シャフレ・レイ

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レイ (イラン)から転送てんそう
シャフレ・レイ
شهر رِیْ
位置いち
シャフレ・レイの位置(イラン内)
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ (イラン)
シャフレ・レイの位置(中東内)
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ
シャフレ・レイ (中東ちゅうとう)
座標ざひょう : 北緯ほくい3535ふん 東経とうけい5126ふん / 北緯ほくい35.583 東経とうけい51.433 / 35.583; 51.433
行政ぎょうせい
くに イランの旗 イラン
 しゅう テヘランしゅう
  シャフレ・レイ
その
ひとしときおび イラン標準時ひょうじゅんじ (UTC+3:30)
夏時間なつじかん イラン夏時間なつじかん (UTC+4:30)
カージャールあさがチェシュメイエ・アリーのおかきざんだファトフアリー・シャーをたたえるレリーフ

シャフレ・レイペルシア: شهر رِیْ‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Šahr-e Rey[注釈ちゅうしゃく 1]は、イラン首都しゅとテヘラン南方なんぽう10キロメートルの場所ばしょ位置いちするテヘランしゅうシャフレスターン[注釈ちゅうしゃく 2]である。東西とうざいおよ南北なんぼく交通こうつう交差こうさする交通こうつう要衝ようしょう位置いちし、紀元前きげんぜんからひとしゅうじゅうするまちがあった。8世紀せいきから13世紀せいきにかけて、そのまちは「ライイ」(al-Rayy)あるいは慣用かんようてきに「レイ」とばれ、イスラーム帝国ていこく東方とうほう支配しはいようとしてさかえた。「ラーズィー」(al-Rāzī)は当該とうがいレイとの関連かんれんがあることをしめニスバである。しかし相次あいつぐモンゴルの侵攻しんこう荒廃こうはいし、いち遺棄いきされた。その、シーア聖者せいじゃびょうシャー・アブドルアズィームのハラム英語えいごばん)を中心ちゅうしんまち発展はってんし、現代げんだいいたる。

地理ちり[編集へんしゅう]

イラン中央ちゅうおうまち交通こうつうしめ地図ちず(1948ねんごろ)

シャフレ・レイ、あるいは、歴史れきしてきに「ライイ」「レイ」などとばれたまちは、21世紀せいき現在げんざいにおいては、イラン・イスラーム共和きょうわこく首都しゅとテヘラン中心ちゅうしんから南南東なんなんとう10キロメートルの場所ばしょ位置いちする[1]行政ぎょうせいじょうはテヘランふくまれないが、テヘランの大都市だいとし圏内けんないまれている。

レイは上古じょうこより、バビロニアからエクバタナとおってホラーサーンかう東西とうざい街道かいどう[2]ギーラーンイスファハーンむす南北なんぼく街道かいどう交差こうさする交通こうつう要衝ようしょう位置いちした(地図ちず参照さんしょう)。

考古こうこ[編集へんしゅう]

チェシュメイエ・アリーのおか

シャフレ・レイにおける西洋せいようじんによる遺跡いせき調査ちょうさは、19世紀せいき前半ぜんはんからおこなわれてきたが、本格ほんかくてき学術がくじゅつ調査ちょうさは1930年代ねんだいヴィニエフランス語ふらんすごばんによるものが最初さいしょである[1]。1934ねんから1936ねんにかけて、アメリカのシュミット英語えいごばんにより学術がくじゅつてき発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれた[1]

現代げんだい行政ぎょうせい区分くぶんでいうシャフレ・レイ地区ちくでは、チェシュメイエ・アリーとクーヘ・ソルソラという2つのおかから紀元前きげんぜん5500ねんから5200ねんまえしん石器せっき時代じだい)のものと推定すいていされる卵殻らんかくじょう土器どき)の欠片かけらとうつかっており、2010ねん時点じてん最古さいこの、このにおける人類じんるいしゅうじゅう痕跡こんせきである[1]。チェシュメイエ・アリーのおかでは、この地層ちそううえどろ焼成しょうせいしたレンガできずかれた構造こうぞうぶつ遺構いこうがある[1]。レンガは規格きかくされておりバルフバクトラ遺跡いせきられるレンガとおなじものとみなせる[1]時期じきてきにはパルティア(アルサケスあさ)の構造こうぞうぶつであり、シュミットの調査ちょうさによると内部ないぶから、ヴォノネス2せいからミトラダテス2せいまで、紀元前きげんぜん2世紀せいき後半こうはんからのち1世紀せいきおうきざまれた銅貨どうか発掘はっくつされた[1]

