ことば使用しよう禁止きんしされたため、おうのモスクはイマーム・モスク、おう広場ひろばはイマーム広場ひろば改称かいしょうされた。(宮田みやた物語ものがたりイランの歴史れきし ほこたかきペルシアの系譜けいふ』、83-84ぺーじ
  3. ^ 「チャハール・バーグ」とは「4分割ぶんかつされた庭園ていえん」のであり、4ほん水路すいろと4つの区画くかく由来ゆらいする。(NHK「アジア古都こと物語ものがたり」プロジェクトへん『イスファハン オアシスのゆめ』、178-179ぺーじ

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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読書どくしょ案内あんない

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  • 羽田はたただし編著へんちょ『シャルダン『イスファハーン研究けんきゅう 17世紀せいきイスラムけん都市とし肖像しょうぞう』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい, 1996ねん3がつ

外部がいぶリンク

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