カージャール朝 あさ がチェシュメイエ・アリーの丘 おか に刻 きざ んだファトフアリー・シャーを讃 たた えるレリーフ
シャフレ・レイ (ペルシア語 ご : شهر رِیْ , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Šahr-e Rey )[注釈 ちゅうしゃく 1] は、イラン の首都 しゅと テヘラン の南方 なんぽう 10キロメートルの場所 ばしょ に位置 いち するテヘラン州 しゅう のシャフレスターン [注釈 ちゅうしゃく 2] である。東西 とうざい 及 およ び南北 なんぼく 交通 こうつう 路 ろ の交差 こうさ する交通 こうつう の要衝 ようしょう に位置 いち し、紀元前 きげんぜん から人 ひと の集 しゅう 住 じゅう する町 まち があった。8世紀 せいき から13世紀 せいき にかけて、その町 まち は「ライイ」(al-Rayy )あるいは慣用 かんよう 的 てき に「レイ」と呼 よ ばれ、イスラーム帝国 ていこく の東方 とうほう 支配 しはい の要 よう として栄 さか えた。「ラーズィー 」(al-Rāzī )は当該 とうがい レイとの関連 かんれん があることを示 しめ すニスバ である。しかし相次 あいつ ぐモンゴルの侵攻 しんこう で荒廃 こうはい し、一 いち 度 ど は遺棄 いき された。その後 ご 、シーア派 は の聖者 せいじゃ 廟 びょう (シャー・アブドルアズィームのハラム (英語 えいご 版 ばん ) )を中心 ちゅうしん に町 まち が発展 はってん し、現代 げんだい に至 いた る。
イラン中央 ちゅうおう 部 ぶ の町 まち と交通 こうつう 路 ろ を示 しめ す地図 ちず (1948年 ねん ごろ)
シャフレ・レイ、あるいは、歴史 れきし 的 てき に「ライイ」「レイ」などと呼 よ ばれた町 まち は、21世紀 せいき 現在 げんざい においては、イラン・イスラーム共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと テヘラン の中心 ちゅうしん 部 ぶ から南南東 なんなんとう 10キロメートルの場所 ばしょ に位置 いち する[1] 。行政 ぎょうせい 上 じょう はテヘラン市 し に含 ふく まれないが、テヘランの大都市 だいとし 圏内 けんない に飲 の み込 こ まれている。
レイは上古 じょうこ より、バビロニア からエクバタナ を通 とお ってホラーサーン へ向 む かう東西 とうざい の街道 かいどう [2] 、ギーラーン とイスファハーン を結 むす ぶ南北 なんぼく の街道 かいどう の交差 こうさ する交通 こうつう の要衝 ようしょう に位置 いち した(地図 ちず 参照 さんしょう )。
チェシュメイエ・アリーの丘 おか
シャフレ・レイにおける西洋 せいよう 人 じん による遺跡 いせき 調査 ちょうさ は、19世紀 せいき 前半 ぜんはん から行 おこな われてきたが、本格 ほんかく 的 てき な学術 がくじゅつ 調査 ちょうさ は1930年代 ねんだい のヴィニエ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) によるものが最初 さいしょ である[1] 。1934年 ねん から1936年 ねん にかけて、アメリカのシュミット (英語 えいご 版 ばん ) により学術 がくじゅつ 的 てき な発掘 はっくつ 調査 ちょうさ が行 おこな われた[1] 。
