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『エリュトゥラー海 うみ 案内 あんない 記 き 』(エリュトゥラーかいあんないき、ギリシア語 ご : Περίπλους τ たう ῆς Ἐρυθρᾶς Θαλάσσης 、 羅 ら : Periplus Maris Erythraei 、英 えい : Periplus of the Erythraean Sea )は、古代 こだい のインド洋 いんどよう 近辺 きんぺん における海洋 かいよう 貿易 ぼうえき についてギリシア語 ご で記 しる された航海 こうかい 案内 あんない 書 しょ 。10世紀 せいき の版 はん がハイデルベルク大学 だいがく 図書館 としょかん に、14・15世紀 せいき の写本 しゃほん が大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん に所蔵 しょぞう される。
案内 あんない 記 き に登場 とうじょう する地名 ちめい 、航路 こうろ 、交易 こうえき 品 ひん
1世紀 せいき 半 なか ば過 す ぎに成立 せいりつ したと推定 すいてい され、著者 ちょしゃ はローマ領 りょう エジプト州 しゅう に住 す んでいたギリシア人 じん 航海 こうかい 者 しゃ であったと言 い われる。
この書 しょ は、インド洋 いんどよう に吹 ふ く季節風 きせつふう を利用 りよう した遠洋 えんよう 航行 こうこう を行 おこな う貿易 ぼうえき 業者 ぎょうしゃ のために書 か かれた。当時 とうじ 、インド洋 いんどよう においては、ロ ろ ーマ帝国 まていこく と南 みなみ インドのサータヴァーハナ朝 あさ の間 あいだ で季節風 きせつふう 貿易 ぼうえき が行 おこな われており、そのためこの書 しょ には航海 こうかい の状況 じょうきょう のみならず、各 かく 港 みなと での貿易 ぼうえき 品 ひん や各地 かくち の特産 とくさん 品 ひん などについての記述 きじゅつ も詳 くわ しい。アラビア半島 はんとう から東南 とうなん アジア にいたるまで広 ひろ い範囲 はんい をカバーしているため、1世紀 せいき ごろのインド洋 いんどよう 周辺 しゅうへん という、情報 じょうほう の少 すく ない地域 ちいき ・時代 じだい の様相 ようそう を知 し るための貴重 きちょう な史料 しりょう である。
『エリュトゥラー海 うみ 案内 あんない 記 き 』に見 み られる地域 ちいき は以下 いか のとおり。
中国 ちゅうごく について、 θ しーた ῖν にゅー α あるふぁ (Thina、ティーナ ) という呼称 こしょう で絹 きぬ の産地 さんち として紹介 しょうかい している。「秦 はた 」に由来 ゆらい すると言 い われる。
「エリュトゥラー」(Ἐρυθρά ) とはギリシア語 ご で「赤 あか 」の意味 いみ 。すなわち、「エリュトゥラー海 かい 」とは「紅海 こうかい 」という意味 いみ であり、現在 げんざい 紅海 こうかい に面 めん する国家 こっか エリトリア の国名 こくめい にも見 み られる。ただし、古代 こだい においては、紅海 こうかい 、ペルシャ湾 ぺるしゃわん 、オマーン湾 わん 、アラビア海 かい 、インド洋 いんどよう 、ベンガル湾 わん を含 ふく めた海 うみ のことを広 ひろ く指 さ していた。
ギリシア
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