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しとみ勇造ゆうぞう

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しとみ 勇造ゆうぞう
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1946-05-19) 1946ねん5月19にち
日本の旗 日本にっぽん埼玉さいたまけん
出身しゅっしんこう 東京大学とうきょうだいがくルーヴァン・カトリック大学だいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 歴史れきしがくさきイスラームのアラビア古代こだいインド洋いんどよう交通こうつう交易こうえき
研究けんきゅう機関きかん 東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく東京大学とうきょうだいがく東洋文庫とうようぶんこ
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しとみ 勇造ゆうぞう(しとみ ゆうぞう、1946ねん5月 - )は、日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ専攻せんこうアラビアふみさきイスラーム)、古代こだいインド洋いんどよう交通こうつう海上かいじょう交易こうえき東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ史学しがくかい評議ひょうぎいん日本にっぽんオリエント学会がっかい理事りじ東方とうほう学会がっかい評議ひょうぎいんつとめた[1]

略歴りゃくれき

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1946ねん昭和しょうわ21ねん)、埼玉さいたまけんまれ[2]東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ東洋とうよう学科がっかまなび、1972ねん昭和しょうわ47ねん)3がつ卒業そつぎょう大学だいがくではイスラーム勃興ぼっこう直前ちょくぜんの6世紀せいきごろのアラビアの歴史れきしをテーマとしようとかんがえていたが、考古学こうこがく演習えんしゅう担当たんとうしていた民族みんぞく学者がくしゃ大林おおばやし太良たらからしめされたドイツ論文ろんぶんむことで、日本にっぽんにはほとんど研究けんきゅうしゃのいなかった古代こだいみなみアラビア関心かんしんひろげてゆくことになった[2]どう大学だいがく大学院だいがくいん人文じんぶん科学かがく研究けんきゅう東洋とうよう史学しがく専修せんしゅう課程かていすすみ、1977ねん昭和しょうわ52ねん)3がつ博士はかせ課程かてい単位たんい取得しゅとく退学たいがく同年どうねん4がつより、日本にっぽん学術がくじゅつ振興しんこうかい奨励しょうれい研究けんきゅういん。1978ねん昭和しょうわ53ねん)4がつより、財団ざいだん法人ほうじん東洋文庫とうようぶんこ奨励しょうれい研究けんきゅういん。1979ねん昭和しょうわ54ねん)4がつ東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ助手じょしゅ採用さいようされたが[1]休職きゅうしょくして同年どうねん10がつよりベルギー政府せいふ給費きゅうひ留学生りゅうがくせいとして[よう出典しゅってん]ルーヴァン大学だいがく文学部ぶんがくぶ留学りゅうがくしジャック・リックマンス(Jacques Ryckmans)に師事しじ[3]つづけて1982ねん昭和しょうわ57ねん)9がつ以降いこうはルーヴァン大学だいがく大学院だいがくいん博士はかせ課程かていまな[よう出典しゅってん]、33さいからはじまった留学りゅうがく期間きかんは6ねんはんおよんだ[2]

1986ねん昭和しょうわ61ねん)に帰国きこくし、同年どうねん11がつ東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく工学部こうがくぶ助教授じょきょうじゅ着任ちゃくにん。1991ねん平成へいせい3ねん)4がつ東京大学とうきょうだいがく文学部ぶんがくぶ助教授じょきょうじゅとなり、1994ねん平成へいせい6ねん)6がつ教授きょうじゅ昇進しょうしん。1995ねん平成へいせい7ねん)4がつより東京大学とうきょうだいがく大学院だいがくいん人文じんぶん社会しゃかいけい研究けんきゅう教授きょうじゅ。2010ねん平成へいせい22ねん)3がつ東京とうきょう大学だいがく定年ていねん退任たいにんし、名誉めいよ教授きょうじゅとなった。2011ねん4がつからは金沢学院大学かなざわがくいんだいがく非常勤ひじょうきん講師こうしとして教鞭きょうべんをとったが、2015ねん3がつ退任たいにん。また、1991ねんより公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん東洋文庫とうようぶんこ研究けんきゅういん[4]