現代 げんだい の行政 ぎょうせい 区分 くぶん でいうシャフレ・レイ地区 ちく では、チェシュメイエ・アリーとクーヘ・ソルソラという2つの丘 おか から紀元前 きげんぜん 5500年 ねん から5200年 ねん 前 まえ (新 しん 石器 せっき 時代 じだい )のものと推定 すいてい される卵殻 らんかく 状 じょう の土器 どき (甕 う )の欠片 かけら 等 とう が見 み つかっており、2010年 ねん 時点 じてん で最古 さいこ の、この地 ち における人類 じんるい 集 しゅう 住 じゅう の痕跡 こんせき である[1] 。チェシュメイエ・アリーの丘 おか では、この地層 ちそう の上 うえ に泥 どろ を焼成 しょうせい したレンガで築 きず かれた構造 こうぞう 物 ぶつ の遺構 いこう がある[1] 。レンガは規格 きかく 化 か されておりバルフ のバクトラ 遺跡 いせき で見 み られるレンガと同 おな じものとみなせる[1] 。時期 じき 的 てき にはパルティア (アルサケス朝 あさ )の構造 こうぞう 物 ぶつ であり、シュミットの調査 ちょうさ によると内部 ないぶ から、ヴォノネス2世 せい からミトラダテス2世 せい まで、紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき 後半 こうはん から後 のち 1世紀 せいき の王 おう の名 な が刻 きざ まれた銅貨 どうか が発掘 はっくつ された[1] 。
チェシュメイエ・アリーとクーヘ・ソルソラの2つの丘 おか の周 まわ りは防塁 ぼうるい で囲 かこ われており、最 もっと も古 ふる いものはパルティア時代 じだい の防塁 ぼうるい である[1] 。防塁 ぼうるい はサーサーン朝 あさ でも造営 ぞうえい され、内側 うちがわ は「行政 ぎょうせい 地区 ちく 」(governmental quarter ; šahrestān )として機能 きのう した[1] 。陶器 とうき などの出土 しゅつど 品 ひん に基 もと づくと「行政 ぎょうせい 地区 ちく 」は、アッバース朝 あさ ~セルジューク朝 あさ 時代 じだい まで使用 しよう され続 つづ けたことが確認 かくにん できる[1] 。セルジューク朝 あさ の地層 ちそう の上 うえ には 2 cm の火災 かさい の痕跡 こんせき が積 つ もり[1] 、「レイは度重 たびかさ なるモンゴルの侵攻 しんこう で荒廃 こうはい し、最終 さいしゅう 的 てき にティムールにより破壊 はかい された」という「書 か かれた歴史 れきし 」により再 さい 構築 こうちく される歴史 れきし 像 ぞう と矛盾 むじゅん しない。
現存 げんそん する『アヴェスター 』には Ragā (ラガー)という町 まち の名前 なまえ が3回 かい 現 あらわ れる[2] [3] 。『トビト記 き 』1:15には Rages(ラゲス)というメディア王国 おうこく の町 まち の名前 なまえ がある[2] [4] 。ストラボン の『地理 ちり 誌 し 』11.13.6には、アレクサンドロス大王 だいおう の時代 じだい には Ῥάγες (ラゲス)と呼 よ ばれていた町 まち が、セレウコス1世 せい ニカトル により「だだっ広 ぴろ い」を意味 いみ する Ευρωπος (エウローポス)に改名 かいめい され、その後 ご アルサケス朝 あさ パルティア の時代 じだい に Ἀρσακία (アルサキア)に改名 かいめい されたという記載 きさい がある。
イスラーム時代 じだい の行政 ぎょうせい 言語 げんご であるアラビア語 ご で、الري (al-Rayy , アッライイとラテン文字 もじ 転写 てんしゃ 、カタカナ転写 てんしゃ できる)の名 な で記録 きろく されている町 まち が、上述 じょうじゅつ した中期 ちゅうき ペルシア語 ご 、ギリシア語 ご 、ラテン語 らてんご 文献 ぶんけん に記述 きじゅつ がある町 まち と同 おな じ町 まち であると考 かんが えられている[2] 。以下 いか 、日本語 にほんご 書籍 しょせき でも多 おお い読 よ みである「レイ」の名 な でこの町 まち について言及 げんきゅう する。
タッペイエ・ミールの丘 おか にあるアータシュカデ(拝 はい 火 ひ 教 きょう 寺院 じいん )址 し
