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ヤコポ・アンジェロによるラテン語 らてんご 訳 やく
『地理 ちり 学 がく 』(ちりがく、古代 こだい ギリシア語 ご : Γεωγραφικὴ Ὑφήγησις ゲオーグラピケー・ヒュペーゲーシス )は、クラウディオス・プトレマイオス の著書 ちょしょ で、当時 とうじ 知 し られていた地点 ちてん の緯度 いど と経度 けいど を記 しる した書物 しょもつ 。全 ぜん 8巻 かん 。
『地理 ちり 学 がく 』の各巻 かくかん は次 つぎ のようになっている。
総論 そうろん
ヨーロッパ西部 せいぶ
ヨーロッパ東部 とうぶ
リビア(アフリカ)
大 だい アジア第 だい 1
大 だい アジア第 だい 2(アッシリア、メディナ、ペルシア、パルティア、バクトリア、ソグディアナ、サカイ、セリカ)
大 だい アジア最 さい 遠方 えんぽう (インド、シナイ、タプロバネ)
要約 ようやく
第 だい 1巻 かん でプトレマイオスはまず地理 ちり 学 がく (γεωγραφία )と地誌 ちし 学 まなべ (χολογραφία )の区別 くべつ を述 の べる。この区別 くべつ はエラトステネス がはじめて用 もち いたとされ、前者 ぜんしゃ は地球 ちきゅう (世界 せかい )を誌 しる す学 がく 、後者 こうしゃ は地域 ちいき を誌 しる す学 がく であるが[ 1] 、プトレマイオスは人間 にんげん の住 す む世界 せかい (オイクーメネー )全体 ぜんたい の自然 しぜん や位置 いち を図表 ずひょう に描 えが くことが地理 ちり 学 がく であるという独自 どくじ の定義 ていぎ を述 の べる[ 2] 。したがって本書 ほんしょ は地理 ちり 学 がく というよりは「世界 せかい 地図 ちず 学 がく 」とでも呼 よ ぶべき内容 ないよう になっている[ 1] 。
ついでプトレマイオスの先達 せんだつ としてテュロス のマリノス が資料 しりょう を集成 しゅうせい したとするが、マリノスの調査 ちょうさ 結果 けっか を批判 ひはん し、多 おお くの修正 しゅうせい を必要 ひつよう とすると述 の べている。
大地 だいち が球 たま であると仮定 かてい するが、このことについて説明 せつめい はない(『アルマゲスト 』では冒頭 ぼうとう に大地 だいち が球 たま であることの証明 しょうめい がある[ 3] )。地球 ちきゅう を平面 へいめん である地図 ちず に投影 とうえい する方法 ほうほう としては、マリノスが採用 さいよう した正 せい 距円筒 とう 図法 ずほう を批判 ひはん し、北緯 ほくい 36度 ど で地球 ちきゅう に接 せっ する円錐 えんすい を展開 てんかい した純 じゅん 円錐 えんすい 図法 ずほう と、経線 けいせん が円弧 えんこ を描 えが く擬 なずらえ 円錐 えんすい 図法 ずほう を提案 ていあん している[ 2] 。
第 だい 2巻 かん から第 だい 7巻 かん まではヨーロッパ からはじめて約 やく 8100の地点 ちてん の経度 けいど と緯度 いど を列挙 れっきょ している。当時 とうじ の技術 ぎじゅつ で緯度 いど はある程度 ていど 正確 せいかく にわかったが、経度 けいど を直接 ちょくせつ 測定 そくてい するのは不可能 ふかのう だったため、行程 こうてい から推測 すいそく しており、地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん では比較的 ひかくてき 正確 せいかく だが、辺境 へんきょう に向 む かうにつれて不正 ふせい 確 かく になる[ 2] 。地球 ちきゅう の円周 えんしゅう の長 なが さとしてはマリノスに従 したが ってポセイドニオス による18万 まん スタディオン (1スタディオンを180mとすると32,400km)とする説 せつ を採用 さいよう したが、これは実際 じっさい の値 ね に比 くら べて過少 かしょう であり、その一方 いっぽう で各 かく 地点 ちてん の間 あいだ の経度 けいど 差 さ は過大 かだい であった[ 2] 。各 かく 地点 ちてん について北 きた から南 みなみ 、西 にし から東 ひがし という原則 げんそく で述 の べ、ヨーロッパ 西北 せいほく 端 はし のイウェルニア島 とう (アイルランド )から記述 きじゅつ をはじめる[ 4] 。
アフリカ についてはアギシュムバ (不明 ふめい 、チャド湖 こ あたりかという)より南 みなみ は未知 みち の世界 せかい (ἄγνωστος γ がんま ῆ )とされた[ 2] 。