チェシュメイエ・アリーとクーヘ・ソルソラの2つのおかまわりは防塁ぼうるいかこわれており、もっとふるいものはパルティア時代じだい防塁ぼうるいである[1]防塁ぼうるいサーサーンあさでも造営ぞうえいされ、内側うちがわは「行政ぎょうせい地区ちく」(governmental quarter; šahrestān)として機能きのうした[1]陶器とうきなどの出土しゅつどひんもとづくと「行政ぎょうせい地区ちく」は、アッバースあさセルジュークあさ時代じだいまで使用しようされつづけたことが確認かくにんできる[1]。セルジュークあさ地層ちそううえには 2 cm の火災かさい痕跡こんせきもり[1]、「レイは度重たびかさなるモンゴルの侵攻しんこう荒廃こうはいし、最終さいしゅうてきにティムールにより破壊はかいされた」という「かれた歴史れきし」によりさい構築こうちくされる歴史れきしぞう矛盾むじゅんしない。

歴史れきし[編集へんしゅう]

現存げんそんする『アヴェスター』には Ragā (ラガー)というまち名前なまえが3かいあらわれる[2][3]。『トビト』1:15には Rages(ラゲス)というメディア王国おうこくまち名前なまえがある[2][4]ストラボンの『地理ちり』11.13.6には、アレクサンドロス大王だいおう時代じだいには Ῥάγες (ラゲス)とばれていたまちが、セレウコス1せいニカトルにより「だだっぴろい」を意味いみする Ευρωπος (エウローポス)に改名かいめいされ、そのアルサケスあさパルティア時代じだいἈρσακία (アルサキア)に改名かいめいされたという記載きさいがある。

イスラーム時代じだい行政ぎょうせい言語げんごであるアラビアで、الري‎(al-Rayy, アッライイとラテン文字もじ転写てんしゃ、カタカナ転写てんしゃできる)の記録きろくされているまちが、上述じょうじゅつした中期ちゅうきペルシア、ギリシアラテン語らてんご文献ぶんけん記述きじゅつがあるまちおなまちであるとかんがえられている[2]以下いか日本語にほんご書籍しょせきでもおおみである「レイ」のでこのまちについて言及げんきゅうする。

タッペイエ・ミールのおかにあるアータシュカデ(はいきょう寺院じいん

サーサーンあさもレイを支配しはいしたはずであるが、そのことをしめ考古学こうこがくてきエビデンスは明瞭めいりょうでない[1]タバリーは642ねんにレイでスィヤーワフシュ(Siāwaḵš b. Mehrān b. Bahrām Čōbin)を首領しゅりょうとするゾロアスター教徒きょうと反乱はんらんき、ヌアイム・ブン・ムカッリーンというのムスリムの武将ぶしょうがこれを平定へいていしたむねしるしている[1]。タバリーによると、このときヌアイムは、戦闘せんとう破壊はかいされたふるいとりでを修復しゅうふくしたというが、考古学こうこがくてきにはそのようなとりであと発見はっけんされていない[1]一説いっせつによるとタッペイエ・ミールのおかにあるアータシュカデ(はいきょう寺院じいんがそれかもしれない[1]

シリアを首都しゅとにしたウマイヤあさや、イラクを首都しゅとにしたアッバースあさにとって、レイは東方とうほう版図はんと支配しはいするための重要じゅうよう拠点きょてんであった[1]のちに「マフディー」とばれるアッバースあさのムハンマド・ブン・マンスールは、わかころホラーサーンタバリスターン発生はっせいした反乱はんらんへの討伐とうばつ軍功ぐんこうてたが、このころ軍事ぐんじ拠点きょてんとしてもちいたのがレイだった[1][5]。マフディーはレイを、自分じぶんをとって「ムハンマディーヤ」(ムハンマドのまち)とんだ[1]。マフディーがハイズラーン・ビント・アター英語えいごばんこいち、ムーサーハールーン2人ふたり息子むすこたのもこのレイのまちにおいてであった[5]

考古学こうこがくてきにもアッバースあさ時代じだい初期しょき防塁ぼうるいかこまれた「行政ぎょうせい地区ちく」の大幅おおはば拡張かくちょう確認かくにんできる[1]。イスラーム時代じだい、レイは宗教しゅうきょうてき文化ぶんかてきにも重要じゅうよう拠点きょてんであった。9世紀せいきから10世紀せいき前半ぜんはんにかけて、レイは実質じっしつてきに、神学しんがくじょうムルジアとみなされるフサイン・ナッジャールのセクトが大勢おおぜいめ、法学ほうがくじょうハナフィーほう学派がくは規範きはん適用てきようされていた[6]:29当時とうじレイにはハナフィーほう学派がくは強固きょうこなコミュニティが存在そんざいしていた[6]:29。ハナフィーほう学派がくは土着どちゃく慣習かんしゅうやラーイをみとめ、明確めいかくなドクトリンをたない。9世紀せいき中葉ちゅうよう明確めいかくなドクトリンをシャーフィイーほう学派がくはがレイをふくむイランのかくまち浸透しんとうはじめ、そのきょうぜいは11世紀せいきあきらかにハナフィーほう学派がくはをしのいだ[6]:27