サーサーン朝 あさ もレイを支配 しはい したはずであるが、そのことを示 しめ す考古学 こうこがく 的 てき エビデンスは明瞭 めいりょう でない[1] 。タバリー は642年 ねん にレイでスィヤーワフシュ(Siāwaḵš b. Mehrān b. Bahrām Čōbin )を首領 しゅりょう とするゾロアスター教徒 きょうと の反乱 はんらん が起 お き、ヌアイム・ブン・ムカッリーンという名 な のムスリムの武将 ぶしょう がこれを平定 へいてい した旨 むね を記 しる している[1] 。タバリーによると、このときヌアイムは、戦闘 せんとう で破壊 はかい された古 ふる いとりでを修復 しゅうふく したというが、考古学 こうこがく 的 てき にはそのようなとりで跡 あと が発見 はっけん されていない[1] 。一説 いっせつ によるとタッペイエ・ミールの丘 おか にあるアータシュカデ(拝 はい 火 ひ 教 きょう 寺院 じいん )址 し がそれかもしれない[1] 。
シリアを首都 しゅと にしたウマイヤ朝 あさ や、イラクを首都 しゅと にしたアッバース朝 あさ にとって、レイは東方 とうほう の版図 はんと を支配 しはい するための重要 じゅうよう な拠点 きょてん であった[1] 。のちに「マフディー」と呼 よ ばれるアッバース朝 あさ のムハンマド・ブン・マンスール は、若 わか い頃 ころ にホラーサーン やタバリスターン で発生 はっせい した反乱 はんらん への討伐 とうばつ で軍功 ぐんこう を立 た てたが、この頃 ころ に軍事 ぐんじ 拠点 きょてん として用 もち いたのがレイだった[1] [5] 。マフディーはレイを、自分 じぶん の名 な をとって「ムハンマディーヤ」(ムハンマドの町 まち )と呼 よ んだ[1] 。マフディーがハイズラーン・ビント・アター (英語 えいご 版 ばん ) と恋 こい に落 お ち、ムーサー とハールーン の2人 ふたり の息子 むすこ を得 え たのもこのレイの町 まち においてであった[5] 。
考古学 こうこがく 的 てき にもアッバース朝 あさ 時代 じだい 初期 しょき に防塁 ぼうるい で囲 かこ まれた「行政 ぎょうせい 地区 ちく 」の大幅 おおはば 拡張 かくちょう が確認 かくにん できる[1] 。イスラーム時代 じだい 、レイは宗教 しゅうきょう 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき にも重要 じゅうよう な拠点 きょてん であった。9世紀 せいき から10世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけて、レイは実質 じっしつ 的 てき に、神学 しんがく 上 じょう はムルジア派 は とみなされるフサイン・ナッジャールのセクトが大勢 おおぜい を占 し め、法学 ほうがく 上 じょう はハナフィー法 ほう 学派 がくは の規範 きはん が適用 てきよう されていた[6] :29 。当時 とうじ レイにはハナフィー法 ほう 学派 がくは の強固 きょうこ なコミュニティが存在 そんざい していた[6] :29 。ハナフィー法 ほう 学派 がくは は土着 どちゃく の慣習 かんしゅう やラーイを認 みと め、明確 めいかく なドクトリンを持 も たない。9世紀 せいき 中葉 ちゅうよう に明確 めいかく なドクトリンを持 も つシャーフィイー法 ほう 学派 がくは がレイを含 ふく むイランの各 かく 町 まち に浸透 しんとう し始 はじ め、その教 きょう 勢 ぜい は11世紀 せいき に明 あき らかにハナフィー法 ほう 学派 がくは をしのいだ[6] :27 。
西暦 せいれき 860年 ねん には、この町 まち でアブー・バクル・ラーズィー (医学 いがく ・哲学 てつがく 者 しゃ のラーゼス)が生誕 せいたん している。ラーズィーは医学 いがく や哲学 てつがく の分野 ぶんや で業績 ぎょうせき を残 のこ したペルシア人 じん であるが、理性 りせい 主義 しゅぎ 者 もの であったため専制 せんせい に反対 はんたい し、彼 かれ の不可知論 ふかちろん は激 はげ しい論争 ろんそう を引 ひ き起 お こした。彼 かれ の通称 つうしょう 「(アッ=)ラーズィー」は当地 とうち の地名 ちめい を基 もと にしたニスバ である。アッバース朝 あさ 時代 じだい を通 とお して、この町 まち は反 はん 体制 たいせい 派 は の巣窟 そうくつ となった。ムゥタズィラ学派 がくは にシーア派 は 、その他 た にも多 おお くのセクトが、この町 まち に避難 ひなん 場所 ばしょ を見出 みいだ した。