第 だい 7巻 かん ではインド 以東 いとう について記 しる す。インド西岸 せいがん までは比較的 ひかくてき よく知 し られていたが、それより東 ひがし は不 ふ 確実 かくじつ であり、タプロバネ(セイロン島 とう )は実際 じっさい の14倍 ばい もの大 おお きさと考 かんが えられていた。インドはガンジスの西側 にしがわ を内 うち 、東側 ひがしがわ を外 そと とする。ベンガル湾 わん の東岸 とうがん には「金 かね の国 くに ・銀 ぎん の国 くに 」(ビルマ)、「黄金 おうごん 半島 はんとう 」(マレ まれ ー半島 はんとう )、その東 ひがし に「大湾 おおわん 」(タイランド湾 わん ・南シナ海 みなみしなかい )、さらに東 ひがし にティナイを首都 しゅと とする「シナイ人 じん の国 くに 」があるとする。巻 まき 6に出 で てくるセレス人 じん の国 くに (セリカ、首都 しゅと はセラ)も、このシナイもともに中国 ちゅうごく を指 さ すらしいが、2つに分 わ かれたのは陸路 りくろ を行 おこな った者 もの がセリカと名 な づけ、海路 かいろ を行 おこな ったものはシナイと呼 よ んだという説 せつ がある[ 5] 。プトレマイオスはインド洋 いんどよう を巨大 きょだい な内 うち 陸海 りくかい と考 かんが え、東 ひがし アフリカのプラソン岬 みさき (不明 ふめい 、当時 とうじ 知 し られていたアフリカ東岸 とうがん の最南端 さいなんたん の地 ち )と、シナイ人 じん の港 みなと であるカッティガラの西 にし が未知 みち の世界 せかい によって陸 りく つづきになっているとしている[ 2] [ 6] 。
第 だい 8巻 かん は地図 ちず の分割 ぶんかつ のしかたと各 かく 図 ず について説明 せつめい している。
『地理 ちり 学 がく 』のギリシア語 ご の古 こ 写本 しゃほん は50種類 しゅるい 以上 いじょう 存在 そんざい するが、13世紀 せいき 末 まつ より古 ふる い時代 じだい のものは存在 そんざい せず、またプトレマイオスの原文 げんぶん とはかなり異 こと なっていると考 かんが えられる[ 7] 。
『地理 ちり 学 がく 』は中世 ちゅうせい の西 にし ヨーロッパでは忘 わす れられた書物 しょもつ だったが、ヤコポ・アンジェロ (Jacopo d'Angelo ) によって1406年 ねん にラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく され、『宇宙 うちゅう 誌 し 』(Cosmographia)の題 だい で対立 たいりつ 教皇 きょうこう アレクサンデル5世 せい に献呈 けんてい された。ヨーロッパで活版 かっぱん 印刷 いんさつ が行 おこな われるようになると、1475年 ねん にヴィチェンツァ 本 ほん が印刷 いんさつ されたのをはじめとして15世紀 せいき 中 ちゅう に7種 しゅ 、16世紀 せいき には30種類 しゅるい の版本 はんぽん を数 かぞ える[ 2] 。ギリシア語 ご の原文 げんぶん はエラスムス によって1533年 ねん に出版 しゅっぱん された[ 8] 。プトレマイオスの本 ほん が伝 つた えられるまで西洋 せいよう では緯度 いど と経度 けいど を使 つか って地図 ちず を描 えが く技法 ぎほう は失 うしな われており、『地理 ちり 学 がく 』は巨大 きょだい な反響 はんきょう を及 およ ぼした[ 9] 。コロンブス は1478年 ねん にローマ で出版 しゅっぱん された地図 ちず つきの版 はん を所有 しょゆう していた[ 10] 。
プトレマイオス自身 じしん が地図 ちず を描 えが いたかどうかは明 あき らかでないが、『地理 ちり 学 がく 』には早 はや くから地図 ちず が附属 ふぞく していた。13世紀 せいき のビザンティン の地図 ちず には27枚 まい からなるものと64枚 まい からなるものの2つの系統 けいとう があり、後者 こうしゃ は前者 ぜんしゃ を細分 さいぶん したものかという。27枚 まい のものは世界 せかい 図 ず 1枚 まい と地域 ちいき 図 ず 26枚 まい からなり、地域 ちいき 図 ず の内訳 うちわけ はヨーロッパが10枚 まい 、アフリカが4枚 まい 、アジアが12枚 まい である。世界 せかい 図 ず はヒッパルコス に従 したが って赤道 せきどう から極 きょく までの緯度 いど を90度 ど とし、経度 けいど は360度 ど に等分 とうぶん した経線 けいせん ・緯線 いせん の網 あみ によって描 えが かれている[ 2] 。