西暦せいれき860ねんには、このまちアブー・バクル・ラーズィー医学いがく哲学てつがくしゃのラーゼス)が生誕せいたんしている。ラーズィーは医学いがく哲学てつがく分野ぶんや業績ぎょうせきのこしたペルシアじんであるが、理性りせい主義しゅぎものであったため専制せんせい反対はんたいし、かれ不可知論ふかちろんはげしい論争ろんそうこした。かれ通称つうしょう「(アッ=)ラーズィー」は当地とうち地名ちめいもとにしたニスバである。アッバースあさ時代じだいとおして、このまちはん体制たいせい巣窟そうくつとなった。ムゥタズィラ学派がくはシーア、そのにもおおくのセクトが、このまち避難ひなん場所ばしょ見出みいだした。

10世紀せいきわりころには当地とうちブワイフあさ首都しゅとかれた。しかし1042ねんにはセルジュークあさちた。セルジュークあさ創始そうししゃであり初代しょだいスルターントゥグリル・ベグはこのまれ、ぼっしたのち同地どうち霊廟れいびょうとうてられた。1149ねんには詩人しじん哲学てつがくしゃ神学しんがくしゃファフルッディーン・ラーズィー英語えいごばんペルシアばん当地とうちにてまれた。

紀元前きげんぜん以来いらい古都こと、レイは1220ねんモンゴルの西にしアジア侵入しんにゅうさい徹底的てっていてき破壊はかいされ、それ以降いこう断絶だんぜつがある。

13世紀せいきヤークートがレイの廃墟はいきょおとずれている[6]:37。ヤークートは当地とうち住民じゅうみんが「レイが廃墟はいきょとなったのはハナフィーとシャーフィイー党派とうはあらそいが原因げんいんだ」とかたっていると記述きじゅつしている[6]:37

1950ねんパフラヴィーあさもと皇帝こうていレザー・パフラヴィー遺体いたいエジプトからイランにはこばれシャフレ・レイにある霊廟れいびょう埋葬まいそうされた。1979ねんイラン革命かくめいのちルーホッラー・ホメイニー許可きょか霊廟れいびょう破壊はかいされた。その遺体いたい行方ゆくえ不明ふめいとなったが、2018ねん4がつにレイにあるアブドゥラジム陵墓りょうぼ拡張かくちょう活動かつどうさい発見はっけんされたミイラがレザーの可能かのうせいがあると報道ほうどうされた[7]。しかし革命かくめい打倒だとうしたパフラヴィーあさかげにする政府せいふ当局とうきょくにより、遺体いたいもどされた[8]

シーア巡礼じゅんれい[編集へんしゅう]

1924ねんごろのシャフレ・レイのそらつまみ写真しゃしんまち中心ちゅうしんシャー・アブドルアズィームのハラム英語えいごばん中核ちゅうかくモスクがえる。

アッバースあさ時代じだいの9世紀せいきじゅうイマーム・シーアにとって重要じゅうよう出来事できごとがレイできた[9]。10世紀せいき歴史れきしナジャーシーペルシアばんは、「アブドルアズィームペルシアばんという人物じんぶつがレイにうつみ、当地とうちくなった[9]死後しごかれ衣服いふく懐中かいちゅうから自分じぶん出自しゅつじしるしたメモがてきて、それによると、かれハサン・ブン・アリーの5せいまごであった[9]。アブドルアズィームは、素性すじょうかくしてアッバースあさ政府せいふ監視かんしのがれながら預言よげんしゃ一族いちぞくのメッセージを人々ひとびとつたえるためにながたびをしていた[9]。」といった内容ないよう出来事できごとつたえる[9][10]

アブドルアズィームびょうのミナレット

アブドルアズィームはリンゴのしたほうむられた[9]。そのはかには、被葬ひそうしゃぼっした直後ちょくごから現代げんだいいたるまで、複数ふくすうにわたって、ときのシーア王権おうけんによる寄進きしんがなされた[9]。セルジュークあさのワズィール、マジドッディーン・バラーワスターニーはシーア信奉しんぽうしており、アブドルアズィームびょう保全ほぜんした[9]サファヴィーあさタフマースブ1せいは、アブドルアズィームびょう大幅おおはば拡張かくちょうした[9]現存げんそんする霊廟れいびょうイーワーン建築けんちくはこのときに建築けんちくされたものである[9]ガージャールあさナーセロッディーン・シャーは、タフマースブが拡張かくちょうしたモスクを美麗びれい装飾そうしょくさせた[9]