10世紀 せいき の終 お わり頃 ころ には当地 とうち にブワイフ朝 あさ の首都 しゅと が置 お かれた。しかし1042年 ねん にはセルジューク朝 あさ の手 て に落 お ちた。セルジューク朝 あさ の創始 そうし 者 しゃ であり初代 しょだい スルターン 、トゥグリル・ベグ はこの地 ち で生 う まれ、没 ぼっ した後 のち 、同地 どうち に霊廟 れいびょう 塔 とう が建 た てられた。1149年 ねん には詩人 しじん 、哲学 てつがく 者 しゃ 、神学 しんがく 者 しゃ のファフルッディーン・ラーズィー (英語 えいご 版 ばん 、ペルシア語 ご 版 ばん ) が当地 とうち にて生 う まれた。
紀元前 きげんぜん 以来 いらい の古都 こと 、レイは1220年 ねん のモンゴルの西 にし アジア侵入 しんにゅう の際 さい 、徹底的 てっていてき に破壊 はかい され、それ以降 いこう と断絶 だんぜつ がある。
13世紀 せいき にヤークート がレイの廃墟 はいきょ を訪 おとず れている[6] :37 。ヤークートは当地 とうち の住民 じゅうみん が「レイが廃墟 はいきょ となったのはハナフィー派 は とシャーフィイー派 は の党派 とうは 争 あらそ いが原因 げんいん だ」と語 かた っていると記述 きじゅつ している[6] :37 。
1950年 ねん にパフラヴィー朝 あさ の元 もと 皇帝 こうてい レザー・パフラヴィー の遺体 いたい がエジプト からイランに運 はこ ばれシャフレ・レイにある霊廟 れいびょう に埋葬 まいそう された。1979年 ねん のイラン革命 かくめい の後 のち にルーホッラー・ホメイニー の許可 きょか を得 え て霊廟 れいびょう は破壊 はかい された。その後 ご 、遺体 いたい は行方 ゆくえ 不明 ふめい となったが、2018年 ねん 4月 がつ にレイにあるアブドゥラジム陵墓 りょうぼ の拡張 かくちょう 活動 かつどう の際 さい に発見 はっけん されたミイラがレザーの可能 かのう 性 せい があると報道 ほうどう された[7] 。しかし革命 かくめい で打倒 だとう したパフラヴィー朝 あさ の影 かげ を気 き にする政府 せいふ 当局 とうきょく により、遺体 いたい は埋 う め戻 もど された[8] 。
シーア派 は の巡礼 じゅんれい 地 ち [ 編集 へんしゅう ]
1924年 ねん ごろのシャフレ・レイの空 そら 撮 つまみ 写真 しゃしん 。町 まち の中心 ちゅうしん にシャー・アブドルアズィームのハラム (英語 えいご 版 ばん ) の中核 ちゅうかく モスクが見 み える。
アッバース朝 あさ 時代 じだい の9世紀 せいき 、十 じゅう 二 に イマーム・シーア派 は にとって重要 じゅうよう な出来事 できごと がレイで起 お きた[9] 。10世紀 せいき の歴史 れきし 家 か ナジャーシー (ペルシア語 ご 版 ばん ) は、「アブドルアズィーム (ペルシア語 ご 版 ばん ) という人物 じんぶつ がレイに移 うつ り住 す み、当地 とうち で亡 な くなった[9] 。死後 しご の彼 かれ の衣服 いふく の懐中 かいちゅう から自分 じぶん の出自 しゅつじ を記 しる したメモが出 で てきて、それによると、彼 かれ はハサン・ブン・アリー の5世 せい 孫 まご であった[9] 。アブドルアズィームは、素性 すじょう を隠 かく してアッバース朝 あさ 政府 せいふ の監視 かんし の目 め を逃 のが れながら預言 よげん 者 しゃ の一族 いちぞく のメッセージを人々 ひとびと に伝 つた えるために長 なが い旅 たび をしていた[9] 。」といった内容 ないよう の出来事 できごと を伝 つた える[9] [10]
