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ウラジーミル (ウラジーミルしゅう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウラジーミル
Владимир
黄金の門 夜景
黄金おうごんもん 夜景やけい
ウラジーミルの市旗 ウラジーミルの市章
はた あきら
位置いち
ロシア内のヴラジーミル州の位置の位置図
ロシアないのヴラジーミルしゅう位置いち
位置いち
 
ウラジーミル (ウラジーミル州)の位置(ロシア内)
ウラジーミル (ウラジーミル州)
ウラジーミル (ウラジーミルしゅう) (ロシア)
ウラジーミル (ウラジーミル州)の位置(ヴラジーミル州内)
ウラジーミル (ウラジーミル州)
ウラジーミル (ウラジーミルしゅう) (ヴラジーミルしゅう)
座標ざひょう : 北緯ほくい568ふん 東経とうけい4025ふん / 北緯ほくい56.133 東経とうけい40.417 / 56.133; 40.417
歴史れきし
創建そうけん 990ねんまたは1108ねん
行政ぎょうせい
くに ロシアの旗 ロシア
 連邦れんぽう管区かんく 中央ちゅうおう連邦れんぽう管区かんく
 行政ぎょうせい区画くかく ヴラジーミル州の旗 ヴラジーミルしゅう
  ウラジーミル
市長しちょう Alexander Rybakov
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき 124.6 km2
標高ひょうこう 150 m
人口じんこう
人口じんこう (2021ねん現在げんざい
  市域しいき 349,951にん
  備考びこう [1]
その
ひとしときおび モスクワ時間じかん (UTC+3)
郵便ゆうびん番号ばんごう 600000–600038
市外しがい局番きょくばん +7 4922
ナンバープレート 33
公式こうしきウェブサイト : www.vladimir-city.ru

ウラジーミルヴラジーミルロシア: Владимир, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Vladimir ヴラヂーミル)は、ロシア西部せいぶヴラジーミルしゅう州都しゅうとで、人口じんこうやく34まんにん(2021ねん)。モスクワひがし200 kmに位置いちし、モスクワとニジニ・ノヴゴロドとをむす高速こうそく道路どうろA7の沿線えんせん。モスクワからは電車でんしゃで3あいだほどである。ヴォルガがわ支流しりゅうクリャージマがわめんしている。

ロシアの古都ことひとつで、ウラジーミル・スーズダリ大公たいこうこく首都しゅととしてさかえた。いわゆる「黄金おうごんたまき」を構成こうせいする都市としひとつ。1108ねんごろキエフ大公たいこうウラジーミル・モノマフにより要塞ようさいとして建設けんせつされたといわれる。この要塞ようさいは、ロストフ・スーズダリ公国こうこく(ウラジーミル・スーズダリ大公たいこうこく前身ぜんしん)の南東なんとうまもるものであった。1238ねんモンゴル帝国ていこく襲撃しゅうげきがい焦土しょうどしたが、いくつかの中世ちゅうせいロシアの宗教しゅうきょう建築けんちく破壊はかいまぬかれた。

1992ねん、ウラジーミル聖堂せいどうぐん近郊きんこうスーズダリのこ聖堂せいどうぐんとともに、「ウラジーミルとスーズダリの白亜はくあ建造けんぞうぶつぐん」として、ユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。

セミャージノ空港くうこうようし、冷戦れいせん時代じだいにはドブリンスコエ空軍くうぐん基地きちがあった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ウラジーミル市街しがい
クニャーギニンスカヤ教会きょうかい。モスクワ大公たいこうイヴァン3せいにより寄進きしんされた

創建そうけん[編集へんしゅう]

ウラジーミルの創建そうけんとし伝統でんとうてきには1108ねんとされる。これは『原初げんしょ年代ねんだい』の1108ねんじょうでウラジーミルが言及げんきゅうされるためである。ここから、1093ねんにウラジーミルをふく地方ちほうロストフスーズダリ公国こうこく一部いちぶとして相続そうぞくしたキエフ大公たいこうウラジーミル2せいモノマフがウラジーミルのまち建設けんせつみずからのをつけた、というせつまれている。1958ねんには創建そうけん850ねんさいいわわれ、まち中心ちゅうしんには当時とうじつくられた記念きねん多数たすうかざられている。