アリー・ハーディーはレイから旅人たびびとに、アブドルアズィームのはかにおまいりするのはイマーム・フサインのはかにおまいりするのと同等どうとうのご利益りやくがあるとったとされる[9]。ところで、生前せいぜんのアブドルアズィームのたび目的もくてきがレイであった理由りゆうは、一説いっせつによると、ゆめのおげでここにムーサー・カーゼム息子むすこハムザはかがあることがわかったからである[9]。ハムザはアリー・レザーきょうともでサファヴィーあさ王家おうけ父祖ふそとされる人物じんぶつであり民衆みんしゅう人気にんきがある。マアムーンころされてアリー・レザーにほうむられたが埋葬まいそう不明ふめいであり、イラン各地かくちにハムザのはかがある。アブドルアズィームはレイにおいて、なん変哲へんてつもない墓石はかいしちかくで断食だんじき礼拝れいはいつとめる敬虔けいけん生活せいかつおくっていたが、そのはかこそハムザのはかであった、としんじられている[9]。アブドルアズィームびょうにはハムザびょう隣接りんせつしている。

このように成立せいりつしたシャー・アブドルアズィームのハラム英語えいごばんちかくには、有名人ゆうめいじん数多かずおおねむイブン・バーブワイヒ墓地ぼちペルシアばんや、セルジュークあさ君主くんしゅトゥグリル・ベク霊廟れいびょうとう英語えいごばん所在しょざいする。

現代げんだいのシャフレ・レイは、テヘランしゅういちシャフレスターンである。とくに、隣国りんごくイラクからサッダーム・フセイン政権せいけん掌握しょうあく、イランに移住いじゅうしてきたアラブけい人々ひとびとおおみ、リトル・アラブを形成けいせいしている[11]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ペルシア文字もじしたシャクルは、20世紀せいき後半こうはんからイランでもちいられるようになったスタイルでしてある。すなわち、/ey/ をキャスレ、スクーンのじゅんっている。ファトヘ、スクーンのじゅん伝統でんとうてきなスタイルもある。発音はつおんおなじ。
  2. ^ ここでは現代げんだいイランの行政ぎょうせい区画くかくいちしゅという意味いみ使用しようしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Rante, Rocco (23 July 2010). "RAY i. ARCHEOLOGY". Encyclopaedia Iranica. 2019ねん3がつ14にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d BestIranTravel.com - The City of Rey
  3. ^ Jürgen Ehlers (Hrsg. und Übers.): Abū'l-Qāsem Ferdausi: Rostam - Die Legenden aus dem Šāhnāme. Philipp Reclam jun., Stuttgart 2002, S. 370 (Rāy)
  4. ^ トビト』1:15
  5. ^ a b Kennedy, Hugh (2004). “The True Caliph of the Arabian Nights”. History Today 54 (9). http://www.historytoday.com/hugh-kennedy/true-caliph-arabian-nights. 
  6. ^ a b c d e Madelung, Wilferd (1988). Religious Trends in Early Islamic Iran. Bibliotheca Persica: Columbia lectures on iranian studies, volume 4. SUNY Press. ISBN 9780887067013. https://books.google.co.jp/books?id=ehrk8ckWNYoC 
  7. ^ “【イラン】レザー・シャーもと国王こくおうのものとされるミイラが発見はっけん. TRT 日本語にほんご. トルコ国営こくえい放送ほうそう. (2018ねん4がつ24にち). http://www.trt.net.tr/japanese/shi-jie/2018/04/24/iran-rezasiyayuan-guo-wang-nomonotosarerumiiragafa-jian-957803 2018ねん6がつ18にち閲覧えつらん 
  8. ^ 所在しょざい不明ふめいだったもと国王こくおう?…「ミイラ」遺体いたい発見はっけん. 読売新聞よみうりしんぶん. (2018ねん6がつ18にち). オリジナルの2020ねん4がつ26にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.ph/BJT1d 2018ねん6がつ18にち閲覧えつらん 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n Madelung, W. (12 January 2014). "Abd-Al-Azim Al-Hasani". Encyclopædia Iranica. Vol. I/1. pp. 96–97.
  10. ^ Najāshī, Aḥmad b. ʿAlī al-. Rijāl al-Najāshī. Qom: Muʾassisat al-Nashr al-Islāmī, 1416 AH.
  11. ^ シャフレ・レイにあるリトル・アラブのらし~ドウラトアーバード地区ちくゴドゥスどおりをあるく~(1)”. 東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく (2016ねん9がつ15にち). 2019ねん3がつ18にち閲覧えつらん