アブドルアズィーム廟 びょう のミナレット
アブドルアズィームはリンゴの木 こ の下 した に葬 ほうむ られた[9] 。その墓 はか には、被葬 ひそう 者 しゃ の没 ぼっ した直後 ちょくご から現代 げんだい に至 いた るまで、複数 ふくすう 次 じ にわたって、時 とき のシーア派 は 王権 おうけん による寄進 きしん がなされた[9] 。セルジューク朝 あさ のワズィール、マジドッディーン・バラーワスターニーはシーア派 は を信奉 しんぽう しており、アブドルアズィーム廟 びょう を保全 ほぜん した[9] 。サファヴィー朝 あさ のタフマースブ1世 せい は、アブドルアズィーム廟 びょう を大幅 おおはば に拡張 かくちょう した[9] 。現存 げんそん する霊廟 れいびょう のイーワーン 建築 けんちく はこのときに建築 けんちく されたものである[9] 。ガージャール朝 あさ のナーセロッディーン・シャー は、タフマースブが拡張 かくちょう したモスクを美麗 びれい に装飾 そうしょく させた[9] 。
アリー・ハーディー はレイから来 き た旅人 たびびと に、アブドルアズィームの墓 はか にお参 まい りするのはイマーム・フサインの墓 はか にお参 まい りするのと同等 どうとう のご利益 りやく があると言 い ったとされる[9] 。ところで、生前 せいぜん のアブドルアズィームの旅 たび の目的 もくてき 地 ち がレイであった理由 りゆう は、一説 いっせつ によると、夢 ゆめ のお告 つ げでここにムーサー・カーゼム の息子 むすこ ハムザ の墓 はか があることがわかったからである[9] 。ハムザはアリー・レザー の教 きょう 友 とも でサファヴィー朝 あさ 王家 おうけ の父祖 ふそ とされる人物 じんぶつ であり民衆 みんしゅう に人気 にんき がある。マアムーン に殺 ころ されてアリー・レザーに葬 ほうむ られたが埋葬 まいそう 地 ち が不明 ふめい であり、イラン各地 かくち にハムザの墓 はか がある。アブドルアズィームはレイにおいて、何 なん の変哲 へんてつ もない墓石 はかいし の近 ちか くで断食 だんじき や礼拝 れいはい に務 つと める敬虔 けいけん な生活 せいかつ を送 おく っていたが、その墓 はか こそハムザの墓 はか であった、と信 しん じられている[9] 。アブドルアズィーム廟 びょう にはハムザ廟 びょう も隣接 りんせつ している。
このように成立 せいりつ したシャー・アブドルアズィームのハラム (英語 えいご 版 ばん ) の近 ちか くには、有名人 ゆうめいじん が数多 かずおお く眠 ねむ るイブン・バーブワイヒ墓地 ぼち (ペルシア語 ご 版 ばん ) や、セルジューク朝 あさ の君主 くんしゅ トゥグリル・ベク の霊廟 れいびょう 塔 とう (英語 えいご 版 ばん ) も所在 しょざい する。
現代 げんだい のシャフレ・レイは、テヘラン州 しゅう の一 いち シャフレスターンである。特 とく に、隣国 りんごく イラクからサッダーム・フセイン の政権 せいけん 掌握 しょうあく 後 ご 、イランに移住 いじゅう してきたアラブ系 けい の人々 ひとびと が多 おお く住 す み、リトル・アラブを形成 けいせい している[11] 。
^ ペルシア文字 もじ に付 ふ したシャクル は、20世紀 せいき 後半 こうはん からイランで用 もち いられるようになったスタイルで付 ふ してある。すなわち、/ey/ をキャスレ、スクーンの順 じゅん で打 う っている。ファトヘ、スクーンの順 じゅん で打 う つ伝統 でんとう 的 てき なスタイルもある。発音 はつおん は同 おな じ。
^ ここでは現代 げんだい イランの行政 ぎょうせい 区画 くかく の一 いち 種 しゅ という意味 いみ で使用 しよう している。