これにたい1990年代ねんだい、ウラジーミルはこれよりもふるくからあったというせつ登場とうじょう論争ろんそうとなった。原初げんしょ年代ねんだいイパーチー年代ねんだい(Hypatian codex)の解読かいどくおこな学者がくしゃたちが、このウラジーミル1せい990ねんおとずれたという記述きじゅつがあることから、創建そうけんねんもこのとし移動いどうすべきとする見解けんかいあきらかにした。2005ねん可決かけつされたウラジーミル憲章けんしょう基本きほんほう)では990ねん創建そうけんねんとしている[1]

一方いっぽう、1108ねん創建そうけんせつ支持しじする学者がくしゃは、新説しんせつたい捏造ねつぞうではないかと反論はんろんしている。近隣きんりん古都ことスーズダリ1024ねんはじめて言及げんきゅうされているが、12世紀せいきのスーズダリ住民じゅうみんはウラジーミルを「わかまち」とびその支配しはいしゃ傲慢ごうまんあつかっていた。年代ねんだいではスーズダリの人々ひとびとはウラジーミルの人々ひとびと自分じぶんたちのホロープ奴隷どれい)であり子孫しそんであるとんでいる。12世紀せいきから13世紀せいき初頭しょとうにかけてのこうそうでも、ウラジーミルはスーズダリやロストフにくらべ「わかまち」とかえかれている。

最盛さいせい[編集へんしゅう]

ウラジーミルが歴史れきしじょう重要じゅうよう都市としとなったのは12世紀せいき後半こうはんはいってからのことである。ロストフ=スーズダリ公国こうこく防衛ぼうえいする前哨ぜんしょうとして建設けんせつされたウラジーミルは、北東ほくとうルーシのおおやけウラジーミル2せいモノマフ治世ちせい1113ねんから1125ねんまでキエフ大公たいこう)、およびその息子むすこユーリー・ドルゴルーキー手長てながこう)の治世ちせい1154ねんから1157ねんまでキエフ大公たいこう)には政治せいじてきにも軍事ぐんじてきにも重要じゅうようせいたず、ロストフやスーズダリがかれらの拠点きょてんであり、そこからキエフ影響えいきょうりょくばした。

ドルゴルーキーの息子むすこアンドレイ・ボゴリュブスキー1157ねん - 1175ねん)がロストフ=スーズダリ公国こうこくいで以降いこうかれむウラジーミルが公国こうこく中心ちゅうしんとなり、以後いごモンゴル帝国ていこく襲来しゅうらい1237ねん)までのあいだその黄金おうごん時代じだいつづいた。かれはウラジーミル北東ほくとう郊外こうがいむらボゴリュボヴォ(Bogolyubovo)に居城きょじょうきずき、かれ公国こうこくがキエフ大公たいこうこくわりルーシでの主導しゅどうけんにぎるようになる。アンドレイがこのしろころされたのちおなじくドルゴルーキーの息子むすこであるミハイロ・ユリエヴィチ、いでそのおとうとフセヴォロド3せいだいこう)がウラジーミルにはいり、ロストフやスーズダリのボヤール貴族きぞく)たちと抗争こうそうしながら勢力せいりょくひろげてゆく。

ウラジーミルは公国こうこく首都しゅととして急速きゅうそくおおきくゆたかになり、アンドレイ・ボゴリュブスキーのだいにウラジーミルに生神うるかみおんな就寝しゅうしんだい聖堂せいどう(1158ねん)や黄金おうごんもん(1164ねん)が建設けんせつされている。アンドレイは1164ねんにはキエフの主教しゅきょうからかれたあたらしい主教しゅきょうをウラジーミルにこうとすらしたが、コンスタンティノープルそう主教しゅきょう拒絶きょぜつされている。

ウラジーミルの白亜はくあ聖堂せいどうとう宮殿きゅうでん建築けんちくには、ロシアじんドイツじんグルジアじんなどおおくの石工せっこうたずさわった。ロシア北方ほっぽうほか建築けんちくとはことなり、たかいところにはいし浮彫うきぼりによる彫像ちょうぞうがあしらわれ、非常ひじょうった外観がいかんになっている。当時とうじ壮大そうだい建築けんちくぶつぐんは、今日きょうでは3つしかのこっていない(生神うるかみおんな就寝しゅうしんだい聖堂せいどう、ドミトリエフスキー聖堂せいどう黄金おうごんもん)。アンドレイのきずいたボゴリュボヴォの宮殿きゅうでんはたにはネルリの生神うるかみおんな庇護ひご聖堂せいどう建設けんせつされたが、この聖堂せいどう今日きょうまでのこり、ネルリがわクリャージマがわ合流ごうりゅうてんみずかぶようにっている。