著作ちょさくリスト

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たんちょ

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訳注やくちゅうしょ

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主要しゅよう論文ろんぶん

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  • “On the Date of Composition of the Periplus Maris Erythraei: A Study of the South Arabian Epigraphic Evidence”, (Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, No.34, 1976, pp. 15-45) NII:1629/00003325
  • “Note sur le Martyrium Aretae § 20: date de la persécution de Nağrān”, (Le Muséon, tome100, 1987, pp. 315-321.
  • “Réexamen des deux lettres attribuées à Siméon de Bēth-Aršām, relatives à la persécution de Nağrān”,(Études sud-arabes: recueil offert à Jacques Ryckmans, Louvain-la-Neuve, 1991, pp. 207-224)
  • “A New Interpretation of the Monumentum Adulitanum” (Memoirs of the Research Department of the Toyo Bunko, No.55, 1997, pp. 81-102) NII:1629/00003231
  • “Une hypothèse sur l'identité des Tabābi‛a: une interprétation postérieure de la relation ḥimyarito-aksumite” (Sabaean Studies. Archaeological, epigraphical and historical studeis in honour of Yūsuf M.‘Abdallāh, Alessandro de Maigret, Christian J. Robin, Naples & Ṣan‘ā’, 2005, pp. 443-458
  • 「ナジュラーンの迫害はくがい年代ねんだいについて:古典こてんシリアさん史料しりょうつたえる年代ねんだい」(『東洋とうようがくほうだい67かんだい1・2ごう、1985ねん12月、81-109ぺーじ
  • 「ナジュラーンの迫害はくがい年代ねんだいについて:『アレタス殉教じゅんきょうろく」のつたえる年代ねんだい」(『史学しがく雑誌ざっしだい95へんだい4ごう、1986ねん4がつ、1-33ぺーじ
  • ふたたびナジュラーンの迫害はくがいについて:関係かんけい史料しりょうさい検討けんとう」(『東洋とうようがくほうだい68かんだい3・4ごう、1987ねん3がつ、99-127ぺーじ
  • 古代こだいみなみアラビアの紀元きげんについて」(『オリエント』だい31かんだい1ごう、1988ねん9がつ、51-74ぺーじ
  • 「アドゥーリスきのいさお碑文ひぶんしん解釈かいしゃく」(『東西とうざい海上かいじょう交流こうりゅう研究けんきゅうだい3ごう、1994ねん2がつ、73-114ぺーじ
  • 碑文ひぶん史料しりょうから古代こだいみなみアラビアしょ王国おうこくとアラブ・ベドウィンの関係かんけい」(『東洋とうよう研究けんきゅうだい56かんだい4ごう、1998ねん3がつ、139-183ぺーじdoi:10.14989/155159
  • 「エリュトラーうみ案内あんない世界せかい」(佐藤さとうつぎだか岸本きしもと美緒みお へん地域ちいき世界せかい 9:市場いちば世界せかい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねん6がつ、250-289ぺーじ
  • 「インドしょみなと東西とうざい貿易ぼうえき」(『岩波いわなみ講座こうざ世界せかい歴史れきし 6:みなみアジア世界せかい東南とうなんアジア世界せかい形成けいせい展開てんかい岩波書店いわなみしょてん、1999ねん7がつ、133-156ぺーじ
  • 「ヒムヤル王国おうこくトゥッバァあさ実体じったいかんするいち仮説かせつ後世こうせいからた3~6世紀せいきみなみアラビア・エチオピア関係かんけい」(『東洋とうようがくほうだい86かんだい4ごう、2005ねん3がつ、1-29ぺーじCRID 1050282813523403136

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b しとみ勇造ゆうぞう - researchmap
  2. ^ a b c 物語ものがたり アラビアの歴史れきし』/しとみ勇造ゆうぞうインタビュー|web中公新書ちゅうこうしんしょ、2018ねん7がつ23にち。2023ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  3. ^ Yuzo SHITOMI(しとみ勇造ゆうぞう)「ARAB HISTORY: Progress and Current Trends : Part I: Pre-Islamic Period」『Orient』だい37かん日本にっぽんオリエント学会がっかい、2002ねん、22ぺーじdoi:10.5356/orient1960.37.21ISSN 1884-1392  ※「Shitomi studied this discipline under Jacques Ryckmans at the Catholic University of Louvain in Belgium and at present teaches at the University of Tokyo.」とある。
  4. ^ しとみ勇造ゆうぞう - KAKEN 科学かがく研究けんきゅう助成じょせい事業じぎょうデータベース

外部がいぶリンク

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