衰退すいたい[編集へんしゅう]

モンゴルのルーシ侵攻しんこうのさなかの1238ねん2がつ8にち、ウラジーミルはバトゥひきいるモンゴル帝国ていこくぐんにより陥落かんらくした。大火たいかが32むね大理石だいりせきでできた壮大そうだい建築けんちくぐんはらい、大公たいこうユーリー2せい家族かぞくからのがれようとしてはいった教会きょうかいに、ウラジーミルの主教しゅきょうはかろうじてげのびた。大公たいこうびたが、3月4にちシチがわたたか戦死せんしした。

モンゴルぐんによる破壊はかい、ウラジーミルは部分ぶぶんてき再建さいけんされたが、過去かこ栄華えいがもどすことはなかった。ジョチ・ウルス支配しはいではルーシ諸国しょこくなかもっとつよ勢力せいりょくったおおやけ比較的ひかくてきわかまち君主くんしゅであるモスクワおおやけもしくはトヴェリおおやけであったが、かれらはウラジーミル・スーズダリ大公たいこう名乗なのりジョチ・ウルスへのみつぎおさめおこなった。1299ねんから1325ねんまでのあいだはキエフ主教しゅきょうがウラジーミルにし、モスクワにうつるまでのあいだルーシ全土ぜんど管轄かんかつした。ウラジーミルの大公たいこうはもともとウラジーミル生神うるかみおんな就寝しゅうしんだい聖堂せいどう戴冠たいかんしたが、モスクワこうがウラジーミル大公たいこう地位ちいってわったのちは、モスクワのクレムリンの生神うるかみおんな就寝しゅうしんだい聖堂せいどう大公たいこう戴冠たいかんしきとなった(この聖堂せいどうはイタリアじん建築けんちくアリストテレ・フィラヴァンティがウラジーミルのだい聖堂せいどうをもとに建設けんせつした)。モスクワ大公たいこうこく拡大かくだいも、モスクワ大公たいこうはウラジーミルにおおくの聖堂せいどう、たとえば北西ほくせい3 kmの位置いちにあるスノヴィツキーの生神うるかみおんな福音ふくいんだい聖堂せいどう(ブラゴヴェシェンスキーだい聖堂せいどう、1501ねんごろ)、クニャーギニン女子じょし修道院しゅうどういん(1505ねんごろ)などを寄進きしんした。

ノヴゴロドのおおやけでウラジーミル大公たいこうとなったアレクサンドル・ネフスキー遺体いたいは、18世紀せいきピョートル大帝たいていサンクトペテルブルクアレクサンドル・ネフスキーだい修道院しゅうどういんうつすまではウラジーミルの降誕こうたん聖堂せいどう(1191ねんから1196ねんにかけ建設けんせつ)にあった。この聖堂せいどうは18世紀せいきなかあかるくするために外壁がいへきまどやそうとした結果けっかくずちている。

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

世界遺産 ウラジーミルとスーズダリ白亜はくあ建造けんぞうぶつぐん
ロシア
ウスペンスキー大聖堂
英名えいめい White Monuments of Vladimir and Suzdal
ふつめい Monuments de Vladimir et de Souzdal
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (1),(2),(4)
登録とうろくねん 1992ねん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

1992ねんにウラジーミル周辺しゅうへんふる建築けんちくぐんウラジーミルとスーズダリの白亜はくあ聖堂せいどう建築けんちくぐんとして世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。ウラジーミル市内しないでは、以下いか著名ちょめい建造けんぞうぶつ登録とうろく対象たいしょうとなっている。

世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅん[編集へんしゅう]

この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (1) 人類じんるい創造そうぞうてき才能さいのう表現ひょうげんする傑作けっさく
  • (2) ある期間きかんつうじてまたはある文化ぶんかけんにおいて、建築けんちく技術ぎじゅつ記念きねんてき芸術げいじゅつ都市とし計画けいかく景観けいかんデザインの発展はってんかんし、人類じんるい価値かち重要じゅうよう交流こうりゅうしめすもの。
  • (4) 人類じんるい歴史れきしじょう重要じゅうよう時代じだい例証れいしょうする建築けんちく様式ようしき建築けんちくぶつぐん技術ぎじゅつ集積しゅうせきまたは景観けいかんすぐれたれい

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

中心ちゅうしんいたりひじりさんしゃだい聖堂せいどう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ city population”. 2023ねん5がつ8にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]